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发表于 2006-9-4 19:07:48 | 显示全部楼层 |阅读模式
自 伝 武 道 記
                                                    義村仁斎
 おもい出話をかくとしても、何しろ60年も昔に遡らねばならんので、遠い夢の世界を語るような気持である。それだけ、部分的にはっきり浮んでくるところ と、ぼんやり薄れたとことがあり、前後錯綜、そのけじめさえつけかねる事柄が多分にあるのはやむを得ない.それに、こうして書く段になると余計、悠長な昔 の世をなつかしむ感情が先に立ち、何処から話の系口をほぐしたらよいか。それさえわからぬしまつ。

                                                                                  自传武道记
                                                  義村仁斎
   哪怕是写一些往事,因为不管怎样这都是要追溯到60年前的过去,所以总有一种像讲述遥远梦境的释怀。为此,总有些部分记忆是深刻的,而又总有些部分渐渐淡忘了, 前后错综复杂,多少有一些难以区分清楚的事件。在此,在写这段的时候,一直有种对多余或者说是悠长往世的惜念之情涌上心头。这些到底从哪里开始讲呢?连我自己都不清楚,所以就陷入困惑中。
     だから、そのつもり居てもらいたい。いろいろある内、私と武道に就て、おもい出すままに語ることにしょう。
    所以,就抱有这种想法活下来了。就尽情地说说在这个烦琐的尘世间我与武道的一些往事吧!
     私は慶応2年、旧9月27日首里赤平で生まれた。父は朝明、母は尚氏、伊江王子朝健の長女真蒲戸金である。私は二男で、兄の朝真は三つ歳上であった。
    我是于庆应2年的农历9月27日出生的。父亲是朝明,母亲是尚氏,她是伊江王子朝健的长女。我是次子,哥哥朝真比我长三岁。
     とにかく、「権門の次男坊」として、広大な御殿の中に育ち、多くの奉公人にかしずかれて、気随気儘にふるまっていた。それでも一方には厳格な家憲という ものがあって、家柄の光となるべき躾け、即ち礼儀作法と嗜み、即ち学問諸芸をさずけられていた。とりわけ先考が武芸好きで、「さむらいの嗜みは武道が第一 だ」という建前から、11.2歳になると、空手の手はほどきを授けられた。師匠は、家の総聞といって、会計その他家事一切の事務を承けたまわっていた石嶺 という60年前後の老人だった。毎日のように広庭にひきだされてナイフアンチとパッサチでたたきあげられた。無論、手習や学問の片手間であったが、時々口 実をかまえて怠けたものである。それでも二ケ年はたっぷりやったろう。それがちょうど、廃藩置県前後にまたがっている。
     总之,身为“权势之家的二公子”,在宽大的府邸中长大的,被许多仆人服侍着,所以也就养成了随心所欲的脾气。然而,另一方面也有严格的家规的,为了光耀 门第的教条,就是那些礼仪作法和教养和教授一些学问诸艺啦!先父酷爱武艺,从“唯武士的修养乃武道之冠”这一准则来看,我11、2岁的时候,就被传授了空手道技艺的解析。老师号称是该道的鼻祖,传承着记帐等的其他一些家务事物的一个叫石岭的60岁左右的老人。毎日のように広庭にひきだされてナイフアンチと パッサチでたたきあげられた。当然,学习和做学问都是在业余时间里进行,有时也找各种借口,偷一下懒。就这样,过了整整2年。也正好是废藩置县的前后了。
   17.8歳になると、もう立派な一人前の男として、自他共にゆるされる。その頃から、武士松村に就いて、本腰にやることなった。当時松村翁は歳既に古希 を越えていたおうに記憶うぃている。南苑の御番をつとめて一緒だった。「五十四歩」が主で、クウサンクウを併せまなんだ。この頃から、漸く武道に対する眼 がひらいたと見え、一生懸命にはげみ出し、自ら武士の卵を以て任じ、それがいつしか、身のこなし足の運びにまで反映させるように仕向けていた。生意気ざか りの誰れにもある経験である。
   到了17、8岁,已经成为了一个标准的男子汉了,这一点是被公认的。从那时起,就跟随武士松村,开始认认真真地干了。在记忆中,当时的松村已经是一位年越古稀的老人了。在南苑的番厅一起当差。以「五十四歩」为主兼クウサンクウ之类的。从那时起,才渐渐觉得对武道有些开眼的感觉,开始勤学苦练。自认为有武士的种气,在不知不觉中,身体的运用自如,抬腿踢足之中反映出来这是有了武士的气概。这种意气奋发的体验,相信每个人都有过吧!

 一方木刀で剣道の型を、松村翁に学んだ。翁の師は、伊集院という鹿児島の剣客で、示現流の名手だった。
   另一方面,用木制的剑型的剑道是跟松村老爷爷学的。老爷爷的师傅是在鹿儿岛的一个叫伊集院的剑客,是为示现流(可能是日本空手道、剑道的流派)的名手。
     当時那覇には、長濱という空手の名人がいたし、東恩納も既に頭角をあらわしていた。首里には松村翁の外に系洲があり、松村門下の逸才としては、安里と多和田がいた。世間の口を藉りると、多和田の方が安里より少し強かったとなってにノッポだった。その師は不明である。
  在当时的那霸(冲绳),有位叫长滨空手名人,东恩纳已经显示出头角了。在首里松村老爷爷之外还有系洲,作为松村门下的贤才,有安里和多和田。从世间人们的口中得知的情况来看,多和田比安里要略高一畴,其师不明。
   22.3歳ごろから東恩納師の門をくぐった。月三回ほど首里から通ったものである。本願寺の前(真教寺)浜辺(今は埋立てられて住宅地となっている)近 くで薪商をいとなんでいた。そのうち師匠の方から、首里の邸宅に出張してもらって教えをうけたが、それが一ケ年ばかりというものを雨の日も、風の日も休み なくつづいた。時間は夕方の6時から10時までであった。今とちがって駕篭以外には乗物のない時代で、東恩納師のかえりつく頃は毎晩人通りの絶えた時間で あったようにきかされた記憶がある。おもえばありがたい話である。
    22.3岁的时候,纳入到东恩纳师傅的门下,每月都要去首里那三趟左右。在本愿寺前(真言宗教寺)的湖边(现在被添埋了,成为了住宅的小区了)的附近经营 一个木材小店。在那段时间,在师傅那里,经常带我到首里的府邸去受教,那一年不管刮风还是下雨,都无休地坚持联系。时间是每天傍晚的6点到10点。和现在不同的是,那时除了轿子以外就没有别的交通工具了。在我的记忆中,东恩纳师回来的时候,几乎已是每晚万人空巷的时间了。现在想起来,真是难人可贵的往事啊!
    東恩納師からはサンシンを基本に、ペッチウリンを習得した。それでどうやら武道の奥義を究めんと欲すれば、四肢の運用は末技にして心丹の錬成が根本だと いうことがわたって来た。それからどういう根拠があって、そう言い出したか知らぬが、世間の人は、松村は沖縄手といい、東恩納は唐手といっていた。それか ら誰れいうとなく松村は「生れ武士」石嶺は「型」といいはやれと言って居られたが、東恩納師は嘖嘖たる名声と共につとめて「実戦」を戒めもし、やるなら私 とやれと言って居られた。師の高潔なる武道精神はそこにあった。今さらかくまでも無いか知らぬが、「実戦」とは実地に戦うことである。あからさまにいうと 「喧嘩」である。即ち習得した武技を、実際の場合に応用することである。その実戦の舞台が遊廓内であった。そのため辻、渡地、仲島の三遊廓では途上毎夜の ように「掛け試し」という「腕だめし」が行われた。喧嘩の売り買いである。それが幾組となく行われたものであった。巻藁で錬えた手拳の実力をためす喧嘩 は、ちょうど本土に於ける、刀の切り試しに比すべきものである。手拳でおもい出したが、松村にこういう話がつたえられている。彼が尚灏王の御側仕をやって いた頃というから20前後であろう。王命に依り猛牛と立合い、一拳の下に突き据えたという事であるが、真偽の程は保証のかぎりでない。彼は武人にして書を 嗜み、書を能くした。
    从恩师东恩纳那里以三战为基础,习得了一百零八手。然后,总算明白了,如若想要探究到武道的奥义,以四肢的活动作为最基本的技能,练就丹田才是最根本的。 究竟是怎么一回事?到底是根据什么就这么说出来的呢?人们都称松村是冲绳手,而东恩纳是空手。从那以后,也不知道是谁开始盛行叫松村是“天生武士”,叫石岭 是“典型”,东恩纳师努力构筑赫赫名声的同时,也训诫“实战”,说如果要“实战”也只和我动动手。师傅高洁的武道精神就在于此。也许也没有必要现在写出 来,所谓的“实战”就是实地上作战。露骨一点说是“争斗”。也就是说把学到的武术在实际场合下运用。那实战的舞台在游廊内。为此每晚都在街道上,河边,岛中进行练习[ 掛け試し ]和[腕だめし」,这是争斗的对决买卖。是要组成几个组来进行的。为了验证在稻草人上练就出来的拳脚实力的争斗, 也正好在本地,应该要比刀技。拳脚方面现在回忆起来了,松村是这样发话的。他当尚灏王的侍卫时,是20岁前后的事情。传说他依照王命与猛牛对垒,在一拳之 下击倒猛牛的故事,其真假没法保证了。他虽然是一个武士,但是嗜好书法,书法上也很有造诣。

 少し順序が狂うけれど兄朝真の事に就て空手をやったらしい。どんな経歴の人はよく存じないけれど、歳は系洲を同年位だったというから、石嶺よりは歳下である。兄は何を習ったかしらぬが半年程熱心に通ったようである。

    稍微有些顺序颠倒了,好像哥哥朝真也从事过空手道。到底是怎样经历的我就不太清楚了,年纪好像和系洲同年,那应该是比石岭小了。哥哥到底学了些什么我也不得而知,好像仅有半年左右的热情吧!

 私は空手の外に棍、即ち六尺棒と木刀即ち尺棒を松村に習った。
  我除了空手道以外,还学了棒法,就是六尺棒和木刀,就是尺棒,这些都是跟松村学的。

 それから馬術であるが、これは一番早くやった方で、10歳頃から乗り馴らされたものである。19歳から23歳までは、有名な馬乗真喜屋に師事した。屋敷 内に木馬があって、それにより一通りの型をおぼえ、あとで識名の馬場で実習をした。月6回位だった。時々読谷山まで遠乗したものである。
  另外还有马术,这是最早学的,大概在10岁左右,就练习骑技了。19岁到23岁的时候,是和著名的骑师真喜屋学的。屋中有木马,因此那些大概的形状我还记得,之后就到识名的马场去实习了。每月大概6次,有时也远骑到读谷山。
  弓はとうとうやる機会がなかったが、子供の時、識名の馬場であったという、流鏑馬の話をきかられた記憶が今でもありありと残っている。弓道もやればやれる機会もあったが、惜しいことをしたと思っている、以上明治20年前後迄の事。
    弓箭就没有什么机会练了,儿时,听长在识名的马场的流镝马的话,现在还历历在目,记忆犹新。他说弓箭之术如果要练的话,还是有机会的。想想这毕竟也有些遗憾。上面写的这些已经是明治20年前后的事情了。
     私は若い時から負けずぎらいで、何んでも人のやるのはやらねば納らぬ気質があったので、大方のことはやって来た。武道の外に書も、絵も、歌も、三味線 も、それから皇漢薬方にまで頭をつっこんで見たが、結局どれでも大成しなかった。要するに欲が多すぎたのである。しかしながら私は決して後悔はしれいな い。何んとなれば、やっただけの事は分に応じてそれぞれの養いとなっていると信じているから。(筆者は沖縄書道協会相談役)
   我从小就有不服输的精神,不管是什么,能为之而不为,总有些失落的感觉,所以大部分事情都体验过了。武道以外,对书法、绘画、歌曲、三弦琴,还有连皇家中医都窥入过,结果都没有什么大成。总之我是一个欲望很强烈的人。尽管这些都没有很大的成就但是我绝对不后悔。因为不管怎样,我总相信:只有亲身体验过的事情,才能取其营养,溶入自身 的。(本人/鄙人是冲绳书法协会顾问)

*この「自伝武道記」は、昭和16年9月15日発行の「月刊文化沖縄」9月に掲載されたものである。
*这篇「自传武道记」,刊登于昭和16年9月15日发行的「月刊文化冲绳」这一杂志中。
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 楼主| 发表于 2006-9-4 19:09:03 | 显示全部楼层
一直都不敢发表了,因为几次都是没人理我,好伤心哦
现在就麻烦大家能否抽空看看哪些地方需要更正的呢。谢谢!
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发表于 2006-9-6 02:09:33 | 显示全部楼层
こうして書く段になると余計、悠長な昔 の世をなつかしむ感情が先に立ち
这里的[余計]是副词。
现在这样写起,更是怀念以前悠闲世道之情先起

だから、そのつもり居てもらいたい。
第2段话的[だから]就是接着第1段话的原因。因为作者回想往事,总有些理不清头绪,所以请读者对此谅解的意思。

いろいろある内、私と武道に就て、おもい出すままに語ることにしょう。
いろいろある内、私と武道に就て=いろいろな過去の出来事の中から、私と武道を取り上げよう
在那么多话题中,我就一边回想一边谈谈我和武术吧。
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