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楼主: demiyuan

[好书连载] [山田風太郎] 忍法帖系列~魔界転生 上

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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:25:42 | 显示全部楼层
【六】

 森宗意軒は、「魔界転生」のことを語り出し、語り終えた。――
 またまたこんどは数分にわたって、そこにはただ灯の燃えるかすかなひびきだけがあった。
「なおべつに転生したる者、これから転生せんとする者が二人ござります」
「何と申す奴か」
「天草四郎時貞、柳生如雲斎|利《とし》|厳《よし》」
「…………」
 その驚倒すべき名をきいても、頼宣はもはや驚愕のうめきをあげる力を失っている。
「合わせて七人。大納言さま、紀州へ御帰国の日が迫っておると承っておりまする。是非、この五人をおつれなされ。べつに両人には、追っつけ紀伊にはせ参ずるよう申しつけてござる」
「その者どもを紀州へつれ帰って、さしあたって余に何をせいというのか?」
「当分、何もあそばす必要はござりませぬ。ただ飼うておきなされ。前世は知らず、こやつらは、もしこの宗意軒が命ずるならば――大納言さまの御|下《げ》|知《ち》に従えと命じ、大納言さまが御下知を下されるならば――一年黙せといわれれば一年黙し、十人の女を犯せと命ぜられるならば十人の女を犯し、百人を殺せと仰せられるならば、百人を殺すでござりましょう」
 ジロリと宗意軒にながし眼で見られても、五人の大剣士は一語の|反《はん》|駁《ばく》もこころみず、うす笑いして、頼宣を見まもっている。――あの老実謹慎な柳生但馬守までが!
 頼宣の背に、あらためてぞっと冷気が走った。
「いずれにしても、あまりよいことは好みますまいな」
 森宗意軒も声なく笑った。
「前世において、おのれを押え、おのれを制し、おのれを縛って、最後の時にいたってふたたび転生の日あらば、けもののごとくおのれの欲望を満たさんという一念に燃え、その祈りに燃えつきた奴ばらでござれば」
「ううむ」
「ただし、いま申す通り、拙者の綱にとらえてあるかぎり、大納言さまのお申しつけにはそむきませぬ。それまで、飼うておきなされ。……もっとも、余人にはあまり知られぬ場所がようござりましょうな」
「それまで、飼うておけと? それまでとは?」
「――左様――」
 宗意軒は頼宣の眼に見いった。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:26:10 | 显示全部楼层
「拙者の星占いによりますれば、当上様の御寿命は、あと……四五年でござりましょうか」
「な、何? 家光どのが?」
 これには頼宣もわれしらず声をたてた。
 現将軍は――彼の甥にあたるが、年齢はわずか二歳の差があるばかりで、ことし四十三歳である。むろん、壮健である。
「しかも、御幼君はただひとりおわすのみ。ことしわずかにおん年六歳、その上、生来御病弱と承っておりまするが」
 頼宣はまた沈黙した。
 正雪がいった。
「そのときの天下の騒動、不安、動揺が眼にみえるようでござりまするな。……そのときにいたって、江戸、京、大坂を火の海と化し、紀伊大納言さま天下人とおなりあそばすむねの旗をかかげれば」
「なんと申す」
「いや、これはまだ夢想、幻想。……大納言さまにはただ泰山のごとくおかまえなされて、正雪の計成るをお待ち下されば、それにてよろしいのでござりまする」
「正雪――宗意軒」
 頼宣はあえいだ。
「実に途方もない大陰謀をたくらみおる奴ら、もし――もし――もし、それまでに事が発覚するようなことがあれば、余をいかにしようと考えておるか」
「もとより御自害のほかはござりますまい。左様におすすめ申しあげまする」
 宗意軒は冷然といって、きゅっと笑い、
「ただし、そのときは、大納言さまも魔界に|転生《てんしょう》なされませ」
「わしが――魔界に転生」
「それをなし得る者は、世にはざらにありませぬ。ここ十年あまりのあいだに、拙者の求め得た人材が、わずかに七八人、ということでも、お察し願えましょう。この正雪すら、その力はないのでござる。しかるに、大納言さまには――現世に深刻なる御不満をお抱きなされ、かつ、再誕するに足る絶大の御気力をお持ちあそばす。――めったにないこの条件を、大納言さまは珍しくもおそなえあそばします。また、それゆえに、われらが大納言さまをお力としたのでござりまするが」
 頼宣は肩で息をしていった。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:26:48 | 显示全部楼层
「わしが、いかなる女人によって再誕するか」
「殿。……惚れられた女人はござりませぬか?」
「なに?」
「腹の底から、いとし、可愛ゆし、是非ともこの女人と交合して再誕したいと思うておられる――そのような女人はござりませぬか?」
 頼宣は黙りこんだ。
 もとより彼には御台がある。これは加藤清正の娘で、元和三年、彼が十六歳、御台が十七歳のときに婚礼したもので、むろん典型的な政略結婚である。そのうえ、御台には幼いころわずらった|疱《ほう》|瘡《そう》のあとが、うすいあばたとなって残っていた。
「大納言さまの星を占いまするに――おん星が二つに割れております。ひとつは御長命の相、いまひとつは、やはり四五年後におけるおん死相。これは万一、事が破れたときの星でござろうか」
「…………」
「もし、大納言さまに――ただいま、それほどにおぼしめす女人おわしませねば、大納言さま、是非それまでにお探しなされませ。これは宗意軒よりも強くお願い申しあげまする」
「…………」
「左様なことのために、宗意、指を三本、まだ残しておりまする」
「指?」
「ごらんなされ」
 森宗意軒は、枯木のような両手を前につき出した。
 十本の指のうち、左掌の指は一本もなく、右掌の指が三本だけ、――中指、人さし指、親指だけが残っていた。
 あとはぜんぶ、ねもとから切断されて七つの黒ずんだ切口を見せているばかりだ。――いや、その中の一つだけは、この老人にこれだけ赤い肉があるかと奇怪に思われるような新しい切断面を露出しているが、ではおととい切ったか、数刻まえに切ったかというと、見わけのつかないぶきみな肉芽組織をひからせている。
「これほどの忍法を心得ながら、主人小西摂津在世のころから、なにゆえ使わなんだと御不審におぼしめされましょうが、拙者、日本古来の忍法は若きころよりいささか修行いたしましたなれど、この魔界転生のわざは存じませなんだ。左様なものは存在しなかったのでござりまする。しかるに、十年ばかりまえ――天草にひそみあるころ――はからずも一キリシタンの蔵の中より、西洋の|祈《き》|祷《とう》書、|卜《ぼく》|筮《ぜい》書、魔術書のたぐいを発見したのでござる。ギリシャ、イタリアなど申す国々に古くから伝わる『転身譜』『悪行要論』『妖術師論』『魔神崇拝論』『錬金術』『占星術』など――どうやら、バテレンのひそかに持参したるものを、そのむかし島原|加《か》|津《づ》|佐《さ》のコレジョ(切支丹大学)にて和訳印刷したものらしゅうござったが――拙者、これを読み、日本の忍法と熔合して、ついに魔界転生の秘技を独創いたしましたるは、実に島原の役の直前のことであったのでござりまする」
「……宗意、その指は?」
「すなわち、拙者が一念をこめたる一指を以て一女を御せば、たとえその指を切ろうとも、その女は、男一人、転生さすべき忍体と変りまする」
「指を以て、女を御すとは?」
「これは、おききなされても御無用のこと。それに、このわざをなすは、拙者をのぞいては、ただ天草四郎一人あるのみ。――四郎だけがその奥儀を体得しているからでござる」
 天草四郎とは、その素性ははっきりしないが、ともかく曾てはこの宗意軒が盟主と仰いだ人間である。しかもいま宗意軒は、それを弟子か下僕かのごとく呼びすてにしている。
「かくて、われわれは、いままで、七人の男を転生せしめました」
「…………」
「転生させ得る者は十人、すなわち、十本の指を以て算することのできる人数のみ。一指を断つ、一転生をなさしめる、そのたびに拙者のいのちは十分の一ずつ消磨いたし、この指すべて失せるときは、すなわちこの宗意の息絶えるときでござりまする」
「…………」
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:27:07 | 显示全部楼层
「その数少なきに似たれど、転生をなし得る男、転生させたき男は世にはさらに少なく、ただいまのところ、先刻申せしごとく、すでに転生せる男はわずかに七人」
 森宗意軒は陰々と語りつづける。
「さて、あとに残ったこの三本の指。……そのうち一本は、もうひとり転生さすべき男がこの世にござる」
「それは?」
 宗意軒はちらっと五人の男の方に眼をやった。
「それは――いかになんでも――いまこの座においては申さぬ方がよいようでござりまする」
 なぜか彼は、このとき実に皮肉なうす笑いをもらした。
「それにその男、是非とも転生させたき人物なれど――転生の条件のうちの一つ、この世における不平不満がその男の全身をやきただらしておるか否か――一見そのように見えて、果たして如何、という点になるといささかおぼつかなきところあり――これより、こちらからそれを探り、ためし、誘うべく渾身の力をそそいでみる所存でござりまするが。――」
 つぶやきながら、残った指のうち、まず中指を折った。
「もう一本は、大納言さまのおんために」
 上眼づかいに見て、
「殿、女人を求められませ」
 とまたいって、人さし指を折った。
「最後に残ったもう一本は、もとより拙者自身のため」
 といって、指をすべて折り終えて、この年のほどもしれぬ老人は、妖しくひかる眼を、かたわらの美しい三人の女にジロリと投げたが、すぐにその眼を頼宣にもどして、
「大納言さま、例の件、たとえ未然に発覚いたしましょうとも、この宗意軒一人生きてあらんかぎりは、――いや、宗意いちど相果てましょうとも――魔界に転生して、これを発覚せしめたる人間にたたりますれば。――」
 といった。
 その声が闇にしみ入るようにひくく消えていったのが、かえってぶきみな余韻を残した。あきらかに脅迫である。釘をさしたのだ、と承知しつつ、紀伊大納言頼宣は、そこに全身を凍りつかせたままであった。
 なんたる恐るべき老人か。また、なんたる恐るべきその弟子どもか。
「とはいえ、この宗意の出馬を待たずとも、わが弟子どもだけで……よし何事をなされましょうとも、大船に乗ったようにおぼしめせ」
 宗意軒はいって、正雪にあごをしゃくった。
「張孔堂」
「はっ」
「大納言さまを地上におかえし申せ」
「はっ」
「それからの、この五人の者ども、紀州へ御帰国の際、おん供できるように相はからえ」
「牧野兵庫にはからいまする。あれは、まことに紀伊藩におけるこの正雪のごとき御仁、話せば通じる人物でござれば」
 正雪は笑った。森宗意軒は最初のときのように、うやうやしく|平《ひら》|蜘《ぐ》|蛛《も》のごとく平伏した。
「では、大納言さま、しばらく、お別れ申しあげまする。おん旅、御機嫌うるわしゅう。……」
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:27:57 | 显示全部楼层
【七】

 紀伊頼宣と正雪と、そして五人の男が去ったあと――地底には森宗意軒と三人の女だけが残った。
 女の一人がいった。
「宗意軒さま」
「うむ。……」
「このたびのお企て、成るか成らぬか、星占いにははっきりと出ぬのでござりまするか」
「八卦見の八卦知らず」
 と、宗意軒は苦笑した。
「あるいは医者が、おのれの病のみたてはしかとつかぬと同様であろうか。わしのいのちにかかわることゆえ、それが|分明《ぶんみょう》せぬ。……しかし、星占いとはべつに、おそらく事は破れような」
「それは」
「正雪はそれを知らぬ。きゃつは、大納言さえひきずりこめば事は成ると思いこんでおる。……ふ、ふ、ふ。が、わしにとっては、事が成ろうが成るまいが、いずれでもよいことなのじゃ」
 彼はおちくぼんだ|眼《がん》|窩《か》のおくから、陰鬱な眼で三人の女を見やった。
「家光も死ね。頼宣も死ね。家康の血をうけた奴ら、骨肉|相《あい》|食《は》め。ただ徳川家にたたれば……われら小西の亡臣どもは、それを以て満足せねばならぬ。いや、それを無上のよろこびとし、そのためにこそわしは生き、そなたらも生きておるのではないか」
「はい!」
 と、三人の女たちは、うたうように答えた。
 ――してみると、この三人の女は、柳生但馬守を|転生《てんしょう》させた|唖《おし》娘と同様、亡家――もとよりその年齢から判断して、彼女たちが生まれるはるか以前に滅んだ小西家の――|呪《じゅ》|詛《そ》のみに生きている。そのように飼育された女たちであろうか。
「やがて、四郎から、如雲斎転生の報告がくるであろう。それをきいたら、そなたらのうち、ひとり、かねて申しつけてあるところへゆけ」
「はい!」
「その男を誘い、|堕《おと》すのだ」
「はい!」
「それが、この宗意軒にも実にえたいのしれぬ奴、|放《ほう》|蕩《とう》無頼、女が好きかと思えば、三十なかばになってまだいちども心そこ惚れた女を持ったことのないような男、一万二千五百石をみずから棒にふって、何か世を白眼視しておるかと思えば、のほほんとして、うれしげに空の雲ばかり見ているような男。……」
「ただし、きゃつの|定命《じょうみょう》も遠からず尽きんとしておる。星占いには、そう出ておる。もとよりきゃつは、それを知らぬ」
「…………」
「いずれにせよ、きゃつを魔界に転生させようとすれば、こちらもいそぐのじゃ。……きゃつの剣、きゃつの気性、魔人と変ずれば充分世を悩ますに足る資格充分じゃ。是非、きゃつを他の七人の仲間に加えたい。――」
「|天帝《ゼウス》に誓って!」
 と、三人の女はいった。
「その男を魔界に堕します。いいえ、魔界に転生いたさせまする」
 天帝がきいたら、おどろくであろう。しかし、三人の女の美しい瞳には、むしろ厳粛といっていい炎が燃えていた。あるいは彼女たちの教えられた天帝は、もとのかたちからはるかに変質した奇怪な神であったのかもしれぬ。
「クララ」
「わたしが参りまする」
「ベアトリス」
「わたしが参りまする」
「フランチェスカ」
「わたしが参りまする」
 もとより、いずれも洗礼名であろう。――眼を燃やしている三人の女を見わたして、宗意軒は苦笑した。
「みなゆく必要はない。わしのために、一人は残ってもらわねばならぬ。ゆくは、一人でよかろう。では、|籤《くじ》をひいてもらおうか」
「籤とは?」
「わしがいま、ここに残った三本の指のうち、一つの指をきめた。……それはどの指か、信じる指を、一人ずつ吸え」
 枯れ木のようにつき出された老人の指を、三人の女はじっと見つめ、やがて一人ずつ、それぞれ肉感的な口をちかづけていった。……
「人さし指じゃ」
 と、宗意軒はぬれた指を一本だけ立てていった。
「フランチェスカゆけ」
「はい!」
「ゆくときに、中指を切ってわたす。きゃつを堕したら……その指を四郎にわたせ。おまえが魔界転生の忍体に変わるのじゃ」
「はい!」
 ――フランチェスカなる女は、どこへいって、だれを魔界転生させようとするのか。
 よし、それがだれであろうと、すでに魔界転生した七人の大剣士にこれ以上何者を加える必要があろうか。
 思え。――
 荒木又右衛門。
 天草四郎。
 田宮坊太郎。
 宮本武蔵。
 宝蔵院胤舜。
 柳生但馬守。
 柳生如雲斎。
 加うるに、もし紀伊大納言頼宣が、好むと好まざるとに関せず、この陰謀に身を投ずるならば、もとより紀州五十五万石はその背景となる。
しかも、そのうしろには妖人森宗意軒がいる。その参謀ともいうべき|才《さい》|物《ぶつ》由比正雪がいる。さらに修羅に生きる三人のなまめかしい「忍体」がひかえている。
 さて、作者がいままで|縷《る》|々《る》[#電子文庫化時コメント 底本ルビ「るゝ」]として叙しきたったのは、「敵」の顔ぶれなのである。――いまやこの敵は編制を整え終わった。彼らを「敵」とするものに|呪《のろ》いあれ。この恐るべき超絶の集団を敵として、万に一つもいのちある者が、この世にあろうとは思えない。――

[ 本帖最后由 demiyuan 于 2008-5-8 15:29 编辑 ]
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:30:01 | 显示全部楼层
故山の剣侠


     【一】

 梅の木が多い。竹林が多い。茶畑が多い。
 あくまで日本的な風景だが、|綸《りん》|子《ず》頭巾をかぶり、羽扇をもち、|驢《ろ》|馬《ば》にのった蜀の軍師が通っていってもおかしくないような雅味がある。
 伊賀から越えて奈良の方へゆく、いわゆる伊賀街道。
 が、いまそこを歩いてゆくのは、むろんそんな南画めいた人物ではなく、木剣を二三本ずつ肩にかついだ四五人の若侍たちであった。侍といっても、粗野で、豪快で――中には袴もはかず、尻っからげして、毛ずねを出したままの奴もある。
「……いかにかんがえても無念だの」
「ふしぎでもある。柳生十人衆たるわれわれが太刀討ちできぬとは」
「柳生十人衆――というのは、こっちの自称だ」
 自嘲の声に、だれかが、
「自称ではないっ、この柳生谷界隈でだれしもが認めておったことだ。去年までは」
「つまり、あの娘御たちが来てからだ。やはり、おかしいなあ、あんなはたちになるやならずの娘たちに、われわれが子供あしらいされるとは」
「紀州藩切っての名剣士、木村助九郎、田宮平兵衛、関口柔心どのらの娘御ではあるが、――」
「では、剣法は、修行よりも血か。となると、われわれは絶望的にならざるを得んな」
「そもそも。……」
 と、ひとりが深刻に、
「あの娘御たちには――ひょっとすると、十兵衛先生もかなわぬのじゃあるまいか?」
 どっと笑った中に、
「いや、冗談ではない。あり得ることだ」
 と、まじめにつぶやいた奴もある。
「しかし、十兵衛先生とて、但馬守さまの御子息じゃないか」
「御子息ではあるが、その但馬守さまがお亡くなりなされても、へいきでこの柳生谷からうごかず、毎日鼻毛をぬいているような御仁だぞ」
「それはわれわれにとってかえってありがたい――と思っておったが、そういわれてみると、ああノラクラと昼寝ばかりしておられては、腕の方もどうにかなりはせんか。とにかくわれわれをろくに指南して下さらんのだから」
 嘆く声も、笑う声も、無念がる声も、懐疑する声も、いずれもしかし陽気である。二三人、すぐに元気を回復して、
「よしっ、きょうこそは」
 と、大きくうなずいて、みないっせいに足をはやめて、砂ぼこりをあげながら――街道を左に折れる。柳生谷に入る道であった。
 と、そこをさきにトボトボと歩いていたひとりの武家風の娘が、うしろから来たこの郷士たちを、いちどは道をよけて通したが、すぐに二三歩小走りに追って、
「もしっ」
 と、呼んだ。
 郷士たちはふりかえって、眼を見張った。
 菅笠も|脚《きゃ》|絆《はん》もほこりで真っ白になっているが、それでも若者たちの眼を射ずにはおかない美貌である。ただ疲れているのか、病んでいるのか、凄艶といったかげがある。
「……なんでござる?」
 ひとり、ごっくりと生唾をのんできいた。
「あの、柳生城へいらっしゃるお方でございましょうか」
「左様ですが」
「では……わたしなどが参りましても、柳生十兵衛さまにお逢いできましょうか? いいえ、おねがいでございます。わたしを十兵衛さまのお弟子にして下さいますよう、みなさまからお頼み申しあげて下さいまし!」
「ほう、あなたが、十兵衛先生のお弟子に。――」
「女人の身で、それはまたどうして?」
 口々にきくのに、女は思いつめたようなまなざしを宙にあげて、
「敵討ちでございます」
 と、いった。
「なに、敵討ち?」
 郷士たちは顔見合わせ、がやがやと騒ぎ合った。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:30:25 | 显示全部楼层
「それなら、十兵衛先生もいやとは申されまい」
「だいいち、顔だけはむっつりしていて、女にはばかに甘いからな」
「ちゃんと前例がある。――」
 ふと、ひとりが気がついて、急に心配そうに、
「ところで、あなたはいままでに剣法を修行なされたことがおありか」
「いいえ、修行などという大それたことはとても……その修行をさせていただくためにこの柳生をお訪ねして参ったのでございます」
「なるほど、いや、女剣士はちと懲りたことがござるでな」
 と、|安《あん》|堵《ど》したような、憮然としたような表情をする男に、
「あの、どなたか女で御修行をなすっていらっしゃる方がおありなのですか」
「ある、三人もな。おおそうだ、十兵衛先生より、その三人に手ほどきしてもらった方がよかろう。あれは、われわれよりも。――」
 と、いいかけて、
「ちと劣るとはいえ、女人を指南するにはちょうど適当だろう」
 うなずいて、
「ござれ」
 みな、先に立った。
 柳生谷に入ると、ふいに山国を歩いているような感じがする。五月の半ばすぎ――というと、いまの暦で六月中旬になるが、あちらこちらで鶯が鳴いている。しかし両側にせまる山や森などの風物よりも、ゆきかう領民たちの素朴で野趣をおびた顔や風俗が、いっそうそう思わせるのであった。
 柳生城が見えて来た。――城とはいうものの、むろん天守閣などいうしゃれたものはなく、吉野朝時代の|砦《とりで》をそのまま居館としたような|一《いっ》|郭《かく》であった。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:31:15 | 显示全部楼层
【二】

 柳生の庄は、平安の昔、奈良春日大社の社領であって、いわゆる柳生家の祖は、代々この地の奉行をしていたという。その後、この地を失ったりまた得たりしながらも、柳生家がほぼ柳生に定着したのは吉野朝の時代といわれる。
 しかしこれを名実ともに柳生谷の柳生として世に認めさせたのは、なんといっても戦国時代から徳川初期にかけて、三好、松永、織田、筒井、豊臣と、四辺の群雄からしっかとこの小国を守りつづけて来た石舟斎|宗《むね》|厳《よし》であって、柳生家でこの石舟斎を以って太祖とするのもむべなるかなである。
 石舟斎が五男宗矩を徳川家に、嫡孫兵庫を豊臣方の加藤家に託したというのも、彼のなみなみならぬ苦心と|炯《けい》|眼《がん》のあらわれであろう。
 そのもくろみは図にあたり、いまやこの柳生領は、幕府大目付、柳生但馬守の本領として、但馬守はほとんど帰国しなくても――いや、この三月の末、江戸で没したとつたえられても、ふかい青葉と鶯の声につつまれて、小高い丘の上に立つその居館を、不安げに仰ぐ領民はひとりもいなかった。
 それでも、一応は城門のかたちをした門に立つと、奥の方からいさましい無数の掛声がひびいて来た。しかも、それは透きとおるような少年の声であった。
 門番なんかいない。内部に入れば、あっちこっち塀の壁はおち、夏草はおいしげって、なんとなくここのあるじの無精な性格を思わせる。――
 旅の女は、郷士たちのあとにくっついて、奥へ入っていった。
 とある土塀のくぐり戸をあけて入って、彼女は眼を見張った。
 そこの庭で――三百坪ばかりの庭で、百人か、それ以上か、まるで小合戦みたいに乱れ合い、木刀で打ち合っている。
 それが大半は少年だ。中には七つ八つの幼児も、じぶんの背たけくらいの木刀をふりまわして、可憐なのどをしぼっている。それにまじって。――
「参ったっ」
「いま一本っ」
 ひときわ濁った胴間声はあきらかに大人だが、これが存外真剣である。
 娘をつれて来た郷士たちも、たちまちそこで、たすき鉢巻という身支度をして、
「おおおりゃあっ」
 大袈裟な声を発し、木剣をふるってその中へ駈けこんでいったが、ひとりだけは責任上、庭のふちを回って、母屋の縁の方へちかづいていった。
 その庭に面した縁には、猫が一匹座っていた。
「こちらへ」
 と、つれて上ると、横の縁にひとり寝そべっている人間があった。
 頬杖ついて、向こうむきになって――塀ごしに青い山と白雲を見ている。|煙管《きせる》をくわえているとみえて、煙がゆらゆら立ちのぼっている。
「先生」
 と、郷士はうしろでひざをついた。
「十兵衛先生」
「――あん?」
「お客人をおつれしました」
「だれだ」
「敵討ち志願のお方です」
「ふん」
「きいてみますると、藤堂藩のお方でござるが、この五月、父御を闇討ちにして伊勢の津を|逐《ちく》|電《てん》した者が相当な使い手、この敵を討つためには、石にかじりついても剣法を修行いたしたいと願っておりまするところに、たまたま音にきこえた柳生十兵衛先生がこの柳生谷に御滞在と承って、訪ねて参られたそうでござります」
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:31:41 | 显示全部楼层
「よしたがいい」
「は?」
「人間を闇討ちにしたというなら、よくよくの事情があるのだろう。それを敵討ちすれば、また向こうの恨みを買うことになる。きりのない話だ。よした方がいい」
「しかし、女人のことでもあり――」
「なに? 女?」
 はじめて、顔をこちらにむけた。
 年は三十なかばか、もうすこし越えているか。さかやきは蓬々とのびて、まるで素浪人のようだ。とうていこれが一万二千五百石幕府大目付の子息とは思えない。――いや、そういわれてみれば、彫刻的な顔の輪郭にそれらしい気品もないではないが、とにかくあまりにも無精ったらしい。同時に、それだけに男の匂いがむんむんとする。――柳生十兵衛であった。
 |隻《せき》|眼《がん》だ。右眼は糸のようにほそくとじられたままである。
 そのあいていた方の左の眼も、ほそくなった。笑ったのである。
「ほう。なかなか美人ではないか。……なぜいちばんさきにそれをいわん」
「はて、申しませなんだか」
「これほどの美女が敵討ち……どうも、そぐわんな。敵討ちとは合わん顔だな」
 旅の女の|蝋《ろう》のような頬に、さっと|一《ひと》|刷《は》|毛《け》血がのぼり、ひとひざにじり寄って、
「先生、お願いでござります。ふつつか者にはございますが、どうぞ。……」
「そのさしせまった息づかいもまたよろしい。なんの用であったかな。おお、敵討ち、敵討ちの指南と申したな。いや、心得た」
「え、先生、お引き受け下されまするか」
 こういったのは弟子の方だ。
「拙者どもは、わざわざ先生をわずらわせるまでもなく、拙者どもが――あるいはあの女人の三剣士、お縫、おひろ、お|雛《ひな》どのでも、手ほどきを――」
「鼻の下のながい奴らだ。――おれが仕込んでやろう」
 どっちが鼻の下がながいかわからない、と弟子はほっぺたをふくらませた。じぶんなどは、まだ手ずから十兵衛先生の伝授を受けたことがない。
「よし、わかった。おまえはあっちへゆけ。しっ」
 十兵衛は弟子を追っぱらって、やさしい声で、
「名は何と申される」
 もっとも、ふいに意気ごんだようで――からだだけは、最初の通り、ごろんと寝そべったままだから、横着なものである。
「藤堂藩士倉知伝右衛門の娘、お蝶と申しまする」
「まあ、こっちへ来られい」
 お蝶はややためらったが、願いのこともあるのであろうか、おずおずと傍へすり寄って来た。背後では、例の百数十人の大人子供たちのさかんな矢声掛声がどよもしている。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:32:02 | 显示全部楼层
十兵衛はもう向こうむきになって頬杖をついたまま、依然として煙管をくわえている。それっきりだまっているので、
「ほんとうに、わたくし、ここに来てようございました。これほどお手びろく剣法を指南していらっしゃろうとは。……」
「おれが一ことも口を出したことはないのだよ」
 と、十兵衛は憮然としていった。
「いつのまにやら、子供たちが集まって来て勝手にやり出したのがもとだ」
「まあ。……では、十兵衛さまはいちども御指南なされたことがないのでございますか」
「ときどき、女だけは見てやることもあるが」
 また笑ったようだ。
「おれは、男を教えるより女を仕込む方がうまい」
「女と申されますと……あそこには見えぬようでござりまするが」
「なに、知り合いの紀州藩士の娘たちだが」
 と、ちょっと首をうしろにねじむけて、
「なるほど、いないようだな。飯のしたくでもしておるのだろう」
 煙草をくゆらせて、
「これが、なかなかばかにならん。存外、すじがいい。すじがいいのは、おやじ連がみなえら物だからあたりまえで――いまおれは女を仕込むのがうまいといったが、ひょっとしたら、おれもかなわんかもしれぬ――と、男の弟子どもはいっておるようだな。うふん」
 と、けむりを輪に吹いた。
「男弟子の中でな、柳生十人衆と自称しておる連中がある。みんな、その三人の女剣士の弟子だよ」
「……左様でございますか。では、わたしは――」
「おれが仕込んでやるといったが、よくかんがえてみると、剣法に関するかぎり、その女どもを師匠とした方が上達がはやいかもしれん。そもそも、おれはこのごろむやみに肩が凝ってな」
「お肩が凝る。――何か、なされたのでございますか」
「何もせんので肩が凝る」
「――は?」
「三四年、寝ころがっておってごらん。だれでも肩や腰が凝る」
 ちらっとこちらをむいた。まじめな顔である。
 この十兵衛は冗談ともまじめともつかぬことを、顔だけはしごくまじめにいう男らしい。
「お蝶どの――であったかな」
「はい」
「おれに弟子入りしたかったら、|束脩《そくしゅう》がいるよ」
「それは、|些少《さしょう》ではございますが、用意して参りましたが。……」
「いや、銭はいらん」
「――と、仰せられますと」
「おまえさんのからだをつかって礼をしてもらいたい。……十兵衛のところへ弟子入りする女人には、みなそうしてもらうことになっておる」
 お蝶はだまりこんで、このとんでもない授業料を要求する新しい師匠を見つめた。十兵衛はまたたくましい背を見せている。
 お蝶の眼がしずかにひかり出した。無理難題を強いられてやむを得ず決心したというより、もっと内部から咲き出した花のようになまめかしいひかりであった。
 彼女はさらにいざり寄った。
「腰をもんでくれ」
 と、十兵衛は眠たげにいった。
「――は?」
「そういうことだ」
 お蝶の表情に波が立った。――十兵衛がからだをつかって礼をしろといったのは、そんな意味であったのか。そうと知ったとき、お蝶の顔に立った波は、笑いよりも怒りであった。
「こうでございますか」
 しかし、彼女は従順に、十兵衛の腰をもみはじめた。
「うむ。うむ。そこだ」
 十兵衛はきもちよさそうにうなる。
「そなた、思いのほかに上手ではないか。剣法より、|按《あん》|摩《ま》をやった方がいいのではないか」
「父の……腰をよくもませられましたから」
「あ、そうか、敵討ちの用もあったな。……」
 と、いったが、それっきりである。いつしか煙管のけむりは消えて、十兵衛はうとうととしているらしい。
 五月のなかばすぎといえば、もう夏にちかいが、この山国の柳生谷では――この城の中でも、鶯が鳴いている。いい季節だ。
 お蝶の手は、十兵衛の腰のあたりを白い蛇のようにはった。向こうむきの十兵衛を例の妖しくひかる眼で見すえて、ときどき美しい唇をすぼめて、ほっ――と吐息を吹きおくる。息には|甘《うま》|酒《ざけ》のような匂いがあった。
 突如として、お蝶は横にはねとんだ。
 背後からそのあとに、一本の木剣がびゅっと飛来して、横たわった十兵衛のからだすれすれに庭へ飛びすぎようとする。――それが、空中で、がっきととまった。
 向こうむきのままの十兵衛が左手をあげてそれをひっつかんだのである。
 お蝶はすっくと壁ぎわに立っていた。
 座敷の中にいつのまにかならんで座った三人の娘が、眼をみはって、これを見た。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:32:36 | 显示全部楼层
【三】

 木剣を投げたのはだれか。――その角度からみて、その三人の娘のうちのだれかに相違ない。三人、どれも花のように美しいのに、|肘《ひじ》までの|襦《じゅ》|袢《ばん》をきて、男みたいに|袴《はかま》をはいていた。
 しかも、その瞬間、もっとも驚愕したのは彼女たちであったろう。
 頬杖ついてうとうととまどろんでいる柳生十兵衛、その腰を、これまた何やら恍惚状態におちいってまさぐっている女。――その女の背めがけて投げつけた木剣は、みごとに女にかわされ、十兵衛の手につかまれたのだ。
 壁ぎわに身をひるがえして立った女を見て三人、はっとして立とうとする。
「待て」
 と、十兵衛がいった。
「なんで、そんなまねをした」
 三人の娘はだまりこんでいたが一息おいて、ひとりがいった。
「伊勢の津から来たという仇討志願の女人のこと、いま磯谷千八どのから承りました。この柳生谷へ修行にくるほどのおひと、どれほどの覚悟か、ちょっとためしてみたのです」
「うそをつけ、お|雛《ひな》」
 べつのひとりがいった。
「いまここで見ておりますと、その女人のそぶり、とうていそのような覚悟で来たおひとの所作とは思えませぬ。それで、ちょっと戒めのためにお雛どのが」
「うそをつけ、おひろ」
 十兵衛は、つかんだ木剣を抱いたまま、ゆっくりこちらをむいた。
「やきもちだろう」
「まあ!」
 と、もうひとりの娘が頬を染めてさけんだ。
「うぬぼれていらっしゃいます、十兵衛先生」
「そうかな、お縫」
 十兵衛は笑って、それから眼を旅の女に移した。
「何も修行する必要はないじゃないか」
 いま、木剣をかわした一刹那の早わざのことをいったのだ。
 壁ぎわの女――藤堂藩士の娘お蝶と名乗った女は、もともと白蝋のような顔だったのが、さらに蒼白になっている。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:32:58 | 显示全部楼层
彼女はしくじったのだ。ふいに飛んで来た木剣をかわしたことでしくじったのだ。それはほとんど本能的な反射行為であっただけに、彼女自身どうすることもできない自己暴露であった。
「正体は何だ」
 と、起きなおって、十兵衛がいう。笑ってはいるが、のがれることのできない目であった。
「いったい何しに来た?」
 そして、ついに声をたてて笑った。
「おれに惚れたか。――お縫、おまえさん、おれをしょってるといったが、この女、さっきからしきりにおれを誘惑しておったぜ。もっともおれも、女の誘いにはすぐ眼じりを下げる方だが。――」
「…………」
「それにしても、男と女、おたがいにいいきもちでウットリとしておるところへ、ふいに木剣を投げるとは、どうも殺風景な娘どもだな」
 十兵衛がちらと三人の娘の方を見てそういい、これに対して三人の娘が何かいいかけて――その六つの眼が、またはっと大きく見ひらかれた。
 旅の女が、ヨロヨロとその前にあゆみ出して来たのである。
 そのまま、十兵衛と三人の娘を無視したように、両者のまんなかを通って、例の百数十人の少年たちが野試合をしている庭の方へ下りてゆこうとする。野試合をしている連中は、この座敷の異変に全然気がついていないらしかった。
「お待ち」
 思わず気をのまれて、見送っていた三人の娘が、はっとわれにかえって立ち、お雛とおひろが追いすがって、その娘の両袖をとらえた。
 とたんに、その女はたたみの上に、ばさと|崩《くず》|折《お》れてしまったのである。――ただ、一塊の衣服と化して。
「あつ」
 足もとに横たわっているのは、ただきものだけで、人の姿はなかった。
「女はこっちだ」
 十兵衛のさけぶ声がした。
 三人の娘は、十兵衛が木剣をにぎったまま、おどり立って壁の前に立つのを見た。
 壁の前には、何者の影もなかった。――しかし、十兵衛はその寸前に見たのだ。あの女がいつのまにか一糸まとわぬ白蝋の裸体となり、その裸身が透きとおったかと思うと、すうと壁に消えこむのを。
 それは一種の保護色ででもあったろうか。いや、そうではない。それ以上であった。
「忍者だな」
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:33:16 | 显示全部楼层
 そうさけびながら、十兵衛は木剣でその壁に、直径人の背たけほどもある円をえがいた。木剣のさきは、まるで|鉄《てっ》|尖《せん》で彫ったような|条痕《じょうこん》を壁に残した。
 ――と、何もないその壁から――円の中央、ややその上部から、タラタラと血がながれ出し、二条三条にわかれて下につたいおちた。
 それっきりだ。
 十兵衛と三人の娘は、凝然としてその壁をにらんでいたが、この奇怪な血をしたたらせたまま、壁は寂としてしずまりかえっていた。
「……ううむ」
 と、ややあって十兵衛がうめいた。
「奇怪な奴だ。……壁に消えてしまった!」
 これまた、それっきり四人は、|茫《ぼう》|乎《こ》として壁の前につっ立ったきりだ。……庭の矢声も別世界の|潮《しお》|騒《さい》のようにきこえる。座敷を吹きわたっていた南風も、このときとろんと息をとめたかと思われた。
「……これは、どうしたことでございます?」
 と、お雛がのどのつまったような声でいった。
「忍者だな。のがれられぬと知って、舌をかみ切って死んだとみえる」
「いえ、このような女が、どうしてここへ来たのでございます」
「だからよ、敵討ちのための剣法修行に。……」
 といいかけて、この際に十兵衛はにやっと笑った。
「というのは嘘だな。おれもはじめから、眉に唾をつけて見ておった。……で、腰をもませてみると、どうも様子がおかしい。まったくおれに惚れて、誘いに来たかと思った」
 肩をすくめて、
「それがこれほどのわざを心得た忍者だとは、想像もせなんだぞ。いや、おどろいたものだな」
「このような忍者……とやらに、先生はつけ狙われるお覚えがあるのですか」
 と、お雛はさらに切りこむ。
「そんな覚えはあるものか。……とはいうものの」
 十兵衛は首をかしげて、つぶやくように、
「不徳のいたり、いままでずいぶん要らざる殺生を重ねたおぼえはあるから、この首狙う者があってもおどろくには足りんが、しかし女忍者に狙われるとはなあ。いや待てよ、狙われるといっても、いまの女に、殺気はなかったぞ」
 また、にやりと笑った。
「やっぱり、おれに気があったのだよ。女忍者とて、惚れッ|気《け》はあろうが」
「それでは、のがれられぬと知って、なぜ……女が自害したのでございます?」
「や、そういわれると」
 十兵衛は頬をかいた。
「なるほど面妖だな。つかまえられて白状させられることを怖れた――とでもかんがえるか。すると、いまの女の背後に、何か容易ならぬことがひそんでいそうにも思われる。といっても、正直なところ……いま、おれには思いあたるところがない。わからん。だいいち、いまの女、はたして死んだものやら逃げ去ったものやら、それもはっきりせん。まったくこりゃ、狐につままれたような事件だぞ。いまの女、ありゃ、白狐の化けたものではなかったか?」
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:33:39 | 显示全部楼层
【四】

 ……遠い柳生城の崩れた石垣の外に、ひとりの六部がもたれかかり、両足投げ出して座っていた。まるで南風の中に居ねむりでもしているようだ。
 しかし彼は、耳に一個の|法《ほ》|螺《ら》貝をあてていた。
 ちょうど、城内で、壁から血がながれおちたのと同じ時刻である。その法螺貝がささやく声を、彼だけがきいた。
「……フランチェスカお蝶、ここに|殉教《マルチリ》をとげまする」
 それっきりだ。
 六部は顔をあげて、しばらく凝然として、ひかりのみちた空をにらんでいた。これはたしかに、あの天草四郎であった。
「死んだか」
 と、つぶやいた。吐き出すように、
「ばかな奴だ。いったい、どうしたんだ?」
 フランチェスカお蝶。――そういえば、江戸の由比屋敷の地の底で、森宗意軒から、「そなたらのうち、ひとりかねて申しつけてあるところへゆけ。――その男を誘い、|堕《おと》すのだ」と命じられた女の切支丹名を、たしかフランチェスカといった。
 してみれば、かねて申しつけてあるところとはこの柳生谷で、その男とは柳生十兵衛であったとみえる。森宗意軒の八本目の指でさし示した犠牲者、いや「魔界転生」することを望まれた八番目の剣鬼は彼であったとみえる。
 かくてフランチェスカお蝶は柳生谷にやって来た。そして柳生城に入って、実に一刻もたたぬうちに。――
「死んだか。……いったい、どうしたんだ?」
 と、介添え役の天草四郎が|嗟《さ》|嘆《たん》したほどあっけなく、はかなく落命した。
 彼女はいったん壁中に逃げかくれようとしたものの、ついにのがれられぬと知って、秘密を保つために、断末魔の声を四郎に送って死んだのである。四郎の持つ法螺貝は、常人にはきくことのできぬ音波をきくことのできるものらしい。――
 これは、完全にフランチェスカお蝶のいさみ足であった。
 彼女としてはまず十兵衛を誘惑するのが第一の目的で、それがそうたやすく事が運ぶものとは予想していなかったろう。それなのに、十兵衛があまりにもだらしなく、彼女を見るやいなやたちまちよだれもたらさんばかりの状態になったから、思わず知らず、その好機に乗じようとした。――
それはいいとして、このときまったく思いがけなくほかから投げつけられた木剣を反射的にかわしたことで、彼女はみずから死地におちてしまったのだ。
 そこまでは、天草四郎にもわからない。――
「……ううむ、案の定、ひとすじ縄ではゆかぬ奴」
 と、宙をにらんで、きりっと歯ぎしりの音をたてたのは、むろん柳生十兵衛に対してだが、これは買いかぶりか。――それとも、この日以後の大死闘をはやくも見ぬいた本能的な恐るべき予感であったか。
 彼は立った。
 |錫杖《しゃくじょう》をついて歩き出した姿には――その凄艶な若い顔には、妖しい殺気さえ浮かんでいる。いや、その殺気につきうごかされて、じぶんでもどうすることもできないような足どりで、彼は城門の方へ回っていった。
 ――と、門ちかくの樹蔭で、彼は立ちどまった。
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