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发表于 2006-2-5 23:58:34
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芥川龍之介
(あくたがわりゅうのすけ)
(1892―1927)小説家。明治25年3月1日東京に生まれる。号は我鬼{がき}、澄江{ちようこう}堂主人。新原敏三の長男として生まれたが、母フク発狂のため、母の実家芥川家(道章・儔{とも})に引き取られた。代々江戸城の奥坊主を務めた家柄である芥川家に育ったため、文芸、芸事への関心を早くからもった。東京帝国大学入学の翌年(1914)久米{くめ}正雄、松岡譲らと第三次『新思潮』を創刊し、『老年』(1914.5)や翻訳を発表した。ついで『羅生門』(1915.11)、『鼻』(1916.2)、『芋粥{いもがゆ}』(1916.9)を発表し、1915年(大正4)末から師事していた夏目漱石{そうせき}に認められたことから、文壇へ登ることになった。漱石からは近代個人主義を軸とした人格主義を、森鴎外{おうがい}からはその翻訳などを通して文体や表現上の影響を受けた。『今昔物語集』などの説話から素材を得て、歴史小説の形式をとりながら、ストリンドベリやアナトール・フランスらの西欧19世紀末文学の影響下に形成した人間観を表出した初期の諸短編は、自然主義にかわり、耽美{たんび}主義、新理想主義に続く新しい文学(新理知派)の展開として注目された。17年から翌年にかけては、海軍機関学校教官、大阪毎日新聞社員として生活しつつ、『戯作三昧{げさくざんまい}』(1917.10)、『地獄変』(1918.5)、『奉教人の死』(1918.9)、『枯野抄』(1918.10)などの力作を相次いで発表し、自然主義的、小市民的現実がはらむ矛盾・対立を、芸術によって止揚しようとする芸術主義を顕示し、大正文壇の代表作家の地位を確立した。
しかし、1920年(大正9)以降は、『秋』(1920.4)を初めとして、現実や日常性に目を向け、芸術主義の態度を修正しつつあり、『蜜柑{みかん}』(1919.5)、『舞踏会』(1920.1)などには、人生における感動と認識との調和の破綻{はたん}がすでに表現されている。21年3月から7月にかけての、大阪毎日新聞社海外視察員としての中国旅行から帰国後、健康の衰えが著しく、懐疑的、厭世{えんせい}的態度を強めて、『藪{やぶ}の中』(1922.1)、『神神の微笑』(1922.1)などを発表したものの、創作上の行き詰まりを自覚するに至り、私小説隆盛の当時の時流のなかでかたくなに拒否していた私小説的作品にまで手を染めたが、結局打開しきれなかった。大正10年代、とくに関東大震災(1923)後、勢力を拡張してきたプロレタリア文学と対峙{たいじ}した市民文学のなかで、私小説や心境小説を偏重する傾向に対して、芸術の自律性を尊重する芸術派の立場を変えなかったが、社会主義への関心を示したり、中野重治{しげはる}や堀辰雄{たつお}に新しい文学の萌芽{ほうが}を認めるなど変化をみせ、やがて自己の芸術にさえ懐疑的になった。昭和改元(1926.12)後に発表した『玄鶴{げんかく}山房』(1927.2)、『蜃気楼{しんきろう}』(1927.3)、『河童{かつぱ}』(1927.3)や、遺稿として死後に発表された『歯車』(1927.10)、『或阿呆{あるあほう}の一生』(1927.10)などには、暗い現実認識を基調に、個性とか人格とかいう既存の価値観では支えきれない人間のあり方が描きとめられ、近代個人主義に立脚した芸術の一つの帰結が認められる。昭和2年7月24日、自宅でベロナールなどの睡眠薬を多量に飲んで自殺した。芥川の自殺は、一つの時代の変わり目を告げる事件として、文壇や知識人に衝撃を与え、社会的にも大きく報じられた。
近代自我の全体性を芸術を通して実現する芸術主義と個人主義とを基調として展開された大正文学の代表的作家として、また、西欧的なものの広範な摂取のうえに近代短編小説の多様な可能性を実践した短編小説家として芥川の名は近代文学史のうえに特筆されるものである。没後、何度も全集が刊行されて広く愛読されている。親友であった『文芸春秋』創刊者菊池寛によって設けられた「芥川龍之介賞」は、今日に至るまで権威のある文学賞として社会的関心をも集めている。多くを小穴{おあな}隆一が装丁した芥川の著作集も、『芥川龍之介文学館』(日本近代文学館刊。1977.7)として復刻され、太平洋戦争の際に焼失を免れた芥川の蔵書の一部は、現在、日本近代文学館に「芥川文庫」として所蔵されて、研究者などに利用されている。 |
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