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楼主: CSVGF

『文化大革命』日语版

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 楼主| 发表于 2006-2-8 19:16:42 | 显示全部楼层
1 紅衛兵──権力闘争に利用された若者たち

知識人の「自己批判」

六六年春の時点で中国の政治的環境がいかに緊張していたかの一例は、郭沫若の「自己批判」によって、その一端が知られる。六六年四月一四日に行われた全国人民代表大会常務委員会拡大会議の席上、彼はこう発言して皆を驚かせた。

今日の基準からいえば、私が以前書いたものにはいささかの価値もない。すべて焼き尽くすべきである。 

私はもう七〇歳であるが、泥にまみれ、油にまみれたい。いや仮にアメリカ帝国主義がわれわれを攻めてくるならば、血まみれになって手榴弾を投げつけたい(『光明日報』六六年四月二八日、『人民日報』五月五日)。

中国科学院院長として中国知識界の頂点に立つ人物、しかも日本にもなじみの深い郭沫若の爆弾発言は日本にも大きな衝撃波となって押し寄せてきた。作家三島由紀夫、阿部公房らは文化弾圧に抗議声明を発した。声明の起草者は三島であり、『全集』第35巻に収められている。

紅衛兵の登場

緊張が極度に高まるなかで凝縮されたかのように、文化大革命の申し子ともいうべき紅衛兵(原文=紅衛兵)が北京に誕生したのは五月下旬のことである。『中国現代史詞典』(李盛平主編、中国国際広播出版社、一九八七年)に「紅衛兵運動」はこう説明されている。“文化大革命”期に林彪、江青反革命集団に利用された全国的な青年学生運動である。紅衛兵は一九六六年五月下旬北京に現れ、まず首都の青少年の間に紅衛兵運動が起こった。ごく少数の悪質なリーダーを除けば、圧倒的多数は党と毛沢東への信頼から天真爛漫に自分たちは“毛主席を防衛し”“反修防修”の闘争に参加するものと考えていた。毛沢東は青年学生を“文化大革命”を全面的に展開する突撃勢力と考え、同年八月一日清華大学付属中学紅衛兵に手紙を書いた。彼らの行動は“反動派に対する造反には道理があることを示すもの”とその“造反”に支持を表明した。ここから紅衛兵運動は迅速に全国に発展した。八月一八日、毛沢東は軍服を着て紅衛兵の腕章をつけて、天安門で全国各地から来た百万の紅衛兵と人民大衆を接見し、再度紅衛兵運動を支持すると表明した。\

九月五日、中共中央、国務院は「外地の革命的教師学生が北京に来て文化大革命運動を参観するのを組織することについての通知」を発して以後、全国各地の教師学生が“授業をやめて革命をやる”(原文=停課閙革命)ようになり、全国的な大経験交流(原文=大串連)が始まった。一一月二六日までに毛沢東は前後八回全国各地から来た一三〇〇万人の教師学生と紅衛兵を接見した(三六五頁)。

以上の記述から、紅衛兵が青年学生運動であること、毛沢東の呼びかけに応えて社会主義を防衛するために立ち上がったこと、毛沢東が天安門上から接見した紅衛兵の数が一三〇〇万人の多きにのぼること、など紅衛兵についての基本的事実は理解できよう。

しかしなんとも味気ない説明ではある。理想に燃えた青年たちの運動がここでは、いわば燃えカス同然の姿で描かれている。これを読んでやりきれない思いにとりつかれているときに、八九年四~六月の民主化「動乱」が勃発した。民主化「動乱」とは、奇妙な言い方だが、学生たちは「愛国民主の学生運動」と自称し、政府側は「動乱、ついには暴乱」と断定して、八九年六月三~四日、武力鎮圧に踏み切った。

この圧倒的なデモの隊列をテレビ画面で見つめ、私はかつての文革当時の興奮を追体験し、あれやこれやの当時の印象を鮮明に反芻した。

高揚する文革の気運\

前述のように一九六六年八月一八日、天安門広場で文化大革命を祝う百万人の集会が行われた。このなかに数万の紅衛兵が参加して注目を集めた。二日後の八月二〇日、北京の紅衛兵たちは四旧の打破を叫んで、街頭に繰り出した。北京の銀座通りともいうべき王府井のデパートや宝石店、クリーニング店、写真館などの看板をとり外し、東方紅、紅旗、北京、文革などの革命的看板に取り替えた。彼らは非革命的な名称を旧文化、旧風俗だとして打倒しようとしていた。街は大字報や修正主義批判ビラに溢れ、三角帽子(原文=戴高帽子)をかぶせられた実権派(原文=走資本主義道路的当権派)、反革命分子が引回しされる姿も随所で見られるようになった。この際に「ジェット機を飛ばす」(原文=(手高)噴気式)形が強制されることも少なくなかった。紅衛兵たちはまた実権派の自宅に押し掛け、家宅捜索(原文=抄家)をやり、反革命資料なるものを持ち去った。ついでにブルジョア的なものを戦利品として持ち去ることも少なくなかった。紅衛兵から造反の対象とされた実権派は職務を外され(原文=靠辺站)、牛小屋(原文=牛棚)に押し込められたり、便所掃除などの屈辱的な仕事を押しつけられた。

たとえば文学者の老舎は、たまたま作家協会の責任者(北京市文聨主席)であったために、つるし上げ(原文=批闘)の対象とされ(八月二三日)、二日後に死体で発見される事件も起こった。老舎のほか、作家の趙樹里、京劇俳優の周信芳なども迫害のなかで死んだ。紅衛兵の街頭行動はまもなく上海、天津、杭州、南京、武漢、長沙、南昌など全国各地に急速に拡大した。

「造反有理」のスローガン

中共中央、国務院はこの紅衛兵運動を支持し、九月五日「各地の革命的学生が北京を訪れ、革命運動の経験交流を行うことについての通知」を出し、汽車賃を無料とするほか、生活補助費と交通費を国家財政から支出する方針を決定している。

こうして授業をやめて革命をやる運動(原文=停課閙革命)と全国的な経験交流(原文=串連)が始まった。六六年一一月下旬までに、毛沢東は天安門楼上から八回の紅衛兵接見を行い、全国各地から北京を訪れた計一三〇〇万人の若者たちを激励した。無賃で天安門参りをした紅衛兵たちは、故郷に帰るや「造反有理」のスローガンを武器に、まず学校でついで地方各級の党委員会に造反した。

紅衛兵はなぜ造反に立ち上がったのであろうか。ある紅衛兵は「父母への公開状」のなかで、こう書いている。

十数年来、あなたたちは優遇されて、長いこと事務室から出ませんでした。あなたたちの“もとで”はとっくに使いきっているのです。あなたたちの革命的英気は、とっくに磨滅しているのです。労働人民から隔たることあまりにも遠いのです。事務室を出て、大衆運動の大風浪のなかに来て、あなたたちの頭を入れ替え、体の汚れを洗い落とし、新しい血液を注ぎ、徹底的にこのような精神状態を改めるべきです。そうでないと、この大革命のなかで淘汰されることになるでしょう(『人民日報』六六年八月二六日)。

これは中央直属機関に勤める父母をもつ紅衛兵の手紙である。恵まれた高級幹部の子弟であろうと推測される。彼らは社会主義の理想、文化大革命の理念を文字通りに素直に理解し、この理想に照らして、現実の中国に存在する負の現実を厳しく批判したのであった。ひとつはやり言葉を紹介しよう。「鳳凰から鳳凰が生まれる。ネズミの子に生まれたら土を掘るばかり」。中国社会主義のもとで、特権幹部の子と庶民の子との間には、龍とネズミほどの運命の差があるという風刺である。

紅衛兵の天下

北京の紅衛兵が旧文化、旧思想、旧風俗、旧習慣(原文=四旧)の打破を叫んで街頭へ初めて繰り出した八月二〇日を契機として、赤い八月が始まった。六六年末には紅衛兵運動がピークに達した。やがて造反の主流が労働者にとって代わられるようになるまで、六六年後半から六七年は紅衛兵の天下であった。

紅衛兵に襲撃され、北京市内の各教会が破壊され、外国藉の尼僧は国外へ追放された。カラフルなスカートや旗袍を身につけた女性は鋏で切り裂かれただけでなく、時には陰陽頭(頭髪を半分だけ剃り落とすもの)にされた。粤劇の女優紅線女もこの辱めを受けた。紅衛兵はまたソ連大使館のある通りを反修路、東交民巷を反帝路と改称し、北京の銀座といわれる王府井大街はまず革命路、ついで人民路と改められた。ついには赤は良い色であるから、赤信号で前進すべきであり、青信号で停止すべきだとする主張さえ登場した。しかもこれらは各紅衛兵組織が勝手にやるものであるから、混乱は必至であった。ロックフェラー資金で建設された協和病院は反帝病院、ついで首都病院と改称された。ペキン・ダックの全聚徳は北京(火考)鴨店となった。紅衛兵はまた反革命修正主義分子の家を勝手に捜索し(原文=抄家)、胸にプラカードを下げさせ、頭に三角帽子をかぶせて、街頭を引き回した。なかでも彭真(北京市長、政治局委員)の引回し姿を写した写真は外国の新聞にも報道され、衝撃を与えた。

鄧拓(一九一二年~一九六六年五月一八日)は自殺した。呉han (一九〇九年~一九六九年一〇月一一日)は、獄死した。呉晗の妻袁震は病弱であったが、反革命の家族として労働改造隊に送られ、六九年三月一八日死去した。長女呉小彦は一九七六年九月二三日自殺した。結局四人家族のうち長男呉彰だけが生き残った。この種の悲惨な例は少なくなかった。党内では、延安時代に毛沢東秘書を務め、彭徳懐事件に連座した周小舟が自殺し、さらに文革直前まで毛沢東秘書を務めていた田家英も自殺している。

紅衛兵の分裂

紅衛兵は元来は毛沢東の唱える文化大革命のイデオロギーに共鳴して立ち上がったものだが、やがてある派閥は中央文革小組に操縦され、他方はこの指導を受け入れず、むしろ実権派を擁護し、対立するようになった。北京の大学生からなる政治意識の高いグループは、聶元梓(北京大学「新北大公社」)、カイ大富(清華大学「井岡山兵団」)、韓愛晶(航空学院「紅旗戦闘隊」)などをリーダーとする天派と王大賓(地質学院「東方紅公社」)、譚厚蘭(師範大学「井岡山公社」)をリーダーとする地派に分裂して、武闘を繰り返した。W・ヒントンは清華大学における内戦さながらの一〇〇余日間の武闘を活写している。実権派打倒のためには彼らのエネルギーを利用した毛沢東は、頻発する武闘に手を焼いて、六八年七月二八日早朝、これら五人の指導者を呼びつけ、引導を渡した。曰く「君たちを弾圧している“黒い手”は実は私である」(『万歳』六八七頁)。

こうして毛沢東から見てその利用価値のなくなった紅衛兵たちは、農村や辺境へ下放させられることになった。その後の紅衛兵の姿の一端を描いてみよう。

混乱する教育機関

一九六七年春には、中共中央は外地への経験交流を停止し、教室に戻って革命をやるよう呼びかけた。しかし、この指示は徹底せず、紅衛兵による各級指導機関の襲撃や武闘流血事件が絶えず、六七年七~九の三カ月は混乱が極点に達した。

一九六七年一〇月一四日、中共中央は「大中小学校で教室に戻り革命をやることについての通知」を正式に発し、全国の各学校が一律に授業を開始し、授業を行いつつ、改革を進めるよう要求した。とはいえ、多くの学校では大連合(原文=大聯合)は実現できておらず、武闘は不断に発生していた。中学高校の授業再開にとって重大な問題の一つは、大学入試を停止したために、一九六六、六七年度卒業生が中学でも高校でもあぶれており、授業再開の障害となっていることだった。一九六七年一〇月二二日、教育部は卒業生の就職配分(原文=分配)が喫緊の課題であるとして、こう報告した。「卒業生を分配しなければ、新しい学生を入学させられない。しかも今年の卒業生と新入生は例年の二倍以上である。これは教師と校舎の限界のためである」。

卒業生の分配問題は緊急であったが、当時社会は大混乱しており、多くの地域でまだ革命委員会が未成立の情況(22頁の「革命委員会成立地図」参照)のもとで、分配工作は進めようがなかった。こうしたなかで一九六七年一一月三日、『人民日報』が毛沢東の教育革命の指示を伝え、こう述べた。プロレタリア教育革命を行わなければならない。学校のなかの積極分子に依拠して、プロレタリア文化大革命を最後まで行うプロレタリア革命派にならなければならない。このように六七年までは、大量の中学卒業生は依然学校に留まっていたのであった。

下放運動起こる\

一九六八年になると、中学卒業生の分配問題はいっそう深刻化した。各学校には一九六六、六七年の卒業生に加えて、六八年度の中学高校卒業予定者を加えて、一〇〇〇万人以上が溢れていた。他方、六八年前半には大多数の地域で革命委員会が樹立された。卒業生の分配工作は解決しないわけにはいかないし、また解決する条件もできてきた。六八年四月、中央は黒竜江省革命委員会の「大学卒業生分配工作についての報告」を承認し、毛沢東の指示を伝えた。卒業生の分配は大学だけでなく、中小学校においても普遍的な問題であるとして、この文件は各部門、各地方、各大中小学校が1)農村、2)辺境、3)工場鉱山、4)基層、の四つに向かい、卒業生の分配工作を立派にやるよう要求していた。

文件にいう四方面のうち、3)工場鉱山と4)基層とは、秩序が混乱しており、新規労働力を受け入れる余裕はまるでなかった。そこで卒業生は事実上、1)農村と2)辺境に分配された。一九六八年七、八月から紅衛兵への再教育が叫ばれ、次の毛沢東最新指示が繰り返された。「われわれは知識分子が大衆のなかへ、工場へ、農村へ行くよう提唱する。主として農村へ行くのである……。そして労働者農民兵士(原文=工農兵)の再教育を受けなければならない」。六八年末に毛沢東はこう呼びかけた。「知識青年が農村へ行き、貧農下層中農の再教育を受けることはとても必要である」。これを契機として、下放運動が巻き起こり、紅衛兵運動は終焉した。

毛沢東による教育改革

こうして起こった下放運動は、毛沢東特有のイデオロギーによって支えられていた。それは青年学生に対して再教育を行うことによって修正主義を防ぐという考え方であり、再教育の内容として強く意識されていたのは、三大差異(原文=三大差別)の縮小に代表される極度に平等主義的な社会主義論であった。また階級闘争を極端に重視し、書物は読めば読むほど愚かになる。学校のカリキュラムは半減してよい。学制は短縮してよい、など教育内容は単純化していた。社会主義の条件のもとで、政治、経済、文化などの面で差異の存在することが修正主義の生まれる根源であるとする毛沢東の修正主義理解がその根本にあった。毛沢東は五・七指示に見られる思想によって教育を改革しようとしていた。

一九六八年、六九年の二年間で約四〇〇万余りの都市卒業生(六六~六八年度)が農村や辺境に下放させられた。青年たちは現地でさまざまの問題に直面した。生活面では長らく自給自足の生活はできず、食糧(原文=口糧)、住居、医療などの面でとりわけ問題が大きかった。

一九七三年、福建省の李慶林が息子の生活問題を直訴したのに答えて毛沢東はこう返信を書いた。「三〇〇元を送ります。食費として下さい。全国にこの種の例ははなはだ多く、いずれ統一的に解決しなければなりません」。問題の所在には気づきつつも、毛沢東自身いかんともしがたく、この手紙を書いたようである。

下放工作の難題

この年に全国知識青年下放工作会議が開かれ、長期計画が検討されたが、この計画は実現されるに至らず、政策は依然混乱していた。ある年は工場で募集したかと思えば、次の年は下放させる。下放した者のなかから、工場で募集するなどという具合に、地方当局によってマチマチの政策(原文=土政策)が行われた。

一九七六年二月、毛沢東はふたたび知識青年の問題についての手紙にコメントを書いて、知識青年の問題は専門的に研究する必要があるようだ。まず準備し、会議を開き、解決すべきであると指摘した。しかし、毛沢東の死まで彼らの問題は解決されなかった。

一九七八年の全国知識青年下放工作会議紀要はこう指摘している。一九六八~七八年の知識青年下放運動は、全体的計画を欠いており、知識青年の工作はますます困難になった。下放青年の実際的問題は長らく解決されていない。これこそが鳴物入りで大々的に展開された下放運動の総括なのであった。

下放運動がいかに絶対化されたかは、つぎの記事に一端が示されている。曰く、下放を望むか否か、労農兵と結合する道を歩むか否かは、毛主席の革命路線に忠実であるか否かの大問題である。修正主義教育路線と徹底的に決裂し、ブルジョア階級の“私”の字と徹底的に決裂する具体的な現れである(『人民日報』一九六八年一二月二五日)。

しかもある青年が革命的であるか、非革命的であるか、反革命であるかの唯一の基準は、下放に対する態度であるとしたのであった。下放地点の選択においても現実にそぐわない例がしばしば見られた。一部ではより困難な地域ならば、ますますそこへ行かなければならない、と絶対化された。都市近郊で多角経営に成功した青年農場は、下放しても都市を離れないもの、下放したが農業に努めない、大方向に違反している、などと批判された。一部の地域では、下放青年の生活に必要な食料や石炭などをわざわざ都市から運んだ。国家、青年の所属単位、家長などは、下放青年一人当たり年間一〇〇〇元もの費用をかけるケースもあった。

人材の欠落と経済的損失

では下放運動はいかなる帰結をもたらしたのであろうか。第一は人材の欠落である。文革期に養成を怠った大学生は約一〇〇万人余り、高校生は二〇〇万人以上に上る。このために人材の欠落がもたらされた。一部の地域では中学卒業生はすべて下放し、高校は開かなかった。一部の地方では中学高校の一、二年生も、卒業生とともに農村へ下放した(『教育年鑑』四七〇頁)。

一九六八年から七八年までの一〇年間に全国で下放した知識青年は約一六二三万人である。一部の青年はのちに学習して学力を取り戻したが、大部分は中学かそれ以下の学力しかない。下放運動は三大差異の縮小に役立たなかっただけでなく、中国と世界の教育水準の格差を拡大し、近代化にとっての困難をますます増やすことになった。

下放運動は経済的にもマイナスであった。文革期に国家や企業は下放青年の配置のために約一〇〇億元あまり支出した。これらの一部は開墾事業に貢献したが、経済効率ははなはだ悪かった。また一九七九年大量の下放青年が都市へ帰るに際して、すでに結婚した者も含めて、就業問題は経済建設への大きな重圧となった。

下放青年を受け入れたことによって、農民も損失をこうむり、また青年の家長たちも仕送りのために経済的負担を余儀なくされた。

青年が農村の現実を知ったことにはプラスの面もあるが、人生の黄金時代に正規の教育を受ける機会を失した損失は取り戻すことができない。紅衛兵──下放青年の体験をもつ世代はまさに現代中国の失われた世代である。この世代の空白は彼ら自身にとっての損失であるばかりでなく、中国の近代化にとっても人材の面での大きな痛手となって、その後遺症は長く続いている。

「失われた世代」から「思考する世代」へ

こうして紅衛兵たちは、修正主義路線打倒を目指して、決起したものの、まもなくある者は武闘に倒れ、ある者は辺境開拓に追いやられ、総じて、権力闘争に利用される結果に終わった。この意味では、六〇年代後半に一〇代、二〇代であった紅衛兵世代は失われた世代である。しかし、文化大革命という苦い果実を味わった若者たちのなかから、思考する世代が生まれることになった。その嚆矢は「中国はどこへ行くのか?」(別名「極左派コミューン成立宣言」六八年一月六日付)を書いた湖南省プロレタリア階級革命派連合指揮部(略称=省無連)のリーダー楊曦光(本名=楊小凱)らであろう。当時彼は反革命罪で逮捕され、生命が危ぶまれたが、一七歳という若さのゆえに、懲役一〇年の刑で済んだ。彼はその後“監獄大学”でエコノメトリックスを学び、出獄後アメリカに留学した。いまはオーストラリアのある大学で講師をしている。「虎に食われ損なって生き延びた」この若者は、暴力革命を断固として否定し、広い視野から社会主義を再考するよう呼びかけている。

“四人組”失脚を予言した大字報として話題になった李一哲「社会主義の民主と法制について」(初稿、七三年九月一三日)の三人の筆者の一人たる王希哲のその後の思想的発展は、『王希哲論文集』(香港七十年代雑誌社、八一年六月)などによって知ることができる。

民主化への遠い道程

こうした非体制、反体制的思想に目覚めた若者たちが七六年四月の天安門事件を経て、七九年の「北京の春」を担ったことはよく知られている。彼らの一部はたとえば『探索』の編集者魏京生のように投獄された。しかしたとえば中国人権連盟の活動家任(田+宛)町は、出獄後も活動を続け、八九年政変後ふたたび逮捕されている。七九年「北京の春」の活動家の一部は、アメリカなどに留学したあと中国民主聯盟を組織し、雑誌『中国之春』を発行して国内の民主化運動を続けている。八九年の運動に対しても、ニューヨークから連帯のメッセージを送っている(拙編『チャイナ・クライシス重要文献』第一巻所収)。彼らの思想はさまざまであるが、中国の近代化にとって最大の壁が政治の民主化、政治改革にあるとする一点では共通していると言えよう。当局の掲げた「四つの近代化」に対して、魏京生はこれに「政治の近代化」を加えた第五の近代化(原文=第五個現代化)を提唱していた。当時はこれが過激であるとして投獄されたが、その後、一〇年政治改革の必要性はほとんど共通の了解事項になっている。しかし、実際に学生たちが政治改革を要求した場合に、権力の側がどう対応したかを今回の武力鎮圧が端的に示している。

中国民主化の道は遠い。しかし、中国の若者たちは、スターリン批判直後の民主化運動で一部が、そして紅衛兵運動のなかでは大衆的な規模で政治的に覚醒した。この意味で損失のきわめて大きかった紅衛兵運動にも苦い果実は実ったことになる。
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 楼主| 发表于 2006-2-8 19:17:15 | 显示全部楼层
2 二つの妖花(江青と葉群)
文革の拠点──中南海、毛家湾、釣魚台

四人組の最重要人物・江青

江青の権力

迫害狂──江青

毛沢東夫人としての強力な権限

文革のテロリズムは先祖返り現象

林彪派と江青派

権力者たちのプライバシー

周恩来・鄧小平批判へ

四人組の実態は五人組
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 楼主| 发表于 2006-2-8 19:17:57 | 显示全部楼层
2  二つの妖花(江青と葉群)

文革の拠点--中南海、毛家湾、釣魚台

北京の中心部の地図を頭に描いて見よう。天安門前を西長安街路に少し目を移すと、向かって左隣に中南海がある。これは中海と南海を合わせた呼称である。南海の入口が新華門である。天安門が中華人民共和国の象徴であるのに対して、新華門は党中央の象徴である。ここには中共中央の弁公室があり、国務院弁公室がある。新華門の入口には「人民に服務せよ」と書かれている。ここに中共中央主席毛沢東と国務院総理周恩来ら党政軍の幹部たちが居住し、かつ党務、国務を処理していた。劉少奇もむろんここに住んでいたから、劉少奇に対するつるし上げ大会(原文=批闘会)はここで行われた。

文革期に重要も役割を果たした建物があと二つある。一つは西城区西四大街にある毛家湾、ここには林彪と妻の葉群が住み、軍事委員会弁公室と代替した軍事委員会弁事組がおかれていた。

もう一つは釣魚台である。これは西城区にある旧清朝の園林だが、解放後は修理して迎賓館としていた。文革が始まると、中央文革小組がここを占領し、彼らの司令部として使った。釣魚台一一号楼の女主人が江青(毛沢東夫人)、一五号楼の主人が陳伯達(中央文革小組組長、九期政治局常務委員)、八号楼の主人が康生(中央文革小組顧問、八期九期政治局常務委員)、一六号楼に中央文革小組の事務所が置かれていた。

つまり、文革のドラマは中南海(毛沢東の中共中央、周恩来の国務院)、毛家湾(林彪の軍事委員会弁事組)、釣魚台(江青の中央文革小組)の三カ所四機関から出る指令によって展開されたわけである。以下で、文革の推進派として、「四人組」と林彪、標的として劉少奇の場合を描き、最後に、周恩来と鄧小平について若干触れることにしたい。

四人組の最重要人物・江青

“四人組”という言い方は、彼らが失脚してからの呼称である。文革期には文革精神の担い手として、大きな政治的影響力をもつかに見えた。しかし、毛沢東の死後、一カ月も経ずして粉砕されてしまった。

“四人組”のメンバーは、江青、張春橋、姚文元、王洪文である。このうち最重要人物は江青であり、他の三人は江青夫人の指図で動く形で政治局委員にまで昇格した印象が強い。つまり“四人組”といっても実は、江青プラスその他なのである。したがってここでは江青に焦点を当てることにしよう。

まず手許の『中華人民共和国資料手冊』(社会科学文献出版社、八六年)を開いて見ると、こう紹介してある。〔  〕内は私の注釈である。

江青(女)、一九一五年生まれ〔文革開始の六六年には五一歳であった〕。山東省諸城県の人、一九三三年青島で中国共産党に〔一八歳で〕入党した。山東実験戯曲学校の実験京劇団で学び、青島大学図書館で働いたことがある。その後上海に移り、業余〔業余とは、業務の余暇のこと〕劇社などの劇団、映画界に入り女優となる。上海で逮捕され、脱党したことがある。抗日戦争以後延安へ行って、魯迅芸術学院で教えた。〔ここで当然毛沢東と恋愛して結婚した事実が記載さるべきであるが、故意に省略されている〕。

建国初期に文化部映画事業指導委員会委員を務めた。一九六四年三期全国人民代表大会の代表となる。一九六六年文化大革命が始まるや「中央文革小組第一副組長」および「解放軍文革小組顧問」となる。中国共産党九期、一〇期政治局委員を務めた。

文化大革命においては、人民民主主義独裁を転覆する目的をもって、リーダーとして反革命集団を組織し、指導した。反革命集団事件の主犯であり、国家と人民にきわめて甚大な危害を与えた。〔一九七六年一〇月六日逮捕の記載はない〕。七七年七月一〇期三中全会で「ブルジョア階級の野心家、陰謀家、反革命両面派、叛徒江青の党籍を永遠に剥奪し、党内外の一切の職務を解任する」ことを決定した。一九八一年一月二五日、死刑判決を受けた。ただし八三年一月、無期懲役に減刑された(『中華人民共和国資料手冊』751 頁)。

江青の権力

江青について知るには、二冊の伝記がある。一冊はアメリカの女性ロクサヌ・ウィトケの書いた『江青同志』である(邦訳あり)。もう一冊は珠珊『江青秘伝』である。後者はまず「江青野史」として、香港『新晩報』に連載され(八〇年)、その後増補して『秘伝』となった。著者珠珊は朱仲麗の筆名であり、彼女は王稼祥夫人である(『中国老年』八八年八期)。朱仲麗は医者としてモスクワの精神病院に押し込められていた賀子珍(毛沢東の長征時代の夫人)を救出した経緯などから、江青を個人的にもよく知る立場にあった。

江青はかねてから政治的野心をもっていたといわれるが、具体的な政治活動を始めたのは一九六三年一二月、毛沢東が文芸問題についての指示を出して以来である。江青は当初北京で活動しようとしたが、彭真以下の北京市委員会の妨害に遇って果たせなかった。まもなく上海市委員会第一書記柯慶施の支持を得た。柯慶施は部下の張春橋を江青の助手につけ、さらに姚文元もこのグループに加えた。こうして姚文元によって、呉「海瑞罷官」批判論文が執筆されることになった。この活動はむろん毛沢東の支持のもとで行われた。江青は第二の仕事として、「部隊文芸工作座談会紀要」をまとめたが、この作成過程で、毛沢東は三度にわたって朱筆を入れている。この文書は「林彪の委託によって、江青がとりまとめた」とされている。ここに文革推進の両輪、すなわち林彪の軍事力と江青の口を通じて下達される毛沢東の文革イデオロギーとの結合という構図の原点が見られる。

江青が中央文革小組の第一副組長(まもなく組長陳伯達に代わって、事実上の組長の役割を演ずる)になったことについては、むろん毛沢東の賛同を得ている。これらの事実は毛沢東が江青夫人を積極的に起用したことを示している。この意味で江青の行動は基本的に毛沢東の責任であると見なければならない。

迫害狂--江青

毛沢東個人崇拝の高まるなかで、毛沢東夫人の地位は単に虎の威を借りる狸にとどまるものではなく、神格化された毛沢東から出される最高指示、最新指示の伝達者として否応なしに重要なものとならざるをえなかった。江青はまた元女優として、この政治的舞台で自らの役者としての武器を最大限に利用して、文革を推進して行ったのである。

江青を中心とするグループは当初は「海瑞罷官」批判、“三家村”批判、周揚批判などから知られるように、文革理論のスポークスマン的役割を果たしたが、陶鋳批判前後から文革が高度に政治的な奪権闘争に発展するに及んで、打倒すべきブラックリストを紅衛兵組織に指示して、紅衛兵運動の一部を操り人形のごとく操作するようになった。こうして一見大衆運動的偽装のもとに、実は中央文革小組──首都紅衛兵第三司令部(略称三司)という秘密のホットラインが運動を操作するというカラクリができたのであった。\

“四人組”裁判の起訴状公表に合わせて書かれた『解放軍報』(八〇年一二月九日)のルポは「迫害狂──江青」と題して主な迫害ケースを紹介している。たとえば六八年七月二一日、康生(中央文革小組顧問)が絶対秘密の手紙(原文=絶密信)を江青に届けた。その手紙は、第八回党大会で選ばれた中央委員のブラックリストであった。それによると、中央委員一九四名のうち、すでに死去した者、病弱な者三一名を除いて、九六名すなわち六割弱が×をつけられていた。罪状は「叛徒、特務、外国と結託した分子」などであった。このリストに基づいて、一方では実権派たたきを拡大し、他方では第九回党大会の中央委員リストを作成したのであった。

毛沢東夫人としての強力な権限

かつて魯迅は「暴君のもとでの臣民」と題したエッセイを書いて、暴君は「残酷さをもって娯楽となす。他人の苦悩を賞翫し、〔自らの〕慰安とする」と書いたことがある。江青はまさに魯迅の書いたような暴君であり、六七年七月一八日、中南海で劉少奇、王光美を闘争にかけ、六九年一〇月一七日に劉少奇を開封に護送したのは、江青の直接操縦するグループであったという。

江青はまた劉少奇冤罪事件をデッチ上げるために、解放前に王光美の学んでいた輔仁大学教授であった楊承祚、同大学の代理秘書長であった張重一などを迫害して死に至らしめ、さらに劉少奇が華北局書記であった当時の連絡部長王世英を死なせている。これらの事件について、「人面獣心の江青」は「冷酷残忍」であった。随意に他人をして死に至らしめることを無上の権力の象徴であると彼女はみなしていたと告発されている。

このルポに代表されるように、“四人組”裁判当時の江青非難は、彼女を「迫害狂」だとし、彼女の性格が「冷酷残忍」だから、こうした悲劇がもたらされたのであるかのごとく説明している。何が彼女をそうさせたのか。

彼女が生来、迫害狂なのかどうか、冷酷残忍なのかどうかは調べる手立てがない。しかし、おそらく問題はそこにはない。毛沢東夫人であるというそれだけの理由で、彼女は中央文革小組の副組長になることができたこと、この中央文革小組がまもなく政治局の機能に代替するほどの強力な権限をもつに至ったこと、がポイントであろう。そしてこれはまさに文化大革命を発動したためなのであり、おそらくほとんどの責任は毛沢東にあるといえよう。

文革のテロリズムと先祖返り現象

もう一つは中国の権力者がほとんど無限に近い権力をもつことである。私的なリンチは別として、正式に投獄し、裁判にかけるとすれば、その処理は司法当局に委ねられなければならない。しかし、中国共産党の支配のもとでは、「共産党の指導」「プロレタリア独裁」の名において、共産党が直接的に裁判に介入する。共産党の指導にしても、プロレタリア独裁にしても、革命の過程での一時的措置として、やむをえず採られたものであるはずだが、こうした革命時の非常手段がほとんど抵抗なしに受容されたことに中国社会のしたたかな古さを痛感させられる。革命的暴力が許されるという雰囲気が文革を包む中国の「小気候」であったわけである。

明朝の宦官独裁の時代には、東廠や錦衣衛といったテロ組織が体制を批判する者を手当たりしだいに殺害した。文革はこうした政治の先祖返り現象でもあるとする見方もある(『沈思』二巻、三三四頁)。

ただし、スターリンの粛清が秘密警察を用いた国家テロであったのに対して、文革は大衆独裁はいう大衆によるテロであった事実に注目する必要があろう。ここでは中国共産党の誇る大衆運動は大衆操作に堕落したのであった。\

林彪派と江青派

“四人組”は林彪グループの目から、見ると単なるモノカキにすぎなかった。林彪派の「五七一工程紀要」は、自らのグループに対して銃をもつ者(原文=槍杆子)を自称し、江青らをペンを持つ者(原文=筆杆子)と表現していた。江青グループがモノカキの理論家中心であったことは確かである。そして、これはまさに文化大革命の初期、中期においては重要な役割を果たした。しかし毛沢東の支えを失ったときに一挙に瓦解せざるをえなかった。彼らは毛沢東の文革理念を論文にまとめる側近グループ、あえていえば皇帝毛沢東の宦官としての役割を果たしたのであった。

では銃をもつ宦官たる林彪グループとペンをもつ宦官江青グループの関係はどうであったのか。張雲生の『毛家湾紀実──林彪秘書回憶録』(邦訳『林彪秘書回想録』)は、興味津々の事実に溢れている。林彪の妻葉群はしばしば釣魚台一一号楼の江青宅を訪れ、密談しているが、林彪自身は江青に対して、かなりの警戒心を抱いていた。六七年二月には毛家湾で林彪と江青が激論していことを林彪秘書が証言している。

葉群は江青との連絡を密にするだけではなく、中央文革小組顧問陳伯達宅もしばしば訪れている。七〇年秋の九期二中全会で、陳伯達は林彪グループの尖兵の形で処分されるが、イデオローグの陳伯達と林彪グループを結合させたのは、葉群なのであった。しかもそこには三文小説的なエピソードさえある。葉群は延安時代に教わったとの理由で、釣魚台一五号楼の陳伯達宅を訪れたが、寝室に押し掛け、ベッドで密談したことまで秘書に広言している。これが理由で陳伯達夫妻が別居する騒ぎになった。武漢事件(六七年七月)で王力、関鋒、戚本禹らが隔離処分された後、中央文革小組内で孤立し始めた陳伯達は林彪の助けを借り、林彪もまた理論家陳伯達の力を必要としていた。そこで葉群は空軍機を飛ばして上海蟹を運ばせ、陳伯達に届けてごきげんをとり結んだりしている。

権力者たちのプライバシー

林彪は康生(中央文革小組顧問)を当初は警戒していたが、六八年初夏あたりから、林彪と康生の関係が改善された。これを陳伯達が嫉妬するようになったと林彪秘書が書いている。葉群自身は陳伯達に親しみをもち、「先生」と尊敬していたが、康生に対しては親しみよりは畏敬していた。陳伯達は康生の関係は必ずしもよくなかったが、葉群は極力バランスをとってつきあおうとしていた。

第九回党大会以後、毛家湾と釣魚台との関係はますます複雑微妙になった。互いに騙し合いこそすれ、譲り合うことはなくなった。政治的傾向としてはどちらかというと釣魚台に不利だったが、彼らは他の人々の近寄ることのできない特殊な条件(毛沢東夫人としての立場)をもっていると自負していた。毛家湾と釣魚台との緊張関係は九期二中全会(七〇年八月二三日~九月六日)のころには白熱したものとなった。このバカ騒ぎの内幕はすでに世に知られたものよりもはるかに複雑である、と秘書が書いている。

なお、これまた三文小説的エピソードだが、葉群が秘書の張雲生に肉体関係を迫ったいきさつも、生々しく描かれている。葉群と総参謀長黄永勝とのアイマイな関係については、七〇年秋に二人が交わした愛の電話を葉群の長男林立果が盗聴録音したというエピソードも伝えられている(『在歴史的档案里──文革十年風雲録』)。中国権力者たちの私生活にも、奇々怪々なプライバシーがあったことがよく分かるが、私がもっと興味を抱くのは、失脚後にこれらのプライバシー(原文=隠私)が容赦なく暴露されることである。逆に権力を握った者たちは、その権力を用いて、歴史を改竄することはもちろん、真実を知る者の口を封じるために、殺害することさえ行っている(江青は上海時代の友人を迫害致死に至らしめた)。これが文化大革命のもう一つの側面であった。

周恩来、鄧小平 批判へ

概していえば、文の宦官と武の宦官との関係は、実権派の勢力が強かった初期段階では相互扶助であった。林彪は江青に「部隊文芸工作座談会紀要」のとりまとめを委託し、江青は中央軍事委員会文革小組の顧問となり、のちには解放軍文化工作の顧問も務めた。六七年一一月に第九回党大会についての意見を集めた際に、林彪が毛沢東の「親密な戦友」であり、「後継者」であると大会決議に書き込むよう強調したのは、江青であった。彼らはこうして林彪グループを支持し、その見返りを期待していた。しかし、第九回党大会以後は「権力の再配分」の矛盾が熾烈となった。九期二中全会で陳伯達が失脚し、葉群らが批判されたのは両者の権力闘争が爆発したことを示している。

ところで、林彪事件によって林彪グループが壊滅した後、江青らライバルは周恩来を中心とする実務派になる。江青らは「批林批孔」運動を通じて、現代の孔子すなわち周恩来批判に努めた。

一九七四年一月二四日および二五日、軍隊系統の「批林批孔」動員大会と党中央、国務院直属機関の「批林批孔」動員大会が開かれた。これは“四人組”裁判の前後に江青が毛沢東の意思に背いて開いたものとする解釈も行われたが、この会議の前後の毛沢東発言を点検した金春明は、毛沢東が周恩来の政治局工作、葉剣英の軍事委員会工作に不満を抱いていたことは明らかであり、矛先は彼らに向けられていたと書いている(金春明『論析』二〇〇~二〇二頁)。

事柄は「鄧小平 批判、右傾巻き返しへの反撃」闘争も同じであり、毛沢東は鄧小平 を得難い人材と評したわずか一〇カ月後に、悔い改めない実権派として再び批判している。しかも、これは明確な批判であり、江青への暖かい忠告とは異なると解している。つまり文化大革命の正しさを確信する毛沢東からすると、鄧小平の反文革的な整頓は許しがたいものであり、これを批判する江青らの活動を文革路線の堅持の観点から支持したわけである。

四人組の実態は五人組

この意味では、まさに“四人組”グループは最初から最後まで毛沢東の手足であったと見てよいのである。つまり“四人組”ではなく、実態は毛沢東を含めた“五人組”なのであった。その事実を率直に広言できなかったのは、むろん中国共産党にとっての毛沢東の占める位置の大きさのためにほかならない。

もっとも、一〇年にわたる江青グループのすべての行動を毛沢東が支持していたということではない。たとえば江青は一九三〇年代の自らの醜聞をもみ消すために、趙丹ら関係者を少なからず死地に追いやったが、これは醜聞が実権派の手を通じて毛沢東の耳に入ることを恐れたものであろう。
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 楼主| 发表于 2006-2-8 19:19:49 | 显示全部楼层
3 林彪事件の衝撃──「親密な戦友」の陰謀\

林彪の功績

文化大革命のなかでも、最もドラマチックなのは、林彪の躍進と墜死事件であろう。六九年四月の第九回党大会では毛沢東の後継者としての地位を約束され、毛沢東の親密な戦友と讃えられたが、七一年九月には毛沢東暗殺に失敗し、ソ連に逃亡を図り、モンゴル領内で墜死するという奇怪な事件を引き起こしているのであるから、興味をそそられないわけにはいかない。

林彪(一九〇七年~一九七一年九月一三日)は、北伐戦争(一九二六~二七年)と南昌蜂起(二七年八月一日)を経て、最初のゲリラ根拠地である井岡山(江西省西部の山岳地帯)に立て籠もった。三五年夏以来の江西省を中心とするゲリラ地区から陝西省北部への二万五〇〇〇華里の大長征に参加し、延安時代には紅軍大学、抗日軍政大学の指導者として幹部養成に貢献した。日中戦争期には平型関戦役(三七年九月二五日)の勝利にも功績があった。遼瀋戦役(四八年九月~一一月)、平津戦役(四八年一二月~四九年一月)の主要指揮員の一人でもあった。その後第四野戦軍を指揮して南下し、武漢を解放し、広東、広西に到り、一九五〇年に海南島を解放した──これが中国革命のなかでの林彪の功績である。革命活動の初期から毛沢東のもとで働いたために、重要な役割を与えられたわけである。

林彪批判の真偽

林彪の墜死以後、毛沢東暗殺を図った逆賊として、徹底的な林彪批判が展開された。その際の林彪の罪状は、彼の参加したほとんどすべての戦役について、林彪の功績が小さなものだと矮小化しようとするものであった。それらはそれなりになんらかの事実を踏まえたものであったことは、確かだが、およそ牽強付会が甚だしく、説得性を欠く批判であったといえよう。

墜死事件後十数年を経ると、行き過ぎた批判への軌道修正が行われるようになった。たとえばある論文(于南「林彪集団の興亡・初探」)は、前述のような林彪批判を斥け、次のように再評価して注目された。総じていえば、民主革命期(四九年革命のこと)の林彪は、林彪グループのその他のメンバーも含めて、功績が誤りよりも大きかった。つまり林彪は文革初期に一部の者が誇張した姿とも、事件以後の批判論文が非難した姿とも異なっているのであり、林彪の功罪は実事求是のやり方で解釈すべきである、と。

出世術、クーデタ術を研究

さて林彪が建国において貢献したことは述べたが、戦闘中に重傷を負った。モスクワに送られ治療したが完治しなかった。そこで建国以後、林彪はずっと病気療養していた。一九五三年一〇月、高崗(一九〇五~五四、国家副主席、国家計画委員会主席)が杭州で療養する林彪を訪ね、中央の人選名簿、軍の第八回党大会代表名簿などの相談をもちかけた。林彪の妻葉群も林彪に代わって高崗を訪ねた。この行動が中央から批判された後、林彪の野心はしぼんだという。しかし一九五九年夏廬山会議で彭徳懐が国防部長を解任され、林彪が後を襲うようになるや、政治的野心が頭を擡げてきたといわれる。一九六〇年から六四年にかけて、内外の歴史書、各王朝の演義、軍閥混戦の資料などを少なからず読み、曽国藩、袁世凱、張作霖などを研究した。要するに、出世術、クーデタ術を研究したのであろうか。

一九六六年五月一八日、林彪は政治局拡大会議でクーデタ問題を大いに論じている。たとえば一九六〇年以来六年間に世界で毎年平均一一回のクーデタが発生した、と述べ、また中国歴代王朝から蒋介石までの政変を一気にまくしたてている(クーデタ講話は『林彪事件原始文件彙編』所収)。

一九六〇年以後、林彪は四つの第一、三八作風、政治の突出、政治はその他の一切を撃つことができる、活きた思想をつかむ、四つの立派な中隊などの毛沢東思想活用運動をつぎつぎに提起して、毛沢東から賞賛された。

毛沢東が大躍進の責任を自己批判せざるをえなかった一九六二年一月の七千人大会では、毛沢東を支持してこう発言している。「この数年の誤りと困難は毛主席の誤りではなく、逆に多くの事柄を毛主席の指示通りに行わなかったことによってもたらされたものである」。大躍進・人民公社政策の失敗によって四面楚歌に陥っていた毛沢東にとって有力な援軍となったはずである。こうして林彪は毛沢東が個人崇拝を最も必要としたときに、巧みにそれを行って毛沢東の信頼を固めたわけである。

腹心で固めたセクト

林彪の権力への道の第二戦略は、セクト作りであった。林彪は元来第四野戦軍の指導者として、一つの派閥をもっていたわけだが、軍事委員会を牛耳るようになってから、林彪派の形成を意識的に行った。「双一」(すなわち紅一方面軍、紅一軍団)にかつて属したことがメンバーの条件であった。「双一」こそが後の第四野戦軍の源流である。黄永勝、呉法憲、李作鵬、邱会作、いずれもその資格を備えていた。

林彪の第三戦略は、異分子の排除である。一九五九年に軍事委員会を牛耳るようになってまもなく、総政治部主任譚政を解任した。元総政治部主任羅栄恒(一九〇二年~六三年一二月)は林彪のやり方を毛沢東思想の俗流化と批判していたために、文革期に羅栄恒未亡人林月琴を迫害している。国防部長になった一九五九年以来、五~六年で腹心の配置に成功している。まず邱会作を総後勤部部長、党委員会第一書記とし、六二年には海軍の指導強化の名目で李作鵬を海軍常務副司令員にした。六五年には空軍司令員劉亜楼の死去に乗じて呉法憲を任命している。\

このように腹心で固め始めた林彪にとって、軍の指導権を奪取する上で、直接的障害は羅瑞卿であった。彼は軍事委員会秘書長、総参謀長、副総理、中央書記処書記、国防部副部長、国防工業弁公室主任の六つの要職を兼ねていた。

羅瑞卿を解任

羅瑞卿は元来は林彪の部下であった。延安時代に林彪が紅軍大学、抗日軍政大学で校長を務めた際には、羅瑞卿は教育長、副校長を務めている。一九五九年の廬山会議の際には、羅瑞卿を総参謀長に提案したのは林彪自身であったことも注目してよい。

林彪・羅瑞卿の関係は当初の一、二年はまずまずであったが、羅瑞卿はまもなく林彪とソリが合わなくなった。両者の破局がやってきた。しかもそれは大きな悲劇の序幕でもあった。

一九六五年一一月末、林彪は毛沢東宛に手紙を書き、報告するとともに葉群を派遣して羅瑞卿関係の資料について口頭で報告させた。葉群は杭州で毛沢東に対して六、七時間報告した。六五年一二月八~一五日、上海で政治局常務委員会拡大会議が開かれた。葉群はここで三回発言し、羅瑞卿の罪状を暴露した。会議が始まって三日後、羅瑞卿のもとに飛行機の出迎えがあり、上海に着くやいなや隔離された。会議が終わるや羅瑞卿の軍における職務が解任された。

一九六六年三月四日~八日、北京で羅瑞卿批判の会議が開かれた。同時に「羅瑞卿の誤りについての報告」が起草され、一九六六年五月、政治局拡大会議で承認された。この間三月一八日に羅瑞卿は飛び下り自殺を図り、重傷を負っている。

林彪事件以後、七二年に羅瑞卿は治療のために出獄を許され、七三年一月に正式釈放された。七三年一二月二一日、毛沢東はある会議で自己批判し、「林彪の一面的な話を信じて、羅瑞卿を誤って粛清した。彼を名誉回復しなければならない」と述べた。羅瑞卿は七七年一一期中央委員に選ばれ、軍事委員会秘書長に任命された。七八年八月三日病逝したが、八〇年五月に名誉回復した。

羅瑞卿の最大の罪状は、葉群の説明によると個人主義が野心家の地歩にまで達して、国防部長の地位を林彪から奪おうとしたことである。その証拠として挙げたのは劉亜楼(元空軍司令)の証言であり、死人に口なし、反駁のしようのない証拠であった。

党内の敵を摘発

羅瑞卿の粛清は林彪派にとっていかなる意味をもったであろうか。第一に林彪の権力獲得にとって直接的障害が排除された。軍内の掌握に有利となったばかりでなく、羅瑞卿の黒幕追及の名において、他の指導者たちにも脅しをかけることができるようになった。上海会議の際に葉群は羅瑞卿が賀竜と密接であったとして、軍事委員会副主席である賀竜を自己批判させようとした。羅瑞卿は公安部で他年工作していたので、同部の副部長、司局長、省市レベルの公安局長も連座する者が少なくなかった。要するに、羅瑞卿粛清を一つの突破口として、奇襲攻撃により、党内の敵を粛清するモデルを作ったことになる。

第二に、呉法憲、李作鵬、邱会作らは羅瑞卿粛清を通じて、それぞれの任務を分担し、林彪派の核心としてより結合を深めていった。第三に林彪は党内に潜む野心家を摘発することによって、毛沢東に忠実な戦友、学生としてのイメージを固めることになった。

一九六六年五月、政治局拡大会議が開かれた。林彪は五月一八日クーデタについて大いに語り、彭真、羅瑞卿、陸定一、楊尚昆らがクーデタをやろうとしているとし、彼らを摘発することが修正主義者による奪権を防ぐことになると力説した。羅瑞卿が軍権を握り、彭真(北京市市長)はいくつかの権力を握り、文化思想戦線の指揮官は陸定一(中央宣伝部部長)であり、機密、情報、連絡担当が楊尚昆(中央弁公庁主任)である。文武相結合して、反革命クーデタをやろうとしていると林彪は述べた。この四人は文革初期に四家店として集中的に攻撃されたが、彼らは文革を発動するうえで直接的障害となっていた四つの部門の代表であった。

毛沢東はこのクーデタ講話について、懸念をこう書いている。

彼〔林彪〕の提起の仕方については、どうしても不安を感じている。彼らの本意を忖度すれば、“鬼を打つために、鍾馗の力を借りる”ではなかろうか。 

生まれて初めて、意に反して他人の意見に同意し、林彪の五・一八講話の発出に同意した(「江青に宛てた手紙」六六年七月八日)。

林彪が毛沢東の権威を利用して、自らの権威を高めようとしているのを知りながら、毛沢東もまた林彪を利用して、自らの鬼を打とうとしていたのであろう。

林彪昇進の背景

一九六六年八月一日~一二日、八期一一中全会が開かれ、林彪は唯一の党副主席、毛沢東の後継者の地位を確保した。ナンバー6からナンバー2への昇格である。このような急激な昇進が可能であった背景としては、つぎの事情がある。

第一に文化大革命を進めようとした毛沢東が林彪の軍事力を必要としたことである。第二に、林彪は十大元帥の一人として軍功があるばかりでなく、毛沢東に対する個人崇拝の演出者として、政治的資本も手に入れていた。第三に選挙前の政治局常務委員七名のうち、劉少奇、Deng Xiaoping は路線の誤りのゆえに批判されており、朱徳は老齢であった。毛沢東は周恩来、陳雲に対しては、その穏健路線が不満であった。林彪は当時五九歳の若さであり、後継者として有利な条件を備えていた。

林彪は文革の推進者として毛沢東によって抜擢された以上、毛沢東の期待に応えなければならない。それはまた自らの野心を満たすことでもあった。六六年八月八日、林彪は中央文革小組を接見して、天地を覆さなければならない。ブルジョア階級もプロレタリア階級も眠れないほどの騒ぎとしなければならないと述べた。八月一三日には中央工作会議でこう述べた。今回は一群の者を罷めさせ、一群の者を昇格させ、一群の者はそのままとする。組織上、全面的な調整をしなければならない。この二つの発言が、いわば林彪の施政方針演説であった。

一九六六年八月中旬、林彪は葉群を通じて、劉少奇誣告の資料を雷英夫(解放軍総参謀部作戦部副部長)に書かせた。林彪はこれを江青を通じて毛沢東に届けた。八期一一中全会およびその後の会議で林彪は幾度も劉少奇、Deng Xiaoping を名指し批判した。一九六八年九月二九日、林彪は劉少奇専案組の「罪状審査報告」にコメントを書いて、劉少奇には五毒が備わっており、罪状は鉄のごとく硬い。出色の専案工作を指導した江青同志に敬意を表すると述べた。

造反派と実権派の激しい対立

林彪と江青が結託して集中的に老幹部を粛清しようとしたのは一九六七年春から八期一二中全会にかけてである。六七年一月、上海で一月革命が起こると、その反動として二月逆流(実権派側から見れば、二月抗争)事件が起こった。続いて五・一三武闘と七・二〇武漢事件が起こった。

五・一三武闘とは、一九六七年五月一三日夜、軍の両派が北京展覧館劇場での上演問題をめぐって武闘した事件である。この事件を経て、造反派系と実権派系の対立が表面化した。これに先立つ四月下旬、周恩来は部隊の文芸団体を接見した際に、両派が合同して上演されたい、さもなければ観劇に行かない、として、両派の聯合を促進しようとした。五月初め、延安文芸座談会における講話発表二五周年を記念して、造反派系文芸団体も実権派文芸団体も、それぞれ上演を準備していた。実権派系は造反派系が上演を強行するなら、会場を襲撃するといきまいていた。他方造反派系は呉法憲や李作鵬の支持を根拠に予定通り上演し、これを攻撃した実権派系との間で武闘が起こり、数十人が負傷した。

蕭華(解放軍総政治部主任)は、解放軍の顔に泥を塗ったと造反派を非難したが、造反派は逆に蕭華をつるし上げた。事件後、林彪、葉群、江青は蕭華を非難した。五月一四日、葉群は林彪を代表して造反派系負傷者を慰問したが、これには関鋒、呉法憲、李作鵬、王宏坤が同行した。この武闘を通じて、軍内における造反派と実権派の対立が明確になった。造反派は総政治部を閻魔殿として攻撃するようになった。

実権派の抵抗--武漢事件

こうして総政治部が機能マヒに陥った。七月一七日呉法憲(組長)、葉群、邱会作、張秀川からなる軍事委員会看守小組が成立した。これは時には軍事委員会四人小組あるいは軍事委員会弁事組とも呼ばれた。中央文革小組の「ポン頭会」(ポン頭会とは、正式の会議ではなく、その場に居合わせた者が相談し合う非公式の会議のこと)に出席するようになった。駐北京部隊の文革の指導権は、彼らの手中に入った。林彪グループはかくて、五・一三武闘を通じて海軍、空軍、総政治部の指導権を掌握したのである。九月下旬、楊成武が帰京すると、彼が軍事委員会弁事組組長となり、呉法憲は副組長、メンバーは葉群、邱会作、李作鵬となった。

こうして江青ら“四人組”が中央文革小組を操り、造反派を決起させ、林彪はまた軍内で着実にそのグループによる指導権を確立しつつあった。まさにこうした時に、中央文革小組や林彪グループのやり方に対する公然たる反抗が起こった。武漢の大衆組織である百万雄師が、中央文革小組から派遣されてきた王力を監禁してまった。百万雄師は実権派を支持しており、しかも武漢軍区の司令員陳再道もこれを支持していた。

実は監禁されたのは、王力だけではなかった。毛沢東もまた宿舎の東湖賓館を百万雄師に包囲されて身動きできなくなっていたのであった。周恩来の調停で事なきを得たが、林彪は東海艦隊を率いて、揚子江を溯るなど、一時は内戦の危機に直面したのであった。毛沢東はこれを契機として、文革の収拾を考慮し、造反各派の大連合を呼びかけることになる。

林彪グループの形成

この武漢事件(六七年七月二〇日)直後の七月二五日、天安門広場で百万人大会が開かれ、王力、謝富治の帰還を歓迎し、陳再道を非難した。林彪は六七年八月九日の講話で、武漢事件のような混乱は四つの状況からなると説いた。1)好い人が悪人と闘争する、2)悪人が悪人と闘争する(林彪によれば、これは間接的に利用できる勢力である)、3)悪人が好い人と闘争する(北京軍区、海軍、空軍、総参謀部、総後勤部のケース)、4)好い人が好い人を闘争する、の四つである。

邱会作(総後勤部)、李作鵬、王宏坤、張秀川(海軍)は林彪のお墨つきで窮地を脱することができた。八月九日講話以後、呉法憲、邱会作、李作鵬、王宏坤、張秀川らが好い人と断定され、彼らを攻撃する側が悪人のレッテルを貼られることになった。こうして林彪グループの形成が大衆的に明らかにされた。\

楊成武事件

六八年三月二四日、人民大会堂で林彪が長い講話を行い、余立金を叛徒して逮捕し、楊成武総参謀長代理を解任し、傅崇碧北京衛戌区司令員を解任した。いわゆる楊成武事件である。楊成武は二月逆流以後も、林彪の指示を無視して、中央文件を葉剣英に配付していた。九月下旬、毛沢東が南方を視察して語った大連合の談話も葉剣英に語った。また軍事委員会弁事組は軍事委員会(葉剣英は副主席である)に対して責任を負うものだと明言した。これに対して林彪は、二月逆流の巻き返しを図るものと断罪した。

他方、江青が楊成武を嫌った理由として挙げられているのは、上海や北京から報告されていた江青関係の資料(江青は三〇年代に女優であった当時の離婚問題をめぐる証拠を湮滅させるために、たいへん熱心であった)を楊成武が握りつぶしていたというものである。江青はこれを知って大いに怒り、林彪を証人にしたてて、自ら焼却させた。

いずれにせよ、この楊成武事件を経て、軍事委員会副主席たちの指導権はいっそう弱まった。たとえば葉剣英は「傅崇碧の黒幕」と非難されて、活動を封じ込められた。徐向前、聶栄臻らの立場も同じであった。

権力掌握へ驀進

六八年三月二五日、軍事委員会弁事組が改組され、黄永勝が組長、呉法憲副組長、メンバーは葉群、邱会作、李作鵬となった。四月一日、呉法憲は軍内の重要文件を今後は陳毅、徐向前、聶栄臻、葉剣英、劉伯承に配付しないと言明した。情報を絶たれることは政治活動からの排除を意味するこというまでもない。中国のように、マスコミなき社会においてはとりわけそうである。四月六日黄永勝は今後軍委常務委員会は権力を行使せず、軍事委員会弁事組がこれに代わると言明した。葉剣英らはかくて中級幹部並みになり、県レベル・連隊レベルの文件しか読めなくなった。

軍委副主席グループは指導権を奪われたが、軍内や大衆の間で依然、声望をもっている。そこで六八年一〇月の八期一二中全会ではふたたび二月逆流批判が繰り返された。譚震林はすでに叛徒とされて、一二中全会への出席を拒まれていた。陳毅、葉剣英、李富春、李先念、徐向前、聶栄臻ら六人は出席したが、それぞれ別の小組に配置され、つるし上げられた。このほか谷牧、余秋里も名指し批判された。一二中全会以後、軍事委員会弁事組は「二月逆流反党集団の軍内における活動大事記」五〇カ条をまとめ、一一月一九日、印刷して林彪、康生に届けた。これは一二中全会での実権派批判がまだ不徹底であり、第九回党大会でさらに批判しなければならないとする認識に基づいていた。

林彪派の指導体制

一九六九年四月、北京で第九回党大会が開かれた。八期の中央委員および候補のうち、九期中央委員として留任したのは五三人にすぎず、八期中央委員一九五人の二七%にすぎなかった。一一中全会で選ばれた政治局委員のうち陳雲、陳毅、李富春、徐向前、聶栄臻らは政治局を追われ、ヒラの中央委員に格下げされた。劉少奇、Deng Xiaoping 、彭真、彭徳懐、賀竜、ウランフ、張聞天、陸定一、薄一波、譚震林、李井泉、陶鋳、宋仁窮ら一三人は、中央委員になれないのはむろんのこと、大会にさえ出席できず、隔離審査の立場に置かれていた。九期一中全会で選ばれた二一名の政治局委員のうち、一二名はのちに林彪、江青グループとして処分された。

第九回党大会は林彪グループにとって勢力拡大のピークであった。羅瑞卿、賀竜の粛清に始まり、二月逆流で軍事委員会副主席たちの活動を封じ込めることによって、林彪は軍内を基本的に掌握した。党のレベルでは唯一の副主席として、腹心を政治局と中央委員会に多数配置できた。ここまで来ると、軍隊だけでなく、党、政府、地方レベルのなかにも、林彪グループにすり寄る者が増えてきた。大義名分の点では、林彪の後継者としての地位は、第九回党大会で採択された党規約のなかにまで書き込まれた。

こうして林彪グループは、軍隊を直接掌握するほかに、軍事委員会弁事組を通じて、そして軍事管制体制を通じて、中共中央と国務院の一部部門、一部の省レベル権力を掌握した。これに対して、江青を初めとする中央文革小組系は政治局には張春橋、姚文元、汪東興(毛沢東のボデイ・ガード、のち党副主席)を送り込んだものの、国務院や軍内にはいかなるポストも持たず、中央文革小組はもはや中共中央、国務院、中央軍事委員会と連名で通達を出すような地位を失った。江青グループがセクトとして、活動しうるようになったのは、一九七〇年一一月に中央組織宣伝組が成立して以来であり、これによって江青は再び合法的な活動の陣地を獲得したのであった。

国家主席をめぐって

林彪グループと江青グループとは、文革を収拾し、第九回党大会を開く上では、結託したが、大会前後から仲間割れが生じ、九期二中全会(七〇年八月)までには鋭く対立するに至った。この間の経緯は『林彪秘書回想録』に詳しい。表向きの論争テーマは憲法改正問題である。憲法のなかに毛沢東が天才的に、創造的に、全面的に、マルクス主義を発展させたとする三つの形容句をつけるか否か、国家主席を設けるかどうかなどがポイントであった。前者は毛沢東を天才としてもち上げることによって、その後継者としての林彪自身の地位をもち上げる作戦であり、後者は林彪が国家主席という名の元首となることによって、後継者としての地位を固めようとするものであった。

七〇年八月二三日午後、二中全会が開幕した。林彪は冒頭、毛沢東天才論をぶち、翌二四日林彪講話の録音の学習が行われた。二四日午後、陳伯達、呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作はそれぞれ華北、西南、中南、西北の各小組(分科会)に出席し、天才論を支持するとともに、三つの形容句に反対するもの(江青グループ)を攻撃した。なかでも華北組の会議における陳伯達の発言は煽動的であり、ここでは国家主席を断固として設けることが決議された。二四日夜一〇時過ぎ、「華北組二号簡報」が編集され、組長李雪峰が目を通したのち、二五日朝印刷配付された。これを読んで各組とも華北組に倣う動きが出たことについて、毛沢東は廬山を爆破し、地球の動きを停止させるがごとき勢い、と形容した。二五日午前、江青は張春橋、姚文元を率いて毛沢東に会った。毛沢東は二五日午後、各組組長の参加する政治局常務委員会拡大会議を開き、林彪講話の討論の停止と二中全会の休会を提起した。華北組二号簡報は回収された。

八月三一日、毛沢東は「私のわずかな意見」を書いて、陳伯達を名指し批判した。九月一日夜政治局拡大会議が開かれ、私のわずかな意見が伝達され、陳伯達が批判されたが、この会議を主宰したのは皮肉なことに林彪であった。九月一日以後、各組で私のわずかな意見が学習され、陳伯達が批判され、呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作の誤りも批判された。九月六日二中全会が終わった。こうして林彪の陰謀と野心に気づいた後、毛沢東は周恩来と協力して、林彪グループ批判に着手した。こうして二中全会を契機として、林彪グループの勢力が削減され始めたことは、江青グループの勢力を増大させることになった。

警戒を深める毛沢東

では九期二中全会の争いのポイントは何であったのか。毛沢東はのちに、五人の(政治局)常務委員のうち、三人が騙されたと語ったが、これは林彪、陳伯達が毛沢東、周恩来、康生を騙したという意味である。林彪は国家主席を設けるという合法的な手段で後継者としての地位を固めようとしたが、これが阻まれるや、毛沢東から林彪への権力の平和的移行を断念し、クーデタを追求するようになった。一九七一年二月、林彪グループは「五七一工程紀要」の作成に着手した。毛沢東が林彪への危惧を感じたのは、江青への手紙によれば、六七年夏のことだが、いまや林彪への不信は動かしがたいものとなり、その勢力を削減する措置を講じ始めた。

七一年八、九月、毛沢東は南方を巡視した。彼は五大軍区、一〇省市の責任者と話をし、林彪とそのグループを名指し批判した。八月末に南昌に着くや、それまでは林彪にすり寄っていた程世清(江西省革命委員会主任、江西軍区政治委員)から葉群や林立果の異様な行動を報告され、警戒を深めた。九月八日深夜杭州では専用列車を急遽紹興まで運行させ、そこに停止させた。九月一〇日、杭州から上海に向かった。しかし、下車はせず、一一日、突然北京へ向かった。一二日午後、豊台に停車し、北京軍区と北京市責任者と話をして、夕刻北京駅から中南海に戻った。林彪の謀殺計画を察知し、ウラをかいて行動したものであろう。\

林彪グループは上、中、下、三つの対策を検討した。上策は毛沢東を旅行途中で謀殺したあと、林彪が党規約にしたがって合法的に権力を奪取するものである。中策は謀殺計画が失敗した場合、黄永勝、呉法憲、李作鵬、邱会作らと広州に逃れ、割拠するものである。下策は以上の両策が失敗した場合、外国に逃れるものである。

毛沢東暗殺計画

一九七一年九月五日、林彪、葉群は毛沢東が彼らの陰謀を察知したことに気づき、毛沢東謀殺を決定した。九月八日、林彪は武装クーデタの「手令」を下している。しかし、毛沢東は九月一二日夕刻無事に北京に戻り、謀殺計画の失敗は明らかになった。一二日林彪は翌日広州に飛ぶべく飛行機八機を準備させようとした。一二日夜トライデント機256号は秘密裡に山海関空港に移され、北戴河で静養していた林彪、葉群、林立果が翌一三日、広州へ飛ぶ予定であった。

これらの秘密は林彪の娘林立衡によって、周恩来に通報されたことになっている。すなわち九月一二日夜一〇時過ぎ、林彪の娘林立衡からの通報は北戴河8341部隊を通じて周恩来のもとに届いた。周恩来は256号機を北京に戻すよう指示するとともに、追及を始めた。これを知った林彪は一三日午前零時三二分、山海関空港で強行離陸し、ソ連に飛ぶ途中モンゴル共和国のウンデルハンで墜落した。

九月一二日の経過はこう描かれている。林立果、劉沛豊は北京から256機を山海関空港に飛ばし、九時過ぎに北戴河の林彪の住まいに着いた。一〇時過ぎに翌朝出発することを決定した。林立衡は林立果から広州へ飛ぶことを知らされ、これを密告した。8341部隊からの通報を受けて、周恩来は呉法憲、李作鵬に256の情況を調べさせ、周恩来、黄永勝、呉法憲、李作鵬四人の連名の批示がなければ、同機の離陸を許さぬと指示した。夜一一時半頃、林彪はボデイガードの秘書に対して、大連へ飛ぶと電話させた。一一時五〇分頃、葉群、林立果、劉沛豊は打ち合わせをしたのち、一二時近く北戴河九六号の住まいを出発した。

8341部隊はこれを知って、道路を塞いだ。ボデイガードの秘書は大連ではなくソ連に飛ぶことを知って、林彪の車から飛び下りた。このとき左の肘を打たれたが、彼も二発発砲した。8341部隊も林彪の車めがけて発砲したが、防弾ガラスに弾き返された。車は零時二〇分、空港に着いて、三二分に強行離陸した。

モンゴルで墜落死

林彪の車が8341部隊の制止を振り切って空港へ向かったとき、周恩来は人民大会堂から中南海へ行って毛沢東に報告した。まもなく二五六専用機は離陸し、まず二九〇度をめざし北京に向かったが、すぐ三一〇度に向きを変えて西北を目指した。これは北京──イルクーツク航路である。周恩来は華北地区のレーダー基地に監視を命ずるとともに、全国に対して飛行禁止令を出した。午前一時半ころ、呉法憲が電話で飛行機は国境を出るが、妨害すべきかどうか指示を求めてきた。周恩来が毛沢東の指示を仰ぐと毛沢東曰く「雨は降るものだし、娘は嫁に行くものだ。どうしようもない。行くにまかせよ」。一時五五分、二五六専用機はモンゴル共和国内に進入し、レーダーから消えた。一三日午前二時半ごろ、ヘンティ省イデルメグ県ベィルフ鉱区南一〇キロの地点に墜落した。

九月一四日朝八時半、モンゴル政府外交部は中国大使許文益を呼び、中国機がモンゴルに進入して墜落したことに対して口頭で抗議した。一五日、許文益ら中国大使館関係者は墜落現場を訪れ、大量の写真を写すとともに、北京に報告した。九つの遺体は一六日現地に埋葬された。

九つの遺体は林彪、葉群、林立果、劉沛豊、パイロット潘景寅、そして林彪の自動車運転手、専用機の整備要員三名であった。副パイロット、ナビゲーター、通信士は搭乗していなかった。このため、燃料切れの情況のもとで、平地に着陸しようとして失敗し、爆発したものと推定した。機内で格闘した形跡は見られなかった。

林彪事件の処分

九月二四日、黄永勝、呉法憲、李作鵬、邱会作が停職となり、拘禁された。一〇月三日軍事委員会弁事組が廃止され、軍事委員会弁公会議が成立し、葉剣英が主宰することになった。同日中央は中央専案組を成立させ、林彪事件を徹底的に究明することとした。

事件の伝達情況はつぎのごとくであった。まず、九月一八日、中共中央は各大軍区、各省市、軍隊、中央各部門に対して文件を発出し、高級幹部に対して、林彪事件の概要を伝えたが、林彪についての記述、写真、映画などは暫時動かさないことも指示した。

ついで九月二八日、中央は林彪事件の伝達範囲の拡大を通知した。一〇月六日、一〇月中旬に伝達範囲を支部書記レベル、軍隊の中隊レベル幹部まで拡大することを決定した。一〇月二四日、全国の広範な大衆に伝達するが、新聞に掲載せず、放送せず、大字報やスローガンとして書かないよう指示した。一二月一一日、七二年一月一三日、七月二日、中央専案組のまとめた「林彪反党集団の反革命クーデタを粉砕した闘争」についての三つの資料をそれぞれ発出した。

一九七三年八月、第一〇回党大会の際に林彪、黄永勝、呉法憲、葉群、李作鵬、邱会 作、陳伯達の党除名を決定し、公開批判を開始した。八一年一月下旬、最高人民法院特別法廷は黄永勝一八年、呉法憲一七年、李作鵬一七年、邱会作一六年、江騰蛟一八年の懲役を判決した。

「五七一工程紀要」の真偽

ここでいささか個人的な感想を書いておきたい。私は林彪事件をシンガポールで知った。そのころ、旧知の台湾の作家故呉濁流が観光旅行に来たので、雑談した。彼によれば林彪は反革命家による暗殺を逃れるために「隠姓埋名」したにすぎないとのことだった。七二年に香港大学で私は林彪事件の「真相なるもの」を知らされた。私はいくつもの疑問を抱きながら、文革の破産を感じ始めた。林彪派のクーデタ計画書といわれる「五七一工程紀要」は、毛沢東独裁をこう批判していた。「彼〔毛沢東〕は真のマルクス・レーニン主義者ではなく、孔孟の道を行うものであり、マルクス・レーニン主義の衣を借りて、秦の始皇帝の法を行う、中国史上最大の封建的暴君である」と。そして毛沢東の説く社会主義をこう非難していた。「彼らの社会主義とは、実質的には社会フアシズムである。彼らは中国の国家機構を一種の、相互殺戮、相互軋轢の肉挽き機に変え、党と国家の政治生活を封建体制の独裁的家父長制生活に変えてしまった」。

私は「五七一工程紀要」をデッチ上げと感じ、事件そのものもほとんど信じられなかった。その後、数年して『現代中国の歴史』を書いたころには、中国当局の発表を基本的に真実と判断するに至っていたが、このことを真に納得したのは、八八年秋に中共中央文献研究室を訪ねて専門家と討論し、かつ文献研究室の内部刊行物たる『党的文献』八八年一期所収の三篇の記録を読んでからである。この間の経緯は、拙稿「林彪の生と死」『中国現代史プリズム』に書いたので、繰り返さない。

アヘン中毒者の命運\

ただ一言だけつけ加えたい。事件当時の林彪は六四歳、毛沢東は七八歳であった。一四歳も若い後継者が権力の継承を待てなかったのはなぜか、である。金春明『“文化大革命”論析』は、林彪の健康問題から奪権を急いだと説明している。張雲生『林彪秘書回想録』もむろん健康問題に少なからず言及している。しかし林彪の健康問題について決定的な事実を指摘しているのは、厳家其、高皋夫妻の『中国文革十年史』である(香港版は上巻二五五頁以下、大陸版は二五一頁以下)。

林彪は戦傷を癒すために、「吸毒」(モルヒネ注射)の習慣があった。毛沢東はかねてこの事実を知っており、五〇年代に曹操の詩「亀雖寿」を書き贈り、戒めとするよう忠告していた。

しかし、林彪秘書の記録によると、悪習はやまず、たとえば七〇年五月二〇日、天安門広場の百万人集会で毛沢東声明を林彪が代読したが、これはパレスチナをパキスタンと読み誤るなどシドロモドロであった。これは当時は睡眠薬を過度に服用したためと説明されたが、実はモルヒネが切れたためではないかと示唆されている。

毛沢東の親密な戦友にして後継者がアヘン中毒であったという事実は、やはりわれわれに衝撃を与えないわけにはいかないであろう。
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 楼主| 发表于 2006-2-8 19:20:15 | 显示全部楼层
4 中国のフルシチョフ劉少奇
毛沢東と劉少奇

三面紅旗の評価をめぐって

毛沢東の間接的批判

四清運動へのクレーム

激怒する毛沢東

修正主義と反修正主義

砲撃さるべき司令部は劉少奇

劉少奇の自己批判

毛沢東の意志決定

劉少奇批判がエスカレート

「中国最大の修正主義者」

捏造されたスパイ説

汚辱のなかでの最期
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 楼主| 发表于 2006-2-8 19:21:55 | 显示全部楼层
4 中国のフルシチョフ・劉少奇

毛沢東と劉少奇

劉少奇(一八九八年一一月二四日~一九六九年一一月一二日)は文革期に中国のフルシチョフ、中国最大の実権派として、攻撃され、八期一二中全会(六八年一〇月)決議では裏切り者、敵の回し者、スト破り(原文=叛徒、内奸、工賊)のレッテルを貼られて、永遠に党から除名され、党内外の一切の職務を解任された。劉少奇の冤罪に抗議して刑事処分を受けた者は二万八千人を超え、巻き添えになったり、批判された者の数は数えられぬほど多い(金春明『“文化大革命”論析』五七頁)。

対立は何をめぐって生じたのか。三面紅旗(すなわち、総路線、人民公社、大躍進の三つの方針)の評価問題である。毛沢東が自信をもって打ち出した共産主義構想を劉少奇らが骨抜きにしようとしていると怒ったのである。むろん、対立の経過には段階がある。

一九五八年五月に第八回党大会第二次会議が開かれたときに、党中央を代表して政治報告を行ったのは劉少奇である。毛沢東の意を受けて、社会主義建設の総路線を正式に提起したのは劉少奇なのであった。一九五八年八月の北戴河会議で人民公社設立と鉄鋼作りについての二つの決議を採択したときにも、劉少奇はこれに賛成している。一九五九年の廬山会議で彭徳懐が三面紅旗に異議を唱え、国防部長と政治局委員を解任されたときに、劉少奇は毛沢東の彭徳懐解任提案を積極的に支持している。つまりこの段階では、すなわち人民公社や大躍進の失敗が明らかになるまでは、毛沢東と劉少奇の間に三面紅旗問題において対立はなかったわけである。

三面紅旗の評価をめぐって

両者の間に重大な対立が生じたのは、一九六一年後半からである。一九六一年一月の八期九中全会で、毛沢東は調査研究を大いにやるよう呼びかけた。劉少奇は故郷の湖南省寧郷県炭子冲に帰り、人民公社設立以後の農村の状況を調べた。農村の実情をつぶさに知って、劉少奇は三面紅旗に対する評価を改めたのである。劉少奇は農民にこう謝罪した。

今回帰郷して、郷里の人々の生活が苦しいこと、われわれの工作がまずかったことが分かった。皆さんに申し訳ない。天候が悪い、去年は日照りだったという人がある。おそらく日照りの影響もあろうが、主要な原因ではない。主要な原因は工作のなかで、誤りを犯したことであり、工作がまずかったことである。

一九六一年五月の中央工作会議で劉少奇はこう述べた。工作のなかの欠点・誤りが現在の困難をもたらした主要な原因である。劉少奇の見解ではこれらの誤りは三面紅旗自体の誤りではなく、路線の誤りではない。しかし、もし三面紅旗にこだわり誤りを訂正しないならば、路線の誤りに至るであろう。これらの誤りの主要な責任は中央にある。一九五八年に積極的に支持した三面紅旗がもたらした現実に対して、劉少奇はこう自己批判したのであった。

これに対して毛沢東の三面紅旗理解はもっと断固たるものであった。毛沢東によれば三年の困難(五九~六一年)をもたらした主要な原因は天災であり、三面紅旗自体の問題ではない。誤りは具体的工作のなかの小さな誤りにすぎず、しかもそれはすでに解決されたのであった。こうした毛沢東の確信からすれば、劉少奇は右翼日和見主義への転落にほかならなかった。まさにこの評価をめぐって四〇年来の戦友はまもなく袂を分かつことになるが、しかし劉少奇はそれに気づかない。

毛沢東の間接的批判

一九六二年一月の七千人大会以後、毛沢東は北京を離れて南方へ行き、党中央の日常工作は劉少奇が主宰することになった。深刻な経済危機に対処するために、一連の会議を開き、一連の措置を採った。財政赤字問題に対処するために、中央財経小組(組長・陳雲)を作り、政治面では三面紅旗がらみで批判された幹部を審査し、名誉回復した。一九五九年の反右翼日和見主義のなかで批判された者は、彭徳懐、黄克誠、張聞天、周小舟ら大物を除いて、他は基本的に名誉回復させた。こうした劉少奇の調整政策に対して、毛沢東はその時点では反対意見を述べなかった。毛沢東が強い不満を抱いていたことは後に劇的な形で明らかになる。毛沢東からすれば、二つの風、すなわち名誉回復風(原文=翻案風)と(集団農業から)戸別農家への解体の風(原文=単幹風)が吹いており、これらは資本主義復活につながるものであった。

八期一〇中全会(六二年九月)で毛沢東は改めて階級闘争を提起し、一部の同志を思想が混乱し、信念を喪失し、光明を見失ったものと批判した。ここで一部の同志のなかにはむろん劉少奇も含まれていたはずだが、当の劉少奇が毛沢東のこの間接的批判の対象に自らが含まれると自覚していたかどうか疑わしいところがある。

四清運動へのクレーム

一九六三年から四清運動が始められたが、六四年末に社会主義教育運動の経験を総括するために全国工作会議が開かれた。劉少奇がこの会議を主宰した。一二月一五日に劉少奇が講話を行い、一六日以後グループ討論が行われ、運動の性質、農村の主要矛盾をどう捉えるかが各地の責任者の運動の経験を紹介するなかで論議された。

六四年一二月末に「中央政治局の招集した全国工作会議討論紀要」(一七カ条)が印刷配付された。運動の性質については社会主義と資本主義の矛盾とされた。運動の名称は四清運動(政治、経済、組織、思想の四つを清くする意)とされた。運動は三年内に全国三分の一の地区で終え、七年内に全国の運動を終えるという見通しであった。

ところが毛沢東は運動の進め方に極左偏向を感じた。社会主義教育運動は工作隊にばかり依拠して、神秘主義をやり、打撃面を広げすぎている、とクレームをつけた。こうして今度は毛沢東の主宰のもとに、会議紀要を訂正する会議が開かれ、六五年一月一四日に「農村の社会主義教育運動でいま提起されている若干の問題」(二十三カ条)が制定された。しかもこの文件と抵触するものはすべて無効として、以後、「二十三カ条」を基準とすることが付け加えられた。これは党中央の日常工作を主宰する劉少奇に対して、毛沢東が公然と不信任を表明したに等しい。

激怒する毛沢東

毛沢東は六四年六月講話(未公表)で提起した「社会主義教育運動の六カ条」の精神を書き込んだ。1)貧農下層中農が真に立ち上がっているのかどうか。2)幹部の「四の不清」が解決されたかどうか。3)幹部が肉体労働に参加しているかどうか。4)立派な指導的核心が成立しているかどうか。5)破壊活動をした地主などの問題を単に報告するだけか、それとも現場で大衆が改造しているのか。6)増産になったか、減産か。六カ条のポイントは貧農下層中農が階級闘争に立ち上がっているかどうかであった。そして階級闘争の焦点は、資本主義の道を歩む実権派であるとされた(『重要会議集』二〇三頁)。

四清運動の矛盾の性質について毛沢東は一二月二七日、社会主義と資本主義の矛盾だと強調したが、劉少奇が口を挟み、「各種の矛盾が交錯している。四清と四不清の矛盾、党内と党外の矛盾がそれぞれ交錯しているので、矛盾の性質に応じてその矛盾を解決すればよい」と発言した。これを聞いて毛沢東はたいへん不機嫌になった。

翌二八日毛沢東は再び講話を行った。

ここに二冊の本がある。一冊は憲法であり、ここには私が公民権をもつと書いてある。もう一冊は党規約だが、私には党員の権利があると書いてある。いま君たちの一人(鄧小平を指す)は、私を会議に出席させまいとし、もう一人は私に講話をさせまいとしている。 

毛沢東が癇癪玉を破裂させたことによって、矛盾が激化し、公然化したのであった。当時毛沢東は健康が優れず、会議には出席しないことが多かった。そこで鄧小平 は毛沢東の参加を求めなかったとしている。しかし毛沢東は敢えて出席し、紀要を訂正した。この件について毛沢東は、北京に二つの独立王国(劉少奇の政治局、鄧小平の中央書記処を指す)があると批判した(『鄧小平 文選』二六〇頁)。

修正主義と反修正主義

この会議のあと、劉少奇に対して、毛沢東に対する尊重心が足らない、毛沢東の講話に口を挟むべきではなかったと忠告する者も幾人かあった。その後開かれた政治局生活会で、劉少奇は自己批判したが、毛沢東の怒りは消えなかった。毛沢東によれば、劉少奇の問題は主席を尊重する、しないの問題ではなくて、重大な原則問題なのであった。後に毛沢東がスノウに語った表現を用いるならば、それは修正主義と反修正主義の問題なのであった。

このとき毛沢東は、修正主義問題に没頭していた。ここから分かるように、毛沢東と劉少奇の衝突の真相は、個人的な怨念や権力闘争であるとは言い難い。というのは、劉少奇は一貫して毛沢東を尊重しており、毛沢東に代わって工作を主持した際に、重要なことは必ず毛沢東の指示を求めていたからである(金春明『論析』六六頁)。ここから浮かび上がる毛沢東・劉少奇関係は、まさにボス毛沢東に仕える部下劉少奇の関係である。劉少奇はかつての廬山会議における彭徳懐と同じく、毛沢東の権力に挑戦しようとするほどの意欲を示したわけではない。むしろ毛沢東の側が指導権の危機を感じ、先制攻撃に出たと解すべきであろう。毛沢東はこの点であくまでも積極的、攻撃的であった。

ボス毛沢東の逆鱗に触れた劉少奇は悲劇的な運命をたどるが、それは文化大革命という擬似大衆運動の展開と密接に関連していた。劉少奇に対する紅衛兵たちの批判から、政治的打倒、そして軟禁のなかでの惨死に至るまでの過程は四段階に分けられる。それは文化大革命の大きな流れのなかでの際立った渦の一つであった。

砲撃されるべき司令部は劉少奇

1)『海瑞罷官』から八期一一中全会までの暗に行われた批判

一九六六年五月に政治局拡大会議が開かれ、有名な「五・一六通知」を採択したが、これは劉少奇が主宰して決定したものである。「五・一六通知」には「われわれの身辺に眠るフルシチョフのような人物に警戒せよ」と書かれており、毛沢東が自ら書き加えた言葉である。これが後に劉少奇を指すことになる事態を劉少奇自身はどこまで感じていたのか、不明である。

2)八期一一中全会から一九六七年三月までの党内レベルにおける批判

一九六六年七月下旬、毛沢東は北京に戻った。七月二五日毛沢東は工作組が路線の誤りを犯したので、すべて撤収させよと指示した。七月二九日人民大会堂で文化大革命積極分子による一万人大会が開かれ、この席上工作組の撤収が宣言された。劉少奇はこの大会でこう述べた。「文化大革命をどうやるのか、君たちが知らないならば、われわれに聞きに来給え。私は正直に言うが、実は私も知らないのだ」。

劉少奇の当惑ぶりが察せられるような発言だが、どうやらこの時点で劉少奇はようやく何かを感じたようである。

一九六六年八月一日、八期一一中全会が開かれた。八月五日、毛沢東は「司令部を砲撃しよう──私の大字報」を書いて会議場に掲示させた。毛沢東のいう砲撃されるべき司令部が劉少奇であることは、いまや会議に出席した中央委員にとっては誰の目にも明らかであった。劉少奇はナンバー2の地位からナンバー8に落ちた。依然政治局常務委員の地位を保持したものの、実際には実権派と認定され、実質的にポストを外された(原文=靠辺站)。

劉少奇の自己批判

六六年一〇月に開かれた中央工作会議では少なからぬ者が劉少奇を名指し批判し、劉少奇は自己批判(原文=検査)を行った。当時の劉少奇の立場を後に妻王光美はこう証言している。文化大革命が始まると、劉少奇同志は確かに批判を受け入れようとした。彼はかつてこう述べた。「今回耳にした批判は、言葉がいかに鋭く、行き過ぎたものであろうと、そのなかから有益なものを吸収しさえすれば、将来の工作にプラスになろう。自分をよりいっそう大衆に近づけることができる」と。一九六六年一〇月の中央工作会議の期間、劉少奇同志は誠心誠意自己批判(原文=検査)を行った。(事前に)わざわざ発言原稿を毛主席に見せている。毛主席は読んだあと「劉少奇同志の態度は誠実であり、自己批判は立派だ。とりわけ後半部分がよい」と批示した。中央工作会議が終わると、陳伯達、江青がこの自己批判をすっぱぬいたが、毛主席のコメントだけは押さえてしまった。

毛沢東が褒めた後半部分にはこう書かれている。「私は一一中全会と毛主席の一切の決定に対して、厳格に遵守する決意であり、一人の党員として遵守すべき紀律を遵守し、いかなる者の前でも面従腹背(原文=両面派)をやらない決意である」(六六年一〇月二三日付、『中共文化大革命重要文件彙編』三八六頁)と述べた箇所あたりを指すものと思われる。まさにボスと部下との関係であり、劉少奇の態度は「蛇に睨まれた蛙」の姿さえ想起させる。

毛沢東の意志決定

劉少奇はすでに中南海の住居に軟禁状態にあったが、一九六七年一月一三日深夜、毛沢東に申し入れて、人民大会堂で会うことになった。劉少奇は自分が繰り返し考慮したことを毛沢東に鄭重に申し入れた。1)今回の路線の誤りの責任は私にある。広範な幹部は立派であり、とりわけ多くの老幹部は党の貴重な財産である。主要な責任は私が引き受けるので、どうか速やかに幹部を解放して、党の損失を小さなものとしていただきたい。2)私は国家主席、政治局常務委員、『毛沢東選集』の編集委員会主任の職務を辞して、妻子とともに延安あるいは故郷に帰り、畠を耕すので、できるだけ速く文化大革命を終わらせ、国家の損失を少なくしてほしい。

「毛主席は黙して語らず、ただひっきりなしに煙草を吸っていた。しばらくして彼は父に数冊の本を読むように提案し、(中略)別れ際に自ら門口まで父を見送り、懇切に“しっかり学習されるように。お体を大切に”と語った」(劉平平ほかの証言)。劉少奇の子弟たちがこう証言している。おそらく真実であろう。

一九六七年三月、毛沢東はある小会議で、第九回大会の準備に触れて、劉少奇を中央委員に選ぶよう提案している。劉少奇をポストから外した(原文=靠辺站)させたものの、六七年三月の時点ではまだ劉少奇をどう扱うかについて毛沢東は意思決定を留保していたことが分かる。劉少奇批判は党内レベルのものであり、劉少奇の誤りの性質も党内のものであって、敵味方のものではないとする認識である。

しかし、一九六六年一二月、張春橋は清華大学井岡山兵団のリーダー大富を使嗾して北京市内で五千人デモを行わせ、その際に劉少奇打倒、劉少奇を初めとするブルジョア司令部を徹底的に粉砕せよなどのスローガンを叫ばせており、このスローガンはまたたく間に全国に伝わった。江青一味は中南海造反団に指示して大字報を貼らせ、劉少奇つるし上げ大会をやろうとした。ただしこれは周恩来が指示してやめさせた。

劉少奇批判がエスカレート

3)戚本禹論文から八期一二中全会まで(名指しを避けた公開批判)

一九六七年四月一日、『人民日報』は戚本禹論文「愛国主義か、売国主義か」を掲げた。この論文の結末における劉少奇難詰はすでに同志の範囲を超えており、劉少奇は敵として扱われていた。戚本禹論文はむろん毛沢東の事前審査を受けている。では毛沢東はなぜここで劉少奇批判をエスカレートさせたのか。

ここには康生の陰謀が関係している。北航紅旗など六つの紅衛兵組織の聯合調査団が湖南省などを調査し、劉少奇を誣告する資料を集め、中央宛の報告を書いた。これによると、劉少奇は逮捕され、裏切って出獄した前科があるので、劉少奇を審査する委員会を設けるべきだと提案されていた。

一九六七年三月二一日、毛沢東はこの提案に同意し、他の政治局常務委員も同意している。当時の常務委員は毛沢東のほか、林彪、陳伯達、周恩来、康生の五名である。劉少奇に対する審査が始まると、新聞の劉少奇批判はエスカレートした。劉少奇は毛沢東に手紙を書いて戚本禹論文の事実誤認に抗議している。

一九六七年七月九日付で劉少奇は第二の「自己批判」(原文「自我検査」)を書き、八月二日付で第三次「自己批判」を書いている。一九六七年八月四日には中南海内で鄧小平、陶鋳、王光美らとともに、紅衛兵の尋問に答えている。

「中国最大の修正主義者」

4)八期一二中全会における除名決定以後(名指しによる批判の開始)

一九六八年一〇月、八期一二中全会が開かれ、劉少奇除名が決定されたが、これは異例の会議となった。まず第一に出席者が定足数に足りなかった。八期中央委員は九七名だが、当時一〇名が死去して欠員となっていたので、定員は八七名であった。しかし出席した中央委員はわずか四〇名にすぎなかった。そこで中央委員候補のなかから増補することになるが、慣例では得票順に確定している序列にしたがって保選される。しかし、このときは得票順とは無関係に任意に一〇名を選び、中央委員とし、辛うじて五〇名とし、過半数を保ったのであった。第二に会議の進め方も異例であった。会議の冒頭、毛沢東が文化大革命の評価問題を提起し、成果が主要であるか、誤りが主要であるかが論じられ、「二月逆流」事件にかかわった者が批判された。

第三に劉少奇審査組は、劉少奇関係の全資料を会議に提示せず、康生、江青、謝富治らがデッチ上げた資料だけを提出した。しかもこの「罪状資料」は事前に毛沢東の承認を得ていた。こうして八期一二中全会は劉少奇に対して「叛徒、内奸、工賊」のレッテルを貼り、党から永遠に除名した。この審議において当初は賛成の意志表示をしないものもあったが、批判されて最後には支持した。賛成しなかったのは陳少敏(一九〇二~一九七七年、全国総工会副主席、八期中央委員)だけであった。彼女は投票に際して机に泣き伏し、挙手できなかった。その後彼女は残酷な迫害を受けた死亡した。そして劉少奇は名誉回復されるまで一〇年間、「中国最大の修正主義者」として対する名指しで批判され続けた。

捏造されたスパイ説

劉少奇は八期一一中全会以後も依然として政治局常務委員であったが、彼の経歴を審査する委員会を作ることがなぜ可能であったのか。劉少奇の妻王光美をまず落としたのであった。一九六六年一二月、王光美専案組が作られた。これは名称こそ王光美であったが、実際にはその夫たる劉少奇の罪状をデッチ上げる組織となった。江青、康生グループはまず王光美をアメリカCIAのスパイとし、これに劉少奇を巻き込み、劉少奇=アメリカスパイ論を捏造しようとした。王光美はもと北京の輔仁大学学生時代に地下党員になったが、英語が得意であった。解放戦争の初期に国共双方の協議に基づいて北平(北京)に軍事調処執行部(代表葉剣英)が設けられ、王光美はそこの通訳となった。王光美はこうして解放区入りし、河北省平山県西柏坡で劉少奇と結婚した。だが、これを取り上げて康生は王光美スパイ説をデッチ上げ、劉少奇打倒と葉剣英打倒を狙ったという。

こうして王光美はアメリカのスパイ、劉少奇はアメリカ極東情報局代表であるとする報告をまとめたが、ズサンなため、この報告は党中央に送付されなかった。当初の劉少奇スパイ説が破産したので、劉少奇裏切り説に転換した。劉少奇は一九二五年春、上海から湖南に帰ったところで湖南省長趙恒慯に逮捕され、一月後に釈放され、湖南省境に追放されている。一九二九年満洲省委員会書記として、工作していたときも一度逮捕されたことがある。法廷闘争を通じて二カ月後に無罪釈放となった。

長年党内で幹部の審査工作を行ってきた康生は、これらの事実をもとに劉少奇をスパイにデッチ上げたのであった。白区工作において劉少奇と関係のあった者が偽証を強要されたが、拷問に耐えきれず発言した者のうち、カギになる偽証をしたのは、二人であった。一人は丁覚群で一九二七年当時武漢で劉少奇と工作をし、建国後は湖南省参事室の参事を務めていた。もう一人は孟用潜であった。彼は一九二九年に満洲省委員会委員となり、劉少奇書記のもとで奉天でストライキを指導して逮捕され、同時に釈放された。

六七年五月彼は「隔離審査」され、偽証を要求されたが、一貫して拒否していた。ついに七月五日~一三日の十数人による七日七夜のつるし上げに耐えきれず、偽証を書いた。

毛沢東は劉少奇の「転向」についての報告を当初は信用せず、全資料の提出を求めた。それらを点検した後、報告を承認し、かくて劉少奇冤罪が党中央によって決定された。

汚辱のなかでの最期

一九六六八月五日に毛沢東が大字報を書いたのは「ブルジョア司令部」批判というイデオロギー問題、政治路線の問題であった。その当否はさておくとしても、文革の精神、あるいは毛沢東の真意からすれば、劉少奇は路線の誤りを自己批判すれば、それで済むはずであった。しかし、陰謀家たちは劉少奇の裏切り──転向という革命家にとって最大の汚点をデッチ上げた。毛沢東はこれらの偽証にだまされ、劉少奇追放を承認した形である。劉少奇は一九六九年一一月一二日汚辱のなかで、惨死した。

劉少奇の遺骨の保管証にはこう書かれていた(朱可先ほか「最後の二七日間」『人民日報』八〇年五月二〇日)。

遺骨番号:一二三

保管申請者氏名:劉原

現住所:××××部隊

故人との関係:父子

死亡者氏名:劉衛黄

年令:七一歳

性別:男

つまり国家主席劉少奇は死去に際して、本名を名乗ることすら許されなかったのであった。
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 楼主| 发表于 2006-2-8 19:22:29 | 显示全部楼层
5 周恩来の役割と鄧小平の復活前後
周恩来と文革

鄧小平による評価

苦渋に満ちた讃歌

厳しい周恩来批判

評価の曖昧性

晩年の「極左批判」

闘病生活に入る

「悲劇の宰相」

鄧小平の復活前後

複雑な背景での再起

皮肉な現在のブルジョア自由化批判
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 楼主| 发表于 2006-2-8 19:23:39 | 显示全部楼层
5 周恩来の役割と鄧小平 の復活前後

周恩来と文革

文化大革命が全面的に否定される場合に、毛沢東の役割が否定的に評価されることは当然である。ここで議論の分かれるのは、周恩来評価である。周恩来は四九年以後七六年に死去するまで二七年の長きにわたって国務院総理を務めた。毛沢東が文革の推進において、林彪の軍事力に頼ったことは、すでに書いたが、毛沢東の依拠したもう一つの力が周恩来の行政処理能力であった。

『周恩来選集』(下巻)には四九~七五年の文献五六篇が収められているが、文革期のものは六篇にすぎない。四七九頁中の三〇頁、すなわち六%にすぎない。内容は幹部保護に関するもの、経済の秩序維持に関するもの、教育再開に関するもの、外交問題(中米関係、中日関係)に関するもの、である。

これを『中共文化大革命重要文件彙編』(台北、七三年)と比べて見よう。『彙編』には六七年一月から六八年七月の一年半だけで三三篇の文献が収められており、これを読むと、周恩来が文革の推進にいかに深く関わっていたかを知ることができる。しかし、『選集』からは文革期の周恩来の姿は、きわめて限られた一面しか知ることができない。

鄧小平 による評価

文革期における周恩来と毛沢東の関係を、晩年の周恩来を描いて注目された高文謙(中共中央文献研究室周恩来研究組)はこう書いている。「毛沢東は周恩来に依拠し、支持してこそ、情勢を安定させ、国家生活全体の継続的な運行が可能であると考えていた」(「艱難にして輝く」『人民日報』八六年一月五日)。

これは歴史に対する仮定の話だが、周恩来がもし断固として毛沢東の文革発動に反対していたとすれば、文革は起こらなかった可能性がある。というのは、文革の直前、政治局常務委員会のメンバーは、毛沢東、劉少奇、周恩来、朱徳、陳雲、鄧小平、林彪の七人であった。毛沢東派は林彪のみ、劉少奇派は陳雲、鄧小平 を含めて三名、周恩来、朱徳が中間派であった。文革開始を決定する際に、毛沢東は周恩来、朱徳を抱き込むことによってようやく四対三の多数派となりえたのである。もし周恩来が文革の帰結を予想し、毛沢東の文革発動に反対したとすれば、あの悲劇が避けられた可能性もあるわけだ。

文革で打倒された鄧小平 は、周恩来の役割をどう評価しているのであろうか。イタリアの女性記者オリアナ・フアラチの鋭い問に対する鄧小平 の答えを聞いて見よう。

フアラチ:周恩来総理は一貫して舞台の上におり、一貫して権力の座にいた。時には彼は困難な立場に立たされたとはいえ、彼が当時のあの誤り〔文化大革命の誤り〕を是正できなかったのはなぜか。

鄧小平 :〔周恩来と鄧小平 の交際がフランスの勤工倹学時代にさかのぼることに触れ、周恩来の人柄を紹介したあと〕“文化大革命”の時に、われわれのような者はみな下りた。幸い彼は残った。“文化大革命”において彼の置かれた立場は非常に困難であった。多くの心にもないこと〔原文=違心的話〕を語り、多くの心に違うこと〔原文=違心的事〕をやった。しかし人民は彼を許している〔原文=人民原諒他〕。というのは彼がそれをやり、その話をしなければ、彼自身がポストを守れず、そのなかで中和作用を果たし、損失を減らす役割を果たすことができなかったであろう。彼はかなり多くの幹部を保護した(『鄧小平文選』三〇七頁)。

苦渋に満ちた讃歌

鄧小平 によるこうした周恩来評価が現在の公認の周恩来評価になっている。たとえば高文謙はこう書いている。「周恩来は“文化大革命”によってもたらされた損失をできるかぎり減らそうとしたが、若干の心にもない話をせざるをえず、心に背くことをせざるをえなかった。しかし当時の条件のもとで、こうしなければ前述の二つの歴史的役割〔1)文革の損失や誤りを減らしたこと。2)文革の転機となる段階で「撥乱反正」の機会をとらえて局面を転換させたこと〕を果たせなかったであろう。これは歴史の悲劇のなかで、党と国家の最高の利益のために行いえた妥当な選択であった。これは代価を払わなければならない強靱な戦闘であった。そのなかでわが国全体が置かれていた歴史の陰影のなかで免れ難い歴史の屈折に対しては過度に非難してはならない(「艱難のなかで輝く」)。私は八八年夏に、中共中央文献研究室を訪れた際に高文謙とも少し背なしをした。当年三五歳、思考する世代を自任するこの青年が一切の制約なしに周恩来を論じたらどんなことになるか。想像するだけでも興味津々であった。

厳しい周恩来批判

このような苦渋に満ちた周恩来讃歌に対して、香港の政論家牧夫は真向からこれを否定する周恩来論を展開している(「もう一人の周恩来」『争鳴』八六年一期、四期)。

彼によれば、周恩来は遵義会議(一九三五年一月)以後、四〇年一貫して毛沢東に対する「愚忠」を貫いたという。文革においてもし周恩来の存在がなかりせば、毛沢東・林彪・江青の失敗はもっと早く、かつもっと徹底したものとなったであろう。文革における周恩来の役割は結局のところ、毛沢東の独裁的統治に有利であった。

文革期に湖南省省無聯が「中国はどこへ行くのか?」と題した論文を書いて、周恩来を「中国の赤色資本家階級の総代表」と攻撃したが、周恩来こそ共産主義官僚体制の集大成者であり、この体制の凝固化を助長した人物であった。

周恩来は自己の私欲を抑えることヒューマニズムに反するほどであり、党派性と徳性のほかには自我のなかったような人物である。まさに現代の大儒にふさわしい。

牧夫はこのように辛辣な周恩来評価を行っている。実は大陸の知識人の間にも、類似の厳しい周恩来評価が存在している。たとえば呉祖光(劇作家、八七年の胡耀邦事件以後、共産党を離党した)は、かつて来日した際にズバリこう述べている。

「周恩来は宰相で、皇帝の地位にはいなかったが、宰相としての職責を果していなかった。皇帝(毛沢東を指す)が過ちを犯した場合、宰相(周恩来)が諌めるべきだが、そうしなかった。しかし、諫言していれば、彭徳懐〔元国防部長〕と同じ道をたどったであろう」(『日中経済協会会報』八八年七月号)。

評価の曖昧性

かつては神格化された毛沢東批判に伴う心理的動揺を周恩来の存在によって補償しようとする心理状況が広範に存在していたように思われる。この場合、誤りを犯した厳父と対照して周恩来は慈母のごとくであった。しかし、鄧小平近代化路線が着実に進展し、毛沢東時代が遠ざかるにつれて、文化大革命に対する批判はより徹底的に行われるようになり、批判のおもむくところ周恩来評価も厳しくなるのは必至である。

この意味で、周恩来評価もまた依然「棺を蓋うて論定まる」段階には至っていない。『選集』のなかに、文革期の周恩来発言がごく一部しか収録されていないことが、周恩来評価の曖昧さを端的に示している。

歴史は非情であるから、今後もますます厳しい評価になる可能性があるが、それはそれとして、晩年の周恩来についていくつかの事実を確認しておくのがよいであろう。

晩年の極左批判

高文謙「最後の日々に」(『人民日報』八六年一月四日)によると、周恩来は七二年五月の定期検査でガンが発見された。林彪事件から八カ月後のことである。周恩来はその後「極左批判」に全力を挙げようとした。たとえば七二年一〇月一四日付『人民日報』は周恩来講話に基づいて三篇の極左批判論文を掲げている。この編集をやったのは、王若水(当時『人民日報』副編集長)、胡積偉(当時『人民日報』編集長)らであった。

王若水の回顧談によると(拙著『中国のペレストロイカ』一二九頁)、七二年一二月、人民大会堂のある会議室に呼び出され、江青、張春橋、姚文元からおびす王若水は叱られた。彼らは毛沢東の支持をとりつけており、同席した周恩来もなす術がなかった。かくて周恩来の極左批判路線は否定され、林彪は極右路線として扱われることになった。その後第一〇回党大会(七三年八月)で周恩来が政治報告を行ったが、これに先立つ七三年四月に、毛沢東は王洪文、張春橋への談話のなかで、周恩来の主管する外交部が「大事を討論せず、小事を毎日報告してくる。この調子を改めなければ必ず修正主義に陥るだろう」と批判している。七三年一一月には、毛沢東はまた確かならざる資料に基づいて周恩来が外事活動で間違った発言を行ったとして、政治局会議で周恩来批判を行わせている(『中国共産党六十年』六三二頁)。

闘病生活に入る

このとき周恩来の病状は急速に悪化した。毎日大量の下血があり、時には一〇〇cc以上であった。しかもこの機会をとらえて江青らは、一方で「批林批孔」運動を画策し、他方で首都空港への数十キロの往復を必要とする来賓出迎えをさせていた。周恩来は輸血に依拠しながら、毎日十数時間の仕事に耐えた。そして七四年四~五月、四回にわたって酸素不足に陥り、五月三一日、マレーシア・ラザク首相と国交回復のコミュニケに調印した後、六月一日手術のために入院したのであった。このとき、周恩来はまるまる二五年間総理として働いた中南海西花庁の事務室を離れ、その死去までの一年六カ月の闘病生活に入ったのであった。

ところで七四年六月一日の手術は順調であった。しかし八月に再手術が行われた。九月三〇日夜、周恩来は総理として病をおして建国二五周年祝賀会を主宰した。国慶節前後、毛沢東は四期全人代の人事問題を提起し、鄧小平を第一副総理に指名した。一〇月一七日、江青らは輸入貨物船「風慶輪」号について「西洋に媚びるもの」と、周恩来、鄧小平 攻撃に乗りだした。王洪文は一〇月一八日、長沙まで飛んで、周恩来、鄧小平を誣告している。周恩来はこれを知って、一〇月一九日、毛沢東の連絡員〔王海容あるいは唐聞生を指す〕を病床に呼び、事の顛末を毛沢東に報告させている。この報告を受けて毛沢東は一〇月二〇日、「総理はやはり総理だ。四期全人代の準備工作と組閣構想は総理に委ねる」と指示し、さらに鄧小平の第一副総理、党副主席、軍事委員会副主席兼総参謀長案を再度提起したのであった。

「悲劇の宰相」

七四年一二月、周恩来は鄧小平 、李先念らと協議して、四期全人代と国務院人事案を練った。そして一二月二三日から五日間長沙に飛び、毛沢東に報告した。毛沢東が鄧小平を「得難い人材だ。政治思想が強い」とほめ、「江青には野心がある」と指摘したのはこの時であった。七五年一月一三日、周恩来は全人代で政府工作報告を行った。高文謙によれば、周恩来はこの過労のために、病状が悪化した。三月に検査したところ、大腸の肝臓に近い部分にクルミ大の腫瘍が発見され、月末にふたたび手術が行われた。三月から九月までに周恩来は一〇二回仕事の指示を行い、外国賓客と三四回会見し、病院外の会議に七回、病院内の会議に三回出席している。

七五年九月、病状は急速に悪化した。六五キロの体重が「数十斤」に激減した。九月二〇日、再度の手術が決定され、一〇月下旬に行われた。以後、周恩来はもはや病床から立ち上がれなくなった。しかし、まさにこの時に「右傾翻案風に反撃する運動」が江青らによって展開されたのであった。こうしたなかで周恩来は七六年一月八日死去した──高文謙の描く周恩来の最晩年は文字通り「悲劇の宰相」である。

鄧小平 の復活前後

六九年一〇月一七日、林彪は「緊急指示」(一号通令)を出して、戦時動員を命令した。鄧小平 夫妻と鄧小平 の継母は一〇月二〇日南昌に送られ、数日後江西省新建県望城崗の福州軍区南昌歩兵学校に付設されたトラクター組立て工場に移され、以後三年余、ヤスリでネジを磨く作業を監視つきでやった。後には歯車を磨く作業もやらされた。六五歳の老人にしてはきつい仕事であったろう。それまでは鄧小平の月給は月四〇二元、妻卓琳のそれが一六五元、計五六五元であった。しかし七〇年一月以後生活費として鄧小平 一二〇元、卓琳六〇元、継母夏培根二五元、計二〇五元が支給されるようになった。そこで鄧小平はパンダ印の煙草を止めて、安い前門印に切り替え、酒も普通の米酒に変え、時には自分でドブロクを作った。

鄧小平 は北京で批判・闘争にかけられていた間、しばしば不眠症に陥り、昼寝前にミンルトン二片、夜の睡眠前にベンバヒト一片、スークーミン(速可眠)一片、眠爾通一片、非那根二片を飲む習慣であったが、七〇年元旦以後、睡眠薬を飲まないと宣言し、これを断行した。林彪事件以後、江西省東郷紅星開墾場に送られていた王震(生産建設兵団司令)が北京に戻り、江西省で労働する鄧小平の状況を毛沢東に報告した。七二年八月四日、鄧小平 は毛沢東に手紙を書いた。これは中共中央弁公庁汪東興を通じて毛沢東に届けられた。毛沢東はこの手紙にこうコメントを書いた。「鄧小平同志は中央ソビエト区でたかれたことがある(原文=挨整)。彼には歴史問題はない。すなわち敵に投降したことはない。彼は劉伯承同志を助けて戦い、戦功があり、解放以後もよいことをやらなかったわけではない。たとえば代表団を率いてモスクワを訪問したとき、ソ連修正主義に屈伏しなかった。これらのことを私は何度か語ったが、ここでもう一度言っておく」。

周恩来は毛沢東のコメントと鄧小平 の手紙とを若干部印刷させ、政治局会議で討論させた。他方、党中央の名で江西省委員会に通知し、監督労働をやめさせ、党組織生活を復活することを指示した。こうして鄧小平の旧秘書たちが直ちに鄧小平 のもとに送られ、鄧小平 は政治生活を再開した。

複雑な背景での再起

七三年三月一〇日、政治局会議は鄧小平 の党組織生活の回復と国務院副総理の復活を決定した。二〇日午前八時、鄧小平 一家は南昌~北京の特急に乗り、北京に戻った。四月一三日、周恩来は人民大会堂でカンボジアのシアヌークと会見した席に鄧小平を陪席させ、復活を演出した。まもなく毛沢東は鄧小平 を軍事委員会副主席兼総参謀長に任命した。鄧小平 は早速八大軍区司令員の移動を断行するとともに、一連の脱文革路線を推進した(「一九六九~七二年の鄧小平」『華人世界』八八年一期)。

鄧小平 の復活に対して、林彪事件が直接的契機となったこと、周恩来の役割が大きかったことは、このルポから知られる。実は、鄧小平 復活の背景には、もっと複雑な事情が控えていた。

私は第二部冒頭に書いた中国への旅に際して、幸いにも中共中央のイデオロギー研究の本部ともいうべき中央党校や中央文献研究室を訪ね、懇談する機会を得た。その際に、高文謙や石仲泉(中共中央文献研究室理論研究組組長)に鄧小平復活を決定したのは毛沢東か、周恩来かと質問した。石仲泉はこう解釈してくれた。

「劉少奇の問題と鄧小平 の問題とは、性質が異なる。劉少奇にはイデオロギーの問題(転向問題)があったが、鄧小平 にはそれはない」「私個人の考えだが、林彪事件の発生こそが鄧小平復活の最大の背景である。林彪事件は毛沢東の文革理論・方針・実践の破産を宣告したに等しかった」「当時周恩来は極左批判をやろうとしており、まさにこの問題で毛沢東は周恩来に不満を抱いていた。私の推測では、毛沢東の真意は鄧小平を復活させて周恩来と置き換えようとしたのではないか」「周恩来はにもかかわらず、鄧小平 の復活に積極的であった。たとえば七二年一月、毛沢東は陳毅の追悼会に出席した際に、きわめて小さな場で“鄧小平 と劉少奇には違いがある。鄧小平 は人民内部の矛盾である”と語った。この発言をとらえて周恩来は口コミ〔原文=小道消息〕でこれを社会に伝えた。当時鄧小平の子女が北京の王震家に来た。王震がこのニュースを子女に伝え、“鄧小平 が自己批判を書くように”と勧めた」(なお、詳しくは『中国現代史プリズム』V・1の拙稿参照)。

つまり、鄧小平 復活にかける毛沢東と周恩来の意図とは同床異夢だったわけである。毛沢東は自己批判した鄧小平 をもって周恩来と置き換えることを考え、他方周恩来は“四人組”の極左路線是正のために、鄧小平 の力を借りようとしていたわけである。

ただこうした経緯を経て奇蹟的に復活しえた鄧小平 が周恩来評価において中途半端にならざるをえないことは明らかであろう。

皮肉な現在のブルジョア自由化批判

さて復活した鄧小平 は周恩来の期待に応え、毛沢東の意図に反して、脱文革路線を強力に推進し、「あいつという男は、階級闘争をつかまず、これまでこのカナメを口にしたことがない。依然として白猫黒猫だ。帝国主義であろうとマルクス主義であろうと頓着なしだ」と毛沢東をして激怒させた(『人民日報』七六年三月二八日付社説)。

こうして毛沢東は天安門事件(七六年四月五日)を契機として、鄧小平 再解任を指示した。「あいつはマルクス・レーニン主義がわかっておらず、ブルジョア階級を代表している。永遠に巻き返しはやらないと言っておきながら、あてにならない」と最晩年の毛沢東をして嘆かせた(『人民日報』七六年四月一〇日付社説)。

さて後日談。胡耀邦に辞任を強要し、趙紫陽を解任した際の鄧小平 語録が彼らは「ブルジョア自由化反対」をやらなかったというものであったことは、歴史の痛烈な皮肉である。鄧小平はかつて毛沢東から投げつけられた悪罵をそっくり後継者の胡耀邦、趙紫陽に投げつけたことになるからだ。
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 楼主| 发表于 2006-2-8 19:23:58 | 显示全部楼层
結びに代えて──文革の亡霊
文革の狂気

記憶を歴史に刻む

文革の亡霊に脅える

以後十二年の歴史

文革を反面教師として
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 楼主| 发表于 2006-2-8 19:24:22 | 显示全部楼层
結びに代えて──文革の亡霊

文革の狂気

文革が七六年に終わったとすれば、今年は文革以後一三年になる。六六年に開始された時から数えれば、すでに二三年である。しかし、文革の亡霊はいまだ中国の大地を徘徊している。

文革時代を包んでいた一種異様な雰囲気について、「宗教的色彩を帯びた現代迷信」「封建的フアシズム」などと形容されることが多い。いくつかの例を挙げよう。ある老人は毛沢東塑像のホコリを払おうとして首に手をかけたところ「謀殺を図ったもの」と解釈され、現行反革命として何年も拘留された。五歳の幼児がいたずらして毛沢東バッジを小猫の首に掛けたところ、母親もろとも闘争にかけられた。毛沢東の写真が印刷してある新聞や雑誌を捨てたために「階級の敵」とされた者はすくなくない。印刷労働者が不注意のミスプリを犯して、「階級の敵」とされた例もある。

なかでも極め付きは林昭という女性の場合である。彼女は上海の監獄に投獄されていたが、自己批判を拒み、六八年四月二九日、銃殺された。そして五月一日早朝、老いた母親のもとに、処刑の請求書が届いた。「反革命分子のために銃弾を一発用いたので、家族は一発分〇・〇五元を支払うべし」(『沈思』二巻、三三一頁)。ここには文革の狂気が凝縮されているように思われる。

記憶を歴史に刻む

ある中国人はエンゲルスのルネサンス礼讃をもじって、こう書いている。「(文革という時代は)犯罪者を必要とするがゆえに犯罪者を作り出した時代、残酷野蛮、愚昧、無知の面で、獣性のみあるもヒューマニズムなき犯罪者の時代であった」と(同書三三八頁)。著名な作家巴金が文革発動二〇年(八六年)に当たり「文革博物館」の設立を提唱したことがある。「われわれは皆子々孫々に一〇年の痛ましい教訓をしっかりと記憶させる責任がある。歴史の再演を許さないために」(上海『新民晩報』八月二六日)。

この提案を受けて、わが学生時代の中国人老師黎波はこう書いた。「文革は、中国の暗部の最たるものに違いない。人目に触れさせたくないという気持ちは理解できるが、二度と文革のような悲劇を繰り返させないために、隠蔽ではなく、反対に掘り起こして歴史に刻むべきではないだろうか。文革が終結すると、われもわれもとばかり被害者を名乗り出た。すべてうそ偽りだとはいわないが、文革の被害者のほとんどは被害者になる前に加害者であったり、そのあとに加害者側に組み入れられたはずだ。こういう人たちは、文革を語る巴金、陳白塵、陳若曦、白樺、劉賓雁などをこころよく思わないのも当然至極である」(季刊『烏其山』八六年秋号)。

老師はさらにこう続けた。「文革の真相のかなりの部分を闇の中に閉じ込めることができたのは、受益者の力によるものと見てよかろう。日本の南京大虐殺隠しとドイツのポーランド人迫害隠しには、それぞれ有力な共犯者と後継者が多く存在していた。文化大革命を太陽の下にさらせば、二度とあのような惨事は起こらない、という歴史観からではなく、中国人とはなにか、この問を解く鍵が文革の中にあるのではないかという考えから、文革学の成立を期待するのである。

そのため先ず手始めに、正確な文革史、文革写真集、文革百科事典、文革用語辞典を刊行してほしい。そして大字報、通信、思想報告、身上調書、批判闘争の記録、映画フィルム、録画・録音テープ、被害者の名簿、遺品、遺書、加害者の供述書、加害現場、刑具などの保管や展示をする資料館、博物館、図書館をつくること、それが中国人の、人間としての証しであろう」(季刊『烏其山』八七年春号)。

王若望(八七年一月、方励之とともに党から除名された)は、『文化大革命大辞典』編集の意図をこう語ったことがある。「文革の一〇年に現れた怪名詞、新政治用語を集めておくことは、わが国の現代小説を外国語に翻訳する上で訳にたつ。原稿募集の呼びかけはまだしていない。編集の仕事量はたいへんだが、完成すれば面白いものとなるはずだ」(香港『九十年代』八六年八期のインタビュー)。

まことにわが老師の喝破したごとく、「有力な共犯者と後継者」が存在しているために、「文革博物館」は日の目を見ず、『文化大革命大辞典』も出版されるに至らない。そこで文革の亡霊は浮かばれることがなく、中国の大地を徘徊し続けることになる。

文革の亡霊に脅える

昨八八年は辰年、中国人は「龍の子孫」であるかどうかが論じられ、政治学者厳家其(中国社会科学院前政治学研究所所長)は「中国はもはや龍ではない」と書いて、中華思想を批判し、話題になった(『世界経済導報』八八年三月二一日号)。六月には蘇暁康ら改革派知識人が脚本を書いたテレビ・ドキュメンタリー「河殤」が六回にわたって中央電視台から放映され、話題を呼んだ。人々が中華思想、夜郎自大意識の迷妄から覚醒することこそが、前進の一歩であると彼らは問題を提起したのである。

ところがこの「河殤」に対して、保守派の長老たちは「精神汚染」「ブルジョア自由化」と認識し、「河殤」批判を執拗にくり広げた。この事実に改革派知識人たちが危機感を抱き始めたことが厳家其・温元凱対談(『鏡報』八八年一二月号)から知られる。つまり「河殤」批判は、「河殤」を容認した総書記趙紫陽追い落としの陰謀だというのである。ここでは文革初期に姚文元が呉ハン「海瑞罷官」を批判したことが、ついには彭真打倒、劉少奇打倒にまで至った文革が想起されている。

ところで、文革の亡霊に悩まされていたのは、実は改革派だけではない。鄧小平 ら保守強硬派、長老派もまた文革の亡霊に脅えていたのであった。八九年四月下旬の学生デモの状況について保守派の北京市委員会書記李錫銘が予断と偏見に満ちた報告を行った際に、これを聴取した鄧小平は即座に「これは一般の学生運動ではなく、動乱だ」と認定している。当時のデモはわれわれ外国人がテレビ画面を通じてしばしば観察したように、非暴力の整然としたデモであり、請願のための坐り込みであった。にもかかわらず、咄嗟に「動乱だ」と叫んだのは、まず文革の亡霊を想起したからであるに違いない。

鄧小平 は中国最大の実権派に次ぐ、実権派ナンバー・ツーとして、文革の闘争対象とされ、苦難を味わった。長男樸方が紅衛兵によって半身付随の身体障害者にさせられたことはよく知られている。鄧小平だけではない。「動乱」という用語そのものが「文革の十年」を指す代名詞でもあるわけだ。

以後12年の歴史

学生側は「愛国民主の運動」と自己規定したが、にもかかわらず動乱視する謬論に対して、彼らは「愛国民主運動と文革動乱」なるビラを書いて、両者の違いを説明しているほどだ。ついでにもう一つ。政変に際して趙紫陽軟禁を指揮したのは、王震(国家主席)であると伝えられる(ちなみに、王震が鄧小平再復活の裏面で活躍し、“四人組”逮捕劇でも重要な役割を果たしたことが、今日大きな影響力を行使しうる理由である)。その王震は趙紫陽ブレーン集団を非難して「文革期の林彪“艦隊”と同じであった」と断罪している。林彪=趙紫陽という図式は、いかにもムリであるが、こういう枠組みでモノを考える思考スタイルはいかにもありそうなことである。

つまり、改革派も保守派もともに、文革の亡霊に悩まされ、互いに相手の行動を文革派のそれになぞらえ、自らの立場を批判にさらされる実権派の側に比定していることが分かる。民主化運動を推進する側も、これを動乱、暴乱と見て鎮圧する側も、ともに相手を非難する際には「文革派」というレッテルを貼ろうとしている点が特徴的である。

文革時代の混乱に終止符を打って、近代化に大きな歩みを始めた鄧小平 体制が、一皮めくれば、途方もなく非民主的な大鎮圧を断行した、その古くかつ野蛮な体質に世界中の世論は強い衝撃を受けた。私自身の見方はいくらか異なっている。鎮圧を余儀なくされたのは、民主化運動の勢力が圧倒的に強かったからだと私は見る。政府がこれと対照的にたいへん弱体であったからだと分析する。そして、ここに文革以後一二年の歴史的発展を読み取りたいのである。

文革を反面教師として

結果的には戦車と銃声のなかに民主化要求は抑えこまれたが、民主化要求は同時に法治の要求と結合しており、憲法擁護、法制の確立をもう一つのスローガンとし、それゆえに断固として非暴力の精神を貫徹したのであった。ハンストという新戦術はまさに非暴力精神の象徴であった。

この事実は学生たちの運動スタイルがいかに紅衛兵運動の失敗(そしてそれに続くいくつかの学生デモ)から多くを学んでいるかを示すものである。私はこの意味で、省無連、李一哲と続く、若者による権力批判の意識の着実な発展を感じる次第である。今回の運動のなかで、改革派知識人を代表するかのごとき大活躍をした厳家其が、かつて『四五運動紀実』(七九年、人民出版社)を書いて、七六年の天安門事件を総括したこと、『“文化大革命”十年史』(八六年、天津人民出版社)を書いて文革を総括した論客であることは、示唆的である。

中国全体としては、文革の教訓はまだ十分には活かされていないとはいえ、中国の政治は単なる混乱を繰り返しているわけではない。新たな思想、新たな運動が確実に成長しつつあると私は見ている。文革は現実の社会主義に対して、まず修正主義論の角度から疑問を提起し、ついで社会主義の内実を根底から懐疑する精神を植えつけ、中国の近代化を根本的に再考する契機を与えた。「すべては疑いうる」というのが、マルクスの座右の銘であったという。中国の若者たちが社会主義を疑うことを学んだことが文革の最大の教訓であったと私は考えている。

毛沢東は帝国主義を反面教師として革命家になった。中国の若者たちは、いま毛沢東型社会主義を反面教師として21世紀の中国社会のあり方を模索している。
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