100327冤案昭雪
若くして死んだ樋口一葉はこまめに日記を書いた。窮乏にあえいではいたが、暮らしは清らかで、曲がった道は歩いていないという自負をうかがわせている。「我に罪なければ、天地(あめつち)おそろしからず」。そんな一言が日記の中にある。
英年早逝的樋口一叶是勤记日记的。从她的日记中,我们可以看到她穷困潦倒中坚持清白做人不走歪路的自负。日记中有这样一句话:“吾若无罪,天地不惧”。
菅家利和さん(63)にも罪などなかった。おそろしいものはないはずだった。だが天地ではなく、「人」が善良な市民に牙をむいた。女児が殺害された足利事件の犯人に仕立てられ、17年半が鉄格子に消えた。長い歳月である。
菅家利和(63岁)也没有什么罪过。应该是没什么可惧怕的。然而,对这个善良市民露出獠牙的并非“天地”而是“人”。他被当作是杀害女童的足利事件的凶手,在铁窗中熬过17年半的生涯。这是一段多么漫长的岁月啊。
その再審できのう、無罪が言い渡された。菅家さんが天地神明に誓い続けた「真っ白な無罪」である。3人の裁判官は立ち上がって、深々と頭を下げて謝罪した。「この裁判に込められた菅家さんの思いを深く胸に刻みます」の言葉を、司法の良心と信じたい。
在昨天的复审中,他被判为无罪。这正是菅家一直在向天地神明发誓的“清白无罪”。在法庭上,三名法官站起身来,向他深深地低头谢罪。“我们会将卷入此案的菅家先生的感受铭记于心的”——我愿将此话看作是司法的良心。
「潔白だから分かってもらえる」というのが、ごく素朴な市民感覚かもしれない。しかし菅家さんは踏みにじられた。再審では冤罪がなぜ起きたかの解明も求めたが、かなわなかった。これではまだ、奪われた歳月に報いたとはいえない。
“只要是清白的,总会被认可的”,或许极为朴素的市民感觉就是这样的。然而,菅家却横遭冤屈。复审时,他也要求对冤案的产生作出解释,却未能如愿以偿。这样的话,就不能说被剥夺的岁月已得到了补偿。
きのうが命日だった室生犀星の詩の一節が胸をよぎる。〈悔(くい)のない一日をおくることも/容易ならざる光栄である〉。人間らしい光栄を、無実の罪で獄中に長く封じられた悔しさは、想像に余りある。
室生犀星诗中的一节在我心头浮起——昨天正是他的忌日。“度过无悔的一日/并非唾手可得的荣誉”。作为人的荣誉因冤案而被长期幽禁于狱中,这种屈辱是常人难以想象的。
「今後の人生に幸多きことを心よりお祈りします」と法廷で裁判長は述べた。この日、菅家さんは泣き、そして笑った。「冤罪は私で終わりに」は涙で声が詰まった。裁判員になる可能性のある一人として、姿を胸に刻みつける。
法官在法庭上说道:“衷心祝愿您在今后的人生中幸福美满”。这天,菅家先生哭了,随即又笑了。他哽咽地说道:“希望冤案到我为止”。作为有资格成为陪审员一个人,他的身影深深地印在了我的心中。 |