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世界の終りとハードボイルドワンダーランド“ THE END OF THE WORLD ”

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发表于 2004-12-30 13:22:05 | 显示全部楼层 |阅读模式
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 ハードボイルド?ワンダーランド――エレベーター、無音、肥満―― エレベーターはきわめて緩慢な速度で上昇をつづけていた。おそらくエレベーターは上昇していたのだろうと私は思う。しかし正確なところはわからない。あまりにも速度が遅いせいで、方向の感覚というものが消滅してしまったのだ。あるいはそれは下降していたのかもしれないし、あるいはそれは何もしていなかったのかもしれない。ただ前後の状況を考えあわせてみて、エレベーターは上昇しているはずだと私が便宜的に決めただけの話である。ただの推測だ。根拠というほどのものはひとかけらもない。十二階上って三階下り、地球を一周して戻《もど》ってきたのかもしれない。それはわからない。
 そのエレベーターは私のアパートについている進化した井戸つるべのような安手で直截《ちょくせつ》的《てき》なエレベーターとは何から何まで違っていた。あまりにも何から何まで違っていたので、とてもそれらが同一の目的のために作られた同一の機構を持つ同一の名を冠《かん》せられた機械装置だとは思えないくらいだった。そのふたつのエレベーターはおよそ考えられうる限りの長い距離によって存在を遠く隔てられていたのだ。
 まず第一に広さの問題だ。私が仱盲骏ē欹侃`ターはこぢんまりとしたオフィスとしても通用するくらい広かった。机を置いてロッカーを置いてキャビネットを置き、その上に小型のキッチンを備えつけてもまだ余裕がありそうである。ラクダを三頭と中型のやしの木を一本入れることだってできるかもしれない。第二に清潔だった。新品の棺桶《かんおけ》のように清潔である。まわりの壁も天井もしみひとつくもりひとつないぴかぴかのステンレス?スティールで、床には毛足の長いモス?グリーンのカーペットが敷きこんである。第三におそろしく静かだった。私が中に入ると音もなく――文字どおり音もなく――するすると扉《とびら》が閉まり、それっきり何の音も聞こえなくなった。停《と》まっているのか動いているのかもわからないくらいだった。深い川は静かに流れるのだ。
 もうひとつ、そこにはエレベーターというものが当然装備していなくてはならないはずの様々な付属物の大半が欠落していた。まず各種のボタンやスウィッチの類《たぐ》いを集めたパネルがない。階数を示すボタンもドアの開閉ボタンも非常停止装置もない。とにかく何もないのだ。そのために私は非常に無防備な気持になった。ボタンばかりではない。階数を示すランプもなく、定員や注意事項の表示もなく、メーカーの名前を書いたプレートさえ見あたらなかった。非常用の脱出口がどこにあるのかもわからない。たしかにまるっきりの棺桶だった。どう考えてもこんなエレベーターが消防署の許可を得られるわけはない。エレベーターにはエレベーターのきまりというものがあるはずなのだ。
 そんな何のとっかかりもないステンレス?スティールの四つの壁をじっと睨《にら》んでいると、子供の頃《ころ》映画で見たフーディニの大奇術のことを思いだした。彼はロープと鎖で幾重にも縛られて大きなトランクの中に詰められ、その上にまた重い鎖をぐるぐると巻きつけられ、トランクごとナイアガラの滝の上から落とされたり、あるいは北海で氷づけになったりするのだ。私はゆっくりと一度深呼吸してから、私の置かれた立場とフーディニの置かれた立場とを冷静に比較してみた。体を縛られていないぶん私の方が有利だったが、たね《??》を知らないぶんは不利だった。
 考えてみればたね《??》どころか私にはエレベーターが動いているのか停まっているのかさえわからないのだ。私は咳払《せきばら》いをしてみた。しかしそれは何か奇妙な咳払いだった。咳払いが咳払いのように響かないのだ。やわらかな粘土をコンクリートののっぺりとした壁に投げつけたときのような妙に扁平《へんぺい》な音が聞こえただけだった。私にはそれが自分の体から発せられた音だとはどうしても思えなかった。念のためにもう一度咳払いをしてみたが結果は同じようなものだった。私はあきらめて、それ以上咳払いするのをやめた。
 ずいぶん長いあいだ、私はそのままの格好でじっと立ちつくしていた。いつまでたっても扉は開かなかった。私とエレベーターは『男とエレベーター』という題の静物画みたいにそこに静かにとどまっていた。私は少しずつ不安になってきた。
 機械は故障しているのかもしれないし、あるいはエレベーターの哕炇吱D―そういう役目の人間がどこかに存在すると仮定しての話だが――が私が箱の中に入っていることをうっかり忘れてしまったのかもしれない。ときどき私は私の存在を誰《だれ》かに忘れられてしまうことがあるのだ。しかしどちらの場合にせよ、結果的に私はこのステンレス?スティールの密室の中に閉じこめられてしまったことになる。じっと耳を澄ませてみたが、どのような音も耳には届かなかった。ステンレス?スティールの壁にぴたりと耳をつけてみたが、それでもやはり音は聞こえなかった。壁に私の耳のかたちが白く残っただけだった。エレベーターはあらゆる音を吸いとるために作られた特殊な様式の金属箱であるようだった。私はためしに口笛で『ダニー?ボーイ』を吹いてみたが、肺炎をこじらせた犬のため息のような音しか出てこなかった。
 私はあきらめてエレベーターの壁にもたれ、ポケットの中の小銭の勘定をして暇をつぶすことにした。もっとも暇つぶしとはいっても、それは私のような職業の人間にとっては、プロ?ボクサーがいつもゴム?ボールを握っているのと同じように大事なトレーニングのひとつである。純粋な意味での暇つぶしではない。行動の反復によってのみ偏在的傾向の普遍化は可能なのだ。
 とにかく私はいつもズボンのポケットにかなりの量の小銭をためておくように心懸けている。右側のポケットに百円玉と五百円玉を入れ、左側に五十円玉と十円玉を入れる。一円玉と五円玉はヒップ?ポケットに入れるが原則として計算には使わない。両手を左右のポケットにつっこみ、右手で百円玉と五百円玉の金額を数え、それと並行して左手で五十円玉と十円玉の金額を数えるのだ。
 そういう計算はやったことのない人には想像しにくいだろうが、はじめのうちはかなり厄介《やっかい》な作業である。右側の脳と左側の脳でまったくべつの計算をし、最後に割れた西瓜《すいか》をあわせるみたいにそのふたつを合体させるわけである。慣れないことにはなかなかうまくいかない。
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 楼主| 发表于 2004-12-30 13:22:48 | 显示全部楼层
本当に右側の脳と左側の脳を分離して使いわけているのかどうか、正確なところは私にはわからない。脳生理学の専門家ならもっとべつの表現をするかもしれない。しかし私は脳生理学の専門家ではないし、それに実際に計算をしてみるとたしかに右側の脳と左側の脳を使いわけているような気がするものなのだ。数え終ったあとの疲労感をとってみても、通常の計算をしたあとの疲労感とはずいぶん質が違っているように思える。そこで私は便宜的に、右の脳で右ポケットの勘定をし、左の脳で左ポケットの勘定をするという風に考えているわけだ。
 私はどちらかといえば様々な世界の事象?ものごと?存在を便宜的に考える方ではないかと自分では考えている。それは私が便宜的な性格の人間だからというのではなく――もちろんいくぶんそういう傾向があることは認めるが――便宜的にものごとを捉《とら》える方が正統的な解釈よりそのものごとの本質の理解により近づいているような場合が世間には数多く見うけられるからである。
 たとえば地球が球状の物体ではなく巨大なコーヒー?テーブルであると考えたところで、日常生活のレベルでいったいどれほどの不都合があるだろう? もちろんこれはかなり極端な例であって、何もかもをそんな風に自分勝手に作りかえてしまうわけではない。しかし地球が巨大なコーヒー?テーブルであるという便宜的な考え方が、地球が球状であることによって生ずる様々な種類の瑣《さ》末《まつ》な問題――たとえば引力や日付変更線や赤道といったようなたいして役に立ちそうにもないものごと――をきれいさっぱりと排除してくれることもまた事実である。ごく普通の生活を送っている人間にとって赤道などという問題にかかわらねばならないことが一生のうちにいったい何度あるというのだ?
 というわけで私はできるだけ便宜的な視点からものごとを眺《なが》めようと心懸けている。世界というのは実に様々な、はっきりといえば無限の可能性を含んで成立しているというのが私の考え方である。可能性の選択は世界を構成する個々人にある程度委《ゆだ》ねられているはずだ。世界とは凝縮された可能性で作りあげられたコーヒー?テーブルなのだ。
 話をもとに戻すと、右手と左手でまったくべつの計算を平行しておこなうというのは決して簡単なことではない。私だって精通するまでにはずいぶん長い時間がかかった。しかし一度精通してしまうと、言いかえれば一度そのコツを習得してしまうと、その能力は簡単に消え失せてしまったりはしない。これは自転車や水泳と同じだ。とはいっても練習がいらないわけではない。不断の練習によってのみ能力は向上し、様式は洗練《リファイン》される。だからこそ私はいつもポケットに小銭をためておき、暇があればその計算をするように心懸けているのである。
 そのときの私のポケットの中には五百円玉が3枚と百円玉が18枚、五十円玉が7枚と十円玉が16枚入っていた。合計金額は3810円になる。計算には何の苦労もなかった。この程度なら手の指の数を数えるよりも簡単だった。私は満足してステンレス?スティールの壁にもたれかかり、正面の扉を眺めた。扉はまだ開かなかった。
 どうしてこんなに長くエレベーターの扉が開かないのか、私にはわからなかった。しかし少し考えてみてから、機械の故障説と係員が私の存在を忘れてしまったという不注意説は両方とも一応排除してもかまわないだろうという結論に達した。現実的ではないからだ。もちろん私は機械の故障や係員の不注意が現実に起り得ないと言っているわけではない。逆に現実の世界ではその種のアクシデントが頻繁《ひんぱん》に起っていることを私は承知している。私が言いたいのは特殊な現実の中にあっては――というのはもちろんこの馬鹿《ばか》げたつるつるのエレベーターのことだ――非特殊性は逆説的特殊性として便宜的に排除されてしかるべきではないか、ということである。機械の手入れを怠ったり来訪者をエレベーターに仱护郡辘ⅳ趣尾僮鳏蛲欷皮筏蓼Δ瑜Δ什蛔⒁猡嗜碎gがこれほど手のこんだエキセントリックなエレベーターを作ったりするものなのだろうか?
 答はもちろんノオだった。
 そんなことはありえない。
 これまでのところ、彼ら《??》はおそろしく神経質で用心深く、几帳面《きちょうめん》だった。彼らはまるで一歩一歩の歩幅をものさしで測りながら歩いているみたいに、実に細かいところにまで気を配っていた。ビルの玄関に入ると私は二人のガードマンにとめられ、来訪の相手を訊《たず》ねられ、来訪予定者リストと照合され、哕灻庠S証をチェックされ、中央コンピューターで身《み》許《もと》を確認され、金属探知機でボディー?チェックされ、しかるのちにこのエレベーターに押しこまれたのだ。造幣局の見学だってこんなに厳しいチェックは受けない。それなのにこの段階に至ってその注意深さが突然失われてしまうというのはいくらなんでも考えがたいことである。
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 楼主| 发表于 2004-12-30 13:24:06 | 显示全部楼层
そうなると残った可能性は彼らが意識的に私をこのような立場に置いているということだけだった。おそらく彼らはエレベーターの動きを私に読まれたくないのだろう。だから上昇しているのか下降しているのかわからないくらいの速度でゆっくりとエレベーターを移動させているのだ。TVカメラだってついているかもしれない。入口の警備室にはモニターTVのスクリーンがずらりと並んでいたし、そのひとつがエレベーターの中を映しているとしてもとくに驚くべきことではない。
 私は退屈しのぎにTVカメラのレンズを探してみようかとも思ったが、よく考えてみれば仮にそんなものをみつけだしたところで私の得るものは何もなかった。ただ相手を警戒させてしまうだけだし、警戒した相手はもっとゆっくりエレベーターを動かそうとするかもしれない。そんな目にはあいたくない。ただでさえ約束の時間に遅れているのだ。
 結局私はとくべつなことは何もせずにのんびりと構えていることにした。私はただ与えられた正当な職務を果すためにここに来ただけのことなのだ。何も怯《おび》えることはないし、緊張する必要もない。
 私は壁にもたれて両手をポケットにつっこみ、もう一度小銭の計算をはじめた。3750円だった。何の苦労もない。あっという間にすんでしまう。
 3750円?
 計算が違っている。
 どこかで私はミスを犯してしまったのだ。
 手のひらに汗がにじんでくるのが感じられた。私がポケットの小銭の計算をしくじったなんてこの三年間一度もないことだった。ただの一度としてないのだ。どう考えてもこれは悪い兆《きざ》しだった。その悪い兆しが明白な災《さい》厄《やく》として現出する前に、私は失地をきちんと回復しておかなければならなかった。
 私は目を閉じて、眼鏡のレンズを洗うように右の脳と左の脳をからっぽにした。それから両手をズボンのポケットからひっぱりだして手のひらを広げ、汗を乾かした。それだけの準備作業をガン?ファイトにのぞむ前の『ワーロック』のヘンリー?フォンダみたいに手《て》際《ぎわ》よくすませた。どうでもいいようなことだけれど、私はあの『ワーロック』という映画が大好きなのだ。
 両方の手のひらが完全に乾いたのをたしかめてから、私はあらためてそれを両方のポケットにつっこみ、三度めの計算にかかった。三度めの合計が前の合計のいずれかに合致していれば、それで問題はない。ミスは誰にでもある。特殊な状況に置かれて神経質にもなっていたし、いささかの自己過信があったことも認めなくてはならない。それが私に初歩的なミスをもたらしたのだ。とにかく正確な数字を確認すること――救済はそれによってもたらされるはずだった。しかし私がその救済にたどりつく前にエレベーターの扉が開いた。扉は何の前兆もなく何の音もなく、するすると両側に開いた。
 ポケットの中の小銭に神経を集中させていたせいで、はじめのうちドアが開いたことを私はうまく認識することができなかった。というかもう少し正確に表現すると、ドアが開いたのは目に入ったのだが、それが具体的に何を意味するのかがしばらくのあいだ把《は》握《あく》できなかった、ということになる。もちろん扉が開くというのは、それまでその扉によって連続性を奪いとられていたふたつの空間が連結することを意味する。そして同時にそれは私の仱盲骏ē欹侃`ターが目的地に到達したことをも意味している。
 私はポケットの中で指を動かすのを中断して扉の外に目をやった。扉の外には廊下があり、廊下には女が立っていた。太った若い女で、ピンクのスーツを着こみ、ピンクのハイヒールをはいていた。スーツは仕立ての良いつるつるとした生地《きじ》で、彼女の顔もそれと同じくらいつるつるしていた。女は私の顔をしばらく確認するように眺めてから、私に向ってこっくりと肯《うなず》いた。どうやら〈こちらに来るように〉という合図らしかった。私は小銭の勘定をあきらめて両手をポケットから出し、エレベーターの外に出た。私が外に出ると、それを待ち受けていたかのように私の背後でエレベーターの扉が閉まった。
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 楼主| 发表于 2004-12-30 13:25:32 | 显示全部楼层
廊下に立ってまわりをぐるりと見まわしてみたが、私の置かれた状況について何かを示《し》唆《さ》してくれそうなものはひとつとして見あたらなかった。私にわかったのは、それがビルの内部の廊下であるらしいということだけだったが、そんなことは小学生にだってわかる。
 それはともかく異様なくらいのっぺりとした内装のビルだった。私の仱盲皮骏ē欹侃`ターと同じように、使ってある材質は高級なのだがとりかかりというものがないのだ。床はきれいに磨《みが》きあげられた光沢のある大理石で、壁は私が毎朝食べているマフィンのような黄味がかった白だった。廊下の両側にはがっしりとして重みのある木製のドアが並び、そのそれぞれには部屋番号を示す金属のプレートがついていたが、その番号は不《ふ》揃《ぞろ》いで出《で》鱈《たら》目《め》だった。〈936〉のとなりが〈1213〉でその次が〈26〉になっている。そんな無茶苦茶な部屋の並び方ってない。何かが狂っているのだ。
 若い女はほとんど口をきかなかった。女は私に向って「こちらへどうぞ」と言ったが、それは彼女の唇《くちびる》がそういう形に動いただけのことであって、音声は出てこなかった。私はこの仕事に就く以前に、二カ月ばかり読唇術《どくしんじゅつ》の講座に通っていたから、彼女の言っていることをなんとか理解することができたのだ。はじめのうち、私は自分の耳がどうかしてしまったのかと思った。エレベーターが無音だったり、咳払いや口笛がうまく響かなかったりで、音響について私はすっかり弱気になってしまっていたのだ。
 私はためしに咳払いをしてみた。咳払いの音はあいかわらずこそこそしてはいたが、それでもエレベーターの中で咳払いしたときよりはずっとまともに響いた。それで私はほっとして、自分の耳に対していくぶん自信をとりもどすことができた。大丈夫、私の耳がどうかしてしまったというわけではないのだ。私の耳はまともで、問題があるのは女の口の方なのだ。
 私は女のあとをついて歩いた。尖《とが》ったハイヒールのかかとが、カツカツという昼下がりの石切り場のような音を立てて、がらんとした廊下に響いた。ストッキングにつつまれた女のふくらはぎが大理石にくっきりと映っていた。
 女はむっくりと太っていた。若くて美人なのだけれど、それにもかかわらず女は太っていた。若くて美しい女が太っているというのは、何かしら奇妙なものだった。私は彼女のうしろを歩きながら、彼女の首や腕や脚をずっと眺めていた。彼女の体には、まるで夜のあいだに大量の無音の雪が降ったみたいに、たっぷりと肉がついていた。
 若くて美しくて太った女と一緒にいると私はいつも混乱してしまうことになる。どうしてだかは自分でもよくわからない。あるいはそれは私がごく自然に相手の食生活の様子を想像してしまうからかもしれない。太った女を見ていると、私の頭の中には彼女が皿《さら》の中に残ったつけあわせのクレソンをぽりぽりとかじったり、バター?クリーム?ソースの最後の一滴をいとおしそうにパンですくったりしている光景が自動的に浮かんでくるのだ。そうしないわけにはいかないのだ。そしてそうなると、まるで酸が金属を浸蝕《しんしょく》するみたいに私の頭は彼女の食事風景でいっぱいになり、様々な他の機能がうまく働かなくなるのだ。
 ただの太った女なら、それはそれでいい。ただの太った女は空の雲のようなものだ。彼女はそこに浮かんでいるだけで、私とは何のかかわりもない。しかし若くて美しくて太った女となると、話は変ってくる。私は彼女に対してある種の態度を決定することを迫られる。要するに彼女と寝ることになるかもしれないということだ。それがおそらく私の頭を混乱させてしまうのだろうと思う。うまく機能しない頭を抱えて女と寝るというのは簡単なことではないのだ。
 とはいっても私は決して太った女を嫌《きら》っているわけではない。混乱することと嫌うことは同義ではないのだ。私はこれまでに何人かの太った若くて美しい女と寝たことがあるが、それは総合的に見れば決して悪い体験ではなかった。混乱がうまい方向に導かれれば、そこには通常では得ることのできない美しい結果がもたらされることになる。もちろんそれがうまくいかないこともある。セックスというのはきわめて微妙な行為であって、日曜日にデパートにでかけて魔《ま》法《ほう》瓶《びん》を買ってくるのとはわけが違うのだ。同じ若くて美しくて太った女でもそれぞれ肉のつき方に差があって、ある種の太り方は私をうまい方向に導くし、ある種の太り方は私を表層的混乱の中に置き去りにしてしまう。
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 楼主| 发表于 2004-12-30 13:26:18 | 显示全部楼层
そういう意味では太った女と寝ることは私にとってはひとつの挑戦《ちょうせん》であった。人間の太り方には人間の死に方と同じくらい数多くの様々なタイプがあるのだ。
 私はその若くて美しくて太った女のうしろについて廊下を歩きながら、だいたいそんなことを考えていた。彼女はシックな色あいのピンクのスーツの襟《えり》もとに白いスカーフを巻いていた。肉づきの良い両方の耳たぶには長方形の金のイヤリングがさがっていて、彼女が歩くにつれてそれが灯火信号みたいにちかちかと光った。全体的に見て、太っているわりに彼女の身のこなしは軽かった。もちろんかっちりとした下着か何かで効果的に見映えよくひきしめているのかもしれないけれど、しかしその可能性を考慮にいれても彼女の腰の振りかたはタイトで小気味よかった。それで私は彼女に好感を持った。彼女の太り方は私の好みにあっているようだった。
 言いわけをするわけではないが、私はそれほど多くの女に対して好感を抱くわけではない。どちらかといえばあまり抱かない方だと思う。だからたまに誰かに対して好感を抱いたりすると、その好感をちょっと試してみたくなる。それが本物の好感なのかどうか、そしてもし本物の好感だとしたらそれはどのように機能するのか、といったようなことを自分なりにたしかめてみたくなるのだ。
 それで私は彼女のとなりに並び、約束の時刻に八分か九分ほど遅れたことを詫《わ》びた。
「入口の手続きにあんなに時間がかかるとは知らなかったんです」と私は言った。「それにエレベーターがあんなにのろいということもね。このビルに着いたのはちゃんと約束の十分前だったんです」
〈わかっている〉という風に彼女は手短かに肯いた。彼女の首筋にはオーデコロンの匂《にお》いがした。夏の朝のメロン畑に立っているような匂いだった。その匂いは私を何かしら不思議な気持にさせた。ふたつの異った種類の記憶が私の知らない場所で結びついているような、どこかちぐはぐでいてしかも懐《なつか》しいような妙な気持だった。ときどき私はそういう気分になることがある。そしてその多くはある特定の匂いによってもたらされる。どうしてそうなるのかは私にも説明できない。
「ずいぶん長い廊下だね」と私は世間話のつもりで彼女に声をかけてみた。彼女は歩きながら私の顔を見た。二十か二十一というところだろうと私は見当をつけた。目鼻だちがはっきりとして額が広く、肌《はだ》が美しい。
 彼女は私の顔を見ながら「プルースト」と言った。とはいっても正確に「プルースト」と発音したわけではなく、ただ単に〈プルースト〉というかたちに唇が動いたような気がしただけだった。音はあいかわらずまったく聞こえなかった。息を吐く音さえ聞こえない。まるで厚いガラスの向う側から話しかけられているみたいだった。
 プルースト?
「マルセル?プルースト?」と私は彼女にたずねてみた。
 彼女は不思議そうな目で私を見た。そして〈プルースト〉と繰りかえした。私はあきらめてもとの位置に戻《もど》って、彼女のうしろを歩きながら〈プルースト〉という唇の動きに相応することばを一所懸命探してみた。「うるうどし」とか「吊《つる》し井戸」とか「いΔ伞工趣饯Δい盲恳馕钉韦胜い长趣肖虼韦榇韦怂饯悉饯盲劝k音してみたが、どれもこれも唇の形にぴったりとはそぐわなかった。彼女はたしかに〈プルースト〉と言ったのだという気がした。しかし長い廊下とマルセル?プルーストとの関連性をどこに求めればいいのか、私にはよくわからなかった。
 彼女はあるいは長い廊下の暗《あん》喩《ゆ》としてマルセル?プルーストを引用したのかもしれなかった。しかしもし仮にそうだったとしても、そういう発想はあまりにも唐突だし、表現としても不親切ではないかと私は思った。プルーストの作品群の暗喩として長い廊下を引用するのであれば、それはそれで私にも話の筋を理解することはできる。しかしその逆というのはあまりにも奇妙だった。
〈マルセル?プルーストのように長い廊下〉?
 ともかく私はその長い廊下を彼女のあとにしたがって歩いた。ほんとうに長い廊下だった。何度か角を曲り、五段か六段ほどの短かい階段を上ったり下りたりした。普通のビルなら五つか六つぶんは歩いたかもしれない。あるいは我々はエッシャーのだまし絵のようなところをただ往《い》ったり来たりしていたのかもしれない。いずれにせよどれだけ歩いてもまわりの風景はまったく変化しなかった。大理石の床、卵色の壁、出鱈目な部屋番号とステンレス?スティールのドア?ノブのついた木のドア。窓はひとつも見あたらない。彼女は終始同じリズムでハイヒールの靴音《くつおと》を規則正しく廊下に響かせ、そのあとを私がべたべたという溶けたゴムのような音を立てながらジョギング?シューズで追った。その私の靴音は必要以上にねばっこく響いて、本当にゴム底が溶けはじめているのではないかと心配になったくらいだった。もっともジョギング?シューズをはいて大理石の床を歩いたのは生まれてはじめてのことだったので、そういう靴音が正常なのか異常なのか、私にはうまく判断することができなかった。たぶん半分くらい正常で、あとの半分くらいは異常なのではなかろうか、と私は想像した。何故《なぜ》ならここでは何もかもがその程度の割合で邌婴丹欷皮い毪瑜Δ蕷荬筏郡椁馈
 彼女が急に立ちどまったとき、私は自分のジョギング?シューズの足音にずっと神経を集中していたので、それに気がつかずに、彼女の背中に胸からどすんとぶつかってしまった。彼女の背中はよくできた雨雲のようにふわりとして心地良く、首筋には例のメロン?オーデコロンの匂いがした。彼女はぶつかった勢いで前につんのめりかけたので、私はあわてて両手で肩をつかんでひきもどした。
「失礼」と私は詫びた。「ちょっと考えごとをしていたもので」
 太った娘は少し顔を赤らめて私を見た。たしかなことは言えないけれど、怒ってはいないようだった。「たつせる」と彼女は言って、ほんのちょっとだけ微笑《ほほえ》んだ。それから肩をすくめて「せら」と言った。しかしもちろん本当にそう言ったわけではなくて、何度も繰りかえすようだけれど、そういう形に彼女は唇を開いたのだ。
「たつせる?」と私は自分に言いきかせるように口に出して発音してみた。「せら?」
「せら」と彼女は確信をもって繰りかえした。
 それはなんだかトルコ語のように響いたが、問題は私がトルコ語を一度も耳にしたことがないという点にあった。だからたぶんそれはトルコ語ではないのだろう。だんだん頭が混乱してきたので、私は彼女との会話をあきらめることにした。私の読唇術はまだまだ未熟なのだ。読唇術というものは非常にデリケートな作業であって、二カ月ばかりの市民講座で完全にマスターできるというような代物ではないのだ。
 彼女は上着のポケットから小さな小判型の電子キイをとりだして、その平面を〈728〉というプレートのついたドアのロックにぴたりとあてた。かちりという音がして、ドアのロックが解除された。なかなか立派な装置だ。
 彼女はドアを開けた。そして戸口に立ってドアを手で押し開けたまま、私に向って「そむと、せら」と言った。
 もちろん私は肯いて中に入った。
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 楼主| 发表于 2004-12-30 13:27:37 | 显示全部楼层
2 世界の終り――金色の獣―― 

秋がやってくると、彼らの体は毛足の長い金色の体毛に覆《おお》われることになった。それは純粋な意味での金色だった。他のどのような種類の色もそこに介在することはできなかった。彼らの金色は金色として世界に生じ、金色として世界に存在した。すべての空とすべての大地のはざまにあって、彼らはまじりけのない金色に染められていた。
 僕《ぼく》が最初にこの街にやってきた頃《ころ》――それは春だった――獣たちは様々な色の短毛を身にまとっていた。それは扦ⅳ辍ⅳ趣由扦ⅳ辍咨扦ⅳ辍⒊辔钉韦盲坎瑜扦ⅳ盲郡辘筏俊¥饯韦Δ沥魏紊颏蓼坤椁私Mみあわせているものもいた。そのような思いおもいの色の毛皮に包まれた獣たちは若い緑の大地の上を、風に吹き流されるかのようにひっそりとさすらっていた。彼らは瞑想的《めいそうてき》といっていいほどにもの静かな動物だった。息づかいさえもが朝の霧のようにひそやかだった。彼らは緑の草を音を立てずに食《は》み、それに飽きると脚を曲げて地面に座り、短かい眠りについた。
 春が過ぎ、夏が終り、光が微《かす》かな透明さを帯びはじめ初秋の風が川の淀《よど》みに小波《さざなみ》を立てる頃、獣たちの姿に変化が見られるようになった。金色の体毛は最初のうちはまばらに、まるで何かの偶然によって芽ぶいた季節はずれの植物のように姿をあらわしたが、やがては無数の触手と変じて短毛を絡《から》めとり、最後にはすべてを輝かしい黄金色で覆いつくした。その儀式は始まってから完了するまでに一週間しかかからなかった。彼らの変身は殆《ほと》んど同時に始まり、殆んど同時に終った。一週間ののちには彼らは一頭たりとも残さず完全な金色の獣に変貌《へんぼう》していた。朝日がのぼり、世界を新しい黄金色に染めるとき、地表に秋が降りた。
 彼らの額のまん中から伸びる一本の長い角だけが、どこまでもしなやかな白色だった。そのあやういまでの細さは、角というよりは何かの拍子に皮膚を突き破って外にとび出たまま固定されてしまった骨の破片を思わせた。角の白さと目の青さだけを残して、獣たちはまったくの金色に変身していた。彼らはその新しい衣裳《いしょう》をちょっと試してみるといったように首を何度も上下に振り、角の先端で高い秋の空を衝《つ》いた。そして冷ややかさを増した川の流れに足をひたし、首をのばして秋の赤い木の実をむさぼった。 夕闇《ゆうやみ》が街並を青く染めはじめる頃、僕は西の壁の望楼にのぼり、門番が角笛を吹いて獣たちをあつめる儀式を眺《なが》めたものだった。角笛は長く一度、短かく三度吹き鳴らされた。それが決まりだった。角笛の音が聞こえると僕はいつも目を閉じて、そのやわらかな音色を体の中にそっと浸みこませた。角笛の響きは他のどのような音の響きとも違っていた。それはほのかな青味を帯びた透明な魚のように暮れなずむ街路をひっそりと通り抜け、舗道の丸石や家々の石壁や川沿いの道に並んだ石垣《いしがき》をその響きでひたしていった。大気の中にふくまれた目に見えぬ時の断層をすりぬけるように、その音は静かに街の隅々《すみずみ》にまで響きわたっていった。
 角笛の音が街にひびきわたるとき、獣たちは太古の記憶に向ってその首をあげる。千頭を越える数の獣たちが一斉《いっせい》に、まったく同じ姿勢をとって角笛の音のする方向に首をあげるのだ。あるものは大儀そうに金雀児《えにしだ》の葉を噛《か》んでいたのをやめ、あるものは丸石敷きの舗道に座りこんだままひづめでこつこつと地面を叩《たた》くのをやめ、またあるものは最後の日だまりの中の午《ご》睡《すい》から醒《さ》め、それぞれに空中に首をのばす。
 その瞬間あらゆるものが停止する。動くものといえば夕暮の風にそよぐ彼らの金色の毛だけだ。彼らがそのときにいったい何を思い何を凝視しているのかは僕にはわからない。ひとつの方向と角度に首を曲げ、じっと宙を見据《みす》えたまま、獣たちは身じろぎひとつしない。そして角笛の響きに耳を澄ませるのだ。やがて角笛の最後の余韻が淡い夕闇の中に吸いつくされたとき、彼らは立ちあがり、まるで何かを思いだしたかのように一定の方向を目指して歩きはじめる。束《つか》の間《ま》の呪縛《じゅばく》は解かれ、街は獣たちの踏みならす無数のひづめの音に覆われる。その音はいつも僕に地底から湧《わ》きあがってくる無数の細かい泡《あわ》を想像させた。そんな泡が街路をつつみ、家々の塀《へい》をよじのぼり、時計塔さえをもすっぽりと覆い隠してしまうのだ。
 しかしそれはただの夕暮の幻想にすぎない。目を開ければそんな泡はすぐに消えてしまう。それはただの獣のひづめの音であり、街はいつもと変ることのない街だ。川のように獣たちの列は曲りくねった街路の敷石の上を流れる。誰《だれ》が先頭に立つというのでもなく、誰が隊列を導くというのでもない。獣たちは目を伏せ、肩を小刻みに振りながら、その沈黙の川筋を辿《たど》っていくだけだ。それでも一頭一頭のあいだには目にこそ映りはしないけれど、打ち消すことのできない親密な記憶の絆《きずな》がしっかりと結びあわされているように見える。
 彼らは北から下りて旧橋を渡り、川の南岸を東からやってきた仲間と合流し、吆婴扭郡い斯龅貛·驋iけ、西に向って鋳《い》物《もの》工場の渡り廊下をくぐり、西の丘のふもとを越える。西の丘の斜面でその隊列を待っているのは門からあまり遠く離れることのできない老いた獣や幼い獣たちだ。彼らはそこで北に向きを転じ、西橋を越え、そして門へと至るのである。
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 楼主| 发表于 2004-12-30 13:28:33 | 显示全部楼层
獣たちの先頭が門の前に到着すると、門番が門を開く。補強用の厚い鉄板が縦横に打ちつけられた見るからに重く頑丈《がんじょう》そうな門だ。高さは四メートルから五メートルといったところで、人が仱辘长à毪长趣扦胜い瑜Δ松喜郡摔箱劋狻钉趣筏盲酷敗钉筏樕饯韦瑜Δ摔盲筏辘嚷瘠幛长蓼欷皮い搿iT番はその重い門を軽々と手前に引き、集った獣たちを門の外に出す。門は両開きだったが、門番が開くのはいつも片側に限られていた。左側の扉《とびら》は常に固く閉ざされたままだった。獣たちが一頭残らず門を通過してしまうと、門番はまた門を閉め、錠を下ろした。
 西の門は僕の知る限りでは街の唯一《ゆいいつ》の出入口だった。街のまわりは七メートルか八メートルの高さの長大な壁に囲まれ、そこを越すことのできるのは鳥だけだった。
 朝がやってくると門番は再び門を開いて角笛を吹き、獣たちを中に入れた。そして獣たちを全部中に入れてしまうと、前と同じように門を閉ざし錠を下ろした。
「本当は錠を下ろす必要なんてないんだ」と門番は僕に説明した。「たとえ錠がかかっていなかったとしても、俺《おれ》以外には誰もあの重い門を開けることはできないだろうからね。たとえ何人がかりでもだよ。ただ規則でそうと決まっているからそうしているだけのことさ」
 門番はそう言うと毛糸の帽子を眉《まゆ》のすぐ上までひきずり下ろして、あとは黙りこんだ。門番は僕がこれまでに見たこともないような大男だった。見るからに肉が厚く、シャツや上着は彼の筋肉のひとふりで今にもはじけとんでしまいそうに見えた。しかし彼はときどきふと目を閉じて、その巨大な沈黙の中に沈みこんでしまうことがあった。それがある種の憂鬱症《ゆううつしょう》のようなものなのかそれとも体内の機能が何かの作用で分断されただけのことなのか、僕にはどちらとも判断することができなかった。しかしいずれにせよ沈黙が彼を覆ってしまうと、僕はそのままじっと彼の意識が回復するのを待ちつづけなければならなかった。意識が回復すると彼はゆっくりと目を開き、長いあいだぼんやりとした目つきで僕を眺め、僕がそこに存在する理由をなんとか理解しようとつとめるように手の指を膝《ひざ》の上で何度もこすりあわせた。
「どうして夕方になると獣を集めて街の外に出し、朝になるとまた中に入れるんですか?」門番の意識が戻《もど》ったところで僕はそう訊《たず》ねてみた。
 門番はしばらく何の感情もこもっていない目で僕を見つめていた。
「そう決まっているからさ」と彼は言った。「そう決まっているからそうするんだ。太陽が東から出て西に沈むのと同じことさ」
 門を開けたり閉めたりする以外の時間の殆んどを、彼は刃物の手入れにあてているようだった。門番の小屋には大小様々の手《て》斧《おの》やな《?》た《?》やナイフが並び、彼は暇さえあればそれをいかにも大事そうに砥《と》石《いし》で研いでいた。研ぎあげられた刃はいつも凍りついたような不気味に白い光を放っており、外的な光を反射させているというよりは、そこに何かしら内在的な発光体がひそんでいるように僕には感じられたものだった。
 僕がそんな刃物の列を眺めていると、門番はいつも唇《くちびる》の端の方に満足気な笑みを浮かべながら、僕の姿を注意深く目で追っていた。
「気をつけなよ、手を触れただけですっぱりと切れちまうからな」と門番は樹木の根のようなごつごつとした指で刃物の列を指さした。「こいつはそんじょそこらにあるひと山幾らの代物《しろもの》とは作りが違うんだ。俺がひとつひとつ自分で叩いて作った刃なんだ。俺は昔鍛冶《かじ》をやっていたからな、そういうのはお手のものさ。手入れもしっかりしているし、バランスも良い。刃の自重にぴったりとあった柄《え》を選ぶのは簡単なことじゃない。どれでもいいからひとつ手にとってみな。刃には触らんようにしてな」
 僕はテーブルの上に並んだ刃物の中からいちばん小さな手斧を選んで手にとり、空中で軽く何度か振ってみた。手首にほんの少し力を加えただけで――あるいは力を加えようと考えた《???》だけで、その刃はあたかも飼いならされた猟犬のように鋭く反応し、ひゅう《???》という乾いた音を立てて宙をふたつに切った。たしかに門番が自慢するだけのことはあった。
「その柄も俺が作った。十年もののとねりこの木を削って作るんだ。柄には作るものそれぞれの好みがあるが、俺は十年もののとねりこが好きだね。それより若すぎても駄目《だめ》だし、それより大きくなりすぎても駄目だ。十年ものが最高だ。強く、水気があり、はり《??》もある。東の森に行くと良いとねりこがはえているんだ」
「こんなに沢山の刃物を何に使うんですか?」
「いろいろさ」と門番は言った。「冬が来るとうんと使うようになる。まあ、冬になればあんたにもわかるさ。ここの冬は長いからね」 門の外には獣たちのための場所がある。獣たちは夜のあいだそこで眠る。小さな川が流れていて、その水を飲むこともできる。その向うには見わたす限りのりんご林がつづいている。まるで海原のようにどこまでもつづいているのだ。
 西の壁には三つの望楼が設けられ、梯《はし》子《ご》を使ってそこに上れるようになっていた。雨をよけるための簡単な屋根がつき、鉄格子《てつごうし》のはまった窓から獣たちの姿を見下ろせるようになっている。
「あんた以外には誰も獣を眺める人間なんていないさ」と門番は言った。「まああんたはここに来たばかりだから仕方ないが、それでもしばらくここで暮してきちん《???》とすりゃ、獣になんて興味を持たなくなる。他《ほか》のみんなと同じようにな。もっとも春のはじめの一週間だけはべつだがな」
 春のはじめの一週間だけ、獣たちの戦う姿を見るために人々は望楼に上る、と門番は言った。雄の獣たちはその時期だけ――ちょうど毛が抜けかわり、雌の出産がはじまる直前の一週間だけ、いつもの温和な姿からは想像もできぬほどに凶暴になり、互いを傷つけあうのである。そして大地に流されたおびただしい量の血の中から新しい秩序と新しい生命が生まれてくるのだ。 秋の獣たちはそれぞれの場所にひっそりとしゃがみこんだまま、長い金色の毛を夕陽《ゆうひ》に輝かせている。彼らは大地に固定された彫像のように身じろぎひとつせず、首を上にあげたまま一日の最後の光がりんご林の樹海の中に没し去っていくのをじっと待っている。やがて日が落ち、夜の青い闇が彼らの体を覆うとき、獣たちは頭を垂れて、白い一本の角を地面に下ろし、そして目を閉じるのである。
 このようにして街の一日は終る。
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 楼主| 发表于 2004-12-30 13:29:58 | 显示全部楼层
3 ハードボイルド?ワンダーランド

――雨合羽《あまがっぱ》、やみくろ、洗いだし―― 私がとおされたのはがらんとした広い部屋だった。壁は白、天井も白、カーペットはコーヒー?ブラウン、どれも趣味の良い上品な色だ。ひとくちに白といっても上品な白と下品な白とでは色そのもののなりたちが違うのだ。窓のガラスは不透明で外の景色を確認することはできなかったが、そこからさしこむぼんやりとした光が太陽の光であることは間違いないようだった。とすればここは地下ではないし、したがってエレベーターは上昇していたことになる。それを知って私は少し安心した。私の想像はあたっていたのだ。女がソファーに座るようにという格好をしたので、私は部屋の中央にある皮張りのソファーに腰を下ろして脚を組んだ。私がソファーに座ると、女は入ってきたのとはべつのドアから出ていった。
 部屋には家具らしい家具はほとんどなかった。ソファー?セットのテーブルの上には陶製のライターと灰皿《はいざら》とシガレット?ケースが並んでいた。シガレット?ケースのふたをためしに開けてみたが、中には煙草《たばこ》は一本も入っていなかった。壁には絵もカレンダーも写真もかかっていない。余分なものは何ひとつとしてない。
 窓のわきに大きなデスクがあった。私はソファーから立ちあがって窓の前まで行き、そのついでにデスクの上を眺《なが》めてみた。がっしりとした厚い一枚板でできた机で、両側に大きなひきだしがついている。机にはライト?スタンドとビックのボールペンが三本と卓上カレンダーがあり、その側《そば》にはペーパー?クリップがひとつかみちらばっていた。私は卓上カレンダーの日付けをのぞきこんでみたが、日付けはちゃんとあっていた。今日の日付けだ。
 部屋の隅《すみ》にはどこにでもあるスティールのロッカーが三つ並んでいた。ロッカーは部屋の雰囲気《ふんいき》にはあまりあっていなかった。事務的で直截的《ちょくせつてき》にすぎるのだ。私なら部屋にあわせてもっとシックな木製のキャビネットを置くところだが、ここは私の部屋ではない。私はここに仕事できただけなのであって、鼠色《ねずみいろ》のスティール?ロッカーがあろうが薄桃色のジューク?ボックスがあろうが、それは私の関与する問題ではないのだ。
 左手の壁には埋めこみ式のクローゼットがついていた。縦に細長い折り畳み扉《とびら》がついている。それが部屋の中にある家具のすべてだった。時計も電話も鉛筆削りも水差しもない。本棚《ほんだな》もないし状差しもない。いったいこの部屋がどのような目的を持ってどのように機能しているのか、私には見当もつかなかった。私はソファーに戻《もど》ってまた脚を組み、あくびをした。
 十分ほどで女は戻ってきた。彼女は私には目もくれずにロッカーの扉のひとつを開け、その中から膜毪膜毪筏郡猡韦虮Гà毪瑜Δ摔筏皮趣辘坤贰ⅴ譬`ブルの上に撙螭馈¥饯欷悉沥螭犬挙蓼欷骏触嘁斡旰嫌黏乳L靴《ながぐつ》だった。いちばん上には第一次世界大戦のパイロットがつけていたようなゴーグルまで載っていた。今いったい何が起りつつあるのか、私にはさっぱりわけがわからなかった。
 女が私に向って何かを言ったが、唇《くちびる》の動かし方が速すぎて、読みとれなかった。
「もう少しゆっくりしゃべってもらえないかな。読唇術《どくしんじゅつ》はそれほど得意な方じゃないので」と私は言った。
 彼女は今度はゆっくりと大きく口を開いてしゃべった。〈それを服の上から着て下さい〉と彼女は言った。出来ることなら雨合羽なんて着たくはなかったが文句を言うのも面倒だったので私は黙って彼女の指示にしたがった。ジョギング?シューズを脱いでゴム長靴にはきかえ、スポーツ?シャツの上から雨合羽をかぶった。雨合羽はずしりと重く、長靴はサイズがひとつかふたつ大きかったが、私はそれについても文句は言わないことにした。女は私の前にきてくるぶしまである雨合羽のボタンをとめ、頭にすっぽりとフードをかぶせた。フードをかぶせるとき、私の鼻の先と彼女のつるりとした額が触れた。
「すごく良い匂《にお》いだね」と私は言った。オーデコロンのことを賞《ほ》めたのだ。
〈ありがとう〉と言って、彼女は私のフードのスナップを鼻の下のところまでぱちんぱちんととめた。そしてフードの上からゴーグルをつけた。おかげで私は雨天用のミイラのような格好になってしまった。
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 楼主| 发表于 2004-12-30 13:30:33 | 显示全部楼层
それから彼女はクローゼットの扉のひとつを開け、私の手を引いてその中に押しこんでから中のライトを点《つ》け、後手《うしろで》でドアを閉めた。ドアの中は洋服だんすになっていた。洋服だんすとはいっても洋服の姿はなく、コート?ハンガーや防虫ボールがいくつか下がっているだけだ。たぶんこれはただの洋服だんすではなく、洋服だんすを装った秘密の通路か何かだろうと私は想像した。何故《なぜ》なら私が雨合羽を着せられて洋服だんすに押しこまれる意味なんて何もないからだ。
 彼女は壁の隅にある金属の把手《とって》をごそごそといじっていたが、やがて案の定正面の壁の一部が小型自動車のトランクくらいの大きさにぽっかりと手前に開いた。穴の中はまっ暗で、そこからひやりとした湿った風が吹いてくるのがはっきりと感じられた。あまり良い気持のしない風だった。川が流れるようなごうごうという絶え間のない音も聞こえた。
「この中に川が流れています」と彼女は言った。川の音のおかげで、彼女の無音のしゃべり方にはいささかのリアリティーが加わったように感じられた。本当は声を出しているのに川の音に消されているように見えるのだ。それで心なしか彼女のことばが理解しやすくなったような気がした。不思議といえば不思議なものだ。
「川をずっと上流の方に行くと大きな滝がありますから、それをそのままくぐって下さい。祖父の研究室はその奥にあります。そこまで行けばあとはわかります」
「そこに行くと君のおじいさんがいて僕《ぼく》を待っているんだね?」
「そう」と彼女は言って、私にストラップのついた防水の大型懐中電灯をわたしてくれた。まっ暗闇《くらやみ》の中に入っていくのはどうもあまり気が進まなかったが、今更そんなことを言うわけにはいかないので、私は意を決してぽっかりと口をあけた闇の中に片脚を踏み入れた。それから体を前にかがめて頭と肩を中に入れ、最後に残りの脚を引きこんだ。ごわごわとした雨合羽に体をくるまれていると、これはなかなか骨の折れる作業だったが、どうにか私は自分の体を洋服だんすから壁の向う側に移し終えた。そして洋服だんすの中に立っている太った娘を見た。暗い穴の奥からゴーグルを通して眺めると、彼女はすごく可愛《かわい》かった。
「気をつけてね。川から外れたりわき道にそれたりしちゃだめよ。まっすぐね」と彼女は身をかがめて私をのぞきこむようにして言った。
「まっすぐ行って滝」と私は大声で言った。
「まっすぐ行って滝」と彼女も繰りかえした。
 私はためしに声を出さずに〈せら〉というかたちに唇を動かしてみた。彼女もにっこりと笑って〈せら〉と言った。そして扉をばたんと閉めた。 扉が閉まると私は完全な暗闇に包まれた。針の先ほどの光もない文字どおりの完全な暗闇だった。何も見えない。顔の前に近づけた自分の手さえも見えないのだ。私は何かに打たれたようにしばらくその場に茫然《ぼうぜん》と立ち尽していた。まるでビニール?ラップにくるまれて冷蔵庫に放《ほう》りこまれそのままドアを閉められてしまった魚のような冷ややかな無力感が私を襲った。何の心構えもなしに突然完全な暗闇の中に放りこまれてしまうと、一瞬体じゅうの力が脱け落ちてしまうのだ。彼女は扉を閉めるなら閉めると予告くらいはしてくれるべきだったのだ。
 手さぐりで懐中電灯のスウィッチを押すと、なつかしい黄色い光が暗闇の中にまっすぐな一本の線となって走った。私はまずそれで足もとを照らし、それからそのまわりの足場をゆっくりとたしかめてみた。私の立っている場所は三メートル四方ほどの狭いコンクリートのステージで、その向うは底も見えない切りたった絶壁になっていた。柵《さく》もなければ囲いもない。そういうことも彼女は前もって私に注意してくれるべきだったのだと私はいくぶん腹立たしく思った。
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 楼主| 发表于 2004-12-30 13:31:04 | 显示全部楼层
ステージのわきに下に降りるためのアルミニウムの梯《はし》子《ご》がついていた。私は懐中電灯のストラップを胸にななめにかけ、つるつるとすべるアルミニウムの梯子を一段一段たしかめるようにして下に降りた。下降するにしたがって水の流れる音が少しずつ大きく明確になっていった。ビルの一室のクローゼットの奥が切りとおしの絶壁になっていてその底に川が流れているなんていう話は聞いたこともない。それも東京のどまん中の話なのだ。考えれば考えるほど頭が痛んだ。まず最初にあの不気味なエレベーター、次に声を出さずにしゃべる太った娘、それからこれだ。あるいは私はそのまま仕事を断って家に帰ってしまうべきなのかもしれなかった。危険が多すぎるし、何から何までが常軌を逸している。しかし私はあきらめてそのまま暗闇の絶壁を下降した。ひとつにはそれは私の職業上のプライドのせいだし、もうひとつはあのピンクのスーツを着た太った娘のせいだった。私には彼女のことが何故か気になっていて、そのまま仕事を断って引き上げてしまう気にならなかったのだ。
 二十段下りたところでひと休みして息をつき、それからまた十八段下りるとそこは地面だった。私は梯子の下に立って懐中電灯でまわりを用心深く照らしてみた。足の下は堅く平らな岩盤になっており、その少し先を幅二メートルほどの川が流れていた。懐中電灯の光の中で川の表面が旗のようにぱたぱたと揺れながら流れているのが見えた。流れはかなり速そうだったが、川の深さや水の色まではわからなかった。私にわかったのは水が左から右へと流れていることだけだった。
 私は足もとをしっかりと照らしながら岩盤づたいに川の上流へと向った。ときどき体の近くを何かが徘徊《はいかい》しているような気配を感じてさっと光をあててみたが、目につくものは何もなかった。川の両側のまっすぐに切りたった壁と水の流れが見えるだけだった。おそらく暗闇に囲まれているせいで神経が過敏になっているのだ。
 五、六分歩くと天井がぐっと低くなったらしいことが水音の響きかたでわかった。私は懐中電灯の光を頭上にあててみたが、あまりにも闇が濃すぎて天井を認めることはできなかった。次に娘が注意してくれたように、両側の壁にわき道らしきものが見受けられるようになった。もっともそれはわき道というよりは岩の裂けめとでも表現すべきもので、その下の方からは水がちょろちょろと流れだして細い水流となって川に注いでいた。私はためしにそんな裂けめのひとつに寄って懐中電灯で中を照らしてみたが、何も見えなかった。入口に比べて奥の方が意外に広々としているらしいことがわかっただけだった。中に入ってみたいというような気は毛ほども起きなかった。
 私は懐中電灯をしっかりと右手に握りしめ、進化途上にある魚のような気分で暗闇の中を上流へと向った。岩盤は水に濡《ぬ》れてすべりやすくなっていたので、一歩一歩注意しながら足を前に踏みださねばならなかった。こんなまっ暗闇の中で足をすべらせて川にでも落ちるか懐中電灯を壊すかでもしたらにっちもさっちもいかなくなってしまう。
 ひたすら足もとに神経を集中して歩いていたので、私は前方にちらちらと揺れるほのかな光にしばらく気づかなかった。ふと目をあげると、その光は私の七、八メートル手前まで近づいていた。私は反射的に懐中電灯のスウィッチを消し、雨合羽のスリットに手をつっこんでズボンの尻《しり》ポケットからナイフをひっぱりだした。そして手さぐりで刃を開いた。暗闇とごうごうという水音が私をすっぽりと包んでいた。
 私が懐中電灯の光を消すと、同時にそのほのかな黄色い灯《ひ》もぴたりと動きを止めた。それから大きく二度空中に輪を描いた。どうやら〈大丈夫、心配ない〉という合図のつもりであるらしかった。しかし私は気をゆるめずにそのままの姿勢で相手の出方を待った。やがて灯はまた揺れはじめた。まるで高度な頭脳を持った巨大な発光虫がふらふらと空中を漂いながら私の方に向ってくるように見えた。私は右手でナイフを握り、左手にスウィッチを切ったままの懐中電灯を持ち、その灯をじっと睨《にら》んでいた。
 灯は私から三メートルほどのところまで近づくとそこで停《と》まり、そのまますっと上方に上ってまた停まった。灯はかなり弱いものだったので、それが何を照らしだしているのかはじめのうちはよくわからなかったが、じっと目をこらしているとどうやらそれが人の顔であるらしいことがわかってきた。その顔は私と同じようにゴーグルをかけ、ぅ诈`ドをすっぽりとかぶっていた。彼が手にしているのはスポーツ用品店で売っているような小型のカンテラだった。彼はそのカンテラで自分の顔を照らしながら何ごとかを懸命にしゃべっていたが、水音の反響のせいで私には何も聞きとれなかったし、暗いのと口の開きかたが不明瞭《ふめいりょう》なせいとで、唇の動きを読みとることもできなかった。
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 楼主| 发表于 2004-12-30 13:31:32 | 显示全部楼层
「……でなから……せいです。あんたのすまと……わるいから、これと……」と男は言っているように見えたが、これでは何のことやらさっぱりわからない。ともかく危険はなさそうだったので、私は懐中電灯をつけてその光で自分の顔を横から照らし、指で耳をつついて何も聞きとれないということを相手に示した。
 男は納得したように何度か肯《うなず》いてからカンテラを下におろし、雨合羽のポケットの中に両手をつっこんでもそもそとしていたが、そのうちにまるで潮が急激に引いていくように私のまわりに充《み》ちていた轟音《ごうおん》がどんどん弱まっていった。私はてっきり自分が失神しかけているのだと思った。意識が薄れて、そのために頭の中から音が消えていくのだ、と。それで私は――どうして自分が失神しなくてはならないのかよくわからなかったけれど――転倒にそなえて体の各部の筋肉をひきしめた。
 しかし何秒かたっても私は倒れなかったし、気分もごくまともだった。ただまわりの音が小さくなっただけだった。
「迎えにきたです」と男は言った。今度ははっきりと男の声が聞こえた。
 私は頭を振って懐中電灯をわきにはさみ、ナイフの刃を収めてポケットにしまった。とんでもない一日になりそうな予感がした。
「音はどうしたんですか?」と私は男にたずねてみた。
「ええ、音ねえ、うるさかったでしょう。小さくしました。すみません。もう大丈夫」と男は何度も肯きながら言った。川の音はもう小川のせせらぎ程度にまで弱まっていた。「さあ行くですか」と男はくるりと私に背中を向け、慣れた足どりで上流にむけて歩きはじめた。私は懐中電灯で足もとを照らしながらそのあとを追った。
「音を小さくしたってことは、これが人工の音ということなんですか?」と私は男の背中があるとおぼしきあたりにむかってどなってみた。
「違うです」と男が言った。「ありゃ自然の音です」
「どうして自然の音が小さくなるんですか?」と私は質問した。
「正確には小さくするってんじゃなくて」と男は答えた。「音を抜くわけです」
 私は少し迷ったが、それ以上の質問は控えることにした。私は他人に対してあれこれと質問を浴びせかけられる立場にはないのだ。私は私の仕事を果しに来たのであって、私の依頼人が音を消そうが抜こうがウォッカ?ライムみたいにかきまわそうが、そんなことは私のビジネスの線上にはないのだ。それで私は何も言わずに黙々と歩きつづけた。
 いずれにせよ水音が抜かれたおかげで、あたりはとても静かになっていた。ゴム長靴のキュッキュッという音までがはっきりと聞きとれるくらいだった。頭上で誰《だれ》かが小石をこすりあわせるような奇妙な音が二、三度して、そして止《や》んだ。
「やみくろ《????》のやつがこっちにまぎれこんだような形跡があったんで心配になって、あんたをここまで迎えにきたですよ。本当なら奴《やつ》らはこっちまで絶対に来《こ》んのですが、たまにそういうこともあってね、困るですよ」と男は言った。
「やみくろ……」と私は言った。
「あんただってやみくろにばったりこんなところで出くわしちゃたまらんでしょうが」と男は言って、巨大な声でふおっふおっと笑った。
「まあそれはね」と僕も調子をあわせて言った。やみくろにせよ何にせよ、こんなまっ暗なところでわけのわからないものになんか会いたくない。
「それで迎えに来たです」と男は繰りかえした。「やみくろはいかんですから」
「それはどうも御親切に」と私は言った。
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 楼主| 发表于 2004-12-30 13:32:00 | 显示全部楼层
そのまましばらく進むと前の方から水道の蛇口《じゃぐち》を出しっ放しにしたような音が聞こえてきた。滝だった。懐中電灯でざっと照らしてみただけなのでくわしいことはわからないのだけれど、かなり大きな滝であるようだった。もし音を抜かれていなかったら相当な音がしたことだろう。前に立つとしぶきでゴーグルがぐっしょりと濡れた。
「ここをくぐり抜けるわけですね?」と私は訊《き》いてみた。
「そう」と男は言った。そしてそれ以上の何の説明を加えることもなくどんどん滝の方に進んで、その中にすっぽりと姿を消してしまった。仕方なく私も急いでそのあとを追った。
 幸いなことに我々の抜けた通路は滝の中でもいちばん水量の少ない個《か》所《しょ》だったのだが、それでも体が地面に叩《たた》きつけられるくらいの勢いはあった。いくら雨合羽を着こんでいるとはいえ、いちいち滝に打たれないことには研究室に出入りできないなんて、どう好意的に考えても馬鹿気《ばかげ》た話だった。たぶん機密を保持するつもりなのだろうけれど、それにしてももう少し気の利《き》いたやりかたがあるはずだ。私は滝の中で転んで岩に膝《ひざ》がしらを思いきりぶっつけた。音が抜いてあるせいで音とその音をもたらす現実とのバランスが完全に狂っていて、それが私を混乱させてしまったのだ。滝というのはその滝にふさわしい音量を有するべきものである。
 滝の奥には人が一人やっと通れるほどの大きさの洞窟《どうくつ》があり、それをまっすぐ進むとつきあたりに鉄の扉がついていた。男は雨合羽のポケットから小型計算器のようなものをとりだし、それを扉のスリットに挿入《そうにゅう》してしばらく操作していたが、扉はやがて音もなく内側に開いた。
「さ、着きました。どうぞ入って下さい」と男は言って私を先に入れ、それから自分も中に入って扉をロックした。
「大変だったでしょう?」
「そんなことはないとはとても言えないですね」と私は控えめに言った。
 男は首からカンテラをひもで吊《つる》し、フードをかぶってゴーグルをかけた姿のまま笑った。ふおっほっほという妙な笑い方だった。
 我々の入った部屋はプールの脱衣室のような素気のない広い部屋で、棚《たな》には私の着ているのと同じようなび旰嫌黏去触嚅L靴とゴーグルが半ダースばかりきちんと並んでいた。私はゴーグルをとり、雨合羽を脱いでハンガーにかけ、ゴム長靴を棚に置いた。そして最後に懐中電灯を壁の金具にかけた。
「いろいろと手間をとらせて悪かったです」と男は言った。「しかし警戒を怠ることはできんのです。それなりの用心をせんと、我々を狙《ねら》ってうろうろと徘徊しておる奴らがおるですから」
「やみくろですか?」と私はかまをかけてみた。
「そうです。やみくろもそのひとつです」と男は言って、一人で肯いた。
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 楼主| 发表于 2004-12-30 13:32:29 | 显示全部楼层
それから彼は私をその脱衣室の奥にある応接室に案内した。び旰嫌黏蛲绚い扦筏蓼Δ取⒛肖悉郡坤纹筏瘟激ば”钉长椤筏世先摔摔胜盲俊L盲皮い毪趣いΔ韦扦猡胜い韦坤⑻澶韦膜辘悉盲筏辘趣筏祁B丈《がんじょう》そうだった。顔の血色がよく、ポケットから縁のない眼鏡をだしてかけると、戦前の大物政治家のような風《ふう》貌《ぼう》になった。
 彼は私にソファーに座るように勧め、自分は執務用のデスクのうしろに腰を下ろした。部屋のつくりは私が最初にとおされた部屋とまるで同じだった。カーペットの色も照明器具も、壁紙もソファーもみんな同じだった。ソファーのテーブルの上には同じ煙草《たばこ》セットが置いてあった。デスクの上には卓上カレンダーがあり、ペーパー?クリップが同じようにちらばっていた。ぐるりとまわって同じ部屋に戻《もど》ってきてしまったような気がするほどだった。本当にそうなのかもしれないし、本当はそうじゃないのかもしれない。私にしたところで、ペーパー?クリップのちらばりかたをいちいち記憶しているわけでもないのだ。
 老人はしばらく私を観察していた。それからペーパー?クリップを一本手にとってまっすぐに伸ばし、それで爪《つめ》の甘皮をつついた。左手の人さし指の爪の甘皮だった。甘皮をひとしきりつつき終ると、彼はまっすぐに伸びたペーパー?クリップを灰皿《はいざら》に捨てた。私はこの次なにかに生まれかわることができるとしても、ペーパー?クリップにだけはなりたくないと思った。わけのわからない老人の爪の甘皮を押し戻してそのまま灰皿に捨てられてしまうなんて、あまりぞっとしない。
「私の情報によれば、やみくろと記号士は手を握っておるですよ」と老人は言った。「しかしもちろんそれで奴らがしっかり結束したというわけじゃない。やみくろは用心深いし、記号士はさきばしりすぎる。だから奴らの結びつきはまだごく一部にすぎないです。でもこりゃあ良くない兆《きざ》しです。ここまで来るはずのないやみくろがこのあたりをちょろちょろしだしたというのもいかにもまずいですしな。このままでいけば、早晩このあたりもやみくろだらけになっちまうかもしれん。そうなると私もとても困るです」
「たしかにね」と私は言った。やみくろがいったいどういうものなのか私には見当もつかないが、記号士たちがもし何かの勢力と手をつないだのだとしたら、それは私にとっても非常に具合の悪いことになるはずである。というのは我々と記号士たちはただでさえきわめてデリケートなバランスをとって拮抗《きっこう》しているから、ちょっとした作用で何もかもがひっくりかえってしまうということだってあり得るのだ。だいいち私がやみくろのことを知らないのに連中が知っているというだけで、既にバランスは狂ってしまっているわけだ。もっとも私がやみくろのことを知らないのは私が下級の現場独立職だからなのであって、上の方の連中はそんなことはとっくの昔に承知しているのかもしれない。
「しかしまあ、それはともかくとして、あんたさえよろしければさっそく仕事にとりかかってもらうことにしましょう」と老人は言った。
「結構です」と私は言った。
「私はいちばん腕ききの計算士をまわしてくれるようにとエージェントに頼んだんだが、あんたはわりに評判が良いようですな。みんなあんたのことを賞《ほ》めておったです。腕はいいし、度胸もあるし、仕事もしっかりしている。協調性に欠けることをべつにすれば、言うことはないそうだ」
「恐縮です」と私は言った。謙虚なのだ。
 ふおっほっほと老人はまた大声で笑った。「協調性なんぞはどうだってよろしいです。問題は度胸だ。度胸がなくちゃ一流の計算士にはなれんですよ。ま、そのぶん高給をとっておるわけだが」
 言うべきことがないので、私は黙っていた。老人はまた笑って、それから私をとなりの仕事場へと案内した。
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 楼主| 发表于 2004-12-30 13:32:56 | 显示全部楼层
「私は生物学者です」と老人は言った。「生物学といっても私のやっておることは非常に幅が広くてとてもひとくちでは言えんです。それは脳生理学から音響学?言語学?宗教学にまで及んでおるです。自分で言うのもなんだが、なかなか独創的かつ貴重な研究をしておるですよ。今やっておるのは主に哺乳《ほにゅう》動物の口蓋《こうがい》の研究ですな」
「コウガイ?」
「口ですな。口のしくみです。口がどんな風に動いて、どんな風に声を出すかとか、そういうことを研究しておるです。まあこれをごらんなさい」
 彼はそう言うと、壁のスウィッチをいじって仕事場の電灯をつけた。部屋の奥の壁は一面棚になっていて、そこにはありとあらゆる哺乳動物の頭蓋骨が所狭しと並んでいた。キリンから馬からパンダから鼠《ねずみ》まで、私が思いつく限りの哺乳動物の頭は全部揃《そろ》っていた。数にすれば三百から四百はあるだろう。もちろん人間の頭蓋骨もあった。白人と摔去ⅴ弗⑷摔去ぅ螗钎%晤^が、それぞれ男女ひとつずつ並べられていた。
「鯨《くじら》と象の頭蓋骨は地下の倉庫に置いてあるですよ。御存じのように、あれらはかなりの場所をとりますからな」と老人は言った。
「そうでしょうね」と私は言った。たしかに鯨の頭を並べたりしたら、それだけでこの部屋がいっぱいになってしまいそうである。
 動物たちはみんな申しあわせたようにぱっくりと口を開けて、ふたつのうつろな穴で正面の壁をじっと睨《にら》んでいた。研究用の標本とはいえ、そんな骨にまわりをとり囲まれているのはあまり気分のよいものではない。他の棚には頭蓋骨ほどの数ではないにせよ、様々なタイプの舌や耳や唇《くちびる》や口喉蓋《こうこうがい》がホルマリン漬《づ》けになってやはりずらりと並んでいた。
「どうですか、なかなかのコレクションでしょうが」と老人は嬉《うれ》しそうに言った。「世間には切手を集めるものもおれば、レコードを集めるものもおる。ワインを地下室に揃えるものもおれば、庭に戦車を並べて喜んでいる金持もおるです。私は頭骨を集めておるですな。世間は様々です。だから面白《おもしろ》い。そう思わんですか?」
「そうでしょうね」と私は言った。
「私は比較的若い時期から哺乳類の頭骨には少なからざる興味を持っておって、それでコツコツと骨を集めておったんです。もう四十年近くにもなりますかな。骨というものを理解するには想像以上に長い歳月がかかるのです。そういう意味では肉のついた生身の人間を理解する方がよほど楽だ。私はつくづくそう思うですよ。もっともあんたくらいお若ければ肉そのものの方に興味がおありだと思うが」と言って老人はまたふおっほっほとひとしきり笑った。「私の場合、骨から出てくる音を聴きとるまでにまるまる三十年もかかったですよ。三十年といえばあんた、これは並大抵の歳月ではない」
「音?」と私は言った。「骨から音が出るんですか?」
「もちろん」と老人は言った。「それぞれの骨にはそれぞれ固有の音があるです。それはまあ言うなれば隠された信号のようなものですな。比喩《ひゆ》的《てき》にではなく、文字どおりの意味で骨は語るのです。で、私の今やっておる研究の目的はその信号を解析することにあるです。そしてそれを解析することができれば今度はそれを人為的にコントロールすることが可能になる」
「ふうむ」と私はうなった。細かいところまでは私には理解できなかったが、もしそれが老人の言うとおりであるとすれば貴重な研究であることは確かなようだった。「貴重な研究のようですね」と私は言ってみた。
「実にそのとおり」と老人は言って肯《うなず》いた。「だからこそ奴《やつ》らもこの研究を狙《ねら》ってきておるわけです。奴らはまったくの地獄耳ですからな。私の研究を奴らは悪用しようとしておるです。たとえば骨から記憶を収集できるとなると拷問《ごうもん》の必要もなくなるです。相手を殺して肉をそぎおとし、骨を洗えばよろしいわけですからな」
「それはひどい」と私は言った。
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 楼主| 发表于 2004-12-30 13:33:38 | 显示全部楼层
「もっとも幸か不幸かそこまでまだ研究は進んではおらんのです。今の段階では脳をとりだした方がより明確な記憶の収集ができるですよ」
「やれやれ」と私は言った。骨だって脳だって抜かれてしまえば同じようなものだ。
「だからこそあんたに計算をお願いしておるのですよ。記号士たちに盗聴されて実験データを盗まれんようにね」と老人は真顔で言った。「科学の悪用は科学の善用と並んで現代文明を危機的状況に直面させておるです。科学とは科学そのもののために存在するべきものだと私は確信しておるのです」
「信念のことはよくわかりませんが」と私は言った。「ひとつだけはっきりさせておきたいことがあります。事務的なことです。今回のこの仕事の依頼は『組織《システム》』本部からでもなく、オフィシャル?エージェントからでもなく、あなたの方から直接来ています。これは異例のことです。もっとはっきりいえば就業規則に違反している可能性があります。もし違反していれば私は懲罰を受け、ライセンスを没収されます。それはおわかりですか?」
「よくわかっておるです」と老人は言った。「心配なさるのも無理はない。しかしこれはきちんと『組織《システム》』を通した正式な依頼なのです。ただ機密を守るために事務レベルを通さずに私が個人的にあんたに連絡をとったというだけのことです。あんたが懲罰を受けるようなことは起らんですよ」
「保証できますか?」
 老人は机のひきだしを開け、書類ホルダーをとり出して私に渡した。私はそれをめくってみた。そこにはたしかに『組織《システム》』の正式依頼書が入っていた。書式もサインもきちんとしている。
「いいでしょう」と言って私はホルダーを相手に返した。「私のランクはダブル?スケールですが、それでよろしいですね? ダブル?スケールというのは――」
「標準料金の二倍ですな。かまわんですよ。今回はそれにボーナスをつけてトリプル?スケールでいきましょう」
「ずいぶん気前がいいですね」
「大事な計算だし、滝もくぐっていただいたですからな、ふおっほっほ」と老人は笑った。
「一応数値を見せて下さい」と私は言った。「方式は数値を見てから決めましょう。コンピューター?レベルの計算はどちらがやりますか?」
「コンピューターは私のところのものを使います。あんたにはその前後をやっていただきたい。かまわんでしょうな?」
「結構です。こちらとしてもその方が手間が省けます」
 老人は椅子《いす》から立ちあがって背後の壁をしばらくいじっていたが、ただの壁のように見えていたところが突然ぱっくりと口を開けた。いろいろと手が込んでいる。老人はそこからべつの書類ホルダーを出し、扉《とびら》を閉めた。扉が閉まるとそこはまた何の特徴もないただの白壁に戻った。私はホルダーを受けとって七ページにわたる細かい数値を読んでみた。数値そのものにはとくに問題はなかった。ただの数値だ。
「この程度のものなら洗いだし《????》で十分でしょう」と私は言った。「この程度の頻度《ひんど》類似性なら仮設ブリッジをかけられる心配はありません。もちろん理論的には可能ですが、その仮設ブリッジの正当性を証明することはできませんし、証明できなければ誤差という尻尾《しっぽ》を振りきることはできません。それはコンパスなしで砂漠《さばく》を横断するようなものです。モーゼはやりましたがね」
「モーゼは海まで渡ったですよ」
「大昔の話です。私のかかわった限りではこのレベルで記号士の侵入を受けた例は一度もありません」
「というと一次転換《シングル?トラップ》で十分とおっしゃるわけですな?」
「二次転換《ダブル?トラップ》はリスクが大きすぎます。たしかにあれは仮設ブリッジ介入の可能性をゼロにしますが、今の段階ではまだ曲芸のようなものです。転換プロセスがまだはっきりと固定していないんです。研究途上というところですね」
「私は二次転換《ダブル?トラップ》のことは言っとらんですよ」と老人は言って、またペーパー?クリップで爪の甘皮を押しはじめた。今度は左手の中指だった。
「と言いますと?」
「シャフリングです。私はシャフリングのことを言っておるですよ。私はあんたに洗いだ《ブレイン?ウオ》し《ッシュ》とシャフリングをやっていただきたい。そのためにあんたを呼んだ。洗いだし《ブレイン?ウオッシュ》だけならとくにあんたを呼ぶ必要はないです」
「わかりませんね」と私は言って脚を組みかえた。「どうしてシャフリングのことを御存じなのですか? あれは極秘事項で部外者は誰《だれ》も知らないはずです」
「私は知っておるです。『組織《システム》』の上層部とはかなり太いパイプが通じておりましてな」
「じゃあそのパイプを通して訊《き》いてみて下さい。いいですか、今シャフリング?システムは完全に凍結されています。何故《なぜ》だかはわかりません。たぶん何かのトラブルがあったんでしょう。しかしとにかくシャフリングは使ってはいけないことになっているんです。もし使ったことがわかれば懲罰程度では済まないでしょう」
 老人は依頼書類の入ったホルダーをまた私に差しだした。
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