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忆南国
深冬季节寒难耐,
唯见孤鸿远飞来。
娑罗双树花之色,
枯荣昭示无常态。
和风熏柳不常在,
悲欢离合感伤怀。
南国风光何时还?
今夕梦中意敞开!
注: 诗中的“娑罗双树”是佛教用语。相传咱佛祖释迦牟尼爷爷当年二十九岁在舍卫城四方见“四苦”(生、老、病、死),感叹人生世间的无常,决定放弃皇位,出家云游去寻找真理,先后寻访了当时两位印度所谓的圣人,一个叫阿罗逻;另一个叫伽蓝。在他们两位那里看见人们为了摆脱心理的痛苦是通过折磨肉体而达到,许多人都赤身裸体翻滚在荆棘里,或者跳下滚烫的油锅。(有些像现今电视里报道的“法轮功”吧!)佛祖断然就否决了这种做法,认为不可取,于是独自云游去寻找真理。在之后的六年里,七天吃一粒米,一天喝一滴水,到后来身体营养极度不良,瘦得像只猴!(一般的庙里,在“大雄宝殿”的佛祖的后侧,是南海观音菩萨,在观音菩萨的上方,有一位干瘦病弱的老头就是他了,佛教中称这时的释迦牟尼为“苦佛”)在他身体快要不行的时候,遇到了一位牧羊女,牧羊女用羊奶供养了他半年,使他的身体又恢复了原来的健康。这时的他是极度矛盾和痛苦的时候,以前为了摆脱世俗的烦恼出家修行,最终还是需要得到世俗人间的关爱才能屹立世间。在这种矛盾的辨证统一中,他来到了一棵“菩提树”下,打坐入定七天七夜,终于大彻大悟,在这对立的矛盾中找到了平衡和统一,彻底地解脱了,成为了佛陀。当时佛祖三十五岁,在之后的四十六年里他云游衡河两岸,渡化帮助了印度的无数百姓,其中收徒五百,就是后来的“五百罗汉”,其中有十位各有特长的他最特意的弟子,后称“十大弟子”,西方禅宗的鼻祖伽叶和二祖阿难都在“十大弟子”中。这些功绩和咱中国的“孔老二”三千弟子七十二圣贤相比是差得多啦!释迦牟尼也没留下什么典籍,只有一些和弟子们的语录吧!就是《楞伽经》,相当于《论语》吧!其他就没什么典籍了。哪有《大学》、《中庸》那样经典的著作呢?他们两个是同时代的人物,只是在后来继承他们各自的学术,所出的出类拔萃的人才就是佛家比儒家多得多了,佛家中人才举不胜举,儒家中著名的好像只有“孟子”和南宋的“朱熹”吧!
在释迦牟尼普渡衡河两岸的众生到第四十六个年头时,已经八十一岁了,身体的各方面的机能都衰退了,在娑罗双树下灭度涅槃了。娑罗双树东西各一棵,在东方向阳的那棵反而枯萎,在西方背阳的那棵却叶枝繁茂。一枯一荣,也昭示着世间的无常吧!(在金庸小说《天龙八部》的第一册的最后一回,描述云南大理段氏的天龙寺住持方丈本因的师叔枯荣大师时也有记载的)佛祖灭度的时候,“十大弟子”在身旁,大家都哭泣,佛祖告诉他们:不要悲哀,我的躯体虽然只能延续到现在,但我的精神和思想定能普遍流传到更大更久远的地方。佛祖灭度后,弟子将他的尸体火化后,他的尸体变成了晶莹剔透的结晶体,就是舍利子。弟子们八分舍利,到各处建塔供养。随着佛教的传入中国,有些印度的高僧把佛舍利带到了中国,目前在中国的境内已发现的佛舍利有三处吧!共几十粒吧!
佛祖释迦牟尼生前也吃过不少的荤腥(二十九岁前做王子时,和羊奶吧!)也娶妻生子,最不好的就是不但把他的儿子“罗侯逻”收作“十大弟子”,而且还把他安排到了“十六罗汉”的居高安逸的工作岗位上去了。(“十大弟子”中只有他的儿子“罗侯逻”是“十六罗汉”之一)所以,我觉得佛祖释迦牟尼不是神,而是一个实实在在的人,是一个怀着救苦救难心境和一个先知先觉的伟人吧!就好像是马克思、列宁、毛泽东一样,看不惯被剥削的劳工而自发和继承共产主义来解放劳苦的大众一样。(效果实绩另当别论!)所以我认为去游览佛教圣地和什么著名的庙宇时根本没必要朝释迦牟尼礼拜,只要向他瞻仰一下就足够了。就好像我们跟团去北京旅游,“毛泽东纪念管”是必游之地,对咱主席都是瞻仰,从来没人向他磕头一样的!!!
《忆南国》今译:
在深冬的季节里,寒冷让我无法忍受。连孤独的大雁都飞到南方温暖的国度里来了。释迦牟尼涅槃灭度的娑罗双树花的颜色,那一枯一荣的娑罗双树也昭示着世间的无常。和风熏柳的日子是何其之少啊!而寒冷酷暑又是何其之多。在我每次处在离别的时候,心中总有许多说不出的感伤。不知道南国那四季如春美好的时光何时再能来到?但愿在今晚的梦中我的意境能够敞开,飞到南国那美好的地方去!
点评:
这是一首我怀念在广州培训和生活的诗。南方广州却是一个好地方,冬天只穿一件衬衫和西装就能度过了。不但气候好而且广州人感觉上很有人情味的,像气候一样随和惬意,让我留恋忘返。感叹逗留的时光短暂,人还不如一只大雁在寒冷的季节里能够飞到南方去。只能在今晚的梦境来挽回一些那美好的感觉吧!
注: 詩の中にある“沙羅双樹”は仏教の用語だ。我々の仏様の釈迦牟尼お爺ちゃんは二十九歳の時に、シャエイ城の四方で“四苦”(生、老、病、死)を見て、人生世間の無常さを感嘆し、皇位を放棄し、出家して行脚に行って真理を探すことを決めた。それから、インドの二人のいわゆる聖人を訪ねた。一人はアララという、もう一人は伽藍という、彼らの二人の所で、人々は心理的な苦しみを抜け出す為に、肉体を苦しめることを通じて、達成することが見られて、多くの人は裸になって、イバラの中で転げ回っていて、または非常に熱い油の鍋に飛び込んだ。(この前、テレビで報道された“法輪功”のようだ。)仏様は断固としてこのような方法を否決して、それで自分独りで修行に行った。それからの六年間で、七日に一粒の米を食べて、一日に一雫の水を飲んで、最後に体が至極に栄養不良になって、猿のように痩せて来た。「普通の寺で、“大雄宝殿”(日本語で“仏殿”というかもしれない)にある仏様の後ろには、南海の観音菩薩だ、観音菩薩の上方で、一人のやせこける病気に弱いお年寄りが彼だった、仏教でこの時の釈迦牟尼を“苦い仏陀”と呼ぶ」彼の体がもうすぐ駄目になった時、一人の羊飼いの女と出会って、羊飼いの女は羊の乳を使って、彼の半年を供えて、彼の体をまたもとの健康を回復させた。この時の彼は極度の矛盾と苦痛に沈んでいて、以前は俗界の悩みを抜け出す為に、出家し、修行に行ったけど、最後に、やはり俗界人間の関心と愛を得てこそ、ようやく世の中にそびえ立つことができた。このような矛盾している弁証法的な統一の中で、彼が一株の“菩提樹”の下に来て、座禅を組んで、七日間禅定に入って、ついに徹底的に悟って来た。この対立している矛盾の中で平衡と統一を探し当てて、徹底的に解脱して、仏陀になった。その時の仏様は三十五歳だった。それからの四十六年の中で彼は衡河の両岸を行脚して、インドの数えられないほどの庶民を助けて、彼岸まで済度した。その中で、五百の弟子を収めた。それは後で“五百羅漢”と呼ばれている。その中で、十人のそれぞれ特技を持っている弟子がいて、それは後で“十大弟子”と呼ばれている。西方の禅宗の鼻祖伽葉と二祖の阿難はすべて“十大弟子”の中にある。それらの功績は我が国の“孔老二”の三千弟子と七十二聖賢と比べて、比較するものならないほどの差があると思う。釈迦牟尼はそんなに多くの典籍を残していないで、ただ彼の弟子との達語録だけ残してある。それは《楞伽経》で、《論語》に相当するものである。その他は典籍は何もなかった。《大学》、《中庸》のような経典な著作がないようだね。彼らの二人は同時代の人物で、ただ彼らの各自の学術を受け継いでいる人物は、抜群に優れている人材は仏教が儒家よりずっと多くなった、仏教での人材は挙げきれないで、儒家の中で有名なのは“孟子”と南宋“朱熹”だけあるようだった。
釈迦牟尼は衡河の両岸で、あまねく衆生を済度する第四十六年目には、もう八十一歳になった。体の各方面の機能はすべて衰退して、沙羅双樹の下で涅槃した。沙羅双樹は東側と西側には一株ずつあるが、東側にあるいつも太陽に向いているのに枯れていて、西側にある太陽に遮っているのに茂っている。一つは枯れ、もう一つは茂りというのは世間の無常を暗示しているだろう。(金庸さんの小説《天竜八部》の第一冊の最後の一回で、雲南大理の段氏にある天竜寺の方丈の本因さんの師匠の弟である枯栄大師を描写する場合に、同じような記載がある)仏様が涅槃する時に、、“十大弟子”は仏の身のそばにいて、みんなは全部悲しく泣いているが、仏様は皆さんに“悲しくならないでください、私の体はここまで長続くことができないけど、しかし、私の精神と思想はは必ずあまねくもっと広くて更に遠い地方まで広大に伝わることができる”と教えた。仏様が亡くなってから、弟子たちが彼の死体を火葬した後、彼の死体が透き通ってきれいな結晶体になって、それは仏舎利だった。弟子達は仏舎利を八部分に分けて、それぞれの場所で塔を建てて、供える。仏教は中国に伝わるにつれて、あるインドの高僧たちは仏舎利を中国に持ってきた。いままで、中国の境界内で、仏舎利がある場所を三個所見付けた。トータルで何十粒あるかな。
仏様の釈迦牟尼は生前で多くの生臭物を食べて(二十九歳の前で王子をする時及びその羊の乳)、結婚して子供を生んだこともあり、一番よくないことは自分の息子である羅侯逻を“十大弟子”に収めるだけではなくて、その上また彼を“十六羅漢”というそんなに高級安逸な職場に按配した。(“十大弟子”の中でただ彼の息子の“羅侯逻”ひとりだけが“16羅漢”に入った)だから、釈迦牟尼は神様ではない、実際の人間であると思う。苦難を救って、先知先覚な偉い人だろうと思う。マルクス、レーニン、毛沢東のように、搾取されている労働者が気に食わないで、自発的に共産主義を受け継いで苦労の大衆を解放させるようにしていく。(その効果は別として!)だから、我々は仏教の聖地それとも有名なお寺に観光に行く場合に、ただ釈迦牟尼に仰ぎ見るだけでいい、彼に額ずいて拝謁する必要が全くないと思っている。我々は旅行会社に依頼して、北京に旅行に行く場合に、額ずいて拝謁することが全然ないことと同じだろう!!
《忆南国》今译:
真冬の季節の中で、寒さで私に辛抱させることができないほどだった。オオカリでさえも南の国都に飛んで行った。釈迦牟尼が涅槃したその沙羅双樹の花の色で、その一つ枯れもう一つ茂りというのは世間の無常を暗示しているだろう。穏やかな風が柳を揺らす日々はどんなに少ないのか、厳寒と酷暑の日々がどんなに多いのか。私は毎回の別れ際には、心の中でいつかの口に出せない感傷がたくさんある。南国の四季が全部春みたいな季節はいつ更に来られるかい?ただ今夜の夢で、私の境地を開け放すことができて、南国の素晴らしい場所に飛んでいこうよ。
評論:
これは私が広州でトレーニングを受けたころで作った詩です。南の広州は本当にいいところですね、冬場には、ただ一枚のシャツとスーツで無事に過ごせます。気候だけではなくて、広州人の人気(ひとけ)もいいと思って、天気と同じような人にのんびりさせてきて、本当に心残りがいっぱいですね。滞在する時間が短いことに感嘆して、人間はまだ一羽のオオカリが寒い季節の中で南方に飛んでいくことができるのにまさるものはない。今晩の夢の世界でいくつかのあのすばらしい感じを挽回しに来ることしかできなかろう! |
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