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《龙马奔走》之《二 田鹤小姐(1)》

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发表于 2007-4-25 03:36:57 | 显示全部楼层 |阅读模式
二 お田鶴さま(1)

 「福岡様の?」
 竜馬は、杯を置いた。と同時に手を伸ばして床の間の刀を取り、荷物を両手にぶら下げて立ち上がった。
 「俺は、今夜、浜辺で寝る」
 「えっ。――」
 番頭は、狼狽した。
 「後で、裏の浜辺へ飯と酒を運ばせてくれ、ムシロを二枚、貸してくれればあり難い」
 「お気を悪くなされましたか」
 「相手が悪いのだ」
 竜馬は、黙って裏へ出た。
 浜に格好な船がある。
 ――この陰が、ちょうどよい。
 やがて番頭と女中が、五、六枚のムシロ、藍染の布団、五品ほどの膳部(ぜんぶ)、酒などを運んできて、
 「お気に触られましたならば、ひらにご容赦くださませ」
 「番頭、確かに福岡様の御息女と申したのは間違いないな」
 「ございませぬ」
 「お名前は、お田鶴さまというのだぞ」
 「へい、左様に、前触れの飛脚(ひきゃく)からうかがっております。しかし、旦那様も同じ土佐藩の御家中でございますから、よいではございませぬか」
 「俺は、家中ではない」
 「と申しますると?」
 阿波者の番頭は、土佐侍の複雑な身分制度が分からない。
 「郷士だ」
 「しかし、先ほどや後場役人からうかがいましたが、土佐高知城下の坂本家と申せば、阿波にまで聞こえた御大尽と申すではございませぬか」
 「それでも、郷士さ。雨の日には家中の侍は足駄を履くことが出来るが、同じ武士でも郷士は裸足で歩かねばならぬ。お前は知るまいが、土佐は、かつて戦国のころ、長曾我部家の国であった。われわれ土佐郷士の先祖は、この長曾我部家の家臣だった。ところが慶長五年、関ヶ原で徳川家康と」
 「へい、東証大権現」
 番頭は、言い直した。
 「家康でよい。家康と戦って敗れ、変わって関ヶ原の功により、遠州掛川六万石の小大名であった山内一豊が、一挙に二十四石に加増されて土佐に入国した。このとき長曾我部の旧臣は野に追われて郷士となった。山内家が入国の時に連れてきた者の子孫は上士といい,同じ人間でありながら、われわれを卑しんで同席もせぬ。旅先では、同じ宿にも泊まりたがらぬ」
 「それで、ご遠慮あそばされたわけでござりまするか」
 「遠慮などするものか。しかし相手は、土佐二十四万石の御家老福岡宮内の御妹君だし、おれはその福岡家の御預郷士の倅だ。姫御前(ひめごぜ)などと一つ屋根で泊まるのは、息が詰まる」

 海に細い月が昇った。
 淡い光だが、それでも対岸の淡路島や沼島(ぬしま)の影が、黒々と見えてきた。
 竜馬は、砂の上に黒塗りの大刀を突きたて、膳を引き寄せて飯を食っている。
 (驚いたな、お田鶴さまと一緒とは)
 福岡屋敷と言うのは城の内堀の傍にあり、その界隈に塀を並べている御一門や家老のなかでも、とくに宏壮で、恐らく三丁四方はあるだろう。
 ――人の噂では、お田鶴さまは、この屋敷の南の隅に学問所を建ててもらい、老女一人を相手にひそかに暮らしていると言う。蒲柳(ほりゅう)の質(しつ)で、めったに外出せず、婚期もそのために遅れている、と竜馬は聞いている。
 鳴門屋の番頭の話では、
 「上方見物(かみがたけんぶつ)かたがた、有馬の湯へ湯治に参られまする」
 という。しかし竜馬は高知を出る前日、福岡屋敷へ挨拶に行ったが、そういう話ついぞ出なかった。もっとも福岡家にしてみれば当然のことで、内向きのことを御預郷士の倅に聞かせる必要は無い。
 美人だと言われる。
 家中きっての容色(ようしょく)だといい、土佐二十四石の国色である。と囃す者もいたが、そのくせ噂だけで、実際にお田鶴さまを見た者はほとんどいない、という話だった。
 城下に、唄がある。
 歌詞は竜馬も忘れたが、姉の乙女に聞いた所では、福岡のお田鶴さまに恋焦がれた若侍を歌い込んだ者だと言う。
 この若侍は、城下の何処かでお田鶴さまをひと目見て恋焦がれ、
 「もうひと目見ることが出来れば、その場で腹を掻っ切ってもよい」
 といったところ、仲間のある者が、お田鶴さまの死んで乳母の祥月命日が五月十六日であり、菩提寺は五台山竹林寺のなかの実相院であると教えた。
 その日、仲間の者と一緒に実相院の山門横で待っていると、はたして福岡家の定紋をうった女乗物が竹藪の道を登ってきた。
 「武士の一言じゃ、腹を掻っ切れよ」
 「掻っ切るとも」
 脇差を抜いて身を潜めている前に乗物が止まった。福岡家の中間(ちゅうげん)が白い緒の草履をそろえ、やがてその上にお田鶴さまの足が載った。お田鶴さまの姿はすぐ山門の内側に消えたが、そのあとが大変だった。
 「あっ」
 腹を突きたてたのを、仲間が抑えこんで医者へ担ぎ込み、やっと命を取り留めたと言う。(続く)

                              ――――司馬遼太郎「竜馬がゆく」より
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 楼主| 发表于 2007-4-25 03:37:37 | 显示全部楼层

中译

二 田鹤小姐(1)

“福冈大人家的千金?”
  龙马放下了酒杯。同时伸手抓起壁龛上的刀,两手提溜着行李站了起来。
  “今晚,俺上海边睡去”
  “哎,——”
  掌柜的慌了。
  “呆会儿将酒饭送后面海边来吧,能借俺两张席子,就多谢了”
  “败了您的兴了吗?”
  “都怨他们”
  龙马一声不吭地往后面走去。
  海边上有一艘不大不小的船只。
  ——这船影下便是个好所在。
   不一会儿,掌柜的和女佣便拿来了五、六张席、蓝面的被子、五样饭菜,还有酒。
  “多有得罪,还望海涵”
  “掌柜的,你没弄错吧。真的说是福冈大人的千金吗?”
  “没错,没错”
  “那她的名字就该是田鹤了”
  “正是。赶在头里通告的飞脚○1就是这么说的。可是客官,您不也是土佐藩的家臣吗?这又有何碍呢?”
  “俺可不是什么家臣”
  “此话怎讲?”
  阿波的店掌柜是不明白土佐武士那复杂的身份制度的。
  “俺是乡士”
  “可是,方才听驿站的差官说,土佐高知城下的坂本家,是在阿波提起来也是赫赫有名的大财主啊”
  “即便如此,也仍是乡士。下雨天里,家臣武士能穿高齿木屐○2,同是武士,乡士就只能打赤脚。你有所不知,土佐在战国时代是长曾我部的老家。我辈土佐乡士的祖先,都是长曾我部家的家臣。可是,到了庆长○3五年,与德川家康○4在关之原——”
  “啊,是东照大权现○5”
  掌柜的更正道。
  “叫他家康就是了。与家康一战败北。曾是远州挂川六万石○6的小大名 山内一丰○7,却因关之原大战的军功,一下子晋升为二十四万石,并入驻土佐。此时,长曾我部的旧臣们便被赶到荒野之上而成了乡士了。随山内家入驻者的子孙,被称为上士,都是一样的人,他们却蔑视我辈,坐不同席。即便是处门在外,也不肯与我辈同宿在一个屋檐之下”
  “所以客官您才如此谦让的吗?”
  “有什么好谦让的?只不过对方方是土佐二十四万石的家老 福冈宫内大人的妹妹,而俺只不过是福冈家托管乡士的儿子,与千金小姐同宿一屋,俺会喘不过气来的”

  一弯细月,高悬海空。
  月光淡淡,然对岸的淡路岛、沼岛,黑黝黝的,隐约可见。
  龙马将黑漆鞘的长刀插在沙滩上,拖近饭菜,吃了起来。
  (真想不到啊,竟会遇上田鹤小姐)
  福冈家的宅邸坐落在 城中内城河旁,在那一带的豪门大户中,也显得格外的宏大,恐有三丁○8四方○9之广吧。
  ——有传言说,田鹤小姐与一老妈子,蛰居在宅邸的南断,特为她修建的书房之内。她生就蒲柳之质,且又足不出户,竟因此而耽搁了亲事。
  听鸣门屋掌柜的说,这次她来,是:
  “瞻仰京都,顺便去有马的温泉疗养”
  然而,龙马在离开高知的前一天去福冈家辞行时,可未闻此说。当然,在福冈家而言,这本是家务之事,自不必要对一托管乡士的儿子讲的。
  据说,这是一位美人。
  是家臣中头挑的美人,仍土佐二十四万石的国色。可话虽如此,据说是风闻极盛,真正有幸一睹芳容者却是聊聊无几的。
  城下有一歌传唱。
  歌词,龙马是早已忘了,听姐姐乙女说过,歌中是唱的是一位痴迷于福冈家的田鹤小姐的年轻武士。
  那年轻武士,也不知是在城下的哪一处,竟对田鹤小姐一见钟情,
并放言道:
  “若得再见一面,切腹无撼”
  同伴中有人告诉他,田鹤小姐死去的乳娘的忌日,是在五月十六,家庵便在五台山 竹林寺内的实相院。
  于是,那年轻武士到了那一日,便与同伴们一起等在实相院的山门旁。果然,一会儿,一肩印有福冈家族徽的女轿,沿着矮竹丛生的小径,施施然移过来了。
  “身为武士,可不得食言”
  “切腹而已”
  就在他抽出短刀,正要藏身之时,轿子落地了。福冈家的仆人将一双白色鼻纽的草鞋,放得端端正正的,紧接着,田鹤小姐的芳足便踩了上去。田鹤小姐的身姿一闪,便消失在山门之外了。这虽不打紧,可接下来就了不得了,
  “啊——”
  短刀,已插入那年轻武士的腹内,同伴赶紧摁住他,把他抗到医生那里去,好歹保住了一条命。

——译自司马辽太郎名著《龙马奔走》

注:

○1飞脚:日本江户时代以送信、运货为业的人。见下图。



○2高齿木屐:雨雪天穿的防滑、防湿木屐。见下图。



○3庆长:日本的年号之一,接在文禄之后,元和之前。指1596年到1615年为止之间。这时代的天皇是后阳成天皇、后水尾天皇。江户幕府的将军是德川家康,德川秀忠。
○4德川家康(1541—1616)日本战国时代末期杰出的政治家和军事家,江户幕府的第一代将军。

○5关原(之战):是日本的安土桃山时代以及战国时代发生于美浓国关原地区的一场战役。广义而言,其战事蔓延至日本全境,双方总计动员了超过十万兵力投入战斗,多数大名各自表述自己的立场,从出兵到撤退维持了三个多月的时间,可谓自应仁之乱以来全日本的最大规模的内战。狭义而言,其中主要的一场战事主要以统治关东地方江户为首的德川家大名东军主将德川家康与另一方为丰臣秀赖的家臣西军灵魂人物石田三成在关原的战斗,要注意的是,东军和西军的名字均为后来所追加。一部份人认为此战事为全国性所发生,也被称为关原之役。由于其战争的胜负影响了谁可以拥有天下,所以此战也被誉为“决定天下的战争”,最终在小早川秀秋叛变之下,使这场战争在一天内分出了胜负,德川家康取得了霸权,战后的三年内创立了德川幕府。在豐臣家方面,當時豐臣秀賴只有八歲,還沒有足夠能力去判斷政治的決定,在豐臣家內較有影響力的兩人淀殿和高臺院沒有對這場戰爭作出太大的干預,以靜觀的姿態迎接這場戰爭。
○6东照大权现:德川家康死后的谥号。

○7山内一丰:(1545年—1605年)是日本战国时代、安土桃山时代和江户时代初期的武将,第一代土佐藩藩主。通称伊又卫门或猪右卫门。父亲是岩仓织田氏家臣山内盛丰。母亲是尾原氏之女法秀尼。正室是见性院﹙山内千代)。

生涯:他是岩仓织田氏家臣山内盛丰的儿子。于1557年到1559年父亲和兄长相继战后以后,成为了浪人。在一段时间内成为了山冈景隆的部下。于1568年成为了木下秀吉﹙日后的丰臣秀吉﹚的家臣。于1573年,因为姊川之战的军功。,被分封于近江国的400石。四年后,封于播磨国的2000石。织田信长死后,成为了丰臣秀次的附属家老,于1585年被分封于长滨城的2万石。之后被分封于远江国的挂川城6万石。丰臣秀吉死后,跟随德川家康参与对上杉景胜的讨伐。在小山评定中,他曾发言挂川城是家康给予我的,赢得了家康的欢心,之后加入了东军,战成以后被分封于土佐国的二十万石。后来,长宗我部氏的旧部对新领主有所不满,于是他果断措施镇压他们,并筑起新城,名为高知城,于1605年高知城病死。法号:大通院殿心峰祟传 墓地:高知县高知市山内家墓所。






○8丁:日本古代长度单位,1丁约为109m強。
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