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发表于 2008-9-3 14:00:27
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2008年9月3日(水)付
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% Y, N, ]8 i9 T I 運動会の季節、福田首相の辞任に「棒倒し」が浮かぶ。小沢民主党が揺さぶるのは当たり前だ。だが気がつけば、味方のはずの与党は、棒を守る手を休めている。休めるばかりか、揺さぶりをかける者までいる▼〈みづすまし味方といふは散り易(やす)き〉鷹羽狩行。だれを味方として頼みうるか。深い孤立感と閉塞(へいそく)感があったのだろう。民意にもそっぽを向かれたきりだ。むざむざ倒される前に、というのが父親に続く「二代目宰相」の美学だったかもしれない▼執拗(しつよう)を嫌う淡泊さを、哲学者の和辻哲郎は名著『風土』で日本人の美質と見た。だが潔いあきらめは、時と場合によっては無責任の別名になる。自身が好んで口にした「国民の目線」から見れば、辞任は無責任と呼ぶほかはない▼安倍前首相の辞任のとき、小欄は「平沼騏一郎を思い浮かべる」と書いた。戦前、「欧州の天地は複雑怪奇」と言い残して8カ月で政権を投げ出した人だ。今度は歴史をひもとく必要もない。1年に2度もの騒動は、世襲議員の多い政治のひ弱さを示して余りあろう▼佳境の米大統領選を思う。徹底的に吟味され、食うか食われるかの長丁場を経て権力の座につく。タフでなければ勝ち上がれない。そして、国民の投票で選ばれたという正統性に、4年の任期は支えられる▼海の向こうの民主主義の光景に、わが政界をかえりみる。もうこれ以上、与党が民意を問わずに権力の座にしがみつくことはできまい。敵も味方もガラガラポンの解散・総選挙で、立てるべき「棒」を決めるのは国民である。 |
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