第十一課 日本語を考える(対談)
一、日本語の論理性
司馬 今日は、話しことばや書きことばの問題を中心にお伺いしようと思いまして……。今アジアの新興国では、哲学や政治、それに数学などの諸問題を自国語で表現することが、大変重大な課題になっておりますね。
桑原 表現するのが難しいということでしょうか。
司馬 東南アジアのある国のように、とても自国語で哲学の教科書を作りにくいという場合もあれば、朝鮮語のように、李朝五百年間、感じで鍛錬されてきたために、それがわりあいすら すらいくという言語もあります。日本では、明治からちょうど百年たっておりますので、共通語は一つの山坂を越えた感じがいたします。
今、生存者の年齢でいいまして、八十歳ぐらいで断層があるようですね。たとえば大阪ではきちんとした船場ことば、鹿児島でいえばきわめて音楽的な士族語。東京でいえば下町のことばといった、つまり発音法からしてその後の方言とは違うちゃんとした方言が使えるのは、八十歳以上の人ですね。たとえば、お汁粉を江戸弁ではオシロコと言いますね。手ぬぐいをテノゴイ。土佐では花壇のことを鼻音を入れてカンダン(knandan)。島津ということをシマドウ(shimanndu)。水をミンドウ(mindu)。といったふうに伝統のある日本の方言が、八十歳ぐらいのラインで切れてしまっているように思います。これはどういうわけかな。大正十四年に始まった愛宕山の放送と関係があるのでしょうか。その時代から、これらの伝統的な方言に代わって、共通語が出てきたように思いますけど、いかがでしょう。
もう少ししゃべりますと、今の共通語は、論理的表現はできるが、感情表現にはどうも適しておらないように思います。たとえば、大阪弁で「ああしんど。」と言えば、主観と状況のすべてをおおうだけの感情表現ができますが、まだ歴史の浅い共通語ではできにくいようですね。
桑原 それはおっしゃるとおりで、共通語の成立のためには、やはりラジオ・テレビの出現の影響は大きいでしょうね。それともう一つ、学問の普及も影響があった。学問のことばは科学的に正確であろうとしますから、共通語を使う。
愛宕山といえば、ラジオで天気予報をやり始めまして、「あしたは雨が降るでしょう。」とアナウンサーが言った。これにはものすごいショックを受けましたね。今ではあたりまえの表現ですが、それまでの日常の日本語には、こういう言い方はなかった。
司馬 ああ、なるほど。
桑原 昔のおじいさんなら、「あしたは雨が降る。」と言ったでしょう。どうしても未来の感覚を出したければ、「あしたは雨が降るはずだ。」とか「あしたになれば雨が降る。」とかいう言い方をした。「あしたは雨が降るでしょう。」など日本語ではない、と年寄り連中は怒っていたし、若かったぼくも大抑に感じましたね。
司馬 初めて聞いたなあ。
桑原 まあ、日本語は明治で一つの区切りがついた感じですね。明治になってから小学校教育を始めて、ずっと押してくる過程で変わっていった。これはわたしの持説なんですが、明治以降の日本がよいか悪いかは別にして、明治維新で日本は、このままでは民族がだめになるとして切り換えをやりましたね。これは「文化革命」というべきだと思うんです。もしあそこで切り換えが行われていなかったら、日本はどういうことになったかわからない。どこかの植民地になっていたかもしれない。
切り換えということは、汽車や電信・電話を採り入れ、近代的軍隊をつくるだけでなく、生活を変えるわけですから、言語にも大変な影響がありましたね。
つまり、明治維新は、それまでもっていた文化のフォルムをつぶす犠牲においてやったんです。それは基本的には避けられなかったことですがね。
司馬 これは重大なところですね。
二、大衆社会と文章能力
桑原 私は候文を習ったかれど、司馬さんはやりましたか
司馬 やりませんけどれ、見よう見まねで……
桑原 あなたは小説家だから別として、あなたの世代はどうですか。たとえば中学校では。
司馬 習いませんでした。
桑原 わたしの時は小学校も中学校も候文でした。候文はフォルムがありますから、手紙などには便利でしたがね。たとえば、金を借りる時、「御迷惑千万とは存じ候へども、××円ご恩借相成まじく候や。」と書けばいい。頼まれ事を断ると角が立つが、「折角の思召しに候へども」と書けばうまくいく。手紙の書き出しの文句にはいつも悩まされるものですが、昔なら、「春寒料峭の候」とかきまり文句があった。そういうことばをつぶしたわけですね。
司馬 まあ、候文が廃れるとともに、文章の型も崩れましたが、それ以降、論理的表現能力のある文章が出てきますね。そういう意味での文章は、第二次大戦後に確立したのではないでしょうか。明治時代の文章家は、それぞれが我流で書きことばを使っておりましたでしょう。泉鏡花なら泉鏡花手製の日本語で、鏡花が大正末期だったか「東京日本新聞」に、工業地帯のルポルタージュを書いたのを古本で見たことがありますが、鏡花手製の文章では、強化的世界は表現できますけれど、どうにも煙突やガスタンクのある街がとらえられなくて、悪戦苦闘してついに空中分解しているような格好で……。
桑原 それはおもしろいですね。
司馬 つまり鏡花手作りの文章では、ベトナム問題も沖縄問題も論じられませんでしょう。鏡花のルポタージュを読んで、明治・大正を経てきた日本語の苦渋がわかったような樹がしました。だれか書いても同じ文章を民族がもっとと、それは文体の個性を愛する人たちにとってはりそうでないかもしれませんが、文明というものが良かれ悪しかれそのようにもってゆく当然の帰結だと思います。日本では戦後になって、初めてそういう状態になった。
桑原 そのとおりですね。老人たちの中には、戦後教育は成功していない、文章もちゃんと書けないじゃないか、と言っている人もいます。しかし、戦後教育を受けた、たとえば大江健三郎、小田実、高橋和己、こういう人の文章は戦前にはなかった。イデオロギーの好ききらいは別にして、あの文章ではなんでも、素粒子論の論文でも都会の風景でも書けますね。そういう文章は、おっしゃるとおり戦後に確立したのだと思います。国民全体の文章能力がレベル・アップしました。
司馬 ここでフランスのことをお伺いしたいと思いますが、あちらではだれが演説しても、そのまま日本でフランス語の試験問題になるように思いますけれど、そういう状態になったのは、いつごろでしょうか。
桑原 今でもそうはなっていないと思いますね。
司馬 そうですか。
桑原 しゃべったのがそのまま模範文になるというのは、偉い人、エリートだけですよ。それに、彼らは必ず原稿を用意してきて、それを読むのです。文章がちゃんと書ける国民の比率は、日本はむしろ高いのではないでしょうか。フランスでは、高等学校卒業生以上はともかく、小学校を出た人がちゃんとした文章が書けるかどうか疑問です。
司馬 しかし、ソルボンヌ大学の教授の文章とド=ゴールの演説と、ほぼ同じフランス語だろうという感じが、素人のあてずっぽうながらするんですけれど……
桑原 それはそうです。そのかわり、ちゃんとしたフランス語が書けるのは、上のレベルの人たち、つまり高等学校卒業生以上だけではないでしょうか。それに、高等学校は日本ほど多くありませんからね。日本という国は、フランスなどに比べて文化がずっと下まで降りてきている。だから、国民の文章能力は決して低くないと思うのです。
司馬 そうですね。
桑原 フランスでは、十七世紀にデカルトが現れるまで、学術論文は全部ラテン語で書いていました。それをデカルトががんばって、『方法序説』をフランス語で書いた。おそらく当時、キザだとか迎合的だとか言われたにちがいありませんよ。ついで、パスカルが出る。パスカルの『田舎の友への手紙』は、フランス語散文の模範となるものですね。
それから十八世紀に入ると、読み手の数が増えてくるから、文章もおのずと易しくなります。十九世紀の産業革命になると、出版社ができて、読者も一挙に増えたから、文章は必然的に易しくなる。易しくなりすぎたというので、十九世紀の終わりに反発が起きて、象徴主義文学は普通の庶民にはわからないようなものになりましたが、全体の流れとしては文章は易しくなっているんです。
司馬 なるほど。
桑原 日本でも同じですね。徳川時代まで漢文でやってきて、明治になると、言文一致になります。もっとも、明治の言文一致は漢文を相当訓練した人たちが使っていましたので、どちらかといえば漢文脈ですが。わたしなんか漢文を勉強したわけではないけれど、やはりわたしの文章は、若い人からは漢文脈だと言われるんです。わたしには文章をだらだら書くことに対する嫌悪感が、理屈でなしに残っているし、同じ形容詞が一ベージの中に三回も四回も出てくるのは、やっぱり耐えられません。そういう漢文脈の文章を書く者は、わたしくらいの世代で切れてしまいますね。
司馬 昭和初期でも、人によってはまだ手作りをやっていますですね。片岡鉄兵の新感覚派宣言の文章なんかは、火星人が書いたんじゃないか、(笑)と思われるほどに手作りですが、まあ、いずれにしても大体共通の書きことばができあがったのは戦後であるとして、後世の文化史家に書いてもらいたいなあ。
たとえば、松本清張さんが出てこられて、あの人の文章に驚いた記憶があります。センテンスが短い。これは読みやすいというより、むしろ、一つのセンテンスが一つの意味しか背負っていない文章ですね。それまでの多くの文章は、とぎれもなく続いて、一つのセンテンスという荷車に、荷物をたくさん積んでおった感じがしますが、松本さんの出現によって、というよりそういう時期に、新しい文章が出てきた。近ごろは、どこに書かれている文章もほぼそのようになっています。これは、松本さんの影響というより……
桑原 そういう社会になったんでしょう。
司馬 確かに、センテンスがべらぼうに長いといえば、――二十五歳になるイギリスの青年が、日本に帰化しようと思ってきたんです。彼はケンブリッジの日本語科を出ているんですが、そこで習った日本語作文の文章はとめどもなくセンテンスが長くて、彼の論文を見せてもらったのですが、どこで切れるのか、読み手にとってあてどもない旅をしているような感じなのです。だれに習った日本語だと聞くと、ケンブリッジの先生がこう書けといったんだという。平安朝文字の解釈などは、素人のわたしなんかとてもかなわないほどの青年なんですがね。その時、松本清張さんの小説を見せて、現代日本語はこうなっているんだと言ってやりました。このごろ、彼の文章はセンテンスが短くなってきました。
桑原 それはおもしろい話ですね。今おっしゃった。一つのセンテンスが一つのことしかさしていない、これは一種の機能主義的な文章ですね。今の日本語は、もうそういうところへ来ているんですね。だれでも書けるし、あらゆることが言える文章が確立された。これからは、そういう文章で、どういうふうに微妙な心の中の深い問題を表していくか、これが重要になってくる。文章より考え方ということです。
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