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发表于 2010-11-10 23:34:12
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(1)
国風文化は、10~11世紀の摂関時代を中心とする文化で、中国文化を摂取・消化し、日本の風土にあった文化となった。かな文学の発達と優雅な貴族文化、浄土教の流行が文化の特徴である。また、藤原氏が栄えたことから、藤原文化ともいう。
文学は、かな文字の発達により、国文学が隆盛となった。かなにはひらがなとカタカナがあり、前者は草{そう}がな<注1>を簡略にしたもの、後者は漢字の偏・旁・冠{へん・つくり・かんむり}の一部を表音記号として使ったものである。そして、五十音図、いろは歌、あめつちの歌などが作られた。
漢和辞典が編纂され、源順{みなもとのしたごう}の『和名類聚抄{わみょうるいじゅうしょう:倭名類聚抄とも}』は百科辞典的な分類をしたもの、昌住{しょうじゅう}の『新撰字鏡{しんせんじきょう}』は偏と旁で分類したものである。
和歌は、905年に醍醐天皇の命で、紀貫之{きのつらゆき}・紀友則{とものり}・凡河内躬恒{おおしこうちのみつね}・壬生忠岑{みぶのただみね}らが『古今{こきん}和歌集』を編纂した。『古今和歌集』は最初の勅撰和歌集で、三代集・八代集・二十一代集<注2>の最初である。勅撰和歌集は、天皇・上皇・法皇の命で歌人が編集した和歌集である。
また、和歌のうまい人も多く現われた。特に、在原業平{ありわらのなりひら}・僧正遍昭{へんじょう}・喜撰{きせん}法師・小野小町{おののこまち}・文室康秀{ふんやのやすひで}・大友黒主{おおとものくろぬし}の6人は、六歌仙と呼ばれた。他に、『古今和歌集』の編者の4人や大江千里{おおえのちさと}・選子{せんし}内親王らがいる。左右に分かれて、題に応じた一首を読み、判者が優劣を定めて、組の勝負を競う歌合{うたあわせ}も盛んに行なわれた。
漢詩は、藤原公任{きんとう}の『和漢朗詠集{わかんろうえいしゅう}』で、朗詠に適する漢詩文・和歌を収録した。朗詠は、漢詩文の秀句を訓読で朗吟{ろうぎん}することである。藤原明衡{あきひら}の撰とされる漢詩文集『本朝文粋{ほんちょうもんずい}』も編纂された。
物語は、『竹取物語』、『伊勢物語』、『宇津保{うつぼ}物語』、『落窪{おちくぼ}物語』、『源氏物語』などがある。『竹取物語』は日本最古の物語文学で、かぐや姫のむこ選び説話の中に、当時の貴族社会の内面が描写されている。『伊勢物語』は歌物語の初めで、在原業平の恋愛談を中心とする短編集である。紫式部{むらさきしきぶ}の『源氏物語』は、最高傑作の物語文学である。
随筆は、清少納言{せいしょうなごん}の『枕草子{まくらのそうし}』があり、宮廷生活を随筆風に書いたものである。日記は、紀貫之の『土佐(左){とさ}日記』、藤原道綱{みちつな}の母の『蜻蛉{かげろう}日記』、菅原孝標{たかすえ}の女{むすめ}の『更級{さらしな}日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記』などがある。『土佐日記』は、最初のかな日記である。
注1> 草体がなのこと。万葉仮名の草書体。
注2> 三代集は古今集・後撰{ごせん}集・拾遺{しゅうい}集、八代集はさらに後拾遺集・金葉{きんよう}集・詞花{しか}集・千載{せんざい}集・新古今集、二十一代集は室町時代の新続古今集まで続く21勅撰和歌集である。なお、古今集は『古今和歌集』の略称で、それ以外も同様に略称する。
(2)
宗教のうち、神道は日本の民俗信仰で、教説はない。8世紀頃までは、氏神の祭祀を中心に展開したが、律令国家で神社を中心に再編成され、平安時代に神祇制度が整った。特に、延喜式神明帳{じんみょうちょう}に記載された格式の高い神社を、式内社{しきないしゃ}という。また、朝廷の尊崇が厚く、定期に奉幣{ほうへい:神への供え物を奉る}された伊勢・石清水{いわしみず}・賀茂など22の神社を二十二社という。地方では多くの神社の祭神を一か所に集めて、国府の近くに総社{そうじゃ}を設けた。一国の最上位に公認された神社を一の宮という。また、一定の地域・建物・住民を守護するために鎮守神が祀られた。
神仏習合は、日本固有の神の信仰と仏教信仰との融合である。初めは、神前での読経や神宮寺を建てるなど妥協・調和の動きだった。神宮寺は神社の境内などに付設された寺院で、神前読経を行ない、神体の仏像を祀った。越前の気比{けひ}神宮、伊勢の多度{たど}神社、常陸の鹿島神宮などのそれは有名である。
やがて、神仏は本来同じものとする方向に向かい、本地垂迹{ほんじすいじゃく}説という考えが生まれた。これは仏(本地)が人々を救済するため、仮の姿(権現)となって現われたのが日本の神である、という考え方である。天照大神{あまてらすおおみかみ}を大日如来{だいにちにょらい}の化身と考えるなど、それぞれの神に本地としての仏を特定することが行なわれた。権現も同様で、仏菩薩が衆生{しゅじょう:すべての生物}救済のため、神となって仮に姿を現わしたもので、蔵王{ざおう}権現や熊野権現がその例である。
平安時代は、政治的に非業の死を遂げる者も多かった。そこで、怨霊や疫神を慰めて祟りを逃れようとする御霊会{ごりょうえ}が開かれた。祇園社{ぎおんしゃ}<注3>と菅原道真を祀る北野神社のそれが有名である。
仏教は、浄土教が流行した。浄土教は、阿弥陀浄土への往生<注4>を願う信仰である。これが普及したのは末法思想という考えで、正法{しょうほう}・像法{ぞうほう}・末法という三時説のうち、仏法が衰える乱世に当たる末法の初年が1052年と考えられていたためである。空也{くうや}は10世紀半ばに念仏<注5>の功徳を京の市中で説き、源信{げんしん:恵心僧都{えしんそうず}とも}は985年に『往生要集』を著わして、念仏往生を説いた。空也を世人は市聖{いちのひじり}と呼んだ。聖は、公的な僧位・役職を持たない民間の宗教者である。また、良忍{りょうにん}は融通念仏宗の祖で、天台声明{しょうみょう}中興の祖でもある。
浄土教の流行により、往生集が多く作られた。往生集は、念仏信仰の功徳で浄土往生を遂げたとされる人々の伝記を集めたものである。慶滋保胤{よししげのやすたね}の『日本往生極楽記』、三善為康{みよしのためやす}の『拾遺往生伝』や『後拾遺往生伝』、大江匡房{おおえのまさふさ}の『続本朝往生伝』などがある。
注3> 1868年の神仏分離で八坂{やさか}神社と改称した。
注4> 死後に極楽浄土に生まれること。
注5> 極楽往生を願い、仏の姿を心に念じ、仏の名を口にすること。
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