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[词汇问题] 「勝」

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发表于 2007-3-6 01:50:10 | 显示全部楼层 |阅读模式
请问 胜利的胜在日语中是不是只有「勝」的写法,用在名字中念成「ショウ」?还有进取的「进」在日语好像没有,那用在名字中该怎么念呢

[ 本帖最后由 蓝色北极雪 于 2007-3-5 18:00 编辑 ]
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发表于 2007-3-6 04:14:14 | 显示全部楼层
名前の読み方

勝=まさる
进=進=すすむ
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 楼主| 发表于 2007-3-6 04:18:05 | 显示全部楼层
ありがとう 不过我的意思是用在中国人的名字当中  音读
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发表于 2007-3-6 04:18:52 | 显示全部楼层
名前って、かつのほうじゃないの
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 楼主| 发表于 2007-3-6 04:27:08 | 显示全部楼层
私はね 今名簿を作っているところなんですよ  中国人の名前をそのまま日本語の読み方に訳したいと思ってたんだけど、「进」という字も辞書に載ってないし、困っています
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发表于 2007-3-6 04:29:11 | 显示全部楼层
中国人の名前だって~。
音読みね。
「勝」=ショウ
「进」はどうしたらいいのかしらね。わかりません。「进」の繁体字「進」なら「シン」ですが。

武田さん、日本の名前で「勝」=姓なら「カツ」。名なら「まさる」です。
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 楼主| 发表于 2007-3-6 04:30:46 | 显示全部楼层
はい、分かりました  本当にありがとう  これからも宜しくね
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发表于 2007-3-6 04:35:02 | 显示全部楼层
武田さん、日本の名前で「勝」=姓なら「カツ」。名なら「まさる」です。


しかしね、柴田勝家(かついえ) 。。。。。。。。。。。。。。ここはかつのほうじゃない
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发表于 2007-3-6 05:02:53 | 显示全部楼层
是单名吧,我也听到过的
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发表于 2007-3-6 05:06:20 | 显示全部楼层
武田さん、なるほど~。
柴田勝家は確かに「かついえ」です。
一字で「勝」だと一般的には「まさる」ですが、ふた文字になると「カツ」と読みますね。
武田さんは日本の歴史に強いんですね。名前からして武田 信長…ふたりの武将が合体してるし!

藍色北極雪さん、こちらこそよろしく。
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发表于 2007-3-6 05:12:17 | 显示全部楼层
はい、そのとおりです。。。。。。。。。。。。。。。。。。戦国の歴史に夢中しているんです

初めの時は、よくそのサルの言葉にカツイエのやつくらい聞こえたものです、だからよく覚えているんです
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发表于 2007-3-6 05:25:23 | 显示全部楼层
呵呵,很多男孩都是从《太阁立志传》,《信长野望》开始了解日本的~
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发表于 2007-3-6 05:25:36 | 显示全部楼层
原帖由 melanie 于 2007-3-5 21:06 发表
武田さん、なるほど~。
柴田勝家は確かに「かついえ」です。
一字で「勝」だと一般的には「まさる」ですが、ふた文字になると「カツ」と読みますね。
武田さんは日本の歴史に強いんですね。名前からして武田 ...

武田信長という武将も実在しますよ。武田信玄の先祖に当たります。ただ、あまり有名ではありません。
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发表于 2007-3-6 05:28:29 | 显示全部楼层
原帖由 任我和 于 2007-3-5 21:25 发表

武田信長という武将も実在しますよ。武田信玄の先祖に当たります。ただ、あまり有名ではありません。

へぇ~~~~!!!
皆さん、よくご存知ね~~~!
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发表于 2007-3-6 05:41:10 | 显示全部楼层
わたしの始原だ




武田 信長(たけだ のぶなが、応永8年(1401年)?-文明9年(1477年)?)は、室町時代中期の武将。武田信満の次男で、武田信重の弟。武田信元の甥に当たる。官位は右馬助。武田信高、武田信武、武田信房の父。

応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱において、父の信満は禅秀と縁戚関係にあったことから禅秀に味方したため、翌年に上杉憲宗の攻撃を受けて自殺を余儀なくされ、兄の信重と叔父の信元は一命を助けられて高野山に出家することとなった。このため、武田氏の所領である甲斐は武田氏の一族である逸見有直が支配することとなったのである。ただし有直は鎌倉公方である足利持氏の力を背景にして他の武田氏一族を徹底的に押さえつけるという強権的な政治をやってのけてしまった。

これに不満を抱いた信長は、反逸見派と結託して甲斐において挙兵し、有直の勢力を甲斐より駆逐してしまった。しかし足利持氏はこの信長の行為に激怒して応永33年(1426年)に大軍を率いて甲斐に攻め込んでくる。信長は防戦したが敗れ、降伏を余儀なくされた。その後、持氏は再び甲斐の守護に逸見氏を据えようとしたが、この頃の幕府の将軍が持氏に好意的であった足利義持から反持氏である足利義教に代替わりしていたため、義教はこれを認めずに高野山で出家していた信元を新たに甲斐の守護として据えた。後に信元の子であった彦次郎は早世したため、信長の子である伊豆千代丸が嗣子に選ばれたが、信元には守護としての才能が無く、家臣の跡部明海に実権を奪われていた。このため信長の兄である信重が還俗して跡部を討ち、信重が甲斐守護となってしまったため、信長の子が甲斐守護となる話は完全に消滅してしまったのである。

その後、信長は足利義教に仕えて結城合戦で武功を挙げたが、義教が暗殺されると中央を去って古河公方の足利成氏に仕えた。1456年頃に成氏の命を受けて、当時上杉氏が守護を務めていた上総国に兵を進めて同国を接収して、1458年頃に真里谷城を築いたといわれる。そして1477年頃、上総にて死去したと言われている。享年は80歳前後(一説には77歳)と言われている。

信長の子孫は成氏に仕えて上総国にて勢力を拡大し、戦国時代には真里谷氏という戦国大名として関東で大いに勢力をふるった。
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