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发表于 2009-6-21 21:02:31
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文章
天平文化は、聖武天皇朝の天平時代を中心とした8世紀の奈良時代の文化の
総称である。盛唐文化を中心とした国際色豊かな文化で、律令国家最盛期を繁
栄して豪壮雄大で、貴族的で仏教的色彩の濃い文化である。
奈良時代の仏教は、国家の保護・支配の下に置かれた国家仏教<注1>であ
る。僧侶は、僧尼令{そうにりょう}の規制を受ける国家公認の官僧のみが認
められ、許可なく得度{とくど:出家}する私度僧{しどそう}は禁止され
た。また、僧尼を統轄する僧綱{そうごう}という官職が設けられた。官寺が
多く建てられ、鎮護国家の法会{ほうえ}を行なった。
<注1>寺田{じでん:寺所有の田}が不輸租{ふゆそ:税金がかからな
い}で、僧の課役{かえき:調庸と雑徭}も免除された。
官大寺制は、8世紀末に大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺・法隆寺・東大寺
・西大寺が南都七大寺とされた。寺院は、鑑真{がんじん}が建立した唐招提
寺{とうしょうだいじ}も有名である。官寺には仏教教学を研究する学派があ
り、三論{さんろん}宗・倶舎{くしゃ}宗・律{りつ}宗・成実{じょうじ
つ}宗・法相{ほっそう}宗・華厳{けごん}宗の6学派を南都六宗と総称さ
れた。東大寺などには数派が同時に存在した。
正式な官僧になるには得度して修行し、戒壇で授戒{じゅかい}する必要が
あった。授戒は、一定の戒律{かいりつ}<注2>を所定の手続きで授けるこ
とをいい、それを行なう場所を戒壇{かいだん}といった。754年に初めて鑑
真が東大寺大仏殿前に築き、翌年から常設の戒壇院を建立した。東大寺戒壇院
と下野薬師寺・筑紫観世音寺{ちくしかんぜおんじ}の戒壇を天下三戒壇とい
う。
<注2>僧尼が守るべき一定の規範。戒は心の規律、律は行動の規範。
国王(ここでは天皇)が仏教を尊崇すれば、諸仏が国を護ってくれると説い
た教典を「護国の経典」といい、法華経{ほけきょう}・仁王経{にんのうき
ょう}・金光明経{こんこうみょうきょう}を護国三部経といった。また、一
切経{いっさいきょう:大蔵経{だいぞうきょう}とも}の写経が盛行した。
仏典を書写する写経事業も行なわれた。
政治と仏教が深く結びついたため、玄〔日方〕{げんぼう}や道鏡{どうき
ょう}のように政治に介入する僧侶もいた。民間への布教は禁止されていた
が、行基は民間に布教して弾圧を受けた。戒律を伝えるため、盲目になりなが
らも来日した鑑真も有名である。
仏教思想に基づく社会事業も行なわれた。光明{こうみょう}皇后は、皇后
宮職{ぐうしき}<注3>に施薬院{せやくいん}・悲田院{ひでんいん}を
設置した。施薬院は、病人に薬を施して治療を行なう施設である。悲田院は、
貧しい人々や孤児を収容して飢餓から救う施設である。和気広虫{わけのひろ
むし}は、仲麻呂{なかまろ}の乱に連坐した人々の助命を乞い、乱後の捨て
子を養育した。称徳天皇は、仲麻呂の乱による戦没者の霊を弔うために木製の
三重塔百万基(百万塔)を作った。行基は民間に布教し、灌漑施設や橋、布施
屋{ふせや:休憩宿泊所}を設けるなどの社会福祉事業を行なった。大仏造営
に協力し、大僧正{だいそうじょう}に任じられた。
<注3>皇后に付された家政機関
教育では、中央に式部{しきぶ}省管轄の大学(大学寮)が置かれ、貴族や
東西史部{やまとかわちのふひとべ}の子弟を学生{がくしょう}とした。明
経{みょうぎょう}・明法{みょうぼう}・文章{もんじょう}・算などが教
授され、大学の試験を通ると太政官に推薦され、式部省で秀才・明経・進士・
明法の4科に分けて試験を受けて登用された。また、中務{なかつかさ}省管
轄の陰陽{おんみょう}寮では陰陽・暦・天文を教え、宮内{くない}省管轄
の典薬{てんやく}寮では医学・薬学(本草{ほんぞう}学)を教えた。地方
には国司管轄の国学が置かれ、郡司の子弟を教育した。修了者は上京して、大
学修了者同様に試験を受けて、官吏に登用された。
さらに、石上宅嗣{いそのかみのやかつぐ}は旧宅に公開図書館を開いた。
芸亭{うんてい}と呼ばれ、仏教以外の書を好学の士に閲覧させた。
文学では、歴史書の『古事記{こじき}』『日本書紀{にほんしょき}』、
地誌の『風土記{ふどき}』、漢詩集の『懐風藻{かいふうそう}』、和歌集
の『万葉集{まんようしゅう}』が編纂された。
681年、天武天皇は『帝紀』『旧辞』を検討し、記憶力に優れた稗田阿礼
{ひえだのあれ}に誦{よ}み習わせた。また、勅語で川島皇子{かわしまの
みこ}・刑部{おさかべ}親王ら12名に「帝紀及び上古の諸事(旧辞)を記し
定める」よう命じた。
『古事記』は、稗田阿礼が誦み習わせた推古天皇までの天皇系譜や皇室の伝
承を太安万侶{おおのやすまろ}が筆録して、712年に元明天皇に献上したも
のである。漢字の音訓を用いて、口頭の日本語を文章表現した。『日本書紀』
は、神代~持統天皇に至る天皇中心の国家成立史を漢文・編年体<注4>で記
した、最古の官撰正史である。編者は舎人{とねり}親王らで、720年に元正
{げんしょう}天皇に献上された。この後に編纂される六国史{りっこくし}
の最初である。
<注4>時代を追って出来事を記述する歴史叙述法。
『風土記』は、713年に諸国に地名の由来・産物・伝承などを記して提出さ
せた各国別の地誌である。現存は常陸・出雲・播磨・豊後・肥前の5か国のみ
で、出雲だけが完全に残っている。
『懐風藻』<注5>は、64人の詩120編を集めた日本最古の漢詩集である。
撰者は淡海三船{おうみのみふね}、石上宅嗣といわれるが不明である。天武
天皇の皇子大津皇子{おおつのみこ}はその代表詩人である。
<注5>先人の遺風を懐{おも}う美しい藻(詩文)の意
『万葉集』は、奈良時代後期までの約4500首を収録した日本最古の歌集であ
る。撰者は、大伴家持{おおとものやかもち}が有力である。漢字の音訓を用
いて日本語を表わす万葉仮名を使い、詩形・作者とも幅広い。歌風は素朴で力
強く、万葉調と呼ばれる。恋愛を詠む相聞歌{そうもんか}、死者を哀悼する
挽歌{ばんか}、両者に属さない雑歌{ぞうか}などに分かれる。短歌・長歌
以外に、東歌{あずまうた}や防人{さきもり}の歌も多く収められている。
代表的歌人に、『貧窮問答歌{ひんきゅうもんどうか}』で知られる山上憶良
{やまのうえのおくら}、大伴旅人{おおとものたびと}、山部赤人{やまべ
のあかひと}、大伴家持らがいる。
建築では、法隆寺伝法堂{でんぽうどう}・夢殿、東大寺法華堂・転害{て
がい}門、正倉院宝庫、唐招提寺金堂・講堂などが知られる。法隆寺伝法堂は
橘古那可智{こなかち}(聖武夫人)宅<注6>の移築とされ、当時の貴族住
宅を知る貴重な遺構である。夢殿は、八角形の仏殿である。東大寺法華堂は、
毎年3月に法華会{え}が行なわれるので、三月堂ともいう。正堂{しょうど
う}は創建時、礼堂{らいどう}は鎌倉時代のものである。転害門は、東大寺
に現存する創建当時の建造物7棟のうち、唯一の門である。
<注6>橘三千代{みちよ}(光明子の母)宅とも
正倉院宝庫は東大寺宝庫群で現存する唯一のもので、南・中・北倉の3倉に
分かれ、南と北は校倉造{あぜくらづくり}で作られている。校倉造は、柱を
用いず断面が三角形の木材を井桁{いげた}に積み上げて、壁面を構成したも
のである。唐招提寺金堂は、奈良時代の金堂で唯一現存する遺構で、和様建築
の起点とされている。講堂は平城宮朝集殿{ちょうしゅうでん}<注7>を移
築し、鎌倉時代に修築されたが、平城宮唯一の遺構である。
<注7>儀式の時に臣下が参集する場所で東西2棟あった。
彫刻は、粘土で作る塑像{そぞう}と漆で固めて作った乾漆像{かんしつぞ
う}がある。乾漆像には脱{だつ}乾漆と木心{もくしん}乾漆があり、前者
は土の原形の上に麻布を漆で塗り固め、土を抜いて木枠を入れるもの、後者は
原形を木で造り、麻布と漆で整形するものである。ともに、経費と時間がかか
る。
塑像は、東大寺法華堂日光・月光{がっこう}菩薩像と執金剛神{しつこん
ごうしん}像、東大寺戒壇院四天王像(持国天{じこくてん}・増長天{ぞう
じょうてん}・広目天{こうもくてん}・多聞天{たもんてん})、新薬師寺
十二神将像{しんしょうぞう}(迷企羅{めきら}大将像など)などがある。
脱乾漆像は、興福寺八部衆像(阿修羅{あしゅら}像など)・十大弟子像(須
菩提{すぼだい}像など)、東大寺法華堂不空羂索{ふくうけんじゃく}観音
像、唐招提寺鑑真像<注8>・金堂盧舎那仏像などがある。木心乾漆像は、聖
林寺{しょうりんじ}十一面観音像などがある。
<注8>松尾芭蕉は唐招提寺でこの像を拝み、「若葉して 御{おん}め
の雫{しずく} ぬぐはばや」(若葉で鑑真の見えなくなった目
の涙をぬぐって差し上げたい)と詠んだ(『笈{おい}の小文
{こぶみ}』)。
絵画は、仏画の薬師寺吉祥天{きちじょうてん}像、美人画の正倉院鳥毛立
女{とりげだちおんなの}屏風(樹下美人図)、絵巻物の最初とされる過去現
在絵因果経がある。鳥毛立女屏風の髪や衣服には日本のキジの羽毛が貼ってあ
ったが、現在は剥落している。
工芸は、正倉院宝物<注9>が有名である。この宝物は、光明皇太后が聖武
上皇の没後に冥福を祈って東大寺に寄進したのが始まりで、それ以外の献納物
をあわせると1万点余になるという。奈良時代の貴族文化の実際を見ることが
出来る。また、由緒・来歴が明白で、宝物の数量が多く、世界性・国際性があ
ることなどに価値がある。現在は鉄筋コンクリート造りの新宝庫に保存されて
いる。螺鈿紫檀五絃琵琶{らでんしたんごげんのびわ}、銀薫炉{ぎんのくん
ろ}、白瑠璃碗{はくるりわん}<注10>、瑠璃杯{るりのつき}、漆胡瓶
{しっこへい}などの他に、光明皇太后44歳の書『楽毅{がっき}論』も納め
られている。
<注9>毎年、秋の虫干しの期間だけ正倉院展として一般公開される。19
46年に始まり、毎年異なる宝物が奈良国立博物館で公開されてい
る。
<注10>瑠璃は中国でガラスのこと
正倉院宝物の他に、東大寺大仏殿八角灯籠{はっかくどうろう}・大仏蓮弁
毛彫{れんべんけぼり}がある。また、世界最古の印刷物とされる百万塔陀羅
尼{だらに}(経)は、称徳天皇の発願で作られたものである。 |
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