1 紅衛兵──権力闘争に利用された若者たち
知識人の「自己批判」
六六年春の時点で中国の政治的環境がいかに緊張していたかの一例は、郭沫若の「自己批判」によって、その一端が知られる。六六年四月一四日に行われた全国人民代表大会常務委員会拡大会議の席上、彼はこう発言して皆を驚かせた。
今日の基準からいえば、私が以前書いたものにはいささかの価値もない。すべて焼き尽くすべきである。
私はもう七〇歳であるが、泥にまみれ、油にまみれたい。いや仮にアメリカ帝国主義がわれわれを攻めてくるならば、血まみれになって手榴弾を投げつけたい(『光明日報』六六年四月二八日、『人民日報』五月五日)。
中国科学院院長として中国知識界の頂点に立つ人物、しかも日本にもなじみの深い郭沫若の爆弾発言は日本にも大きな衝撃波となって押し寄せてきた。作家三島由紀夫、阿部公房らは文化弾圧に抗議声明を発した。声明の起草者は三島であり、『全集』第35巻に収められている。
紅衛兵の登場
緊張が極度に高まるなかで凝縮されたかのように、文化大革命の申し子ともいうべき紅衛兵(原文=紅衛兵)が北京に誕生したのは五月下旬のことである。『中国現代史詞典』(李盛平主編、中国国際広播出版社、一九八七年)に「紅衛兵運動」はこう説明されている。“文化大革命”期に林彪、江青反革命集団に利用された全国的な青年学生運動である。紅衛兵は一九六六年五月下旬北京に現れ、まず首都の青少年の間に紅衛兵運動が起こった。ごく少数の悪質なリーダーを除けば、圧倒的多数は党と毛沢東への信頼から天真爛漫に自分たちは“毛主席を防衛し”“反修防修”の闘争に参加するものと考えていた。毛沢東は青年学生を“文化大革命”を全面的に展開する突撃勢力と考え、同年八月一日清華大学付属中学紅衛兵に手紙を書いた。彼らの行動は“反動派に対する造反には道理があることを示すもの”とその“造反”に支持を表明した。ここから紅衛兵運動は迅速に全国に発展した。八月一八日、毛沢東は軍服を着て紅衛兵の腕章をつけて、天安門で全国各地から来た百万の紅衛兵と人民大衆を接見し、再度紅衛兵運動を支持すると表明した。\
九月五日、中共中央、国務院は「外地の革命的教師学生が北京に来て文化大革命運動を参観するのを組織することについての通知」を発して以後、全国各地の教師学生が“授業をやめて革命をやる”(原文=停課閙革命)ようになり、全国的な大経験交流(原文=大串連)が始まった。一一月二六日までに毛沢東は前後八回全国各地から来た一三〇〇万人の教師学生と紅衛兵を接見した(三六五頁)。
以上の記述から、紅衛兵が青年学生運動であること、毛沢東の呼びかけに応えて社会主義を防衛するために立ち上がったこと、毛沢東が天安門上から接見した紅衛兵の数が一三〇〇万人の多きにのぼること、など紅衛兵についての基本的事実は理解できよう。
しかしなんとも味気ない説明ではある。理想に燃えた青年たちの運動がここでは、いわば燃えカス同然の姿で描かれている。これを読んでやりきれない思いにとりつかれているときに、八九年四~六月の民主化「動乱」が勃発した。民主化「動乱」とは、奇妙な言い方だが、学生たちは「愛国民主の学生運動」と自称し、政府側は「動乱、ついには暴乱」と断定して、八九年六月三~四日、武力鎮圧に踏み切った。
この圧倒的なデモの隊列をテレビ画面で見つめ、私はかつての文革当時の興奮を追体験し、あれやこれやの当時の印象を鮮明に反芻した。
高揚する文革の気運\
前述のように一九六六年八月一八日、天安門広場で文化大革命を祝う百万人の集会が行われた。このなかに数万の紅衛兵が参加して注目を集めた。二日後の八月二〇日、北京の紅衛兵たちは四旧の打破を叫んで、街頭に繰り出した。北京の銀座通りともいうべき王府井のデパートや宝石店、クリーニング店、写真館などの看板をとり外し、東方紅、紅旗、北京、文革などの革命的看板に取り替えた。彼らは非革命的な名称を旧文化、旧風俗だとして打倒しようとしていた。街は大字報や修正主義批判ビラに溢れ、三角帽子(原文=戴高帽子)をかぶせられた実権派(原文=走資本主義道路的当権派)、反革命分子が引回しされる姿も随所で見られるようになった。この際に「ジェット機を飛ばす」(原文=(手高)噴気式)形が強制されることも少なくなかった。紅衛兵たちはまた実権派の自宅に押し掛け、家宅捜索(原文=抄家)をやり、反革命資料なるものを持ち去った。ついでにブルジョア的なものを戦利品として持ち去ることも少なくなかった。紅衛兵から造反の対象とされた実権派は職務を外され(原文=靠辺站)、牛小屋(原文=牛棚)に押し込められたり、便所掃除などの屈辱的な仕事を押しつけられた。
たとえば文学者の老舎は、たまたま作家協会の責任者(北京市文聨主席)であったために、つるし上げ(原文=批闘)の対象とされ(八月二三日)、二日後に死体で発見される事件も起こった。老舎のほか、作家の趙樹里、京劇俳優の周信芳なども迫害のなかで死んだ。紅衛兵の街頭行動はまもなく上海、天津、杭州、南京、武漢、長沙、南昌など全国各地に急速に拡大した。
「造反有理」のスローガン
中共中央、国務院はこの紅衛兵運動を支持し、九月五日「各地の革命的学生が北京を訪れ、革命運動の経験交流を行うことについての通知」を出し、汽車賃を無料とするほか、生活補助費と交通費を国家財政から支出する方針を決定している。
こうして授業をやめて革命をやる運動(原文=停課閙革命)と全国的な経験交流(原文=串連)が始まった。六六年一一月下旬までに、毛沢東は天安門楼上から八回の紅衛兵接見を行い、全国各地から北京を訪れた計一三〇〇万人の若者たちを激励した。無賃で天安門参りをした紅衛兵たちは、故郷に帰るや「造反有理」のスローガンを武器に、まず学校でついで地方各級の党委員会に造反した。
紅衛兵はなぜ造反に立ち上がったのであろうか。ある紅衛兵は「父母への公開状」のなかで、こう書いている。
十数年来、あなたたちは優遇されて、長いこと事務室から出ませんでした。あなたたちの“もとで”はとっくに使いきっているのです。あなたたちの革命的英気は、とっくに磨滅しているのです。労働人民から隔たることあまりにも遠いのです。事務室を出て、大衆運動の大風浪のなかに来て、あなたたちの頭を入れ替え、体の汚れを洗い落とし、新しい血液を注ぎ、徹底的にこのような精神状態を改めるべきです。そうでないと、この大革命のなかで淘汰されることになるでしょう(『人民日報』六六年八月二六日)。
これは中央直属機関に勤める父母をもつ紅衛兵の手紙である。恵まれた高級幹部の子弟であろうと推測される。彼らは社会主義の理想、文化大革命の理念を文字通りに素直に理解し、この理想に照らして、現実の中国に存在する負の現実を厳しく批判したのであった。ひとつはやり言葉を紹介しよう。「鳳凰から鳳凰が生まれる。ネズミの子に生まれたら土を掘るばかり」。中国社会主義のもとで、特権幹部の子と庶民の子との間には、龍とネズミほどの運命の差があるという風刺である。
紅衛兵の天下
北京の紅衛兵が旧文化、旧思想、旧風俗、旧習慣(原文=四旧)の打破を叫んで街頭へ初めて繰り出した八月二〇日を契機として、赤い八月が始まった。六六年末には紅衛兵運動がピークに達した。やがて造反の主流が労働者にとって代わられるようになるまで、六六年後半から六七年は紅衛兵の天下であった。
紅衛兵に襲撃され、北京市内の各教会が破壊され、外国藉の尼僧は国外へ追放された。カラフルなスカートや旗袍を身につけた女性は鋏で切り裂かれただけでなく、時には陰陽頭(頭髪を半分だけ剃り落とすもの)にされた。粤劇の女優紅線女もこの辱めを受けた。紅衛兵はまたソ連大使館のある通りを反修路、東交民巷を反帝路と改称し、北京の銀座といわれる王府井大街はまず革命路、ついで人民路と改められた。ついには赤は良い色であるから、赤信号で前進すべきであり、青信号で停止すべきだとする主張さえ登場した。しかもこれらは各紅衛兵組織が勝手にやるものであるから、混乱は必至であった。ロックフェラー資金で建設された協和病院は反帝病院、ついで首都病院と改称された。ペキン・ダックの全聚徳は北京(火考)鴨店となった。紅衛兵はまた反革命修正主義分子の家を勝手に捜索し(原文=抄家)、胸にプラカードを下げさせ、頭に三角帽子をかぶせて、街頭を引き回した。なかでも彭真(北京市長、政治局委員)の引回し姿を写した写真は外国の新聞にも報道され、衝撃を与えた。
鄧拓(一九一二年~一九六六年五月一八日)は自殺した。呉han (一九〇九年~一九六九年一〇月一一日)は、獄死した。呉晗の妻袁震は病弱であったが、反革命の家族として労働改造隊に送られ、六九年三月一八日死去した。長女呉小彦は一九七六年九月二三日自殺した。結局四人家族のうち長男呉彰だけが生き残った。この種の悲惨な例は少なくなかった。党内では、延安時代に毛沢東秘書を務め、彭徳懐事件に連座した周小舟が自殺し、さらに文革直前まで毛沢東秘書を務めていた田家英も自殺している。
紅衛兵の分裂
紅衛兵は元来は毛沢東の唱える文化大革命のイデオロギーに共鳴して立ち上がったものだが、やがてある派閥は中央文革小組に操縦され、他方はこの指導を受け入れず、むしろ実権派を擁護し、対立するようになった。北京の大学生からなる政治意識の高いグループは、聶元梓(北京大学「新北大公社」)、カイ大富(清華大学「井岡山兵団」)、韓愛晶(航空学院「紅旗戦闘隊」)などをリーダーとする天派と王大賓(地質学院「東方紅公社」)、譚厚蘭(師範大学「井岡山公社」)をリーダーとする地派に分裂して、武闘を繰り返した。W・ヒントンは清華大学における内戦さながらの一〇〇余日間の武闘を活写している。実権派打倒のためには彼らのエネルギーを利用した毛沢東は、頻発する武闘に手を焼いて、六八年七月二八日早朝、これら五人の指導者を呼びつけ、引導を渡した。曰く「君たちを弾圧している“黒い手”は実は私である」(『万歳』六八七頁)。
こうして毛沢東から見てその利用価値のなくなった紅衛兵たちは、農村や辺境へ下放させられることになった。その後の紅衛兵の姿の一端を描いてみよう。
混乱する教育機関
一九六七年春には、中共中央は外地への経験交流を停止し、教室に戻って革命をやるよう呼びかけた。しかし、この指示は徹底せず、紅衛兵による各級指導機関の襲撃や武闘流血事件が絶えず、六七年七~九の三カ月は混乱が極点に達した。
一九六七年一〇月一四日、中共中央は「大中小学校で教室に戻り革命をやることについての通知」を正式に発し、全国の各学校が一律に授業を開始し、授業を行いつつ、改革を進めるよう要求した。とはいえ、多くの学校では大連合(原文=大聯合)は実現できておらず、武闘は不断に発生していた。中学高校の授業再開にとって重大な問題の一つは、大学入試を停止したために、一九六六、六七年度卒業生が中学でも高校でもあぶれており、授業再開の障害となっていることだった。一九六七年一〇月二二日、教育部は卒業生の就職配分(原文=分配)が喫緊の課題であるとして、こう報告した。「卒業生を分配しなければ、新しい学生を入学させられない。しかも今年の卒業生と新入生は例年の二倍以上である。これは教師と校舎の限界のためである」。
卒業生の分配問題は緊急であったが、当時社会は大混乱しており、多くの地域でまだ革命委員会が未成立の情況(22頁の「革命委員会成立地図」参照)のもとで、分配工作は進めようがなかった。こうしたなかで一九六七年一一月三日、『人民日報』が毛沢東の教育革命の指示を伝え、こう述べた。プロレタリア教育革命を行わなければならない。学校のなかの積極分子に依拠して、プロレタリア文化大革命を最後まで行うプロレタリア革命派にならなければならない。このように六七年までは、大量の中学卒業生は依然学校に留まっていたのであった。
下放運動起こる\
一九六八年になると、中学卒業生の分配問題はいっそう深刻化した。各学校には一九六六、六七年の卒業生に加えて、六八年度の中学高校卒業予定者を加えて、一〇〇〇万人以上が溢れていた。他方、六八年前半には大多数の地域で革命委員会が樹立された。卒業生の分配工作は解決しないわけにはいかないし、また解決する条件もできてきた。六八年四月、中央は黒竜江省革命委員会の「大学卒業生分配工作についての報告」を承認し、毛沢東の指示を伝えた。卒業生の分配は大学だけでなく、中小学校においても普遍的な問題であるとして、この文件は各部門、各地方、各大中小学校が1)農村、2)辺境、3)工場鉱山、4)基層、の四つに向かい、卒業生の分配工作を立派にやるよう要求していた。
文件にいう四方面のうち、3)工場鉱山と4)基層とは、秩序が混乱しており、新規労働力を受け入れる余裕はまるでなかった。そこで卒業生は事実上、1)農村と2)辺境に分配された。一九六八年七、八月から紅衛兵への再教育が叫ばれ、次の毛沢東最新指示が繰り返された。「われわれは知識分子が大衆のなかへ、工場へ、農村へ行くよう提唱する。主として農村へ行くのである……。そして労働者農民兵士(原文=工農兵)の再教育を受けなければならない」。六八年末に毛沢東はこう呼びかけた。「知識青年が農村へ行き、貧農下層中農の再教育を受けることはとても必要である」。これを契機として、下放運動が巻き起こり、紅衛兵運動は終焉した。
毛沢東による教育改革
こうして起こった下放運動は、毛沢東特有のイデオロギーによって支えられていた。それは青年学生に対して再教育を行うことによって修正主義を防ぐという考え方であり、再教育の内容として強く意識されていたのは、三大差異(原文=三大差別)の縮小に代表される極度に平等主義的な社会主義論であった。また階級闘争を極端に重視し、書物は読めば読むほど愚かになる。学校のカリキュラムは半減してよい。学制は短縮してよい、など教育内容は単純化していた。社会主義の条件のもとで、政治、経済、文化などの面で差異の存在することが修正主義の生まれる根源であるとする毛沢東の修正主義理解がその根本にあった。毛沢東は五・七指示に見られる思想によって教育を改革しようとしていた。
一九六八年、六九年の二年間で約四〇〇万余りの都市卒業生(六六~六八年度)が農村や辺境に下放させられた。青年たちは現地でさまざまの問題に直面した。生活面では長らく自給自足の生活はできず、食糧(原文=口糧)、住居、医療などの面でとりわけ問題が大きかった。
一九七三年、福建省の李慶林が息子の生活問題を直訴したのに答えて毛沢東はこう返信を書いた。「三〇〇元を送ります。食費として下さい。全国にこの種の例ははなはだ多く、いずれ統一的に解決しなければなりません」。問題の所在には気づきつつも、毛沢東自身いかんともしがたく、この手紙を書いたようである。
下放工作の難題
この年に全国知識青年下放工作会議が開かれ、長期計画が検討されたが、この計画は実現されるに至らず、政策は依然混乱していた。ある年は工場で募集したかと思えば、次の年は下放させる。下放した者のなかから、工場で募集するなどという具合に、地方当局によってマチマチの政策(原文=土政策)が行われた。
一九七六年二月、毛沢東はふたたび知識青年の問題についての手紙にコメントを書いて、知識青年の問題は専門的に研究する必要があるようだ。まず準備し、会議を開き、解決すべきであると指摘した。しかし、毛沢東の死まで彼らの問題は解決されなかった。
一九七八年の全国知識青年下放工作会議紀要はこう指摘している。一九六八~七八年の知識青年下放運動は、全体的計画を欠いており、知識青年の工作はますます困難になった。下放青年の実際的問題は長らく解決されていない。これこそが鳴物入りで大々的に展開された下放運動の総括なのであった。
下放運動がいかに絶対化されたかは、つぎの記事に一端が示されている。曰く、下放を望むか否か、労農兵と結合する道を歩むか否かは、毛主席の革命路線に忠実であるか否かの大問題である。修正主義教育路線と徹底的に決裂し、ブルジョア階級の“私”の字と徹底的に決裂する具体的な現れである(『人民日報』一九六八年一二月二五日)。
しかもある青年が革命的であるか、非革命的であるか、反革命であるかの唯一の基準は、下放に対する態度であるとしたのであった。下放地点の選択においても現実にそぐわない例がしばしば見られた。一部ではより困難な地域ならば、ますますそこへ行かなければならない、と絶対化された。都市近郊で多角経営に成功した青年農場は、下放しても都市を離れないもの、下放したが農業に努めない、大方向に違反している、などと批判された。一部の地域では、下放青年の生活に必要な食料や石炭などをわざわざ都市から運んだ。国家、青年の所属単位、家長などは、下放青年一人当たり年間一〇〇〇元もの費用をかけるケースもあった。
人材の欠落と経済的損失
では下放運動はいかなる帰結をもたらしたのであろうか。第一は人材の欠落である。文革期に養成を怠った大学生は約一〇〇万人余り、高校生は二〇〇万人以上に上る。このために人材の欠落がもたらされた。一部の地域では中学卒業生はすべて下放し、高校は開かなかった。一部の地方では中学高校の一、二年生も、卒業生とともに農村へ下放した(『教育年鑑』四七〇頁)。
一九六八年から七八年までの一〇年間に全国で下放した知識青年は約一六二三万人である。一部の青年はのちに学習して学力を取り戻したが、大部分は中学かそれ以下の学力しかない。下放運動は三大差異の縮小に役立たなかっただけでなく、中国と世界の教育水準の格差を拡大し、近代化にとっての困難をますます増やすことになった。
下放運動は経済的にもマイナスであった。文革期に国家や企業は下放青年の配置のために約一〇〇億元あまり支出した。これらの一部は開墾事業に貢献したが、経済効率ははなはだ悪かった。また一九七九年大量の下放青年が都市へ帰るに際して、すでに結婚した者も含めて、就業問題は経済建設への大きな重圧となった。
下放青年を受け入れたことによって、農民も損失をこうむり、また青年の家長たちも仕送りのために経済的負担を余儀なくされた。
青年が農村の現実を知ったことにはプラスの面もあるが、人生の黄金時代に正規の教育を受ける機会を失した損失は取り戻すことができない。紅衛兵──下放青年の体験をもつ世代はまさに現代中国の失われた世代である。この世代の空白は彼ら自身にとっての損失であるばかりでなく、中国の近代化にとっても人材の面での大きな痛手となって、その後遺症は長く続いている。
「失われた世代」から「思考する世代」へ
こうして紅衛兵たちは、修正主義路線打倒を目指して、決起したものの、まもなくある者は武闘に倒れ、ある者は辺境開拓に追いやられ、総じて、権力闘争に利用される結果に終わった。この意味では、六〇年代後半に一〇代、二〇代であった紅衛兵世代は失われた世代である。しかし、文化大革命という苦い果実を味わった若者たちのなかから、思考する世代が生まれることになった。その嚆矢は「中国はどこへ行くのか?」(別名「極左派コミューン成立宣言」六八年一月六日付)を書いた湖南省プロレタリア階級革命派連合指揮部(略称=省無連)のリーダー楊曦光(本名=楊小凱)らであろう。当時彼は反革命罪で逮捕され、生命が危ぶまれたが、一七歳という若さのゆえに、懲役一〇年の刑で済んだ。彼はその後“監獄大学”でエコノメトリックスを学び、出獄後アメリカに留学した。いまはオーストラリアのある大学で講師をしている。「虎に食われ損なって生き延びた」この若者は、暴力革命を断固として否定し、広い視野から社会主義を再考するよう呼びかけている。
“四人組”失脚を予言した大字報として話題になった李一哲「社会主義の民主と法制について」(初稿、七三年九月一三日)の三人の筆者の一人たる王希哲のその後の思想的発展は、『王希哲論文集』(香港七十年代雑誌社、八一年六月)などによって知ることができる。
民主化への遠い道程
こうした非体制、反体制的思想に目覚めた若者たちが七六年四月の天安門事件を経て、七九年の「北京の春」を担ったことはよく知られている。彼らの一部はたとえば『探索』の編集者魏京生のように投獄された。しかしたとえば中国人権連盟の活動家任(田+宛)町は、出獄後も活動を続け、八九年政変後ふたたび逮捕されている。七九年「北京の春」の活動家の一部は、アメリカなどに留学したあと中国民主聯盟を組織し、雑誌『中国之春』を発行して国内の民主化運動を続けている。八九年の運動に対しても、ニューヨークから連帯のメッセージを送っている(拙編『チャイナ・クライシス重要文献』第一巻所収)。彼らの思想はさまざまであるが、中国の近代化にとって最大の壁が政治の民主化、政治改革にあるとする一点では共通していると言えよう。当局の掲げた「四つの近代化」に対して、魏京生はこれに「政治の近代化」を加えた第五の近代化(原文=第五個現代化)を提唱していた。当時はこれが過激であるとして投獄されたが、その後、一〇年政治改革の必要性はほとんど共通の了解事項になっている。しかし、実際に学生たちが政治改革を要求した場合に、権力の側がどう対応したかを今回の武力鎮圧が端的に示している。
中国民主化の道は遠い。しかし、中国の若者たちは、スターリン批判直後の民主化運動で一部が、そして紅衛兵運動のなかでは大衆的な規模で政治的に覚醒した。この意味で損失のきわめて大きかった紅衛兵運動にも苦い果実は実ったことになる。 |