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楼主: asuka0226

[好书推荐] [山田風太郎] 忍法帖系列 おんな牢秘抄

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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:25:25 | 显示全部楼层
     三

 まだ春というのに、祖父江の屋敷は夏のように|蓬《ほう》|々《ほう》たる草につつまれて、どこかで|梟《ふくろう》が鳴いていた。
 お紋は、お竜を一室にとおすと、主膳のいる座敷にかけつけた。お紋が案内もこわずに家にあがりこんでいったのをどうかんがえたか、お竜はのんきな顔で待っている。(こいつ、すこし脳のよわい女だな)と、お紋は、彼女をまんまとつれこんだ|安《あん》|堵《ど》|感《かん》から、そう思った。それにしても一大事である。
「おまえさん、たいへんだよ」
「お紋、かえってきたか」
 主膳はひとり手酌で酒をのんでいた。|月《さか》|代《やき》はのび、|無精髯《ぶしょうひげ》ははえ、みるからに陰惨な、まるで蛇寺庵の|伊《い》|右衛《え》|門《もん》みたいな姿である。
「おまえさん、へんな女をひとりつれてきた」
「へんな女?」
「おまえさんのおかみさんと小伝馬町で相牢だった奴を」
「な、なんだと?」
 主膳は、|盃《さかずき》をとりおとし、がばと|片《かた》|膝《ひざ》をたてた。
 お紋は声をひそませて、きのうその女が実家の蝋兵衛をたずねてきたこと、きょう大岡越前守の娘がきて、おなじような依頼をしたこと、それを追っていったら、幡随院裏でまたその女が|忽《こつ》|然《ぜん》とあらわれたこと、そしておんな牢でお路から異様なそそのかしをうけてきたというのを、とりあえずだましてここにつれてきたことを物語った。
「お路が左様なことを知っているはずはない!……しかし、あいつまだ打首にもならんで、牢に生きておったのか!」
 と、主膳はうめいた。のびた月代も逆立たんばかりの|形相《ぎょうそう》だ。
「それじゃあ、お竜という女は、なぜそんなことをいい出したのかしら?」
「さてそれは……ううむ、あやしい女じゃな。そいつは、みんな知っておるぞ。おまえが、おれの妾だということも知ってのことにちげえねえ」
「やっぱり、そうか。けれど、いったい何者かしら?」
「おそらく、町奉行の娘と名乗ってきた奴と同一人じゃ。駕籠のなかで髪をとき、櫛巻きにし、きものをかえて幡随院裏でおりたのだ」
「では、やっぱり越前守の娘なの?」
「うむ、大岡に年ごろの娘がひとりいるということはどこかできいたことがあるが……まさか?」
「すると、にせもの?」
「わからぬ。大岡ほどの人物が、まさか娘をつかって妙な探索にかかろうとは思われねえが、しかしにせものとすれば、町奉行の娘をかたるほどの奴、同心もにせものとすれば仲間もあるはず、容易ならんしたたかものだ。よし、すぐに|逢《あ》ってみよう」
「それがどうみても、それほどしたたかな女にはみえない――どこか、ぼうっとした娘にみえるんだけど、そこがくわせもののところなのかしら? おまえさん、しッかりして、一杯くわされないようにおし」
「|面《つら》にだまされるおれか! よしやそいつが大岡の娘であろうがあるまいが、ここに|胆《きも》ふとくのりこんできやがったのが運のつきじゃ。何をたくらんでおろうと、ぶじにはかえさねえ。お紋、庭に穴をひとつ掘っておけ。……どうせちけえうち、大名屋敷にひっ越す身だ。|仔《し》|細《さい》はねえ」
 祖父江主膳はふしぎな――しかし恐ろしい言葉を歯のあいだから吐いて、はげちょろけの大刀をひッつかんで、ぬっと立ちあがった。庭に穴を掘っておけとは、もとより人間の屍骸を一つうずめる用意をしておけということだ。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:25:50 | 显示全部楼层
   生ける埋葬

     一

 荒れはてた座敷に、お竜はひとりひっそりと待っていた。
 そばに、破れた|行《あん》|灯《どん》が、はだかのあぶら火を、めらめらとゆらめかしている。
 祖父江主膳が入ってきた。大刀を片手に、|凄《すさ》まじい眼色だったのが、坐っている娘の顔をみて、思わず二、三度まばたきをした。
 お紋からきいてはいたが、あんまり相手があどけない顔をした娘なので、拍子ぬけを禁じ得なかったのだ。
「お竜とはおまえか」
 と、主膳は呼んで、坐った。
「当家のあるじ、祖父江主膳じゃ」
「ああ、お路さんの|旦《だん》|那《な》さま。……」
 主膳はけむったそうな表情をしたが、
「お紋からきいたが、小伝馬町のお路が、そなたにいろいろと世話になったそうじゃな」
「べつに、それほど世話はしないけど――」
「ああいや、いまおまえは、わしをお路の旦那と呼んだようだが、あいつは入牢前、当家よりひまをつかわしたとは申せ、もとはわしの女房じゃ。礼をいう」
 |陰《いん》にこもり、もってまわった礼のいいかたに、
「じゃあ、いまの御新造さまは、お紋さん?」
 と、お竜はケロリといった。主膳はへどもどして上眼づかいに見やったが、この相手が、どういうつもりで言ったのか、見当もつかない。そうだ、いったいこの女は、何をお路からきいてきたのか。何を、どこまで知っているのか?
「たわけ、あれは妾じゃ」
 うっかり、言った。
 言って、はっとしたが、お竜は意外とした様子もなく、のみこみ顔にうなずいて、
「道理で、ここへへいきで上りこんだわけだ」
「お紋のことはよい。ところでおまえ、お路から妙な伝言をきいて参ったそうじゃな」
「ああ、死顔の蝋兵衛さんという人形師から、あたしに似せた人形をつくってもらってここへもってきたら、きっとお金はくれるからって……でも、あっさり断わられちゃったよ。娘のお紋さんに、門前ばらいさ。そしたらお紋さんがね、そんなものをつくらなくたって、そう旦那に話しさえすればお金はまちがいなくくれるっていったけど、ほんとうかしら?」
 周囲を見まわして、
「そんなお金があるかしら? 御家人は貧乏だってきいてたけど、なるほど相当なもんだわねえ」
 主膳は苦笑した。じぶんでお紋をたしなめたくせに、だんだんこの娘に対する警戒心をといてきていた。これが大岡越前の娘かもしれないなどいうばかげた疑いは、まったく脳中からぬぐい去られている。
「無礼なことを申すな。こうみえて、金はあるぞ。話によっては、やらんでもないが」
「あら、そう、話によってはね」
「おまえ、お路はいかなる罪人か知っておるのか」
「なんだっけ、間男を殺しちまったんだって……旦那もボンヤリしてたもんねえ、そういえば、女房に間男されるような顔だよ」
 主膳はまた苦笑した。はじめて逢った娘なのに、腹のたたないのがふしぎである。
「ああ、そうだった! その間男は|中間《ちゅうげん》で、たいした色指南の達人だったってねえ。……」
「中間も中間じゃが、お路も武家の女房にあるまじきたわけものじゃ。祖父江の家名に末代までの恥辱をあたえおった!」
 お竜はぷっと吹き出した。
「旦那もずいぶんコケンをおとしたわけねえ」
「されば、この|面《つら》に終世ぬぐうべからざる泥をぬられたも同然じゃ」
「泥――|蝋《ろう》じゃない?」
 主膳は、ふっとお竜の顔をみた。
「なに、何と申した?」
「そうじゃない? 泥をぬられて、おきのどくさま。けれど、ぬけぬけと色指南などと|刺《いれ》|青《ずみ》した男には、とてもかないっこないわね、まして女の方は――お武家の御新造さまだもの、あたしみたいなあばずれとちがって、赤ん坊の手をねじるようなものだったにちがいないわ。かんべんしてあげておくんなさいよ。ねえ、旦那、……」
 いまのはききちがいかと、主膳はほっとして、
「お竜、おまえは、そんなことをお路の口からきいてきたのか」
「え、ちょっとだけどね、でも、お路さん、その中間のことを話すとき、ウットリした眼つきだったよ。……」
「ぷっ、左様にたわけた女じゃ。何を申そうと、とりあげるに足らぬ女であることは、それでわかる。……お竜、かえれ、といいたいところじゃが、せっかくお紋がつれてきたのじゃ。今夜はここにとめてやる。そこでじゃ……」
 主膳の声は、猫なで声だ。お竜の声もふくみ笑いをまじえた甘美な声だし、夜ふけのしじまを縫うささやきは、まるで|喋々喃々《ちょうちょうなんなん》たる恋の語らいともきこえる。――そうなのだ。|灯《ほ》かげにおぼろに浮かぶ娘の顔がこの世のものならぬほど美しいことを発見したとたん、主膳の心に妙な雲がむらむらとかかってきた。相手がふうてん[#「ふうてん」に傍点]だ、なんとなく、そんな気がしてきたせいもある。――
「先刻から、おまえ、わしをしきりに気の毒がっておるが、そうばかにしたものでもないぞ。ふむ、十平次の色指南か。十平次めがお路にどのようなことをしたか、それもお路はしゃべったのか。……」
 ひざをすすめ、お竜の手をとらんばかりに、
「蝋兵衛の人形などどうでもよいわ。わしはほんもののおまえの方がずんと気に入ったぞ。……」
 そのとき、|襖《ふすま》の外で、ちえっと舌うちの声がきこえて、だれか立ち去った気配がしたが、主膳は気がついたのか、意にも介しないのか、
「これ、娘、わしの指南が十平次より下手か上手か、見せてやろう……」
「旦那、蝋面をつけなきゃ、きぶんが出ないよ。……」
「なに、蝋面?」
「そらっとぼけちゃいやだよ、主膳さん。お路さんが、蝋兵衛さんの細工物をここへもってゆけといった意味がわかったよ。あの蝋兵衛の仕事場を見りゃ、だれだっておッたまげらあ。見ない人間にゃ思いもよらない、あたしだってまさかと思ってたが、あの蝋兵衛の蝋面は、生きている人間そっくり。……」
「わしが、蝋面をどうしたというのか?」
「はじめに十平次におまえさんの顔の蝋面をつけさせて、お路さんと密通させようとし、それにしくじったら、こんどはおまえさんが十平次の顔の蝋面をつけて、お路さんをびっくりさせたろう。十平次はお路さんが殺すまえに、おまえさんが殺してたのさ。そして|闇《やみ》の中のドタバタで、おまえさんは十平次の屍骸をお路さんに刺させて、じぶんは逃げてしまったのだろう」
 主膳は白くつりあがった眼で、お竜をにらんでいた。ふうてん[#「ふうてん」に傍点]どころではない、ということがやっと思い知らされたのだ。
 が、片頬をゆがめて、彼はニヤリとした。
「おい、それだけ知っていて、うぬァどうしてここへ入ってきたのだ。そんなせりふでゆすりをやって、恐れ入るおれと思ったか」
「おまえさんがどんな人間か、今夜逢うまで知るはずがないじゃあないか。もっとわからないことがたんとあったのさ」
「な、なんだ」
「どうしてそれほどまでにして、じぶんの女房を罪人にしたかったのか。――」
 そのとき、襖の外で声がした。
「おまえさん、何やらずいぶん話がはずんでるようだが、穴はゆっくりでいいのかい?」
 |嫉《しっ》|妬《と》にジリジリしているお紋の声だ。主膳ははっとして、
「穴か。――いそぐぞ!」
 片膝たてると、|鞘《さや》|鳴《な》り|一《いっ》|閃《せん》、びゅーっと横なぐりに光流がはしった。手応えはない。お竜の姿はさっとうしろへ飛んで、すっくと立っている。
「へただなあ! これじゃあほんとに出世の見込みはない」
「くそっ」
 主膳は逆上した。おどりかかる|剣《けん》|尖《せん》から、|飛《ひ》|燕《えん》のように身をひるがえすお竜の手に、きらっと|匕《あい》|首《くち》がひかるのをみると、祖父江主膳の眼はくらんで、
「この野郎!」
 侍らしくもない叫びとともに、かっと|斬《き》りこんだ――のは、行灯。
 しかし、そのため座敷は闇と化して縁先の月光がぱっと浮かびあがった。逃げるつもりか、それともはじめて入った屋敷で闇は勝手がわるいと考えたのか、お竜はつつと月明りのなかへ泳ぎ出る。――とたん、
「あっ」
 彼女のからだが崩折れて、どうと庭へころげおちた。あばら家の縁の板が腐っていたのを踏み破ったのだ!
「ざまをみろ!」
 のしかかって斬りおろす大刀の下で、青い火花がちる。受けは受けたが、匕首がとんだ。つづく第二撃の|刃《やいば》の下で、お竜の声がつっぱしった。
「主水介、来るんじゃないよ。――」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:26:09 | 显示全部楼层
    二

 祖父江主膳は刃をとめた。凶刃を宙にとらえる力が、いまのお竜の奇怪な叫びにあったのだ。
「何と申した?」
「何としよう、斬るんじゃないよ――といったのさ」
 お竜ははね起きたが、わるびれずあぐらをかいて大地に坐る。笑っている。主膳はぐるっと周囲を見まわしたが、月明のなかにうごくものの気配もない。それにもかかわらず、主膳はこの娘の不敵さに、きみがわるくなった。
 刀身をお竜の胸に擬したまま、何を思ったか、
「お紋、帯かしごきでこいつを縛れ」
「お|陀《だ》|仏《ぶつ》にして、穴にほうりこむのじゃないのか」
 と、縁側まではしり出て、立ちすくんでいたお紋が、ふるえながら、むごいことを言う。
「うむ、そのまえに、ちょいとこいつを調べてえことがある。お紋、穴は掘ったのか」
「掘りかけたが、よしたよ。いやだよ、このひとは――ほんもののおまえの方がずんと気にいったゾとか何とか、手なんかにぎってさ――気にさわるったらありゃしない」
「あはははは、きいておったか。怒るな怒るな、あれもこいつの素性をたしかめる手だ」
「へん、どうだか、――ほら、そんな眼をしてさ、助平!」
 あぐらをくんだお竜の白いはぎに眼を吸いつかせていた主膳は、あわてて、
「ばかめ、はやく縛らねえか」
 縛って、座敷にひきずりあげて、柱にくくりつけてから、
「おまえさん、何をしらべるのさ。弓の折れでももってこようか」
「待て。――これお竜、こいつがこんなことをいっている。いたい目にあいたくなかったら、素直にこたえろ」
「何を?」
「てめえ、ほんとに牢から出てきたのか」
「そうよ、それでなくって、どうしてお路さんから話がきけるものか」
「ふむ、そりゃそうだ。いってえ、おれをさぐって、どうしようってんだ。お路が、おれのところへ蝋兵衛の細工物をもってゆけば金になるというはずはねえ。お路は蝋兵衛のことァ知らねえはずだし、おれに金のねえことも知ってるはずだ。何をたくらんでやがるんだ?」
「そういわれるとね、主膳さん、金がめあてじゃないよ。実はお路さんの無実の|証《あかし》をたてるためさ。相牢だった女のよしみだよ――」
「くそくらえ、そんな酔狂な奴がこの世にいるものか。おい、神妙にぬかせ、これァおめえひとりの|智《ち》|慧《え》じゃあねえな。仲間がいるな。――」
 そこまでいって、主膳はふっと、この女が奉行の姫君として蝋兵衛の家へのりこんでいったとき、その駕籠の前後をまもっていたという同心、若党たちのことを思い出して、ぞうっとした。まさか、まさか、まさか――この大あぐらをかいた女が、謹厳を|以《もっ》て鳴る大岡越前守の娘とは、想像も絶しているが、しかし、それならあの同心たちは何者だ?
「やい、てめえ、大岡越前の娘に化けたそうだな」
「大岡越前の娘? へ、あたしが?」
「しらばっくれるな、さっきてめえは、あの蝋兵衛の仕事場を見るまではまさかと思っていたが蝋面を見ておッたまげたといったろう。てめえはお紋に門前払いをくったはずだ。仕事場に入ったのは、越前の娘。――」
「あ!」
 お竜は、やられた、といった顔で口をあけた。
「ふてえあま[#「あま」に傍点]だぞ、うぬは――恐れながらと訴えて来たら、どっちが大罪かわからねえ」
「主膳さん」
 と、お竜はニンマリとして、
「あたしが、ほんとに越前の娘だったらどうするの?」
「な、なんだと?」
 祖父江主膳はどきんとした風で、じっとお竜をにらみつけた。笑おうとしたが、頬が硬直して笑えない。大岡越前守が恐るべき人物であることは、安御家人の彼も|噂《うわさ》にきいているからだ。お紋の顔色も変っている。ふるえる腕で主膳にしがみついて、
「お、おまえさん。……」
「うそだ、そんなことは!」
「も、もし、ほんとだったら?」
 主膳はうめいた。
「それなら、いっそう生かしてはかえせねえ」
 しかし彼は、急に深刻な表情になってかんがえこんだ。そこに坐りこんで、腕をくみ、ときどきお竜を不安そうな上眼づかいににらみ、ときどき「うぬ」とうなり、はてはお紋が何を話しかけても返事もしないほど|懊《おう》|悩《のう》のていである。
 月がかたむいて、柱にくくりつけられたお竜を照らし出した。彼女はスヤスヤとねむっていた!
「お紋、てめえ、こいつを見張ってろ。おれはちょっと出てくる」
 と、主膳が立ちあがったのは、あくる朝のことであった。
「どこへ?」
「こいつが町奉行の娘かどうか、さぐってくる。何にしても、こいつの仲間がほかにいることァまちげえねえのだ。そいつらの正体をあきらかにしねえうちは、|枕《まくら》をたかくしてねられねえ。それまでの、|大《でえ》|事《じ》な人質よ。事としでえによっては、むこうからさわぎ出すまで飼っておかなきゃならねえかもしれねえ。……どっちにしても、どうせ生かしてはおけねえあま[#「あま」に傍点]だ。おれの留守中妙な奴が入ってきたら、かまわねえから刺し殺せ」
「そ、それは承知したが、お、おまえさん……へんな奴がきたら、こいつを殺して、あ、あと、あたしはどうなるんだよ?」
「なあに、おめえなんかどうなったって……ええい、そうやっておどしてやるのさ、そのうちおれがかえってきて始末をつけらあ」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:26:29 | 显示全部楼层
     三

 朝早く出かけた祖父江主膳がかえってきたのは、もう|黄《たそ》|昏《がれ》の時刻であった。腕ぐみをしたまま入ってきたが、おぼえのある柱のそばに、お竜もお紋も姿がないことに気がついて|愕《がく》|然《ぜん》とした。
「お紋! お紋!」
 かんだかく呼びたてると、ふいに縁先で笑い声がした。ひくいが、どこか狂ったような声だ。が、お紋の声にまちがいはない。
「旦那、おかえんなさい」
「どうした、お紋。――」
 お紋は、縁側にうずくまって、庭の方をみていた。庭のまんなかあたりに、|桶《おけ》が一つ伏せてある。お竜の姿はどこにも見えない。
「これ、お竜はどうしたのだ?」
 お紋は立ちあがって、|下《げ》|駄《た》をつっかけて、その桶のところへあるいていって、桶をとりあげた。そこに、女の首がひとつあった。
「やつ?」
 お竜の首だ。さるぐつわをはめられている。
「だれかくると、こわいからさ」
 といいながら、お紋はそのさるぐつわをとった。すぐに首は生きていることがわかった。お竜は大地に全身をうずめられて、首だけ地上に|曝《さら》されているのだ。
「どうせ墓穴にほうりこむんだろう? ねえ、旦那。……」
 いかに留守をまもる恐怖のあまりとはいえ、惨酷なことをやるものだ、とさすがの祖父江主膳もお紋のしごとに|茫《ぼう》|然《ぜん》とした。しかし、これなら、どんな捜索者が|闖入《ちんにゅう》してきて家さがししても、お竜の姿は発見できまい。
「なるほど、かんがえたものじゃな。……」
 ――すると、あきれたことに、美しい首も、片眼をつむって、ニッと笑ったものである。
「主膳さん、首だけで|御《ご》|挨《あい》|拶《さつ》、ごめんなさい」
「むう。……てめえ、この屋敷へ入ってきたのが身の因果だと思え」
「それで、あたしは大岡越前の娘なの? 探索の結果はどうでござんした?」
 主膳は、下唇をつき出した。
「てめえ、にせものだ!」
「へへえ、やっぱり、ね?」
「しらべてみたが、南町奉行所も赤坂にある大岡の上屋敷も、静かなること林のごとし――奉行の娘が行方不明というのに、あんなにしずまりかえってるはずはねえ」
「ちくしょう」
 と、にくにくしげにつぶやいたのはお紋だ。そういわれればそうにちがいないが、きのう御切手町の家でこの娘をお奉行さまの姫君としてむかえたときのじぶんの|恐懼《きょうく》ぶりを思い出すと、|地《じ》|団《だん》|駄《だ》ふまずにはいられない。
「よくもひとを――旦那。そのままスッパリやりなよ」
「まあ待て」
 と、主膳はお竜を見つめたままいった。どこか顔に迷いの影がある。
 いま言ったことはほんとうだ。しかし、だからといって、これが絶対に奉行の娘ではないと断定できないのだ。音にきく越前守が覚悟をきめて娘をつかったとしたら?――そう主膳には疑心暗鬼をいだく理由があった。それはお路の事件だけではない。もっと巨大な或る犯罪の影[#「もっと巨大な或る犯罪の影」に傍点]を彼が背に負っているからであった。それに、たとえこの娘が女賊であるにまちがいはないとしても、仲間がいることは依然として否定できないのだ。
 主膳の顔を、怒りと恐怖と、それから血の匂いのする陰惨な波がゆらめきわたった。
「おまえさん、何をかんがえてるのさ?」
「お紋」
 ふいに彼は、お紋の肩に手をまわして、その口を吸った。
「あれ」
 と、お紋は主膳のだしぬけの行動にめんくらって、身をくねらせて、
「急に何さ。あいつが見てるじゃあないか」
「お紋、ここへ夜具をもってこい。……あいつに色指南をしてやろう」
「なんだって?」
「あいつは、おれがなぜあんな苦労をしてお路をおんな牢に追っぱらったかがわからねえといいやがった。みんなおめえのためだということを見せてやろうよ。この世の見納めに、男と女の極楽図をみせて、そのあげくにぶった斬ってやれば|成仏《じょうぶつ》うたがいなしじゃ。……あんなきれいな面をしゃがってよ、いまにその眼がうつつになり、口からよだれをたらして見とれるにちげえねえぜ、なあ、お紋。――」
 祖父江主膳は、実に妙な趣向をかんがえ出した。急に酔ったように舌ももつれ、お紋の両肩に手をかけて、その顔に顔をすりつけるようにして言うその眼には、狂的な、凶暴な肉欲がもえている。
「ああ、おまえさん。……」
 お紋も、ふいに奇怪な欲情にとらえられた。もともとふつうの女ではないところに、主膳の眼の|妖《あや》しい炎は、この官能のかたまりみたいな女を、完全に異常な愛欲の心理につつみこんでしまった。
「おい、お竜……そこは地獄だが、ここは極楽、いいかえ? この世の見納めに、とっくり見物しなよ。……」

 日はまたくれて、|甍《いらか》に春のおぼろ月がかかった。
 屋根のうえの暗い半面に声があった。
「旦那……|巨《こ》|摩《ま》の旦那。……」
「しっ、ここだ、銀次、あれは出来ておったか」
「出来てはおりやしたが、蝋兵衛は殺されやした。……」
「なにっ、な、何者に?」
「わかりません。あっしがいったら、蝋兵衛は仕事場で|袈《け》|裟《さ》がけに――もっとも、あっしの戸をたたく物音に、下手人はあわててにげていったらしく、とどめを刺すひまがなかったとみえて、蝋兵衛の息はございましたが……」
「ううむ、で、下手人の名は何といった?」
「それが申しませぬ、ただ、仕事場の隅に出来ている蝋面を指さしただけで、こときれました。……」
 しばらく沈黙があって、やがて|憮《ぶ》|然《ぜん》たる|呟《つぶや》きがきこえた。
「きゃつ、とうとうあたまに来たな。いや、その殺し[#「殺し」に傍点]のことじゃあねえ、殺し[#「殺し」に傍点]をやってかえってきたその足で、死人の娘とトチ狂うなんざ、どうみたって正気の人間じゃあねえ。あまつさえ、それを見せつけようとする奴も奴なら。……」
 吐き出すように、
「首だけになって、見るつもりになった、ひ、ひ、姫君――お竜もお竜だ。あれァいってえ、どういう気かな?」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:26:52 | 显示全部楼层
    生首変化

     一

 月は、縁側ちかく|蒼《あお》|白《じろ》い炎のようなひかりをなげている。
 そこにわざわざ運んできた|閨《ねや》の|枕《ちん》|頭《とう》に酒をおいて、かわるがわるのみながら、祖父江主膳と妾のお紋は、見物つきの秘戯図をくりひろげた。
「旦那……あとで、あいつを斬るんだろうね、きっと、斬るんだろうね。……」
「斬る。斬る。……きっと、斬る。……」
 うわごとのようにくりかえしながら、ふたりは戯れつづける。何とも恐るべき伴奏だ。
 露出欲というのは、人間だれにもある異常心理だが、その見せる相手が美しい女で、しかもそのあとで殺してしまうとなると、むしろ|嗜虐《しぎゃく》の快感に|煽《あお》られ、こうまで恥しらずになれるものか。酒ばかりではなく、ふたりはすでに血の匂いに酔っぱらっているようだ。
「お竜、見ろ、これ、眼をあけて見ろ。……」
 主膳は、地上に首だけ出して、眼をとじているお竜を見て、狂的に笑った。
 そもそも、こういうことを思いついただけで、彼のあたまは狂っていたといってよい。昨夜ほとんど眠られず、きょう一日、外をかけずりまわり、あまつさえ……蝋面の秘密を封じるために、実はこのお紋の父親、蝋兵衛を手にかけてきた。その恐怖と疲労に、ともすればガックリゆきそうな頭に、一本冷たい|錐《きり》のように刺さっているのが、このお竜という女だ。
 斬る。斬らねばならぬ!
 それはわかっているが、彼女がいったい何者か、なんのためにこの屋敷に入って探索しようとしたのか、背後に何者がいるのか、それをつきとめるまでは、殺すに殺せない人質なのだ。
 もはや|髷《まげ》もくずして、まるはだか同然の姿でのけぞりかえって身もだえているお紋に馬乗りになったまま、
「お竜、うぬの素性さえうちあければ、その地獄から掘り起こしてやる。言え!」
 と、うめいたが、その実彼こそ焦熱地獄にさいなまれる亡者であった。これは破滅を意識した狂乱のあがきだ。
「どうだ、お紋のこの姿は――お竜、おれが女房をこの浮世から消したわけがわかったろう」
「わからない」
 と、お竜は眼をつむったままいった。
「それほどおまえがお紋さんに|惚《ほ》れているなら、お紋さんをそんな目にあわせはしない。……」
「な、なに?」
「それに、そんな恥しらずの男なら、お路さんがきらいになったら、あんな手数をかけずにたたき出すだろう。なんのために、お路さんを人殺しの罪人にまでおとしたのか――」
「…………」
 主膳は酒をあおって、のどを鳴らした。
「首だけになって、風に吹かれて考えてたせいか、だんだんわかってきたよ」
「何がだ?」
「おまえさん、はじめからそのつもりで、色指南の十平次を屋敷につれこんだね」
「なんのつもりだ?」
「おそらく、御新造さまを十平次の|牙《きば》にかけさせて、ふたりを重ねておいて四つにしようという――が、さすがの十平次も二の足をふんだ。そこでおまえの方からお紋さんに手を出して、十平次にも手の出し易いようにしてやった。――」
「たわけ」
「たわけはそっちだよ。ところが、御新造さまが、おちない。そうもあろうかと見越していたおまえは、お紋さんの父親が蝋面作りの名人であることを知って、まえからじぶんの蝋面や十平次の蝋面をつくらせていた。そして、十平次を殺し、じぶんが十平次に化けて、あとは御存じのとおりのはこびさ」
 主膳の手から|盃《さかずき》がおちた。
「なぜ、そうまでしてお路さんを罪人にしたがるのかとそればかり考えていたからわからなかったのさ。おまえの望みは、十平次を殺すことだったんだ。けれど、いくら|中間《ちゅうげん》でも、人を殺してはじぶんが罪人になる。お路さんは、可哀そうなその身代りだね」
「うぬ」
 主膳は、はねおきて、よろめいた。お竜は眼をあけていた。
「あたったらしい。けれど、こんどは、どうしておまえさんが十平次を殺したがったのかわからない。――」
 主膳は大刀をつかんだが、ガクリと伏した。脳貧血を起したのだ。
「わたしが殺す」
 そうさけぶお紋の声を遠くききつつ、彼は気を失った。
 お紋はとび起きた。彼女はいまのお竜の声をきいていた。彼女は惑乱した。主膳がそういうつもりでじぶんを手なずけたものとは知らなかった。彼女は牛を馬にのりかえたつもりだったのだ。中間よりはまだ御家人の方がいい。まして主膳は、ちかいうち、ひどく出世するようなことをいう。――ふたりがいっしょになるために、お路と十平次をこの世から追いはらおう、そういう主膳のそそのかしに乗ったのだ。とはいえ、お紋はお竜のおしゃべりを信じたわけではなかった。いずれにせよ彼女はひどくしゃく[#「しゃく」に傍点]にさわった。
「こいつ――首だけになってるくせに、よくまあ勝手なことをしゃべりゃがる。旦那より、もうあたしがかんべんしない」
 お紋は、わずかに|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》が肌にまといついたような姿で、主膳のつかんでいた大刀から、スラリと抜身だけぬきとって、縁側から地上におりた。青い月光に、刀身と眼を|燐《りん》のようにひからせて、大地にうずめられたお竜のそばにあゆみ寄る。

 祖父江主膳は、うっすらとわれにかえった。
 疲労と酒と|苦《く》|悶《もん》に、脳が|糊《のり》みたいになっていたところへ、お竜から|鉄《てっ》|槌《つい》のような推理の一撃をうけて、思わず喪神したのだが、かすかに意識をとりもどすや否や、ぶるっと大きく身ぶるいして、「不覚!」とうめくと、そばの大刀を手さぐりにつかんだ。
「おまえさん」
 耳もとでささやく女の声がした。
「おお、お紋か」
「御切手町のお父っさんを殺したんだってねえ」
「なに、ど、どうして、それを――」
「ひどいことをしゃがる。もとの|間《ま》|夫《ぷ》を殺され、お父っさんを殺され、あたしをどうするつもりだえ?」
「お紋、ゆるせ、い、いまにおまえを大名の御前さまにしてやるから――」
 突然、お紋がふき出した。その笑い声にはっとして主膳がふりかえり、おぼろに浮かぶお紋の異様な無表情をみると、判断を絶した顔つきになった。
 が、そのとたん、お紋がつつとうしろにさがり、|袖《そで》を口にあてて、
「おまえさん、殿さまになるのかえ? そのわけは、南町奉行所のお|白《しら》|州《す》できこう。どうやら手がまわったようだ」
「なんだと?」
 |愕《がく》|然《ぜん》として立ちすくむ主膳の眼前に、お紋と入れかわって、宗十郎頭巾の影があらわれた。その手にかがやく十手を見るや否や、
「お紋、裏切ったなっ」
 思わず、そう叫んだ。いまお紋の声と表情に抱いた疑惑も、この大破局に忘れはてて、
「ううむ、木ッ葉役人がきたところをみると、さてはお竜とは、やっぱり大岡の――」
 といいかけて、いきなり縁側から横ッとびに大地へとんだ。月光に、依然首だけのお竜は眼をとじている。
「こうなったら、やぶれかぶれだ。見やがれ!」
 ――あっ、待って! と座敷で女の声が追いすがったが、ときすでにおそし、兇刃|一《いっ》|閃《せん》して地上からどぼっと|烏《い》|賊《か》の墨みたいな黒い霧が立つと、お竜の首は横にころがった。
「あはははは、あはははははは!」
 祖父江主膳の狂笑がふとやんだ。
 ころがったお竜の首から蝋面がおちて、お紋の顔があらわれた。お竜の蝋面――それは、死顔の蝋兵衛最後の傑作であった。
 主膳はのけぞった。驚愕のせいばかりでなく、うしろからおどってきた|捕《とり》|縄《なわ》のためだ。
 縄をつかんだ八丁堀の同心巨摩主水介のうしろから、お紋が出てきて、蝋面をとると、お竜のかなしげな顔があらわれた。
「いきなり斬るとは思わなかった。……」
 お竜は、もうひとつ蝋面をつけているのではないかと思われるような顔色でつぶやいたが、やがて主水介に視線をうつして、
「でも、これで小伝馬町の方は、ふたりめの女の命を、どうやら救えたようだわね。……」
 巨摩主水介は、にがい顔をしている。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:27:19 | 显示全部楼层
     二

 小伝馬町の牢屋敷では、冬の四か月は毎月三度、そのほかの月は毎月四度囚人に入浴させるというのが規定だが、実際は二十日に一度がいいところであったらしい。
 当時二十人前後のおんな牢はともかく、男の方は、大牢、無宿牢、百姓牢、|揚屋《あがりや》、揚座敷も、総人数三百人から四百人くらいもいるのだからたいへんだ。むろん|風《ふ》|呂《ろ》場らしい風呂場が設けてあるわけではない。東西に二か所、|外《そと》|鞘《ざや》の外に|湯《ゆ》|遣《やり》|場《ば》というものがあり、そこに五人から十人くらい、いちどに入れる|大《おお》|樽《だる》が置いてある。内庭にあつめられた囚人たちは、裸のまま、監視つきで順を待ち、からすの行水みたいにからだをぬらしてゆくにすぎない。それでもともかく|牢《ろう》|格《ごう》|子《し》の中から外へ出たという|昂《こう》|奮《ふん》から、いちど裸の大群が暴動を起しかけたことがあって、それ以来、番がくるまで囚人たちは、湯水の運搬係のほかは、ことごとく縄手錠をはめられることになった。
 それでも一種の戦争状態を呈するが、これが女囚となると、たとえ二十人内外としても、やはり別種の壮観であった。
 老婆、年増、娘、やせたのや、こんなところにいてもムッチリふとったの、白い肌、浅ぐろい肌、それが中庭に群れて、さすがにその姿は男牢の方からみえないはずなのだが、|甘《あま》|臭《ぐさ》い体臭が花粉のように空中に|瀰《び》|漫《まん》して、野獣みたいに鋭敏になっている男囚たちの|嗅覚《きゅうかく》を刺激するらしく、ならんだ牢の格子のあいだから、名状しがたいうなり声がもれる。むろん、あちこちから野卑な奇声がとび、それにまけずに女囚たちが|淫《みだ》らなからかいの叫びをなげかえす。それを|叱《しか》りつけながら、ニヤニヤして見物している牢屋同心や張番たち。――
 とはいえ、若い新入りの女囚などは、むろん|湯《ゆ》|浴《あ》みのよろこびなど味わえる余裕はない。大樽に入っている湯は、遠い|賄所《まかないじょ》から|天《てん》|秤《びん》棒でになってくるのだが、熱いといっては水をはこび、冷たいといっては湯をはこばせられる。本来下男の役なのだが、いつのまにか囚人のつとめとなって、これは女の身で、しかも栄養の足りないからだには、なかなか重労働だ。はだかになれば、いかに牢獄の太陽とはいえ、ひかりは肌にいたく、樽に入れば入ったで、名主以下隠居たちの背から足まで流させられる。
「やいっ、お|関《せき》、これアなんだ」
 |嬌声《きょうせい》のなかだから、湯遣場からはなれたところではきこえなかったが、ひくい声でそうさけんだのは、詰の隠居のぎっちょ[#「ぎっちょ」に傍点]のお伝だった。手に一本のかんざしをにぎっている。
「あっ、それは!」
 はだかになって、おずおず樽に入りかけていたまだ十七、八の若い娘がふりむいて、あわててお伝の手にすがりついた。
「てめえ、まえから何かかくしてやがるとにらんでいたんだ。こんなものを、お名主さまにないしょでもっていやがって、ふてえあま[#「あま」に傍点]だ」
 と、にくにくしげに笑った。そのとおり、この若い女囚のふだんのものごしから、たしかにそうにらんでいたので、きょうの風呂を機会にやっとそれを見つけ出したのである。金銀はもとより、化粧道具などは、表面上|法《はっ》|度《と》の品であった。
「かんにんして……それは、あたしの大事な品なんです」
「大事な品なら、なぜお名主さまにとどけねえ。ふん、なまいきに、これア銀だね。これで|酒《たんぽ》がいくら買えるか。――」
 牢名主たちにとどければ、そういうことにつかわれるのはわかっているから、いままでかくしていたのだから、
「おねがいです。どうぞかえして――」
「かえさねえ。それどころか、牢法にそむいた奴、きっとあとで|折《せっ》|檻《かん》してやるぜ」
 争うはずみに、お伝のふところから、もうひとつ、ころころとおちて日にひかったものがある。
 それがあまり異様なものだったので、遠くでみていた牢屋同心の眼をひいた。かけつけてくるその姿をみて、お伝があわててそれをひろったが、おそかった。
「なんじゃ、それは?」
「旦那。……」
 お伝は、お伝らしくもなく顔をあかぐろくして、せいいっぱいの笑いをつくった。
「どうぞ、お目こぼしを……」
「これ、いまのものを出せ」
 にらみすえられて、しぶしぶとふところからとり出したものをみて、牢屋同心が眼をまるくした。それは「|京形《きょうがた》」だったからである。京形とは、京で作られる|張《はり》|形《がた》の一種だ。つまり、べっこう製の男根模型で、表面はきわめてうすく、波形のひだが彫ってあって、内部は|空《くう》|洞《どう》になっている。これは湯を入れると、その触温は全然本物とおなじになるといわれ、そのためにお伝がここへ持ってきていたにちがいないが、|藪《やぶ》をつついて蛇を出す、お関という女囚がないしょで持っていたかんざしをとりあげようとしたばかりに、じぶんの方がとんでもないものを見つけ出されてしまった。
「旦那には用のねえもので……二つは要らねえでしょう、ね、旦那、この銀かんざしで、どうぞ御内聞に……」
 ひどい奴もあるもので、ひとからふんだくった品を交換におしつけるのを受けとって、牢屋同心がわざとそっぽをむいたのは、いままでなんどもこういう経験があるからだろう。
 わるいことに、そっぽをむいた反対の側から、声がかかった。
「おや、何をしているの?」
 ふりかえって、牢屋同心もお伝もびっくり仰天した。いつのまにか、そこに姫君お竜と八丁堀の若い同心が立っていた。
 三日ばかり|穿《せん》|鑿《さく》|所《じょ》へ呼び出されていたお竜だが、相かわらず|責《せめ》|苦《く》のあともみえない、けろりとしたきれいな顔だ。しかしその胸には南町奉行所専用の紺染めの縄がかけられ、その縄じりを八丁堀同心が厳然とにぎっている。
「あっ、巨摩どのか」
 と、その巨摩主水介の眼がじぶんの手の銀かんざしにそそがれているのをみると、牢屋同心は大|狼《ろう》|狽《ばい》のていで、
「けしからぬ女どもでござる。かようなものを内密に牢内にもちこんでおったのを、拙者ただいま発見して、きびしく糾明しておるところです」
「へへえ、なんだかその銀かんざしをもらったように見えたけど――」
 と、お竜がいって、お伝の手にぶらさげられている異形の物に眼をやった。
「それ、いったいなあに? 旦那、それはもらわないの?」
「ぷっ、あいや、そのものは拙者、生来すでに所持しておる」
 と、牢屋同心はへどもどして、
「実にふとどきな女どもで、いずこより、いかにしてかような|大《だい》それたものを牢内にもちこんだか、断然、つきとめねば相成らぬ。さっ、穿鑿所に参れっ」
 お竜はにこにこ笑った。
「それを、断然、つきとめたら、そっちがこまりゃしませんかえ?」
「なんと?」
「|金《つる》さえあれば、牢内でどんな買物でもできるってことは、旦那、知らないといったら、かえって牢屋同心の恥ですよ。おそろしく高くつくのが難儀だけれど、それで牢内、いのちがあるっていってもいいんです。まあさ、ここはほこりをたてないで、眼をつぶった方が、おたがいのためでござんしょうよ」
 牢屋同心は顔をまっかにしたが、巨摩主水介の森厳な表情をみると、こんどは|蒼《あお》くなった。
「あっちへゆかれい」
 と、主水介は犬でも追いはらうようにあごをふっていった。あわてて立ち去ろうとする同心に、お竜が声をかけた。
「ちょいと、その銀かんざしをもとの持主にかえしてゆかなくちゃだめですよ」
 ――入浴がすんで、おんな牢にかえってきた女囚たちのうち、お竜にすがりついたのは、お玉お路のふたりだった。そのむこうにひれ伏しているお伝をみて、お竜は笑った。
「お竜さん、おかげでたすかったよ。……でも、おまえさん、たいした度胸だねえ」
 お竜はこたえず、首をよこにふったが、お伝のそばで泣いて銀かんざしを抱いているお関をみると、声をかけた。
「あなた、お関さん?」
「ええ、お竜さん、ありがとう」
「いらっしゃい。そしてあたしとお話ししましょう。まあ、あなたみたいに可愛らしい町の娘さんが、どうしてこんなところに入ってきたの?」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:27:43 | 显示全部楼层
     三

 ――月のない夜空を、ほととぎすがぶきみな声で鳴いて飛んだ。
 そのあと、真っ暗な風が、森をごうと鳴らすばかりの|白《はく》|山《さん》|権《ごん》|現《げん》の深夜だ。いわゆる|丑《うし》|三《みつ》|時《どき》の、|魑《ち》|魅《み》すらねむる境内に、ふと|妖《あや》しい火がうごいた。それさえ恐ろしいのに、もしだれかあってその正体を見とどけたら、いよいよぞうっと全身に水をあびたような思いがしたに相違ない。
 女なのである。それがあたまに三本のもえる|蝋《ろう》|燭《そく》をはちまきでゆわえつけ、口に銀かんざしをくわえ、腰に白い布をまいてあるいている。両手には五寸|釘《くぎ》と|金《かな》|槌《づち》をにぎりしめていた。
 ピタ、ピタ、ピタ……土をふむはだしの音、腰にまいた布は地面すれすれにひるがえりつつ、彼女は神社をめぐる林の中へ入ってゆく。その奥に一本の|大樟《おおくすのき》があった。その幹に一つの|菅《すげ》でつくった人形が打ちつけてあった。
 彼女はそのまえに立つと、口の中でぶつぶつと何やら|呪《じゅ》|文《もん》をとなえた。そして、その人形に釘を打ちこみはじめた。
 いわゆる「|丑《うし》の時参り」だ。この人形に年齢と氏名をかき、恨みをこめて神社の木に釘づけにすれば、満願七日めに、|呪《のろ》いをかけた本人が死ぬと信じられた呪法である。――
 愚かにも恐ろしい迷信であるが、この当時として、これは決して珍らしい例ではない。ただ、そのほとんどすべては|嫉《しっ》|妬《と》に狂った中年女だ。しかしこれは、蝋燭の火でみれば、恋さえ知っているかどうか疑わしいほどの、あどけない十六、七の小娘だった。それゆえに、そのひたむきな顔は、いっそう恐ろしかった。
 実は、これで六日めなのだ。いよいよ明日は、満願の夜だ。ただ、このあいだ、この姿をほかのだれかに見られると、「丑の時参り」の呪いは破れる。――
 娘は人形に釘をうちおわると、林から出てきた。あたりをじいっと見まわして、「うれしい、だれも見てはいなかったわ。――」と、つぶやく。
 それから、あたまの蝋燭をぬいて火をけし、はちまきも腰の白布もとりのぞいて、それらに蝋燭や金槌をくるんで、ふつうの町娘の身なりにもどると、ぬいでならべてあった下駄をはいて、石段を下りていった。
 白山権現の下は、人家の密集した門前町であったが、さすがにこの時刻である。往来に人影もなかった。
 娘はからころと下駄を鳴らして、白山前の|辻《つじ》までやってきた。
 そこに一つ|提灯《ちょうちん》がともっていた。提灯には「心易占、|乾《けん》|坤《こん》|堂《どう》」という字がかかれていた。
 そのむこうに居眠りでもしているような人影がみえたが、娘はちらっとそれを見ただけで、通りすぎようとした。そのとき。――
「あ、もし――」
 と、ふいに声をかけられた。いつのまにか、易者が眼をあけて、こちらをみている。
「ちょっとお待ちなさい、娘御。――」
「あの、あたし、いいんです」
「いや、よろしくはない。少々わたしの心眼をかすめた不吉な影がある。だまって見すごしにはできん」
 娘はおびえたように立ちすくんだが、もういちど、
「|占《うらな》って進ぜる。銭はいらない」
 と、しゃがれた声でいわれて、糸にでもひかれたようにちかづいた。
 提灯のひかりでみると、細長い、ねむそうな顔をした占い師である。商標みたいにどじょうひげをたらしている。
「これは奇怪じゃな、そなたのように罪のない娘御に、あんな呪いの雲がかかっておるとは」
 と、彼はいぶかしそうに彼女の顔を見あげ、見おろし、それから、サラサラと|筮《ぜい》|竹《ちく》をおしもんでいたが、ふいにいった。
「そなた、とある|女性《にょしょう》に呪いをかけてこられたな。白山権現の方から、この深夜ひとり歩いてきたところをみると、丑の時参り――」
「あっ」
「ううむ、これは容易ならぬ。そなたが呪い殺そうと望む女性は、そなたの母御。――」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:31:20 | 显示全部楼层
    怪異山伏寺

     一

「おっかさんじゃあないわ」
 と、娘はさけんだ。
「あの女だわ!」
 しかし、恐怖と狼狽にみちたその表情から、乾坤堂は眼をはなさなかった。
「それでは、そなたが権現さまに丑の時参りをしてきたというのはほんとうか」
 娘は、片手の白いつつみに視線をおとした。
「ふむ、そのつつみの中には、呪いの釘や蝋燭が入っているのじゃろう?――ははあ、あたッたな。娘御、いったい、だれを呪おうとなさった。あの女とは?」
「――おっかさんのあとから、うちにきたひとなの」
「おっかさんのあとから? 後妻か。それではやっぱりわしのいったとおり、おっかさんではないか」
 と、乾坤堂はニヤリとした。娘は袖を眼にあて、むせびあげはじめた。
「娘御、それは世間にもよくあることじゃが、しかし当人にとってはよくよくのこと、継母じゃとて、みれば十六、七のうら若い娘が、丑の時参りをしてまでうらめしいと思うには、さぞいろいろと|辛《つら》いこと、かなしいことがあったことじゃろう。きかせておくれ。わしは人の身の上を占うて見料を|頂戴《ちょうだい》する大道易者じゃが、年だけはそなたよりだいぶ上じゃ。すこしはいい|智《ち》|慧《え》をかしてあげられるかもしれんぞ」
 肩に手をかけられて、娘はいっそうはげしく泣き出した。やさしくいわれたせいばかりではない。いまのみごとに的中した占いに、彼女はすっかり屈服している。
 娘は話し出した。――
 彼女はお関といって、駒込片町の|塗《ぬ》|師《し》|屋《や》の娘であった。塗師屋というのは、|駕《か》|籠《ご》のぬりかえである。ふつうの辻駕籠ではない。大名のお駕籠を専門にぬる商売だ。
 |漆《うるし》をぬるのも三度塗、四度塗、|丹《たん》|精《せい》も技術も容易なものではないが、ものがものだけに、職人のうちでもちょっとした格式がある。
 お関は幸福に育ったが、去年の秋、母親が死んでから、つらい日を送るようになった。父がまったく働かなくなってしまったからだ。毎日、朝から酒ばかりのんでのらくらしている。店の評判はわるくなり、注文もへってきた。――しかしお関がいやだったのは、父の怠惰より、いっしょに酒をのんでふざけている二度めの母だった。もとは|玄《くろ》|人《うと》で、しかもあんまり素性のよくない水から出てきた女で、どうやら死んだおっかさんが病気をしているころから、父と関係があったらしい。いや、おっかさんが病気になったのも、あの女のせいかもしれない、とお関は思う。
 とにかく、家じゅうが、途方もなく自堕落になってしまったのだ。何よりお関が、吐き気のするようなきもちになったのは、父とその女とが、人目もかまわず抱きあったり、口を吸ったり、ときにはそれよりもっとあさましい姿をみせて、へいきだったことだ。お関ははじめてそれをみたとき、あたまがクラクラとし、父親を殺してやりたいような激情に襲われた。
 それまでお関は、継母を「おっかさん」と呼ぼうとつとめていたのだが、それ以来、一切その言葉を口にしなくなった。「あの女」と呼び、せいぜい「あのひと」と呼ぶ。当然、その女とお関の仲はみるみるわるくなり、このごろでは、|折《せっ》|檻《かん》をうけることもめずらしくない。世間によくある――とくにこの時代では――家庭悲劇だ。
「ふうむ」
 と、乾坤堂はあごひげをしごいて、溜息をついた。
「それでこの丑の時参りか」
 暗然と、お関をみつめたが、
「そなた、こんなことを|誰《だれ》にきいたのかい。丑の時参りをすれば、呪った女が死ぬなどと――」
「お|杉《すぎ》婆やから。お杉は、死んだおっかさんの里からついてきた婆やなの」
「なるほど」
「でも、やりかたはきいてきたけれど、婆やはあたしがそれをやってることは知らないわ。あたし毎晩、だれにも気づかれないように、そっと忍び出してくるんですもの」
「お関さん、おまえさんはそうやって、ほんとにききめがあると思うかね」
「はじめはそれほどにも思いませんでした。ただ、あの女がにくらしくって、にくらしくってたまらないからで――けれど、きょうで六日、毎晩やってるうちに、ほんとに――いいえ、きっとききめがあるような気がしてきたわ」
 娘のおさない顔はピクピクとわななき、涙のかわいた眼はうすきみわるくひかっていた。
「いよいよ、あしたが満願の夜なの」
「じゃがな、お関さん、きのどくといってよいかどうかわからんが、おっかさんは――いや、あの女は、あしたの晩は死ぬまいよ」
「えっ」
 お関は息をのんで、
「なぜ?」
「易者のわしがいうのは妙じゃが、丑の時参りなどというのは迷信じゃからの」
 お関はキョトンとして、提灯のかげの天神ひげをみていたが、急にきれぎれにさけび出した。
「何をいうの? まあ、ひとを呼びとめて、何をいうのかと思ったら……いい智慧をかしてやるなんていってさ……あのひとは、きっと死ぬわよ!」
 |闇《やみ》の中にざわめく森、ぶきみな鳥の羽ばたき、頭にさした蝋燭の火に、ゆらゆらとゆらめく奇怪なものの影、ピタピタと鳴るじぶんの|跫《あし》|音《おと》、釘をうつひびき、婆やから教えてもらった呪文の言葉。――お関はまざまざとそれを思い出し、また恐怖の|酩《めい》|酊《てい》ともいうべき|恍《こう》|惚《こつ》感を思い出した。あんなにまでして、わたしの思いが権現さまに通じないことがあろうか?
「何さ、そんな天神ひげ……おまえさんのことなんか、あたるもんか!」
「わしの占いはあたるよ」
 と、乾坤堂はふかい声でいった。くぼんで、人がよさそうで、ややおどけた眼が、厳粛にひかって、お関の口から声を消してしまった。
 ただ立ちすくんで乾坤堂をにらみつけたとき、背後で「あっ」という声がきこえて、跫音がひとつかけよってきた。
「お関さん、こんなところにいなすったんで?」
「まあ、|千《ち》|代《よ》|吉《きち》!」
 はたちになるかならないかの、職人風の若者だった。
「今夜はじめておまえさまがうちにいないことに気がつき、婆あが、もしや、といい出したので、それをきいてびっくりして探しにきたのでさあ。婆あもわるいが、あなたもばかだ。ばかなことはしねえで、はやくかえっておくんなせえ」
 婆あといったが、千代吉はお杉の|倅《せがれ》だ。お関はあわてもせず、
「千代吉、それであたしがいないことを、ほかのひとも気がついたの?」
「ばかなことを! おまえさんが、おかみさんを呪い殺そうと丑の時参りにいったなんてことを、だれにいえますものか」
「ああよかった。それじゃあ、明日一晩だまっていておくれ」
「えっ」
「明日、満願の夜なの」
「そ、そいつあ――いくらおかみさんがむげえひとだって――」
「いいかえ、だまって明日の晩をみてるんだよ。――」
 と、お関は眼をひからせていった。
 そして、千代吉といっしょに立ち去ろうとしたとき、乾坤堂がよびとめた。
「娘さん、もしわしのいったことがあたったら、それから、もしわしという占い師を思い出したら、いつかもういちどここへおいで」
 お関の胸には、もういちどつぶやいた乾坤堂のひとりごとがのこった。
「いいや、おまえさんは、きっともういちどわしのところへやってくるよ」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:31:39 | 显示全部楼层
     二

 ――十日ばかりたった|或《あ》る夕方、お関はまた白山前の辻にやってきた。
 乾坤堂は、もう縁台を出していたが、客はなく、初夏の夕風に、のんきそうに天神|髯《ひげ》をそよがせていたが、お関がまえにションボリと立ったのを見あげると、ニヤリ笑った。
「あたったろう」
 お関は、うなだれた。
 あの女は、満願の夜に死ななかったのだ。死ぬどころか、父と酒をのんで、ふだんよりもっと大胆に|嬌態《きょうたい》をほしいままにしたあげく、翌朝は上機嫌で起きてきて、お関にやさしい言葉をかけてさえくれたのである。
 それが気まぐれだとわかっているから、それだけで後悔したのではないが、お関は昨夜継母に変ったことが起らなくってよかったと思った。お関はその夜一晩、緊張しすぎて、朝になってからはまるで|狐憑《きつねつ》きがおちたようにキョトンとした感情になっていたのだ。それはつまり、彼女がふつうより少々迷信的で|且《かつ》激情的な性質ではあるものの、決してわるい娘ではなかったということなのだが、といって、事態がそれですっかり解決したわけではなかった。
 二、三日たつと、またもとどおりのいざこざがはじまり、彼女はいっそう絶望状態におちた。あの丑の時参りが、思いつめた行動であっただけに、そのききめがなかったとなると、張りつめていた糸がきれたような失望感と、失望感ばかりではなく「まあ、よかった」という|安《あん》|堵《ど》感と、それがこんがらがり、彼女はまえよりずっとやりばのない悩みにつきおとされたのである。いったい、どうしたらこんな地獄からぬけ出せるのか?
 お関の耳に、ふっとあの声がよみがえった。「いいや、おまえさんは、きっともういちどわしのところへやってくるよ」――あの占い師の、やさしそうな眼もまぶたにうかんだ。しかもその眼が決していいかげんなものでないことは、最初じぶんをひとめ見たときから、じぶんが丑の時参りをしてきたことを見やぶったことでもわかる。――
 そうだ、あたしはどうしたらいいのか、あのひとに相談にゆこう。
 こうかんがえて、お関は白山前の辻にもういちどやってきたのであった。そして彼女は、ここで乾坤堂から「|玄々教《げんげんきょう》」という宗門の存在をきかされたのである。
 娘からあらためて「人生相談」をうけた乾坤堂は、天神髯に似合わぬまじめな表情になって思案した。そして、かんがえればかんがえるほど、お関の家庭のことや、お関の悩みを解決する方法がむずかしい。正直にいって、じぶんにはこうすればよいという断定が下せないといった。
「お関さん、いちど、あの玄々教という宗門の戸をたたいてみないか」
「玄々教。――」
「きいたことはないか。吉祥寺裏にある――このごろ評判の宗門じゃ。不可思議の法力を|以《もっ》て、諸人の病気や悩みや迷いを消してくれるという――わしは別に信者ではないが、実をいうとな、以前にいちどすこぶるこまったことが|出来《しゅったい》して、知り合いにさそわれてあそこの加持を受けにゆき、たちまち悩みを散じたことがあるのでな」
 占い師が悩んで、よその神さまだか仏さまだかの助けをかりるという|可《お》|笑《か》しさは、本人も気がつかないらしかった。お関もそこまで気をまわさない。
 実は、宗門の評判は、お関もいままで耳にさしはさんだことがあった。ここからほど遠くない吉祥寺裏の|荒《あら》|寺《でら》にこもる山伏の一団だが、その|加《か》|持《じ》|祈《き》|祷《とう》が奇妙な効験をあらわすということで、いままでのぞきにゆかなかったのが、偶然だが、かえってふしぎなくらいだ。
「いい智慧をかしてあげられるかもしれんといったが、どうしたらお関さんがしあわせになれるのか、正直にいってわしには判断がつかん。せめて玄々教のことをおしえてあげるのが、いい智慧かもしれん。いやならしかたがないが、どうじゃ、ものはためしだ、ゆくだけいってみたら」
 お関は好奇心にかられた。乾坤堂は、そうすすめた手前、彼女を吉祥寺裏の玄々教へつれてゆかなければならないことになった。
 吉祥寺は、|西《さい》|鶴《かく》や|紀《きの》|海《かい》|音《おん》のかいた「八百屋お七」の恋人吉三郎の寺として有名だが、事実はそうではない。吉三郎の寺は谷中の感応寺だ。吉祥寺は八百屋お七とは関係はなく、|曹《そう》|洞《とう》宗の|巨《きょ》|刹《さつ》だったが、門前町の一方をのこし、あとは|畠《はたけ》で、そのなかにあちこち建っているのは、いくつかの小寺ばかりであった。
 そのなかに、名もしれぬひとつの廃寺がある。ここにふしぎな山伏の一団が住みついて、加持祈祷をはじめたのは、去年の暮れからだった。
 いってみて、お関はびっくりした。
「ああ、これは!」
 古びて、崩れかかった本堂の廻縁の周囲はもとより、鐘楼、山門、石段のあたりまでいっぱいの人間で、しかもことごとく|蜘《く》|蛛《も》みたいにひれ伏しているのだ。そして彼らはつぶやいている。口の中で、|喉《のど》の奥で、うわごとのように何やらとなえている。アビラウンケンソワカ――アビラウンケンソワカ――アビラウンケンソワカ――|南《な》|無《む》|蔵《ざ》|王《おう》|権《ごん》|現《げん》。……
「おう、これは、しばらく見ぬあいだに、えらい|繁昌《はんじょう》じゃな……」
 と、乾坤堂もあきれたように見まわしたが、本堂のまえの異様なものに眼をそそぐと、お関の手をひき、群衆のあいだをその方へちかづいていった。
 そこに、四隅に青竹をたて、|注《し》|連《め》|縄《なわ》をはり、約一坪ばかりのひろさに、松の|薪《たきぎ》がもえていた。薪はもう|燠《おき》となって、メラメラと|焔《ほのお》をあげていた。
 内陣の奥で、遠く|金《きん》|鈴《れい》をふる音がきこえた。――と、本堂の階段のうえに、|頭《ず》|巾《きん》をつけた白衣の|修《しゅ》|験《げん》|者《じゃ》があらわれて、しずしずと地上におり立った。
 人々は呪文をとめた。一帯におちた沈黙の中に、修験者は浄火のまえにすすみ、ぱっと戒刀で注連縄を切りおとすと、九字をきり、そのままはだしの足をあげて――悠然と熱火のうえをあゆみはじめた。一歩、一歩、踏みわたる足の下から、まっかな焔がゆらめきのぼる。
 ほーっとふかい|溜《ため》|息《いき》にも似たどよめきの中に、修験者はこともなく焔をわたりきると、|仁《に》|王《おう》立ちになり、のどをあげて高らかに|法《ほ》|螺《ら》|貝《がい》を吹きならした。
 と、夕焼の空から、一羽の|白《しろ》|鳩《ばと》がまいおりて、彼の右肩にとまった。鳩はゆっくりと群衆を見わたし、それから山伏の耳にくちばしをさしいれて、あたかも何ごとかをささやくようにみえた。
 山伏は大きくうなずくと、声を張ってさけんだ。
「津軽どの御家中、|朱《しゅ》|巻《まき》|貝《かい》|右衛《え》|門《もん》どの――」
 ひとりの女がふらりと立ちあがって、夢遊病者みたいに土下座の中をあるいてきた。
「御妻女でござるな?」
 修験者がいった。
「はい。――」
 女はわなわなとふるえながら、
「倅が病気でございまする。何とぞおかげをもちまして、|玄妙坊《げんみょうぼう》さまの御祈祷を。――」
「承った。さらば、参られよ。――」
 身をかえした肩から鳩が舞いあがって、はたはたと、ふたたび矢のように夕焼空の果てへ去っていった。
「あれは、あれは?」
 と、お関は見送ってあえいだ。
「あれはな、見るとおり、|呪《じゅ》|殺《さつ》、|調伏《ちょうぶく》、その他の願いごとを望む信者が多い。まずだれの祈祷をかなえてやろうか、それをきめる神鳩らしい。しかし、これァ加持をたのむのも容易ではないぞ」
 と、乾坤堂は嘆息したが、
「お関さん、しばらくここで待っていておくれ。とりあえず申し込んでおこう」
 と、いって、|何《ど》|処《こ》かへあるき出した。お関は|茫《ぼう》|然《ぜん》として、そのあとを見送った。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:32:01 | 显示全部楼层
     三

 ――しかしお関は、いまの光景をみて、かえってしりごみをした。あんな恐ろしい山伏に「あの女」を呪殺させる――じぶんで丑の時参りなどしたくせに、彼女はおじけづいた。
 乾坤堂が祈祷を申し込んでかえってきたとき、
「あたし、もういいわ」
 と、彼女はくびをふった。
「何が?」
「人を呪い殺すなんて……」
「いや、何も玄妙坊の祈祷は呪殺ばかりではない。息災、増益、敬愛、修法はいろいろとある。要するにお前さんが|倖《しあわ》せになれるように祈ってもらうのだ。しかし、いやならむりにはすすめない」
 たよりない娘心を知っているのか、乾坤堂はべつに不服な顔もみせず、ぽくぽくあるきながら、
「どうもお前さんは、なぜか他人ではないような気がする。無縁の娘のはずじゃが、どういうわけかいとしくて、気にかかる」
 そしてまたひとりごとのようにいった。
「お関さん、やっぱり心におさえかねることがあったら、またわしのところへおいで。……いや、お前さんはきっとまたやってくるよ。……」
 ――そのとおりだった。五日めにお関は乾坤堂のところへかけつけた。がまんのならないことが起ったのだ。お関が死んだ母のかたみの帯がないことに気がついて、さがしていたら、それを義母のおれんがつけてしゃあしゃあとしていることがわかり、それからまた売言葉に買言葉の口論のはてに、おれんは死んだ母の|位《い》|牌《はい》を庭へほうり出してしまったのだ。
 その日の夕方、お関は、吉祥寺裏のあの山伏寺で、修験者に手をひかれて、階段を上り、外陣に入っていった。乾坤堂につれられてやってきたら、偶然、その日に祈祷の申込みがゆるされたのである。
 背後で、ギギギギ……と重々しく|唐《から》|戸《ど》がしまり、身ぶるいして立ちどまった彼女は、そこに外で想像していたことの数倍もの|妖《よう》|異《い》な光景を見出したものである。
 灯火窓もとじて、外陣はひえびえとほのぐらい。しかし、ひかりはある。
 壁際に、仏具のかげに、そして空中に、青白い|燐《りん》|光《こう》が陰火のごとくトロトロともえあがり、ぶきみな渦をまいてふっと消え、また|忽《こつ》|然《ぜん》ともえあがって、四方のふとい円柱が、蛇のうろこのようにテラテラと浮かびあがる。
「――浄土は遠きにあらず――|勤行《ごんぎょう》すれば道場になり――神明は外になし――|恭敬《きょうけい》なればすなわち祭席にあらわる。……」
 ふと、ささやくような声がながれてきた。
 陰火を追うて、恐怖の視線をさまよわせていたお関は、その声の方へおもてをむけて、次の瞬間、われしらずのどのおくで「ひーっ」とさけんだ。
 三|間《げん》ばかりをへだてた一つの台の上に、女の生首がひとつのっていた。
 首――ほんとうに、首だけだ。台には三つの脚があったが、その空間には胴がみえなかった。いや、胴のあるべき宙にはひとつの香炉が浮いて、そこから沈香の|匂《にお》いとほの|蒼《あお》いけむりが、よこに|縷《る》|々《る》となびいて、しずかにきえてゆくのであった。
「これは、玄妙法印の修法により、|黒《くろ》|縄《なわ》地獄の底から救抜された女の首じゃ」
 と、白衣の山伏はいった。耳の下に小さな|瘤《こぶ》のある男だった。
「見よ、法印が呪法のありがたさ、恐ろしさを――」
 と、彼はお関の顔をふりかえってから、身をかがませてそばの経机から一つの|碁《ご》|笥《け》をとりあげた。ふたをはらうと、いっぱいにつまった黒白の石があらわれた。
 山伏はお関に、はじめに|右《みぎ》|掌《て》で、つぎに左掌で、彼女の思うままをつかみとらせた。
 お関はそっと右掌をのぞいて、ほの蒼い燐光に、その数が黒石七つ白石二つであることをみた。
「南無、|金《こん》|剛《ごう》|薩《さっ》|[#特殊文字「」は「土(つちへん)」+「垂」Unicode=#57F5 DFパブリ外字=#F6ED]《た》、大聖歓喜天」
 と、山伏がさけんだ。
「右方の石数を告げたまえ。――」
 遠い女の生首は、眼をふさいだまま、たちどころにこたえた。
「南無、金剛薩[#特殊文字「」は「土(つちへん)」+「垂」Unicode=#57F5 DFパブリ外字=#F6ED]、大聖歓喜天、黒七つ、白二つ。――」
 お関はふるえた。――何の気もなくつかんだ石、じぶんでさえ掌をひらいてはじめて知った石の数を、このほの明りに、あの遠さでどうしてあの女の首は知ったのだろう? 彼女は左掌をはんぶんひらいて、こんどは黒石四つ白石六つであることをみた。
「南無、|迦《か》|婁《る》|羅《ら》天、青面金剛、左方の石数を告げたまえ。――」
 山伏の問いに、女の首は眼をふさいだまま、
「南無、迦婁羅天、青面金剛、黒四つ、白六つ。――」
 山伏はおごそかにお関をかえりみて、
「すべてこれ、法印が御力の顕現である。ゆめ疑うな、迷うな、ただ、信じに信じたまえ。――」
「はい!」
 お関は、掌から石をこぼし、思わずひざまずいた。
 そして彼女は山伏にみちびかれて内陣に入っていったとき、そこにくりひろげられている幽玄|凄《せい》|壮《そう》な光景に、全身が麻酔にかけられたような気がした。
 |麝《じゃ》|香《こう》か|竜脳《りゅうのう》か|薫《くん》|陸《りく》|香《こう》か、おそろしい、快い骨のずいまでとろけるような匂いがただよっている。そして|須《しゅ》|弥《み》|壇《だん》のあるべき奥に、円形の|護《ご》|摩《ま》|壇《だん》が設けられ、それをかこんで十数人の白衣の人々が、ひざに経巻をひらき、ひっそりと首をたれて坐っているのをみた。
 案内の山伏が平伏して、お関の素性と願いをつげる声を、地獄からのささやきのようにきいていた彼女は、突然、たたきつぶさんばかりの力でひきすえられた。
「玄妙法印の御祈祷をたまうっ」
 |凄《すさ》まじい修験者のさけびと同時に、壁の、青地に四印|曼《まん》|荼《だ》|羅《ら》をかいた旗の下に坐っていた童子がすっくと立って、大威徳天のまえにゆらめいている浄火から火をうつし、|護《ご》|摩《ま》|木《ぎ》に点じた。
 ぱっともえあがる炎に明るくされて、護摩壇の下からしずかに白衣の人が身をおこした。それが|役行者《えんのぎょうじゃ》の再来といわれる玄妙坊であった。
 しかし彼は眼だけのぞいて、あとは真っ白な頭巾にあたまをつつんでいた。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:33:26 | 显示全部楼层
    五つの予言

     一

 |鏘《そう》|然《ぜん》と、金鈴が鳴った。
 |蹲《そん》|踞《きょ》|座《ざ》をくんだまま、玄妙坊は白い頭巾のあいだからみえる眼をつむっていたが、やがて塗香を三度いただいて、ひたいと胸へぬりつけ、音吐朗々と祈りはじめた。
「東方|阿《あ》|闍《じゃ》|如《にょ》|来《らい》、金剛|忿《ふん》|怒《ぬ》尊、赤身大力明王、|穢《え》|跡《せき》忿怒明王、月輪中に|結《けっ》|跏《か》|趺《ふ》|坐《ざ》して悪神を|摧《さい》|滅《めつ》す。満天破法、十方の|眷《けん》|属《ぞく》、八方の悪童子、こたびの呪法に加護|候《そうら》え。――」
 青い|護《ご》|摩《ま》|木《ぎ》の|火《か》|焔《えん》、壇上の|蓮《れん》|華《げ》|火《か》|炉《ろ》からたちのぼる紫の香煙、はらわたにしみとおり、心臓をしめつけるようなしずかな、恐ろしい呪法の声。
「南無金剛|夜《や》|叉《しゃ》明王、南無金剛|蔵《ざ》|王《おう》明王、南無一大威徳王――大峰に入る七度、|那《な》|智《ち》の滝にうたるる三度、二世の|悉地成就《しっちじょうじゅ》して|金《こん》|伽《が》|羅《ら》|誓《せい》|多《た》|伽《か》両童子|摩頂印可《まちょういんか》をこうむりたる|勤行《ごんぎょう》の効むなしからんや。諸大明王の|本誓《ほんじょう》をあやまらんや。権現金剛童子、天竜夜叉、八大竜王猛風をふきどよもしたまえ。……」
 そして、まわりの山伏たちが、いっせいにとなえはじめた。
「のうまく、さんまんだぼだなん、まか、むたりや、びそなきやてい、そばか。……」
「なむ、にけんだ、なむ、あじゃはた、そばか。……」
「なむ、あじゃらそばか、いんけいいけい、そばか。……」
 ――突然、お関は立ちあがり、耳を両手でおおい、眼をすえてさけび出した。
「よして! よして! よしてちょうだい!」
 さっきから見せつけられたさまざまの怪異に、だんだん気がへんになってきていたのが、ここにいたって、とうとう半分狂乱してしまったのである。
「もういいの! あたし、もうかえる!」
 しかし、その肩はうしろから、鉄のような力でおさえつけられた。彼女の絶叫は、内陣にどよもす修験者たちの|物《もの》|凄《すご》いコーラスにかき消された。
「なうまり、さらば、たたきやていびやり、さらばた、せんだ、うんき、ききき。……」
「なうまり、さんまん、ばさらたん、せんた、まかろしゃた、さばたや、うんたらた、かんまん!」
 お関の脳髄に、妖しい霧がたちこめてきた。いつのまにかかけられた|頸《くび》の|数《じゅ》|珠《ず》を、カチカチと歯をかみ鳴らしながらにぎりしめていたお関は、その数珠がきれてとぶと同時に、散乱した珠のうえにがっくりとうつ伏して、気を失ってしまった。

「お関さん、これ」
 遠くから呼ぶ声に、お関は意識づいた。
 眼をふっとあけたつもりだが、四界はまっくらだった。その|闇《あん》|黒《こく》の天で、奇怪な呪文の声がどよめきわたったように思い、はっと眼を起したが、すぐにそれは風の音だとわかった。
「お関さん、気がついたか」
 肩を抱いてくれた人を見あげて、
「乾坤堂のおじさん!」
 と、お関はさけび、しがみついて、ゲクゲクと泣き出した。
「いったいどうしたのだい、お前さんは気絶して、山伏たちにかつぎ出されてきたぞ」
 気がつくと、そこは内陣ではなく、草の上である。まっくらな夜空に、本堂の影がそそり立ち、その下に、ぶきみな赤い火が、チロチロと浮かんでみえた。
「お、おじさん、あれは何?」
「あれは、ひるま山伏がはだしで踏みわたった例の浄火じゃ」
 してみると、ここはひるま大群衆がむれていた広場らしい。あたしは、いったいどうしたのだろう。あたまがズキズキといたんだ。鼻孔にも、あのきみわるい香煙の匂いが、まだネバネバとしみついているような気がする。あの内陣の怪異、|祈《き》|祷《とう》の物凄さを思い出すと、身ぶるいがした。
「か、かえろう。おじさん」
「うむ、かえるよりしようはないが……玄妙法印には祈ってもらったのか」
「もういいの、よせばよかったわ。……こわかったわ!」
「ああ、あれか。あの呪殺の儀式が恐ろしかったか。わしも前にああして拝んでもらったぞ。しかし、あれでこそききめがあるのじゃが。……」
「もう、おっかさんを呪殺なんかしてもらわなくったっていいの。……」
 乾坤堂はちょっとめんくらったようにお関をみたが、
「それは結構」
 と、いって、ニヤリと笑った。それを見越して、この恐ろしい祈祷所へつれこんだようなわが意を得たりといった人相になった。
 しかし、すぐにくびをかしげて、
「それはそれでわしは結構だと思うがな、お前さん、玄妙法印に何かいわれはせなんだかの?」
「え、あの山伏に? 知らないわ、あたし気を失ってしまったのだもの」
「そうか、さっき気絶したお前さんをはこび出してきた瘤のある山伏がな、妙なことをいっておったぞ」
「何を? どんなことを?」
「うむ、この娘には、もはや呪いの雲がかかっておると玄妙法印が申されたが、ここに祈祷にくるまえに、何ぞ呪殺に類するまねはせなんだかときいた」
「…………」
「わしもきみわるくなっての。やむを得ず、あの白山権現の|丑《うし》の時参りのことを言った」
「――そ、それで?」
「すると、その山伏が顔色をかえて、ああ、それはわるいことをした、道理で、護摩のけむりが不吉の相をえがいたわけじゃ、それは、その|呪《のろ》いの人形をとりのぞかねば、かえって当人が死ぬか、または当人がいちばん殺したくない大事な人間が死ぬぞといったが」
「お、おじさん、あたし、これからあれをとってくるわ、ね、いっしょにいって――」
 お関はぞうっとして、あわてて立ちあがった。乾坤堂はくびをふって、
「いや、それをきいてわしも|吐《と》|胸《むね》をつかれての。それではすぐに拙者でもいってあの人形をとって参ろうと申したらな。やはりこちらの山伏殿に|魔《ま》|除《よ》けの祈祷をしてもらって除かねば何にもならぬという返事であったが」
 お関はたちすくんだ。もういまの山伏に祈祷をしてもらうのはたくさんだった。しかし、それをしてもらわなくては、たいへんなことになる。――
 途方にくれている娘の肩を、乾坤堂はたたいた。
「とはいうものの、わしもどこまでそれを信じてよいやらわからん。お関さん、とにかくかえろう。そして今夜は何もかも忘れて寝るがいい。明日また権現前の辻においで。そこで、もういちどわしと相談してみようじゃないか」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:33:47 | 显示全部楼层
     二

 しかし、お関はその夜、乾坤堂と別れてから、ひとり白山権現の森に入っていった。
 キキキキ……と夜の鳥が鳴く。森が遠くから、重々しくざわめいてくる。そのたびに彼女は、全身を棒みたいにして立ちどまった。恐怖のために、口から何か吐き出しそうだ。まえに、ここに白衣を着、あたまに|蝋《ろう》|燭《そく》をともして、ひとりで七日間もかよってきたじぶんが信じられないほどであった。あのときは、いっしんに思いつめていたから、その恐怖を感じなかったのだ。
 しかし、お関はいまも思いつめている。そういう彼女の性質なのだ。けれど、きたのはまえとはちがう目的だった。というより、あの丑の時参りの罪を消すためだった。あの人形をとり除かなければ、じぶんが死ぬか、大事な人が死ぬといった。大事な人とは、父だろうか。それとも大好きな千代吉だろうか。その人形をとり除くときに、あの山伏の祈祷が必要だそうだが、それはいやだ。だいいち、一刻も待ってはいられないというのが、十七歳という娘の考えだった。そのくせ彼女は、あの玄妙法印がそういったという言葉を信じていたのである。あの祈祷の|凄《すご》さに圧倒されたせいもあるが、そもそも丑の時参りをするくらいだから、そういうものをひどく信じ易いたちだったのだ。――それで彼女は、恐ろしいのをねじ伏せて、ふたたび森の中へやってきた。
 このまえ来たころは、月がなかったが、いまは満月にちかい。木の間をもれる|蒼《あお》|白《じろ》い月光に、見おぼえのある|樹《き》の幹に浮かびあがった|菅《すげ》の人形をみつけ出したとき、お関は顔を覆って、いちどかがみこんだ。
 しかし、やがて彼女は立ちあがって、それをはぎとるのにかかった。が、それは無数の釘で打ちつけた人形だ。釘ぬきももってこない彼女は、力ずくでそれをむしりとろうとしたが、やがて|生《なま》|爪《づめ》をはがして、指さきを血まみれにしてしまった。それも気がつかず、夢遊病者みたいにその作業をつづけているお関の耳に、どこからか、ぶきみな声がきこえてきた。
「のうまく、さんまんだぼだなん、まか、むたりや、びそなきやてい、そばか。……なむ、にけんだ。なむ。あじゃはた、そばか。……」
 はじめ、じぶんのあえぎのためわからず、次に耳鳴りか、それとも錯覚かとぎょっとなり、最後にうしろをふりかえって、お関はほとんど気絶したようになった。
 そこに、いたのである。何者かが――白い人間の姿が。――
 それは、ひるまのあの白い頭巾をかぶった玄妙法印その人であった! よろめいて、木にぶつかり、そのままうずくまってしまった娘を、じっと見たまま、白い修験者は、重々しくとなえつづけた。
「なうまり、さらば、たたきやていびやり、さらばた、せんだ、うんき、ききき。……」
 声が、しみいるように|止《や》んだかと思うと、彼はソロソロとあゆみよってきた。そして、呪いの人形のまえに立つと、いきなり、その手から白いひかりがほとばしって、人形はばさっと二つに裂けた。戒刀でぬきうちに切ったのである。
「娘。……」
 と、彼は呼んだ。呪文以外にはじめてきく|陰《いん》|々《いん》たる声音だ。お関は、声もない。
「ひるま、うぬのつきそいの男に、わしが申しつたえさせたことをきかなんだか?」
「き、ききました。……」
「きいて、なにゆえ、断りもなくかようなまねをしたか」
「ゆ、ゆるして下さい、あたし……」
「かようなこともあろうかと、きてみればこうじゃ、わしがいま祈ってやらなんだら、うぬが抜く釘は、たちどころにうぬののどぶえに刺さったところだぞ」
 お関はかっと眼を見ひらいて、玄妙法印を見つめたままだ。さすがに、たったいちど祈祷の依頼にいったばかりの、あたしのような小娘に、どうしてこう執念ぶかく――いや親切に、この|謎《なぞ》の山伏がつきまとうのかという疑問がわいた。
 すると、玄妙坊は、その心中を見すかしたように笑った。いや、その顔は頭巾につつまれていたし、月を背に、森の中でははっきり見えなかったが、あざ笑うような声の調子で感じられたのだ。
「娘、不審に思うか。それはうぬが玄々教の|功《く》|力《りき》の|宏《こう》|大《だい》無辺なことをまだ知らぬためじゃ。ひとたびわが門をくぐったものは、すべて玄々教の信者、その数が幾千幾万あろうと、一人一人にわしの眼ははなれぬぞ。その信者にかかる迷い、呪い、悲しみの雲がはれるまではな」
「…………」
「おまえには、まだ不祥の雲がかかっておる」
 声が急にやさしくなったが、かえっていっそう恐ろしい余韻をおびた。
「それは、丑の時参りをしたり、また勝手にその呪いの人形をとりのけようとしたりしたことから起ったのではない。それ以前から、おまえの頭上に悪い星が出ておるのじゃ。母親が死んだのもそれ、父が|《らん》|惰《だ》になったのもそれ、むごい継母がきたのもそれじゃ」
 お関は、ふるえ出した。そうか、あたしの|不倖《ふしあわ》せはそうだったのか。――
「ど、どうすればいいのです?」
「されば、その星をわしが追いはらってやろうとしたのじゃが、お前が要らざることをしたせいで、兇星はなおしばらくお前の運命からはなれぬ。――」
「…………」
「娘、わしを信じるか?」
「し、信じます」
「信じるなら、いおう。これから十日ばかりのあいだに、お前の身辺に五つの事件が起る。お前の愛し、信じるものが、四たび血をながす。いや、案じるな、決してだれも死にはせぬ。ただ五度めには――」
 白頭巾は、くびをかしげた。しばらく沈黙していたが、ややあって少し困惑したような声で、
「五度めにも血はながれるが……これは生命にもかかわるかもしれぬ」
「それは、だれです。何が起るのですか!」
「わからぬ。わしにも、今はわからぬ。待て」
 といって、玄妙法印は月をあおいで、また例の妖しい呪文をとなえはじめたが、やがてふりむいて、厳粛な声でいった。
「いいや、それを避けてはならぬ。恐れてはならぬ。五たびめも血をながせ!」
「え?」
「その血をながすことによって、お前はまったく悪い星からのがれることができるのじゃ。その血をながすものが、よし|誰《だれ》であろうと……娘、おそれずに、その人間から血をながさせろ。……」
 そして、茫然と立ちすくんでいるお関のまえから、その奇怪な山伏の祈祷者は、|妖《よう》|々《よう》と|木《こ》の|下《した》|闇《やみ》へ消えてしまった。
 ほととぎすが、月明りの空を鳴いてすぎたとき、彼女はわれにかえった。いままで、悪夢をみていたような気がした。しかし、はっとわれにかえっても、やはり真夜中の森の中だ。そして、あの|菅《すげ》の人形は、まっぷたつに切れている。夢ではない。――突然、お関はこけつまろびつ、逃げ出した。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:34:17 | 显示全部楼层
     三

 じぶんの身辺で、五たび血がながれる。しかも、じぶんが愛し、信じるものの血が。――
 そんなことが、ほんとうに起るのか?
 お関は、息をこらして待った。それなのに、一番めの事件が起ったとき、しばらく彼女はそのことに気がつかなかった。
 その予言をきいてから三日めの夕方、可愛がっている飼犬のフクが、かなしげな鳴き声をあげてかえってきたのである。千代吉がそれを見つけて、抱きあげて腹をたてた。
「どこの小僧だ? ひでえことをしゃあがる!」
「千代吉、フクがどうして?」
「ごらんなせえ、片眼をつき刺されていまさあ、ちくしょう、いたずらにしてもむごすぎる。これ、フク、下手人の名を言え、おれがかたきをとってやるから、よ!」
「まあ、フク、フクや可哀そうに!」
 かけよっていったお関は、犬を抱きしめて、声をあげて泣き出した。
 犬の片眼からながれる血潮で、彼女の手はすぐに真っ赤になった。――その血に気がついて、突然ぎょっとしたのである。あの山伏の声が、耳をかすめたのだ。血をながす。お前の愛するものが血をながす!
 彼女は、フクをつきのけ、顔色をかえて立ちあがっていた。人間ではなかったから、とっさには気がつかなかったが、ひょっとしたら、これがあれではないか?
 千代吉はびっくりした。
「ど、どうなすったんで?」
 お関は、ケタケタと笑い出した。
「人間ではなくってよかったわ。これからの四つも、こんなことかしら? まあ、人間だとばかり思ってたから、あたし、どんなに心配したか。……」
「な、なにをいってなさるんだ。人間じゃないからよかったって? じょうだんじゃねえ、犬だってこんなむげえ目にあわされちゃたまらねえ」
 と、千代吉は顔をまっかにしたが、ふっとけげんそうにお関をみて、
「これからの四つも? そりゃなんのことですね?」
 お関はまだ笑いがとまらなかった。そして、あの山伏のことを千代吉にいう気になった。実はあれからまた乾坤堂をたずねたことや、山伏寺へいったことや、その夜のことなど、千代吉にいうとひどく怒られそうで、いままでだまっていたのだが、ひとり胸のなかでなやんでいるにはあまりにも恐ろしく、それでなくてさえ訴えたくてたまらなかったところに、いま予言どおりに起った一番目の流血事件が、意表に出てばかばかしいものだったので、つい笑いとおしゃべりがこぼれ出したのだ。
 あきれたようにお関の白状をきいていた千代吉は、はたせるかな、怒り出した。
「な、なんて、ばかげた――」
「でしょ? ほんとにあたし安心したわ。二番めは猫で、三番めは鶏かもしれない」
「ばかげてるのはお前さんですよ。お前さんはほんとにいい娘さんだが、妙なことを真顔で信じるくせだけァいけねえ。こないだあっしが、あれほどよくいってきかせたのに、まだそんなことをしていなすったのか」
「え、だって、その……玄々教って、ほんとに大したものよ。お前、いっぺんのぞいてきてごらんよ、あたしが気にかけたのもむりはないと思うから」
「まだあんなことをいってなさる。へっ、玄々教のことァあっしもきいてまさあ。どうせ世間の馬鹿から金をまきあげるインチキ野郎どもだと思っていましたよ。それにしても、寺でおがむだけならまだしも、こんな娘さんのあとを白山の森の中まで追っかけて、縁起でもねえ世迷い言を吹きこむたァ、とんだ執念ぶけえ野郎だな。こりゃ、なんかほかに目あてがあってのことだな」
「ほかに目あて? あたしをつかまえて、どんな目あてがあるというの?」
 千代吉はまたお関をみて、不安らしい表情になり、それからくびをかしげてひとりごとをいった。
「それァわからねえが、とにかく、捨てちゃあおけねえ。……」
 それから三日ばかりたって、二番めの予言が的中した。千代吉が血まみれになって、戸板でかつぎこまれてきたのである。
「千代吉! 千代吉!」
 ふたりが恋し合っている仲だということを、公表するにひとしい声をお関ははりあげた。継母が眼をひからせるのがわかったが、お関は意にも介しなかった。
「千代吉のばか! だれと|喧《けん》|嘩《か》してきたの、千代吉!」
「へえ、山伏とね」
 血だらけの中から、千代吉はニヤリと白い歯をみせた。
「えっ、お前、山伏寺へいったのかい?」
「あんまりひとをばかにしやがるからね。きょう吉祥寺裏へいって、西も東もわからねえ娘さんに、妙なまじないをかけるなあよしてくれと談じこんだら、ちくしょうめ、そんな娘は知らねえとそらッとぼけやがる」
「あたしを知らないって――あの玄妙さまが」
「玄妙だか玄米だかしらねえが、あっさり白状すりゃいいものを、あんまりぬけぬけと強情をはりゃがるから、つい腹をたててね、ぽかりとやったら、いや怒り出したのなんの、ほかの|鴉天狗《からすてんぐ》どもをよびあつめやがって、よってたかってのあげくのはてがこのざまでさあ」
 怒るのも、泣くのも、千代吉を介抱するのも忘れてお関は宙に眼をすえていた。
 これもまた玄妙法印の予言のとおりの出来事だろうか。二番めに血をながしたものが、玄々教自身の手によるとは、あんまりではないか。
 しかし、彼女の心をうばっているのは、そんな原因よりも、ただこの事実そのものだった。そうだ、ほんとうにじぶんの愛するものが、またもや血をながした! しかも、犬でも猫でもない、こんどはたしかに人間が。
 それじゃあ、三番めに血をながすものは、いったいだれだ?
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:34:52 | 显示全部楼层
    五たび血をながせ

     一

 三番目に血をながしたのは、実に意外な人間であった。
 お関は、山伏寺のくずれかかった山門の外で、その人間があたまをおさえ、その手から顔にダラダラと血をながしながら、よろめいてくるのを、|真《ま》っ|蒼《さお》な顔で見つめていた。
 ――千代吉の事件があったあと、彼女は思いあまって、白山前の|辻《つじ》にいって、乾坤堂に相談した。乾坤堂は、あの晩お関がひとりで権現さまの森の中へいったことはむろん知らないから、話をきいて、眼をまるくした。
「なに、玄妙法印が森にあらわれて、おまえにそんなことを言ったと?……そして、五度血がながれると予言したと?」
 彼はくびをかしげた。
「|解《げ》せぬ。お前さん、夢でもみたのじゃないか?」
「そ、そんなことはありません。そしてそのとおり、フクが片眼を刺され、千代吉が血だらけになってかえってきたんですもの!」
「フクは犬じゃろ? 千代吉は当の玄々教のために|袋叩《ふくろだた》きになったのじゃないか」
「だって、血のながれたことにまちがいはないんです」
「そういえば、そうじゃが……もし、それがほんととすると、わしはお前さんをえらいものにつれていったわけじゃな。玄妙法印がそんなことをしたり、いったりするとはとうてい信じられんが、いや、こんなことをくりかえしていてもきりがない。よし、わしがたしかめにいってこよう」
「乾坤堂のおじさん、あの山伏さまを、どうぞ怒らせないで……」
「なに心配するな、千代吉とはちがう、わしにも責任がある。まことならば、それはとんでもない、邪教じゃ」
 そして彼は、それにしてもあれほど|帰《き》|依《え》者が雲集していては、きょうこれからは近よりがたい。明日早朝にいってみよう。それにしても、念のため、お父っさんによく気をつけてあげるがいい――といいかけて、
「そうだ、玄妙法印は、お前さんの愛するもの、信じるもの五人が血をながすといったとな。まあお前さんのいうとおり、そのうち犬と千代吉がそんな目にあったとする。それ以外に思いあたる者は?」
 お関は、じぶんの愛するもの、信じるものをさがした。
「お父っさんのほかには、思いあたるひともないけれど……」
「それごらん。それだけでも、玄妙坊のいったことはだいぶあやしい。ともかくあしたいってみよう」
 こういうわけで、その翌日の朝はやく、乾坤堂とお関は山伏寺をおとずれたのである。
「お前さんはここで待っておれ。わしがまずかけあってみる」乾坤堂にそういわれて、お関は山門の外で待っていた。
 そして彼女は――まだ信者があつまらず、白じらとした境内に――その乾坤堂が、あたまをおさえ、顔を血にそめてにげ出してくるのを目撃したのである。
「やられた! やられた!」
 と、乾坤堂は、お関のそばにくると、はじめて悲鳴をあげた。
「恐ろしい奴じゃ! わしは見そこなった! にげよう、はやくにげよう」
 と、彼はお関の手をつかんで、石段をかけおりた。
 そして吉祥寺前の大通りに出てから、やっと|手《て》|拭《ぬぐ》いであたまをおさえ、
「|斬《き》られたのではない、あの|瘤《こぶ》山伏めに、|金《こん》|剛《ごう》|杖《づえ》でなぐられたのじゃが、これァひどい血じゃな。……うんにゃ、玄妙法印はおらぬとよ、あれは毎晩、この寺には寝ず、朝よそからかえってくるそうじゃ。白山にあらわれたは、まさしく玄妙坊に相違ない。……お関とは、祈祷中に気を失ったあの娘か、と瘤山伏はいって、きのうきたあの理不尽な若僧も、うぬとおなじようなことをいっておった。魔天をおそれぬ|不《ふ》|埒《らち》者めが、きのうはきゃつのために呪殺の護摩を|焚《た》いたが、うぬもおなじ目にあいたいかっと、|咆《ほ》えおった。……」
 乾坤堂は、話の前後もとぎれとぎれに、|昂《こう》|奮《ふん》してしゃべった。
「えっ、千代吉を、呪殺……」
「それで、あんまりじゃから、わしものぼせてな、このような邪教はお|上《かみ》に訴えてやる。玄妙坊が夜な夜などこへ出かけるか、それもわしの占いでわかっておるぞ、むやみに善男善女をおどすのをだまってみてはおれんと申したら――」
「おじさん、玄妙さまがどこへ出かけるのか知ってるの?」
「そんなこと、知るものか。そういってやったら、向うは真っ蒼な顔色になって、いきなり、があん、じゃ。わしは腹をたててな、やりおったな、もうこうなったら、あくまで玄妙坊に話をする。もし、話をしたければ、当の玄妙坊がわしのところへわびにこい――といってやった」
「そ、それで?」
「すると、むこうは金剛杖をおさめて、うぬのうちはどこじゃときくから、今夜|丑《うし》の刻、白山権現の森の中へこい、そこでとっくり談合じゃ、とわめいたとたん、はじめてあたまからながれてきた血に気がついて、急に恐ろしくなってにげてきたのじゃ」
 お関は、このときはじめて、乾坤堂があの予言の三番めにあたるのではないか、と気がついたのである。これほど親切な町の占い師、これこそあたしの愛し、信じる人のひとりではないか!
「もし玄妙法印が、わしの伝言をきいておったまげたら、きゃつはきっと今夜白山権現にくる。きたら、それだけで、きゃつがまやかし者であることを白状したも同然じゃ。わしがうんととっちめてやる。……」
 乾坤堂は、ひとりでりきんだ。
「お関さん、今夜丑の刻、白山前の辻においで。わしといっしょに権現さまの森へいってみよう」
 鉛色の顔になっているお関に気がつく余裕もなく、彼はうめいた。
「しかし、痛いのう。ううむ、ちくしょうめ、だんだん痛みが加わって、あたまがわれそうじゃ。……」
 そして乾坤堂は、路ばたの草の朝露の中に、ペタンと坐ってしまった。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:35:27 | 显示全部楼层
     二

 またお関は、権現の森の中へ、やってきた。――
 きたくなかった、それは吐き気をもよおすほど、こわかった。けれど、お関はこずにはいられなかった。
 ひとつには、その日かえってみたら、千代吉が高熱を出していたためである。袋叩きになってもどってきたときには、案外元気に口をきいたのだが、その日になって高熱を出したということは、打身の特徴かもしれないが、お関は山伏寺の呪殺を思わずにはいられなかった。
 ふたつには、乾坤堂が待っているかもしれないという責任感のためである。あんなにひどい目にあったおじさんが、せっかく玄妙坊にかけあってくれるというのに、こわいからといって、じぶんがゆかないわけにはゆかない。――とはいえ、ほんとうのところは、お関がすでに玄妙坊の予言に、完全に|憑《つ》かれてしまっていたのである。
 その証拠に、待っていてくれるはずの乾坤堂が辻に姿をみせなかったのに、彼女はひとりで白山権現に上ってきた。だいぶ待ったが、待ちくたびれて、朝、乾坤堂があたまをかかえてひどく痛がっていたのを思い出し、ひょっとしたら、おじさんはのびてしまったのかもしれないとかんがえて、トボトボとひとり森の中へさまよいこんできたのである。
 丑の刻はすでにすぎていた。――果然、玄妙坊は、白い幻影のように立っていた!
「ほ、お前がきたのか?」
 と、彼は例のしゃがれ声でいった。
「|玄《げん》|光《こう》|坊《ぼう》からきいた。あの乾坤堂とか申す|売《ばい》|卜《ぼく》|者《しゃ》はどうしたか」
 玄光坊とは、あの瘤のある山伏のことだろう。お関はふるえながらこたえた。
「知りません、どうしたのか――きっと、いっしょにきてくれるという約束だったのに」
「きて、わしに何をいおうとするのか。……玄光坊からきいたところによると、乾坤堂は、玄々教を邪宗だの妖教だのと|雑《ぞう》|言《ごん》申したそうじゃな。乾坤堂のみではない。うぬはそのまえにも職人態の若者をよこして、わが宗門に|強請《ゆすり》がましきふるまいに及んだな。まだ乳くさい小娘の身を以て、さりとは見かけによらぬ不敵な奴」
「いいえ、いいえ、千代吉も乾坤堂のおじさんも、あたしがたのんでゆかせたのじゃあありません!」
 お関はあとずさりしながら、必死にさけんだ。
「娘」
 白頭巾の怪教祖は、音もなく二歩三歩あゆみ寄った。
「七日まえ、わしがここで予言したのをお前は信じないのか」
 声が笑った。
「お前の身のまわりで、五たび血がながされるということを。……すでに一番め、犬が血をながした。二番め、千代吉が血をながした。三番めには、乾坤堂が血をながした。……」
「ゆるして下さい。……だから、あたし、あやまりにきたんです」
「あやまる? わしにあやまって何になる。それはお前の運命じゃ。それとも、あれはみんな、わしの仕業とでも申すのか。犬の眼を刺したのも……」
 お関はぎょっとした。玄妙法印の言葉も言葉だが、それよりもその声の調子がなぜか急に破れたような感じに変ったのに、本能的な恐怖をおぼえたのである。
「四番めにも、血はながれるぞ!」
 白頭巾の腕が、ヌーッとのびてきた。
「あっ、たすけて!」
 半分すでに気を失ったようになっていたお関が悲鳴をあげたのは、その腕がくびにまきついたということより、もう一方の腕が彼女のきものの|裾《すそ》にかかったからであった。
「これ、あばれるな、ほう、もう一人前の|乳《ち》|房《ち》をしておるではないか」
 それから何が起ったか。――十七のお関を、いままでのどんなに|辛《つら》い、恐ろしいことよりも――継母の|折《せっ》|檻《かん》、丑の刻参り、山伏寺の祈祷、それからあとのさまざまの怪事件よりも幾千倍かの、想像も絶する|驚愕《きょうがく》にみちた出来事が襲った。
 恐れていたくせに、この玄妙坊がそんな行為に出ようとは、まったく予想もせずにひとり深夜の森へやってきたのは、やはり十七という|稚《おさ》なさのせいであったろうか。|凄《すさ》まじい抵抗は、男の凶暴な力で、むざんにふみにじられた。残忍きわまるふるまいに出ながら玄妙法印はとなえつづけていた。
「おん、はばまく、のうぼばや、そわか。……おん、ばさら、ぎに、ばら、ねんばたな、そわか。……」
 そしてお関は、下腹部に異様な|疼《とう》|痛《つう》をおぼえた瞬間から、気を失ってしまった。
 ――しかし、あとでかんがえると、それでも彼女はかすかにおぼえているのである。
「どうじゃ、四番めにながれた血を、とくと見ておけ……」
 そういって、ゲラゲラ笑いをあげながら、|朽《くち》|葉《ば》をふんで遠ざかっていった男の|跫《あし》|音《おと》を。――
 お関が気がついたとき、彼女は全身|蒼《あお》い冷たいひかりにぬれていた。明けやすい初夏の朝が、森の中へせまっていたのだ。彼女はまるで高いところから大地へたたきつけられたような姿で横たわっていた。――身をうごかせて、下腹部にまた火傷のような疼痛をかんじたとき、彼女はあの吐き気をもよおすような山伏の笑い声を思い出したのである。
 お関は、がばと身を起した。蒼いひかりのなかに、二本の足はむき出しになって、白い|雌《め》|蕊《しべ》のようにおしひらかれたままであった。そして彼女は――そのあいだにながされた「四番めの血潮」を、うなされたような眼で見出したのである。
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