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发表于 2009-6-13 20:40:35
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また、和歌のうまい人も多く現われた。特に、在原業平{ありわらのなりひ
ら}・僧正遍昭{へんじょう}・喜撰{きせん}法師・小野小町{おののこま
ち}・文室康秀{ふんやのやすひで}・大友黒主{おおとものくろぬし}の6
人は、六歌仙と呼ばれた。他に、『古今和歌集』の編者の4人や大江千里{お
おえのちさと}・選子{せんし}内親王らがいる。左右に分かれて、題に応じ
た一首を読み、判者が優劣を定めて、組の勝負を競う歌合{うたあわせ}も盛
んに行なわれた。
漢詩は、藤原公任{きんとう}の『和漢朗詠集{わかんろうえいしゅう}』
で、朗詠に適する漢詩文・和歌を収録した。朗詠は、漢詩文の秀句を訓読で朗
吟{ろうぎん}することである。藤原明衡{あきひら}の撰とされる漢詩文集
『本朝文粋{ほんちょうもんずい}』も編纂された。
物語は、『竹取物語』、『伊勢物語』、『宇津保{うつほ}物語』、『落窪
{おちくぼ}物語』、『源氏物語』などがある。『竹取物語』は日本最古の物
語文学で、かぐや姫のむこ選び説話の中に、当時の貴族社会の内面が描写され
ている。『伊勢物語』は歌物語の初めで、在原業平の恋愛談を中心とする短編
集である。紫式部{むらさきしきぶ}の『源氏物語』は、最高傑作の物語文学
である。
随筆は、清少納言{せいしょうなごん}の『枕草子{まくらのそうし}』が
あり、宮廷生活を随筆風に書いたものである。日記は、紀貫之の『土佐(左)
{とさ}日記』、藤原道綱{みちつな}の母の『蜻蛉{かげろう}日記』、菅
原孝標{たかすえ}の女{むすめ}の『更級{さらしな}日記』、『和泉式部
日記』、『紫式部日記』などがある。『土佐日記』は、最初のかな日記であ
る。
宗教のうち、神道は日本の民俗信仰で、教説はない。8世紀頃までは、氏神
の祭祀を中心に展開したが、律令国家で神社を中心に再編成され、平安時代に
神祇制度が整った。特に、延喜式神明帳{じんみょうちょう}に記載された格
式の高い神社を、式内社{しきないしゃ}という。また、朝廷の尊崇が厚く、
定期に奉幣{ほうへい:神への供え物を奉る}された伊勢・石清水{いわしみ
ず}・賀茂など22の神社を二十二社という。地方では多くの神社の祭神を一か
所に集めて、国府の近くに総社{そうじゃ}を設けた。一国の最上位に公認さ
れた神社を一の宮という。また、一定の地域・建物・住民を守護するために鎮
守神が祀られた。
神仏習合は、日本固有の神の信仰と仏教信仰との融合である。初めは、神前
での読経や神宮寺を建てるなど妥協・調和の動きだった。神宮寺は神社の境内
などに付設された寺院で、神前読経を行ない、神体の仏像を祀った。越前の気
比{けひ}神宮、伊勢の多度{たど}神社、常陸の鹿島神宮などのそれは有名
である。
やがて、神仏は本来同じものとする方向に向かい、本地垂迹{ほんじすいじ
ゃく}説という考えが生まれた。これは仏(本地)が人々を救済するため、仮
の姿(権現)となって現われたのが日本の神である、という考え方である。天
照大神{あまてらすおおみかみ}を大日如来{だいにちにょらい}の化身と考
えるなど、それぞれの神に本地としての仏を特定することが行なわれた。権現
も同様で、仏菩薩が衆生{しゅじょう:すべての生物}救済のため、神となっ
て仮に姿を現わしたもので、蔵王{ざおう}権現や熊野権現がその例である。
平安時代は、政治的に非業の死を遂げる者も多かった。そこで、怨霊や疫神
を慰めて祟りを逃れようとする御霊会{ごりょうえ}が開かれた。祇園社{ぎ
おんしゃ}<注3>と菅原道真を祀る北野神社のそれが有名である。
<注3>1868年の神仏分離で八坂{やさか}神社と改称した。
仏教は、浄土教が流行した。浄土教は、阿弥陀浄土への往生<注4>を願う
信仰である。これが普及したのは末法思想という考えで、正法{しょうほう}
・像法{ぞうほう}・末法という三時説のうち、仏法が衰える乱世に当たる末
法の初年が1052年と考えられていたためである。空也{くうや}は10世紀半ば
に念仏<注5>の功徳を京の市中で説き、源信{げんしん:恵心僧都{えしん
そうず}とも}は985年に『往生要集』を著わして、念仏往生を説いた。空也
を世人は市聖{いちのひじり}と呼んだ。聖は、公的な僧位・役職を持たない
民間の宗教者である。また、良忍{りょうにん}は融通念仏宗の祖で、天台声
明{しょうみょう}中興の祖でもある。
<注4>死後に極楽浄土に生まれること。
<注5>極楽往生を願い、仏の姿を心に念じ、仏の名を口にすること。
浄土教の流行により、往生集が多く作られた。往生集は、念仏信仰の功徳で
浄土往生を遂げたとされる人々の伝記を集めたものである。慶滋保胤{よしし
げのやすたね}の『日本往生極楽記』、三善為康{みよしのためやす}の『拾
遺往生伝』や『後拾遺往生伝』、大江匡房{おおえのまさふさ}の『続本朝往
生伝』などがある。
建築は、寝殿造{しんでんづくり}と阿弥陀堂がある。寝殿造は貴族の住宅
様式で、白木造{しらきづくり}・檜皮葺{ひわだぶき}・板床{いたゆか}
など日本風である。阿弥陀堂は阿弥陀仏を安置する堂で、浄土教の流行で貴族
が壮麗なものを建てた。平等院鳳凰堂、法界寺{ほっかいじ、ほうかいじ}阿
弥陀堂が知られる。両者以外に、醍醐寺{だいごじ}五重塔がある。
彫刻は、仏像の製作が一木造から寄木造{よせぎづくり}に移行し、隆盛と
なった。寄木造は2つ以上の材木を寄せ合わせ、多くの工人で部分を製作し、
全体をまとめる技法である。この手法を使ったのが定朝{じょうちょう}で、
代表作には平等院鳳凰堂阿弥陀如来像がある。
絵画は、主に大和絵と来迎図{らいごうず}が描かれた。大和絵は日本的風
物を主題にした絵画で、多くは季節の推移を主題とした四季絵が占める。特に
絵巻物で発揮され、日本画の源流となった。巨勢金岡{こせのかなおか}が唐
絵とともに日本の画材を日本の形式で描き、後に大和絵の祖といわれるように
なった。来迎図は往生を願う人の臨終に際し、阿弥陀仏が極楽浄土から雲に乗
って迎えに来る有様を描いた絵である。高野山聖衆{しょうじゅ}来迎図や平
等院鳳凰堂扉絵が有名である。
工芸は蒔絵{まきえ}と螺鈿{らでん}があり、前者は漆で文様を描き、金
銀粉を蒔き付けたもの、後者は夜光貝やアワビ貝などを薄くすり減らし、種々
の模様にして器物にはめ込む手法である。
書道は、かな及び草体を流麗・優雅に書く和風能書家が現われた。藤原佐理
{さり、すけまさ}・藤原行成{こうぜい、ゆきなり}・小野道風{おののと
うふう、みちかぜ}<注6>の3人で、三蹟{さんせき}という。佐理の『離
洛帖{りらくじょう}』、行成の『白氏詩巻{はくししかん}』、道風の『秋
萩帖{あきはぎじょう}』・『屏風土代{びょうぶどだい}』が有名である。
なお、行成は世尊寺流{せそんじりゅう}の祖である。
<注6>道風は空海が書いた「朱雀門」の額を見て、朱の字が米といって
「米雀門」と非難したため、後に空海の祟りで中風{ちゅうぶう
:脳卒中}になったという(『古今著聞集{ここんちょもんじゅ
う}』)。なお、『秋萩帖』は道風のものと伝えられている。
貴族の生活は、とても華やかだった。男性の正装は束帯{そくたい}で、衣
冠{いかん}はその略式である。普段は直衣{のうし}や狩衣{かりぎぬ}を
着ていた。女性の正装は女房装束(十二単{じゅうにひとえ})で、小袿{こ
うちぎ}などが略装である。なお、庶民男子の実用服は水干{すいかん}、下
級武士の服装は直垂{ひたたれ}である。
貴族は、寝殿造の住宅に住んだ。屋内は広い空間のため、間仕切りに几帳・
屏風・衝立・襖{きちょう・びょうぶ・ついたて・ふすま}などを用いた。床
は板敷きなので、畳{たたみ}や円座{えんざ、わろうざ}を敷いて座った。
移動は、牛車{ぎっしゃ}に乗った。食事は1日2回を基準とし、獣肉や油を
用いることが避けられた。荘園からの徴収品などで多種多様となったが、乾燥
保存食品が多く、消化吸収も悪く病気も多かった。なお、庶民は折敷{おしき
:細い板を縁に折り回した盆の一種}の上に飯・汁・菜が3皿置かれている絵
が、『病草紙{やまいのそうし}』に書かれている。
貴族の成年式は15~17歳で、男子は元服{げんぷく}、女子は裳着{もぎ}
を行なった。元服は有力者が烏帽子をかぶせて、新たに名をつけた。裳着は初
めて裳を着ける儀式である。結婚は、妻問婚{つまどいこん}から招婿婚{し
ょうせいこん}に代わった。妻問婚は夫婦別居で男が女の家に通う結婚形態、
招婿婚は男が女の両親の家かその近くに住むものである。
貴族は、陰陽寮{おんみょうりょう}で作った具注暦{ぐちゅうれき}に縛
られ、迷信深い生活を送った。物忌{ものいみ}や方違{かたたがえ}はその
例である。物忌は、物怪{もののけ}に取りつかれた時など、陰陽師{じ}の
判断で一定期間特定の建物の中で謹慎することである。方違は、旅行・外出の
際、行くべき方角が悪神がいる方角に当たる場合、前夜吉方{えほう}の家に
一泊して方角を変えて行くことである。
貴族の娯楽は、貝合・歌合{かいあわせ・うたあわせ}の物合{ものあわ
せ}の他、雅楽などが行なわれた。貝合は同種の貝を出し合って優劣を競う遊
び、歌合は題に応じて一種ずつ詠んだ歌を判者が優劣を決める遊びである。
また、宮中では毎年特定の時期に繰り返して行なう年中行事が発達した。民
間に伝わる日本古来のものや中国伝来のものもあり、神事・仏事・政務に関わ
る行事が200種類以上あった。宮廷では、節日{せつじつ:祝の日}などに天
皇のもとに群臣を集めて節会{せちえ}が開かれた。平安時代は、元日{がん
じつ:正月1日}・白馬{あおうま:正月7日}・踏歌{とうか:正月16日}
・端午{たんご:5月5日}・豊明{とよあかり:11月の新嘗祭翌日の辰の
日}が特に重んじられた。 |
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