2012.10.4 11:00 (1/2ページ)[40×40]
1992年の旧正月、88歳のトウ小平氏が深センや上海などを視察し、「改革開放の堅持と経済成長の加速」を呼びかけた。遺言ともいうべきこの「南巡講和」を契機に、「13億人の巨大市場」という夢と、廉価で無尽蔵な労働力を求める日本企業の進出ラッシュとなった。
「日中友好20周年」のお題目が華やかに唱えられたその頃、日本人=カネとしか見ない、刹那的で詐欺師まがいの中国共産党幹部の“腐り具合”をすでに「遺伝子の領域では?」と感じ始めていた私は、「社運を賭けて」など手放しの中国待望論にゲンナリしていた。89年6月の天安門事件の“残虐性”が、忘却のかなたであることにも違和感があった。
「政治と経済は別」と強気の経済人は続々と独裁国家へ乗り込み、「共産党幹部お墨付きのプロジェクト(だから成功する!)」などと早合点し、「日中関係の更なる発展に乾杯」との常套(じょうとう)句&白酒に酔い潰れ、早々に相手のペースに巻き込まれ…。しかも武器輸出国へのODA供与はご法度なはずなのに、日本政府は血税で援助交際を深化させていった。
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