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发表于 2011-3-12 15:26:31
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第9課 美を求める心
作者紹介
こばやし ひでお ひょうろんか
小林秀雄(1902~1983)。評論家。東京神田に生まれ。昭和3年3月東京大学を卒業。高校時代は第一高等学校で送ったのだが、在学中いろいろな文化活動に加わり、早くもその鋭い感性を磨いてきた。大学在学中、ランボオ、ボードレール、ジッド、バルザックから多くの思想を吸収、サント・ブウブやテーヌにも批評の方法を学ぶ。卒業後、まもなく志賀直哉の知遇を得て奈良に約一年滞在する。翌春東京へ帰り「様々なる意匠」を執筆、「改造」の懸賞募集に応募して二席となる(一席は宮本顕治の「敗北の文学」)。同論において独自の言語理論を展開、同時代の文学批判を行う。その後、波瀾に富んだ評論活動を行い、近代批評の創始者として広汎な影響を及ぼした。昭和42年文化勲章を受賞。主な著作に「私小説論」「作家の顔」「蘇州」「無常といふ事」「私の人生観」「近代絵画」「本居宣長」などがある。
しんちょうしゃ
「新訂小林秀雄全集」(全15巻、新潮社)が刊行されている。
第10課 日本の耳
作者紹介
おぐら ろう さっきょくか
小倉朗(1916~ )。評論家。作曲家。福岡県に生まれた。旧制早稲田大学附属第一高等学院中途退学。桐朋学園大学講師。作品に歌劇「寝太」のほか多数の交響曲・室内楽曲・ピアノ曲・合唱曲・歌曲などがあり、主な著書に「現代音楽を語る」「自伝北風と太陽」「日本の耳」などがある
第11課 鳥
作者紹介
おおえ けんざぶろう あくたがわしょう
大江健三郎(1935~ )。小説家、評論家。日本ペンクラブ副会長、芥川賞選考委員。愛媛県に生まれた。東京大学仏文学科卒業。東京大学在学中に「奇妙な仕事」を発表。「死者の奢り」で作家として認められ、1958年「飼育」で芥川賞受賞、新しい文学の旗手的存在となる。1994年「万延元年のフットボール」、「個人的な体験」などでノーベル文学賞を受けた。初期の短編では、死・挫折・戦争・疫病・監禁等の限界状態下にある若者の世界を、独特の文体で想像力豊かに追求した。その後、「見る前に跳べ」、「われらの時代」などの作品で現代の青春の精神風景を描き、また人間の自由と連帯、責任のあり方を、「青年の汚名」、「個人的な体験」などの作品で、さらに「万延元年のフットボール」、「みずから我が涙をぬぐいたまう日」などの作品で日本の風土に根ざした人間の深層を追及している。また、ほかに「厳粛な綱渡り」、「持続する志」、「鯨の死滅する日」、「ヒロシマ・ノート」、「沖縄ノート」、「核時代の想像力」などのエッセーもあり、対談「原爆後の人間」、インタビュー録「世界の若者たち」、ノーベル文学賞受賞記念講演「あいまいな日本の私」もある。
第12課 たこになったお母さん
作者紹介
のざか さんい
野坂昭如(1930~ )。小説家、元・参院議員、日本ペンクラブ理事。神奈川県鎌倉市に生
わせだ
まれ、早稲田大学文学部仏文科中退。少年期に体験した戦災による妹の死、放浪、飢餓が独自のアナーキーな思想、生き方を決定した。大学在学中、様々なアルバイトをし、コント作家、CMソング作詞家などをする。1963年「エロ事師たち」を刊行、そのモラルの世界に彼の思想ははっきり示されている。1968年戦争・占領体験を描いた「火垂るの墓」、「アメリカひじき」の両作で直木賞を受賞、以来秩序への反逆を独特の戯作的文体で哀しみをベースに作品化し始めた。‘‘焼跡闇市派’’を自称し、歌手やタレントとしても知名度が高い。1972年「面白半分」編集長として「四畳半襖の下張」裁判で刑事事件の被告となる。1974年参議選に立候補し落選したが、1983年に当選。世俗に激しくかかわる一方、ぼうだいな小説やエッセイを量産し続けている。他の作に「一九四五・夏・神戸」、「骨餓身峠死人葛」、「死屍河原水子草」、「砂絵呪縛後日怪談」、「俺はNOSAKAだ」、「日本土人の思想」などがある。
第13課 水泥棒
作者紹介
くろい せんじ ぶんげいか あくたがわしょう
黒井千次(1932~ )。小説家、日本文芸家協会理事、日本近代文学館専務理事、芥川賞選考委員。東京都に生まれ、本名長部舜二郎。1955年3月東京大学経済学科卒業、4月、富士重工に入社、勤務する傍ら小説を書き続け、1970年退社し、作家生活に入る。1958年、「青い工場」を発表、1969年、「時間」が芥川賞候補になり、翌年、「時間」によって芸術選奨・文学部門新人賞受賞。1984年、「群棲」で谷崎潤一郎賞受賞。初期の頃は企業体験を生かし、巨大企業に生きる労働者の生態に焦点を当て、メカニズムによる人間疎外のテーマが多かったが、近年は日常性そのものの混沌と不安を描くようになり、純文学路線を歩んでいる。作品はまた、「走る家族」、「五月巡歴」、「隠れ鬼」、「星からの一通話」、「眠れる霚に」、「たまらん坂」、短編集「指・涙・音」、随筆集「草の中の金の皿」、「任意の一点」などもある。
どくやく
第14課 海と毒薬
作者紹介
えんどう しゅうさく ぶんげいか あくたがわしょう
遠藤周作(1923~ )。小説家、日本文芸家協会理事、にっかつ芸術学院院長、芥川賞選考委員、1985年~1989年日本ペンクラブ会長。東京に生まれ、慶応義塾大学文学部仏文学科卒業、雅号狐狸庵山人。父の転勤で幼いころ大連に移り、父母の離婚で9歳のとき日本に戻り神戸に住む。10歳で洗礼を受ける。1943年慶大に入学、1947年「カトリック作家の問題」を発表。1950年、フランスへ留学し、リヨン大学で現代カトリック文学を研究し、1953年帰国。1955年「白い人」で芥川賞を受け作家生活に入る。1966年「沈黙」で谷崎潤一郎賞受賞。初期の評論活動から一貫して流れているのは、日本の文化風土とキリスト教を母胎とする西欧の文化風土の比較考察にあるといえよう。日本特有の汎神論と西欧の一神論との対比、特にキリスト教の日本への土着過程に注目した構想に特色がある。著書に「海と毒薬」、「イエスの生涯」、「侍」、「留学」、「死海のほとり」などの純文学と、エッセイ「狐狸庵閑話」、「ぐうたら人間学」や大衆向けのユーモア小説「おバカさん」、「大変だァ」などがある。
第15課 いとしのブリジット・ボルドー
作者紹介
いのうえ げきさっか
井上ひさし(1934~ )。小説家、劇作家、日本文芸家協会常務理事、直木賞選考委員、こまつ座座付作者。山形県に生まれ、本名内山廈、上智大学文学部フランス語学科卒業。在学中から浅草のスメリップ劇場で文芸部員兼進行係りとして働き、放送作家としてスタート。1964年からのNHKテレビの人形劇「ひょっこりひょうたん島」の台本で世に知られ、1969年戯曲「日本人のへそ」で注目された。1971年「モッキンポット師の後始末」で小説界
きげき かくとく
にもデビュー。1977年岸田戯曲賞を受けた「道元の冒険」などで喜劇作家の地位を獲得する一方、中間小説作家としても活躍し、「手鎖心中」で1972年上期の直木賞を受賞。‘‘笑いの魔術師’’ ‘‘現代の戯作者’’などといわれた。1981年「吉里吉里人」で日本SF大賞受賞。以後、戯曲、小説、エッセイに数多くの話題作を生み、多才ぶりを見せている。著書に「四十一番目の少年」、「おれたちと大砲」、「青葉繁れる」、「木の枕草紙」、「偽原始人」、「劇作者銘々伝」、劇曲に「国語元年」、「頭痛肩こり樋口一葉」、「人間合格」、「表裏源内蛀合戦」、「珍訳聖書」、「小林一茶」などがある。
いず おどりこ
第16課 伊豆の踊り子
作者紹介
かわばた やすなり
川端康成(1899~1972)。小説家。大阪市天満此花町に生まれた。1924年東京大学国文科卒。2歳で父、3歳で母、10歳で姉を失った。大正3年祖父が死んで全くの孤児となる。病床の祖父が写されている「16歳の日記」が処女作。一高時代最初の伊豆の旅での経験が「伊豆の踊り子」に描かれた。大正10年東大同級生らと第6次「新思潮」を発刊。「招魂祭一景」などを発表。「新思潮」の発刊を通じて菊池寛を知り、以後恩顧を受けた。大正13年横光利一らと「文芸時代」を創刊、新感覚派の中心メンバーとなる。川端は、横光と共に、その代表作家と注目されるようになるが、川端はその運動の中心的存在であったわけではない。むしろ表現上の実験はあるが伝統的抒情を基本として、虚無的態度を強め、独自の美意識を求め感性の昇華に努力する。主な著作に「感情装飾」、「16歳の日記」、「伊豆の踊り子」、「雪国」、戦後に「千羽鶴」、「山の音」、「古都」などがある。昭和23~40年日本ペンクラブ会長をつとめ、33年には国際ペンクラブ副会長に推されるなど国際的作家として活躍し、43年に日本人として始めてのノーベル文学賞を受賞。47年4月、逗子マリーナの仕事部屋でガス自殺をした。「川端康成全集」(全35巻・補2巻、新潮社)が刊行されている。
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