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发表于 2008-4-17 08:21:39
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最後の勝敗
【一】
掛川の|宿《しゅく》から三里二十町で金谷、一里をへだてて島田、そのあいだの大井川は、同時に|遠江《とおとうみ》と駿河をわかつ。島田から二里八町で藤枝の宿。
これは、|山《やま》|間《あい》ながら、半里以上もある長い宿場だ。
宿場をつらぬく街道から、すこし北へはいった小高い場所に、荒寺が一つあった。すぐ下に大きな旅籠の裏庭があるが、ふかい樹々にさえぎられてよくみえない。が――ちょっと気をつけてみれば、町の家々がみな灯をけした深夜――その無住のはずの荒寺に、ゆらゆら灯影のゆらめいているのがみえたはずだ。
しかし、その灯も、夜にはいってわき出した霧に、しだいにぼやけ、暗くなっていった。
霧ににじむ大|蝋《ろう》|燭《そく》が一本、なかばこわれた|経机《きょうづくえ》に立てられて、|埃《ほこり》のうえにうずたかく|蝋《ろう》|涙《るい》をつんでいた。そのそばのふといまるい柱に、ひとり全裸の女が大の字にしばりつけられていた。両腕と両足をうしろへひきしぼった縄が、円柱のうしろでかたくむすばれているのである。
その女の雪のようなみぞおちのあたりに、妙なものがみえる。蝋燭がゆらめくたびに、キラキラ銀色にひかる文字なのだ。乳房ほどの大きさで、「伊」の字。そして、その下に、やや小さく「加」の一字が。――
そのそばにはだれもいないのに、ときどき彼女は全身をうねらせ、|痙《けい》|攣《れん》させ、身の毛もよだつうめき声をあげる。
「陽炎」
遠く、三メートルもはなれて、笑みをふくんだ声がした。
「弦之介はこぬな」
薬師寺天膳であった。この荒寺の内陣のまんなかに腰をすえて、ひとり盃をかたむけつつ、ニヤニヤ、|苦《く》|悶《もん》する陽炎を見つめている。
「盲目とはいえ、わしが立てつらねた立札の風評は街道できくはず――おまえをとらえて伊賀責めを味わわし、明日にもその細首うちおとすとかいておいたのに、弦之介はこぬ。甲賀卍谷の首領は、味方の命が危いと知っても、救いにこぬほど情がうすいのか。臆病者が」
そういいながら、何かを口にふくんで、ぷっと吹くと、ほそい銀の光がすうとはしって、陽炎の腹にとまった。陽炎はまた身もだえして、|苦《く》|鳴《めい》のほかは声もない。
「ふふふふ、味を知っておるだけに、その白い腰のうごめきがたまらぬわ。そばにいって、抱いてやりたくてうずうずするが、そうはまいらぬ。ちかづけばこの世とお別れじゃからの。……いや、おととい、浜松ではおどろいたな。おまえの術が何であろうとは最初から気にかかってはおったが、まさか息が毒になるとは知らなんだ。さすがの天膳も、まんまとしてやられたわ。……」
しかし、この|苦《く》|患《げん》の中にも、天膳に数倍する驚愕の尾をひきつづけているのは、陽炎の心のほうであったろう。すでに浜松の夜、死んだはずの天膳が如月左衛門といれかわっていることを知って混迷におちいった。しかも、その夜、もういちど自分が死の|息《い》|吹《ぶき》で|斃《たお》し、念入りに|頸動脈《けいどうみゃく》を切りはなしてとどめを刺したはずなのに、その天膳が掛川にまたあらわれたときの恐怖。――
はじめて、この男が不死の忍者であることを知ったが、ときすでにおそし。そもそもこの天膳は、いかにすれば完全に殺すことができるのか。いまはとびかかることもかなわぬが、よし身が自由であったとしても、それは不可能としかかんがえられない。そうだ、そのために味方の如月左衛門も殺されたのだ。いかに斃した敵の顔に化ける妙術をもつ左衛門にしても、その殺されたはずの当の敵が出現しては、その運命はきわまったというしかない。――陽炎は、敗北を意識した。自分のみならず、甲賀組の敗北を意識した。まけるということをしらぬ甲賀卍谷の女にとって、それが肉体のいたみ以上に、どれほど彼女をうちのめしたことか。――
天膳は、またうまそうに|盃《さかずき》をなめて、
「ちかづけば、死ぬとはわかっていても、おとといのように可愛がってやりたいの。思えば、朧さまではないが、このたびの鍔隠れ卍谷の果し合いがちとうらめしい。そのことさえなくば、わしはまたおまえを抱いて殺されて、一日や二日死んでやるのをいといはせぬが」
と、いって、また口をとがらせて、ぷっと銀線をふく。はねあがって、陽炎は白い海老みたいに身をおりまげようとしたが、大の字にひきしぼられた体はうねって、髪ふり乱し、あごをのけぞらしたばかり。――
「ひ、ひと思いに殺しゃ!」
「おお、殺してやる。殺すにおしいが、望みどおり、殺してやるわ。じゃが、ひと思いには殺さぬ。朝までかかって、ユルユルとな。――あすは、生かしておけぬ。あすは、駿府入りじゃ。駿府まで、この藤枝からはたった五里半、たとえその間に宇津谷峠や安倍川があろうと、ゆっくりあるいても夕刻までにはつこう。伊賀組晴れの駿府入りじゃ。おまえの名は、それまでに人別帖から消されねばならぬ」
銀の糸がはしった。陽炎の腹の「加」の字の下に、しだいに「月」の字があらわれてゆく。
「今夜、明日――甲賀弦之介があらわれねば、|臆《おく》してにげたと大御所さまに|言上《ごんじょう》しよう。じゃが、うべくんば、その人別帖が欲しい。人別帖は弦之介がもっておる。ぜひ、甲賀最後のひとり弦之介を討ちはたして、人別帖からその名を消し、伊賀の完勝でこの争忍を飾りたいのだ!」
ながれる銀線。――陽炎のこの世のものならぬ苦鳴。
それは、小さな吹針であった。薬師寺天膳は、遠くから針で一本ずつ、陽炎の肌に文字をかいてゆくのだ。
ただの針でさえ、文字どおり針地獄なのに、そのうえまたこの針には特別の毒でもぬってあるのか、たとえ片腕斬りおとされようと悲鳴をあげぬ甲賀の忍者陽炎が、|瀕《ひん》|死《し》の美しい獣のようなうめきをしぼる。すでに彼女は、浜松での、阿福一行の武士たちとの争闘でふとももに重傷を受けている。その目はかっと見ひらかれたまま|虚《うつろ》になり、ただ針が一本ずつつき刺さるたびに、その刺し傷に生命がよみがえって、たえきれぬ絶叫をあげるのであった。
「そのためには、こうでもして弦之介をここに呼ばねばならぬ。盲目とは申せ、あの立札の噂をきけば、かならず阿福どの一行が藤枝の、この下の旅籠に泊っておることをつきとめるはず。そこまでつきとめたら――」
と、いって、針を吹いた。「月」が「|目《め》」になった。
「天膳」
うしろから、ひくい、たまりかねたような声がかかった。崩れた|須《しゅ》|弥《み》|壇《だん》のかげから、朧があらわれた。
「もはや、よしておくれ。わたしはがまんがならぬ。……」
この寺にいるのは天膳と朧と、とらえられた陽炎だけであった。それは、甲賀弦之介をおびきよせるためにも、また街道筋にあの立札をたてた以上、国千代派の徳川の侍たちもかならず、さてこそ、と思いあたるに相違ないから、阿福一行のなかに伊賀鍔隠れのものが同行していたという噂をたてさせぬためにも、一応別行動をとった方がよかろうと、天膳が阿福に進言したからであった。すでに、不死の大妖術をみせつけた天膳は、当然、阿福たちの絶大の信頼をうけている。
膳の|酒《しゅ》|肴《こう》は、下の旅籠からはこばせたものであった。ふりかえって、
「がまんがならぬ? 朧さま、伊賀の八人は、もはや討たれてこの世にないのでござるぞ。まさか、こやつをゆるして放せと仰せではござるまい」
「…………」
「拙者もひとたびは殺され、朧さまもすんでのことにおいのちがなかったところではありませぬか」
「殺すなら……せめてひと思いに殺してやるのが慈悲じゃ」
「忍者に慈悲は無用。それに、あの陽炎の悲鳴が大事な罠でござる」
「なんで?」
「されば、下の旅籠をさがしあてた弦之介は、あれも忍者、かならずこの声で、この寺のほうにおびきよせられるに相違ない。……」
「…………」
弦之介さま! どうぞこないで!
敵と味方。ふたりの女が胸の底で、必死のさけびをあげるのを知るや知らずや、薬師寺天膳はぷっと針を吹く。「目」が「貝」になった。
加から賀へ――見よ、陽炎のみぞおちから腹へ、銀の針で浮かびあがった「伊賀」の二文字!
ああ、天膳のいう「伊賀責め」とはこのことか。その手段の無惨なのはいうまでもなく、甲賀の女に伊賀と彫るとは、薬師寺天膳ならではの悪魔的奇想であろう。銀の針は一本ずつ根もとに血の球をやどらせて、雪白の肌に惨麗な|陰《いん》|翳《えい》をえがき出している。
「おお、そうだ」
哄笑してから、天膳は盃をなげ出し、いきなり朧の手をつかんだ。
「な、なにをするのじゃ」
「朧さま、この陽炎は、毒の息をもつ女でござる。さりながら、ふだんの息まで毒ではないらしい。それでは、甲賀者とて共に住むことも旅することもかなわぬはず、ただ、あるときにかぎって、その吐息が毒にかわるらしい――思いあたることがある」
「何を?」
「すなわち、この女が|淫《いん》|心《しん》をもよおしたときのみ――」
「天膳、この手をおはなし」
「いいや、はなさぬ。そのことをここでためしてみたい。――といって、陽炎を抱けば、拙者が死ぬ。朧さま、拙者とあなたとここで交わって、あの女にみせつけてみようではござらぬか」
「たわけたことを――天膳!」
「いや、これはおもしろい。朧さま、桑名から|宮《みや》への海のうえで、拙者が申したことをお忘れか。わしは忘れてはおらぬ。いまもあのことは考えておる。鍔隠れの血を伝えるものは、あなたとわしのほかにはない。お婆さまのえらんだ十人の伊賀の忍者のうち、すでにのこるのは朧さまとこの天膳だけではないか」
酔った目がにごり、彼は盲目の朧を抱きしめた。
「もはや、じゃまする奴はない。――あすは夫婦で駿府入りじゃ」
と、ねじふせながら、
「陽炎、みよ、この男女法悦の姿を――お、|蝋《ろう》|燭《そく》に|蛾《が》が一匹まといついておるな。あれがおまえの息でおちるか、どうかじゃ」
いちど、ふりかえったが、すぐおのれじしんが火におちた蛾のように、情欲にもえ狂って朧にのしかかったとき――その蝋燭が、ふっときえた。
「あっ」
さすがに、薬師寺天膳、それが単なる震動のためでも、風のためでも、陽炎の吐息のためでもないと感じて、愕然と朧の体からはねあがった。
闇だ。そばの大刀ひッつかんで|鞘《さや》ばしらせ、すっくと立った天膳が、闇を凝視すること、一分、二分、|朦《もう》|朧《ろう》と円柱のかげに立つ影をみた。陽炎ではない。陽炎はすでに縄をきりほどかれて、柱の下にくずおれている。
天膳はさけんだ。
「甲賀弦之介!」 |
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