考えることの喜び
個人的な話ですけど、僕は昔から自分のモットウとしていることは、要するに人以上に時間をかければいいんだ、そうすれば必ず自分でできる。それが今までの研究生活、日常生活のいろんなことに基本的にある僕の揺るがない信念であり、自信なんです。その自信とプラス撙ⅳ盲啤ⅳい恧い恧ⅳ沥长沥琴pをもらったりしているわけです。
そういう僕の自信の基礎にあるものは、人間十分に頭を使ってないんじゃないか、使ってないのがたくさんある。人が140億の細胞の10パアセントしか使ってないときに、僕が15パアセント使えば、当然何か良いものができるはずです。
あるいは人が10分時間をかけるときに、自分は20分、人が一年かけるときに自分は二年かければ、僕でも何かできるだろう。
話は飛びますけど、僕自身の母のことを思い出してみて、どういう教育をしてくれたか、一口に言って僕の母は教育らしい教育は何もしてくれなかった。だけど一つだけ僕に教えてくれたこと、それは、何かものを考えることに意味があり、物を考えることに何か喜びがあるんだということを教えてくれたと思うんです。
母に聞いたり、僕自身思い出すことは、お風呂に入って自分の手が、水の中では軽く、外へ出ると重い、これは何故だろうと考えたりするわけです。あるいは、小さい目でどうして大きな家が見えたりするのだろうと聞くわけです。受験勉強に押しつぶされている人は別として、たいていの子供にはそういう自然な疑問というのがあるわけです。
そういう疑問を出したときに、「何、そんなこと聞いて分かりきっていることじゃないの、そんなことやってるなら早く勉強しなさい」といってしまうと、それお考える時間、喜びがなくなるわけです。
幸い、僕の母は、教育がないために、僕と一緒に考えてくれるわけです。小さい目で大きいものがどうして見えるのか、一日ぐらいわからないといって一生懸命考えてくれるわけです。翌日、「私には、和歌ランケ、お医者さんとこいって見ようじゃないか」というわけです。田舎ではインテリといえばお医者さんか神主さんぐらいで、お医者さんなら目の子とも知っているだろうといって、一緒に行ったわけです。そのお医者さんが説明してくれたことは覚えているけど、いったいどういう説明だったかは覚えてないんです。何せ大昔のことですから。
だけど、そういうことの中に、何か自分で考えることが楽しいんだと、考えることに意味があるんだと、何か一日二日考えてみる、そういうことを教えてくれたと思うんです。  |