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楼主: asuka0226

[好书推荐] 山田風太郎忍法帖3 伊賀忍法帖

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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:59:35 | 显示全部楼层
     【二】

 笛吹城太郎は右京太夫を従えて、香炉の蔵から出ていた。
 従えたわけではない。右京太夫が――ついてきたのだ。彼女は淫石の茶を服んだといった。彼女は淫石の茶を服んで、まず城太郎を見た。――
 彼は、右京太夫をどうしてよいかわからない。
 弾正を討たんか、彼女をつれたまま、まさか弾正を討ちにはゆけまい。ひとまずこの屋敷を逃げんか、三好義興という夫があるのに彼女をつれて逃げるわけにはゆくまい。――といって、もとよりいつまでも香炉の蔵に座しているわけにはゆかぬ。
 心みだれつつ城太郎は蔵を出た。そして不思議なことに気がついたのである。
 さっき破軍坊と空摩坊が、「弾正さまっ、松永の衆! 笛吹城太郎が推参してござるぞ!」とさけんで、逃げていった。おなじ声は、彼らが逃げていった奥で、またきこえた。
 それなのに、誰もこの香炉の蔵の方へ駆けてくるものがない。さっきまで蔵に通じる回廊の端には、ふたりの若党が座っていたはずだが、彼らまでがどこへすっ飛んだか影もない。
 いや、邸内には騒然たる物音が巻きあがりはじめた。人々は駆けてゆく。その姿さえ、城太郎には見える。しかし、だれも彼の方をふりかえろうとはしない。
「――はて、なにが起こったのか?」
 いかにも伊賀者らしい不敵さと、城太郎らしい無鉄砲さで、彼はツ、ツ、ツと、人々の駆けてゆく方向にあるいた。
 と、突如として、そのゆくてから、
「燃えろ、忍法火まんじ!」
 という怪鳥のような声がきこえたかと思うと、彼をめがけて、ひとすじの青い炎の帯がながれてきたのだ。
「あっ!」
 城太郎は立ちすくみ、右京太夫を抱いたまま大きくうしろへはね飛んだ。
 青い炎は追ってきた。タタタタと、彼はうしろへ逃げた。炎は追ってきた。
 最初、おのれのながした血のあとをたどって、ぽっぽっと点線状に燃えあがっていた破軍坊と空摩坊の忍法火は、いまや蛇のごとく――生ける炎の蛇のごとく城太郎を追ってきた。
「うっ」
 さしもの城太郎が悲鳴をあげた。
 ふしぎな炎であった。それはめらめらとひとすじ燃えつつ、そのひとすじ以外に炎をひろげようとしない。しかも、ふれれば肌を焼くのだ。いや肌も焼けはしない。なんら火傷は起こさないのに、しかも、ふれた人間には火傷にひとしい熱さをあたえるのであった。
「はなれなされ、右京太夫さま、はなれなされ!」
 炎に追われ、走りながら城太郎は、さけんだ。
「いいえ、笛吹、わたしは、はなれぬ」
 右京太夫は、彼にとりすがるようにしてこたえた。――城太郎は、ついにまた彼女を片腕に抱いた。
「ようござりまするか。では、しかと拙者につかまっておりなされ」
 彼女を抱いたまま、彼は回廊の柱のひとつを這いのぼり、手が軒にかかると、風鳥のように屋根に舞いあがった。
 舞いあがって愕然とした。
 青い炎は柱を這い軒をまわり屋根の|甍《いらか》を這って追ってくる。それは彼の刺したふたりの忍法僧の執念の炎のようであった。
 屋根から屋根へのぼる。
 三好義興の屋敷は、城ではなかったが、濠をめぐらし、屋根をかさね、ひくい京の町並みにあっては、ほとんど城に見えるほどの威容をもっていた。
 笛吹城太郎はその高い屋根の棟を駆けた。炎に追われ、彼はじぶんの逃げる場所をえらぶ余裕を失っていた。――彼と右京太夫を追って、軒を青い炎が走り、めらめらと風にふきなびいた。
 ――三好義興がふりあおいで見たのは、このふたりの姿である。
「奥!」
 彼は絶叫し、しばし判断力を喪失した。
 ふいに彼の混乱した脳髄に|一《いっ》|閃《せん》の脈絡が走った。いまふたりの法師と狂態をさらし、じぶんの手で成敗した女は、妻ではなかった。いや、京に帰って以来じぶんの妻と思っていた女は、右京太夫ではなかった。あれは弾正の手から放たれた魔性の女であった。
 なお脈絡のとぎれたところはあるが、これだけのことを直感して、
「弾正!」
 義興はいちどふりむいて、
「はかったな?」
 といったが、すぐに足ずりして、
「あれを追え、屋根に上がれ、あの奇怪な法師から奥をとりもどせ!」
 とさけんだ。
 そして、ギラギラする眼を屋根の上にすえていたが、ふいに、
「誰かある。弓をもて!」
 と、のどをしぼった。
 墨色の乱雲は矢のように京の空を走っていた。その下に、笛吹城太郎は右京太夫を抱いて、すっくと立って、町の方を見下ろした。
 濠の向こうに、このとき彼は思いがけないものを見たのだ。それは十二、三騎の馬であった。乗り手はいずれも笠をかぶっているが、衣服は黒い。――黒衣の騎馬隊は、ゆるやかに三好邸をめぐっている。いや屋根の上に立つ城太郎に気がついたとみえて急に鞭をあげてこちらに走ってくるようだ。
 ――柳生さまだ。
 と、城太郎の眼はかがやいた。
 ――柳生さまだ。京へきたおれを心配して、例のごとくあの姿で、ひそかに追って来て下すったのだ!
 しかし、そのあいだには濠があった。城の濠ほどの幅はないが、しかし鳥でなければ飛び越えられぬ距離であり、また高さであった。このあいだにも、青い炎はついに彼に追いつき、彼の足から衣へめらめらと燃えあがっている。足も衣も燃えてはいないが、しかし、じっと立ってはいられぬ焦熱地獄であった。
 笛吹城太郎の頭に、稲妻のようにある着想がひらめいた。
 できるか? おれにはできぬ。……いやできる。あの虚空坊にできたことがおれにできぬわけはない? 迷いと決断が、一瞬のことであった。いや、彼が屋根に舞いのぼってからこのときまで、ものの二分とたってはいなかったろう。
 ただ、この冒険に右京太夫さまを道づれにすべきか否か?
 この期に及んでなおためらい、ふりむいて庭を見下ろす城太郎の頬をかすめ、びゅっとなにやらうなりすぎた。
 城太郎は、庭でひきしぼった矢をはなち、なお小姓からつぎの矢を受けとっている三好義興の姿を見た。
 つづいて、第二の矢が、こんどは右京太夫の肩をかすめすぎる。
 ――やんぬるかな!
 城太郎の心はさだまった。彼は背に負うた大傘を肩ごしにぬきとった。
「右京太夫さま」
 と、彼はいった。
「成るか、成らぬか、拙者にもわかりませぬ。この傘に風をはらませて、濠の向こうにとびまする。しかと、拙者につかまっておりなされ!」
 ぱっと傘をひらくと、それに烈風をはらませた。同時に、彼は大屋根の甍を蹴った。
 成るか成らぬか――それまでならば、いかに伊賀の忍者笛吹城太郎とて絶対不可能視せざるを得ないはなれわざであった。あの驚天の魔僧虚空坊なればこそできたことだ。しかも傘は虚空坊独自の忍法傘ではなく、柳生城からの借り傘である。が――、きゃつ根来の忍法僧にできたことが、伊賀の忍者にできぬという法があろうか。
 この負けじ魂と、そして絶体絶命の必死の念力が、城太郎を大空へ羽ばたかせた。すばらしい跳躍力であった。おどろくべき浮揚力であった。
 が――|甍《いらか》を蹴った刹那、彼は右手にしかと抱いた右京太夫のからだがぴくんと一つ痙攣するのを感じた。
 同時に風にのって、ひとつの遠い声をきいた。
「城太郎どの、わたしはあなたをゆるします」
 城太郎と右京太夫をぶら下げた傘は、大空を翔けた。――といいたいが、虚空坊のかくれ傘とはちがう。それはななめに大地へむかってながれおちた。
 足の下に、みるみる濠の水がせまって来た。
 舞い下りながら、城太郎は、その恐怖より、たったいまきこえたふしぎな声に脳髄を占められていた。あれは誰の声であったか? 篝火だ! 篝火の声だ。篝火が告げたのだ。
「わたしはあなたをゆるします」
 なにをゆるすのか。篝火は――じぶんが右京太夫をつれて逃げることを、愛することをゆるすといったのではないか?
 城太郎の足は大地についた。濠をわずかに越えた位置で、凄じい衝撃からゆらりと右京太夫をささえたのは、超人的な彼の体術、彼の足のばねであった。
「笛吹」
 馳せ寄ってくる鉄蹄の音をききつつ、城太郎は右京太夫を地に下ろした。
「右京太夫さま、助かったようでござります」
 その刹那、彼は棒立ちになった。
 右京太夫の背中には、一本の矢がふかぶかとつき刺さっていた。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:59:54 | 显示全部楼层
     【三】

 矢を射たのは、三好義興であった。彼はむろん妻をかどわかそうとする袈裟頭巾の怪法師めがけて|弦《つる》を切ったつもりであった。
 その矢がはずれたのは、その刹那、彼の背中に|匕《あい》|首《くち》が突き立てられたからだ。匕首を突き立てたのは松永弾正であった。
 それまで座敷の縁側まで出て、じいっと庭に展開される光景を見ていた弾正は、最初の驚愕、狼狽の波がすぎると、みるみる古沼のように沈んだ物凄い顔色に変わっていたのである。
 縁のちかくにボンヤリと立っていた侍たちのなかに、漁火からの秘密の伝令となった三好家の若党助十郎を見ると、彼は音もなくさしまねき、耳に口をあててなにやらささやいた。
 そして、みずから縁を下りて、庭を歩いてきて、三好義興のそばへ寄ったのである。
 義興は三本目の矢を弓につがえていた。彼の全神経はもとより屋根の上へそそがれていた。その矢を射ようとした瞬間、弾正は義興の背を刺した。
「あっ」
 義興はどうとうちたおれ、血ばしった眼で弾正をにらんだ。
「弾正――うぬは、主を刺したな。おのれ逆臣」
 起きあがろうとする腕の一つを蹴り、弾正はむずとその上に足をのせた。
「いま刺さずんば、おれが刺される」
 と、彼はいった。
 どっと庭の周囲で混乱が起こった。むろん、三好家の侍たちが、この光景に仰天したのである。それをはねとばすようにして一団の武士が、戦車みたいに槍をつらねて突入して来た。
「義興どの、弾正はいまあきらかに叛旗をかかげる。三好家に対する叛旗は、すなわち天下に対する弾正の|覇《は》|旗《き》だ」
 突入してきた武士たちは、もとより弾正の旗本だ。先刻よりのなりゆきから、もはやただですむ事態ではない。しょせん無事にこの屋敷を出て、信貴山城へ帰ることもかなうまい、と度胸をすえた弾正は、毒をくらわば皿まで、一挙にここで三好義興を|弑《しい》し、現在のみならず将来の|禍《か》|根《こん》を絶とうと恐るべき行動に出たのであった。
 が――さすがに主君の若殿の首に手はかけ難かったとみえて、
「いざ。――おん首頂戴|仕《つかまつ》れ」
 歯の|軋《きし》るような声でいうと、うしろの犠牲者に折り重なる数人の旗本をふりかえりもせず、|鉄《てっ》|桶《とう》のような護衛につつまれたまま庭から出ていった。
 あまりの大凶変に胆おしひしがれた三好家の家来たちは、主君義興の首をかき切った松永の旗本たちが、つづいて黒い風のように弾正を追って走り出るのを、夢魔のように見送ったままであった。
 助十郎によって配下の松永勢を呼び集め、みるみる陣伍をととのえて、弾正が三好邸をひきはらっていったのは、あっというまのことである。
 いかなる異常事態があっても、たちまち蛇のような冷たさと粘っこさをとりもどして、危地を脱し、形勢を逆転させ、思う壺にはめさせるのが、松永弾正の凄腕だが、とくにこの際、香炉の蔵にあった平蜘蛛の釜まで忘れずに探し出し、ゆきがけの駄賃にうばっていったのは、まさに|奸《かん》|雄《ゆう》弾正なればこそだ。
 三好邸を去りつつ、
「――笛吹城太郎と右京太夫はどうした?」
 むろん、そのことは念頭を去らず、彼らの飛び去った濠の彼方を捜索させたが、ふたりの行方はしれず、ただ南へ向かって黒衣の騎馬隊が駆け去ったという目撃者を得たばかりであった。
 ――ところで、義興が右京太夫の背に矢を射ちこんだ刹那、義興のそばの地上につくねんところがっていた漁火の首が、かすかに唇をうごかしたのを誰も知らない。
「――城太郎どの、わたしはあなたをゆるします」
 そして、その唇はニンマリと笑んだままうごかなくなった。それは淡いが、かなしげな、恐ろしい笑いであった。
 いったいそれは篝火の|死霊《しりょう》がもどってきての呼び声であったのか、それとも漁火の皮肉な嘲笑であったのか。――首が笑ったのを見たこともない人々は、誰も知らない。
 松永弾正は信貴山城にかえった。
 そして、その城の天守閣に一個の傘がひっかかっているのに気がついた。天守閣の屋根の|鯱《しゃち》が、かっとむいた歯のあいだに、大きな破れ傘の柄をくわえていたのである。
 傘には、血文字でこうかいてあった。
「黒衣の騎馬隊は柳生なり」
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 楼主| 发表于 2008-4-11 13:00:14 | 显示全部楼层
    柳生城楚歌


     【一】

「右京太夫さま」
「…………」
「右京太夫さまっ」
 声が、山風にながれた。
 風は、雨気をはらんで、暗い。
 もう|醍《だい》|醐《ご》のあたりであろうか、かなり高い山の道であった。はげしい南風をついて、その山道を黒い奔流のように駆けのぼってきた十数騎のうち、いちばんうしろの一騎がみるみるおくれ出したのである。
 よく見れば、その一騎だけ変わっていた。ほかの騎馬はことごとく黒衣の姿に笠をつけているのに、それだけ法師姿で、しかもひとりの女を抱いているのである。彼は鞍の上で女を両腕に抱きかかえ、手綱は口にくわえているのであった。
「右京太夫さま、お気をたしかに!」
 ついに馬をとめて絶叫する笛吹城太郎に気がついて、ほかの馬もとまり、ひき返して来た。城太郎は、右京太夫を抱いたまま、鞍から下りて、竹林のかげの地に横たえた。
「……もう少し」
「せめて宇治まで」
 馬をひきかえしたが、黒衣の武士たちは、京の方をふりかえり、焦っているふうであった。
「――待て」
 配下を叱りつけるようにいって、馬から下り立ったのは、覆面をしているが柳生新左衛門だ。
 京の二条の三好邸からのがれ出した城太郎を救ったとき、城太郎が右京太夫を抱いているのを見て、新左衛門はちらと眉をひそめた。またしても――と思ったらしい。
 しかし、いかにして城太郎が右京太夫を伴って逃げて来たか、それを問ういとまはなかった、三好、松永の急追をのがれるためには、秒瞬を争ってその場を離脱する必要があったし、かつ――その右京太夫は、背に深い矢傷を負うていたからだ。
 その矢傷を手当する余裕もない。用意してきた空馬に城太郎と右京太夫をのせると一行はしゃにむに、京を南へ、醍醐まで逃げのびて来た。
 そしていま、柳生新左衛門は、黙然また暗然として、右京太夫を見下ろした。
「右京太夫さま。……右京太夫さまっ」
 じぶんの置かれている立場など、まったく忘れはてたように、笛吹城太郎は狂乱した声をあげて、右京太夫をひざの上にまた抱きあげてゆさぶった。そのひざから土へ、また新しく血がこぼれ、ひろがってゆく、――右京太夫はがっくりと白いあごをあげて、ゆられるがままになっている。
「ああ!」
 と、城太郎は身もだえした。
「おれが悪かった。おれが京へいったのが、かえって悪かった。おれがつれ出しさえせなんだら、矢に射たれることもなかったのだ!」
 そして彼は、柳生新左衛門に少年みたいな泣き顔をふりあげた。
「仰せの通りでござった。おれは右京太夫さまを修羅の世界にさそい、とうとう――」
「いいえ、それはわたしが望んでしたことです」
 城太郎は愕然として腕の中の女人に眼をおとした。右京太夫はいつのまにか眼をひらいて、じっと彼をながめていた。その瞳には、瀕死の女とは思われない夢みるようなひかりがあった。
「これでいいの。わたしが義興どのの矢に射られて死ぬことも、わたしの望んでいたことでした。わたしは夫を裏切ったのですから」
 それがなにを意味するか、城太郎にはわかった。そして、戦慄した。
 三好義興さまの|御《み》|台《だい》右京太夫さまは、あきらかにじぶんへの愛を告げている。それは彼を身ぶるいさせたが、さらにその愛がなにによってきざしたか、それを思うと心臓がねじれるようであった。淫石の茶。――右京太夫さまは、あの茶を服まれた。そのせいだ。
 この女人の愛を感謝すべきか、恐れるべきか。いずれにしても、右京太夫さまはいまここで死んでゆこうとしている。さっき馬上で、いちど右京太夫の呼吸が絶えたのを知って、彼は愕然として馬から飛び下りたのだ。――そしてまた、いま恐ろしい言葉を吐いたあと、右京太夫はふたたび城太郎の腕の中でがくりと眼をとじた。
「右京太夫さま。……右京太夫さま!」
 彼は、いのちのかぎり抱きしめた。そのさけびは、大竹藪のそよぎに、しだいに消えていった。
 ――と、完全にこときれたと思った右京太夫の唇が、またかすかにうごいた。
「城太郎」
 と彼女はいって、うっとりと微笑んだ。そして、城太郎にとって、彼女の死よりも恐ろしいとすら思われた最後の言葉を彼女はもらした。
「わたしはあの茶は服みませんでした。……でも……」
 ポツリ――と、新左衛門のひたいを雨つぶがうった。
 しかし、彼はそのことに気がつかない。右京太夫の言葉の意味は知らず、なんとも名状しがたい鬼気に吹かれ、彼のみならず柳生の侍すべてが、つづいてみるみる地上の城太郎と右京太夫を真っ白なしぶきにつつんでしまった山雨すら意識せず、凝然と藪のかげに馬をならべていたが、ふと高い虚空の風の|悲叫《ひきょう》の中に、女の笑い声のようなものをきいて、ぎょっとして顔をふりあげていた。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 13:00:56 | 显示全部楼层
     【二】

 松永弾正は信貴山城に帰るや否や、猛然と戦備をととのえた。
 京であれほどのことをやってのけた以上、当然三好長慶が叛臣誅罰のために全軍をあげて来襲するものと予想したのである。
 ところが――このことはなかった。
 ながらく病んでいた三好長慶は、嫡子義興の|非《ひ》|業《ごう》の死で致命的な衝撃を受けて、復讐の意志を行動に移すこともできないほどの廃人と化してしまったのだ。主を失った三好一党は、ただ自失し、右往左往するのみであった。もともと、近畿一帯の実権はすでに弾正の手に移っていたことは、誰しもみとめていたのである。三好方にとって唯一の希望の星は若い義興であったが、その星がおちてみると、原因はなんであれ、冷厳な事実として、つぎの覇者が誰であるか、なんぴとの眼にもあきらかであった。
 三好方の軍兵は、弔い合戦を企てるよりも、続々として弾正のもとへ走った。そしてまもなく三好長慶も灯の消えるように死んだ。三好家は自潰といっていい状態で滅亡した。
 悪さかんなれば天に勝つという。
 このことが、松永弾正という人間の上にあらわれたほど適切な例は、歴史上でも|稀《け》|有《う》である。その猛悪な性格と、それにもかかわらず――といいたいその成功ぶりについては作者も甚だ興味があるが、それは本編の主題ではない。
 とにかく、その悪の炎の燃えさかるところ――彼はついにときの将軍|足《あし》|利《かが》|義《よし》|輝《てる》をすら|弑《しい》した。三年後の永禄八年|五月雨《さみだれ》のふる日のことである。あれどもなきがごとき存在の足利|公《く》|方《ぼう》ではあったが、ともかくも天下の将軍を公然と襲撃して殺害し、さらに彼は、そのうら若い御台までも捜索して、京都郊外にこれを斬殺した。
 かくて、それより十余年にわたって、名実ともに弾正の天下となる。これは厳たる歴史的事実であるから、いたしかたがない。
 その|剽悍《ひょうかん》、その奸悪。ほとんど大悪魔も三舎を避けんばかりの松永弾正の猛威に歯止めをかけ、さらにこれを地上から消し去るには、彼と一脈似たタイプで、さらに巨大で猛烈な織田信長という人物の登場を待たねばならなかった。
 やがてときのくるまが回り、信長が|颯《さっ》|爽《そう》として歴史の中央舞台に登場してきたとき――さしもの弾正も、その悪の本能から、しょせんこの比倫を絶する英雄児に敵しがたいことを看破したのであろう。賢明にも信長のまえに伏し、とり入り、その|鉄《てつ》|鞭《べん》をたくみに避けようとした。その計画が破れたのは、信長の信長らしい、いかにも傍若無人な、破天荒な|悪謔《あくぎゃく》からであった。
 天正五年の晩夏の一日、弾正が|安土城《あづちじょう》で信長に謁したとき、徳川家康に紹介された。その紹介のしかたが、実に|辛《しん》|辣《らつ》であった。信長はこういったのである。
「家康どの、この老人はな、人のなし難いことを三つしてのけた男じゃ。第一にこの男は南都大仏殿を焼いた。第二に主家三好家を滅ぼした。第三に足利公方を弑した。どれ一つでも常人のなし難いことを三つまでしてのけたこの男の面をよく見られよ」
 さすがの弾正も満面血を吹かんばかりに赤面し、ついに信長に対して叛旗をひるがえすほぞをかためたという。
 叛旗はひるがえしたが、こんどは相手が悪かった。彼は信貴山城に立籠ったが、たちまち信長の猛襲を受け、炎の中にその大魔身を消し去ったのである。
 ――これは、この物語の永禄五年から十五年後の天正五年の話。

 ――さて、三好義興を殺害して信貴山城に馳せもどった松永弾正は、案ずるより産むが易し、三好衆の反撃なく、周囲の形勢は望外にじぶんに有利に展開しはじめたことを知った。もとより座して、ただ眼をひからせているばかりの弾正ではない。いわゆる三好三人衆と呼ばれる三好家の重臣、足利公方、近隣の諸豪族などを、あるいは利を以てさそい、あるいは脅迫し、|万《ばん》|遺《い》|漏《ろう》なく手を打ち終わり、まず事態安全という見込みをつけると――さて、その眼はただならぬ凶相をおびて東の方へふりむけられた。
 この春以来の平蜘蛛の釜をめぐる修羅の渦の中に、思いがけなく容易に三好家を沈め去ったが、そのことを以て望外の満足とするほど淡白な弾正ではない。――思えばその渦の中に、果心居士から託された七人の根来忍法僧を失い、妖艶たぐいない愛妾漁火を失い、残ったのは平蜘蛛の釜ばかりである。あやうく三好家から拾っては来たものの、平蜘蛛の釜はもともとじぶんが千宗易から贈られたものだから、これをとりかえしたといってそれだけでよろこんではいられない。
 なによりも、かんじんの右京太夫を手に入れることができなんだ!
 このことに関するかぎり、天下の覇者たるおれも、伊賀の一忍者にしてやられたといっていい。――きゃつはどこにいる?
 それも、もとはといえば、きゃつをしばしば救った謎の黒衣の騎馬隊のためだ。いや、それはもう謎ではない。柳生新左衛門であることは明白だ。忍法僧虚空坊が、かくれ傘の血文字を以てそのことを告げたのである。
 柳生といえば、この戦国の世に、すんでのことで滅亡に瀕していたのを、おれの庇護によってあやうく命脈をとりとめてやった山中の小大名ではないか。しかも、要らざるちょッかいを出して伊賀の小冠者の後盾となり、なにくわぬ顔をしてこの弾正を悩ませたとは、不逞、|僭上《せんじょう》、忘恩――そんな言葉ではまだ足りぬ。とにかく気でも狂ったとしかかんがえようがない。
 たとえ、柳生の気が狂ったとしても、もはやただではおけぬ。――|況《いわ》んや、例の笛吹城太郎と右京太夫は、その柳生の庄にひそんでいるかもしれぬではないか。いや、十中九までは、いまそこにかくまわれているに相違ない。
 松永弾正が、数千の兵を駆り、みずから陣頭に立って柳生の庄へおしよせたのは、十月十日の夕方のことであった。むろん、柳生の方では愕然としたらしい。……蒼白になった柳生侍が数人、松永勢にやってきて、「これは何事でござる」と、|詰《きつ》|問《もん》した。
 柳生谷の入口に本陣をおいた弾正はこれを迎えて、
「新左衛門にこれを見せい」
 と、一つの破れ傘を放り出した。例の――「黒衣の騎馬隊は柳生なり」と書いた血がドス黒く変色した傘である。
「これを見せれば、新左衛門も二言とはあるまい。いや、逃口上はゆるさぬ、と釘をさしておくぞ」
 顔色変じて、その傘をひろい、柳生侍たちが立ち去りかけると、
「ま、待て」
 と、弾正は眼にめらめらと炎を燃やして呼びとめた。
「柳生城に、伊賀者笛吹城太郎なるものと三好家の御台右京太夫さまがおわそう。いや、かくしても、こちらにはよくわかっておるのだ。それを当方にさし出せば、新左衛門の一命、あるいは思案してやらぬでもないぞ。あと一刻待つ。覚悟をすえて、いかようなりとも返答せい!」
 |倉《そう》|皇《こう》として駆け去る柳生侍たちのきびすを追って、数千の松永勢は、柳生谷に氾濫していった。
 空は血をながしたような凄愴な夕焼けであった。そして、その下の柳生谷も、また炎にあふれた。まだ夕焼けの時刻なのに、なんのためか、弾正麾下の兵は、すべて火をつけた|松明《たいまつ》を持ったのだ。
 ――一刻ののち、柳生城の城門がひらくと、柳生新左衛門と笛吹城太郎の姿があらわれた。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 13:01:22 | 显示全部楼层
    【三】

 城太郎は、夏以来、柳生城にいた。
 彼は病んでいた。肉体の病気というより、魂が病んでいたのだ。
 彼はただ一室に座して、凝然と壁に眼をすえていた。そこに見ていたのは、二人の女人の幻であった。二人の女――いや、ただ一人の、|篝火《かがりび》と右京太夫、それはいまや一人の女人であった。
 その二人の女はもういない。そして――二人の女の魂は、おそらく地獄へいったであろう。|万《ばん》|斛《こく》の恨みをのんで死んだ篝火のみならず、別の意味で、微笑んで死んだ右京太夫さまもまた――。
 城太郎は、じぶんも同じ地獄へいって、彼女たちを抱きしめてやりたかった。彼が死ななかったのは、ただそういうじぶんを黙々と、しかも兄のような慈眼でじっと見つめている柳生新左衛門のためと、もうひとつ、ある意志のためであった。
 それは、松永弾正への復讐だ。
 いちじ、その炎は消えかけた。あまりに闇が深かったからだ。新左衛門もいった。
「城太郎、きもちはわかるが、七人の法師を討ち果たしたことで、もはや復讐の望みはとげたといってよかろう。気が休まったら、伊賀へ帰れ。わしが服部半蔵――に、まだ逢うたことはないが――逢うて、とりなしてやろう」
 しかし、城太郎は伊賀へ帰る気はなかった。
 秋風が吹き、病んだ肉体と魂が、伊賀の忍者特有の鋼鉄の|勁《つよ》さと冷たさをとりもどすとともに、その炎はふたたび燃えあがった。
 明日にも彼は、この柳生の庄を辞して信貴山城へ駆け向かおうと思っていたのだ。
 そこへ――天なり命なり、弾正の方で、この柳生へ襲来した。しかも、あきらかに城太郎の存在を知り、その首を狙って。
 これは、城太郎にとって、思いがけないことであった。思いがけないことではあったが、おどろきはしなかった。――もし、柳生新左衛門というものがないならば。
 松永の陣から馳せ帰った家臣の報告をきき、例の破れ傘を見て、柳生新左衛門は腕こまぬいてかんがえこんだ。例の、ものに動ぜぬ沈毅な姿勢であったが、心中愕然としたことはあきらかであった。いくら城太郎でも、それはわかる。
 当然である。柳生一族、いかにも日夜剣法に鍛錬を重ねるとはいえ、天下の覇者たる松永の大軍をひき受けて、しょせん敵すべくもない。――柳生は、おれ一人を救うために滅びるのだ。
 笛吹城太郎の決意は単純|直截《ちょくせつ》であった。
 おれ一人のために、柳生家を滅ぼすわけにはゆかぬ。――おれがゆけばよい。おれみずから仇敵弾正のまえに身を投げて、首の座に直ればよい。
「笛吹、どこへゆく」
 決然と――また粛然と出てゆこうとする城太郎を、柳生新左衛門は呼びとめた。
「松永の陣へゆくか」
「されば、――」
「そなたがあれほど首を欲しがっていた弾正に、おのれから首をささげにゆくか」
「拙者のために、お家を滅ぼすことはできませぬ」
「そなたが首をささげて、柳生が助かるという保証があるか」
 新左衛門は重く笑った。覚悟をきめた男らしい笑顔であった。
「うふふ、わしもちと、いたずらが過ぎたよ。弾正も驚いたろう。あの覆面の騎馬隊がこの柳生だとはな」
「申しわけござりませぬ」
「いや、そなたがわびることはない。わしの要らざる物好きだ。とはいえ、弾正、怒ったろうな。そなたの首を出したところで、やわか柳生をぶじにはおくまい」
「と、申して」
「いや、やぶれかぶれになるのはまだ早い。小国柳生にとって、かようなことは、いままで幾たびとなくあったことじゃ。そのたびに、わしの|祖父《じ い》、おやじ、そしてわしもまた死中に活をつかみ、なんとか切りぬけて来た。もっとも、このたびの松永のようなしたたかな人物を相手にして、かかる破目におちたのははじめてじゃが。……とにかく、わしもいっしょにゆこうよ」
「いっしょにいって、なにをなされます」
「ちかづいて、弾正をいけどりとする」
「えっ」
「弾正を人質として松永勢と談判しよう」
 新左衛門は、自若としていった。城太郎は眼をかがやかせてさけんだ。
「新左衛門さまと拙者が力を合わせれば、それはできます。そして、柳生さま、弾正に代わって天下の主とならせられませ」
「ばかな」
 新左衛門は苦笑した。
「それほど天下取りは容易なものではない。それがたやすくできるならば、この暑い夏、わざわざわしが覆面などして鼠のように駆けまわるものかよ。――松永弾正、稀代の悪人とはいえ、また大魔王じゃ。わしの見るところでは、あの人物の君臨するは、少なくともここ十年は動かぬとみる。やがてまことの天下取りが東海のあたりから出てくるまでは」
「東海の――だれでござりまする」
「織田」
 眼を半眼にしてつぶやいた。
「それから、徳川か。……」
「では、弾正を討ってはならぬのでござりまするか。いや、いけどりにして、討たぬおつもりでござりまするか」
「わしの思案としては、弾正をいけどりとして当城にしばらくとどめ、そのあいだにじゅんじゅんとして、もののふの道を説き聞かしたい。――しかし、城太郎、そなたはまだ弾正への恨みを捨て得ぬか」
「恨みは」
 城太郎は、歯をくいしばってこたえた。
「捨てませぬが、しかし……新左衛門さまの御意のままに従いまする」
「もとより事の成り行き次第では、弾正の首を刎ねるようなことになるかもしれぬ。が……また、そなたとわしの首が、先におちるかもしれぬ。おそらく、後者であろうな、その方の可能性が多いぞ」
 新左衛門は笑った眼で、城太郎をじっと見つめた。
「とにかく、城太郎、いっしょに弾正の陣へ参ろう」
 それから一刻ちかく、新左衛門は、柳生衆の重臣を呼んで打ち合わせた。もし、弾正をみごとにいけどりにした場合、また新左衛門自身が討たれた場合の城兵の措置についての指図であった。
 ――そして、柳生新左衛門と笛吹城太郎は、柳生城の城門を出たのである。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 13:49:44 | 显示全部楼层
 空の夕焼けは、妖麗な紫に変わっていた。石段の上に立ち、谷間の城下の狭い屋並みを見下ろして、新左衛門はちょっと眉をひそめた。
 往来はもとより、家々の軒下、屋根の上まで、無数の松永の兵があふれている。おそらく領民はそれぞれの家へ追いこまれ、閉じこめられているのであろう。ほかの大名ならここまで侵入をゆるすはずもないが、相手が松永だから、不本意ながらこうなるまで見逃がさざるを得なかったのである。
 が、新左衛門が眉をひそめたのは、たんなるそれだけの光景ではなく、その松永の兵が、ことごとく燃える松明を持っていることであった。
「――はて、弾正め、なにをしようというつもりか?」
 心中にふとくびをかしげ、それから新左衛門は城太郎をうながし、おちつきはらった足どりで、石段を下りはじめた。
 くりかえしていうが、正確には城というべきほどの構えではない。居館は高い台地にあるが、城門を出て石段を下りれば、すぐに城外となるほどの規模である。
 ――と、石段の下の広場に、向こうからまるで巨大な鉄の亀のようなものが進んで来た。それはいくつかの環を重ね、真っ黒に見えるほど密集した鉄甲の武者の大集団であった。それが、石段の下からはるか彼方にとまると、その環の中から恐ろしい声がながれて来た。
「柳生。――右京太夫さまはどうしたか」
「おお、弾正どの――右京太夫さまは、さんぬる夏、京よりこの柳生へお越しの途中、醍醐にてお果てなされてござる」
「なにっ、いつわりを申せ」
「――いつわりではござらぬ。それについて――」
「待て、新左衛門、それにて止まれ」
 一瞬沈黙して、すぐに声がつづいた。
「右京太夫さまのことはしばらくおく。それにて止まって、そこな伊賀者を討ち果たせ」
「――あいや、それについていささか申しあげたい儀がござる。しばらくおきき下されませ」
「待て、そこうごくなと申すに」
 遠い鉄甲の集団の中から、弾正の声だけがした。
「まず、伊賀者笛吹城太郎の首を斬れ。それをここへ持参してから話をきこう」
 すると、その黒い円陣のうしろから、十人あまりの|雑兵《ぞうひょう》がばらばらと出て来て、その前に一列横隊に折敷いて、肩に黒い筒をあてた。筒のどこからか、うす蒼い煙が立ちのぼりはじめた。
 それがこのごろぽつぽつと噂にきく南蛮渡来の鉄砲という飛道具であることを、柳生新左衛門も知っている。新左衛門と城太郎は石段の中途で釘づけになった。
 刻々と空の紫は蒼みがかり、星影すらもきらめき出した。その下に――柳生谷は、いまや無数の松明の火に充満していた。
「|遁《とん》|辞《じ》はゆるさぬ。寸刻の猶予もゆるさぬ。即座に伊賀者を斬らねば、この鉄砲を射ちはなし、また松明を投げて、柳生谷すべて炎と変えてくれるぞ」
 弾正の声は、無慈悲に、|勁《けい》|烈《れつ》にながれわたった。
「新左衛門、なにをひるんでおるか!」
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 楼主| 发表于 2008-4-11 13:50:09 | 显示全部楼层
    果心火描図


     【一】

「……さすがは、弾正」
 と、柳生新左衛門はうめいた。
 言葉は感服に似ているが、これはいかにも新左衛門らしいいい方で、そうつぶやいた声は歯ぎしりの音をまじえた。顔は松明の遠明りをあびて、しかも鉛色に変わっていた。
「新左衛門、笛吹を斬れ」
 広場では弾正がまた|吼《ほ》えた。切迫した声であった。
「柳生さま、拙者をお斬りなされ」
 城太郎がいった。
「さもなければ、柳生の庄の住民ことごとくが焼き殺されまする。城太郎は、もはや生きて甲斐なき男でござる」
「そなたを斬ったとて、しょせんは同じだ」
 柳生新左衛門は決然と眉をあげた。
「ゆくぞ、城太郎、弾正がなにをいおうと耳のない顔をして、ユルユルと歩いてゆくのだ。もしわれらが討たれ、敵が焼き打ちにかかれば、柳生の侍ども、面もふらず斬って出ることになっておる」
 そして、二歩、三歩、なんのこともなかったような顔をして、シトシトと石段を下りかけた。
 一瞬、広場や屋根屋根に燃える松明の炎が、赤い氷となって凍りついたようであった。なにくわぬ顔で石段を下り出したふたりから放射される凄じい殺気に、思わず武者たちの全身が金縛りになったのだ。
 かくそうとしてもかくせぬ殺気は、しかし、むしろ新左衛門にとって、とりかえしのつかぬ事態を呼ぼうとした。――かっと眼をむいて凝視していた松永弾正は、ふいに身をふるわせて絶叫した。
「鉄砲を撃て、火を投げろ」
 遠い背後で、異様などよめきがあがったのは、その声の余韻の消えぬうちである。
「待て」
 と、弾正はさけんで、ふりむいた。
 どよめきの波は、しだいにちかづいてくる。弾正が待てとさけんだのは、そのどよめきが、じつに奇妙なものにきこえたからだ。決してそれは味方が思わぬ奇襲を受けたといったようなものではなく、ごく小範囲の混乱で、しかもその混乱が、樹々を吹きわたる一陣の風のごとく、すぐそのあとでしんとしずまりかえるのが感じられたからであった。
 ――はて、何事か?
 弾正のみならず、柳生新左衛門もまた眼を凝らした。すると――
「おお、上泉伊勢守どの」
「信綱どのが参られた」
 そんなざわめきが耳を打った。
「なに、上泉が?」
 さすがの弾正も愕然と面をあらためた。
 上泉伊勢守といえば、当代一の剣聖だ。彼は以前から諸国をめぐり、群雄の城におのれの編み出した|新陰流《しんかげりゅう》の種子を|蒔《ま》いていった。遠く甲斐の武田信玄とも|肝《かん》|胆《たん》相照らした仲だときいているし、いまの将軍足利義輝も、彼に手をとって教えられている。――いや、げんに二、三年前、伊勢守は弾正の信貴山城にもやってきて、そのとき弾正が師礼をとったほどの人物だ。
「――あっ、伊勢守さまっ」
 いままで、鉄砲隊から銃口をむけられても|従容《しょうよう》としていた柳生新左衛門が、このとき、まるで石段からころげおちんばかりに駆け下りて、広場を走ってきた。
「撃つな、待て」
 と、弾正はあわてて鉄砲隊を制した。むろん、伊勢守をはばかったのである。
 上泉伊勢守は、すでに広場にあらわれていた。笠の下から白い髯が見えるだけだが、自然木の杖をついた姿は、いつか信貴山城を訪れたときと同じである。またそのときと同様に、二人の弟子をつれていた。あきらかにそれが、|神《しん》|後《ご》|伊《い》|豆《ず》、匹田小伯という名剣士の顔だとわかる。
「伊勢守さま、お久しゅうござる」
 新左衛門は、そのまえにひれ伏して、ひたいを地にすりつけた。
「なつかしいな、新左衛門」
 弾正の方をふりかえりもせず、伊勢守はうなずいた。
「早う柳生の庄へ来ようと思いつつも、太の御所でとめられての。ようやく|北畠《きたばたけ》どのの手をふりきって、やっとここへついたわ」
 太の御所とは、伊勢の大名北畠|具《とも》|教《のり》の居館で、この北畠具教も早くから剣の道に志があり、伊勢守に厚く師礼をとっている人物であった。
「ところで、弾正どの、お久しや」
 と、笠をぬぎながら、こちらに向きなおった。
「この騒ぎはなんでござる」
 二、三年ぶりに逢ったというのに、天下の覇者にあらたまっての挨拶もせず、いままでの話のつづきのようなもののいい方をする。笠の下からあらわれた白髪|白《はく》|髯《ぜん》の顔は、鶴みたいに清雅で、しかしその眼は童子のようにこだわりなく澄んでいた。
 理由もなく松永弾正は眼をそらして、
「伊勢守!」
 と、無意味なうめきをあげた。
 上泉伊勢守に師礼をとったといっても、弾正は北畠や柳生のように、ことさら剣法に志があるというわけではない。しかし弾正が伊勢守に一目も二目もおいていることは、北畠や柳生に劣らない。――いったいに松永弾正は、例えば果心居士とか、千宗易とかに対したときでも同様だが、一芸に達した人間には、存外弱いところがある。いや、それは彼の弱点というより、唯一の長所とでもいうべきであろう。顔貌にも劣らぬほど醜怪な性状を持つ弾正が、ともかくいっとき天下に|覇《は》をとなえ得たのは、あるいはこの特性によったのかもしれない。そのことによって、あるていど有能の士を麾下に集めることができたからだ。
 が、たちまち彼は獅子のごとく首をふりたてて、
「いかに伊勢守がわびればとて、柳生はゆるさぬぞ」
 と、吼えた。
「柳生は、この弾正に逆意を抱いたからじゃ。伊勢守、しばらくそこをどいてくれ。いま新左衛門を成敗いたす」
「わびはいたさぬ」
 伊勢守は、しずかにいった。
「勝手に討たれい」
 白髯の中で、微笑した。
「ただ、そのまえに、信綱よりお願いがひとつござる」
「なんじゃ」
「いつぞや、信貴山のお城で、この新左衛門と|約定《やくじょう》したことがござる。すなわち、この新左衛門は一見鈍骨にみえて、じつは当代まれなる剣法の|天《てん》|稟《ぴん》あるもの。ふたたび相まみえたるとき、この伊勢守みずから立ちあって、その刀法に工夫のあとあれば、一国一人の新陰流|印可状《いんかじょう》を相伝しよう――かく約定つかまつったことを、いま果たしたいのでござる」
「いま、死ぬべき奴にか?」
「|朝《あした》に道をきけば、|夕《ゆうべ》に死すとも可なり、これは剣の道でも同じでござるわ。――|喃《のう》、新左衛門、そうであろうが」
「老師、仰せの通りでござりまする」
 新左衛門は大きくうなずいた。魂の底から出るような声であった。
「弾正どの、おききとどけ下さるか!」
 じっと凝視した伊勢守の眉雪の下の眼に、なぜか弾正は抵抗できないものをおぼえ、顔をひきゆがめて、
「半刻待つ」
 と、うめくようにいった。
「では」
 と、伊勢守は手の杖を投げた。
「新左衛門、起て」
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 楼主| 发表于 2008-4-11 13:50:43 | 显示全部楼层
     【二】

 赤い波のごとくざわめき出していた無数の松明が、また氷結した。
 上泉伊勢守と柳生新左衛門は、三間の距離をへだてて相対した。
 伊勢守は|寂《じゃく》として一刀を青眼にかまえた。この老師がみずから白刃をとるなど、ここ数年見たことのない弟子の神後伊豆と匹田小伯は端座したまま眼を見張った。が、その微動だもしない一本の刀身からひろがって来た冷気は、一息か二息つくうちに万象を霜で覆いそうに思われた。少なくとも弟子たる伊豆と小伯は凍結してしまった。
 これに対して柳生新左衛門は。――
 おお、新左衛門はまだ一刀の柄に手をかけていない。この一代の大剣聖に対して、無刀のまま、これまた氷の彫像のごとく立っている。やはり端座した笛吹城太郎は、新左衛門が、城のことも、弾正のことも、その念頭から滅却していることを直感した。はじめその眼には、ひたすら純粋な歓喜が炎のようにもえているように見えたが、これまた一息か二息つくあいだに、その全身が無想の鉄人と化しているのを悟った。城太郎は、このときほど柳生新左衛門という人物を恐ろしいと思ったことはない。それは伊賀忍法も歯のたたぬような、圧倒的な恐ろしさであった。
 弾正も、それをかこむ鉄甲の一団も、まるで|磐石《ばんじゃく》におしひしがれたように無意志な眼を見ひらいて、これを見まもっている。一瞬が数刻と思われる時が過ぎた。
「柳生」
 伊勢守がいった。
「無刀取りの考案が成ったか?」
 しみ入るような声であった。
「極意は?」
 地からわき出るように、新左衛門はこたえた。
「|空《くう》|手《しゅ》にして、|鋤《じょ》|頭《とう》を|把《と》り
 歩行して水牛に|騎《の》る
 人、橋上を過ぐれば
 橋流れて水流れず」
 伊勢守の手から、白刃がおちた。
「出かした!」
 そのとたんに、柳生新左衛門は、まるで朽木のように大地に崩折れてしまった。べたと座り、両腕をついた新左衛門のそばへしずかに歩み寄って、伊勢守は慈眼をおとした。
「われ、ついに及ばず。――新左衛門、一国一人の印可を相伝するであろうぞ」
「はっ。……かたじけのう存じまする」
 新左衛門は顔もあげず、嗚咽の肩をふるわせた。伊勢守は苦笑して、
「しかし、そちは、わしのあたえた――浮かまざる兵法ゆえに石舟のくちぬ浮名やすえに残さむ――という歌の心にはそむいたようじゃな」
「恐れ入ってござります。いまだ、心術いたらず――」
「もし、この歌の心を体したら、そちに、|石舟斎《せきしゅうさい》、という名をやろうと思っておったに……おまえはここで死なねばならぬか」
「柳生石舟斎」
 新左衛門は、みずからにいいきかせるがごとくつぶやいて、ニコと笑い、
「それはまたよい名、ありがたく頂戴仕りまする。新左衛門、いよいよもってもはや心残りはありませぬ」
「死ね」
「はっ」
「印可状のことは、小伯を残しておく。わしはゆくぞや」
 伊勢守は背を見せた。――挨拶もせず、飄然とゆきかかる伊勢守を、弾正の方であわてて呼びとめた。
「伊勢守。――新左衛門を討ってよいか」
「お気のままになされ」
 ふりむいて、髯の中で、きゅっと笑った。
「|菩《ぼ》|提《だい》は、新陰流一国一人の印可を受けた諸国の剣士どもが、やがて亡国柳生に来り集うて弔ってくれ申そう」
 弾正は、口を洞窟のようにあけたままであった。伊勢守の言葉のなにやら予言めいたぶきみさに、全身を寒風に吹かれる思いがしたのである。
「ま、待て、伊勢守」
 と、思わずさけんだとき、――なんたる幻妖、それまで地上の夕焼けのごとく燃えしきっていた無数の松明が、一陣の風に吹かれたごとく、みるみる消えてしまった。
 一瞬、視界は暗黒となった。たんに、それまでのあまりな明るさが消えたので、そう感じられたのではない。事実、弾正の眼前には、ぼやっとした黒い雲のようなものがひろがったのである。
 地上の黒雲を透して、やがて、キラ、キラ、キラ――とひかるものが空に見えはじめた。それが満天の星だと気がついて、ふたたび大地へ眼をもどした人々は、そこに思いがけぬものを見出して、口の中であっとさけんだ。いつのまに現われたのか、そこには一人の老人が座っていたのである。
 髪を総髪にして、鶴のように痩せて、顔は恐ろしくながい、その口の両はしに、どじょうみたいな髭が二本、タラリと垂れている。鶯茶の道服を着ていた。
「か、か、果心居士!」
 と、弾正はさけんだ。
 果心は地上に座ったまま、
「いや、空から見れば、|筑《つく》|紫《し》の|不知火《しらぬい》にもまがう大和の松明のおびただしさ。しかも、それにただならぬ妖気が見てとられた」
「果心、そなた、どこから来た――」
「|明《みん》」
 と、こたえたが、弾正には、なんのことやら、意味も知れなかった。
「果心、その方があずけた根来の七天狗、ことごとくそこな伊賀者笛吹城太郎なるものに討たれ、右京太夫はこの世を去り、その方の企てすべて水の泡となったぞ! あまっさえ弾正、飼い犬に手をかまれ、そこの柳生に叛かれた。柳生新左衛門を存じておろう?」
 果心居士は、ちらと柳生新左衛門と笛吹城太郎を見た。凄じい殺気にひかった新左衛門と城太郎の眼が、ふいにみずから虚ろとなって気力が消散するのを覚えたほど、それはふしぎな瞳力をもった眼であった。
 ただ一瞬である。果心の眼は、まるで彼らなど度外においた早さで、もう一方にむけられた。果心からみれば、ちょうど弾正と並んだ位置にいる上泉伊勢守にである。
 地上の雲は消えた。――とみえたが、よく見れば、果心居士だけは|朦《もう》|朧《ろう》たる霧のようなものにつつまれている。その中で、声がきこえた。
「なんじ知らずや、このごろの世の乱れはわがなすことなり。魔道に志をかたむけて天の下に大乱を起こさしめ、この国に|祟《たた》りをなさん。――と念じ来ったこの果心の心火を、いま不可思議の風で吹き消さんとする力がある。それは、そこから吹いてくる」
 雨のそぼふるような果心の声であった。
「弾正どの、そこにおらるるご老人はどなたか」
「これは、上泉伊勢守と申す兵法者――」
「――おおっ、では」
 果心は珍しいさけび声を発し、それっきり沈黙した。
 伊勢守は一言も発しなかった。彼もまた大地に座って、じっと果心をながめていた。
 剣聖対大幻術者のあいだになにが起こったか。
 なにも起こらなかった。ふたりは、いつまでも、|寂然《じゃくねん》と相対して座しているだけであった。
 しかし、そこにいた他の人間には、外界のすべてが消え失せ、さらにじぶんそのものも消え失せた。ただ、眼でない知覚が、そこに蒼白い巨大な光流が渦まいてはしぶくのを見ていただけであった。一刹那とも永劫とも形容しがたい時がながれた。
 遠くで――この世の果てのような遠くで|怪鳥《けちょう》に似た声がきこえた。
「果心――敗れたり」
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 楼主| 发表于 2008-4-11 13:51:51 | 显示全部楼层
    【三】

 それは果心居士みずからの声であった。
 同時に人々は、果心にまつわりついていた墨色の霧がすうっとはれたのを見た。それはまるで妖異な衣を剥ぎとられたようであった。そして人々は、むき出しになった果心を見た。
 痩せおとろえ、くぼんだ|眼《がん》|窩《か》のおくから恐怖の眼をひからせ、歯をカタカタと鳴らしているひとりの醜い老人の姿を。
「わが幻術……。はじめて、通ぜなんだな……」
 あえぎあえぎ果心は、つぶやいた。
「松永どの、柳生。――」
 伊勢守は、しずかに立った。
「おさらば」
「ま、待て、お待ちなされ、伊勢守どの」
 果心は細い片腕をのばしてさけんだ。ふいにその全身が硬直したようにうごかなくなった。あまりの異様な変化に、伊勢守すら、はたとそのまま足をとどめてしまったくらいであった。
 伊勢守は微笑していった。
「果心とやら、いかがいたしたか」
「――しばらく、うごかれな」
 と、果心居士はいった。
「伊勢守どのの星」
 ちらとくぼんだ眼をうごかして、凍りつくような声で、またいった。
「弾正どのの星」
 伊勢守と弾正は、ふりむいた。うしろに満天にちりばめられた銀河のような秋の星座があった。
 弾正がいった。
「おれの星?」
「いま、おふたりの星を占うた」
 果心居士は、いまの虚脱からぬけ出して、なぜかひどく興奮しているようであった。伊勢守がいった。
「ほう、星占い、なんと出た」
「申してよろしいか」
「ぜひ、ききたい」
「あなたさまなら驚かれまい。あなたさまのお命は、あと十五年で燃えつきる。しかも星の下に浮かび上がる地上の相によって占うに、あそこに見える柳生城――あの柳生城で、伊勢守どのは大往生をとげられる」
 果心居士の眼は、もはや伊勢守を見てはいなかった。深い無限の空に妖しいばかりの瞳光をそそいで、うわごとのようにいった。
「しかも、なんたる奇縁か。十五年後の同じ年、弾正どのの命もまた燃えつきる。おそらくそれは、きょうとおなじ十月十日。――十五年後に命終わるご両人をそこに置いて、いまわしには十五年後の星座が見える」
「――果心、十五年後、あるいは両人死ぬかもしれぬ。年も年じゃ」
 と、伊勢守はいった。
「しかし、わしは左様な星占いは信ぜぬ」
「剣法幻術の争いに敗れた果心じゃ。伊勢守どののご一笑受けても、それはやむを得ぬ」
 このとき果心は実に不可思議な、皮肉とも自嘲ともつかぬ笑いを浮かべていた。
「じゃが、伊勢守どのをのぞき――他の人々、果心の幻術の笑うべからざることを、よっく見られよ――」
 果心の声がこがらしのごとく鳴りわたると同時に、このとき、いちど消えていた無数の松明が、また一斉に炎々と燃えあがった。
 と、みるまに、その松明は武者たちの手から、地上から、ひとりでにはなれ、浮かびあがり、星の夜空を|火《ひ》|矢《や》のごとくながれ飛んだ。そのゆくてに柳生城があった。
「――あっ、城が燃える!」
 さすがの柳生新左衛門も、愕然として腰を浮かした。が、すぐにそれは、――
「おおっ、信貴山城!」
「信貴山城が燃えている!」
 という人々の、たまぎるようなどよめきにかき消された。
 人々は、そこにあるべからざるものを見た。柳生の庄の空に燃えしきっているのは信貴山城の天守閣であった。炎はひろがりせまり、燃える天守閣はみるみる迫ってきて、人々をその中に包みこんだ。
「誰かある。誰かある。――」
 火炎のなかで、弾正は絶叫した。
 人々はすぐ眼前に、ズタズタに斬り裂かれた鎧を着、黒煙にいぶされて逃げまどう弾正の姿を見ながら、身うごきもできなかった。と、その炎をついて、ひとりの武者があらわれた。彼は刃をひっさげて、弾正を追った。弾正はふりむいて、これを迎え討った。炎の中の地獄のような死闘であった。その武者の刃が、ついに弾正を袈裟がけに斬ったとき、武者のかぶとが飛んでその顔があらわれた。火光に彩られたその顔は、両眼をかがやかせ、口いっぱいにひらいて絶叫していた。
 弾正、おぼえたか。笛吹城太郎、十五年前なんじのために殺され、苦しめられたふたりの女の敵をいま討つぞ。――
 ――この光景を――じぶん自身の姿を、笛吹城太郎と松永弾正は、冷たい地上に座って、凝然と見つめていたのである。
 そのことに気がついたのは、やがてある笑い声とともに、その炎も幻影もしだいに消え失せていってからのことだ。
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ」
 すべてが消え失せたあとに、肩をゆすって笑っている果心居士であった。
 われにかえった松永弾正は、恐怖のあぶら汗をしたたらせて、すっくと立った。
「果心、十五年後を座して待たぬ」
 と、さけんだ。
「笛吹城太郎と申すやつ、いまここで討ち果たすぞ」
「星座のえがいた運命は鉄でござる」
 と、果心はこたえた。
 弾正は全身がしびれてしまった。
「いかにあがこうと、弾正どの、いま見られた未来相は変わらぬ。あえて変えんとするときは、果心、申しておく、弾正どのは、ただいま即刻、ここで落命されるほかはない。――」
 果心の声は虚空からふって来た。
 気がつくと、その姿は眼前から消えていた。そしてさらに見わたせば、笛吹城太郎の姿も|忽《こつ》|然《ねん》と消え失せていたのである。ただ、メフィストフェレスじみた例の笑い声のみが星座の彼方から降ってきた。
「その証拠に、笛吹城太郎はいまわしがつれてゆく。|愛《まな》|弟《で》|子《し》七人の忍法僧を、みごと討ってのけたこの伊賀の若者、にくいよりも可愛いわ。わしがつれていってもうひとつ仕込んでやろうぞい。――ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ」

 十五年後、天正五年、上泉伊勢守信綱は柳生城で大往生をとげた。
 おなじ年の十月十日、織田の大軍に包囲された松永弾正は、信貴山城の天守閣で、炎とともに消え失せた。
 このとき――攻め寄せた織田の一武将が、かねがね弾正の秘蔵する平蜘蛛の釜は天下の名器、せめてこれだけは後世のために城外へ出されてから腹切られよ、と申し入れたのに対し、弾正は天守閣の高欄に出て悪鬼のごとく打ち笑い、たわけ、後世も来世もあるものか。おれが首と平蜘蛛の釜、この二つはあくまで信長の目にはかけぬわ。よく見ておけ、とさけんで、寄手の眼前で平蜘蛛の釜をみじんにたたき割り、身をひるがえして炎の中へ消え去ったという。
 笛吹城太郎が待ち受けていたとするならば、その炎の中であったろう。
 しかし、真の怨敵ともいうべき大幻術師果心居士とともに柳生城から消え去った笛吹城太郎、いのちのかぎり愛したふたりの女人を失ったこの伊賀の忍者が、それまでの十五年間、どこでいかに暮らしていたか。信貴山城滅亡後、どこでいかなる生涯を終えたか、だれも知らぬ。知っているものは、ただ戦国のメフィストフェレス果心居士のみであったろう。

                                               (伊賀忍法帖 了)
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 楼主| 发表于 2008-4-11 13:52:59 | 显示全部楼层
    忍者という妖怪の誕生
                                       京極 夏彦

 忍者という言葉を広辞苑第二版補訂版(岩波書店一九七六年発行)で引いてみる。
 当然載っている。ローマ字でNINJAと書いて外人に通じもするし、漫画のタイトルは元より、アイドルタレントのグループ名にもなる程だから、載っていない訳がない。

  にん‐じゃ忍者[#「忍者」に傍点]忍びの者。忍術使い。隠密(おんみつ)。

 短い。これなら説明しない方がいいのではないか、というような説明である。ちなみに、同じ広辞苑でも第四版(一九九一年発行)になると、更に簡潔になる。

  にん‐じゃ忍者[#「忍者」に傍点]忍びの者。忍術使い。

 これだけである。
 隠密という説明まで削除されている。これは第二版補訂版が出版されてから第四版が出版されるまでの十五年の間に「そうか、忍者っていうのはあの隠密のことなのか――」というリアクションが望めなくなってしまった所為なのだろう。隠密の方が言葉としてはマイナーになってしまったのだ。「隠密同心のオンミツって何?」と問われて「忍者みたいなものなんじゃない」という回答で通じる時代になったのである。隠密は凋落し、忍者は普及したのである。そこで、その「隠密」を第四版で引いてみることにする。

 おん‐みつ隠密[#「隠密」に傍点]=隠してひそかに事をすること。日葡「ヲンミッニモノヲイウ」。「――に事を運ぶ」=密偵。忍びの者。間者。南北朝時代からあり、武士ではあるが身分は低かった。伊賀者・甲賀者として、江戸時代にもこの伝統がある。隠し目付。忍び目付。庭番。

 隠密に関していうなら第四版に「――に事を運ぶ」という用例が追加されているだけで第二版補訂版も内容はほとんど同じである。ただ、どこにも「忍者」とは書いていない。しかし、忍者の項の説明との共通項として「忍びの者」という言葉を見出すことが出来る。
 隠密も忍者も「忍びの者」だと広辞苑はいうのだ。そこで「忍びの者」を引いてみる。ところが忍びの者という独立した項目はない。ただ「忍び」という項はやたらに長くて、その中に「忍びの者」の説明は含まれている。関連事項のみ抜き出してみよう。
 先が第二版補訂版、続いて第四版である。

しのび忍び[#「忍び」に傍点]~略~ =ひそかにすること。 =身を隠して敵陣または城・人家などに入り込む術。忍びの術。忍術。 =忍の者の略。日葡「シノビガイ(入)ッタ」~略~ ――の‐じゅつ忍の術[#「忍の術」に傍点]=にんじゅつ。――の‐もの忍の者[#「忍の者」に傍点]ひそかに敵陣や人家に入り込んで事情をさぐる人。しのび。間者。

しのび忍び[#「忍び」に傍点]~略~ =ひそかにすること。=身を隠して敵陣または城・人家などに入り込む術。忍びの術。忍術。=「忍びの者」の略。太平記二〇「或夜の雨風の紛れに、逸物の――を八幡山へ入れて」~略~ ――の‐じゅつ忍びの術[#「忍びの術」に傍点]敵情視察・暗殺などの目的で、ひそかに敵陣や人家に入り込む術。にんじゅつ。――の‐もの忍びの者[#「忍びの者」に傍点]忍の術を使う者。間者。しのび。

 微妙に違うが、いずれにも忍者という言葉はない。「忍術」という言葉が気になる。

にん‐じゅつ忍術[#「忍術」に傍点]密偵術の一種。武家時代に、間諜・暗殺などの目的で、忍者が変装・隠形(おんぎよう)・詭計などを利用し、人の虚につけこんで大胆・機敏に行動した術策。隠形の術に金遁・木遁・水遁・火遁・土遁の五道があり、甲賀流・伊賀流などが最も有名。遁形の術。忍びの術。

 なる程――という感じである。忍術に関していえば、版が変わっても記述に変化はない。
 では、本書のタイトルにある「忍法」はどうか。これも両版とも記述は同一だった。

  にん‐ぽう忍法[#「忍法」に傍点]忍者の術。忍術の法。

 再び簡単になってしまった。さて、何だか無駄な作業を繰り返しているようだが、これらの記述から、次のような言葉の関係性が類推できる。
 忍び=忍びの者、忍びの術=忍術=忍者=忍法。
 言葉の出来た順である。
 これまたちなみに、一九三六年に発行された、七十二万項目を収める大辞典(平凡社)に「忍者」の項はない。「忍法」の項はあるが、「忍位」のことと説明されている。忍位というのは仏教用語で、忍者とはまるで関係のない言葉である。しかし「忍術」の項はあって、こちらは「忍びの術」のこととされている。

  シノビノジュツ 忍の術 姿を隠し敵の陣中などに密かに入込む術。忍術。

  シノビ 忍 ~略~ =忍の術の略。忍術。~略~ =忍の者の略。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 13:53:45 | 显示全部楼层
 その昔、忍者という言葉はなかった[#「なかった」に傍点]のだ。
 隠密を始めとして、すっぱ、乱破、かまり、間諜など、流派によって呼び名も様々で、それら特殊工作員達を総じて忍びの者、彼らの使う策術の類を総じて忍びの術と呼称していただけなのである。辞典辞書の説明にある通り、彼らは決して摩訶不思議な超能力を持った魔人妖人ではない。鍛錬を積んだ下級武士であり、スパイでしかない。彼らの使う術もまた、決して理解の及ばぬ超常な術ではない。本書に登場する術の如く人間業を遥かに凌駕した「物凄い」術は、その昔魔術や妖術と呼ばれていた筈である。
 とはいえ、本書に登場するような、怪物的な「物凄い忍者」が、山田風太郎という稀代の戯作者の手で突然変異的に生み出されたものなのかというと――それはちょっと違うといわざるを得ない。史実現実とは違っていても、少なくともそれは現在民意を得ている訳だし、それが民意を得るだけの土壌は以前から厳然としてあったのである。
 印を結んで|蝦《が》|蟇《ま》に化けたり姿を消したりする変幻自在の「忍者」像は、山田風太郎登場以前から、一般にはある程度浸透していたのだ。例えば山田作品に登場する「物凄い忍者」のルーツは、立川文庫や講談、更に|遡《さかのぼ》るなら江戸期の黄表紙などに求めることが出来るだろう。そこで活躍する術者達――猿飛佐助や霧隠才蔵などは(忍者ではなく忍術名人、あるいは忍術使いと呼ばれていたのだが)やはり人知を越えた物凄い技能を持っているのだ。いずれにしても現在一般に浸透している「物凄い忍者」像は、こうした創作物を通じて比較的近世に形成されたものと考えていいだろう。
 しかし、そうした所謂「忍者」像もまた、無根拠に形成された訳ではない。
「忍びの者」には、前述の伊賀・甲賀の他にも、上杉、真田、楠、武田、白雲、羽黒、本書にも登場する根来等々、多くの流派があったことが伝えられる。本書で語られる伊賀忍者にしても、有名な服部家以外に百地、藤林という名家がある。それら多くの末端を根源に向けて辿って行くなら、必ず幾つかのキーワードを通過することになる。
 まず、兵法である。そして陰陽道である。修験道である。その先には密教、更には道教が透視できる。同時に、芸能としての放下僧や幻戯師も視野に入るだろう。
 人に直してみよう。諸葛孔明、阿倍晴明、|役小角《えんのおずぬ》、弘法大師、諸々の仙人、そして本書劈頭をも飾る果心居士――なんとまあいかがわしい顔触れ(!)であろうか。忍びの系譜を丹念に遡ると、恰も本邦のマジカルヒストリーを|繙《ひもと》くような結果になってしまうのである。
 当然、それは上辺のことである。並べただけでも判る通り、それは信仰――宗教の歴史でもある。その背後には技術と、技術者と、それを巡る政治的な抗争がある。民衆のレヴェルから望むならば、それはまた、異人を巡る畏怖と排斥の民俗の歴史でもある。
 怪異と神秘はそうした隠された精神活動によってリアリティを獲得するのだ。
 その末端に、忍びの者――所謂「忍者」は位置していることになる。
 そして、同じ材料を使って、同じ経過を経て生成された、もうひとつの末端を我々は知っている。それは――妖怪である。
 所謂「忍者」と妖怪は、いうなれば味噌と豆腐のような関係なのだ。元を辿れば一緒なのである。しかし決定的に違うところもある。妖怪は現世に実体を持たない。忍者は勿論実在する。一方、現世に実体を持たないくせに、妖怪は普及した個体名を持ち一般的に個体識別ができる形質を獲得している。所謂「忍者」の方には長い間それがなかったのである。
 簡単にいおう。キャラが立って[#「キャラが立って」に傍点]いなかったのだ。
 忍者の場合はキャラクターが確立していなかったのである(作りたくても本物が存在しているのだから作りようがなかった訳である)。時が経ち、忍者自体が滅び去り、現世に実体を持たなくなって|漸《ようや》く、忍者はキャラクター化し始めた。それが読み本であり、講談であり、立川文庫なのだ。しかし――それは不完全なものだった。何故なら、剣豪、忠臣、名将――そうしたライヴァル達との明確な差別化に成功していなかったからである。
 剣豪・宮本武蔵、忠臣・楠木正成、名将・武田信玄――忍術名人・猿飛佐助。
 並べてみると如何にもキャッチーさに欠けるではないか。これでは駄目である。
 しかし。
 忍者・猿飛佐助。
 決まっている。忍者といい切ってしまう潔さが決め手である。
 序でに、
 忍法・〇〇の術。
 こうでなくてはいけないだろう。野暮ったさが消えて、神秘性は増している。長年の|紆《う》|余《よ》曲折の果てに、忍者・忍法という呼称を得て、所謂「忍者」像は漸く完成したのだ。
 その名を与えたのは――どうやら山田風太郎なのである。
 それに就いては異説を称える者もいる。そもそも、忍者という言葉自体は、忍びの者の音読みなのであるから造語ではない(忍法の方はあきらかに「新たな意味を付加し、本来の語義を払拭した」という意味で新語と考えても良いだろう)。それに加えて、同時多発的に漫画――白土三平や横山光輝――がヒットしているし、小説も、例えば柴田錬三郎などが前後して忍者ものを物している。映画や演劇もあっただろうから、名命者・普及者の正確な考証は難しい。
 しかしその中でも「忍者」の異形の歴史を意識的無意識的に色濃く反映している創作物といえば、何といっても風太郎忍法帖だといえるだろう。
 どうであれ山田風太郎がニンジャといい切り、ニンポーといい切ったことは事実である。
 そして、いい切って通用させてしまった――通用してしまったことも確かなのである。
 山田風太郎がいい切って、結局みんながそれに乗ってしまった訳である。
 勿論ここまで一般的になったのには、そうしたモノを欲する無意識な時代の要請というのはあったのだろう。先行してイメージは確立していた訳だし、長年に亘って培われて来た、所謂「忍者」像に、ぴたりと|嵌《はま》る言葉を文化の方が欲していたのかもしれない。
 そして「忍者」も「忍法」も辞書に載るまでになったのである。
 海外でも通用するようになった。誰もが使う言葉になった。
「NINJA」の五文字に歴史の闇を畳み込んで――。
 名づけられることで、忍者という妖怪がここに誕生したのだ。= 漠然とした不安や認知できない状況に一定の形式――名前と像を与えると、妖怪が完成する。妖怪は世界認識の方法であり、怪異の最終形態でもある。怪異は妖怪となったその時、意味を獲得する。意味を持った時、怪異は死ぬ。妖怪は怪異の幽霊である。
 同じように、忍びの者という不可解な異形どもに名前と像を与えて「忍者」を完成させた山田風太郎は、また「忍者」の歴史に終止符を打った男でもある――ということになる。その複雑怪奇なディテールは忍者という名に象徴され、連綿と続く暗黒の系譜もまたその名に|収斂《しゅうれん》してしまうのである。だからある意味で、風太郎忍法帖は本邦の「歴史の闇」の、死亡証明書としても機能する。山岳仏教も|百済《くだら》の技術者も吉野山の行者も、サンカも産鉄民もなにもかも――忍法帖は呑み込んでしまうのである。そしてそこから始まる。
 |恠《あや》しむな、娯しめ――。
 なる程娯しいではないか。
 畏るべし、風太郎忍法帖。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 13:54:31 | 显示全部楼层
    忍法帖雑学講座3


    忍法帖のヒーロー
                                                             日下 三蔵

 本書『伊賀忍法帖』は、風太郎忍法帖の第十一作である。実業之日本社の雑誌「週刊漫画サンデー」に、64年4月1日号から8月26日号まで連載され、64年10月に東都書房から新書判「忍法小説全集」の第9巻として刊行された。
 64年といえば、前年10月から、やはり新書判で刊行が開始された講談社の「山田風太郎忍法全集」のおかげで、世に忍法ブームが巻きおこった年に当たる。この全集は、第九作『風来忍法帖』までを、全十巻にまとめたシリーズだったが、増刷に次ぐ増刷のため、急遽、第十作『柳生忍法帖』上・中・下に短篇集二冊を加えて、全十五巻に延長されるほどの大ヒットとなった。それを受けた「忍法小説全集」は、柴田錬三郎『赤い影法師』、司馬遼太郎『|梟《ふくろう》の城』、池波正太郎『夜の戦士』、角田喜久雄『悪霊の城』、村山知義『忍びの者』、白石一郎『鷹ノ羽の城』といった忍者小説の傑作・名作を収録した全集だが、ブームの立て役者山田風太郎の新作長篇である本書が、一つの目玉だったことは間違いないだろう。
 掲載誌「週刊漫画サンデー」では、連載に先立って、前号(3月25日号)に「作者の言葉」が掲載されているので、ご紹介しておこう。

「忍術では甲賀流、伊賀流が有名ですが、戦国時代から江戸時代初期にかけて、べつに根来流という一派がありました。紀州根来寺を本拠とする恐るべき忍法僧の一団です。
 この物語では、この根来流忍法僧と伊賀の忍者との凄絶きわまる死闘を描いてみたいと思います。ご愛読をお願いいたします」

 根来流の忍者は、後の『忍びの卍』でも、甲賀者、伊賀者と三つ巴の死闘をくりひろげることになるが、本書では、彼らに忍法を仕込んだのは、戦国のメフィストフェレス・果心居士だった、ということになっている。忍法帖ワールドに妖人・魔人多しといえども、この希代の幻術師に対抗しうるのは、剣聖とうたわれた上泉伊勢守をおいて他にない。本書のラストで、両者は初めて相まみえるが、本格的な対決は、『忍法剣士伝』まで持ち越されている。
 戦国の|梟雄《きょうゆう》といわれた|獰《どう》|悪《あく》な武将・松永弾正久秀は、ときの将軍・足利義輝を殺したことで悪名を今に残す人物だが、本書のストーリーは、この弾正が、こともあろうに主君である三好家の夫人・右京太夫に恋慕したことから始まる。弾正の邪まな願いをかなえるために、果心居士が貸し与えた根来忍法僧七天狗は、女人の愛液を煮詰めて作る万能の媚薬「淫石」を精製すべく、城下のめぼしい美女を片っ端からさらい始めるのだ。運悪く、彼らの網にひっかかってしまったのが、若き伊賀忍者・笛吹城太郎と、その妻・|篝《かが》|火《りび》であった。最愛の妻を奪われた城太郎は、悪魔のような技を身につけた根来七天狗に、単身戦いを挑んでいく――。

 チーム対チームのトーナメント方式を基本とする忍法帖だが、本書のように、一人のヒーロー対多数の敵、という例外的なパターンの作品も、いくつか存在する。将軍家のご落胤である葵悠太郎が、甲賀七人衆と対決する『江戸忍法帖』、飛騨忍者・乗鞍丞馬が、主君の仇の五人の侍と戦う『軍艦忍法帖』、佐渡金山奉行・大久保石見守の息子おげ丸が、忍法を使わずに甲賀五人衆と戦う『忍法封印いま破る』、そして山田風太郎がもっとも気に入っているという剣豪・柳生十兵衛が活躍する二大巨篇『柳生忍法帖』と『魔界転生』などがこれにあたるが、中でも本書の主人公・笛吹城太郎は、異色のキャラクターといえるのではないだろうか。
 なにしろ彼は、風太郎忍法帖に登場する忍者には珍しく、これといった必殺技を持っていないのだ。もちろん、伊賀者であるから、体術や剣技には優れている。というか、人並み以上に超人的なところがあるのだが、それはあくまでも人間の能力の限界内での話。一方、根来七天狗たちの駆使する忍法は、およそ人間業とも思えないような奇怪なものばかりだ。ブーメランのように大鎌を飛ばし、自らも空中から飛び返る風天坊の〈忍法枯葉がえし〉、鉄の扇から止めどなく針が降り注いでくる金剛坊の〈忍法天扇弓〉、巨大な傘の内部に鏡を張って何でも吸引してしまう虚空坊の〈忍法かくれ傘〉、いずれも物理学の法則を無視した超絶の技である。羅刹坊にいたっては、切断された人体を〈忍法壊れ甕〉でつぎはぎしてしまうのだから、一度は|斃《たお》したと思った敵がふたたび五体満足で現れて、城太郎を驚かせることになるのだ。
 笛吹城太郎がいかなる手段・方策で根来の忍法僧たちを斃していくか、を興味の一方とすれば、松永弾正の野望が次々と予想外の方向へ展開していく面白さが、本書のもう一つの核といえるだろう。後に柳生新陰流の開祖・石舟斎となる柳生新左衛門や、後の利休・千宗易といった実在の人物、あるいは名器・平蜘蛛の釜の一件や、奈良の大仏焼失事件のような史実を、巧みにストーリーに取りこんでいく手際は、見事としかいいようがない。ここに、弾正の愛妾・漁火と右京太夫、同じ顔を持ちながら聖邪それぞれ対照的な二人のヒロインの思惑がからんで、物語は錯綜を極めていくのである。
 とにかく構成が巧みで、読み始めたらやめることができない。山田風太郎一流のストーリーテリングを、じっくりと味わっていただきたいと思う。

 なお、本書は、82年に角川春樹事務所と東映の共同製作によって映画化されている。真田広之が笛吹城太郎、渡辺典子が篝火と右京太夫の二役をそれぞれ演じており、当時の角川文庫のカバーには、映画のスチールが使われたバージョンがいくつかある(巻末の〈忍法帖ギャラリー〉参照)。この映画は、現在ビデオで見ることができるので、興味のある方はご覧になってみてはいかがだろう。ちなみに、根来七天狗の一人、金剛坊役で出演した元プロレスラーのストロング小林は、この役がいたく気に入り、芸名をストロング金剛に変えたという、山田風太郎ファンにとってはなんとも痛快なエピソードを残している。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 13:55:00 | 显示全部楼层
〈登場忍者一覧〉
 ◎根来七天狗
  風天坊  〈忍法枯葉がえし〉
  羅刹坊  〈忍法壊れ甕〉
  金剛坊  〈忍法天扇弓〉
  水呪坊  〈忍法月水面〉
  虚空坊  〈忍法かくれ傘〉
  空摩坊  〈忍法火まんじ〉
  破軍坊

 ◎笛吹城太郎



  おことわり
本作品中には、(講談社文庫版の)三十頁に始まり全二十一頁にわたり、びっこ、ちんば、不具など身体障害に関する、狂人、きちがい、白痴、狂女など精神的障害に関する、今日では差別表現として好ましくない用語が使用されています。
しかし、江戸時代を背景にしている時代小説であることを考え、これらの「ことば」の改変は致しませんでした。読者の皆様のご賢察をお願いします。


〔初出〕
「週刊漫画サンデー」一九六四年四月一日号~八月二六日号連載
〔出版〕
「忍法小説全集」第九巻 東都書房刊(一九六四年)に収載。
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後、「風太郎忍法帖」第四巻(一九六九年・小社刊)・講談社ロマンブックス版(一九六九年)・角川文庫版(一九七四年)・富士見時代小説文庫版(一九九〇年・富士見書房刊)・「山田風太郎傑作忍法帖」第二巻(一九九四年・小社刊)など
[#ここで字下げ終わり]
〔底本〕
講談社文庫『山田風太郎忍法帖3 伊賀忍法帖』(一九九九年)



山田風太郎(やまだ・ふうたろう)
一九二二年、兵庫県生まれ。東京医科大在学中の一九四七年、探偵小説誌「宝石」の第一回懸賞募集に「達磨峠の事件」が入選。一九四九年に「眼中の悪魔」「虚像淫楽」の二篇で日本探偵作家クラブ賞を受賞。一九五八年から始めた「忍法帖」シリーズでは『甲賀忍法帖』『魔界転生』等の作品があり、奔放な空想力と緻密な構成力が見事に融合し、爆発的なブームを呼んだ。その後、『警視庁草紙』等の明治もの、『室町お伽草紙』等の室町ものを発表。『人間臨終図巻』等の著書もある。二〇〇一年七月二八日、逝去。


伊賀忍法帖 山田風太郎忍法帖3
講談社電子文庫版PC
山田風太郎 著
(C) Keiko Yamada 1964
二〇〇二年一〇月一一日発行(デコ)
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