2 二つの妖花(江青と葉群)
文革の拠点--中南海、毛家湾、釣魚台
北京の中心部の地図を頭に描いて見よう。天安門前を西長安街路に少し目を移すと、向かって左隣に中南海がある。これは中海と南海を合わせた呼称である。南海の入口が新華門である。天安門が中華人民共和国の象徴であるのに対して、新華門は党中央の象徴である。ここには中共中央の弁公室があり、国務院弁公室がある。新華門の入口には「人民に服務せよ」と書かれている。ここに中共中央主席毛沢東と国務院総理周恩来ら党政軍の幹部たちが居住し、かつ党務、国務を処理していた。劉少奇もむろんここに住んでいたから、劉少奇に対するつるし上げ大会(原文=批闘会)はここで行われた。
文革期に重要も役割を果たした建物があと二つある。一つは西城区西四大街にある毛家湾、ここには林彪と妻の葉群が住み、軍事委員会弁公室と代替した軍事委員会弁事組がおかれていた。
もう一つは釣魚台である。これは西城区にある旧清朝の園林だが、解放後は修理して迎賓館としていた。文革が始まると、中央文革小組がここを占領し、彼らの司令部として使った。釣魚台一一号楼の女主人が江青(毛沢東夫人)、一五号楼の主人が陳伯達(中央文革小組組長、九期政治局常務委員)、八号楼の主人が康生(中央文革小組顧問、八期九期政治局常務委員)、一六号楼に中央文革小組の事務所が置かれていた。
つまり、文革のドラマは中南海(毛沢東の中共中央、周恩来の国務院)、毛家湾(林彪の軍事委員会弁事組)、釣魚台(江青の中央文革小組)の三カ所四機関から出る指令によって展開されたわけである。以下で、文革の推進派として、「四人組」と林彪、標的として劉少奇の場合を描き、最後に、周恩来と鄧小平について若干触れることにしたい。
四人組の最重要人物・江青
“四人組”という言い方は、彼らが失脚してからの呼称である。文革期には文革精神の担い手として、大きな政治的影響力をもつかに見えた。しかし、毛沢東の死後、一カ月も経ずして粉砕されてしまった。
“四人組”のメンバーは、江青、張春橋、姚文元、王洪文である。このうち最重要人物は江青であり、他の三人は江青夫人の指図で動く形で政治局委員にまで昇格した印象が強い。つまり“四人組”といっても実は、江青プラスその他なのである。したがってここでは江青に焦点を当てることにしよう。
まず手許の『中華人民共和国資料手冊』(社会科学文献出版社、八六年)を開いて見ると、こう紹介してある。〔 〕内は私の注釈である。
江青(女)、一九一五年生まれ〔文革開始の六六年には五一歳であった〕。山東省諸城県の人、一九三三年青島で中国共産党に〔一八歳で〕入党した。山東実験戯曲学校の実験京劇団で学び、青島大学図書館で働いたことがある。その後上海に移り、業余〔業余とは、業務の余暇のこと〕劇社などの劇団、映画界に入り女優となる。上海で逮捕され、脱党したことがある。抗日戦争以後延安へ行って、魯迅芸術学院で教えた。〔ここで当然毛沢東と恋愛して結婚した事実が記載さるべきであるが、故意に省略されている〕。
建国初期に文化部映画事業指導委員会委員を務めた。一九六四年三期全国人民代表大会の代表となる。一九六六年文化大革命が始まるや「中央文革小組第一副組長」および「解放軍文革小組顧問」となる。中国共産党九期、一〇期政治局委員を務めた。
文化大革命においては、人民民主主義独裁を転覆する目的をもって、リーダーとして反革命集団を組織し、指導した。反革命集団事件の主犯であり、国家と人民にきわめて甚大な危害を与えた。〔一九七六年一〇月六日逮捕の記載はない〕。七七年七月一〇期三中全会で「ブルジョア階級の野心家、陰謀家、反革命両面派、叛徒江青の党籍を永遠に剥奪し、党内外の一切の職務を解任する」ことを決定した。一九八一年一月二五日、死刑判決を受けた。ただし八三年一月、無期懲役に減刑された(『中華人民共和国資料手冊』751 頁)。
江青の権力
江青について知るには、二冊の伝記がある。一冊はアメリカの女性ロクサヌ・ウィトケの書いた『江青同志』である(邦訳あり)。もう一冊は珠珊『江青秘伝』である。後者はまず「江青野史」として、香港『新晩報』に連載され(八〇年)、その後増補して『秘伝』となった。著者珠珊は朱仲麗の筆名であり、彼女は王稼祥夫人である(『中国老年』八八年八期)。朱仲麗は医者としてモスクワの精神病院に押し込められていた賀子珍(毛沢東の長征時代の夫人)を救出した経緯などから、江青を個人的にもよく知る立場にあった。
江青はかねてから政治的野心をもっていたといわれるが、具体的な政治活動を始めたのは一九六三年一二月、毛沢東が文芸問題についての指示を出して以来である。江青は当初北京で活動しようとしたが、彭真以下の北京市委員会の妨害に遇って果たせなかった。まもなく上海市委員会第一書記柯慶施の支持を得た。柯慶施は部下の張春橋を江青の助手につけ、さらに姚文元もこのグループに加えた。こうして姚文元によって、呉「海瑞罷官」批判論文が執筆されることになった。この活動はむろん毛沢東の支持のもとで行われた。江青は第二の仕事として、「部隊文芸工作座談会紀要」をまとめたが、この作成過程で、毛沢東は三度にわたって朱筆を入れている。この文書は「林彪の委託によって、江青がとりまとめた」とされている。ここに文革推進の両輪、すなわち林彪の軍事力と江青の口を通じて下達される毛沢東の文革イデオロギーとの結合という構図の原点が見られる。
江青が中央文革小組の第一副組長(まもなく組長陳伯達に代わって、事実上の組長の役割を演ずる)になったことについては、むろん毛沢東の賛同を得ている。これらの事実は毛沢東が江青夫人を積極的に起用したことを示している。この意味で江青の行動は基本的に毛沢東の責任であると見なければならない。
迫害狂--江青
毛沢東個人崇拝の高まるなかで、毛沢東夫人の地位は単に虎の威を借りる狸にとどまるものではなく、神格化された毛沢東から出される最高指示、最新指示の伝達者として否応なしに重要なものとならざるをえなかった。江青はまた元女優として、この政治的舞台で自らの役者としての武器を最大限に利用して、文革を推進して行ったのである。
江青を中心とするグループは当初は「海瑞罷官」批判、“三家村”批判、周揚批判などから知られるように、文革理論のスポークスマン的役割を果たしたが、陶鋳批判前後から文革が高度に政治的な奪権闘争に発展するに及んで、打倒すべきブラックリストを紅衛兵組織に指示して、紅衛兵運動の一部を操り人形のごとく操作するようになった。こうして一見大衆運動的偽装のもとに、実は中央文革小組──首都紅衛兵第三司令部(略称三司)という秘密のホットラインが運動を操作するというカラクリができたのであった。\
“四人組”裁判の起訴状公表に合わせて書かれた『解放軍報』(八〇年一二月九日)のルポは「迫害狂──江青」と題して主な迫害ケースを紹介している。たとえば六八年七月二一日、康生(中央文革小組顧問)が絶対秘密の手紙(原文=絶密信)を江青に届けた。その手紙は、第八回党大会で選ばれた中央委員のブラックリストであった。それによると、中央委員一九四名のうち、すでに死去した者、病弱な者三一名を除いて、九六名すなわち六割弱が×をつけられていた。罪状は「叛徒、特務、外国と結託した分子」などであった。このリストに基づいて、一方では実権派たたきを拡大し、他方では第九回党大会の中央委員リストを作成したのであった。
毛沢東夫人としての強力な権限
かつて魯迅は「暴君のもとでの臣民」と題したエッセイを書いて、暴君は「残酷さをもって娯楽となす。他人の苦悩を賞翫し、〔自らの〕慰安とする」と書いたことがある。江青はまさに魯迅の書いたような暴君であり、六七年七月一八日、中南海で劉少奇、王光美を闘争にかけ、六九年一〇月一七日に劉少奇を開封に護送したのは、江青の直接操縦するグループであったという。
江青はまた劉少奇冤罪事件をデッチ上げるために、解放前に王光美の学んでいた輔仁大学教授であった楊承祚、同大学の代理秘書長であった張重一などを迫害して死に至らしめ、さらに劉少奇が華北局書記であった当時の連絡部長王世英を死なせている。これらの事件について、「人面獣心の江青」は「冷酷残忍」であった。随意に他人をして死に至らしめることを無上の権力の象徴であると彼女はみなしていたと告発されている。
このルポに代表されるように、“四人組”裁判当時の江青非難は、彼女を「迫害狂」だとし、彼女の性格が「冷酷残忍」だから、こうした悲劇がもたらされたのであるかのごとく説明している。何が彼女をそうさせたのか。
彼女が生来、迫害狂なのかどうか、冷酷残忍なのかどうかは調べる手立てがない。しかし、おそらく問題はそこにはない。毛沢東夫人であるというそれだけの理由で、彼女は中央文革小組の副組長になることができたこと、この中央文革小組がまもなく政治局の機能に代替するほどの強力な権限をもつに至ったこと、がポイントであろう。そしてこれはまさに文化大革命を発動したためなのであり、おそらくほとんどの責任は毛沢東にあるといえよう。
文革のテロリズムと先祖返り現象
もう一つは中国の権力者がほとんど無限に近い権力をもつことである。私的なリンチは別として、正式に投獄し、裁判にかけるとすれば、その処理は司法当局に委ねられなければならない。しかし、中国共産党の支配のもとでは、「共産党の指導」「プロレタリア独裁」の名において、共産党が直接的に裁判に介入する。共産党の指導にしても、プロレタリア独裁にしても、革命の過程での一時的措置として、やむをえず採られたものであるはずだが、こうした革命時の非常手段がほとんど抵抗なしに受容されたことに中国社会のしたたかな古さを痛感させられる。革命的暴力が許されるという雰囲気が文革を包む中国の「小気候」であったわけである。
明朝の宦官独裁の時代には、東廠や錦衣衛といったテロ組織が体制を批判する者を手当たりしだいに殺害した。文革はこうした政治の先祖返り現象でもあるとする見方もある(『沈思』二巻、三三四頁)。
ただし、スターリンの粛清が秘密警察を用いた国家テロであったのに対して、文革は大衆独裁はいう大衆によるテロであった事実に注目する必要があろう。ここでは中国共産党の誇る大衆運動は大衆操作に堕落したのであった。\
林彪派と江青派
“四人組”は林彪グループの目から、見ると単なるモノカキにすぎなかった。林彪派の「五七一工程紀要」は、自らのグループに対して銃をもつ者(原文=槍杆子)を自称し、江青らをペンを持つ者(原文=筆杆子)と表現していた。江青グループがモノカキの理論家中心であったことは確かである。そして、これはまさに文化大革命の初期、中期においては重要な役割を果たした。しかし毛沢東の支えを失ったときに一挙に瓦解せざるをえなかった。彼らは毛沢東の文革理念を論文にまとめる側近グループ、あえていえば皇帝毛沢東の宦官としての役割を果たしたのであった。
では銃をもつ宦官たる林彪グループとペンをもつ宦官江青グループの関係はどうであったのか。張雲生の『毛家湾紀実──林彪秘書回憶録』(邦訳『林彪秘書回想録』)は、興味津々の事実に溢れている。林彪の妻葉群はしばしば釣魚台一一号楼の江青宅を訪れ、密談しているが、林彪自身は江青に対して、かなりの警戒心を抱いていた。六七年二月には毛家湾で林彪と江青が激論していことを林彪秘書が証言している。
葉群は江青との連絡を密にするだけではなく、中央文革小組顧問陳伯達宅もしばしば訪れている。七〇年秋の九期二中全会で、陳伯達は林彪グループの尖兵の形で処分されるが、イデオローグの陳伯達と林彪グループを結合させたのは、葉群なのであった。しかもそこには三文小説的なエピソードさえある。葉群は延安時代に教わったとの理由で、釣魚台一五号楼の陳伯達宅を訪れたが、寝室に押し掛け、ベッドで密談したことまで秘書に広言している。これが理由で陳伯達夫妻が別居する騒ぎになった。武漢事件(六七年七月)で王力、関鋒、戚本禹らが隔離処分された後、中央文革小組内で孤立し始めた陳伯達は林彪の助けを借り、林彪もまた理論家陳伯達の力を必要としていた。そこで葉群は空軍機を飛ばして上海蟹を運ばせ、陳伯達に届けてごきげんをとり結んだりしている。
権力者たちのプライバシー
林彪は康生(中央文革小組顧問)を当初は警戒していたが、六八年初夏あたりから、林彪と康生の関係が改善された。これを陳伯達が嫉妬するようになったと林彪秘書が書いている。葉群自身は陳伯達に親しみをもち、「先生」と尊敬していたが、康生に対しては親しみよりは畏敬していた。陳伯達は康生の関係は必ずしもよくなかったが、葉群は極力バランスをとってつきあおうとしていた。
第九回党大会以後、毛家湾と釣魚台との関係はますます複雑微妙になった。互いに騙し合いこそすれ、譲り合うことはなくなった。政治的傾向としてはどちらかというと釣魚台に不利だったが、彼らは他の人々の近寄ることのできない特殊な条件(毛沢東夫人としての立場)をもっていると自負していた。毛家湾と釣魚台との緊張関係は九期二中全会(七〇年八月二三日~九月六日)のころには白熱したものとなった。このバカ騒ぎの内幕はすでに世に知られたものよりもはるかに複雑である、と秘書が書いている。
なお、これまた三文小説的エピソードだが、葉群が秘書の張雲生に肉体関係を迫ったいきさつも、生々しく描かれている。葉群と総参謀長黄永勝とのアイマイな関係については、七〇年秋に二人が交わした愛の電話を葉群の長男林立果が盗聴録音したというエピソードも伝えられている(『在歴史的档案里──文革十年風雲録』)。中国権力者たちの私生活にも、奇々怪々なプライバシーがあったことがよく分かるが、私がもっと興味を抱くのは、失脚後にこれらのプライバシー(原文=隠私)が容赦なく暴露されることである。逆に権力を握った者たちは、その権力を用いて、歴史を改竄することはもちろん、真実を知る者の口を封じるために、殺害することさえ行っている(江青は上海時代の友人を迫害致死に至らしめた)。これが文化大革命のもう一つの側面であった。
周恩来、鄧小平 批判へ
概していえば、文の宦官と武の宦官との関係は、実権派の勢力が強かった初期段階では相互扶助であった。林彪は江青に「部隊文芸工作座談会紀要」のとりまとめを委託し、江青は中央軍事委員会文革小組の顧問となり、のちには解放軍文化工作の顧問も務めた。六七年一一月に第九回党大会についての意見を集めた際に、林彪が毛沢東の「親密な戦友」であり、「後継者」であると大会決議に書き込むよう強調したのは、江青であった。彼らはこうして林彪グループを支持し、その見返りを期待していた。しかし、第九回党大会以後は「権力の再配分」の矛盾が熾烈となった。九期二中全会で陳伯達が失脚し、葉群らが批判されたのは両者の権力闘争が爆発したことを示している。
ところで、林彪事件によって林彪グループが壊滅した後、江青らライバルは周恩来を中心とする実務派になる。江青らは「批林批孔」運動を通じて、現代の孔子すなわち周恩来批判に努めた。
一九七四年一月二四日および二五日、軍隊系統の「批林批孔」動員大会と党中央、国務院直属機関の「批林批孔」動員大会が開かれた。これは“四人組”裁判の前後に江青が毛沢東の意思に背いて開いたものとする解釈も行われたが、この会議の前後の毛沢東発言を点検した金春明は、毛沢東が周恩来の政治局工作、葉剣英の軍事委員会工作に不満を抱いていたことは明らかであり、矛先は彼らに向けられていたと書いている(金春明『論析』二〇〇~二〇二頁)。
事柄は「鄧小平 批判、右傾巻き返しへの反撃」闘争も同じであり、毛沢東は鄧小平 を得難い人材と評したわずか一〇カ月後に、悔い改めない実権派として再び批判している。しかも、これは明確な批判であり、江青への暖かい忠告とは異なると解している。つまり文化大革命の正しさを確信する毛沢東からすると、鄧小平の反文革的な整頓は許しがたいものであり、これを批判する江青らの活動を文革路線の堅持の観点から支持したわけである。
四人組の実態は五人組
この意味では、まさに“四人組”グループは最初から最後まで毛沢東の手足であったと見てよいのである。つまり“四人組”ではなく、実態は毛沢東を含めた“五人組”なのであった。その事実を率直に広言できなかったのは、むろん中国共産党にとっての毛沢東の占める位置の大きさのためにほかならない。
もっとも、一〇年にわたる江青グループのすべての行動を毛沢東が支持していたということではない。たとえば江青は一九三〇年代の自らの醜聞をもみ消すために、趙丹ら関係者を少なからず死地に追いやったが、これは醜聞が実権派の手を通じて毛沢東の耳に入ることを恐れたものであろう。 |