|

楼主 |
发表于 2005-6-22 14:36:28
|
显示全部楼层
明日に道を聞かば夕べに死すとも可なり
( s3 k/ b: v, s* I5 E7 Z3 @$ ^8 w) Q6 q+ o
斉の景公に政治の要諦を問われたとき、孔子は、' q& W! X! H1 {. p: g ]% I
K, {( I. v1 o, @4 P- I ――君は君たるべく、臣は臣たるべく、' O( t; b& ]* a8 m/ u
父は父たるべく、子は子たるべし。6 k3 P% D" L+ W) r+ a& p0 F
(君君、臣臣、父父、子子。)(「論語」顔淵編). k) {" {' \+ d/ H( c) L4 F' w
) n! E; F/ _- }! q! V と答えている。君は仁愛と威厳とをもって臣に臨み、臣は君に忠節を/ N. x7 H0 C' U ?9 n
つくし、父は慈愛と威厳とをもって子に臨み、子は父に孝をつくす、孔
9 G+ {2 H6 k% k子はこれが“道”、すなわち、人間の意志を超えた“天の教え”だと考
4 _4 T, o- O, H6 F$ I* M- ~えていた。西周の氏族制封建社会を、天与の理想的社会としていたから' C- x) I9 n* j4 v1 f: I! P
である。
& U0 Q- }' e7 O& K' P; g$ N ) ?4 K1 U2 ^% v
& K ^ p7 N( H+ f
西周の社会では、個人は家に属し、家の主権は家父長(父又は長兄)
5 d9 y; P0 |% [にある。家父長は家族全員を率いて、血を同じくする他の家の家父長達$ D8 D0 L2 q; B& @
とともに氏族に属し、氏族の主権は族長(その氏族の始祖の直系の家の3 w* X X. b; h) o, |6 P
家父長)にある。族長は氏族全員を率いて、他の氏族の族長とともに諸
' E1 V7 v9 h* [/ d侯(その都市国家の主権を有する氏族の族長)に臣従し、諸侯は自身に
- Y" y! j* p5 R7 y0 F" n臣従する全族長を率いて、天子(諸侯に土地とその土地の統治権を与え% U" g$ I# h. c. c, H' p
た氏族の族長)に臣従する。$ K& E/ e, n* L. J1 v/ O, R! f
' j0 Q, D2 Q D. t6 J
族長――家父長――個人という従属関係を維持するために要請された6 i7 i& F$ E7 m1 f9 k8 |1 l
のが“孝”という道徳であり、天子――諸侯――族長という臣従関係を
8 L, m0 W' q: p, X" w5 q維持するために要請されたのが“忠”という道徳である。/ y7 M Q! i' w3 V( K# I* _
$ V1 I4 U0 D/ v
# i" _" m% O/ N$ u. z) h
ところが、西周末期になると、労働の生産力の増大に起因して、天子
; q. E8 y7 x& P, o7 ?+ W――諸侯間の力の均衡が破れ、東周に入ると、もはや天子としての支配
/ ?6 m6 Q" {( o( U) i1 P権は、事実上失われてしまった。諸侯はまた、臣従する族長に土地を与
5 ]& ]' S Q$ `0 H1 n( @えていたから、やがて同様な現象が生じた。9 B. a" L& U" d& _" T8 G! @
9 U: K# s7 N2 f6 C7 m, M5 g5 Y
春秋時代になると、諸侯――有力族長間の力の均衡も破れ、しばしば
* I6 I4 Q) p4 Y5 W5 H有力族長達が、諸侯の弑逆や廃立を行ったり、その統治権を管理するよ6 r }# q Q% M4 Z1 l. a; q0 u4 @
うになった。こういう力関係の不均衡は、族長――家父長の間、家父長! X# I- ]9 F. N# u
――個人の間にも現われた。
+ `9 j9 O# j( S' {+ _" k% L
6 { K6 P6 l# {# M5 O
U/ V6 K3 t6 u0 m7 j7 _ 孔子の生まれた春秋末期には、天子――諸侯――族長――家父長――
6 y: a r q$ I8 E( Q個人という権力のピラミッド構成は、極端な乱脈に陥っていて、一切が
5 s, ~' v4 G! k- ` h$ {. m' v“力”によって支配され、同時に人間が“個人”意識を自覚して、極度0 S0 V4 g/ f. ~- ]2 ^6 H
に利己的になっていた。3 n! b2 u* c( J
! t# q7 J; D) u8 R% O/ Y2 Z0 K4 I
唯一者として“天”を信じ、周朝の天子の権威は“天”が賦与したも# a- F0 S' p0 X, V! x( I% ~
の、と考えていた孔子が、社会に平和と秩序を欲したとき、西周の古制
0 G7 I g6 q, y5 }/ f4 ~を慕い、その道徳に憧れを寄せたのは自然だった。$ C8 [ n T2 \* m) I
7 V) _2 Y. m' Z6 l) B! q% A
' E3 B; F0 {3 q% [9 U' h 孔子の祖国魯では、三桓氏といわれた有力な三氏族が、主君を国外に' O/ n+ F, d% ?% |* c
逐って客死させているし、隣国の斉では、有力貴族の崔氏が、自分の側
9 i# L/ m5 g- J/ \3 O# g0 v7 f% X- ]室に通じた主君を弑したかと思うと、その側室の子供に跡目を継がせよ8 P+ V+ q+ W; x( W& K j
うとして正室の子供達に殺されている。また、孔子が永らく滞在した衛
% G2 N. x% Y2 A! |+ O, K, N2 r2 Aという国では、国君が男色に耽溺したいために正室に情人をあてがい、
1 Y2 t0 m( g* pこれを恥じて、母である正室を殺そうとした太子が、事露れて他国へ出
9 C3 Y$ y, S1 s* L. e* A奔した。しかも、この太子は、男色好きの父の後を継いだ自分の息子か
$ V; y- A5 _7 x/ }) |5 D0 B. Eら、その位を奪おうとして争い、この乱で、孔子の愛弟子の子路が死ん
" Z' d+ |# E0 q# H* Fでいるのだ。4 a+ e! J) s8 E! E" [6 C
2 G0 q8 ]! u n4 P/ I, K1 h
+ A8 S# f2 }, k 西周のあの秩序ある社会を回復したい、そういう悲願に燃えて、孔子- W* m. w- w2 [6 q7 {* x
は、祖国の魯でも努力したし、中原を流浪して行く先々の諸侯にも説い0 |4 V9 ~% T- B: Q3 z( \
た。しかし、氏族という桎梏から解放された“個人”や、権力を握った
8 S! U7 P& [/ `4 `卿や大夫や士という“臣”達が、これを阻まぬはずはなかった。+ P: U" |% G% A6 B
3 w" C: F0 \5 |
――朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。(朝聞道、夕死可矣) l) \; U# W4 ` D5 X n1 c- b. m* W
$ {3 F n; B6 z! `# H6 v 朝天下に“道”が行われているということを聞けたら、夕方には死ん7 A+ C( W' _$ a& [9 A) x
でもいい。――老いた孔子の唇に洩れた嘆きであった。
3 }/ Z4 p+ Q: F7 R3 T
7 T; W9 d7 g& p0 t) F と、これは魏の何晏らに代表される「論語」の“古注”の解釈だが、' Z9 ~/ v+ n8 {/ q' V
南宋の朱熹の注、いわゆる“新注”では、「朝、道(事物当然の理)を
$ c1 e {; K( B" D& t+ g聞いたら、それで修学の目的を達したわけだから、その夕には死んでも
5 a2 p- L/ x: M* _, a$ {いい。」という、求道への熱情の吐露と解釈している。いずれが正しい: l* ^: M7 y7 q' i) [4 G
かは知らず。ただ、“古注”の「嘆き」とするのが味わいがある。 |
|