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楼主 |
发表于 2008-4-11 12:59:35
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【二】
笛吹城太郎は右京太夫を従えて、香炉の蔵から出ていた。
従えたわけではない。右京太夫が――ついてきたのだ。彼女は淫石の茶を服んだといった。彼女は淫石の茶を服んで、まず城太郎を見た。――
彼は、右京太夫をどうしてよいかわからない。
弾正を討たんか、彼女をつれたまま、まさか弾正を討ちにはゆけまい。ひとまずこの屋敷を逃げんか、三好義興という夫があるのに彼女をつれて逃げるわけにはゆくまい。――といって、もとよりいつまでも香炉の蔵に座しているわけにはゆかぬ。
心みだれつつ城太郎は蔵を出た。そして不思議なことに気がついたのである。
さっき破軍坊と空摩坊が、「弾正さまっ、松永の衆! 笛吹城太郎が推参してござるぞ!」とさけんで、逃げていった。おなじ声は、彼らが逃げていった奥で、またきこえた。
それなのに、誰もこの香炉の蔵の方へ駆けてくるものがない。さっきまで蔵に通じる回廊の端には、ふたりの若党が座っていたはずだが、彼らまでがどこへすっ飛んだか影もない。
いや、邸内には騒然たる物音が巻きあがりはじめた。人々は駆けてゆく。その姿さえ、城太郎には見える。しかし、だれも彼の方をふりかえろうとはしない。
「――はて、なにが起こったのか?」
いかにも伊賀者らしい不敵さと、城太郎らしい無鉄砲さで、彼はツ、ツ、ツと、人々の駆けてゆく方向にあるいた。
と、突如として、そのゆくてから、
「燃えろ、忍法火まんじ!」
という怪鳥のような声がきこえたかと思うと、彼をめがけて、ひとすじの青い炎の帯がながれてきたのだ。
「あっ!」
城太郎は立ちすくみ、右京太夫を抱いたまま大きくうしろへはね飛んだ。
青い炎は追ってきた。タタタタと、彼はうしろへ逃げた。炎は追ってきた。
最初、おのれのながした血のあとをたどって、ぽっぽっと点線状に燃えあがっていた破軍坊と空摩坊の忍法火は、いまや蛇のごとく――生ける炎の蛇のごとく城太郎を追ってきた。
「うっ」
さしもの城太郎が悲鳴をあげた。
ふしぎな炎であった。それはめらめらとひとすじ燃えつつ、そのひとすじ以外に炎をひろげようとしない。しかも、ふれれば肌を焼くのだ。いや肌も焼けはしない。なんら火傷は起こさないのに、しかも、ふれた人間には火傷にひとしい熱さをあたえるのであった。
「はなれなされ、右京太夫さま、はなれなされ!」
炎に追われ、走りながら城太郎は、さけんだ。
「いいえ、笛吹、わたしは、はなれぬ」
右京太夫は、彼にとりすがるようにしてこたえた。――城太郎は、ついにまた彼女を片腕に抱いた。
「ようござりまするか。では、しかと拙者につかまっておりなされ」
彼女を抱いたまま、彼は回廊の柱のひとつを這いのぼり、手が軒にかかると、風鳥のように屋根に舞いあがった。
舞いあがって愕然とした。
青い炎は柱を這い軒をまわり屋根の|甍《いらか》を這って追ってくる。それは彼の刺したふたりの忍法僧の執念の炎のようであった。
屋根から屋根へのぼる。
三好義興の屋敷は、城ではなかったが、濠をめぐらし、屋根をかさね、ひくい京の町並みにあっては、ほとんど城に見えるほどの威容をもっていた。
笛吹城太郎はその高い屋根の棟を駆けた。炎に追われ、彼はじぶんの逃げる場所をえらぶ余裕を失っていた。――彼と右京太夫を追って、軒を青い炎が走り、めらめらと風にふきなびいた。
――三好義興がふりあおいで見たのは、このふたりの姿である。
「奥!」
彼は絶叫し、しばし判断力を喪失した。
ふいに彼の混乱した脳髄に|一《いっ》|閃《せん》の脈絡が走った。いまふたりの法師と狂態をさらし、じぶんの手で成敗した女は、妻ではなかった。いや、京に帰って以来じぶんの妻と思っていた女は、右京太夫ではなかった。あれは弾正の手から放たれた魔性の女であった。
なお脈絡のとぎれたところはあるが、これだけのことを直感して、
「弾正!」
義興はいちどふりむいて、
「はかったな?」
といったが、すぐに足ずりして、
「あれを追え、屋根に上がれ、あの奇怪な法師から奥をとりもどせ!」
とさけんだ。
そして、ギラギラする眼を屋根の上にすえていたが、ふいに、
「誰かある。弓をもて!」
と、のどをしぼった。
墨色の乱雲は矢のように京の空を走っていた。その下に、笛吹城太郎は右京太夫を抱いて、すっくと立って、町の方を見下ろした。
濠の向こうに、このとき彼は思いがけないものを見たのだ。それは十二、三騎の馬であった。乗り手はいずれも笠をかぶっているが、衣服は黒い。――黒衣の騎馬隊は、ゆるやかに三好邸をめぐっている。いや屋根の上に立つ城太郎に気がついたとみえて急に鞭をあげてこちらに走ってくるようだ。
――柳生さまだ。
と、城太郎の眼はかがやいた。
――柳生さまだ。京へきたおれを心配して、例のごとくあの姿で、ひそかに追って来て下すったのだ!
しかし、そのあいだには濠があった。城の濠ほどの幅はないが、しかし鳥でなければ飛び越えられぬ距離であり、また高さであった。このあいだにも、青い炎はついに彼に追いつき、彼の足から衣へめらめらと燃えあがっている。足も衣も燃えてはいないが、しかし、じっと立ってはいられぬ焦熱地獄であった。
笛吹城太郎の頭に、稲妻のようにある着想がひらめいた。
できるか? おれにはできぬ。……いやできる。あの虚空坊にできたことがおれにできぬわけはない? 迷いと決断が、一瞬のことであった。いや、彼が屋根に舞いのぼってからこのときまで、ものの二分とたってはいなかったろう。
ただ、この冒険に右京太夫さまを道づれにすべきか否か?
この期に及んでなおためらい、ふりむいて庭を見下ろす城太郎の頬をかすめ、びゅっとなにやらうなりすぎた。
城太郎は、庭でひきしぼった矢をはなち、なお小姓からつぎの矢を受けとっている三好義興の姿を見た。
つづいて、第二の矢が、こんどは右京太夫の肩をかすめすぎる。
――やんぬるかな!
城太郎の心はさだまった。彼は背に負うた大傘を肩ごしにぬきとった。
「右京太夫さま」
と、彼はいった。
「成るか、成らぬか、拙者にもわかりませぬ。この傘に風をはらませて、濠の向こうにとびまする。しかと、拙者につかまっておりなされ!」
ぱっと傘をひらくと、それに烈風をはらませた。同時に、彼は大屋根の甍を蹴った。
成るか成らぬか――それまでならば、いかに伊賀の忍者笛吹城太郎とて絶対不可能視せざるを得ないはなれわざであった。あの驚天の魔僧虚空坊なればこそできたことだ。しかも傘は虚空坊独自の忍法傘ではなく、柳生城からの借り傘である。が――、きゃつ根来の忍法僧にできたことが、伊賀の忍者にできぬという法があろうか。
この負けじ魂と、そして絶体絶命の必死の念力が、城太郎を大空へ羽ばたかせた。すばらしい跳躍力であった。おどろくべき浮揚力であった。
が――|甍《いらか》を蹴った刹那、彼は右手にしかと抱いた右京太夫のからだがぴくんと一つ痙攣するのを感じた。
同時に風にのって、ひとつの遠い声をきいた。
「城太郎どの、わたしはあなたをゆるします」
城太郎と右京太夫をぶら下げた傘は、大空を翔けた。――といいたいが、虚空坊のかくれ傘とはちがう。それはななめに大地へむかってながれおちた。
足の下に、みるみる濠の水がせまって来た。
舞い下りながら、城太郎は、その恐怖より、たったいまきこえたふしぎな声に脳髄を占められていた。あれは誰の声であったか? 篝火だ! 篝火の声だ。篝火が告げたのだ。
「わたしはあなたをゆるします」
なにをゆるすのか。篝火は――じぶんが右京太夫をつれて逃げることを、愛することをゆるすといったのではないか?
城太郎の足は大地についた。濠をわずかに越えた位置で、凄じい衝撃からゆらりと右京太夫をささえたのは、超人的な彼の体術、彼の足のばねであった。
「笛吹」
馳せ寄ってくる鉄蹄の音をききつつ、城太郎は右京太夫を地に下ろした。
「右京太夫さま、助かったようでござります」
その刹那、彼は棒立ちになった。
右京太夫の背中には、一本の矢がふかぶかとつき刺さっていた。 |
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