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发表于 2004-12-8 22:25:52
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平遥
山西省中部に位置する平遥は、悠久の歴史と文化に彩られた古い街である。西周時代の宣王年間(前827~前782年)に興され、すでに2700余年の歴史をほこる。
平遥古城は2700年の歴史を持ち、現在中国にはよく保存されたもっとも完備な明清時代県城の原型である。1997年12月に世界文化遺産として世界で認められた。平遥はかつて、「物資が入れば、すぐに出て行く平遥城」「小北京」などと呼ばれたが、それは当時のようすを明らかに写し出している。また経済発展が功を奏し、古城の建築や保護が積極的に進められた。
紀元前221年に中国が「郡県制」を敷いて以来、ここは県の都・県城(県庁所在地)となった。「礼」(規則、制度)を基本とした街のつくりは整然としている。城壁で四角に囲まれた街のつくりは、中心線を軸として左右対称に配されている。築城のための第一級の制度規範を忠実にまもり、つくられた街だ。それは、明・清代の漢民族の歴史と文化の面影を、完全なまでに今に伝えているのである。
平遥古城は、面積わずか2・25平方キロの四角い小さな街である。東・西・北部の城壁はまっすぐ続き、南部のものは河(中都河)沿いに曲がりくねって連なっている。
城壁の周囲は約6・2キロ、高さは約10メートル。下部の幅8~12メートルに対して、上部の幅2・5~6メートルと、それはかなりのばらつきがある。構造は、土を突き固めた部分(内部)と、それをレンガで覆った部分(外部)からなる。
城門は南北に各一つ、東西に各二つあり、いずれも二重の「重門」と「瓮城」(城門の前につくられた防御用の小城)からなっている。その形が亀の甲羅に似ていたことから、別名「亀城」とも呼ばれた。
城壁の四隅にはそれぞれ、「角楼」と呼ばれる楼閣が置かれている。さらに、のろし台の「敵楼」が計71、見張り台の「奎星楼」が一、凹型の狭間射眼「ドォオ口」が三千カ所設けられている。中国において最も完全な形で残された、明代初めの県城城壁である。
城内には、大小の通りが縦横に走っている。立ち並ぶ民家のほとんども、明・清代につくられたものだ。街道が碁盤の目のようにハッキリと分かれているため、昔はよくこう称されたという。「四本の大通り、八本の横町、曲がりくねった72本の小さな道に、数えきれないひとすじの天」
現在は、城内に大小の通りが199本ある。大通りは幅約5メートル、最も狭い小さな道は一メートルにも満たない。大通りは横町に通じ、横町は小路に分かれ、縦横に交差してどこへでも行くことができた。
山西省の奥ふかくに平遥という小邑がある。そこに明清時代の城壁がそっくり残っているという話を聞いたのは、ほんの一年ほど前のことだった。北京で胡同を取材しているとき、現地の写真家が教えてくれたのである。城壁が崩れもせずに、そのまま建っているというのだ。そこには、きっと、近代以前の中国にあった人や物が醸しだす空気感のようなものが縹渺とした砂塵の舞う風景の中に漂っているに違いない。平遥へ行きたい、と思うようになったのは、明清時代へのそんなお伽めかしい感情が抑えきれないほど膨らんでしまったからにほかならない。
山西省中部地方は、土地面積が少ないわりに人口が多く、土地もかなりやせていた。そのためここの人々は、外地に赴き、商いにいそしむことで生計をたてた。その足跡は全国にわたり、絹織物や染料、特産物や骨董品などの商いをだんだんと牛耳るようになっていった。
漢代にいたると、平遥は物資の集散地として栄えた。明・清代には、山西省の商人である「晋商」と安サユ省南部の商人「徽商」が、「中国二大商人」としてその名をあげた。
晋商は、とりわけ商いに長けていた。1670年ごろには、その勢力範囲を北方から南方の江南地方へと広げ、地域を超えた経営組織システムを徐々に確立していった。昔、民間ではこんな言葉がはやったという。「スズメのいるところに、平遥人あり」。そこからは、平遥の人がいかにたくさん全国を回っていたか、その経済がいかに発展していたかがわかる。
清代半ばの1823年、物流と貨幣哂盲涡枰椤㈩喠蠁栁荬沃鳏扦ⅳ盲坷茁奶─谓ㄗhが通り、顔料問屋は金融機関に生まれ変わった。それが中国最初の金融機関「日昇昌」である。これにより、平遥は中国最大の金融中心都市となった。大規模な金融取引が行われ、各地の物資が流通し、平遥経済はいっそう発展したのである。
中国最初の金融機関「日昇昌」は西大街にあり、その昔は預金や貸付、為替業務などが行われていた。日昇昌が采配を振り、平遥には前後して「蔚盛長」「日新中」「百川通」などの22の金融機関が設けられた。西大街を半分ほど進んだところで路南に日昇昌記票号(票号=銀行)の旧跡を認める。「記」とは、日本風に表現すれば近江屋とか大荬巍肝荨工讼嗟堡工搿H諘N昌記は、清の道光3年(1823)に興った中国最初の為替銀行である。為替業務のために、アメリカのニューヨークやサンフランシスコまで出張した機関もあったという。
金融機関の発展は、それ自体が巨大な経済効果を生み出したと同時に、資金哂盲撙蓼辍⒔鹑谑袌訾瑨埓螭丹臁⑵揭¥谓U済も大きく繁栄していった。卸売や咚蜆Iなども発展し、全国各地の貨物が次々と入っては、送り出された。それは古城を、日増しに発展させたのである。
南大街にひしめく老字号
民国期に編纂された『山西統計年鑑』(1933年版)によれば、当時の平遥には商標登録をした商家が585件、店員の数は3015人と記載されている。冒頭で触れたことだが、一辺がわずか1.5キロメートルの小邑に600百軒近い商家がひしめきあっていた。もっとも、全国を相手に商品を流通させていた山西商人にとって、平遥という街は彼らの商いをつかさどる交易装置の小さな部品のひとつにすぎなかったのかもしれない。 骨董商売も山西商人の重要な生業であった。外省を駆け回る票号(銀行)の営業員たちは、その豊かな資金力で各地の値打ち物(書画、骨董、工芸品など)を買い漁り、この街に大規模な古物の集散市場を築いた。清の同治16年(1890)から半世紀の間、この街で開業し老字号(老舗)に指定された古物商は10指に余り、平遥は「天下の骨董城」とも称された。
晋商のふるさと・平遥の民家や商店、大邸宅の建築は、格式が高い。その多くは「二進院」(中庭が前後に二つある家屋)、または「一進院」で、レンガの壁に瓦屋根を配した四合院(東西南北の四棟で庭を囲む中国北方特有の住宅)の様式を取り入れている。
財力のあった商人の邸宅は「三進院」が多く、小庭園を東西に一つずつ持つ家もある。三進院など「多進院」には、通り抜けることができる広間や、屋根の部分に彫刻を施した門などがあり、室内は広くゆったりしている。
最後に、城壁に登ってこの街を眺めてみる。 繰り返しになるが、平遥古城の築城が始まったのは西周の宣王時代(BC828?BC782)である。当時は土を盛り上げただけの城壁で、夷界の方角に当たる西北両面を防御していた。明の洪武3年(1370)から積極的な拡充が進められ、清末までに26回もの改修工事を経て現在の姿に至る。 中国の城壁都市は、何れも『周礼』の理想都市プランや陰陽五行思想、「天円地方」の概念と天文思想などに従って門の数や街路の位置、名称が決められていた。その理想型が唐の長安城である。「長安は天の秩序を地上に投影させる宇宙の都であった。地上でたった一人の人物が天からの命を受けて天子となる天命の受け皿であった」(妹尾達彦『宇宙の都から生活の都へ』)。中国の城郭都市を陰陽五行思想などに基づいて考究していくと面白いではないか。
平遥古城はこんにち、世界文化遺産の一つとして注目を集めている。明・清代の建築物や歴史をほこる寺院芸術、平遥の素朴な人々とその風景が、訪れる人に深い印象を与えるのである
映画「紅夢」の舞台(山西省祁県・喬家大院=中国)
300人が住んだ清代の豪邸
正妻と愛妾(あいしょう)が同居する旧社会の愛憎生活を描いた中国映画「紅夢(原題・大紅灯桓吒邟欤工稀⑸轿魇·问《 |
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