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正冈子规7

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发表于 2011-4-23 10:24:21 | 显示全部楼层 |阅读模式
期せずして同人が六、七人先生の枕頭に会した。三並良氏(先生の従兄弟)が久し振で訪ねて来た。先生の機嫌が好かつた。其の時は先生が墨汁一滴(?)に自力他力の問題を書いた時なので哲学者の三並氏も気持よく先生と談論した。其れから間もなく三並氏は暇を告げて起ち上つた。
「良さん!」
 突然先生の叫び声が聞えた。同時に先生は声を挙げて泣き出した。僕等は只々驚いてどうしたのかと怪しむばかりであつた。三並氏は棒立になつたまゝ動かない。一座は全く悽然としてしまつた。すると先生は泣きながら言つた。
「もう少し居ておくれよ。お前帰るとそこが空つぽになるぢやないか」
 これですつかり解つた。同人靄々として団欒して居たものが、一人でも欠けると座敷が急に穴が明いた様に調和が乱れる。其れが先生には堪らない苦痛であつたのだ。三並氏は座に複した。ものの十分も経てから先生は晴やかに言つた。
「もういゝよ良さん。帰つてもいゝよ」
 三並氏の眼鏡の底が涙に光つて居た。
佐藤紅緑「糸瓜棚の下にて」
昭和9年9月
 臨終前には大分足に水を持つてゐた。其処で少しでも足を動かすと忽ち全体に大震動を与へるやうな痛みを感じたので其叫喚は烈しいものであつた。居士自身許りで無く家族の方々や我々迄戦々兢々として病床に持してゐた。
 居士は其水を持つた膝を立てゝゐたが、誰か其を支へてゐるものが無いと忽ち倒れさうで痛みを感ずるといふので妹君が手を添へてをられたが、其手が少しでも動くと忽ち大叫喚が始まるのであつた。或時妹君が用事があつて立たれる時に余は代つて其役目に当つた。其頃の居士は座敷の方を枕にしてゐたので――臨終の時の姿勢も其時の通りであつた――いつも座敷に坐つてゐた我等は暫く居士の顔を見なかつたのであつたが、其いたましい脚に手を支へ乍ら暫くぶりに見た居士の顔は全く死相を現じてゐたのに余は喫驚した。
 臨終に近い病人の床には必ず聞こゆる一種の臭気が鼻に突いた。大小便を取ることも自由でなかつたので其臭気は随分烈しかつた。
「臭いぞよ。」と居士は注意するやうに余に言つた。
「其程でも無い。」と余は答へた。
 左の手で、仰臥してをる居士の右脚を支へるのであつたがぢつと支へてゐるうちに手がちぎれさうに痛くなつて来た。けれども其余の手が微動をしても忽ち大震動を居士の全身に与へることになるのだからぢつと我慢してゐなければならなかつた。其は随分辛かつた。其上根岸は蚊が名物なので、さうやつてゐる手にも首筋にも額にも蚊が来てとまる、其を打つことも払ふことも出来無いので大に弱つた。其時居士は斯んなことを言つた。
「脇の修行が出来るよ。」と。其は微動もせずにぢつと端坐してゐるのが、能の脇の修行になると戯れたのであつた。其頃余も碧梧桐君も宝生金五郎翁の勧めに従つて脇連などに出てゐたのであつた。
 前の臭いぞよ、と言つた言葉も、此脇の修行が出来るよ、と言つた言葉もすこし舌がもつれて明瞭には響か無かつた。けれども十分に聞き取れぬ程ではなかつた。
高浜虚子「子規居士追憶談」
大正4年3月
 先づ大体に申せば子規の人物は一面には非常に小心にして細かく気が付いて、些かの事にも神経を煩はすと云ふ風があり、他の一面は非常に大胆にして周囲の人を物の数ともせず、進んでは古今に亘つて眼中に人なしと云ふ意気を持て居た。此二つが合してあのやうな子規を成就したというてもよからうと思ふ。細心であつたから調査することは何事によらず、細かに調査してかりそめな事をせず、充分に突き止めてから口を開くと云ふ風であつた。又大胆にして人を人と思はなかつたから古人の糟粕を嘗めず、常に新意見を持ち出して一種の達見を世に示すと云ふことにも至つたのである。即ち明治の俳句を唱へ出して今日の盛況に至らしめたのも全く夫れが為めである。然し他の一面の弊としては人を容れると云ふ量は乏しくて何処までも我意見で通して了ふと云ふ風であつたから其俳句の上に就ても皆吾旗下に打ち靡けて了はねば置かんといふので、一歩たりとも譲歩して人と共に並んで遣つて行かうと云ふ考はなかつた。けれども幸にも時が恰度彼と並ぶべき英雄と云ふ程の者を出さず、両雄並び立たずと云ふことがなく、子規独り其の成功をほしいままにすることが出来たのである。若し他に子規と同じ位のものがあつたなら、必ずや火花を散らして戦つたであらうと思ふ。其証拠は今人には彼の相手とする程のものがなかつたが、古人には誰にでも喰つてかゝつた。芭蕉などの如きも一時随分子規に軽蔑的批評を蒙つたことがあつた。蕪村のみは彼の悪評を比較的免れたが、これは蕪村の非凡の天才に我を折る所があつたからであらう。が又人を攻撃すると同時に人の長所をも見別けることが出来た。長所を没して単に攻撃ばかりすることはせなかつた。長所は長所として短所に向て攻撃した。だから吾々は彼の批評を不公平とは見なかつたが只攻撃が少し苛酷に過ぎたと思ふことはあつた。
内藤鳴雪「正岡子規の人物」
明治40年9月
 彼は僕などより早熟で、いやに哲学などを振り廻すものだから、僕などは恐れを為していた。僕はそういう方に少しも発達せず、まるでわからん処へ持って来て、彼はハルトマンの哲学書か何かを持ち込み、大分振り廻していた。尤も厚い独逸書で、外国にいる加藤恒忠氏に送って貰ったもので、ろくに読めもせぬものを頻りにひっくりかえしていた。幼稚な正岡が其を振り廻すのに恐れを為していた程、こちらはいよいよ幼稚なものであった。
 妙に気位の高かった男で、僕なども一緒に矢張り気位の高い仲間であった。ところが今から考えると、両方共それ程えらいものでも無かった。といって徒らに吹き飛ばすわけでは無かった。当人は事実をいっているので、事実えらいと思っていたのだ。教員などは滅茶苦茶であった。同級生なども滅茶苦茶であった。
 非常に好き嫌いのあった人で、滅多に人と交際などはしなかった。僕だけどういうものか交際した。一つは僕の方がええ加減に合わして居ったので、それも苦痛なら止めたのだが、苦痛でもなかったから、まあ出来ていた。こちらが無暗に自分を立てようとしたらとても円滑な交際の出来る男ではなかった。例えば発句などを作れという。それを頭からけなしちゃいかない。けなしつつ作ればよいのだ。策略でするわけでも無いのだが、自然とそうなるのであった。つまり僕の方が人が善かったのだな。今正岡が元気でいたら、よほど二人の関係は違うたろうと思う。尤も其他、半分は性質が似たところもあったし、又半分は趣味の合っていた処もあったろう。も一つは向うの我とこちらの我とが無茶苦茶に衝突もしなかったのでもあろう。忘れていたが、彼と僕と交際し始めたも一つの原因は、二人で寄席の話をした時、先生も大に寄席通を以て任じて居る。ところが僕も寄席の事を知っていたので、話すに足るとでも思ったのであろう。それから大(おおい)に近よって来た。
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