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发表于 2005-6-20 21:59:01
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竹馬の好
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晉の殷浩は字を深源といって、見識も度量もあり、若い時から評判が# p2 o6 m6 X: R
高かった。叔父の融とともに「老子」や「易」が好きで、浩と融とでは、口9 J% F6 R0 e$ N# s3 V6 J% F
でやりとりすれば融は浩に言いまかされ、物を書けば融が浩に勝つとい
; v& R) q1 g2 N5 ]: s6 Fう具合で、風流を口にするほどの人はみなこの二人を本家本元にしてい5 q( {3 L$ N( |. A+ b/ i7 q% l6 s
たのだった。' b, J) A! M2 c" A+ b, H- v
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あるとき、人が浩にたずねた。
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「役人になろうとするとき棺桶を夢に見、
2 q/ H5 D# L; y/ t! c6 G' } 財を手に入れようとするとき、& ~4 C3 I2 I$ A+ U' V
きたないものを夢に見るのはどうしたんでしょうね。」
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そこで殷浩は答えたのである。9 _' H/ F& y- O/ J0 `
$ E4 @: y& ]& E+ S 「役人はもともと腐って臭いものなんだよ。+ H; N5 G" O n0 o \7 a6 f
だから役人になろうとすると人が死んだ姿を夢に見る。
3 t5 d2 x- @. W. q: R/ S 銭はもともとちりあくた。
7 M! u% ~9 H- W+ Z. ~: j; r だから銭が手に入ろうとするときたないものを夢に見るんだ。」
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世間の人は名言だともてはやした。9 K1 L1 {( D4 ~7 {" J
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4 ?! Z0 |: W; I4 V 殷浩は誰が何と勧めようと官途につこうとせず、十年というもの先祖
( e- {' Z# j, w, q+ {- W5 j代々の墓の所へこもったきりであったが、功臣を相継いでなくした簡文( G8 `. {# b; H. N3 D0 c
帝の懇望もだしがたくついに建武将軍楊州刺史になった。これは当時、1 \ x. ]/ G3 E8 r( b$ b
桓温が蜀を平らげて帰って来、勢い当たるべかざるものがあったので、
0 l+ I, w; r4 r' Y6 r v簡文帝は内外に名声のある殷浩を手許において片腕として桓温に対抗し
3 W. G. i6 _. zようとしたのである。このために二人はたがいに疑いの目で見合うよう+ ]- f! e/ f, N: s M; Z6 N
になり、王羲之が二人を仲直りさせようとしたが、浩は応じなかった。9 N8 B9 g. H% `8 M5 }& S' z
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その頃、後趙の王の石季竜が死んで、胡族の間に騒乱がおきていたの% [% t6 i4 g6 u& l6 ?
で、晉ではこの期に一挙に中原を回復しようと、殷浩を中軍将軍都督楊* v' E: Y: I e; z! a: B0 S4 t' e
予徐エン青五州軍事に任命したので、浩は中原を定めるのはわしの任で2 s& { E7 m5 q' a" O* m
あると勇躍して出発したのであるが、出発の際落馬したので、人々はみ6 P9 Y( c' c# u& a! P6 K
んな縁起でもないといったのである。/ q7 x9 C+ L1 [$ ~
' c4 o, d. h7 h# S( M 殷浩はつまるところ姚襄にさんざんに敗れて帰って来た。それをよい
7 k, r8 J x9 l$ m5 Cことにしたのが桓温である。直ちに浩の罪をならして上書し、ついに浩
4 C j6 s- }6 c' }8 Pを庶人に落として東陽の信安県(今の浙江省衢県)に流してしまった。* A8 |, B! m# W3 z+ m: A4 @
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殷浩が流されてから、桓温は人にこう語った。
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7 N, T" d( d' J' V& J. ] 「わしは子供のころ、" y0 S- @- |7 s; ?( B
殷浩といっしょに竹馬にまたがってあそんでいたが、
# ?# L" `$ K' t6 L0 l! Q& F わしが竹馬を棄てさると、殷がいつも取っていた。
- }8 L1 z& G! @/ Z/ p' Y だから、あれはわしの下に出るのが当然だ。」- ` j; F) M6 b" w, d. P8 ^& W' a/ k
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この言葉が「竹馬の好」の出典で「世説新語」の「品藻篇」、「晉書」の& i, G. ^7 S6 J
「殷浩伝」などに見える。" d, [+ M9 H# i/ b% [8 D; j
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竹馬は竹を切ってこしらえた馬で、子供が遊戯につかうものである。; p* q/ m- N$ l J
「後漢書」の「郭キュウ伝」にも、「童児数百人がそれぞれ竹馬にまたが' M: m/ v8 D$ B1 b- V
って道すじでお迎えした。」と言う語があり、唐の杜牧の詩にも「漸く竹
9 c& Q" ~, G- ?6 t: L& D馬の戯を抛つ」なる句がある。' M% X# Q9 h, _9 X5 E2 F2 ]/ e
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配所にあっての殷浩は、口にうらみがましいことをいうでもなく、し
+ _4 b3 u4 B+ S! z7 D2 |) }8 Bごく平静に談詠に日を送っていて、流謫の身という感じは全然見えなか0 J0 E% ^5 O f% E, K9 R. e# C1 d3 V
ったが、ひねもす空に向かって「咄々怪事」、なんたるふしぎぞと指で
% L/ j& j9 n$ X% N& g書いていたという。! x4 j: w% L5 @, c. I8 S
. w: A0 h& j% H その後、桓温が浩を尚書令にしようという手紙をよこしたので、浩は) l2 T% n) s) w+ X% c1 w
よろこんで承知し、返事を書いて、まちがいないようにと数十回も入れ
' R' }' d7 f, K p' Oたり出したりして見ているうちに入れ忘れ、あげくに空手紙が桓温に届9 u* ~' W9 ?# j4 ~
いたので、桓温はカンカンになり、それっきりかまわなくなって、浩は
% V' R/ _3 m6 X7 F% _' E$ V$ ]永和十二年配所で果てたのであった。 |
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