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[天声人语] 天声人语(6,16)

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发表于 2006-6-16 07:16:52 | 显示全部楼层 |阅读模式
 その日、東京で水泳の世界新記録が生まれた。敗戦からまだ3年の48年6月13日、「フジヤマのトビウオ」の伝説で知られる古橋広之進の快挙だった。    战败3年后的48年6月13日,古桥宏之进一举创下了“富士山飞鱼”的传说。那天,东京诞生了世界游泳新记录。  その夜、三鷹に住んでいた太宰治は、近所を流れる玉川上水に女性と入水する。15日、朝日新聞に「太宰治氏家出か」という小さな記事が載り、やがて自殺と報じられた。    那天夜里,住在三鹰的太宰治与一名女性在附近的玉川上水投水自尽。15日,朝日报登载了一则小新闻《太宰治先生出走了吗?》,不久后报导了他自杀一事。  「太宰の生きているうちに、太宰がぎょっとするような評論を書いて彼に読ませたい」。太宰に強くひかれ、その日を待ち望んでいた21歳の青年・奥野健男がノートに記した。「今日の打撃は 余りに大きい。太宰治の死 私は完全に賭に敗北したのだ」    “我想在太宰生前写上一篇让他大吃一惊的评论拿给他读。”一名被太宰深深吸引住,一直期待着那天到来的21岁青年,奥野健男在笔记里写到,“今天,我如同雷击。太宰治去世了,我也完全败了这场赌局。”  このノートのパネルを含む多彩な資料が、東京・渋谷の「文芸評論家 奥野健男の仕事」展で展示されている(渋谷区郷土博物館・文学館で、7月30日まで)。東京工大で化学を学び、研究者として働くかたわら、多くの明晰(めいせき)な評論を発表し、97年に没した。    东京·涉谷的“文艺评论家 奥野健男的工作”展上展出了包括这本笔记在内的多种资料(涉谷区乡土博物馆·文学馆,7月30日止)。奥野先生在东京工大学习化学,作为一名形容者工作的同时,还发表了许多条理清晰的评论。他于97年去世。  自らの文学にとって、坂口安吾は父であり、太宰治は母だったと述べている。「太宰治は好きにしろ嫌いにしろ、肯定するにせよ、否定するにせよ、これから後もながく読む者の魂に、不思議な魔力をもってなまなましくのっぴきならず迫ってくる」(新潮文庫『走れメロス』の解説)。    奥野先生称对自己的文学来说,坂口安吾为父,太宰治为母。“无论是喜欢太宰治还是讨厌他,是肯定他还是否定他,太宰的作品总拥有着一种不可思议的魔力,在今后很长一段时间里,太宰笔下生动的描绘都会直逼读者的灵魂,让人无法逃脱。”(新潮文库《跑吧!美乐斯》的解说)  太宰らふたりが見つかったのは、6月19日だった。その日を、晩年の作「桜桃」にちなんで「桜桃忌」と呼んでいる。今年も、太宰が埋葬されている三鷹市の禅林寺などで、生涯をしのぶ催しが開かれる。この日は誕生日でもあり、3年後には生誕100年を迎える。    太宰及那名女子的尸体于6月19日被人发现。人们据其晚年作品《樱桃》,将这一天称为“樱桃忌”。今年也会在埋葬太宰的三鹰市神林寺等地召开悼缅怀他一生的追悼会。这一天也是他的生日,三年后将迎来诞辰一百周年的日子。
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发表于 2006-6-16 08:34:57 | 显示全部楼层
很好的无声人语,前天才第一次看到,以后一定会天天关注!
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发表于 2006-6-16 10:11:33 | 显示全部楼层
 その日、東京で水泳の世界新記録が生まれた。敗戦からまだ3年の48年6月13日、「フジヤマのトビウオ」の伝説で知られる古橋広之進の快挙だった。 那天,在东京,一项新的游泳世界纪录诞生了。二战失败后的第3年,1948年6月13日,被誉为“日本飞鱼”的古橋広之進刷新了世界纪录,振奋人心。  その夜、三鷹に住んでいた太宰治は、近所を流れる玉川上水に女性と入水する。15日、朝日新聞に「太宰治氏家出か」という小さな記事が載り、やがて自殺と報じられた。 那天晚上,住在三鹰的太宰治,与一个女子一起跳入附近的玉川上水。15日,朝日新闻刊登一小则消息“太宰治离家出走?”,不久报道其自杀。   「太宰の生きているうちに、太宰がぎょっとするような評論を書いて彼に読ませたい」。太宰に強くひかれ、その日を待ち望んでいた21歳の青年・奥野健男がノートに記した。「今日の打撃は 余りに大きい。太宰治の死 私は完全に賭に敗北したのだ」 “我要在太宰有生之年,写一篇让他读后大吃一惊的评论”。21岁的青年奥野健男在他的笔记本上写下自己的宏愿,他被太宰治的魅力深深吸引,一直期待着愿望实现的那一天来临。“今天对我的打击太大了。太宰之死让我彻底输掉了”。  このノートのパネルを含む多彩な資料が、東京・渋谷の「文芸評論家 奥野健男の仕事」展で展示されている(渋谷区郷土博物館・文学館で、7月30日まで)。東京工大で化学を学び、研究者として働くかたわら、多くの明晰(めいせき)な評論を発表し、97年に没した。 东京渋谷“文艺评论家 奥野健男工作展” (渋谷区郷土博物館・文学館 7月30日结束)上,展出了含写着该笔记的展板在内的各种各样的资料。奥野先生在东京大学学的化学,从事研究活动之余,发表了很多清晰明快的评论,97年去世。  自らの文学にとって、坂口安吾は父であり、太宰治は母だったと述べている。「太宰治は好きにしろ嫌いにしろ、肯定するにせよ、否定するにせよ、これから後もながく読む者の魂に、不思議な魔力をもってなまなましくのっぴきならず迫ってくる」(新潮文庫『走れメロス』の解説)。 关于自己的文学,奥野先生表示自己的文学之父是坂口安吾,文学之母是太宰治。“不管你喜欢他,还是讨厌他,不管你肯定他,还是否定他,太宰治今后仍将长久冲击读者的心灵,带着不可思议的魔力,那么鲜活,那么令人无法逃遁。”   太宰らふたりが見つかったのは、6月19日だった。その日を、晩年の作「桜桃」にちなんで「桜桃忌」と呼んでいる。今年も、太宰が埋葬されている三鷹市の禅林寺などで、生涯をしのぶ催しが開かれる。この日は誕生日でもあり、3年後には生誕100年を迎える。 太宰治和那女子的尸体是6月19日被人发现的。人们将那一天叫做“樱桃忌”源自其晚年作品《樱桃》。在宰太宰治墓葬地三鹰市禅林寺等地方,今年也举办了各种追念活动。那一天,也是他的生日。再过3年就是诞辰100周年了。
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发表于 2006-6-21 09:13:00 | 显示全部楼层
太宰治之死(天声人语060616) その日、東京で水泳の世界新記録が生まれた。敗戦からまだ3年の48年6月13日、「フジヤマのトビウオ」の伝説で知られる古橋広之進の快挙だった。   那一天在东京,诞生了游泳的世界新记录。战败3年后的1948年6月13日,以“富士山飞鱼”而闻名于世的古桥广之进完成了这一快举。  その夜、三鷹(みたか)に住んでいた太宰治(だざいおさむ)は、近所を流れる玉川上水に女性と入水する。15日、朝日新聞に「太宰治氏家出か」という小さな記事が載り、やがて自殺と報じられた。   那天夜里,家住三鹰市的太宰治与一女子纵身于附近的一条河流玉川上水自尽了。15日,《朝日新闻》刊登了一小块报道:《太宰治是离家出走吗?》,随后不久便报导了他自杀之事。  「太宰の生きているうちに、太宰がぎょっとするような評論を書いて彼に読ませたい」。太宰に強くひかれ、その日を待ち望んでいた21歳の青年・奥野健男(おくのたけお)がノートに記した。「今日の打撃は 余りに大きい。太宰治の死 私は完全に賭(と)に敗北したのだ」   “我本想在太宰活着的时候写一篇让他大吃一惊的评论给他看看”。一名21岁青年奥野健男,是个太宰迷,他一直盼望着有那么一天,他在本子上写道:“今天给我的打击太大了。太宰治的死,使我输得无法翻本了。”  このノートのパネルを含む多彩な資料が、東京・渋谷の「文芸評論家 奥野健男の仕事」展で展示されている(渋谷区郷土博物館・文学館で、7月30日まで)。東京工大で化学を学び、研究者として働くかたわら、多くの明晰(めいせき)な評論を発表し、97年に没した。   包括那个本子在内的丰富多彩的资料,如今正在东京涉谷的《文艺评论家 奥野健男的工作展》上展出(涉谷区乡土博物馆•文学馆,7月30日止)。奥野先生在东京工大专攻化学,之后他在化学研究的的同时,发表了许多清新的评论,于1997年去世。  自らの文学にとって、坂口安吾(さかぐちあんご)は父であり、太宰治は母だったと述べている。「太宰治は好きにしろ嫌いにしろ、肯定するにせよ、否定するにせよ、これから後もながく読む者の魂に、不思議な魔力をもってなまなましくのっぴきならず迫ってくる」(新潮文庫『走れメロス』の解説)。   奥野先生称对自己的文学生涯来说,坂口安吾是其父,太宰治则是其母。“对于太宰治不管你是喜欢还是讨厌、是肯定还是否定,今后他仍将以其不可思议的魔力,新鲜而又令人无可回避地,直扑读者的心魂”(新潮文库《跑吧!美乐斯》的解说)。  太宰らふたりが見つかったのは、6月19日だった。その日を、晩年の作「桜桃」にちなんで「桜桃忌」と呼んでいる。今年も、太宰が埋葬されている三鷹市の禅林寺などで、生涯をしのぶ催しが開かれる。この日は誕生日でもあり、3年後には生誕100年を迎える。   发现太宰他们两人时已是6月19日了。人们因其晚年的作品《樱桃》,将这一天称为“樱桃忌”。今年也将在太宰下葬的三鹰市的禅林寺等地,举办了追悼其生涯的活动。那一天还是他的生日,3年后便是他的诞辰100周年。 相关链接: 太宰治   (1909~1948)   日本小说家。   原名津岛修治,生于青森县一大地主家庭,父亲是贵族院□选议员。1930年入东京大学法语 系,曾一度参加左翼运动。战后投水自杀死去。   太宰治于1935年以《丑角之花》走上文坛。他的小说《惜别》(1945)描写鲁迅在日本仙台的留学生活。战后创作的长篇小说《斜阳》(1947),是他的代表作。小说以贵族子弟为主人公,描写他们在战后由于社会地位下降,战前那种优游闲适的寄生生活已成过去,靠着变卖家产维持腐化堕落的生活。作者对日趋没落的贵族表示了无可奈何的悲伤与惋惜。《维扬的妻子》(1947)和《没有作人的资格》(1948)也是他的有代表性的作品。前者写一个贵族出身的诗人生活腐化,妻子为了替他还债,去当了酒馆女侍,也过着堕落的生活。作品表现一种颓废的人生哲学。自传体长篇小说《没有作人的资格》写一个耽于女色的知识分子,过着行尸走肉的生活,最后被关进疯人院。太宰治的作品和新戏作派(又称无赖派)不少作家的小说一样,大多通过混乱的两性关系或男女纠葛,表现活着不过是求取官能享乐的生活态度,反映了日本资产阶级经历了第二次世界大战的失败和战后群众运动的冲击而产生的绝望情绪。                                 (李德纯)
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