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发表于 2005-6-21 08:40:53
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創業は易し守成は難し
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初唐の盛世を形容して、よく唐初三代の治という。
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貞観の治(太宗の627~734)
/ a# p" a0 B% p' S7 G+ v: u9 H 永徽の治(高宗の650~655)
8 M( c) q+ m+ i/ {# t 開元の治(玄宗の713~734)のことである。! v2 y2 S/ K I
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これらの時代には、皇帝が奢侈を戒め、よく賢臣を用いて、天下大い
* @' R& \. \$ \3 {に治まったからである。0 ]/ `# M5 ^ u- }, T s0 r
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とくに太宗の貞観の治は、後世の治世の鑑とされ、民は「道に遣ちた
# E0 a% G/ J! K& W# |# zるを拾わず、商旅は野宿する」(道傍に落ちているものを拾わず、盗伽琝
; N8 C; y1 c$ S1 P) N4 A& jいないので安心して野宿する)ほどの太平の世であった。太宗が群臣と
! b1 Y8 X* ^1 `1 F# M. S. G' M政事を論じた語を類偏した「貞観政要」が、徳川家康の施政の参考にさ8 u, F1 {( J+ p8 I: m
れたことは有名である。
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7 u% ^) F2 a' o 貞観の治が生まれた原因の一つは、前述したように、太宗が奢侈を戒7 K! F+ W3 q+ ]" p! D# G
め、多くの賢臣を得たためであった。貞観の初め、決断に秀でた杜如晦
6 ~$ F# I. G" U, f# @9 I$ E8 M# L& G5 [と、計を練るに秀でた房玄齢の名コンビが左右の僕射(大臣)を、剛直の
+ m k+ [' F1 U% F魏徴が秘書監長を、清廉の王珪が侍中(侍従職)をつとめ、太宗の政治を4 d) l+ ]; `! P; f
よく輔佐したからにほかならない。
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あるとき、太宗が、王珪に向かって、
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「その方は、玄齢以下のものたちと比べてどうか。」7 @) W, ?* V! `+ B
, H! r9 x+ R: n2 \ と下問したとき、王珪はこう答えている。
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「孜々として国に奉じ、知って言わぬことのない点では、) d! |, W6 I/ e/ y) H f# i, T
臣は房玄齡には及びません。
}# ~. N; Y: X# A- l. I 才が文武を兼ね、入っては宰相、出でては大将たる点では、
9 E+ z$ _2 Q Q5 F7 @- x3 h0 W* F 臣は李靖にかないません。+ V- S% M0 L. U+ M7 t2 `, X
君主が堯舜のようでないことを恥じ、6 P1 b1 ], G6 d' }5 J3 P6 c
諫諍をもって己の任となす点では、
2 j6 @ m- b) d: \7 ?- L 臣は魏徴にかないません……。」
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また、太宗はかつて近臣たちにこう下問したことがあった。
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- o3 M' i; t6 K: [1 P 「創業と守成とはいずれが難き?」
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房玄齡はこう答えた。
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「草眛の初めは、1 i: j6 h- ~: \2 b+ f
群雄競い起り、攻め破って降伏させ、: e: f8 ]% H* o# y
戦って打ちかつのですから、: f2 {7 [9 Q X# L- E5 D
そういう点からいえば、2 ]# L) N4 D9 ]% D- q
創業の方がむずかしいと思われます。」
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: A$ @6 T, K8 c 魏徴は、しかしこう答えた。; }8 |. k( H9 J$ b& F6 O% J" L
' [5 U: R& x) Q" E2 s 「昔から帝王は位を艱難の間に得て、: h& U1 a* V0 r8 t: w
これを安逸の間に失うものです。
& Q) L! }+ S; o6 x% M6 E そういう点からいえば、
4 x* ?. L1 A, Q4 @/ C' b3 U 守成の方がむずかしゅうございましょう。」
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すると、太宗は言った。
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「玄齢は朕とともに天下を取り、百死に一生を得た。+ h5 I" L- Z2 h+ z2 g1 m
だから創業のむずかしさを知っている。
5 B( k. L4 o1 k: N 徴は自分とともに天下を安んじ、0 X4 x. h# t0 X4 _
常に驕奢は富貴から生じ、
! ]; Y1 w+ X( @" a, S 禍乱はゆるがせにするところから生ずることを恐れている。7 }4 c# `: K6 d. Z
だから、
: ~3 L4 p9 K: x5 M) { 守成のむずかしさを知っている。$ e2 K4 _" _+ E4 O4 C" F3 [$ ^ M
しかし創業のむずかしさは、もう去った。
5 ^' L P; P* h いまは、守成のむずかしさを諸公らとともに慎もう。」" @. k4 o+ U* e- z1 w4 o
(「唐書」房玄齡伝)
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# Q& _' H8 L$ u8 h% X 「創業」は「孟子」に見える語で、「業を創める」(しごとはじめる)こと。 N1 K ?: S" F% E! s3 \
「守成」とは成業を保守するいみである。「貞觀政要」の注に、0 q9 |+ Q% {8 p9 I. U! J
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「古より業を創めてこれを失うものは少なく、8 y- D$ S: s( y, m4 o4 l! ~
成るを守ってこれを失うもの多し」
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とある。) E H" j3 b) Q# v' x1 B9 |
: ]+ B7 K* ^' h" M9 _8 p: h, H) L 太宗は自分の偉采が臣下に恐れられているのを知っていて、いつも温
* J5 s! W3 n; k. i& E顔で群臣に接し、諫めるものを賞した。ただ、末年には東征を諫められ
. F* s0 K( y- z9 c9 D2 A! Y: |ても聴かず、しだいに奢侈に流れていった。「創業は易し守成は難し」の
9 a% X5 Y. v5 L感が深い。高宗の永徽の治も、いわゆる武韋(則天武后と韋后)の乱のた
+ \! a0 ?/ |7 R9 m! a1 t: `め、また玄宗の開元の治も楊貴妃や安祿山の乱のため、しだいに傾いて1 x5 M/ r; [* v: x3 Y4 Z1 z9 u
いったのである。 |
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