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楼主: junshan_yin

[本科专业课] 文化史

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发表于 2009-6-12 22:45:39 | 显示全部楼层
等待着.....楼主记得发给我一份啊!感谢 感谢!
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 楼主| 发表于 2009-6-12 23:06:05 | 显示全部楼层
aiko_zhou@hotmail.comwutongh@163.com
もう送りました、ご査収ください
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发表于 2009-6-13 15:38:03 | 显示全部楼层
麻烦楼主也给我发一份好吗?irene-linlin@163.com  先谢过了!!!
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发表于 2009-6-13 17:06:13 | 显示全部楼层
已收到,多谢楼主!
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 楼主| 发表于 2009-6-13 20:37:15 | 显示全部楼层
桃山文化のノート
桃山文化…16世紀後半の信長・秀吉の時代の文化
 ・特徴…豪壮雄大な文化、現実的な文化、南蛮文化の影響

 ・建築…城郭建築-姫路城・彦根城・安土城・伏見城など
       伏見城遺構→都久夫須麻神社本殿・唐門、西本願寺書院・唐門
       聚楽第遺構→大徳寺唐門、西本願寺飛雲閣
     書院造-醍醐寺三宝院表書院
     茶 室-妙喜庵待庵(千利休?)、如庵(織田有楽斎)

 ・絵画(狩野姓の人物は名字省略)
  ・水墨画-『松鷹図』(山楽)、『山水図屏風』(海北友松)など
  ・濃 絵-『唐獅子図屏風』(永徳)
       『智積院襖絵』(長谷川等伯)など
  ・風俗画-『洛中洛外図屏風』(永徳)
       『花下遊楽図屏風』(野長信)など
  ・南蛮屏風

 ・工芸…高台寺蒔絵、欄間彫刻など

 ・芸能・風俗
  ・茶道…千利休が大成。北野大茶会の開催
      古田織部・今井宗久・津田宗牛久の茶人
  ・阿国歌舞伎(出雲阿国)→歌舞伎へ
  ・人形浄瑠璃  ・隆達節(高三隆達)
  ・名人…碁の本因坊算砂、将棋の大橋宗桂ら
  ・生活…小袖、1日3食の風

 ・南蛮文化
  ・活版印刷術の伝来(ヴァリニャーニ)
               →天草版の刊行(『天草版平家物語』など)
  ・『日葡辞書』の刊行


┃文章
 桃山文化は、16世紀後半の信長・秀吉の時代の文化である。特徴は、新興武
士と豪商の財力を土台にした豪壮雄大{ごうそうゆうだい}な文化で、仏教色
も薄れて現実的な文化である。また、南蛮文化の影響を受けた文化でもある。
秀吉の居城伏見{ふしみ}城の跡地に桃を植えたことから、その地を桃山とい
うようになった。


 建築では、城郭{じょうかく}建築が有名である。城郭は、壮麗な天守{て
んしゅ}を持つ本丸を中心に、二の丸・三の丸などの郭{くるわ}や櫓{やぐ
ら}を配したもので、その中核をなす高層の楼閣を天守閣という。現在も残る
城郭は、姫路城<注1>、彦根城、松本城、二条城二の丸御殿など、残ってい
ないものは安土城、伏見城がある。なお、現存最古の天守閣は、犬山城のもの
である。

  <注1>別名、白鷺{しらさぎ}城。池田輝政{てるまさ}の居城。

 江戸時代に取り壊された伏見城の遺構は、都久夫須麻{つくぶすま、ちくぶ
すま}神社本殿・唐門<注2>、西本願寺書院(鴻の間{こうのま})・唐門
とされている。また、豊臣秀吉が京都に作った聚楽第{じゅらくだい}も、豊
臣秀次の死後に取り壊され、西本願寺飛雲閣{ひうんかく}、大徳寺唐門はそ
の遺構とされている。

  <注2>都久夫須麻神社は、琵琶湖の竹生島{ちくぶしま}にある。

 城郭以外に、書院造の醍醐寺三宝院表書院{だいごじさんぽういんおもてし
ょいん}やその庭園がある。茶室も、千利休{せんのりきゅう}のものと伝え
られる妙喜庵待庵{みょうぎあんたいあん}、織田有楽斎{うらくさい}の如
庵{じょあん}がある。


 絵画では、障壁画と風俗画がある。障壁画は、襖や壁・屏風・障子に描かれ
た絵で、水墨画と金碧{きんぺき}濃彩画があり、後者を濃絵{だみえ}とい
う。濃絵は、余白を金銀地で仕立て、緑青や朱などの濃彩を用いた絵画で、狩
野永徳{かのうえいとく}の発明とされる。

 狩野永徳の『唐獅子{からじし}図屏風』や『檜{ひのき}図屏風』、狩野
山楽{さんらく}の『松鷹{しょうよう}図』や『牡丹{ぼたん}図』、長谷
川等伯{とうはく}の『智積院{ちしょういん}襖絵楓{かえで}図・桜図』
や『松林図屏風』<注3>、海北友松{かいほうゆうしょう}の『山水{さん
すい}図屏風』などがある。

  <注3>『智積院襖絵』は子の久蔵{きゅうぞう}との合作。『松林図屏
      風』は水墨画。

 風俗画は、庶民生活・風習などを題材とする絵である。狩野永徳の『洛中洛
外図屏風』、狩野吉信{よしのぶ}の『職人尽{づくし}図屏風』、狩野長信
{ながのぶ}の『花下遊楽{かかゆうらく}図屏風』、狩野秀頼{ひでより}
の『高雄観楓{たかおかんぷう}図屏風』などがある。また、南蛮屏風も作ら
れ、『世界地図屏風』や『泰西{たいせい}王侯騎馬図屏風』などがある。

 工芸は、高台寺蒔絵{こうだいじまきえ}がある。高台寺は、豊臣秀吉の正
室北政所{きたのまんどころ}が秀吉の冥福を祈るために建立した寺である。
その霊屋{おたまや}は、伏見城の遺構で金蒔絵が施されている。秀吉・北政
所の蒔絵調度品を含めて、高台寺蒔絵という。彫刻は、西本願寺浪の間{なみ
のま}の欄間{らんま}彫刻が有名である。欄間は、鴨居{かもい}と天井の
間にはめ込まれた格子や透し彫{すかしぼり}<注4>の板で、通風・採光を
目的としている。また、甲冑{かっちゅう}も多く作られた。

  <注4>一枚の板を表から裏まで彫り通した彫刻技法。


 芸能・風俗では、茶道は千利休{せんのりきゅう}によって大成され、古田
織部{おりべ}・今井宗久{そうきゅう}・津田宗及{そうぎゅう}らの茶人
が現われた。織部は武道的茶道を成立させ、宗久・宗及・利休は三宗匠と称さ
れた。1587年、秀吉主催の北野大茶会{きたのおおちゃのえ}が開かれ、身分
・貧富の差なく自由に参集を求めた。

 出雲阿国{いずものおくに}は、阿国歌舞伎というかぶき踊りを始めた。か
ぶき踊りは、異様な風体{ふうてい}をした傾奇者{かぶきもの}の踊りであ
る。後に歌舞伎に発展していった。人形浄瑠璃{じょうるり}は、三味線{し
ゃみせん}を伴奏に取り入れ、人形操りと結合して発展した。三味線は琉球か
ら伝わり、猫皮を利用して日本特有のものとなった。高三隆達{たかさぶりゅ
うたつ}は、小歌を節付けして隆達節{ぶし}(隆達小歌)を始めた。

 娯楽は、碁{ご}の本因坊算砂{ほんいんぼうさんさ}、将棋{しょうぎ}
の大橋宗桂{そうけい}らの名人が現われた。生活は、小袖{こそで}がはや
り、1日3食の風も生まれた。


 南蛮文化の流入も、この文化の大きな特徴である。ヴァリニャーニは活字印
刷術を伝え、それを用いた天草版{あまくさばん:キリシタン版とも}は、宗
教書や辞書・文典を主にポルトガル系のローマ字で刊行された。『天草版平家
物語』や『天草版伊曽保{いそほ}物語』など34点が現存する。『日葡{にっ
ぽ}辞書』が長崎で刊行された。教会堂(南蛮寺{なんばんじ})・コレジオ
・セミナリオ・ノビシャド(修練院)などの施設も作られた。地球儀・時計・
眼鏡・外来語など生活文化への影響もあった。
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 楼主| 发表于 2009-6-13 20:39:41 | 显示全部楼层
国風文化のノート
国風文化…10~11世紀の摂関政治期の文化
 ・特徴…中国文化を摂取・消化し、日本の風土にあった文化
     かな文学の発達と優雅な貴族文化、浄土教の流行
 ・文学
  ・かな文字…ひらがな、カタカナ
  ・漢和辞典…源順の『和名類聚抄』、昌住の『新撰字鏡』
  ・和歌…『古今和歌集』、六歌仙、歌合の盛行
  ・漢詩集…藤原公任の『和漢朗詠集』、藤原明衡の『本朝文粋』
  ・かな物語…『竹取物語』『伊勢物語』、紫式部の『源氏物語』など
  ・随筆…清少納言の『枕草子』
  ・日記…紀貫之の『土佐日記』、藤原道綱母の『蜻蛉日記』
      菅原孝標女の『更級日記』など

 ・宗教
  ・神道…神祇制度の整備、式内社、一の宮
   ・神仏習合(神前読経、神宮寺、神体の仏像)→本地垂迹説、権現
   ・御霊会の盛行
  ・仏教…浄土教の流行→空也・源信らの布教、往生集の作成

 ・美術
  ・建築…寝殿造(貴族の住宅)
      阿弥陀堂(平等院鳳凰堂、法界寺阿弥陀堂)、醍醐寺五重塔
  ・彫刻…寄木造、定朝の平等院鳳凰堂阿弥陀如来像
  ・絵画…大和絵(巨勢金岡が祖)
      来迎図(高野山聖衆来迎図や平等院鳳凰堂扉絵)
  ・工芸…蒔絵、螺鈿
  ・書道…和様、三蹟(小野道風、藤原佐理、藤原行成)

 ・貴族生活
  ・服装 男-正装…束帯・衣冠 常服…直衣・狩衣
      女-正装…女房装束  常服…小袿・袴
  ・住宅 左京に寝殿造の邸宅。畳・円座を置く。
  ・食事 1日2回。獣肉・油は用いない。
  ・生活 成人式(男は元服、女は裳着)、妻問婚から招婿婚へ
      寺社参詣は行なうが、京を離れる旅行はまれ
      迷信に囲まれる…陰陽道の影響、物忌、方違
      娯楽…双六、碁、貝、管弦など
  ・年中行事の発達


┃文章
 国風文化は、10~11世紀の摂関時代を中心とする文化で、中国文化を摂取・
消化し、日本の風土にあった文化となった。かな文学の発達と優雅な貴族文
化、浄土教の流行が文化の特徴である。また、藤原氏が栄えたことから、藤原
文化ともいう。

 文学は、かな文字の発達により、国文学が隆盛となった。かなにはひらがな
とカタカナがあり、前者は草{そう}がな<注1>を簡略にしたもの、後者は
漢字の偏・旁・冠{へん・つくり・かんむり}の一部を表音記号として使った
ものである。そして、五十音図、いろは歌、あめつちの歌などが作られた。

  <注1>草体がなのこと。万葉仮名の草書体。

 漢和辞典が編纂され、源順{みなもとのしたごう}の『和名類聚抄{わみょ
うるいじゅうしょう:倭名類聚抄とも}』は百科辞典的な分類をしたもの、昌
住{しょうじゅう}の『新撰字鏡{しんせんじきょう}』は偏と旁で分類した
ものである。

 和歌は、905年に醍醐天皇の命で、紀貫之{きのつらゆき}・紀友則{とも
のり}・凡河内躬恒{おおしこうちのみつね}・壬生忠岑{みぶのただみね}
らが『古今和歌集』を編纂した。『古今{こきん}和歌集』は最初の勅撰和歌
集で、三代集・八代集・二十一代集<注2>の最初である。勅撰和歌集は、天
皇・上皇・法皇の命で歌人が編集した和歌集である。

  <注2>三代集は古今集・後撰{ごせん}集・拾遺{しゅうい}集、八代
      集はさらに後拾遺集・金葉{きんよう}集・詞花{しか}集・千
      載{せんざい}集・新古今集、二十一代集は室町時代の新続古今
      集まで続く21勅撰和歌集である。なお、古今集は『古今和歌集』
      の略称で、それ以外も同様に略称する。

 
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 楼主| 发表于 2009-6-13 20:40:35 | 显示全部楼层
また、和歌のうまい人も多く現われた。特に、在原業平{ありわらのなりひ
ら}・僧正遍昭{へんじょう}・喜撰{きせん}法師・小野小町{おののこま
ち}・文室康秀{ふんやのやすひで}・大友黒主{おおとものくろぬし}の6
人は、六歌仙と呼ばれた。他に、『古今和歌集』の編者の4人や大江千里{お
おえのちさと}・選子{せんし}内親王らがいる。左右に分かれて、題に応じ
た一首を読み、判者が優劣を定めて、組の勝負を競う歌合{うたあわせ}も盛
んに行なわれた。

 漢詩は、藤原公任{きんとう}の『和漢朗詠集{わかんろうえいしゅう}』
で、朗詠に適する漢詩文・和歌を収録した。朗詠は、漢詩文の秀句を訓読で朗
吟{ろうぎん}することである。藤原明衡{あきひら}の撰とされる漢詩文集
『本朝文粋{ほんちょうもんずい}』も編纂された。

 物語は、『竹取物語』、『伊勢物語』、『宇津保{うつほ}物語』、『落窪
{おちくぼ}物語』、『源氏物語』などがある。『竹取物語』は日本最古の物
語文学で、かぐや姫のむこ選び説話の中に、当時の貴族社会の内面が描写され
ている。『伊勢物語』は歌物語の初めで、在原業平の恋愛談を中心とする短編
集である。紫式部{むらさきしきぶ}の『源氏物語』は、最高傑作の物語文学
である。

 随筆は、清少納言{せいしょうなごん}の『枕草子{まくらのそうし}』が
あり、宮廷生活を随筆風に書いたものである。日記は、紀貫之の『土佐(左)
{とさ}日記』、藤原道綱{みちつな}の母の『蜻蛉{かげろう}日記』、菅
原孝標{たかすえ}の女{むすめ}の『更級{さらしな}日記』、『和泉式部
日記』、『紫式部日記』などがある。『土佐日記』は、最初のかな日記であ
る。


 宗教のうち、神道は日本の民俗信仰で、教説はない。8世紀頃までは、氏神
の祭祀を中心に展開したが、律令国家で神社を中心に再編成され、平安時代に
神祇制度が整った。特に、延喜式神明帳{じんみょうちょう}に記載された格
式の高い神社を、式内社{しきないしゃ}という。また、朝廷の尊崇が厚く、
定期に奉幣{ほうへい:神への供え物を奉る}された伊勢・石清水{いわしみ
ず}・賀茂など22の神社を二十二社という。地方では多くの神社の祭神を一か
所に集めて、国府の近くに総社{そうじゃ}を設けた。一国の最上位に公認さ
れた神社を一の宮という。また、一定の地域・建物・住民を守護するために鎮
守神が祀られた。

 神仏習合は、日本固有の神の信仰と仏教信仰との融合である。初めは、神前
での読経や神宮寺を建てるなど妥協・調和の動きだった。神宮寺は神社の境内
などに付設された寺院で、神前読経を行ない、神体の仏像を祀った。越前の気
比{けひ}神宮、伊勢の多度{たど}神社、常陸の鹿島神宮などのそれは有名
である。

 やがて、神仏は本来同じものとする方向に向かい、本地垂迹{ほんじすいじ
ゃく}説という考えが生まれた。これは仏(本地)が人々を救済するため、仮
の姿(権現)となって現われたのが日本の神である、という考え方である。天
照大神{あまてらすおおみかみ}を大日如来{だいにちにょらい}の化身と考
えるなど、それぞれの神に本地としての仏を特定することが行なわれた。権現
も同様で、仏菩薩が衆生{しゅじょう:すべての生物}救済のため、神となっ
て仮に姿を現わしたもので、蔵王{ざおう}権現や熊野権現がその例である。

 平安時代は、政治的に非業の死を遂げる者も多かった。そこで、怨霊や疫神
を慰めて祟りを逃れようとする御霊会{ごりょうえ}が開かれた。祇園社{ぎ
おんしゃ}<注3>と菅原道真を祀る北野神社のそれが有名である。

  <注3>1868年の神仏分離で八坂{やさか}神社と改称した。

 仏教は、浄土教が流行した。浄土教は、阿弥陀浄土への往生<注4>を願う
信仰である。これが普及したのは末法思想という考えで、正法{しょうほう}
・像法{ぞうほう}・末法という三時説のうち、仏法が衰える乱世に当たる末
法の初年が1052年と考えられていたためである。空也{くうや}は10世紀半ば
に念仏<注5>の功徳を京の市中で説き、源信{げんしん:恵心僧都{えしん
そうず}とも}は985年に『往生要集』を著わして、念仏往生を説いた。空也
を世人は市聖{いちのひじり}と呼んだ。聖は、公的な僧位・役職を持たない
民間の宗教者である。また、良忍{りょうにん}は融通念仏宗の祖で、天台声
明{しょうみょう}中興の祖でもある。

  <注4>死後に極楽浄土に生まれること。
  <注5>極楽往生を願い、仏の姿を心に念じ、仏の名を口にすること。

 浄土教の流行により、往生集が多く作られた。往生集は、念仏信仰の功徳で
浄土往生を遂げたとされる人々の伝記を集めたものである。慶滋保胤{よしし
げのやすたね}の『日本往生極楽記』、三善為康{みよしのためやす}の『拾
遺往生伝』や『後拾遺往生伝』、大江匡房{おおえのまさふさ}の『続本朝往
生伝』などがある。


 建築は、寝殿造{しんでんづくり}と阿弥陀堂がある。寝殿造は貴族の住宅
様式で、白木造{しらきづくり}・檜皮葺{ひわだぶき}・板床{いたゆか}
など日本風である。阿弥陀堂は阿弥陀仏を安置する堂で、浄土教の流行で貴族
が壮麗なものを建てた。平等院鳳凰堂、法界寺{ほっかいじ、ほうかいじ}阿
弥陀堂が知られる。両者以外に、醍醐寺{だいごじ}五重塔がある。

 彫刻は、仏像の製作が一木造から寄木造{よせぎづくり}に移行し、隆盛と
なった。寄木造は2つ以上の材木を寄せ合わせ、多くの工人で部分を製作し、
全体をまとめる技法である。この手法を使ったのが定朝{じょうちょう}で、
代表作には平等院鳳凰堂阿弥陀如来像がある。

 絵画は、主に大和絵と来迎図{らいごうず}が描かれた。大和絵は日本的風
物を主題にした絵画で、多くは季節の推移を主題とした四季絵が占める。特に
絵巻物で発揮され、日本画の源流となった。巨勢金岡{こせのかなおか}が唐
絵とともに日本の画材を日本の形式で描き、後に大和絵の祖といわれるように
なった。来迎図は往生を願う人の臨終に際し、阿弥陀仏が極楽浄土から雲に乗
って迎えに来る有様を描いた絵である。高野山聖衆{しょうじゅ}来迎図や平
等院鳳凰堂扉絵が有名である。

 工芸は蒔絵{まきえ}と螺鈿{らでん}があり、前者は漆で文様を描き、金
銀粉を蒔き付けたもの、後者は夜光貝やアワビ貝などを薄くすり減らし、種々
の模様にして器物にはめ込む手法である。

 書道は、かな及び草体を流麗・優雅に書く和風能書家が現われた。藤原佐理
{さり、すけまさ}・藤原行成{こうぜい、ゆきなり}・小野道風{おののと
うふう、みちかぜ}<注6>の3人で、三蹟{さんせき}という。佐理の『離
洛帖{りらくじょう}』、行成の『白氏詩巻{はくししかん}』、道風の『秋
萩帖{あきはぎじょう}』・『屏風土代{びょうぶどだい}』が有名である。
なお、行成は世尊寺流{せそんじりゅう}の祖である。

  <注6>道風は空海が書いた「朱雀門」の額を見て、朱の字が米といって
      「米雀門」と非難したため、後に空海の祟りで中風{ちゅうぶう
      :脳卒中}になったという(『古今著聞集{ここんちょもんじゅ
      う}』)。なお、『秋萩帖』は道風のものと伝えられている。


 貴族の生活は、とても華やかだった。男性の正装は束帯{そくたい}で、衣
冠{いかん}はその略式である。普段は直衣{のうし}や狩衣{かりぎぬ}を
着ていた。女性の正装は女房装束(十二単{じゅうにひとえ})で、小袿{こ
うちぎ}などが略装である。なお、庶民男子の実用服は水干{すいかん}、下
級武士の服装は直垂{ひたたれ}である。

 貴族は、寝殿造の住宅に住んだ。屋内は広い空間のため、間仕切りに几帳・
屏風・衝立・襖{きちょう・びょうぶ・ついたて・ふすま}などを用いた。床
は板敷きなので、畳{たたみ}や円座{えんざ、わろうざ}を敷いて座った。
移動は、牛車{ぎっしゃ}に乗った。食事は1日2回を基準とし、獣肉や油を
用いることが避けられた。荘園からの徴収品などで多種多様となったが、乾燥
保存食品が多く、消化吸収も悪く病気も多かった。なお、庶民は折敷{おしき
:細い板を縁に折り回した盆の一種}の上に飯・汁・菜が3皿置かれている絵
が、『病草紙{やまいのそうし}』に書かれている。

 貴族の成年式は15~17歳で、男子は元服{げんぷく}、女子は裳着{もぎ}
を行なった。元服は有力者が烏帽子をかぶせて、新たに名をつけた。裳着は初
めて裳を着ける儀式である。結婚は、妻問婚{つまどいこん}から招婿婚{し
ょうせいこん}に代わった。妻問婚は夫婦別居で男が女の家に通う結婚形態、
招婿婚は男が女の両親の家かその近くに住むものである。

 貴族は、陰陽寮{おんみょうりょう}で作った具注暦{ぐちゅうれき}に縛
られ、迷信深い生活を送った。物忌{ものいみ}や方違{かたたがえ}はその
例である。物忌は、物怪{もののけ}に取りつかれた時など、陰陽師{じ}の
判断で一定期間特定の建物の中で謹慎することである。方違は、旅行・外出の
際、行くべき方角が悪神がいる方角に当たる場合、前夜吉方{えほう}の家に
一泊して方角を変えて行くことである。

 貴族の娯楽は、貝合・歌合{かいあわせ・うたあわせ}の物合{ものあわ
せ}の他、雅楽などが行なわれた。貝合は同種の貝を出し合って優劣を競う遊
び、歌合は題に応じて一種ずつ詠んだ歌を判者が優劣を決める遊びである。

 また、宮中では毎年特定の時期に繰り返して行なう年中行事が発達した。民
間に伝わる日本古来のものや中国伝来のものもあり、神事・仏事・政務に関わ
る行事が200種類以上あった。宮廷では、節日{せつじつ:祝の日}などに天
皇のもとに群臣を集めて節会{せちえ}が開かれた。平安時代は、元日{がん
じつ:正月1日}・白馬{あおうま:正月7日}・踏歌{とうか:正月16日}
・端午{たんご:5月5日}・豊明{とよあかり:11月の新嘗祭翌日の辰の
日}が特に重んじられた。
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发表于 2009-6-15 19:55:21 | 显示全部楼层
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发表于 2009-6-16 11:30:40 | 显示全部楼层
そうですか?これから、もう発送できないのですか?残念ですね。
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发表于 2009-6-16 13:00:34 | 显示全部楼层
谢谢楼主,我会查收的
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发表于 2009-6-17 20:37:35 | 显示全部楼层
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 楼主| 发表于 2009-6-18 13:15:01 | 显示全部楼层
白鳳文化のノート
白鳳文化…大化の改新~平城京遷都に至る時代
 ・特徴…律令国家建設期の若々しい文化、仏教文化を基調
     初唐・西アジア・高句麗の影響
 ・宗教
  ・仏教…官大寺の造営→大官大寺・薬師寺・川原寺・法興寺など
  ・葬制…薄葬令、火葬が広まり古墳は消滅、庶民はほとんど土葬
  ・神道…斎王の派遣、式年遷宮の制

 ・建築…薬師寺東塔(凍れる音楽)、山田寺
 ・彫刻…興福寺仏頭、薬師寺金堂薬師三尊像、薬師寺東院堂聖観音像、
     法隆寺夢違観音像、法隆寺阿弥陀三尊像など
 ・絵画…法隆寺金堂壁画、高松塚古墳壁画、キトラ古墳壁画など
 ・文学…漢詩の隆盛-大津皇子
     和歌の発展-額田王や柿本人麻呂ら


┃文章
 白鳳文化は、大化の改新から平城京遷都に至る時代の文化である。律令国家
建設期の若々しい文化で、仏教文化を基調としている。また、初唐文化・西ア
ジア・高句麗の影響も見られる。文化の名称となっている「白鳳」は、公的な
元号である白雉{はくち}の異称で、中瑞{ちゅうずい}<注1>の雉{き
じ}から大瑞{だいずい}の鳳{おおとり}へ読み替えたともいわれている。

  <注1>瑞は、めでたいこと。

 仏教では、伽藍{がらん}の造営・維持管理を行なう官大寺{かんだいじ:
官寺{かんじ}とも}が建てられた。藤原京の四大寺{したいじ}は、大官大
寺{だいかんだいじ}<注2>・薬師寺・川原寺{かわらでら:弘福寺{ぐふ
くじ}とも}・法興寺<注3>である。大官大寺は、舒明{じょめい}天皇創
建と伝えられる百済大寺{くだらおおでら}が起源で、移転後に高市大寺{た
けちおおでら}と称し、677年にこの名称となった<注4>。薬師寺は、天武
天皇が皇后の病気平癒を祈って創建した寺である。

  <注2>大官は天皇家、大寺は国家から最高待遇を受ける格式の高い寺の
      意味。国家寺院として初めて建立された寺。
  <注3>奈良時代に元興寺{がんごうじ}となる。
  <注4>711年に焼失、716年に移転して大安寺{だいあんじ}と改称。東
      大寺建立以前は官寺筆頭。

 葬制に関して、646年に大化の薄葬令{はくそうれい}が出され、喪や葬制
が簡素化される一方、公地公民による私葬方式を改め、官人の葬送はすべて政
府の手によるものとした。また、遺体を火で処理する火葬が行なわれるように
なった。その風習は、700年に法相宗{ほっそうしゅう}の僧道昭{どうしょ
う}が火葬されてから貴族層に広まったとされ、8世紀にはかなり普及し、古
墳は急速に消滅した。しかし、庶民はほとんど土葬だった。

 神道では、天皇に代わって伊勢神宮に奉仕する未婚の女性が派遣された。斎
王{さいおう}である。斎王は、天武天皇朝頃から置かれ始めたと考えられて
いる。また、諸社で一定の年数を定めて新殿を作り、神体を奉遷する式年遷宮
が定められた。特に伊勢神宮が有名で、持統天皇朝以来20年ごと(1343年以降
は21年ごと)に行なわれている。


 建築は、リズムある姿が「凍{こお}れる音楽」と評される薬師寺東塔{と
うとう}が有名である。頂上の天女と飛雲を配した水煙{すいえん}<注5>
も独特である。また、寺院では山田寺も知られる。寺は平安末期に荒廃した
が、1982年に廻廊の一部が発見された。

  <注5>火焔形{かえんけい}の装飾。火と称するのを忌み、同時に火を
      調伏{ちょうぶく}する縁起からこの名が付いた。

 彫刻は興福寺仏頭{ぶっとう}、薬師寺金堂薬師三尊像、薬師寺東院堂聖観
音{とういんどうしょうかんのん}像、法隆寺夢違{ゆめたがい/ちがい}観
音像、法隆寺阿弥陀三尊像(橘夫人念持仏{たちばなふじんねんじぶつ})な
どが知られる。興福寺仏頭は、1187年に飛鳥の山田寺から興福寺僧徒が奪い、
1411年に火災にあった丈六{じょうろく}の薬師三尊像の本尊の頭部と推定さ
れる<注6>。法隆寺阿弥陀三尊像は、光明皇后の母橘夫人の念持仏と伝えら
れる。

  <注6>1937年に興福寺東金堂本尊台座の下から偶然見つかった。

 絵画は、法隆寺金堂壁画<注7>、高松塚古墳壁画、キトラ古墳壁画、上淀
廃寺{かみよどはいじ}金堂壁画<注8>などが知られる。法隆寺金堂壁画
は、外陣{げじん:人々が礼拝する所}の柱間に12面描かれ、特に西6号の壁
阿弥陀浄土図が著名である。高松塚古墳壁画は1972年に発見され、石室の天井
が極彩色で描かれている<注9>。キトラ古墳壁画は、石室の壁画に四神図<
注10>や精緻な天文図が描かれている。

  <注7>1949年1月26日の火災で、内陣{ないじん:本尊が安置している
      部分}の小壁の20面の飛天を除いてすべて焼失。これを機に、翌
      年に文化財保護法が制定された。この飛天は解体修理のため取り
      外されていた。
  <注8>鳥取県西伯郡淀江町{さいはくぐんよどえちょう}にある。
  <注9>2004年、青色顔料には西アジア産の宝石ラピスラズリが使われて
      いることが判明した。
  <注10>青龍・白虎・朱雀・玄武の4神

 文学は漢詩が隆盛を迎え、大津皇子{おおつのみこ}の詩が知られる。ま
た、和歌が発展し、この頃の歌人に額田王{ぬかたのおおきみ}や柿本人麻呂
{かきのもとのひとまろ}らが有名である。
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 楼主| 发表于 2009-6-18 13:15:37 | 显示全部楼层
白鳳文化のノート
白鳳文化…大化の改新~平城京遷都に至る時代
 ・特徴…律令国家建設期の若々しい文化、仏教文化を基調
     初唐・西アジア・高句麗の影響
 ・宗教
  ・仏教…官大寺の造営→大官大寺・薬師寺・川原寺・法興寺など
  ・葬制…薄葬令、火葬が広まり古墳は消滅、庶民はほとんど土葬
  ・神道…斎王の派遣、式年遷宮の制

 ・建築…薬師寺東塔(凍れる音楽)、山田寺
 ・彫刻…興福寺仏頭、薬師寺金堂薬師三尊像、薬師寺東院堂聖観音像、
     法隆寺夢違観音像、法隆寺阿弥陀三尊像など
 ・絵画…法隆寺金堂壁画、高松塚古墳壁画、キトラ古墳壁画など
 ・文学…漢詩の隆盛-大津皇子
     和歌の発展-額田王や柿本人麻呂ら


┃文章
 白鳳文化は、大化の改新から平城京遷都に至る時代の文化である。律令国家
建設期の若々しい文化で、仏教文化を基調としている。また、初唐文化・西ア
ジア・高句麗の影響も見られる。文化の名称となっている「白鳳」は、公的な
元号である白雉{はくち}の異称で、中瑞{ちゅうずい}<注1>の雉{き
じ}から大瑞{だいずい}の鳳{おおとり}へ読み替えたともいわれている。

  <注1>瑞は、めでたいこと。

 仏教では、伽藍{がらん}の造営・維持管理を行なう官大寺{かんだいじ:
官寺{かんじ}とも}が建てられた。藤原京の四大寺{したいじ}は、大官大
寺{だいかんだいじ}<注2>・薬師寺・川原寺{かわらでら:弘福寺{ぐふ
くじ}とも}・法興寺<注3>である。大官大寺は、舒明{じょめい}天皇創
建と伝えられる百済大寺{くだらおおでら}が起源で、移転後に高市大寺{た
けちおおでら}と称し、677年にこの名称となった<注4>。薬師寺は、天武
天皇が皇后の病気平癒を祈って創建した寺である。

  <注2>大官は天皇家、大寺は国家から最高待遇を受ける格式の高い寺の
      意味。国家寺院として初めて建立された寺。
  <注3>奈良時代に元興寺{がんごうじ}となる。
  <注4>711年に焼失、716年に移転して大安寺{だいあんじ}と改称。東
      大寺建立以前は官寺筆頭。

 葬制に関して、646年に大化の薄葬令{はくそうれい}が出され、喪や葬制
が簡素化される一方、公地公民による私葬方式を改め、官人の葬送はすべて政
府の手によるものとした。また、遺体を火で処理する火葬が行なわれるように
なった。その風習は、700年に法相宗{ほっそうしゅう}の僧道昭{どうしょ
う}が火葬されてから貴族層に広まったとされ、8世紀にはかなり普及し、古
墳は急速に消滅した。しかし、庶民はほとんど土葬だった。

 神道では、天皇に代わって伊勢神宮に奉仕する未婚の女性が派遣された。斎
王{さいおう}である。斎王は、天武天皇朝頃から置かれ始めたと考えられて
いる。また、諸社で一定の年数を定めて新殿を作り、神体を奉遷する式年遷宮
が定められた。特に伊勢神宮が有名で、持統天皇朝以来20年ごと(1343年以降
は21年ごと)に行なわれている。


 建築は、リズムある姿が「凍{こお}れる音楽」と評される薬師寺東塔{と
うとう}が有名である。頂上の天女と飛雲を配した水煙{すいえん}<注5>
も独特である。また、寺院では山田寺も知られる。寺は平安末期に荒廃した
が、1982年に廻廊の一部が発見された。

  <注5>火焔形{かえんけい}の装飾。火と称するのを忌み、同時に火を
      調伏{ちょうぶく}する縁起からこの名が付いた。

 彫刻は興福寺仏頭{ぶっとう}、薬師寺金堂薬師三尊像、薬師寺東院堂聖観
音{とういんどうしょうかんのん}像、法隆寺夢違{ゆめたがい/ちがい}観
音像、法隆寺阿弥陀三尊像(橘夫人念持仏{たちばなふじんねんじぶつ})な
どが知られる。興福寺仏頭は、1187年に飛鳥の山田寺から興福寺僧徒が奪い、
1411年に火災にあった丈六{じょうろく}の薬師三尊像の本尊の頭部と推定さ
れる<注6>。法隆寺阿弥陀三尊像は、光明皇后の母橘夫人の念持仏と伝えら
れる。

  <注6>1937年に興福寺東金堂本尊台座の下から偶然見つかった。

 絵画は、法隆寺金堂壁画<注7>、高松塚古墳壁画、キトラ古墳壁画、上淀
廃寺{かみよどはいじ}金堂壁画<注8>などが知られる。法隆寺金堂壁画
は、外陣{げじん:人々が礼拝する所}の柱間に12面描かれ、特に西6号の壁
阿弥陀浄土図が著名である。高松塚古墳壁画は1972年に発見され、石室の天井
が極彩色で描かれている<注9>。キトラ古墳壁画は、石室の壁画に四神図<
注10>や精緻な天文図が描かれている。

  <注7>1949年1月26日の火災で、内陣{ないじん:本尊が安置している
      部分}の小壁の20面の飛天を除いてすべて焼失。これを機に、翌
      年に文化財保護法が制定された。この飛天は解体修理のため取り
      外されていた。
  <注8>鳥取県西伯郡淀江町{さいはくぐんよどえちょう}にある。
  <注9>2004年、青色顔料には西アジア産の宝石ラピスラズリが使われて
      いることが判明した。
  <注10>青龍・白虎・朱雀・玄武の4神

 文学は漢詩が隆盛を迎え、大津皇子{おおつのみこ}の詩が知られる。ま
た、和歌が発展し、この頃の歌人に額田王{ぬかたのおおきみ}や柿本人麻呂
{かきのもとのひとまろ}らが有名である。
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 楼主| 发表于 2009-6-18 13:16:35 | 显示全部楼层
飛鳥文化のノート
飛鳥文化…7世紀前半、推古天皇朝を中心とする時代
 ・特徴…日本初の仏教文化、中国南北朝・朝鮮の影響
     ギリシア・インドとの共通性も
 ・仏教…氏寺-飛鳥寺、太秦寺、仏教興隆の詔、厩戸王の三経義疏
 ・建築…礎石建ち・瓦葺・朱塗柱で寺院建立
     四天王寺・法隆寺・中宮寺など
     伽藍配置-飛鳥寺式、四天王寺式、法隆寺式など

 ・彫刻…飛鳥寺釈迦如来像、法隆寺金堂釈迦三尊像など(北魏様式)
     法隆寺百済観音像、広隆寺と中宮寺の半跏思惟像など
                        (百済・中国南朝様式)
     仏師-鞍作鳥が有名
 ・工芸…法隆寺玉虫厨子、中宮寺天寿国繍帳など
 ・絵画…玉虫厨子の扉絵や須弥座絵(捨身飼虎図や施身聞偈図など)
     曇徴が絵の具・紙墨の製法を伝える
 ・暦法・天文…観勒が伝える


┃文章
 飛鳥文化は、7世紀前半の推古天皇朝を中心とする時代の文化である。特徴
は、日本初の仏教文化であること、中国南北朝・新羅・百済・高句麗の影響を
受け、ギリシア・インドとの共通性も見られる。

 飛鳥時代の仏教は、先祖の崇拝や戦争の勝利、病気平癒を祈るなど呪術性が
強かった。そこで、豪族はこぞって氏寺を建立し、氏族の発展と先祖の追善を
行なった。蘇我馬子の飛鳥寺{あすかでら:法興寺{ほうこうじ}とも}、秦
河勝{はたのかわかつ}の太秦寺{うずまさでら:広隆寺{こうりゅうじ}と
も}がその例である。

 厩戸王{うまやとおう}(聖徳太子)は、594年に仏教興隆の詔を出し、仏
法僧{ぶっぽうそう}<注1>の三宝{さんぽう}を興させた。そして、三経
義疏{さんぎょうぎしょ}を著わした。これは法華{ほっけ}・勝鬘{しょう
まん}・維摩{ゆいま}の3経の注釈書で、『法華経{ほけきょう}義疏』は
彼の自筆とされ、現存する日本最古の著作である。また、彼には恵慈{えじ}
という仏教の師がいた。恵慈は高句麗の僧で、595~615年に在日し、飛鳥寺に
住んだ。帰国後、彼の死を聞き、彼と同日の死を願って、翌年同日に入寂{に
ゅうじゃく:亡くなる}したといわれる。

  <注1>仏は釈迦{しゃか}、法は仏の説いた教え、僧は仏に従う教団。

 建築の分野では、渡来人が伝えた礎石{そせき}建ち・瓦葺{かわらぶき}
・朱塗柱{しゅぬりばしら}(丹{に}塗柱)で、寺院が建てられるようにな
った。これまでは掘立柱{ほったてばしら}・檜皮葺{ひわだぶき}の建築法
だった。礎石建ちは、柱の基礎に石を据える建築法で、瓦葺建築の重量に耐え
る工法である。掘立柱は、柱の基底部を地中に埋め込んだ工法である。朱塗柱
は、朱(硫化水銀)や丹(四酸化三鉛)などで赤く塗った柱である。

 この頃の寺院には飛鳥寺・太秦寺以外に、四天王寺・法隆寺・中宮寺{ちゅ
うぐうじ}などがある。3つとも聖徳太子が建立した寺で、四天王寺は、物部
守屋との戦いで、四天王に祈って勝利を得たために建立した寺院である。中宮
寺は、母の穴穂部間人{あなほべのはしひと}皇后の宮跡{きゅうせき}を寺
にしたものである。

 法隆寺の金堂・中門・五重塔・歩廊{ほろう:回廊{かいろう}とも}は、
旧山田寺廻廊{やまだでらかいろう}遺材に続く世界最古の木造建築である。
金堂は、柱のエンタシス<注2>など南北朝様式を特色とする。南北朝様式
は、エンタシスや大斗{だいと}・雲形肘木{くもがたひじき}・卍崩{まん
じくず}しの勾欄{こうらん}・人字形割束{ひとじがたわりづか}を建築物
の特徴とする。五重塔は、法起寺{ほっきじ}<注3>三重塔とともに飛鳥様
式を伝える最古の塔である。

  <注2>柱の中央部が膨らんでいるもの。
  <注3>山背大兄王{やましろのおおえのおう}が太子の岡本宮{おかも
      とのみや}を寺にしたものである。

 『日本書紀』によると、670年に法隆寺炎上の記事があり、歴史学者は現存
の金堂・五重塔の670年以降の再建を主張した。建築史家は、様式・尺度から
創建当時のものと非再建を主張した。1939年に若草伽藍跡の発掘で、再建論が
有力となった。法隆寺再建・非再建論争である。

 寺院の建物の配置を伽藍{がらん}配置といい、それぞれに特徴がある。最
古の飛鳥寺式は、塔を囲んで3つの金堂が配置されている。四天王寺式は、金
堂の前に塔を建て南北一直線に配置されている。法隆寺式は、西の五重塔と東
の金堂が中門から見て左右対称に建てられている。当初、釈迦の骨(仏舎利
{ぶっしゃり})を収める塔が中心だったが、本尊を祀る金堂が中心となり、
学問のための講堂や経蔵{きょうぞう}が重視されていった。白鳳文化の薬師
寺式以降、塔は装飾的存在となった。


 仏像彫刻も多く作られた。飛鳥彫刻の源流は、中国の雲崗{うんこう}や竜
門{りゅうもん}の石仏とされている。また、北魏{ほくぎ}様式と百済・中
国南朝様式に分けられる。北魏様式は杏仁形{きょうにんけい}の目、仰月形
{ぎょうげつけい}の唇<注4>、左右対称の幾何学的衣文{えもん}が特徴
で、力強く端正で男性的である。一方、百済・中国南朝様式は、顔や姿など全
体に柔和で丸味があり、衣文にも変化があり、自然の姿に近い。両者に共通す
る特徴はアルカイック・スマイル(古拙の微笑{えみ})があることである。

  <注4>杏仁形の目はまぶたの上下が同じような弧を描いているもの、仰
      月形の唇は三日月を上向きにしたように、口の両端を引き上げて
      いるもの。
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 楼主| 发表于 2009-6-18 13:17:07 | 显示全部楼层
 この時代の仏師には、北魏様式の像を造った鞍作鳥{くらつくりのとり:止
利{とり}仏師とも}が知られる。彼は司馬達等の孫とされ、主な作品に飛鳥
寺釈迦如来像(飛鳥大仏)<注5>、法隆寺金堂釈迦三尊像がある。この2作
品は、銅像の表面に鍍金{ときん:めっき}を施した金銅像である。北魏様式
の仏像は鞍作鳥の作品以外に、明治時代になってフェノロサが調査した法隆寺
夢殿救世{くぜ}観音像などがある。また、百済・中国南朝様式の仏像は、法
隆寺百済観音像<注6>、広隆寺と中宮寺の半跏思惟{はんかしい}像(弥勒
菩薩{みろくぼさつ}像)<注7>などがある。

  <注5>日本最古の仏像(完成は606・609年説がある)。鎌倉時代初めの
      落雷で伽藍が焼失した時、「仏頭ト手トノミ残ル」の大損害を受
      けた。目と額と右手指3本ほどだけ火を浴びず、その他は焼けた
      だれ、後世に補修したものと推定されている。
  <注6>百済から渡来したとの伝承は否定的である。
  <注7>片足を他の足の股の上に組み、手を頬に当てて思惟する。

 工芸は、法隆寺玉虫厨子{たまむしのずし}が有名である。玉虫厨子は、小
型の仏像を安置する箱で、2563枚の玉虫の羽が伏せられていたことが名の由来
である。中宮寺天寿国繍帳{てんじゅこくしゅうちょう}(断片)は、聖徳太
子の死後に妃の橘大郎女{たちばなのおおいらつめ}が聖徳太子が往生した天
寿国のあり方を写した刺繍である。

 法隆寺四騎獅子狩文様錦{しきししかりもんようきん}は、円形を連ねた連
珠文{れんじゅもん}の円の中に4頭の獅子に弓を引き絞る4騎の狩猟者を配
した錦で、西アジアに多い狩猟文様の1つである。法隆寺竜首水瓶{りゅうし
ゅすいびょう}は、形はペルシアの水瓶で、胴部に天馬{てんば:ペガサス}
が彫られている。伎楽面{ぎがくめん}は、高い鼻などギリシアの仮面やイラ
ン人の顔に似ており、西方の影響を受けている。

 絵画は、玉虫厨子の扉絵や須弥座絵{しゅみざえ}が有名である。須弥座絵
は、捨身飼虎{しゃしんしこ}図や施身聞偈{せしんもんげ}図が特に有名で
ある。また、絵の具を油で溶かし、これに密陀僧{みつだそう:一酸化鉛のこ
と}を加えた塗料で油絵が描かれた。密陀絵{みつだえ}と呼ばれ、漆のよう
な光沢がある。610年に高句麗の僧曇徴{どんちょう}が来日し、絵の具・紙
墨の製法を伝えた。

 602年、百済の僧観勒{かんろく}が来日し、暦法・天文を伝えた。
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