竪町(たてまち)の四つ角までくると今度は山嵐(やまあらし)に出っ喰(く)わした。どうも狭(せま)い所だ。出てあるきさえすれば必ず誰かに逢う。「おい君は宿直じゃないか」と聞くから「うん、宿直だ」と答えたら、「宿直が無暗(むやみ)に出てあるくなんて、不都合(ふつごう)じゃないか」と云った。「ちっとも不都合なもんか、出てあるかない方が不都合だ」と威張(いば)ってみせた。「君のずぼらにも困るな、校長か教頭に出逢うと面倒(めんどう)だぜ」と山嵐に似合わない事を云うから「校長にはたった今逢った。暑い時には散歩でもしないと宿直も骨でしょうと校長が、おれの散歩をほめたよ」と云って、面倒臭(くさ)いから、さっさと学校へ帰って来た。
それから日はすぐくれる。くれてから二時間ばかりは小使を宿直部屋へ呼んで話をしたが、それも飽(あ)きたから、寝られないまでも床(とこ)へはいろうと思って、寝巻に着換(きが)えて、蚊帳(かや)を捲(ま)くって、赤い毛布(けっと)を跳(は)ねのけて、とんと尻持(しりもち)を突(つ)いて、仰向(あおむ)けになった。おれが寝るときにとんと尻持をつくのは小供の時からの癖(くせ)だ。わるい癖だと云って小川町(おがわまち)の下宿に居た時分、二階下に居た法律学校の書生が苦情を持ち込(こ)んだ事がある。法律の書生なんてものは弱い癖に、やに口が達者なもので、愚(ぐ)な事を長たらしく述べ立てるから、寝る時にどんどん音がするのはおれの尻がわるいのじゃない。下宿の建築が粗末(そまつ)なんだ。掛(か)ケ合うなら下宿へ掛ケ合えと凹(へこ)ましてやった。この宿直部屋は二階じゃないから、いくら、どしんと倒(たお)れても構わない。なるべく勢(いきおい)よく倒れないと寝たような心持ちがしない。ああ愉快だと足をうんと延ばすと、何だか両足へ飛び付いた。ざらざらして蚤(のみ)のようでもないからこいつあと驚(おど)ろいて、足を二三度毛布(けっと)の中で振(ふ)ってみた。するとざらざらと当ったものが、急に殖(ふ)え出して脛(すね)が五六カ所、股(もも)が二三カ所、尻の下でぐちゃりと踏(ふ)み潰(つぶ)したのが一つ、臍(へそ)の所まで飛び上がったのが一つ――いよいよ驚ろいた。早速(さっそく)起き上(あが)って、毛布(けっと)をぱっと後ろへ抛(ほう)ると、蒲団の中から、バッタが五六十飛び出した。正体の知れない時は多少気味が悪(わ)るかったが、バッタと相場が極(き)まってみたら急に腹が立った。バッタの癖に人を驚ろかしやがって、どうするか見ろと、いきなり括(くく)り枕(まくら)を取って、二三度擲(たた)きつけたが、相手が小さ過ぎるから勢よく抛(な)げつける割に利目(ききめ)がない。仕方がないから、また布団の上へ坐(すわ)って、煤掃(すすはき)の時に蓙(ござ)を丸めて畳(たたみ)を叩(たた)くように、そこら近辺を無暗にたたいた。バッタが驚ろいた上に、枕の勢で飛び上がるものだから、おれの肩(かた)だの、頭だの鼻の先だのへくっ付いたり、ぶつかったりする。顔へ付いた奴(やつ)は枕で叩く訳に行かないから、手で攫(つか)んで、一生懸命に擲きつける。忌々(いまいま)しい事に、いくら力を出しても、ぶつかる先が蚊帳だから、ふわりと動くだけで少しも手答がない。バッタは擲きつけられたまま蚊帳へつらまっている。死にもどうもしない。ようやくの事に三十分ばかりでバッタは退治(たいじ)た。箒(ほうき)を持って来てバッタの死骸(しがい)を掃き出した。小使が来て何ですかと云うから、何ですかもあるもんか、バッタを床の中に飼(か)っとく奴がどこの国にある。間抜(まぬけ)め。と叱(しか)ったら、私は存じませんと弁解をした。存じませんで済むかと箒を椽側(えんがわ)へ抛(ほう)り出したら、小使は恐る恐る箒を担いで帰って行った。
おれは早速寄宿生を三人ばかり総代に呼び出した。すると六人出て来た。六人だろうが十人だろうが構うものか。寝巻のまま腕(うで)まくりをして談判を始めた。
「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」
「バッタた何ぞな」と真先(まっさき)の一人がいった。やに落ち付いていやがる。この学校じゃ校長ばかりじゃない、生徒まで曲りくねった言葉を使うんだろう。
「バッタを知らないのか、知らなけりゃ見せてやろう」と云ったが、生憎(あいにく)掃き出してしまって一匹(ぴき)も居ない。また小使を呼んで、「さっきのバッタを持ってこい」と云ったら、「もう掃溜(はきだめ)へ棄(す)ててしまいましたが、拾って参りましょうか」と聞いた。「うんすぐ拾って来い」と云うと小使は急いで馳(か)け出したが、やがて半紙の上へ十匹ばかり載(の)せて来て「どうもお気の毒ですが、生憎夜でこれだけしか見当りません。あしたになりましたらもっと拾って参ります」と云う。小使まで馬鹿(ばか)だ。おれはバッタの一つを生徒に見せて「バッタたこれだ、大きなずう体をして、バッタを知らないた、何の事だ」と云うと、一番左の方に居た顔の丸い奴が「そりゃ、イナゴぞな、もし」と生意気におれを遣(や)り込(こ)めた。「篦棒(べらぼう)め、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生を捕(つら)まえてなもした何だ。菜飯(なめし)は田楽(でんがく)の時より外に食うもんじゃない」とあべこべに遣り込めてやったら「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」と云った。いつまで行ってもなもしを使う奴だ。
「イナゴでもバッタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。おれがいつ、バッタを入れてくれと頼(たの)んだ」
「誰も入れやせんがな」
「入れないものが、どうして床の中に居るんだ」
「イナゴは温(ぬく)い所が好きじゃけれ、大方一人でおはいりたのじゃあろ」
「馬鹿あ云え。バッタが一人でおはいりになるなんて――バッタにおはいりになられてたまるもんか。――さあなぜこんないたずらをしたか、云え」
「云えてて、入れんものを説明しようがないがな」 |