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楼主: 多拉爱梦78

有谁能提供夏目漱石の<坊ちゃん>の原文

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发表于 2006-9-23 00:18:41 | 显示全部楼层
竪町(たてまち)の四つ角までくると今度は山嵐(やまあらし)に出っ喰(く)わした。どうも狭(せま)い所だ。出てあるきさえすれば必ず誰かに逢う。「おい君は宿直じゃないか」と聞くから「うん、宿直だ」と答えたら、「宿直が無暗(むやみ)に出てあるくなんて、不都合(ふつごう)じゃないか」と云った。「ちっとも不都合なもんか、出てあるかない方が不都合だ」と威張(いば)ってみせた。「君のずぼらにも困るな、校長か教頭に出逢うと面倒(めんどう)だぜ」と山嵐に似合わない事を云うから「校長にはたった今逢った。暑い時には散歩でもしないと宿直も骨でしょうと校長が、おれの散歩をほめたよ」と云って、面倒臭(くさ)いから、さっさと学校へ帰って来た。
 それから日はすぐくれる。くれてから二時間ばかりは小使を宿直部屋へ呼んで話をしたが、それも飽(あ)きたから、寝られないまでも床(とこ)へはいろうと思って、寝巻に着換(きが)えて、蚊帳(かや)を捲(ま)くって、赤い毛布(けっと)を跳(は)ねのけて、とんと尻持(しりもち)を突(つ)いて、仰向(あおむ)けになった。おれが寝るときにとんと尻持をつくのは小供の時からの癖(くせ)だ。わるい癖だと云って小川町(おがわまち)の下宿に居た時分、二階下に居た法律学校の書生が苦情を持ち込(こ)んだ事がある。法律の書生なんてものは弱い癖に、やに口が達者なもので、愚(ぐ)な事を長たらしく述べ立てるから、寝る時にどんどん音がするのはおれの尻がわるいのじゃない。下宿の建築が粗末(そまつ)なんだ。掛(か)ケ合うなら下宿へ掛ケ合えと凹(へこ)ましてやった。この宿直部屋は二階じゃないから、いくら、どしんと倒(たお)れても構わない。なるべく勢(いきおい)よく倒れないと寝たような心持ちがしない。ああ愉快だと足をうんと延ばすと、何だか両足へ飛び付いた。ざらざらして蚤(のみ)のようでもないからこいつあと驚(おど)ろいて、足を二三度毛布(けっと)の中で振(ふ)ってみた。するとざらざらと当ったものが、急に殖(ふ)え出して脛(すね)が五六カ所、股(もも)が二三カ所、尻の下でぐちゃりと踏(ふ)み潰(つぶ)したのが一つ、臍(へそ)の所まで飛び上がったのが一つ――いよいよ驚ろいた。早速(さっそく)起き上(あが)って、毛布(けっと)をぱっと後ろへ抛(ほう)ると、蒲団の中から、バッタが五六十飛び出した。正体の知れない時は多少気味が悪(わ)るかったが、バッタと相場が極(き)まってみたら急に腹が立った。バッタの癖に人を驚ろかしやがって、どうするか見ろと、いきなり括(くく)り枕(まくら)を取って、二三度擲(たた)きつけたが、相手が小さ過ぎるから勢よく抛(な)げつける割に利目(ききめ)がない。仕方がないから、また布団の上へ坐(すわ)って、煤掃(すすはき)の時に蓙(ござ)を丸めて畳(たたみ)を叩(たた)くように、そこら近辺を無暗にたたいた。バッタが驚ろいた上に、枕の勢で飛び上がるものだから、おれの肩(かた)だの、頭だの鼻の先だのへくっ付いたり、ぶつかったりする。顔へ付いた奴(やつ)は枕で叩く訳に行かないから、手で攫(つか)んで、一生懸命に擲きつける。忌々(いまいま)しい事に、いくら力を出しても、ぶつかる先が蚊帳だから、ふわりと動くだけで少しも手答がない。バッタは擲きつけられたまま蚊帳へつらまっている。死にもどうもしない。ようやくの事に三十分ばかりでバッタは退治(たいじ)た。箒(ほうき)を持って来てバッタの死骸(しがい)を掃き出した。小使が来て何ですかと云うから、何ですかもあるもんか、バッタを床の中に飼(か)っとく奴がどこの国にある。間抜(まぬけ)め。と叱(しか)ったら、私は存じませんと弁解をした。存じませんで済むかと箒を椽側(えんがわ)へ抛(ほう)り出したら、小使は恐る恐る箒を担いで帰って行った。
 おれは早速寄宿生を三人ばかり総代に呼び出した。すると六人出て来た。六人だろうが十人だろうが構うものか。寝巻のまま腕(うで)まくりをして談判を始めた。
「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」
「バッタた何ぞな」と真先(まっさき)の一人がいった。やに落ち付いていやがる。この学校じゃ校長ばかりじゃない、生徒まで曲りくねった言葉を使うんだろう。
「バッタを知らないのか、知らなけりゃ見せてやろう」と云ったが、生憎(あいにく)掃き出してしまって一匹(ぴき)も居ない。また小使を呼んで、「さっきのバッタを持ってこい」と云ったら、「もう掃溜(はきだめ)へ棄(す)ててしまいましたが、拾って参りましょうか」と聞いた。「うんすぐ拾って来い」と云うと小使は急いで馳(か)け出したが、やがて半紙の上へ十匹ばかり載(の)せて来て「どうもお気の毒ですが、生憎夜でこれだけしか見当りません。あしたになりましたらもっと拾って参ります」と云う。小使まで馬鹿(ばか)だ。おれはバッタの一つを生徒に見せて「バッタたこれだ、大きなずう体をして、バッタを知らないた、何の事だ」と云うと、一番左の方に居た顔の丸い奴が「そりゃ、イナゴぞな、もし」と生意気におれを遣(や)り込(こ)めた。「篦棒(べらぼう)め、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生を捕(つら)まえてなもした何だ。菜飯(なめし)は田楽(でんがく)の時より外に食うもんじゃない」とあべこべに遣り込めてやったら「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」と云った。いつまで行ってもなもしを使う奴だ。
「イナゴでもバッタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。おれがいつ、バッタを入れてくれと頼(たの)んだ」
「誰も入れやせんがな」
「入れないものが、どうして床の中に居るんだ」
「イナゴは温(ぬく)い所が好きじゃけれ、大方一人でおはいりたのじゃあろ」
「馬鹿あ云え。バッタが一人でおはいりになるなんて――バッタにおはいりになられてたまるもんか。――さあなぜこんないたずらをしたか、云え」
「云えてて、入れんものを説明しようがないがな」
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发表于 2006-9-23 00:19:06 | 显示全部楼层
けちな奴等(やつら)だ。自分で自分のした事が云えないくらいなら、てんでしないがいい。証拠(しょうこ)さえ挙がらなければ、しらを切るつもりで図太く構えていやがる。おれだって中学に居た時分は少しはいたずらもしたもんだ。しかしだれがしたと聞かれた時に、尻込みをするような卑怯(ひきょう)な事はただの一度もなかった。したものはしたので、しないものはしないに極(きま)ってる。おれなんぞは、いくら、いたずらをしたって潔白なものだ。嘘を吐(つ)いて罰(ばつ)を逃(に)げるくらいなら、始めからいたずらなんかやるものか。いたずらと罰はつきもんだ。罰があるからいたずらも心持ちよく出来る。いたずらだけで罰はご免蒙(めんこうむ)るなんて下劣(げれつ)な根性がどこの国に流行(はや)ると思ってるんだ。金は借りるが、返す事はご免だと云う連中はみんな、こんな奴等が卒業してやる仕事に相違(そうい)ない。全体中学校へ何しにはいってるんだ。学校へはいって、嘘を吐いて、胡魔化(ごまか)して、陰(かげ)でこせこせ生意気な悪いたずらをして、そうして大きな面で卒業すれば教育を受けたもんだと癇違(かんちが)いをしていやがる。話せない雑兵(ぞうひょう)だ。
 おれはこんな腐(くさ)った了見(りょうけん)の奴等と談判するのは胸糞(むなくそ)が悪(わ)るいから、「そんなに云われなきゃ、聞かなくっていい。中学校へはいって、上品も下品も区別が出来ないのは気の毒なものだ」と云って六人を逐(お)っ放(ぱな)してやった。おれは言葉や様子こそあまり上品じゃないが、心はこいつらよりも遥(はる)かに上品なつもりだ。六人は悠々(ゆうゆう)と引き揚(あ)げた。上部(うわべ)だけは教師のおれよりよっぽどえらく見える。実は落ち付いているだけなお悪るい。おれには到底(とうてい)これほどの度胸はない。
 それからまた床へはいって横になったら、さっきの騒動(そうどう)で蚊帳の中はぶんぶん唸(うな)っている。手燭(てしょく)をつけて一匹ずつ焼くなんて面倒な事は出来ないから、釣手(つりて)をはずして、長く畳(たた)んでおいて部屋の中で横竪(よこたて)十文字に振(ふる)ったら、環(かん)が飛んで手の甲(こう)をいやというほど撲(ぶ)った。三度目に床へはいった時は少々落ち付いたがなかなか寝られない。時計を見ると十時半だ。考えてみると厄介な所へ来たもんだ。一体中学の先生なんて、どこへ行っても、こんなものを相手にするなら気の毒なものだ。よく先生が品切れにならない。よっぽど辛防(しんぼう)強い朴念仁(ぼくねんじん)がなるんだろう。おれには到底やり切れない。それを思うと清(きよ)なんてのは見上げたものだ。教育もない身分もない婆(ばあ)さんだが、人間としてはすこぶる尊(たっ)とい。今まではあんなに世話になって別段難有(ありがた)いとも思わなかったが、こうして、一人で遠国へ来てみると、始めてあの親切がわかる。越後(えちご)の笹飴(ささあめ)が食いたければ、わざわざ越後まで買いに行って食わしてやっても、食わせるだけの価値は充分(じゅうぶん)ある。清はおれの事を欲がなくって、真直(まっすぐ)な気性だと云って、ほめるが、ほめられるおれよりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。何だか清に逢いたくなった。
 清の事を考えながら、のつそつしていると、突然(とつぜん)おれの頭の上で、数で云ったら三四十人もあろうか、二階が落っこちるほどどん、どん、どんと拍子(ひょうし)を取って床板を踏みならす音がした。すると足音に比例した大きな鬨(とき)の声が起(おこ)った。おれは何事が持ち上がったのかと驚ろいて飛び起きた。飛び起きる途端(とたん)に、ははあさっきの意趣返(いしゅがえ)しに生徒があばれるのだなと気がついた。手前のわるい事は悪るかったと言ってしまわないうちは罪は消えないもんだ。わるい事は、手前達に覚(おぼえ)があるだろう。本来なら寝てから後悔(こうかい)してあしたの朝でもあやまりに来るのが本筋だ。たとい、あやまらないまでも恐れ入って、静粛(せいしゅく)に寝ているべきだ。それを何だこの騒(さわ)ぎは。寄宿舎を建てて豚(ぶた)でも飼っておきあしまいし。気狂(きちが)いじみた真似(まね)も大抵(たいてい)にするがいい。どうするか見ろと、寝巻のまま宿直部屋を飛び出して、楷子段(はしごだん)を三股半(みまたはん)に二階まで躍(おど)り上がった。すると不思議な事に、今まで頭の上で、たしかにどたばた暴れていたのが、急に静まり返って、人声どころか足音もしなくなった。これは妙だ。ランプはすでに消してあるから、暗くてどこに何が居るか判然と分(わか)らないが、人気(ひとけ)のあるとないとは様子でも知れる。長く東から西へ貫(つらぬ)いた廊下(ろうか)には鼠(ねずみ)一匹(ぴき)も隠(かく)れていない。廊下のはずれから月がさして、遥か向うが際どく明るい。どうも変だ、おれは小供の時から、よく夢(ゆめ)を見る癖があって、夢中(むちゅう)に跳ね起きて、わからぬ寝言を云って、人に笑われた事がよくある。十六七の時ダイヤモンドを拾った夢を見た晩なぞは、むくりと立ち上がって、そばに居た兄に、今のダイヤモンドはどうしたと、非常な勢(いきおい)で尋(たず)ねたくらいだ。その時は三日ばかりうち中(じゅう)の笑い草になって大いに弱った。ことによると今のも夢かも知れない。しかしたしかにあばれたに違いないがと、廊下の真中(まんなか)で考え込んでいると、月のさしている向うのはずれで、一二三わあと、三四十人の声がかたまって響(ひび)いたかと思う間もなく、前のように拍子を取って、一同が床板(ゆかいた)を踏み鳴らした。それ見ろ夢じゃないやっぱり事実だ。静かにしろ、夜なかだぞ、とこっちも負けんくらいな声を出して、廊下を向うへ馳(か)けだした。おれの通る路(みち)は暗い、ただはずれに見える月あかりが目標(めじるし)だ。おれが馳け出して二間も来たかと思うと、廊下の真中で、堅(かた)い大きなものに向脛(むこうずね)をぶつけて、あ痛いが頭へひびく間に、身体はすとんと前へ抛(ほう)り出された。こん畜生(ちきしょう)と起き上がってみたが、馳けられない。気はせくが、足だけは云う事を利かない。じれったいから、一本足で飛んで来たら、もう足音も人声も静まり返って、森(しん)としている。いくら人間が卑怯だって、こんなに卑怯に出来るものじゃない。まるで豚だ。こうなれば隠れている奴を引きずり出して、あやまらせてやるまではひかないぞと、心を極(き)めて寝室(しんしつ)の一つを開けて中を検査しようと思ったが開かない。錠(じょう)をかけてあるのか、机か何か積んで立て懸(か)けてあるのか、押(お)しても、押しても決して開かない。今度は向う合せの北側の室(へや)を試みた。開かない事はやっぱり同然である。おれが戸を開けて中に居る奴を引っ捕(つ)らまえてやろうと、焦慮(いらっ)てると、また東のはずれで鬨の声と足拍子が始まった。この野郎(やろう)申し合せて、東西相応じておれを馬鹿にする気だな、とは思ったがさてどうしていいか分らない。正直に白状してしまうが、おれは勇気のある割合に智慧(ちえ)が足りない。こんな時にはどうしていいかさっぱりわからない。わからないけれども、決して負けるつもりはない。このままに済ましてはおれの顔にかかわる。江戸(えど)っ子は意気地(いくじ)がないと云われるのは残念だ。宿直をして鼻垂(はなった)れ小僧(こぞう)にからかわれて、手のつけようがなくって、仕方がないから泣き寝入りにしたと思われちゃ一生の名折れだ。これでも元は旗本(はたもと)だ。旗本の元は清和源氏(せいわげんじ)で、多田(ただ)の満仲(まんじゅう)の後裔(こうえい)だ。こんな土百姓(どびゃくしょう)とは生まれからして違うんだ。ただ智慧のないところが惜しいだけだ。どうしていいか分らないのが困るだけだ。困ったって負けるものか。正直だから、どうしていいか分らないんだ。世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考えてみろ。今夜中に勝てなければ、あした勝つ。あした勝てなければ、あさって勝つ。あさって勝てなければ、下宿から弁当を取り寄せて勝つまでここに居る。おれはこう決心をしたから、廊下の真中へあぐらをかいて夜のあけるのを待っていた。蚊がぶんぶん来たけれども何ともなかった。さっき、ぶつけた向脛を撫(な)でてみると、何だかぬらぬらする。血が出るんだろう。血なんか出たければ勝手に出るがいい。そのうち最前からの疲(つか)れが出て、ついうとうと寝てしまった。何だか騒がしいので、眼(め)が覚めた時はえっ糞(くそ)しまったと飛び上がった。おれの坐(すわ)ってた右側にある戸が半分あいて、生徒が二人、おれの前に立っている。おれは正気に返って、はっと思う途端に、おれの鼻の先にある生徒の足を引(ひ)っ攫(つか)んで、力任せにぐいと引いたら、そいつは、どたりと仰向(あおむけ)に倒れた。ざまを見ろ。残る一人がちょっと狼狽(ろうばい)したところを、飛びかかって、肩を抑(おさ)えて二三度こづき廻したら、あっけに取られて、眼をぱちぱちさせた。さあおれの部屋まで来いと引っ立てると、弱虫だと見えて、一も二もなく尾(つ)いて来た。夜(よ)はとうにあけている。
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发表于 2006-9-23 00:20:37 | 显示全部楼层
おれが宿直部屋へ連れてきた奴を詰問(きつもん)し始めると、豚は、打(ぶ)っても擲いても豚だから、ただ知らんがなで、どこまでも通す了見と見えて、けっして白状しない。そのうち一人来る、二人来る、だんだん二階から宿直部屋へ集まってくる。見るとみんな眠(ねむ)そうに瞼(まぶた)をはらしている。けちな奴等だ。一晩ぐらい寝ないで、そんな面をして男と云われるか。面でも洗って議論に来いと云ってやったが、誰も面を洗いに行かない。
 おれは五十人あまりを相手に約一時間ばかり押問答(おしもんどう)をしていると、ひょっくり狸がやって来た。あとから聞いたら、小使が学校に騒動がありますって、わざわざ知らせに行ったのだそうだ。これしきの事に、校長を呼ぶなんて意気地がなさ過ぎる。それだから中学校の小使なんぞをしてるんだ。
 校長はひと通りおれの説明を聞いた。生徒の言草(いいぐさ)もちょっと聞いた。追って処分するまでは、今まで通り学校へ出ろ。早く顔を洗って、朝飯を食わないと時間に間に合わないから、早くしろと云って寄宿生をみんな放免(ほうめん)した。手温(てぬ)るい事だ。おれなら即席(そくせき)に寄宿生をことごとく退校してしまう。こんな悠長(ゆうちょう)な事をするから生徒が宿直員を馬鹿にするんだ。その上おれに向って、あなたもさぞご心配でお疲れでしょう、今日はご授業に及(およ)ばんと云うから、おれはこう答えた。「いえ、ちっとも心配じゃありません。こんな事が毎晩あっても、命のある間は心配にゃなりません。授業はやります、一晩ぐらい寝なくって、授業が出来ないくらいなら、頂戴(ちょうだい)した月給を学校の方へ割戻(わりもど)します」校長は何と思ったものか、しばらくおれの顔を見つめていたが、しかし顔が大分はれていますよと注意した。なるほど何だか少々重たい気がする。その上べた一面痒(かゆ)い。蚊がよっぽと刺(さ)したに相違ない。おれは顔中ぼりぼり掻(か)きながら、顔はいくら膨(は)れたって、口はたしかにきけますから、授業には差し支(つか)えませんと答えた。校長は笑いながら、大分元気ですねと賞(ほ)めた。実を云うと賞めたんじゃあるまい、ひやかしたんだろう。


 君釣(つ)りに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。赤シャツは気味の悪(わ)るいように優しい声を出す男である。まるで男だか女だか分(わか)りゃしない。男なら男らしい声を出すもんだ。ことに大学卒業生じゃないか。物理学校でさえおれくらいな声が出るのに、文学士がこれじゃ見っともない。
 おれはそうですなあと少し進まない返事をしたら、君釣をした事がありますかと失敬な事を聞く。あんまりないが、子供の時、小梅(こうめ)の釣堀(つりぼり)で鮒(ふな)を三匹(びき)釣った事がある。それから神楽坂(かぐらざか)の毘沙門(びしゃもん)の縁日(えんにち)で八寸ばかりの鯉(こい)を針で引っかけて、しめたと思ったら、ぽちゃりと落としてしまったがこれは今考えても惜(お)しいと云(い)ったら、赤シャツは顋(あご)を前の方へ突(つ)き出してホホホホと笑った。何もそう気取って笑わなくっても、よさそうな者だ。「それじゃ、まだ釣りの味は分らんですな。お望みならちと伝授しましょう」とすこぶる得意である。だれがご伝授をうけるものか。一体釣や猟(りょう)をする連中はみんな不人情な人間ばかりだ。不人情でなくって、殺生(せっしょう)をして喜ぶ訳がない。魚だって、鳥だって殺されるより生きてる方が楽に極(き)まってる。釣や猟をしなくっちゃ活計(かっけい)がたたないなら格別だが、何不足なく暮(くら)している上に、生き物を殺さなくっちゃ寝られないなんて贅沢(ぜいたく)な話だ。こう思ったが向(むこ)うは文学士だけに口が達者だから、議論じゃ叶(かな)わないと思って、だまってた。すると先生このおれを降参させたと疳違(かんちが)いして、早速伝授しましょう。おひまなら、今日どうです、いっしょに行っちゃ。吉川(よしかわ)君と二人(ふたり)ぎりじゃ、淋(さむ)しいから、来たまえとしきりに勧める。吉川君というのは画学の教師で例の野だいこの事だ。この野だは、どういう了見(りょうけん)だか、赤シャツのうちへ朝夕出入(でいり)して、どこへでも随行(ずいこう)して行(ゆ)く。まるで同輩(どうはい)じゃない。主従(しゅうじゅう)みたようだ。赤シャツの行く所なら、野だは必ず行くに極(きま)っているんだから、今さら驚(おど)ろきもしないが、二人で行けば済むところを、なんで無愛想(ぶあいそ)のおれへ口を掛(か)けたんだろう。大方高慢(こうまん)ちきな釣道楽で、自分の釣るところをおれに見せびらかすつもりかなんかで誘(さそ)ったに違いない。そんな事で見せびらかされるおれじゃない。鮪(まぐろ)の二匹や三匹釣ったって、びくともするもんか。おれだって人間だ、いくら下手(へた)だって糸さえ卸(おろ)しゃ、何かかかるだろう、ここでおれが行かないと、赤シャツの事だから、下手だから行かないんだ、嫌(きら)いだから行かないんじゃないと邪推(じゃすい)するに相違(そうい)ない。おれはこう考えたから、行きましょうと答えた。それから、学校をしまって、一応うちへ帰って、支度(したく)を整えて、停車場で赤シャツと野だを待ち合せて浜(はま)へ行った。船頭は一人(ひとり)で、船(ふね)は細長い東京辺では見た事もない恰好(かっこう)である。さっきから船中見渡(みわた)すが釣竿(つりざお)が一本も見えない。釣竿なしで釣が出来るものか、どうする了見だろうと、野だに聞くと、沖釣(おきづり)には竿は用いません、糸だけでげすと顋を撫(な)でて黒人(くろうと)じみた事を云った。こう遣(や)り込(こ)められるくらいならだまっていればよかった。
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发表于 2006-9-23 00:21:12 | 显示全部楼层
船頭はゆっくりゆっくり漕(こ)いでいるが熟練は恐(おそろ)しいもので、見返(みか)えると、浜が小さく見えるくらいもう出ている。高柏寺(こうはくじ)の五重の塔(とう)が森の上へ抜(ぬ)け出して針のように尖(とん)がってる。向側(むこうがわ)を見ると青嶋(あおしま)が浮いている。これは人の住まない島だそうだ。よく見ると石と松(まつ)ばかりだ。なるほど石と松ばかりじゃ住めっこない。赤シャツは、しきりに眺望(ちょうぼう)していい景色だと云ってる。野だは絶景でげすと云ってる。絶景だか何だか知らないが、いい心持ちには相違ない。ひろびろとした海の上で、潮風に吹(ふ)かれるのは薬だと思った。いやに腹が減る。「あの松を見たまえ、幹が真直(まっすぐ)で、上が傘(かさ)のように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙(だま)っていた。舟は島を右に見てぐるりと廻(まわ)った。波は全くない。これで海だとは受け取りにくいほど平(たいら)だ。赤シャツのお陰(かげ)ではなはだ愉快(ゆかい)だ。出来る事なら、あの島の上へ上がってみたいと思ったから、あの岩のある所へは舟はつけられないんですかと聞いてみた。つけられん事もないですが、釣をするには、あまり岸じゃいけないですと赤シャツが異議を申し立てた。おれは黙ってた。すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかと余計な発議(ほつぎ)をした。赤シャツはそいつは面白い、吾々(われわれ)はこれからそう云おうと賛成した。この吾々のうちにおれもはいってるなら迷惑(めいわく)だ。おれには青嶋でたくさんだ。あの岩の上に、どうです、ラフハエルのマドンナを置いちゃ。いい画が出来ますぜと野だが云うと、マドンナの話はよそうじゃないかホホホホと赤シャツが気味の悪るい笑い方をした。なに誰も居ないから大丈夫(だいじょうぶ)ですと、ちょっとおれの方を見たが、わざと顔をそむけてにやにやと笑った。おれは何だかやな心持ちがした。マドンナだろうが、小旦那(こだんな)だろうが、おれの関係した事でないから、勝手に立たせるがよかろうが、人に分らない事を言って分らないから聞いたって構やしませんてえような風をする。下品な仕草だ。これで当人は私(わたし)も江戸(えど)っ子でげすなどと云ってる。マドンナと云うのは何でも赤シャツの馴染(なじみ)の芸者の渾名(あだな)か何かに違いないと思った。なじみの芸者を無人島の松の木の下に立たして眺(なが)めていれば世話はない。それを野だが油絵にでもかいて展覧会へ出したらよかろう。
 ここいらがいいだろうと船頭は船をとめて、錨(いかり)を卸した。幾尋(いくひろ)あるかねと赤シャツが聞くと、六尋(むひろ)ぐらいだと云う。六尋ぐらいじゃ鯛(たい)はむずかしいなと、赤シャツは糸を海へなげ込んだ。大将鯛を釣る気と見える、豪胆(ごうたん)なものだ。野だは、なに教頭のお手際じゃかかりますよ。それになぎですからとお世辞を云いながら、これも糸を繰(く)り出して投げ入れる。何だか先に錘(おもり)のような鉛(なまり)がぶら下がってるだけだ。浮(うき)がない。浮がなくって釣をするのは寒暖計なしで熱度をはかるようなものだ。おれには到底(とうてい)出来ないと見ていると、さあ君もやりたまえ糸はありますかと聞く。糸はあまるほどあるが、浮がありませんと云ったら、浮がなくっちゃ釣が出来ないのは素人(しろうと)ですよ。こうしてね、糸が水底(みずそこ)へついた時分に、船縁(ふなべり)の所で人指しゆびで呼吸をはかるんです、食うとすぐ手に答える。――そらきた、と先生急に糸をたぐり始めるから、何かかかったと思ったら何にもかからない、餌(え)がなくなってたばかりだ。いい気味(きび)だ。教頭、残念な事をしましたね、今のはたしかに大ものに違いなかったんですが、どうも教頭のお手際でさえ逃(に)げられちゃ、今日は油断ができませんよ。しかし逃げられても何ですね。浮と睨(にら)めくらをしている連中よりはましですね。ちょうど歯どめがなくっちゃ自転車へ乗れないのと同程度ですからねと野だは妙(みよう)な事ばかり喋舌(しゃべ)る。よっぽど撲(なぐ)りつけてやろうかと思った。おれだって人間だ、教頭ひとりで借り切った海じゃあるまいし。広い所だ。鰹(かつお)の一匹ぐらい義理にだって、かかってくれるだろうと、どぼんと錘と糸を抛(ほう)り込んでいい加減に指の先であやつっていた。
 しばらくすると、何だかぴくぴくと糸にあたるものがある。おれは考えた。こいつは魚に相違ない。生きてるものでなくっちゃ、こうぴくつく訳がない。しめた、釣れたとぐいぐい手繰(たぐ)り寄せた。おや釣れましたかね、後世恐(おそ)るべしだと野だがひやかすうち、糸はもう大概手繰り込んでただ五尺ばかりほどしか、水に浸(つ)いておらん。船縁から覗(のぞ)いてみたら、金魚のような縞(しま)のある魚が糸にくっついて、右左へ漾(ただよ)いながら、手に応じて浮き上がってくる。面白い。水際から上げるとき、ぽちゃりと跳(は)ねたから、おれの顔は潮水だらけになった。ようやくつらまえて、針をとろうとするがなかなか取れない。捕(つら)まえた手はぬるぬるする。大いに気味がわるい。面倒だから糸を振(ふ)って胴(どう)の間(ま)へ擲(たた)きつけたら、すぐ死んでしまった。赤シャツと野だは驚ろいて見ている。おれは海の中で手をざぶざぶと洗って、鼻の先へあてがってみた。まだ腥臭(なまぐさ)い。もう懲(こ)り懲(ご)りだ。何が釣れたって魚は握(にぎ)りたくない。魚も握られたくなかろう。そうそう糸を捲いてしまった。
 一番槍(いちばんやり)はお手柄(てがら)だがゴルキじゃ、と野だがまた生意気を云うと、ゴルキと云うと露西亜(ロシア)の文学者みたような名だねと赤シャツが洒落(しゃれ)た。そうですね、まるで露西亜の文学者ですねと野だはすぐ賛成しやがる。ゴルキが露西亜の文学者で、丸木が芝(しば)の写真師で、米のなる木が命の親だろう。一体この赤シャツはわるい癖(くせ)だ。誰(だれ)を捕(つら)まえても片仮名の唐人(とうじん)の名を並べたがる。人にはそれぞれ専門があったものだ。おれのような数学の教師にゴルキだか車力(しゃりき)だか見当がつくものか、少しは遠慮(えんりょ)するがいい。云(い)うならフランクリンの自伝だとかプッシング、ツー、ゼ、フロントだとか、おれでも知ってる名を使うがいい。赤シャツは時々帝国文学とかいう真赤(まっか)な雑誌を学校へ持って来て難有(ありがた)そうに読んでいる。山嵐(やまあらし)に聞いてみたら、赤シャツの片仮名はみんなあの雑誌から出るんだそうだ。帝国文学も罪な雑誌だ。
 それから赤シャツと野だは一生懸命(いっしょうけんめい)に釣っていたが、約一時間ばかりのうちに二人(ふたり)で十五六上げた。可笑(おか)しい事に釣れるのも、釣れるのも、みんなゴルキばかりだ。鯛なんて薬にしたくってもありゃしない。今日は露西亜文学の大当りだと赤シャツが野だに話している。あなたの手腕(しゅわん)でゴルキなんですから、私(わたし)なんぞがゴルキなのは仕方がありません。当り前ですなと野だが答えている。船頭に聞くとこの小魚は骨が多くって、まずくって、とても食えないんだそうだ。ただ肥料(こやし)には出来るそうだ。赤シャツと野だは一生懸命に肥料を釣っているんだ。気の毒の至りだ。おれは一匹(ぴき)で懲(こ)りたから、胴の間へ仰向(あおむ)けになって、さっきから大空を眺めていた。釣をするよりこの方がよっぽど洒落(しゃれ)ている。
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发表于 2006-9-23 00:22:01 | 显示全部楼层
すると二人は小声で何か話し始めた。おれにはよく聞(きこ)えない、また聞きたくもない。おれは空を見ながら清(きよ)の事を考えている。金があって、清をつれて、こんな奇麗(きれい)な所へ遊びに来たらさぞ愉快だろう。いくら景色がよくっても野だなどといっしょじゃつまらない。清は皺苦茶(しわくちゃ)だらけの婆さんだが、どんな所へ連れて出たって恥(は)ずかしい心持ちはしない。野だのようなのは、馬車に乗ろうが、船に乗ろうが、凌雲閣(りょううんかく)へのろうが、到底寄り付けたものじゃない。おれが教頭で、赤シャツがおれだったら、やっぱりおれにへけつけお世辞を使って赤シャツを冷(ひや)かすに違いない。江戸っ子は軽薄(けいはく)だと云うがなるほどこんなものが田舎巡(いなかまわ)りをして、私(わたし)は江戸っ子でげすと繰り返していたら、軽薄は江戸っ子で、江戸っ子は軽薄の事だと田舎者が思うに極まってる。こんな事を考えていると、何だか二人がくすくす笑い出した。笑い声の間に何か云うが途切(とぎ)れ途切れでとんと要領を得ない。
「え? どうだか……」「……全くです……知らないんですから……罪ですね」「まさか……」「バッタを……本当ですよ」
 おれは外の言葉には耳を傾(かたむ)けなかったが、バッタと云う野だの語(ことば)を聴(き)いた時は、思わずきっとなった。野だは何のためかバッタと云う言葉だけことさら力を入れて、明瞭(めいりょう)におれの耳にはいるようにして、そのあとをわざとぼかしてしまった。おれは動かないでやはり聞いていた。
「また例の堀田(ほった)が……」「そうかも知れない……」「天麩羅(てんぷら)……ハハハハハ」「……煽動(せんどう)して……」「団子(だんご)も?」
 言葉はかように途切れ途切れであるけれども、バッタだの天麩羅だの、団子だのというところをもって推し測ってみると、何でもおれのことについて内所話(ないしょばな)しをしているに相違ない。話すならもっと大きな声で話すがいい、また内所話をするくらいなら、おれなんか誘わなければいい。いけ好かない連中だ。バッタだろうが雪踏(せった)だろうが、非はおれにある事じゃない。校長がひとまずあずけろと云ったから、狸(たぬき)の顔にめんじてただ今のところは控(ひか)えているんだ。野だの癖に入らぬ批評をしやがる。毛筆(けふで)でもしゃぶって引っ込んでるがいい。おれの事は、遅(おそ)かれ早かれ、おれ一人で片付けてみせるから、差支(さしつか)えはないが、また例の堀田がとか煽動してとか云う文句が気にかかる。堀田がおれを煽動して騒動(そうどう)を大きくしたと云う意味なのか、あるいは堀田が生徒を煽動しておれをいじめたと云うのか方角がわからない。青空を見ていると、日の光がだんだん弱って来て、少しはひやりとする風が吹き出した。線香(せんこう)の烟(けむり)のような雲が、透(す)き徹(とお)る底の上を静かに伸(の)して行ったと思ったら、いつしか底の奥(おく)に流れ込んで、うすくもやを掛(か)けたようになった。
 もう帰ろうかと赤シャツが思い出したように云うと、ええちょうど時分ですね。今夜はマドンナの君にお逢(あ)いですかと野だが云う。赤シャツは馬鹿(ばか)あ云っちゃいけない、間違いになると、船縁に身を倚(も)たした奴(やつ)を、少し起き直る。エヘヘヘヘ大丈夫ですよ。聞いたって……と野だが振り返った時、おれは皿(さら)のような眼(め)を野だの頭の上へまともに浴びせ掛けてやった。野だはまぼしそうに引っ繰り返って、や、こいつは降参だと首を縮めて、頭を掻(か)いた。何という猪口才(ちょこざい)だろう。
 船は静かな海を岸へ漕(こ)ぎ戻(もど)る。君釣(つり)はあまり好きでないと見えますねと赤シャツが聞くから、ええ寝(ね)ていて空を見る方がいいですと答えて、吸いかけた巻烟草(まきたばこ)を海の中へたたき込んだら、ジュと音がして艪(ろ)の足で掻き分けられた浪(なみ)の上を揺(ゆ)られながら漾(ただよ)っていった。「君が来たんで生徒も大いに喜んでいるから、奮発(ふんぱつ)してやってくれたまえ」と今度は釣にはまるで縁故(えんこ)もない事を云い出した。「あんまり喜んでもいないでしょう」「いえ、お世辞じゃない。全く喜んでいるんです、ね、吉川君」「喜んでるどころじゃない。大騒(おおさわ)ぎです」と野だはにやにやと笑った。こいつの云う事は一々癪(しゃく)に障(さわ)るから妙だ。「しかし君注意しないと、険呑(けんのん)ですよ」と赤シャツが云うから「どうせ険呑です。こうなりゃ険呑は覚悟(かくご)です」と云ってやった。実際おれは免職(めんしょく)になるか、寄宿生をことごとくあやまらせるか、どっちか一つにする了見でいた。「そう云っちゃ、取りつきどころもないが――実は僕も教頭として君のためを思うから云うんだが、わるく取っちゃ困る」「教頭は全く君に好意を持ってるんですよ。僕も及(およ)ばずながら、同じ江戸っ子だから、なるべく長くご在校を願って、お互(たがい)に力になろうと思って、これでも蔭ながら尽力(じんりょく)しているんですよ」と野だが人間並(なみ)の事を云った。野だのお世話になるくらいなら首を縊(くく)って死んじまわあ。
「それでね、生徒は君の来たのを大変歓迎(かんげい)しているんだが、そこにはいろいろな事情があってね。君も腹の立つ事もあるだろうが、ここが我慢(がまん)だと思って、辛防(しんぼう)してくれたまえ。決して君のためにならないような事はしないから」
「いろいろの事情た、どんな事情です」
「それが少し込み入ってるんだが、まあだんだん分りますよ。僕(ぼく)が話さないでも自然と分って来るです、ね吉川君」
「ええなかなか込み入ってますからね。一朝一夕にゃ到底分りません。しかしだんだん分ります、僕が話さないでも自然と分って来るです」と野だは赤シャツと同じような事を云う。
「そんな面倒(めんどう)な事情なら聞かなくてもいいんですが、あなたの方から話し出したから伺(うかが)うんです」
「そりゃごもっともだ。こっちで口を切って、あとをつけないのは無責任ですね。それじゃこれだけの事を云っておきましょう。あなたは失礼ながら、まだ学校を卒業したてで、教師は始めての、経験である。ところが学校というものはなかなか情実のあるもので、そう書生流に淡泊(たんぱく)には行(ゆ)かないですからね」
「淡泊に行かなければ、どんな風に行くんです」
「さあ君はそう率直だから、まだ経験に乏(とぼ)しいと云うんですがね……」
「どうせ経験には乏しいはずです。履歴書(りれきしょ)にもかいときましたが二十三年四ヶ月ですから」
「さ、そこで思わぬ辺から乗ぜられる事があるんです」
「正直にしていれば誰(だれ)が乗じたって怖(こわ)くはないです」
「無論怖くはない、怖くはないが、乗ぜられる。現に君の前任者がやられたんだから、気を付けないといけないと云うんです」
 野だが大人(おとな)しくなったなと気が付いて、ふり向いて見ると、いつしか艫(とも)の方で船頭と釣の話をしている。野だが居ないんでよっぽど話しよくなった。
「僕の前任者が、誰(だ)れに乗ぜられたんです」
「だれと指すと、その人の名誉に関係するから云えない。また判然と証拠(しょうこ)のない事だから云うとこっちの落度になる。とにかく、せっかく君が来たもんだから、ここで失敗しちゃ僕等(ぼくら)も君を呼んだ甲斐(かい)がない。どうか気を付けてくれたまえ」
「気を付けろったって、これより気の付けようはありません。わるい事をしなけりゃ好(い)いんでしょう」
 赤シャツはホホホホと笑った。別段おれは笑われるような事を云った覚えはない。今日(こんにち)ただ今に至るまでこれでいいと堅(かた)く信じている。考えてみると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励(しょうれい)しているように思う。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋(じゅんすい)な人を見ると、坊(ぼ)っちゃんだの小僧(こぞう)だのと難癖(なんくせ)をつけて軽蔑(けいべつ)する。それじゃ小学校や中学校で嘘(うそ)をつくな、正直にしろと倫理(りんり)の先生が教えない方がいい。いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世のためにも当人のためにもなるだろう。赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。単純や真率が笑われる世の中じゃ仕様がない。清はこんな時に決して笑った事はない。大いに感心して聞いたもんだ。清の方が赤シャツよりよっぽど上等だ。
「無論悪(わ)るい事をしなければ好いんですが、自分だけ悪るい事をしなくっても、人の悪るいのが分らなくっちゃ、やっぱりひどい目に逢うでしょう。世の中には磊落(らいらく)なように見えても、淡泊なように見えても、親切に下宿の世話なんかしてくれても、めったに油断の出来ないのがありますから……。大分寒くなった。もう秋ですね、浜の方は靄(もや)でセピヤ色になった。いい景色だ。おい、吉川君どうだい、あの浜の景色は……」と大きな声を出して野だを呼んだ。なあるほどこりゃ奇絶(きぜつ)ですね。時間があると写生するんだが、惜(お)しいですね、このままにしておくのはと野だは大いにたたく。
 港屋の二階に灯が一つついて、汽車の笛(ふえ)がヒューと鳴るとき、おれの乗っていた舟は磯(いそ)の砂へざぐりと、舳(へさき)をつき込んで動かなくなった。お早うお帰りと、かみさんが、浜に立って赤シャツに挨拶(あいさつ)する。おれは船端(ふなばた)から、やっと掛声(かけごえ)をして磯へ飛び下りた。
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发表于 2006-9-23 00:23:04 | 显示全部楼层
 六

 野だは大嫌(だいきら)いだ。こんな奴(やつ)は沢庵石(たくあんいし)をつけて海の底へ沈(しず)めちまう方が日本のためだ。赤シャツは声が気に食わない。あれは持前の声をわざと気取ってあんな優しいように見せてるんだろう。いくら気取ったって、あの面じゃ駄目(だめ)だ。惚(ほ)れるものがあったってマドンナぐらいなものだ。しかし教頭だけに野だよりむずかしい事を云(い)う。うちへ帰って、あいつの申し条を考えてみると一応もっとものようでもある。はっきりとした事は云わないから、見当がつきかねるが、何でも山嵐(やまあらし)がよくない奴だから用心しろと云うのらしい。それならそうとはっきり断言するがいい、男らしくもない。そうして、そんな悪(わ)るい教師なら、早く免職(めんしょく)さしたらよかろう。教頭なんて文学士の癖(くせ)に意気地(いくじ)のないもんだ。蔭口(かげぐち)をきくのでさえ、公然と名前が云えないくらいな男だから、弱虫に極(き)まってる。弱虫は親切なものだから、あの赤シャツも女のような親切ものなんだろう。親切は親切、声は声だから、声が気に入らないって、親切を無にしちゃ筋が違(ちが)う。それにしても世の中は不思議なものだ、虫の好かない奴が親切で、気のあった友達が悪漢(わるもの)だなんて、人を馬鹿(ばか)にしている。大方田舎(いなか)だから万事東京のさかに行くんだろう。物騒(ぶっそう)な所だ。今に火事が氷って、石が豆腐(とうふ)になるかも知れない。しかし、あの山嵐が生徒を煽動するなんて、いたずらをしそうもないがな。一番人望のある教師だと云うから、やろうと思ったら大抵(たいてい)の事は出来るかも知れないが、――第一そんな廻(まわ)りくどい事をしないでも、じかにおれを捕(つら)まえて喧嘩(けんか)を吹き懸(か)けりゃ手数が省ける訳だ。おれが邪魔(じゃま)になるなら、実はこれこれだ、邪魔だから辞職してくれと云や、よさそうなもんだ。物は相談ずくでどうでもなる。向(むこ)うの云い条がもっともなら、明日にでも辞職してやる。ここばかり米が出来る訳でもあるまい。どこの果(はて)へ行ったって、のたれ死(じに)はしないつもりだ。山嵐もよっぽど話せない奴だな。
 ここへ来た時第一番に氷水を奢(おご)ったのは山嵐だ。そんな裏表のある奴から、氷水でも奢ってもらっちゃ、おれの顔に関わる。おれはたった一杯(ぱい)しか飲まなかったから一銭五厘(りん)しか払(はら)わしちゃない。しかし一銭だろうが五厘だろうが、詐欺師(さぎし)の恩になっては、死ぬまで心持ちがよくない。あした学校へ行ったら、一銭五厘返しておこう。おれは清(きよ)から三円借りている。その三円は五年経(た)った今日までまだ返さない。返せないんじゃない。返さないんだ。清は今に返すだろうなどと、かりそめにもおれの懐中(かいちゅう)をあてにしてはいない。おれも今に返そうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるようなもので、清の美しい心にけちを付けると同じ事になる。返さないのは清を踏(ふ)みつけるのじゃない、清をおれの片破(かたわ)れと思うからだ。清と山嵐とはもとより比べ物にならないが、たとい氷水だろうが、甘茶(あまちゃ)だろうが、他人から恵(めぐみ)を受けて、だまっているのは向うをひとかどの人間と見立てて、その人間に対する厚意の所作だ。割前を出せばそれだけの事で済むところを、心のうちで難有(ありがた)いと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。無位無冠でも一人前の独立した人間だ。独立した人間が頭を下げるのは百万両より尊(たっ)といお礼と思わなければならない。
 おれはこれでも山嵐に一銭五厘奮発(ふんぱつ)させて、百万両より尊とい返礼をした気でいる。山嵐は難有(ありがた)いと思ってしかるべきだ。それに裏へ廻って卑劣(ひれつ)な振舞(ふるまい)をするとは怪(け)しからん野郎(やろう)だ。あした行って一銭五厘返してしまえば借りも貸しもない。そうしておいて喧嘩をしてやろう。
 おれはここまで考えたら、眠(ねむ)くなったからぐうぐう寝(ね)てしまった。あくる日は思う仔細(しさい)があるから、例刻より早ヤ目に出校して山嵐を待ち受けた。ところがなかなか出て来ない。うらなりが出て来る。漢学の先生が出て来る。野だが出て来る。しまいには赤シャツまで出て来たが山嵐の机の上は白墨(はくぼく)が一本竪(たて)に寝ているだけで閑静(かんせい)なものだ。おれは、控所(ひかえじょ)へはいるや否や返そうと思って、うちを出る時から、湯銭のように手の平へ入れて一銭五厘、学校まで握(にぎ)って来た。おれは膏(あぶら)っ手だから、開けてみると一銭五厘が汗(あせ)をかいている。汗をかいてる銭を返しちゃ、山嵐が何とか云うだろうと思ったから、机の上へ置いてふうふう吹いてまた握った。ところへ赤シャツが来て昨日は失敬、迷惑(めいわく)でしたろうと云ったから、迷惑じゃありません、お蔭で腹が減りましたと答えた。すると赤シャツは山嵐の机の上へ肱(ひじ)を突(つ)いて、あの盤台面(ばんだいづら)をおれの鼻の側面へ持って来たから、何をするかと思ったら、君昨日返りがけに船の中で話した事は、秘密にしてくれたまえ。まだ誰(だれ)にも話しやしますまいねと云った。女のような声を出すだけに心配性な男と見える。話さない事はたしかである。しかしこれから話そうと云う心持ちで、すでに一銭五厘手の平に用意しているくらいだから、ここで赤シャツから口留めをされちゃ、ちと困る。赤シャツも赤シャツだ。山嵐と名を指さないにしろ、あれほど推察の出来る謎(なぞ)をかけておきながら、今さらその謎を解いちゃ迷惑だとは教頭とも思えぬ無責任だ。元来ならおれが山嵐と戦争をはじめて鎬(しのぎ)を削(けず)ってる真中(まんなか)へ出て堂々とおれの肩(かた)を持つべきだ。それでこそ一校の教頭で、赤シャツを着ている主意も立つというもんだ。
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发表于 2006-9-23 00:23:32 | 显示全部楼层
 おれは教頭に向(むか)って、まだ誰にも話さないが、これから山嵐と談判するつもりだと云ったら、赤シャツは大いに狼狽(ろうばい)して、君そんな無法な事をしちゃ困る。僕(ぼく)は堀田(ほった)君の事について、別段君に何も明言した覚えはないんだから――君がもしここで乱暴を働いてくれると、僕は非常に迷惑する。君は学校に騒動(そうどう)を起すつもりで来たんじゃなかろうと妙(みょう)に常識をはずれた質問をするから、当(あた)り前(まえ)です、月給をもらったり、騒動を起したりしちゃ、学校の方でも困るでしょうと云った。すると赤シャツはそれじゃ昨日の事は君の参考だけにとめて、口外してくれるなと汗をかいて依頼(いらい)に及(およ)ぶから、よろしい、僕も困るんだが、そんなにあなたが迷惑ならよしましょうと受け合った。君大丈夫(だいじょうぶ)かいと赤シャツは念を押(お)した。どこまで女らしいんだか奥行(おくゆき)がわからない。文学士なんて、みんなあんな連中ならつまらんものだ。辻褄(つじつま)の合わない、論理に欠けた注文をして恬然(てんぜん)としている。しかもこのおれを疑ぐってる。憚(はばか)りながら男だ。受け合った事を裏へ廻って反古(ほご)にするようなさもしい了見(りょうけん)はもってるもんか。
 ところへ両隣(りょうどな)りの机の所有主も出校したんで、赤シャツは早々自分の席へ帰って行った。赤シャツは歩(あ)るき方から気取ってる。部屋の中を往来するのでも、音を立てないように靴(くつ)の底をそっと落(おと)す。音を立てないであるくのが自慢(じまん)になるもんだとは、この時から始めて知った。泥棒(どろぼう)の稽古(けいこ)じゃあるまいし、当り前にするがいい。やがて始業の喇叭(らっぱ)がなった。山嵐はとうとう出て来ない。仕方がないから、一銭五厘を机の上へ置いて教場へ出掛(でか)けた。
 授業の都合(つごう)で一時間目は少し後(おく)れて、控所へ帰ったら、ほかの教師はみんな机を控えて話をしている。山嵐もいつの間にか来ている。欠勤だと思ったら遅刻(ちこく)したんだ。おれの顔を見るや否や今日は君のお蔭で遅刻したんだ。罰金(ばっきん)を出したまえと云った。おれは机の上にあった一銭五厘を出して、これをやるから取っておけ。先達(せんだっ)て通町(とおりちょう)で飲んだ氷水の代だと山嵐の前へ置くと、何を云ってるんだと笑いかけたが、おれが存外真面目(まじめ)でいるので、つまらない冗談(じょうだん)をするなと銭をおれの机の上に掃(は)き返した。おや山嵐の癖(くせ)にどこまでも奢る気だな。
「冗談じゃない本当だ。おれは君に氷水を奢られる因縁(いんえん)がないから、出すんだ。取らない法があるか」
「そんなに一銭五厘が気になるなら取ってもいいが、なぜ思い出したように、今時分返すんだ」
「今時分でも、いつ時分でも、返すんだ。奢られるのが、いやだから返すんだ」
 山嵐は冷然とおれの顔を見てふんと云った。赤シャツの依頼がなければ、ここで山嵐の卑劣(ひれつ)をあばいて大喧嘩をしてやるんだが、口外しないと受け合ったんだから動きがとれない。人がこんなに真赤(まっか)になってるのにふんという理窟(りくつ)があるものか。
「氷水の代は受け取るから、下宿は出てくれ」
「一銭五厘受け取ればそれでいい。下宿を出ようが出まいがおれの勝手だ」
「ところが勝手でない、昨日、あすこの亭主(ていしゅ)が来て君に出てもらいたいと云うから、その訳を聞いたら亭主の云うのはもっともだ。それでももう一応たしかめるつもりで今朝(けさ)あすこへ寄って詳(くわ)しい話を聞いてきたんだ」
 おれには山嵐の云う事が何の意味だか分らない。
「亭主が君に何を話したんだか、おれが知ってるもんか。そう自分だけで極めたって仕様があるか。訳があるなら、訳を話すが順だ。てんから亭主の云う方がもっともだなんて失敬千万な事を云うな」
「うん、そんなら云ってやろう。君は乱暴であの下宿で持て余(あ)まされているんだ。いくら下宿の女房だって、下女たあ違うぜ。足を出して拭(ふ)かせるなんて、威張(いば)り過ぎるさ」
「おれが、いつ下宿の女房に足を拭かせた」
「拭かせたかどうだか知らないが、とにかく向うじゃ、君に困ってるんだ。下宿料の十円や十五円は懸物(かけもの)を一幅(ぷく)売りゃ、すぐ浮(う)いてくるって云ってたぜ」
「利いた風な事をぬかす野郎(やろう)だ。そんなら、なぜ置いた」
「なぜ置いたか、僕は知らん、置くことは置いたんだが、いやになったんだから、出ろと云うんだろう。君出てやれ」
「当り前だ。居てくれと手を合せたって、居るものか。一体そんな云い懸(がか)りを云うような所へ周旋(しゅうせん)する君からしてが不埒(ふらち)だ」
「おれが不埒か、君が大人(おとな)しくないんだか、どっちかだろう」
 山嵐もおれに劣(おと)らぬ肝癪持(かんしゃくも)ちだから、負け嫌(ぎら)いな大きな声を出す。控所に居た連中は何事が始まったかと思って、みんな、おれと山嵐の方を見て、顋(あご)を長くしてぼんやりしている。おれは、別に恥(は)ずかしい事をした覚えはないんだから、立ち上がりながら、部屋中一通り見巡(みま)わしてやった。みんなが驚(おど)ろいてるなかに野だだけは面白そうに笑っていた。おれの大きな眼(め)が、貴様も喧嘩をするつもりかと云う権幕で、野だの干瓢(かんぴょう)づらを射貫(いぬ)いた時に、野だは突然(とつぜん)真面目な顔をして、大いにつつしんだ。少し怖(こ)わかったと見える。そのうち喇叭が鳴る。山嵐もおれも喧嘩を中止して教場へ出た。

 午後は、先夜おれに対して無礼を働いた寄宿生の処分法についての会議だ。会議というものは生れて始めてだからとんと容子(ようす)が分らないが、職員が寄って、たかって自分勝手な説をたてて、それを校長が好い加減に纏(まと)めるのだろう。纏めるというのは黒白(こくびゃく)の決しかねる事柄(ことがら)について云うべき言葉だ。この場合のような、誰が見たって、不都合としか思われない事件に会議をするのは暇潰(ひまつぶ)しだ。誰が何と解釈したって異説の出ようはずがない。こんな明白なのは即座(そくざ)に校長が処分してしまえばいいに。随分(ずいぶん)決断のない事だ。校長ってものが、これならば、何の事はない、煮(に)え切(き)らない愚図(ぐず)の異名だ。
 会議室は校長室の隣(とな)りにある細長い部屋で、平常は食堂の代理を勤める。黒い皮で張った椅子(いす)が二十脚(きゃく)ばかり、長いテーブルの周囲に並(なら)んでちょっと神田の西洋料理屋ぐらいな格だ。そのテーブルの端(はじ)に校長が坐(すわ)って、校長の隣りに赤シャツが構える。あとは勝手次第に席に着くんだそうだが、体操(たいそう)の教師だけはいつも席末に謙遜(けんそん)するという話だ。おれは様子が分らないから、博物の教師と漢学の教師の間へはいり込(こ)んだ。向うを見ると山嵐と野だが並んでる。野だの顔はどう考えても劣等だ。喧嘩はしても山嵐の方が遥(はる)かに趣(おもむき)がある。おやじの葬式(そうしき)の時に小日向(こびなた)の養源寺(ようげんじ)の座敷(ざしき)にかかってた懸物はこの顔によく似ている。坊主(ぼうず)に聞いてみたら韋駄天(いだてん)と云う怪物だそうだ。今日は怒(おこ)ってるから、眼をぐるぐる廻しちゃ、時々おれの方を見る。そんな事で威嚇(おど)かされてたまるもんかと、おれも負けない気で、やっぱり眼をぐりつかせて、山嵐をにらめてやった。おれの眼は恰好(かっこう)はよくないが、大きい事においては大抵な人には負けない。あなたは眼が大きいから役者になるときっと似合いますと清がよく云ったくらいだ。
 もう大抵お揃(そろ)いでしょうかと校長が云うと、書記の川村と云うのが一つ二つと頭数を勘定(かんじょう)してみる。一人足りない。一人不足ですがと考えていたが、これは足りないはずだ。唐茄子(とうなす)のうらなり君が来ていない。おれとうらなり君とはどう云う宿世(すくせ)の因縁かしらないが、この人の顔を見て以来どうしても忘れられない。控所へくれば、すぐ、うらなり君が眼に付く、途中(とちゅう)をあるいていても、うらなり先生の様子が心に浮(うか)ぶ。温泉へ行くと、うらなり君が時々蒼(あお)い顔をして湯壺(ゆつぼ)のなかに膨(ふく)れている。挨拶(あいさつ)をするとへえと恐縮(きょうしゅく)して頭を下げるから気の毒になる。学校へ出てうらなり君ほど大人しい人は居ない。めったに笑った事もないが、余計な口をきいた事もない。おれは君子という言葉を書物の上で知ってるが、これは字引にあるばかりで、生きてるものではないと思ってたが、うらなり君に逢(あ)ってから始めて、やっぱり正体のある文字だと感心したくらいだ。
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发表于 2006-9-23 00:23:59 | 显示全部楼层
このくらい関係の深い人の事だから、会議室へはいるや否や、うらなり君の居ないのは、すぐ気がついた。実を云うと、この男の次へでも坐(す)わろうかと、ひそかに目標(めじるし)にして来たくらいだ。校長はもうやがて見えるでしょうと、自分の前にある紫(むらさき)の袱紗包(ふくさづつみ)をほどいて、蒟蒻版(こんにゃくばん)のような者を読んでいる。赤シャツは琥珀(こはく)のパイプを絹ハンケチで磨(みが)き始めた。この男はこれが道楽である。赤シャツ相当のところだろう。ほかの連中は隣り同志で何だか私語(ささや)き合っている。手持無沙汰(てもちぶさた)なのは鉛筆(えんぴつ)の尻(しり)に着いている、護謨(ゴム)の頭でテーブルの上へしきりに何か書いている。野だは時々山嵐に話しかけるが、山嵐は一向応じない。ただうんとかああと云うばかりで、時々怖(こわ)い眼をして、おれの方を見る。おれも負けずに睨(にら)め返す。
 ところへ待ちかねた、うらなり君が気の毒そうにはいって来て少々用事がありまして、遅刻致(いた)しましたと慇懃(いんぎん)に狸(たぬき)に挨拶(あいさつ)をした。では会議を開きますと狸はまず書記の川村君に蒟蒻版を配布させる。見ると最初が処分の件、次が生徒取締(とりしまり)の件、その他二三ヶ条である。狸は例の通りもったいぶって、教育の生霊(いきりょう)という見えでこんな意味の事を述べた。「学校の職員や生徒に過失のあるのは、みんな自分の寡徳(かとく)の致すところで、何か事件がある度に、自分はよくこれで校長が勤まるとひそかに慚愧(ざんき)の念に堪(た)えんが、不幸にして今回もまたかかる騒動を引き起したのは、深く諸君に向って謝罪しなければならん。しかしひとたび起った以上は仕方がない、どうにか処分をせんければならん、事実はすでに諸君のご承知の通りであるからして、善後策について腹蔵のない事を参考のためにお述べ下さい」
 おれは校長の言葉を聞いて、なるほど校長だの狸だのと云うものは、えらい事を云うもんだと感心した。こう校長が何もかも責任を受けて、自分の咎(とが)だとか、不徳だとか云うくらいなら、生徒を処分するのは、やめにして、自分から先へ免職(めんしょく)になったら、よさそうなもんだ。そうすればこんな面倒(めんどう)な会議なんぞを開く必要もなくなる訳だ。第一常識から云(い)っても分ってる。おれが大人しく宿直をする。生徒が乱暴をする。わるいのは校長でもなけりゃ、おれでもない、生徒だけに極(きま)ってる。もし山嵐が煽動(せんどう)したとすれば、生徒と山嵐を退治(たいじ)ればそれでたくさんだ。人の尻(しり)を自分で背負(しょ)い込(こ)んで、おれの尻だ、おれの尻だと吹き散らかす奴が、どこの国にあるもんか、狸でなくっちゃ出来る芸当じゃない。彼(かれ)はこんな条理(じょうり)に適(かな)わない議論を吐(は)いて、得意気に一同を見廻した。ところが誰も口を開くものがない。博物の教師は第一教場の屋根に烏(からす)がとまってるのを眺(なが)めている。漢学の先生は蒟蒻版(こんにゃくばん)を畳(たた)んだり、延ばしたりしてる。山嵐はまだおれの顔をにらめている。会議と云うものが、こんな馬鹿気(ばかげ)たものなら、欠席して昼寝でもしている方がましだ。
 おれは、じれったくなったから、一番大いに弁じてやろうと思って、半分尻をあげかけたら、赤シャツが何か云い出したから、やめにした。見るとパイプをしまって、縞(しま)のある絹ハンケチで顔をふきながら、何か云っている。あの手巾(はんけち)はきっとマドンナから巻き上げたに相違(そうい)ない。男は白い麻(あさ)を使うもんだ。「私も寄宿生の乱暴を聞いてはなはだ教頭として不行届(ふゆきとどき)であり、かつ平常の徳化が少年に及ばなかったのを深く慚(は)ずるのであります。でこう云う事は、何か陥欠(かんけつ)があると起るもので、事件その物を見ると何だか生徒だけがわるいようであるが、その真相を極めると責任はかえって学校にあるかも知れない。だから表面上にあらわれたところだけで厳重な制裁を加えるのは、かえって未来のためによくないかとも思われます。かつ少年血気のものであるから活気があふれて、善悪の考えはなく、半ば無意識にこんな悪戯(いたずら)をやる事はないとも限らん。でもとより処分法は校長のお考えにある事だから、私の容喙(ようかい)する限りではないが、どうかその辺をご斟酌(しんしゃく)になって、なるべく寛大なお取計(とりはからい)を願いたいと思います」
 なるほど狸が狸なら、赤シャツも赤シャツだ。生徒があばれるのは、生徒がわるいんじゃない教師が悪るいんだと公言している。気狂(きちがい)が人の頭を撲(なぐ)り付けるのは、なぐられた人がわるいから、気狂がなぐるんだそうだ。難有(ありがた)い仕合せだ。活気にみちて困るなら運動場へ出て相撲(すもう)でも取るがいい、半ば無意識に床の中へバッタを入れられてたまるものか。この様子じゃ寝頸(ねくび)をかかれても、半ば無意識だって放免するつもりだろう。
 おれはこう考えて何か云おうかなと考えてみたが、云うなら人を驚ろすかように滔々(とうとう)と述べたてなくっちゃつまらない、おれの癖として、腹が立ったときに口をきくと、二言か三言で必ず行き塞(つま)ってしまう。狸でも赤シャツでも人物から云うと、おれよりも下等だが、弁舌はなかなか達者だから、まずい事を喋舌(しゃべ)って揚足(あげあし)を取られちゃ面白くない。ちょっと腹案を作ってみようと、胸のなかで文章を作ってる。すると前に居た野だが突然起立したには驚ろいた。野だの癖に意見を述べるなんて生意気だ。野だは例のへらへら調で「実に今回のバッタ事件及び咄喊(とっかん)事件は吾々(われわれ)心ある職員をして、ひそかに吾(わが)校将来の前途(ぜんと)に危惧(きぐ)の念を抱(いだ)かしむるに足る珍事(ちんじ)でありまして、吾々職員たるものはこの際奮(ふる)って自ら省りみて、全校の風紀を振粛(しんしゅく)しなければなりません。それでただ今校長及び教頭のお述べになったお説は、実に肯綮(こうけい)に中(あた)った剴切(がいせつ)なお考えで私は徹頭徹尾(てっとうてつび)賛成致します。どうかなるべく寛大(かんだい)のご処分を仰(あお)ぎたいと思います」と云った。野だの云う事は言語はあるが意味がない、漢語をのべつに陳列(ちんれつ)するぎりで訳が分らない。分ったのは徹頭徹尾賛成致しますと云う言葉だけだ。
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发表于 2006-9-23 00:24:23 | 显示全部楼层
おれは野だの云う意味は分らないけれども、何だか非常に腹が立ったから、腹案も出来ないうちに起(た)ち上がってしまった。「私は徹頭徹尾反対です……」と云ったがあとが急に出て来ない。「……そんな頓珍漢(とんちんかん)な、処分は大嫌(だいきら)いです」とつけたら、職員が一同笑い出した。「一体生徒が全然悪(わ)るいです。どうしても詫(あや)まらせなくっちゃ、癖になります。退校さしても構いません。……何だ失敬な、新しく来た教師だと思って……」と云って着席した。すると右隣りに居る博物が「生徒がわるい事も、わるいが、あまり厳重な罰などをするとかえって反動を起していけないでしょう。やっぱり教頭のおっしゃる通り、寛な方に賛成します」と弱い事を云った。左隣の漢学は穏便説(おんびんせつ)に賛成と云った。歴史も教頭と同説だと云った。忌々(いまいま)しい、大抵のものは赤シャツ党だ。こんな連中が寄り合って学校を立てていりゃ世話はない。おれは生徒をあやまらせるか、辞職するか二つのうち一つに極めてるんだから、もし赤シャツが勝ちを制したら、早速うちへ帰って荷作りをする覚悟(かくご)でいた。どうせ、こんな手合(てあい)を弁口(べんこう)で屈伏(くっぷく)させる手際はなし、させたところでいつまでご交際を願うのは、こっちでご免だ。学校に居ないとすればどうなったって構うもんか。また何か云うと笑うに違いない。だれが云うもんかと澄(すま)していた。
 すると今までだまって聞いていた山嵐が奮然として、起ち上がった。野郎また赤シャツ賛成の意を表するな、どうせ、貴様とは喧嘩だ、勝手にしろと見ていると山嵐は硝子(ガラス)窓を振(ふる)わせるような声で「私(わたくし)は教頭及びその他諸君のお説には全然不同意であります。というものはこの事件はどの点から見ても、五十名の寄宿生が新来の教師某氏(ぼうし)を軽侮(けいぶ)してこれを翻弄(ほんろう)しようとした所為(しょい)とより外(ほか)には認められんのであります。教頭はその源因を教師の人物いかんにお求めになるようでありますが失礼ながらそれは失言かと思います。某氏が宿直にあたられたのは着後早々の事で、まだ生徒に接せられてから二十日に満たぬ頃(ころ)であります。この短かい二十日間において生徒は君の学問人物を評価し得る余地がないのであります。軽侮されべき至当な理由があって、軽侮を受けたのなら生徒の行為に斟酌(しんしゃく)を加える理由もありましょうが、何らの源因もないのに新来の先生を愚弄(ぐろう)するような軽薄な生徒を寛仮(かんか)しては学校の威信(いしん)に関わる事と思います。教育の精神は単に学問を授けるばかりではない、高尚(こうしょう)な、正直な、武士的な元気を鼓吹(こすい)すると同時に、野卑(やひ)な、軽躁(けいそう)な、暴慢(ぼうまん)な悪風を掃蕩(そうとう)するにあると思います。もし反動が恐(おそろ)しいの、騒動が大きくなるのと姑息(こそく)な事を云った日にはこの弊風(へいふう)はいつ矯正(きょうせい)出来るか知れません。かかる弊風を杜絶(とぜつ)するためにこそ吾々はこの学校に職を奉じているので、これを見逃(みの)がすくらいなら始めから教師にならん方がいいと思います。私は以上の理由で寄宿生一同を厳罰(げんばつ)に処する上に、当該(とうがい)教師の面前において公けに謝罪の意を表せしむるのを至当の所置と心得ます」と云いながら、どんと腰(こし)を卸(おろ)した。一同はだまって何にも言わない。赤シャツはまたパイプを拭(ふ)き始めた。おれは何だか非常に嬉(うれ)しかった。おれの云おうと思うところをおれの代りに山嵐がすっかり言ってくれたようなものだ。おれはこう云う単純な人間だから、今までの喧嘩はまるで忘れて、大いに難有(ありがた)いと云う顔をもって、腰を卸した山嵐の方を見たら、山嵐は一向知らん面(かお)をしている。
 しばらくして山嵐はまた起立した。「ただ今ちょっと失念して言い落(おと)しましたから、申します。当夜の宿直員は宿直中外出して温泉に行かれたようであるが、あれはもっての外の事と考えます。いやしくも自分が一校の留守番を引き受けながら、咎(とが)める者のないのを幸(さいわい)に、場所もあろうに温泉などへ入湯にいくなどと云うのは大きな失体である。生徒は生徒として、この点については校長からとくに責任者にご注意あらん事を希望します」
 妙な奴だ、ほめたと思ったら、あとからすぐ人の失策をあばいている。おれは何の気もなく、前の宿直が出あるいた事を知って、そんな習慣だと思って、つい温泉まで行ってしまったんだが、なるほどそう云われてみると、これはおれが悪るかった。攻撃(こうげき)されても仕方がない。そこでおれはまた起って「私は正に宿直中に温泉に行きました。これは全くわるい。あやまります」と云って着席したら、一同がまた笑い出した。おれが何か云いさえすれば笑う。つまらん奴等(やつら)だ。貴様等これほど自分のわるい事を公けにわるかったと断言出来るか、出来ないから笑うんだろう。
 それから校長は、もう大抵ご意見もないようでありますから、よく考えた上で処分しましょうと云った。ついでだからその結果を云うと、寄宿生は一週間の禁足になった上に、おれの前へ出て謝罪をした。謝罪をしなければその時辞職して帰るところだったがなまじい、おれのいう通りになったのでとうとう大変な事になってしまった。それはあとから話すが、校長はこの時会議の引き続きだと号してこんな事を云った。生徒の風儀(ふうぎ)は、教師の感化で正していかなくてはならん、その一着手として、教師はなるべく飲食店などに出入(しゅつにゅう)しない事にしたい。もっとも送別会などの節は特別であるが、単独にあまり上等でない場所へ行くのはよしたい――たとえば蕎麦屋(そばや)だの、団子屋(だんごや)だの――と云いかけたらまた一同が笑った。野だが山嵐を見て天麩羅(てんぷら)と云って目くばせをしたが山嵐は取り合わなかった。いい気味(きび)だ。
 おれは脳がわるいから、狸の云うことなんか、よく分らないが、蕎麦屋や団子屋へ行って、中学の教師が勤まらなくっちゃ、おれみたような食い心棒(しんぼう)にゃ到底(とうてい)出来っ子ないと思った。それなら、それでいいから、初手から蕎麦と団子の嫌いなものと注文して雇(やと)うがいい。だんまりで辞令を下げておいて、蕎麦を食うな、団子を食うなと罪なお布令(ふれ)を出すのは、おれのような外に道楽のないものにとっては大変な打撃だ。すると赤シャツがまた口を出した。「元来中学の教師なぞは社会の上流にくらいするものだからして、単に物質的の快楽ばかり求めるべきものでない。その方に耽(ふけ)るとつい品性にわるい影響(えいきょう)を及ぼすようになる。しかし人間だから、何か娯楽(ごらく)がないと、田舎(いなか)へ来て狭(せま)い土地では到底暮(くら)せるものではない。それで釣(つり)に行くとか、文学書を読むとか、または新体詩や俳句を作るとか、何でも高尚(こうしょう)な精神的娯楽を求めなくってはいけない……」
 だまって聞いてると勝手な熱を吹く。沖(おき)へ行って肥料(こやし)を釣ったり、ゴルキが露西亜(ロシア)の文学者だったり、馴染(なじみ)の芸者が松(まつ)の木の下に立ったり、古池へ蛙(かわず)が飛び込んだりするのが精神的娯楽なら、天麩羅を食って団子を呑(の)み込むのも精神的娯楽だ。そんな下さらない娯楽を授けるより赤シャツの洗濯(せんたく)でもするがいい。あんまり腹が立ったから「マドンナに逢(あ)うのも精神的娯楽ですか」と聞いてやった。すると今度は誰も笑わない。妙な顔をして互(たがい)に眼と眼を見合せている。赤シャツ自身は苦しそうに下を向いた。それ見ろ。利いたろう。ただ気の毒だったのはうらなり君で、おれが、こう云ったら蒼い顔をますます蒼くした。
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发表于 2006-9-23 00:25:04 | 显示全部楼层
 七

 おれは即夜(そくや)下宿を引き払(はら)った。宿へ帰って荷物をまとめていると、女房(にょうぼう)が何か不都合(ふつごう)でもございましたか、お腹の立つ事があるなら、云(い)っておくれたら改めますと云う。どうも驚(おど)ろく。世の中にはどうして、こんな要領を得ない者ばかり揃(そろ)ってるんだろう。出てもらいたいんだか、居てもらいたいんだか分(わか)りゃしない。まるで気狂(きちがい)だ。こんな者を相手に喧嘩(けんか)をしたって江戸(えど)っ子の名折れだから、車屋をつれて来てさっさと出てきた。
 出た事は出たが、どこへ行くというあてもない。車屋が、どちらへ参りますと云うから、だまって尾(つ)いて来い、今にわかる、と云って、すたすたやって来た。面倒(めんどう)だから山城屋へ行こうかとも考えたが、また出なければならないから、つまり手数だ。こうして歩いてるうちには下宿とか、何とか看板のあるうちを目付け出すだろう。そうしたら、そこが天意に叶(かな)ったわが宿と云う事にしよう。とぐるぐる、閑静(かんせい)で住みよさそうな所をあるいているうち、とうとう鍛冶屋町(かじやちょう)へ出てしまった。ここは士族屋敷(やしき)で下宿屋などのある町ではないから、もっと賑(にぎ)やかな方へ引き返そうかとも思ったが、ふといい事を考え付いた。おれが敬愛するうらなり君はこの町内に住んでいる。うらなり君は土地の人で先祖代々の屋敷を控(ひか)えているくらいだから、この辺の事情には通じているに相違(そうい)ない。あの人を尋(たず)ねて聞いたら、よさそうな下宿を教えてくれるかも知れない。幸(さいわい)一度挨拶(あいさつ)に来て勝手は知ってるから、捜(さ)がしてあるく面倒はない。ここだろうと、いい加減に見当をつけて、ご免(めん)ご免と二返ばかり云うと、奥(おく)から五十ぐらいな年寄(としより)が古風な紙燭(しそく)をつけて、出て来た。おれは若い女も嫌(きら)いではないが、年寄を見ると何だかなつかしい心持ちがする。大方清(きよ)がすきだから、その魂(たましい)が方々のお婆(ばあ)さんに乗り移るんだろう。これは大方うらなり君のおっ母(か)さんだろう。切り下げの品格のある婦人だが、よくうらなり君に似ている。まあお上がりと云うところを、ちょっとお目にかかりたいからと、主人を玄関(げんかん)まで呼び出して実はこれこれだが君どこか心当りはありませんかと尋ねてみた。うらなり先生それはさぞお困りでございましょう、としばらく考えていたが、この裏町に萩野(はぎの)と云って老人夫婦ぎりで暮(く)らしているものがある、いつぞや座敷(ざしき)を明けておいても無駄(むだ)だから、たしかな人があるなら貸してもいいから周旋(しゅうせん)してくれと頼(たの)んだ事がある。今でも貸すかどうか分らんが、まあいっしょに行って聞いてみましょうと、親切に連れて行ってくれた。
 その夜から萩野の家の下宿人となった。驚(おどろ)いたのは、おれがいか銀の座敷を引き払うと、翌日(あくるひ)から入れ違(ちが)いに野だが平気な顔をして、おれの居た部屋を占領(せんりょう)した事だ。さすがのおれもこれにはあきれた。世の中はいかさま師ばかりで、お互(たがい)に乗せっこをしているのかも知れない。いやになった。
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发表于 2006-9-23 00:25:43 | 显示全部楼层
 世間がこんなものなら、おれも負けない気で、世間並(せけんなみ)にしなくちゃ、遣(や)りきれない訳になる。巾着切(きんちゃくきり)の上前をはねなければ三度のご膳(ぜん)が戴(いただ)けないと、事が極(き)まればこうして、生きてるのも考え物だ。と云ってぴんぴんした達者なからだで、首を縊(くく)っちゃ先祖へ済まない上に、外聞が悪い。考えると物理学校などへはいって、数学なんて役にも立たない芸を覚えるよりも、六百円を資本(もとで)にして牛乳屋でも始めればよかった。そうすれば清もおれの傍(そば)を離(はな)れずに済むし、おれも遠くから婆さんの事を心配しずに暮(くら)される。いっしょに居るうちは、そうでもなかったが、こうして田舎(いなか)へ来てみると清はやっぱり善人だ。あんな気立(きだて)のいい女は日本中さがして歩いたってめったにはない。婆さん、おれの立つときに、少々風邪(かぜ)を引いていたが今頃(いまごろ)はどうしてるか知らん。先だっての手紙を見たらさぞ喜んだろう。それにしても、もう返事がきそうなものだが――おれはこんな事ばかり考えて二三日暮していた。
 気になるから、宿のお婆さんに、東京から手紙は来ませんかと時々尋(たず)ねてみるが、聞くたんびに何にも参りませんと気の毒そうな顔をする。ここの夫婦はいか銀とは違って、もとが士族だけに双方(そうほう)共上品だ。爺(じい)さんが夜(よ)るになると、変な声を出して謡(うたい)をうたうには閉口するが、いか銀のようにお茶を入れましょうと無暗(むやみ)に出て来ないから大きに楽だ。お婆さんは時々部屋へ来ていろいろな話をする。どうして奥さんをお連れなさって、いっしょにお出(い)でなんだのぞなもしなどと質問をする。奥さんがあるように見えますかね。可哀想(かわいそう)にこれでもまだ二十四ですぜと云ったらそれでも、あなた二十四で奥さんがおありなさるのは当り前ぞなもしと冒頭(ぼうとう)を置いて、どこの誰(だれ)さんは二十でお嫁(よめ)をお貰(もら)いたの、どこの何とかさんは二十二で子供を二人(ふたり)お持ちたのと、何でも例を半ダースばかり挙げて反駁(はんばく)を試みたには恐(おそ)れ入った。それじゃ僕(ぼく)も二十四でお嫁をお貰いるけれ、世話をしておくれんかなと田舎言葉を真似(まね)て頼んでみたら、お婆さん正直に本当かなもしと聞いた。
「本当の本当(ほんま)のって僕あ、嫁が貰いたくって仕方がないんだ」
「そうじゃろうがな、もし。若いうちは誰もそんなものじゃけれ」この挨拶(あいさつ)には痛み入って返事が出来なかった。
「しかし先生はもう、お嫁がおありなさるに極(きま)っとらい。私はちゃんと、もう、睨(ね)らんどるぞなもし」
「へえ、活眼(かつがん)だね。どうして、睨らんどるんですか」
「どうしててて。東京から便りはないか、便りはないかてて、毎日便りを待ち焦(こ)がれておいでるじゃないかなもし」
「こいつあ驚(おどろ)いた。大変な活眼だ」
「中(あた)りましたろうがな、もし」
「そうですね。中ったかも知れませんよ」
「しかし今時の女子(おなご)は、昔(むかし)と違(ちご)うて油断が出来んけれ、お気をお付けたがええぞなもし」
「何ですかい、僕の奥さんが東京で間男でもこしらえていますかい」
「いいえ、あなたの奥さんはたしかじゃけれど……」
「それで、やっと安心した。それじゃ何を気を付けるんですい」
「あなたのはたしか――あなたのはたしかじゃが――」
「どこに不たしかなのが居ますかね」
「ここ等(ら)にも大分居(お)ります。先生、あの遠山のお嬢(じょう)さんをご存知かなもし」
「いいえ、知りませんね」
「まだご存知ないかなもし。ここらであなた一番の別嬪(べっぴん)さんじゃがなもし。あまり別嬪さんじゃけれ、学校の先生方はみんなマドンナマドンナと言うといでるぞなもし。まだお聞きんのかなもし」
「うん、マドンナですか。僕あ芸者の名かと思った」
「いいえ、あなた。マドンナと云うと唐人(とうじん)の言葉で、別嬪さんの事じゃろうがなもし」
「そうかも知れないね。驚いた」
「大方画学の先生がお付けた名ぞなもし」
「野だがつけたんですかい」
「いいえ、あの吉川(よしかわ)先生がお付けたのじゃがなもし」
「そのマドンナが不たしかなんですかい」
「そのマドンナさんが不たしかなマドンナさんでな、もし」
「厄介(やっかい)だね。渾名(あだな)の付いてる女にゃ昔から碌(ろく)なものは居ませんからね。そうかも知れませんよ」
「ほん当にそうじゃなもし。鬼神(きじん)のお松(まつ)じゃの、妲妃(だっき)のお百じゃのてて怖(こわ)い女が居(お)りましたなもし」
「マドンナもその同類なんですかね」
「そのマドンナさんがなもし、あなた。そらあの、あなたをここへ世話をしておくれた古賀先生なもし――あの方の所へお嫁(よめ)に行く約束(やくそく)が出来ていたのじゃがなもし――」
「へえ、不思議なもんですね。あのうらなり君が、そんな艶福(えんぷく)のある男とは思わなかった。人は見懸(みか)けによらない者だな。ちっと気を付けよう」
「ところが、去年あすこのお父さんが、お亡くなりて、――それまではお金もあるし、銀行の株も持ってお出(いで)るし、万事都合(つごう)がよかったのじゃが――それからというものは、どういうものか急に暮し向きが思わしくなくなって――つまり古賀さんがあまりお人が好過(よす)ぎるけれ、お欺(だま)されたんぞなもし。それや、これやでお輿入(こしいれ)も延びているところへ、あの教頭さんがお出(い)でて、是非お嫁にほしいとお云いるのじゃがなもし」
「あの赤シャツがですか。ひどい奴(やつ)だ。どうもあのシャツはただのシャツじゃないと思ってた。それから?」
「人を頼んで懸合(かけお)うておみると、遠山さんでも古賀さんに義理があるから、すぐには返事は出来かねて――まあよう考えてみようぐらいの挨拶をおしたのじゃがなもし。すると赤シャツさんが、手蔓(てづる)を求めて遠山さんの方へ出入(でいり)をおしるようになって、とうとうあなた、お嬢さんを手馴付(てなづ)けておしまいたのじゃがなもし。赤シャツさんも赤シャツさんじゃが、お嬢さんもお嬢さんじゃてて、みんなが悪(わ)るく云いますのよ。いったん古賀さんへ嫁に行くてて承知をしときながら、今さら学士さんがお出(いで)たけれ、その方に替(か)えよてて、それじゃ今日様(こんにちさま)へ済むまいがなもし、あなた」
「全く済まないね。今日様どころか明日様にも明後日様にも、いつまで行ったって済みっこありませんね」
「それで古賀さんにお気の毒じゃてて、お友達の堀田(ほった)さんが教頭の所へ意見をしにお行きたら、赤シャツさんが、あしは約束のあるものを横取りするつもりはない。破約になれば貰うかも知れんが、今のところは遠山家とただ交際をしているばかりじゃ、遠山家と交際をするには別段古賀さんに済まん事もなかろうとお云いるけれ、堀田さんも仕方がなしにお戻(もど)りたそうな。赤シャツさんと堀田さんは、それ以来折合(おりあい)がわるいという評判ぞなもし」
「よくいろいろな事を知ってますね。どうして、そんな詳(くわ)しい事が分るんですか。感心しちまった」
「狭(せま)いけれ何でも分りますぞなもし」
 分り過ぎて困るくらいだ。この容子(ようす)じゃおれの天麩羅(てんぷら)や団子(だんご)の事も知ってるかも知れない。厄介(やっかい)な所だ。しかしお蔭様(かげさま)でマドンナの意味もわかるし、山嵐と赤シャツの関係もわかるし大いに後学になった。ただ困るのはどっちが悪る者だか判然しない。おれのような単純なものには白とか黒とか片づけてもらわないと、どっちへ味方をしていいか分らない。
「赤シャツと山嵐たあ、どっちがいい人ですかね」
「山嵐て何ぞなもし」
「山嵐というのは堀田の事ですよ」
「そりゃ強い事は堀田さんの方が強そうじゃけれど、しかし赤シャツさんは学士さんじゃけれ、働きはある方(かた)ぞな、もし。それから優しい事も赤シャツさんの方が優しいが、生徒の評判は堀田さんの方がええというぞなもし」
「つまりどっちがいいんですかね」
「つまり月給の多い方が豪(えら)いのじゃろうがなもし」
 これじゃ聞いたって仕方がないから、やめにした。それから二三日して学校から帰るとお婆さんがにこにこして、へえお待遠さま。やっと参りました。と一本の手紙を持って来てゆっくりご覧と云って出て行った。取り上げてみると清からの便りだ。符箋(ふせん)が二三枚(まい)ついてるから、よく調べると、山城屋から、いか銀の方へ廻(まわ)して、いか銀から、萩野(はぎの)へ廻って来たのである。その上山城屋では一週間ばかり逗留(とうりゅう)している。宿屋だけに手紙まで泊(とめ)るつもりなんだろう。開いてみると、非常に長いもんだ。坊(ぼ)っちゃんの手紙を頂いてから、すぐ返事をかこうと思ったが、あいにく風邪を引いて一週間ばかり寝(ね)ていたものだから、つい遅(おそ)くなって済まない。その上今時のお嬢さんのように読み書きが達者でないものだから、こんなまずい字でも、かくのによっぽど骨が折れる。甥(おい)に代筆を頼もうと思ったが、せっかくあげるのに自分でかかなくっちゃ、坊っちゃんに済まないと思って、わざわざ下(し)たがきを一返して、それから清書をした。清書をするには二日で済んだが、下た書きをするには四日かかった。読みにくいかも知れないが、これでも一生懸命(いっしょうけんめい)にかいたのだから、どうぞしまいまで読んでくれ。という冒頭(ぼうとう)で四尺ばかり何やらかやら認(したた)めてある。なるほど読みにくい。字がまずいばかりではない、大抵(たいてい)平仮名だから、どこで切れて、どこで始まるのだか句読(くとう)をつけるのによっぽど骨が折れる。おれは焦(せ)っ勝(か)ちな性分だから、こんな長くて、分りにくい手紙は、五円やるから読んでくれと頼まれても断わるのだが、この時ばかりは真面目(まじめ)になって、始(はじめ)から終(しまい)まで読み通した。読み通した事は事実だが、読む方に骨が折れて、意味がつながらないから、また頭から読み直してみた。部屋のなかは少し暗くなって、前の時より見にくく、なったから、とうとう椽鼻(えんばな)へ出て腰(こし)をかけながら鄭寧(ていねい)に拝見した。すると初秋(はつあき)の風が芭蕉(ばしょう)の葉を動かして、素肌(すはだ)に吹(ふ)きつけた帰りに、読みかけた手紙を庭の方へなびかしたから、しまいぎわには四尺あまりの半切れがさらりさらりと鳴って、手を放すと、向(むこ)うの生垣まで飛んで行きそうだ。おれはそんな事には構っていられない。坊っちゃんは竹を割ったような気性だが、ただ肝癪(かんしゃく)が強過ぎてそれが心配になる。――ほかの人に無暗(むやみ)に渾名(あだな)なんか、つけるのは人に恨(うら)まれるもとになるから、やたらに使っちゃいけない、もしつけたら、清だけに手紙で知らせろ。――田舎者は人がわるいそうだから、気をつけてひどい目に遭(あ)わないようにしろ。――気候だって東京より不順に極ってるから、寝冷(ねびえ)をして風邪を引いてはいけない。坊っちゃんの手紙はあまり短過ぎて、容子がよくわからないから、この次にはせめてこの手紙の半分ぐらいの長さのを書いてくれ。――宿屋へ茶代を五円やるのはいいが、あとで困りゃしないか、田舎へ行って頼(たよ)りになるはお金ばかりだから、なるべく倹約(けんやく)して、万一の時に差支(さしつか)えないようにしなくっちゃいけない。――お小遣(こづかい)がなくて困るかも知れないから、為替(かわせ)で十円あげる。――先(せん)だって坊っちゃんからもらった五十円を、坊っちゃんが、東京へ帰って、うちを持つ時の足しにと思って、郵便局へ預けておいたが、この十円を引いてもまだ四十円あるから大丈夫だ。――なるほど女と云うものは細かいものだ。
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发表于 2006-9-23 00:26:18 | 显示全部楼层
おれが椽鼻で清の手紙をひらつかせながら、考え込(こ)んでいると、しきりの襖(ふすま)をあけて、萩野のお婆さんが晩めしを持ってきた。まだ見てお出(い)でるのかなもし。えっぽど長いお手紙じゃなもし、と云ったから、ええ大事な手紙だから風に吹かしては見、吹かしては見るんだと、自分でも要領を得ない返事をして膳(ぜん)についた。見ると今夜も薩摩芋(さつまいも)の煮(に)つけだ。ここのうちは、いか銀よりも鄭寧(ていねい)で、親切で、しかも上品だが、惜(お)しい事に食い物がまずい。昨日も芋、一昨日(おととい)も芋で今夜も芋だ。おれは芋は大好きだと明言したには相違ないが、こう立てつづけに芋を食わされては命がつづかない。うらなり君を笑うどころか、おれ自身が遠からぬうちに、芋のうらなり先生になっちまう。清ならこんな時に、おれの好きな鮪(まぐろ)のさし身か、蒲鉾(かまぼこ)のつけ焼を食わせるんだが、貧乏(びんぼう)士族のけちん坊(ぼう)と来ちゃ仕方がない。どう考えても清といっしょでなくっちあ駄目(だめ)だ。もしあの学校に長くでも居る模様なら、東京から召(よ)び寄(よ)せてやろう。天麩羅蕎麦(そば)を食っちゃならない、団子を食っちゃならない、それで下宿に居て芋ばかり食って黄色くなっていろなんて、教育者はつらいものだ。禅宗(ぜんしゅう)坊主だって、これよりは口に栄耀(えよう)をさせているだろう。――おれは一皿の芋を平げて、机の抽斗(ひきだし)から生卵を二つ出して、茶碗(ちゃわん)の縁(ふち)でたたき割って、ようやく凌(しの)いだ。生卵ででも営養をとらなくっちあ一週二十一時間の授業が出来るものか。
 今日は清の手紙で湯に行く時間が遅くなった。しかし毎日行きつけたのを一日でも欠かすのは心持ちがわるい。汽車にでも乗って出懸(でか)けようと、例の赤手拭(あかてぬぐい)をぶら下げて停車場(ていしゃば)まで来ると二三分前に発車したばかりで、少々待たなければならぬ。ベンチへ腰を懸けて、敷島(しきしま)を吹かしていると、偶然(ぐうぜん)にもうらなり君がやって来た。おれはさっきの話を聞いてから、うらなり君がなおさら気の毒になった。平常(ふだん)から天地の間に居候(いそうろう)をしているように、小さく構えているのがいかにも憐(あわ)れに見えたが、今夜は憐れどころの騒(さわ)ぎではない。出来るならば月給を倍にして、遠山のお嬢さんと明日(あした)から結婚(けっこん)さして、一ヶ月ばかり東京へでも遊びにやってやりたい気がした矢先だから、やお湯ですか、さあ、こっちへお懸けなさいと威勢(いせい)よく席を譲(ゆず)ると、うらなり君は恐(おそ)れ入った体裁で、いえ構(かも)うておくれなさるな、と遠慮(えんりょ)だか何だかやっぱり立ってる。少し待たなくっちゃ出ません、草臥(くたび)れますからお懸けなさいとまた勧めてみた。実はどうかして、そばへ懸けてもらいたかったくらいに気の毒でたまらない。それではお邪魔(じゃま)を致(いた)しましょうとようやくおれの云う事を聞いてくれた。世の中には野だみたように生意気な、出ないで済む所へ必ず顔を出す奴もいる。山嵐のようにおれが居なくっちゃ日本(にっぽん)が困るだろうと云うような面を肩(かた)の上へ載(の)せてる奴もいる。そうかと思うと、赤シャツのようにコスメチックと色男の問屋をもって自ら任じているのもある。教育が生きてフロックコートを着ればおれになるんだと云わぬばかりの狸(たぬき)もいる。皆々(みなみな)それ相応に威張ってるんだが、このうらなり先生のように在れどもなきがごとく、人質に取られた人形のように大人(おとな)しくしているのは見た事がない。顔はふくれているが、こんな結構な男を捨てて赤シャツに靡(なび)くなんて、マドンナもよっぼど気の知れないおきゃんだ。赤シャツが何ダース寄ったって、これほど立派な旦那様(だんなさま)が出来るもんか。
「あなたはどっか悪いんじゃありませんか。大分たいぎそうに見えますが……」「いえ、別段これという持病もないですが……」
「そりゃ結構です。からだが悪いと人間も駄目ですね」
「あなたは大分ご丈夫(じょうぶ)のようですな」
「ええ瘠(や)せても病気はしません。病気なんてものあ大嫌いですから」
 うらなり君は、おれの言葉を聞いてにやにやと笑った。
 ところへ入口で若々しい女の笑声が聞(きこ)えたから、何心なく振(ふ)り返ってみるとえらい奴が来た。色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人と、四十五六の奥さんとが並(なら)んで切符(きっぷ)を売る窓の前に立っている。おれは美人の形容などが出来る男でないから何にも云えないが全く美人に相違ない。何だか水晶(すいしょう)の珠(たま)を香水(こうすい)で暖(あっ)ためて、掌(てのひら)へ握(にぎ)ってみたような心持ちがした。年寄の方が背は低い。しかし顔はよく似ているから親子だろう。おれは、や、来たなと思う途端(とたん)に、うらなり君の事は全然(すっかり)忘れて、若い女の方ばかり見ていた。すると、うらなり君が突然(とつぜん)おれの隣(となり)から、立ち上がって、そろそろ女の方へ歩き出したんで、少し驚いた。マドンナじゃないかと思った。三人は切符所の前で軽く挨拶している。遠いから何を云ってるのか分らない。
 停車場の時計を見るともう五分で発車だ。早く汽車がくればいいがなと、話し相手が居なくなったので待ち遠しく思っていると、また一人あわてて場内へ馳(か)け込(こ)んで来たものがある。見れば赤シャツだ。何だかべらべら然たる着物へ縮緬(ちりめん)の帯をだらしなく巻き付けて、例の通り金鎖(きんぐさ)りをぶらつかしている。あの金鎖りは贋物(にせもの)である。赤シャツは誰(だれ)も知るまいと思って、見せびらかしているが、おれはちゃんと知ってる。赤シャツは馳け込んだなり、何かきょろきょろしていたが、切符売下所(うりさげじょ)の前に話している三人へ慇懃(いんぎん)にお辞儀(じぎ)をして、何か二こと、三こと、云ったと思ったら、急にこっちへ向いて、例のごとく猫足(ねこあし)にあるいて来て、や君も湯ですか、僕は乗り後れやしないかと思って心配して急いで来たら、まだ三四分ある。あの時計はたしかかしらんと、自分の金側(きんがわ)を出して、二分ほどちがってると云いながら、おれの傍(そば)へ腰を卸(おろ)した。女の方はちっとも見返らないで杖(つえ)の上に顋(あご)をのせて、正面ばかり眺(なが)めている。年寄の婦人は時々赤シャツを見るが、若い方は横を向いたままである。いよいよマドンナに違いない。
 やがて、ピューと汽笛(きてき)が鳴って、車がつく。待ち合せた連中はぞろぞろ吾(わ)れ勝(がち)に乗り込む。赤シャツはいの一号に上等へ飛び込んだ。上等へ乗ったって威張れるどころではない、住田(すみた)まで上等が五銭で下等が三銭だから、わずか二銭違いで上下の区別がつく。こういうおれでさえ上等を奮発(ふんぱつ)して白切符を握(にぎ)ってるんでもわかる。もっとも田舎者はけちだから、たった二銭の出入でもすこぶる苦になると見えて、大抵(たいてい)は下等へ乗る。赤シャツのあとからマドンナとマドンナのお袋が上等へはいり込んだ。うらなり君は活版で押(お)したように下等ばかりへ乗る男だ。先生、下等の車室の入口へ立って、何だか躊躇(ちゅうちょ)の体(てい)であったが、おれの顔を見るや否や思いきって、飛び込んでしまった。おれはこの時何となく気の毒でたまらなかったから、うらなり君のあとから、すぐ同じ車室へ乗り込んだ。上等の切符で下等へ乗るに不都合はなかろう。
 温泉へ着いて、三階から、浴衣(ゆかた)のなりで湯壺(ゆつぼ)へ下りてみたら、またうらなり君に逢った。おれは会議や何かでいざと極まると、咽喉(のど)が塞(ふさ)がって饒舌(しゃべ)れない男だが、平常(ふだん)は随分(ずいぶん)弁ずる方だから、いろいろ湯壺のなかでうらなり君に話しかけてみた。何だか憐れぽくってたまらない。こんな時に一口でも先方の心を慰(なぐさ)めてやるのは、江戸(えど)っ子の義務だと思ってる。ところがあいにくうらなり君の方では、うまい具合にこっちの調子に乗ってくれない。何を云っても、えとかいえとかぎりで、しかもそのえといえが大分面倒(めんどう)らしいので、しまいにはとうとう切り上げて、こっちからご免蒙(めんこうむ)った。
 湯の中では赤シャツに逢わなかった。もっとも風呂(ふろ)の数はたくさんあるのだから、同じ汽車で着いても、同じ湯壺で逢うとは極まっていない。別段不思議にも思わなかった。風呂を出てみるといい月だ。町内の両側に柳(やなぎ)が植(うわ)って、柳の枝(えだ)が丸(ま)るい影を往来の中へ落(おと)している。少し散歩でもしよう。北へ登って町のはずれへ出ると、左に大きな門があって、門の突き当りがお寺で、左右が妓楼(ぎろう)である。山門のなかに遊廓(ゆうかく)があるなんて、前代未聞の現象だ。ちょっとはいってみたいが、また狸から会議の時にやられるかも知れないから、やめて素通りにした。門の並びに黒い暖簾(のれん)をかけた、小さな格子窓(こうしまど)の平屋はおれが団子を食って、しくじった所だ。丸提灯(まるぢょうちん)に汁粉(しるこ)、お雑煮(ぞうに)とかいたのがぶらさがって、提灯の火が、軒端(のきば)に近い一本の柳の幹を照らしている。食いたいなと思ったが我慢して通り過ぎた。
 食いたい団子の食えないのは情ない。しかし自分の許嫁(いいなずけ)が他人に心を移したのは、なお情ないだろう。うらなり君の事を思うと、団子は愚(おろ)か、三日ぐらい断食(だんじき)しても不平はこぼせない訳だ。本当に人間ほどあてにならないものはない。あの顔を見ると、どうしたって、そんな不人情な事をしそうには思えないんだが――うつくしい人が不人情で、冬瓜(とうがん)の水膨(みずぶく)れのような古賀さんが善良な君子なのだから、油断が出来ない。淡泊(たんぱく)だと思った山嵐は生徒を煽動(せんどう)したと云うし。生徒を煽動したのかと思うと、生徒の処分を校長に逼(せま)るし。厭味(いやみ)で練りかためたような赤シャツが存外親切で、おれに余所(よそ)ながら注意をしてくれるかと思うと、マドンナを胡魔化(ごまか)したり、胡魔化したのかと思うと、古賀の方が破談にならなければ結婚は望まないんだと云うし。いか銀が難癖(なんくせ)をつけて、おれを追い出すかと思うと、すぐ野だ公が入(い)れ替(かわ)ったり――どう考えてもあてにならない。こんな事を清にかいてやったら定めて驚く事だろう。箱根(はこね)の向うだから化物(ばけもの)が寄り合ってるんだと云うかも知れない。
 おれは、性来(しょうらい)構わない性分だから、どんな事でも苦にしないで今日まで凌いで来たのだが、ここへ来てからまだ一ヶ月立つか、立たないうちに、急に世のなかを物騒(ぶっそう)に思い出した。別段際だった大事件にも出逢わないのに、もう五つ六つ年を取ったような気がする。早く切り上げて東京へ帰るのが一番よかろう。などとそれからそれへ考えて、いつか石橋を渡(わた)って野芹川(のぜりがわ)の堤(どて)へ出た。川と云うとえらそうだが実は一間ぐらいな、ちょろちょろした流れで、土手に沿うて十二丁ほど下ると相生村(あいおいむら)へ出る。村には観音様(かんのんさま)がある。
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发表于 2006-9-23 00:26:52 | 显示全部楼层
温泉(ゆ)の町を振り返ると、赤い灯が、月の光の中にかがやいている。太鼓(たいこ)が鳴るのは遊廓に相違ない。川の流れは浅いけれども早いから、神経質の水のようにやたらに光る。ぶらぶら土手の上をあるきながら、約三丁も来たと思ったら、向うに人影(ひとかげ)が見え出した。月に透(す)かしてみると影は二つある。温泉(ゆ)へ来て村へ帰る若い衆(しゅ)かも知れない。それにしては唄(うた)もうたわない。存外静かだ。
 だんだん歩いて行くと、おれの方が早足だと見えて、二つの影法師が、次第に大きくなる。一人は女らしい。おれの足音を聞きつけて、十間ぐらいの距離(きょり)に逼った時、男がたちまち振り向いた。月は後(うしろ)からさしている。その時おれは男の様子を見て、はてなと思った。男と女はまた元の通りにあるき出した。おれは考えがあるから、急に全速力で追っ懸(か)けた。先方は何の気もつかずに最初の通り、ゆるゆる歩を移している。今は話し声も手に取るように聞える。土手の幅は六尺ぐらいだから、並んで行けば三人がようやくだ。おれは苦もなく後ろから追い付いて、男の袖(そで)を擦(す)り抜(ぬ)けざま、二足前へ出した踵(くびす)をぐるりと返して男の顔を覗(のぞ)き込(こ)んだ。月は正面からおれの五分刈(がり)の頭から顋の辺(あた)りまで、会釈(えしゃく)もなく照(てら)す。男はあっと小声に云ったが、急に横を向いて、もう帰ろうと女を促(うな)がすが早いか、温泉(ゆ)の町の方へ引き返した。
 赤シャツは図太くて胡魔化すつもりか、気が弱くて名乗り損(そく)なったのかしら。ところが狭くて困ってるのは、おればかりではなかった。

     八

 赤シャツに勧められて釣(つり)に行った帰りから、山嵐(やまあらし)を疑ぐり出した。無い事を種に下宿を出ろと云われた時は、いよいよ不埒(ふらち)な奴(やつ)だと思った。ところが会議の席では案に相違(そうい)して滔々(とうとう)と生徒厳罰論(げんばつろん)を述べたから、おや変だなと首を捩(ひね)った。萩野(はぎの)の婆(ばあ)さんから、山嵐が、うらなり君のために赤シャツと談判をしたと聞いた時は、それは感心だと手を拍(う)った。この様子ではわる者は山嵐じゃあるまい、赤シャツの方が曲ってるんで、好加減(いいかげん)な邪推(じゃすい)を実(まこと)しやかに、しかも遠廻(とおまわ)しに、おれの頭の中へ浸(し)み込(こ)ましたのではあるまいかと迷ってる矢先へ、野芹川(のぜりがわ)の土手で、マドンナを連れて散歩なんかしている姿を見たから、それ以来赤シャツは曲者(くせもの)だと極(き)めてしまった。曲者だか何だかよくは分(わか)らないが、ともかくも善(い)い男じゃない。表と裏とは違(ちが)った男だ。人間は竹のように真直(まっすぐ)でなくっちゃ頼(たの)もしくない。真直なものは喧嘩(けんか)をしても心持ちがいい。赤シャツのようなやさしいのと、親切なのと、高尚(こうしょう)なのと、琥珀(こはく)のパイプとを自慢(じまん)そうに見せびらかすのは油断が出来ない、めったに喧嘩も出来ないと思った。喧嘩をしても、回向院(えこういん)の相撲(すもう)のような心持ちのいい喧嘩は出来ないと思った。そうなると一銭五厘の出入(でいり)で控所(ひかえじょ)全体を驚(おど)ろかした議論の相手の山嵐の方がはるかに人間らしい。会議の時に金壺眼(かなつぼまなこ)をぐりつかせて、おれを睨(にら)めた時は憎(にく)い奴だと思ったが、あとで考えると、それも赤シャツのねちねちした猫撫声(ねこなでごえ)よりはましだ。実はあの会議が済んだあとで、よっぽど仲直りをしようかと思って、一こと二こと話しかけてみたが、野郎(やろう)返事もしないで、まだ眼(め)を剥(むく)ってみせたから、こっちも腹が立ってそのままにしておいた。
 それ以来山嵐はおれと口を利かない。机の上へ返した一銭五厘はいまだに机の上に乗っている。ほこりだらけになって乗っている。おれは無論手が出せない、山嵐は決して持って帰らない。この一銭五厘が二人の間の墻壁(しょうへき)になって、おれは話そうと思っても話せない、山嵐は頑(がん)として黙(だま)ってる。おれと山嵐には一銭五厘が祟(たた)った。しまいには学校へ出て一銭五厘を見るのが苦になった。
 山嵐とおれが絶交の姿となったに引き易(か)えて、赤シャツとおれは依然(いぜん)として在来の関係を保って、交際をつづけている。野芹川で逢(あ)った翌日などは、学校へ出ると第一番におれの傍(そば)へ来て、君今度の下宿はいいですかのまたいっしょに露西亜(ロシア)文学を釣(つ)りに行こうじゃないかのといろいろな事を話しかけた。おれは少々憎(にく)らしかったから、昨夜(ゆうべ)は二返逢いましたねと云(い)ったら、ええ停車場(ていしゃば)で――君はいつでもあの時分出掛(でか)けるのですか、遅いじゃないかと云う。野芹川の土手でもお目に懸(かか)りましたねと喰(く)らわしてやったら、いいえ僕(ぼく)はあっちへは行かない、湯にはいって、すぐ帰ったと答えた。何もそんなに隠(かく)さないでもよかろう、現に逢ってるんだ。よく嘘(うそ)をつく男だ。これで中学の教頭が勤まるなら、おれなんか大学総長がつとまる。おれはこの時からいよいよ赤シャツを信用しなくなった。信用しない赤シャツとは口をきいて、感心している山嵐とは話をしない。世の中は随分妙(ずいぶんみょう)なものだ。
 ある日の事赤シャツがちょっと君に話があるから、僕のうちまで来てくれと云うから、惜(お)しいと思ったが温泉行きを欠勤して四時頃(ごろ)出掛けて行った。赤シャツは一人ものだが、教頭だけに下宿はとくの昔(むかし)に引き払(はら)って立派な玄関(げんかん)を構えている。家賃は九円五拾銭(じっせん)だそうだ。田舎(いなか)へ来て九円五拾銭払えばこんな家へはいれるなら、おれも一つ奮発(ふんぱつ)して、東京から清を呼び寄せて喜ばしてやろうと思ったくらいな玄関だ。頼むと云ったら、赤シャツの弟が取次(とりつぎ)に出て来た。この弟は学校で、おれに代数と算術を教わる至って出来のわるい子だ。その癖渡(くせわた)りものだから、生れ付いての田舎者よりも人が悪(わ)るい。
 赤シャツに逢って用事を聞いてみると、大将例の琥珀のパイプで、きな臭(くさ)い烟草(たばこ)をふかしながら、こんな事を云った。「君が来てくれてから、前任者の時代よりも成績(せいせき)がよくあがって、校長も大いにいい人を得たと喜んでいるので――どうか学校でも信頼(しんらい)しているのだから、そのつもりで勉強していただきたい」
「へえ、そうですか、勉強って今より勉強は出来ませんが――」
「今のくらいで充分(じゅうぶん)です。ただ先だってお話しした事ですね、あれを忘れずにいて下さればいいのです」
「下宿の世話なんかするものあ剣呑(けんのん)だという事ですか」
「そう露骨(ろこつ)に云うと、意味もない事になるが――まあ善いさ――精神は君にもよく通じている事と思うから。そこで君が今のように出精(しゅっせい)して下されば、学校の方でも、ちゃんと見ているんだから、もう少しして都合(つごう)さえつけば、待遇(たいぐう)の事も多少はどうにかなるだろうと思うんですがね」
「へえ、俸給(ほうきゅう)ですか。俸給なんかどうでもいいんですが、上がれば上がった方がいいですね」
「それで幸い今度転任者が一人出来るから――もっとも校長に相談してみないと無論受け合えない事だが――その俸給から少しは融通(ゆうずう)が出来るかも知れないから、それで都合をつけるように校長に話してみようと思うんですがね」
「どうも難有(ありがと)う。だれが転任するんですか」
「もう発表になるから話しても差し支(つか)えないでしょう。実は古賀君です」
「古賀さんは、だってここの人じゃありませんか」
「ここの地(じ)の人ですが、少し都合があって――半分は当人の希望です」
「どこへ行(ゆ)くんです」
「日向(ひゅうが)の延岡(のべおか)で――土地が土地だから一級俸上(あが)って行く事になりました」
「誰(だれ)か代りが来るんですか」
「代りも大抵(たいてい)極まってるんです。その代りの具合で君の待遇上の都合もつくんです」
「はあ、結構です。しかし無理に上がらないでも構いません」
「とも角も僕は校長に話すつもりです。それで校長も同意見らしいが、追っては君にもっと働いて頂(いた)だかなくってはならんようになるかも知れないから、どうか今からそのつもりで覚悟(かくご)をしてやってもらいたいですね」
「今より時間でも増すんですか」
「いいえ、時間は今より減るかも知れませんが――」
「時間が減って、もっと働くんですか、妙だな」
「ちょっと聞くと妙だが、――判然とは今言いにくいが――まあつまり、君にもっと重大な責任を持ってもらうかも知れないという意味なんです」
 おれには一向分らない。今より重大な責任と云えば、数学の主任だろうが、主任は山嵐だから、やっこさんなかなか辞職する気遣(きづか)いはない。それに、生徒の人望があるから転任や免職(めんしょく)は学校の得策であるまい。赤シャツの談話はいつでも要領を得ない。要領を得なくっても用事はこれで済んだ。それから少し雑談をしているうちに、うらなり君の送別会をやる事や、ついてはおれが酒を飲むかと云う問や、うらなり先生は君子で愛すべき人だと云う事や――赤シャツはいろいろ弁じた。しまいに話をかえて君俳句をやりますかと来たから、こいつは大変だと思って、俳句はやりません、さようならと、そこそこに帰って来た。発句(ほっく)は芭蕉(ばしょう)か髪結床(かみいどこ)の親方のやるもんだ。数学の先生が朝顔やに釣瓶(つるべ)をとられてたまるものか。
 帰ってうんと考え込んだ。世間には随分気の知れない男が居る。家屋敷はもちろん、勤める学校に不足のない故郷がいやになったからと云って、知らぬ他国へ苦労を求めに出る。それも花の都の電車が通(かよ)ってる所なら、まだしもだが、日向の延岡とは何の事だ。おれは船つきのいいここへ来てさえ、一ヶ月立たないうちにもう帰りたくなった。延岡と云えば山の中も山の中も大変な山の中だ。赤シャツの云うところによると船から上がって、一日(いちんち)馬車へ乗って、宮崎へ行って、宮崎からまた一日(いちんち)車へ乗らなくっては着けないそうだ。名前を聞いてさえ、開けた所とは思えない。猿(さる)と人とが半々に住んでるような気がする。いかに聖人のうらなり君だって、好んで猿の相手になりたくもないだろうに、何という物数奇(ものずき)だ。
 ところへあいかわらず婆(ばあ)さんが夕食(ゆうめし)を運んで出る。今日もまた芋(いも)ですかいと聞いてみたら、いえ今日はお豆腐(とうふ)ぞなもしと云った。どっちにしたって似たものだ。
「お婆さん古賀さんは日向へ行くそうですね」
「ほん当にお気の毒じゃな、もし」
「お気の毒だって、好んで行くんなら仕方がないですね」
「好んで行くて、誰がぞなもし」
「誰がぞなもしって、当人がさ。古賀先生が物数奇に行くんじゃありませんか」
「そりゃあなた、大違いの勘五郎(かんごろう)ぞなもし」
「勘五郎かね。だって今赤シャツがそう云いましたぜ。それが勘五郎なら赤シャツは嘘つきの法螺右衛門(ほらえもん)だ」
「教頭さんが、そうお云いるのはもっともじゃが、古賀さんのお往(い)きともないのももっともぞなもし」
「そんなら両方もっともなんですね。お婆さんは公平でいい。一体どういう訳なんですい」
「今朝古賀のお母さんが見えて、だんだん訳をお話したがなもし」
「どんな訳をお話したんです」
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发表于 2006-9-23 00:27:21 | 显示全部楼层
「あそこもお父さんがお亡くなりてから、あたし達が思うほど暮(くら)し向(むき)が豊かになうてお困りじゃけれ、お母さんが校長さんにお頼みて、もう四年も勤めているものじゃけれ、どうぞ毎月頂くものを、今少しふやしておくれんかてて、あなた」
「なるほど」
「校長さんが、ようまあ考えてみとこうとお云いたげな。それでお母さんも安心して、今に増給のご沙汰(さた)があろぞ、今月か来月かと首を長くして待っておいでたところへ、校長さんがちょっと来てくれと古賀さんにお云いるけれ、行ってみると、気の毒だが学校は金が足りんけれ、月給を上げる訳にゆかん。しかし延岡になら空いた口があって、そっちなら毎月五円余分にとれるから、お望み通りでよかろうと思うて、その手続きにしたから行くがええと云われたげな。――」
「じゃ相談じゃない、命令じゃありませんか」
「さよよ。古賀さんはよそへ行って月給が増すより、元のままでもええから、ここに居(お)りたい。屋敷もあるし、母もあるからとお頼みたけれども、もうそう極めたあとで、古賀さんの代りは出来ているけれ仕方がないと校長がお云いたげな」
「へん人を馬鹿(ばか)にしてら、面白(おもしろ)くもない。じゃ古賀さんは行く気はないんですね。どうれで変だと思った。五円ぐらい上がったって、あんな山の中へ猿のお相手をしに行く唐変木(とうへんぼく)はまずないからね」
「唐変木て、先生なんぞなもし」
「何でもいいでさあ、――全く赤シャツの作略(さりゃく)だね。よくない仕打(しうち)だ。まるで欺撃(だましうち)ですね。それでおれの月給を上げるなんて、不都合(ふつごう)な事があるものか。上げてやるったって、誰が上がってやるものか」
「先生は月給がお上りるのかなもし」
「上げてやるって云うから、断(こと)わろうと思うんです」
「何で、お断わりるのぞなもし」
「何でもお断わりだ。お婆さん、あの赤シャツは馬鹿ですぜ。卑怯(ひきょう)でさあ」
「卑怯でもあんた、月給を上げておくれたら、大人(おとな)しく頂いておく方が得ぞなもし。若いうちはよく腹の立つものじゃが、年をとってから考えると、も少しの我慢(がまん)じゃあったのに惜しい事をした。腹立てたためにこないな損をしたと悔(くや)むのが当り前じゃけれ、お婆の言う事をきいて、赤シャツさんが月給をあげてやろとお言いたら、難有(ありがと)うと受けておおきなさいや」
「年寄(としより)の癖に余計な世話を焼かなくってもいい。おれの月給は上がろうと下がろうとおれの月給だ」
 婆さんはだまって引き込んだ。爺(じい)さんは呑気(のんき)な声を出して謡(うたい)をうたってる。謡というものは読んでわかる所を、やにむずかしい節をつけて、わざと分らなくする術だろう。あんな者を毎晩飽(あ)きずに唸(うな)る爺さんの気が知れない。おれは謡どころの騒(さわ)ぎじゃない。月給を上げてやろうと云うから、別段欲しくもなかったが、入らない金を余しておくのももったいないと思って、よろしいと承知したのだが、転任したくないものを無理に転任させてその男の月給の上前を跳(は)ねるなんて不人情な事が出来るものか。当人がもとの通りでいいと云うのに延岡下(くんだ)りまで落ちさせるとは一体どう云う了見(りょうけん)だろう。太宰権帥(だざいごんのそつ)でさえ博多(はかた)近辺で落ちついたものだ。河合又五郎(かあいまたごろう)だって相良(さがら)でとまってるじゃないか。とにかく赤シャツの所へ行って断わって来なくっちあ気が済まない。
 小倉(こくら)の袴(はかま)をつけてまた出掛けた。大きな玄関へ突(つ)っ立って頼むと云うと、また例の弟が取次に出て来た。おれの顔を見てまた来たかという眼付(めつき)をした。用があれば二度だって三度だって来る。よる夜なかだって叩(たた)き起(おこ)さないとは限らない。教頭の所へご機嫌伺(きげんうかが)いにくるようなおれと見損(みそくな)ってるか。これでも月給が入らないから返しに来(きた)んだ。すると弟が今来客中だと云うから、玄関でいいからちょっとお目にかかりたいと云ったら奥(おく)へ引き込んだ。足元を見ると、畳付(たたみつ)きの薄っぺらな、のめりの駒下駄(こまげた)がある。奥でもう万歳(ばんざい)ですよと云う声が聞(きこ)える。お客とは野だだなと気がついた。野だでなくては、あんな黄色い声を出して、こんな芸人じみた下駄を穿(は)くものはない。
 しばらくすると、赤シャツがランプを持って玄関まで出て来て、まあ上がりたまえ、外の人じゃない吉川君だ、と云うから、いえここでたくさんです。ちょっと話せばいいんです、と云って、赤シャツの顔を見ると金時のようだ。野だ公と一杯(いっぱい)飲んでると見える。
「さっき僕の月給を上げてやるというお話でしたが、少し考えが変ったから断わりに来たんです」
 赤シャツはランプを前へ出して、奥の方からおれの顔を眺(なが)めたが、とっさの場合返事をしかねて茫然(ぼうぜん)としている。増給を断わる奴が世の中にたった一人飛び出して来たのを不審(ふしん)に思ったのか、断わるにしても、今帰ったばかりで、すぐ出直してこなくってもよさそうなものだと、呆(あき)れ返ったのか、または双方合併(そうほうがっぺい)したのか、妙な口をして突っ立ったままである。
「あの時承知したのは、古賀君が自分の希望で転任するという話でしたからで……」
「古賀君は全く自分の希望で半ば転任するんです」
「そうじゃないんです、ここに居たいんです。元の月給でもいいから、郷里に居たいのです」
「君は古賀君から、そう聞いたのですか」
「そりゃ当人から、聞いたんじゃありません」
「じゃ誰からお聞きです」
「僕の下宿の婆さんが、古賀さんのおっ母(か)さんから聞いたのを今日僕に話したのです」
「じゃ、下宿の婆さんがそう云ったのですね」
「まあそうです」
「それは失礼ながら少し違うでしょう。あなたのおっしゃる通りだと、下宿屋の婆さんの云う事は信ずるが、教頭の云う事は信じないと云うように聞えるが、そういう意味に解釈して差支(さしつか)えないでしょうか」
 おれはちょっと困った。文学士なんてものはやっぱりえらいものだ。妙な所へこだわって、ねちねち押(お)し寄せてくる。おれはよく親父(おやじ)から貴様はそそっかしくて駄目(だめ)だ駄目だと云われたが、なるほど少々そそっかしいようだ。婆さんの話を聞いてはっと思って飛び出して来たが、実はうらなり君にもうらなりのおっ母さんにも逢って詳(くわ)しい事情は聞いてみなかったのだ。だからこう文学士流に斬(き)り付けられると、ちょっと受け留めにくい。
 正面からは受け留めにくいが、おれはもう赤シャツに対して不信任を心の中(うち)で申し渡してしまった。下宿の婆さんもけちん坊(ぼう)の欲張り屋に相違ないが、嘘は吐(つ)かない女だ、赤シャツのように裏表はない。おれは仕方がないから、こう答えた。
「あなたの云う事は本当かも知れないですが――とにかく増給はご免蒙(めんこうむ)ります」
「それはますます可笑(おか)しい。今君がわざわざお出(いで)になったのは増俸を受けるには忍(しの)びない、理由を見出したからのように聞えたが、その理由が僕の説明で取り去られたにもかかわらず増俸を否まれるのは少し解しかねるようですね」
「解しかねるかも知れませんがね。とにかく断わりますよ」
「そんなに否(いや)なら強いてとまでは云いませんが、そう二三時間のうちに、特別の理由もないのに豹変(ひょうへん)しちゃ、将来君の信用にかかわる」
「かかわっても構わないです」
「そんな事はないはずです、人間に信用ほど大切なものはありませんよ。よしんば今一歩譲(ゆず)って、下宿の主人が……」
「主人じゃない、婆さんです」
「どちらでもよろしい。下宿の婆さんが君に話した事を事実としたところで、君の増給は古賀君の所得を削(けず)って得たものではないでしょう。古賀君は延岡へ行かれる。その代りがくる。その代りが古賀君よりも多少低給で来てくれる。その剰余(じょうよ)を君に廻(ま)わすと云うのだから、君は誰にも気の毒がる必要はないはずです。古賀君は延岡でただ今よりも栄進される。新任者は最初からの約束(やくそく)で安くくる。それで君が上がられれば、これほど都合(つごう)のいい事はないと思うですがね。いやなら否(いや)でもいいが、もう一返うちでよく考えてみませんか」
 おれの頭はあまりえらくないのだから、いつもなら、相手がこういう巧妙(こうみょう)な弁舌を揮(ふる)えば、おやそうかな、それじゃ、おれが間違ってたと恐(おそ)れ入って引きさがるのだけれども、今夜はそうは行かない。ここへ来た最初から赤シャツは何だか虫が好かなかった。途中(とちゅう)で親切な女みたような男だと思い返した事はあるが、それが親切でも何でもなさそうなので、反動の結果今じゃよっぽど厭(いや)になっている。だから先がどれほどうまく論理的に弁論を逞(たくまし)くしようとも、堂々たる教頭流におれを遣り込めようとも、そんな事は構わない。議論のいい人が善人とはきまらない。遣り込められる方が悪人とは限らない。表向きは赤シャツの方が重々もっともだが、表向きがいくら立派だって、腹の中まで惚(ほ)れさせる訳には行かない。金や威力(いりょく)や理屈(りくつ)で人間の心が買える者なら、高利貸でも巡査(じゅんさ)でも大学教授でも一番人に好かれなくてはならない。中学の教頭ぐらいな論法でおれの心がどう動くものか。人間は好き嫌いで働くものだ。論法で働くものじゃない。
「あなたの云う事はもっともですが、僕は増給がいやになったんですから、まあ断わります。考えたって同じ事です。さようなら」と云いすてて門を出た。頭の上には天の川が一筋かかっている。

     九

 うらなり君の送別会のあるという日の朝、学校へ出たら、山嵐(やまあらし)が突然(とつぜん)、君先だってはいか銀が来て、君が乱暴して困るから、どうか出るように話してくれと頼(たの)んだから、真面目(まじめ)に受けて、君に出てやれと話したのだが、あとから聞いてみると、あいつは悪(わ)るい奴(やつ)で、よく偽筆(ぎひつ)へ贋落款(にせらっかん)などを押(お)して売りつけるそうだから、全く君の事も出鱈目(でたらめ)に違(ちが)いない。君に懸物(かけもの)や骨董(こっとう)を売りつけて、商売にしようと思ってたところが、君が取り合わないで儲(もう)けがないものだから、あんな作りごとをこしらえて胡魔化(ごまか)したのだ。僕はあの人物を知らなかったので君に大変失敬した勘弁(かんべん)したまえと長々しい謝罪をした。
 おれは何とも云わずに、山嵐の机の上にあった、一銭五厘(りん)をとって、おれの蝦蟇口(がまぐち)のなかへ入れた。山嵐は君それを引き込(こ)めるのかと不審(ふしん)そうに聞くから、うんおれは君に奢(おご)られるのが、いやだったから、是非返すつもりでいたが、その後だんだん考えてみると、やっぱり奢ってもらう方がいいようだから、引き込ますんだと説明した。山嵐は大きな声をしてアハハハと笑いながら、そんなら、なぜ早く取らなかったのだと聞いた。実は取ろう取ろうと思ってたが、何だか妙(みょう)だからそのままにしておいた。近来は学校へ来て一銭五厘を見るのが苦になるくらいいやだったと云ったら、君はよっぽど負け惜(お)しみの強い男だと云うから、君はよっぽど剛情張(ごうじょうっぱ)りだと答えてやった。それから二人の間にこんな問答が起(おこ)った。
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发表于 2006-9-23 00:27:55 | 显示全部楼层
「君は一体どこの産だ」
「おれは江戸(えど)っ子だ」
「うん、江戸っ子か、道理で負け惜しみが強いと思った」
「きみはどこだ」
「僕は会津(あいづ)だ」
「会津っぽか、強情な訳だ。今日の送別会へ行くのかい」
「行くとも、君は?」
「おれは無論行くんだ。古賀さんが立つ時は、浜(はま)まで見送りに行こうと思ってるくらいだ」
「送別会は面白いぜ、出て見たまえ。今日は大いに飲むつもりだ」
「勝手に飲むがいい。おれは肴(さかな)を食ったら、すぐ帰る。酒なんか飲む奴は馬鹿(ばか)だ」
「君はすぐ喧嘩(けんか)を吹(ふ)き懸(か)ける男だ。なるほど江戸っ子の軽跳(けいちょう)な風を、よく、あらわしてる」
「何でもいい、送別会へ行く前にちょっとおれのうちへお寄り、話(はな)しがあるから」

 山嵐は約束(やくそく)通りおれの下宿へ寄った。おれはこの間から、うらなり君の顔を見る度に気の毒でたまらなかったが、いよいよ送別の今日となったら、何だか憐(あわ)れっぽくって、出来る事なら、おれが代りに行ってやりたい様な気がしだした。それで送別会の席上で、大いに演説でもしてその行を盛(さかん)にしてやりたいと思うのだが、おれのべらんめえ調子じゃ、到底(とうてい)物にならないから、大きな声を出す山嵐を雇(やと)って、一番赤シャツの荒肝(あらぎも)を挫(ひし)いでやろうと考え付いたから、わざわざ山嵐を呼んだのである。
 おれはまず冒頭(ぼうとう)としてマドンナ事件から説き出したが、山嵐は無論マドンナ事件はおれより詳(くわ)しく知っている。おれが野芹川(のぜりがわ)の土手の話をして、あれは馬鹿野郎(ばかやろう)だと云ったら、山嵐は君はだれを捕(つら)まえても馬鹿呼(よば)わりをする。今日学校で自分の事を馬鹿と云ったじゃないか。自分が馬鹿なら、赤シャツは馬鹿じゃない。自分は赤シャツの同類じゃないと主張した。それじゃ赤シャツは腑抜(ふぬ)けの呆助(ほうすけ)だと云ったら、そうかもしれないと山嵐は大いに賛成した。山嵐は強い事は強いが、こんな言葉になると、おれより遥(はる)かに字を知っていない。会津っぽなんてものはみんな、こんな、ものなんだろう。
 それから増給事件と将来重く登用すると赤シャツが云った話をしたら山嵐はふふんと鼻から声を出して、それじゃ僕を免職(めんしょく)する考えだなと云った。免職するつもりだって、君は免職になる気かと聞いたら、誰(だれ)がなるものか、自分が免職になるなら、赤シャツもいっしょに免職させてやると大いに威張(いば)った。どうしていっしょに免職させる気かと押し返して尋(たず)ねたら、そこはまだ考えていないと答えた。山嵐は強そうだが、智慧(ちえ)はあまりなさそうだ。おれが増給を断(こと)わったと話したら、大将大きに喜んでさすが江戸っ子だ、えらいと賞(ほ)めてくれた。
 うらなりが、そんなに厭(いや)がっているなら、なぜ留任の運動をしてやらなかったと聞いてみたら、うらなりから話を聞いた時は、既(すで)にきまってしまって、校長へ二度、赤シャツへ一度行って談判してみたが、どうする事も出来なかったと話した。それについても古賀があまり好人物過ぎるから困る。赤シャツから話があった時、断然断わるか、一応考えてみますと逃(に)げればいいのに、あの弁舌に胡魔化されて、即席(そくせき)に許諾(きょだく)したものだから、あとからお母(っか)さんが泣きついても、自分が談判に行っても役に立たなかったと非常に残念がった。
 今度の事件は全く赤シャツが、うらなりを遠ざけて、マドンナを手に入れる策略なんだろうとおれが云ったら、無論そうに違いない。あいつは大人(おとな)しい顔をして、悪事を働いて、人が何か云うと、ちゃんと逃道(にげみち)を拵(こしら)えて待ってるんだから、よっぽど奸物(かんぶつ)だ。あんな奴にかかっては鉄拳制裁(てっけんせいさい)でなくっちゃ利かないと、瘤(こぶ)だらけの腕(うで)をまくってみせた。おれはついでだから、君の腕は強そうだな柔術(じゅうじゅつ)でもやるかと聞いてみた。すると大将二の腕へ力瘤を入れて、ちょっと攫(つか)んでみろと云うから、指の先で揉(も)んでみたら、何の事はない湯屋にある軽石の様なものだ。
 おれはあまり感心したから、君そのくらいの腕なら、赤シャツの五人や六人は一度に張り飛ばされるだろうと聞いたら、無論さと云いながら、曲げた腕を伸(の)ばしたり、縮ましたりすると、力瘤がぐるりぐるりと皮のなかで廻転(かいてん)する。すこぶる愉快(ゆかい)だ。山嵐の証明する所によると、かんじん綯(よ)りを二本より合せて、この力瘤の出る所へ巻きつけて、うんと腕を曲げると、ぷつりと切れるそうだ。かんじんよりなら、おれにも出来そうだと云ったら、出来るものか、出来るならやってみろと来た。切れないと外聞がわるいから、おれは見合せた。
 君どうだ、今夜の送別会に大いに飲んだあと、赤シャツと野だを撲(なぐ)ってやらないかと面白半分に勧めてみたら、山嵐はそうだなと考えていたが、今夜はまあよそうと云った。なぜと聞くと、今夜は古賀に気の毒だから――それにどうせ撲るくらいなら、あいつらの悪るい所を見届けて現場で撲らなくっちゃ、こっちの落度になるからと、分別のありそうな事を附加(つけた)した。山嵐でもおれよりは考えがあると見える。
 じゃ演説をして古賀君を大いにほめてやれ、おれがすると江戸っ子のぺらぺらになって重みがなくていけない。そうして、きまった所へ出ると、急に溜飲(りゅういん)が起って咽喉(のど)の所へ、大きな丸(たま)が上がって来て言葉が出ないから、君に譲(ゆず)るからと云ったら、妙な病気だな、じゃ君は人中じゃ口は利けないんだね、困るだろう、と聞くから、何そんなに困りゃしないと答えておいた。
 そうこうするうち時間が来たから、山嵐と一所に会場へ行く。会場は花晨亭(かしんてい)といって、当地(ここ)で第一等の料理屋だそうだが、おれは一度も足を入れた事がない。もとの家老とかの屋敷(やしき)を買い入れて、そのまま開業したという話だが、なるほど見懸(みかけ)からして厳(いか)めしい構えだ。家老の屋敷が料理屋になるのは、陣羽織(じんばおり)を縫(ぬ)い直して、胴着(どうぎ)にする様なものだ。
 二人が着いた頃(ころ)には、人数(にんず)ももう大概揃(たいがいそろ)って、五十畳(じょう)の広間に二つ三つ人間の塊(かたまり)が出来ている。五十畳だけに床(とこ)は素敵に大きい。おれが山城屋で占領(せんりょう)した十五畳敷の床とは比較にならない。尺を取ってみたら二間あった。右の方に、赤い模様のある瀬戸物の瓶(かめ)を据(す)えて、その中に松(まつ)の大きな枝(えだ)が挿(さ)してある。松の枝を挿して何にする気か知らないが、何ヶ月立っても散る気遣いがないから、銭が懸らなくって、よかろう。あの瀬戸物はどこで出来るんだと博物の教師に聞いたら、あれは瀬戸物じゃありません、伊万里(いまり)ですと云った。伊万里だって瀬戸物じゃないかと、云ったら、博物はえへへへへと笑っていた。あとで聞いてみたら、瀬戸で出来る焼物だから、瀬戸と云うのだそうだ。おれは江戸っ子だから、陶器(とうき)の事を瀬戸物というのかと思っていた。床の真中に大きな懸物があって、おれの顔くらいな大きさな字が二十八字かいてある。どうも下手(へた)なものだ。あんまり不味(まず)いから、漢学の先生に、なぜあんなまずいものを麗々(れいれい)と懸けておくんですと尋(たず)ねたところ、先生はあれは海屋(かいおく)といって有名な書家のかいた者だと教えてくれた。海屋だか何だか、おれは今だに下手だと思っている。
 やがて書記の川村がどうかお着席をと云うから、柱があって靠(よ)りかかるのに都合のいい所へ坐(すわ)った。海屋の懸物の前に狸(たぬき)が羽織(はおり)、袴(はかま)で着席すると、左に赤シャツが同じく羽織袴で陣取(じんど)った。右の方は主人公だというのでうらなり先生、これも日本服で控(ひか)えている。おれは洋服だから、かしこまるのが窮屈(きゅうくつ)だったから、すぐ胡坐(あぐら)をかいた。隣(とな)りの体操(たいそう)教師は黒ずぼんで、ちゃんとかしこまっている。体操の教師だけにいやに修行が積んでいる。やがてお膳(ぜん)が出る。徳利(とくり)が並(なら)ぶ。幹事が立って、一言(いちごん)開会の辞を述べる。それから狸が立つ。赤シャツが起(た)つ。ことごとく送別の辞を述べたが、三人共申し合せたようにうらなり君の、良教師で好人物な事を吹聴(ふいちょう)して、今回去られるのはまことに残念である、学校としてのみならず、個人として大いに惜しむところであるが、ご一身上のご都合で、切に転任をご希望になったのだから致(いた)し方(かた)がないという意味を述べた。こんな嘘(うそ)をついて送別会を開いて、それでちっとも恥(はず)かしいとも思っていない。ことに赤シャツに至って三人のうちで一番うらなり君をほめた。この良友を失うのは実に自分にとって大なる不幸であるとまで云った。しかもそのいい方がいかにも、もっともらしくって、例のやさしい声を一層やさしくして、述べ立てるのだから、始めて聞いたものは、誰でもきっとだまされるに極(きま)ってる。マドンナも大方この手で引掛(ひっか)けたんだろう。赤シャツが送別の辞を述べ立てている最中、向側(むかいがわ)に坐っていた山嵐がおれの顔を見てちょっと稲光(いなびかり)をさした。おれは返電として、人指し指でべっかんこうをして見せた。
 赤シャツが座に復するのを待ちかねて、山嵐がぬっと立ち上がったから、おれは嬉(うれ)しかったので、思わず手をぱちぱちと拍(う)った。すると狸を始め一同がことごとくおれの方を見たには少々困った。山嵐は何を云うかと思うとただ今校長始めことに教頭は古賀君の転任を非常に残念がられたが、私は少々反対で古賀君が一日(いちじつ)も早く当地を去られるのを希望しております。延岡は僻遠(へきえん)の地で、当地に比べたら物質上の不便はあるだろう。が、聞くところによれば風俗のすこぶる淳朴(じゅんぼく)な所で、職員生徒ことごとく上代樸直(じょうだいぼくちょく)の気風を帯びているそうである。心にもないお世辞を振(ふ)り蒔(ま)いたり、美しい顔をして君子を陥(おとしい)れたりするハイカラ野郎は一人もないと信ずるからして、君のごとき温良篤厚(とっこう)の士は必ずその地方一般の歓迎(かんげい)を受けられるに相違(そうい)ない。吾輩(わがはい)は大いに古賀君のためにこの転任を祝するのである。終りに臨んで君が延岡に赴任(ふにん)されたら、その地の淑女(しゅくじょ)にして、君子の好逑(こうきゅう)となるべき資格あるものを択(えら)んで一日(いちじつ)も早く円満なる家庭をかたち作って、かの不貞無節なるお転婆(てんば)を事実の上において慚死(ざんし)せしめん事を希望します。えへんえへんと二つばかり大きな咳払(せきばら)いをして席に着いた。おれは今度も手を叩(たた)こうと思ったが、またみんながおれの面(かお)を見るといやだから、やめにしておいた。山嵐が坐ると今度はうらなり先生が起った。先生はご鄭寧(ていねい)に、自席から、座敷の端(はし)の末座まで行って、慇懃(いんぎん)に一同に挨拶(あいさつ)をした上、今般は一身上の都合で九州へ参る事になりましたについて、諸先生方が小生のためにこの盛大(せいだい)なる送別会をお開き下さったのは、まことに感銘(かんめい)の至りに堪(た)えぬ次第で――ことにただ今は校長、教頭その他諸君の送別の辞を頂戴(ちょうだい)して、大いに難有(ありがた)く服膺(ふくよう)する訳であります。私はこれから遠方へ参りますが、なにとぞ従前の通りお見捨てなくご愛顧(あいこ)のほどを願います。とへえつく張って席に戻(もど)った。うらなり君はどこまで人が好いんだか、ほとんど底が知れない。自分がこんなに馬鹿にされている校長や、教頭に恭(うやうや)しくお礼を云っている。それも義理一遍(いっぺん)の挨拶ならだが、あの様子や、あの言葉つきや、あの顔つきから云うと、心(しん)から感謝しているらしい。こんな聖人に真面目にお礼を云われたら、気の毒になって、赤面しそうなものだが狸も赤シャツも真面目に謹聴(きんちょう)しているばかりだ。
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