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发表于 2009-6-24 07:51:30
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建築では、足利義満が建立した鹿苑寺{ろくおんじ}金閣は、禅宗様・寝殿
造を融合したものである。他に、興福寺五重塔と東金堂{とうこんどう}は和
様建築、永保寺開山堂{えいほうじかいざんどう}(南北朝期)は禅宗様建築
である。庭園も作られ、西芳寺{さいほうじ:苔寺{こけでら}とも}・天竜
寺・鹿苑寺のものが有名である。西芳寺庭園は、夢窓疎石の作である。
絵画は、水墨画が発達した。水墨画は、墨の濃淡と描線の強弱による墨一色
の東洋独特の絵である。可翁{かおう}の『寒山{かんざん}図』(南北朝
期)、明兆{みんちょう}の『五百羅漢{ごひゃくらかん}図』、如拙{じょ
せつ}の『瓢鮎{ひょうねん、ひょうでん}図』、周文{しゅうぶん}作とさ
れる『寒山拾得{かんざんじっとく}図』などがある。また、絵巻物の『慕帰
絵詞{ぼきえことば}』は、本願寺3世覚如{かくにょ}の一代を描いたもの
で、生活資料として重要である。
芸能は、能(能楽)が大成した。能は、社寺の祭礼に奉仕する猿楽能{さる
がくのう}に、民間で発展した田楽{でんがく}を取り入れ、宗教的芸能から
庶民的な舞台芸術に発展したものである。当初、大和猿楽四座{しざ}と近江
猿楽があり、前者は興福寺・春日社に奉仕する観世・金春・金剛・宝生{かん
ぜ・こんぱる・こんごう・ほうしょう}の4座、後者は日吉{ひえ}神社に奉
仕する北近江の上{かみ}三座(山階・下坂・比叡{やましな・しもさか・ひ
えい})と、多賀神社に奉仕する南近江の下{しも}三座(大森・敏満寺・酒
人{みまじ・さかうど})の総称である。
観世座から出た観阿弥{かんあみ}と世阿弥{ぜあみ}が、能楽を大成させ
た。世阿弥の『風姿花伝{ふうしかでん:花伝書{かでんしょ}とも}』は能
楽の芸術論、子の観世元能{もとよし}が筆録した『申楽談儀{さるがくだん
ぎ}』は芸道論である。能の脚本を謡曲{ようきょく}という。能の合間に、
狂言{きょうげん}も上演された。狂言は、滑稽なしぐさやふりを交えた庶民
劇で、庶民側から大名・山伏・僧侶などを風刺したものが多い。
東山文化は、8代将軍足利義政の頃の15世紀後半の文化である。禅の精神に
基づく簡素さ、伝統文化の幽玄などを基調とする。伝統的文化としての公家文
化の発達や芸術性が、生活文化に浸透したのも特徴である。
仏教は、幕府の保護を受けた五山派が衰退し、より自由な活動を求めた林下
{りんか}が民間布教に努めた。曹洞系の永平寺・総持寺{えいへいじ・そう
じじ}、臨済系の大徳寺・妙心寺{だいとくじ・みょうじじ}などが有力であ
る。大徳寺派の一休宗純{いっきゅうそうじゅん}も知られる。また、浄土真
宗(本願寺派)の蓮如{れんにょ}や日蓮宗の日親{にっしん}も、この頃に
活躍した。
神道は、吉田兼倶{かねとも}が唯一神道(吉田神道)を大成させた。この
教説は、本地垂迹に基づく両部{りょうぶ}神道に対し、反本地垂迹説の立場
から本地で唯一なるものを神として、一切の現象を体系づけたものである。儒
教・仏教も取り入れた総合的な神道説である。
建築は、足利義政が建立した慈照寺{じしょうじ}銀閣・東求堂同仁斎{と
うぐどうどうじんさい}が有名である。銀閣は、禅宗様と書院造{しょいんづ
くり}を取り入れたものである。書院造は、禅院の書斎の影響などから、床・
棚・付{つけ}書院などを持ち、明{あかり}障子・襖を多く用いた造りで、
一丈四方の広さの方丈や、その入口としての玄関<注2>を設けるなど、現代
の日本住宅の基本となる様式である。東求堂同仁斎も書院造で有名である。
<注2>玄妙{げんみょう}な門の意。
庭園は、枯山水{かれさんすい、かれせんずい}の様式で作られたものが多
い。枯山水は、水を用いずに砂と石で山水自然の生命を表現する禅院の作庭様
式である。特に、竜安寺石庭{りょうあんじせきてい}や大徳寺大仙院{だい
せんいん}庭園が有名である。他に、善阿弥{ぜんあみ}が作った慈照寺庭園
がある。
絵画では、雪舟{せっしゅう}が水墨画を大成させた。彼の作品は、『四季
山水{さんすい}図巻(山水長巻{ちょうかん})』、『天橋立{あまのはし
だて}図』、『秋冬{しゅうとう}山水図』などがある。大和絵は、狩野{か
のう}派と土佐{とさ}派が生まれた。狩野派は狩野正信・元信{まさのぶ・
もとのぶ}父子が成立させた漢画系の流派で、正信の『周茂叔愛蓮{しゅうも
しゅくあいれん}図』、元信の『大仙院花鳥{かちょう}図』がある。土佐派
は土佐光信・光起{みつのぶ・みつおき}らを輩出した流派で、その画風が知
られるものに『風俗図屏風』がある。
工芸・彫金は、後藤祐乗{ゆうじょう}が足利義政に仕えた。 |
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