太宰治之死(天声人语060616)
その日、東京で水泳の世界新記録が生まれた。敗戦からまだ3年の48年6月13日、「フジヤマのトビウオ」の伝説で知られる古橋広之進の快挙だった。
那一天在东京,诞生了游泳的世界新记录。战败3年后的1948年6月13日,以“富士山飞鱼”而闻名于世的古桥广之进完成了这一快举。
その夜、三鷹(みたか)に住んでいた太宰治(だざいおさむ)は、近所を流れる玉川上水に女性と入水する。15日、朝日新聞に「太宰治氏家出か」という小さな記事が載り、やがて自殺と報じられた。
那天夜里,家住三鹰市的太宰治与一女子纵身于附近的一条河流玉川上水自尽了。15日,《朝日新闻》刊登了一小块报道:《太宰治是离家出走吗?》,随后不久便报导了他自杀之事。
「太宰の生きているうちに、太宰がぎょっとするような評論を書いて彼に読ませたい」。太宰に強くひかれ、その日を待ち望んでいた21歳の青年・奥野健男(おくのたけお)がノートに記した。「今日の打撃は 余りに大きい。太宰治の死 私は完全に賭(と)に敗北したのだ」
“我本想在太宰活着的时候写一篇让他大吃一惊的评论给他看看”。一名21岁青年奥野健男,是个太宰迷,他一直盼望着有那么一天,他在本子上写道:“今天给我的打击太大了。太宰治的死,使我输得无法翻本了。”
このノートのパネルを含む多彩な資料が、東京・渋谷の「文芸評論家 奥野健男の仕事」展で展示されている(渋谷区郷土博物館・文学館で、7月30日まで)。東京工大で化学を学び、研究者として働くかたわら、多くの明晰(めいせき)な評論を発表し、97年に没した。
包括那个本子在内的丰富多彩的资料,如今正在东京涉谷的《文艺评论家 奥野健男的工作展》上展出(涉谷区乡土博物馆•文学馆,7月30日止)。奥野先生在东京工大专攻化学,之后他在化学研究的的同时,发表了许多清新的评论,于1997年去世。
自らの文学にとって、坂口安吾(さかぐちあんご)は父であり、太宰治は母だったと述べている。「太宰治は好きにしろ嫌いにしろ、肯定するにせよ、否定するにせよ、これから後もながく読む者の魂に、不思議な魔力をもってなまなましくのっぴきならず迫ってくる」(新潮文庫『走れメロス』の解説)。
奥野先生称对自己的文学生涯来说,坂口安吾是其父,太宰治则是其母。“对于太宰治不管你是喜欢还是讨厌、是肯定还是否定,今后他仍将以其不可思议的魔力,新鲜而又令人无可回避地,直扑读者的心魂”(新潮文库《跑吧!美乐斯》的解说)。
太宰らふたりが見つかったのは、6月19日だった。その日を、晩年の作「桜桃」にちなんで「桜桃忌」と呼んでいる。今年も、太宰が埋葬されている三鷹市の禅林寺などで、生涯をしのぶ催しが開かれる。この日は誕生日でもあり、3年後には生誕100年を迎える。
发现太宰他们两人时已是6月19日了。人们因其晚年的作品《樱桃》,将这一天称为“樱桃忌”。今年也将在太宰下葬的三鹰市的禅林寺等地,举办了追悼其生涯的活动。那一天还是他的生日,3年后便是他的诞辰100周年。
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太宰治
(1909~1948)
日本小说家。
原名津岛修治,生于青森县一大地主家庭,父亲是贵族院□选议员。1930年入东京大学法语
系,曾一度参加左翼运动。战后投水自杀死去。
太宰治于1935年以《丑角之花》走上文坛。他的小说《惜别》(1945)描写鲁迅在日本仙台的留学生活。战后创作的长篇小说《斜阳》(1947),是他的代表作。小说以贵族子弟为主人公,描写他们在战后由于社会地位下降,战前那种优游闲适的寄生生活已成过去,靠着变卖家产维持腐化堕落的生活。作者对日趋没落的贵族表示了无可奈何的悲伤与惋惜。《维扬的妻子》(1947)和《没有作人的资格》(1948)也是他的有代表性的作品。前者写一个贵族出身的诗人生活腐化,妻子为了替他还债,去当了酒馆女侍,也过着堕落的生活。作品表现一种颓废的人生哲学。自传体长篇小说《没有作人的资格》写一个耽于女色的知识分子,过着行尸走肉的生活,最后被关进疯人院。太宰治的作品和新戏作派(又称无赖派)不少作家的小说一样,大多通过混乱的两性关系或男女纠葛,表现活着不过是求取官能享乐的生活态度,反映了日本资产阶级经历了第二次世界大战的失败和战后群众运动的冲击而产生的绝望情绪。
(李德纯) |