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楼主: bgx5810

中国故事物语(已载完)

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 楼主| 发表于 2005-6-20 22:03:36 | 显示全部楼层
天地は万物の逆旅 光陰は百代の過客

8 o. S1 C3 Q. p( w- i& [8 `" M( V8 y; j
これは李白の「春夜に従弟の桃花園に宴する序」という短文の冒頭の句
! u) v5 s' H6 z2 h5 G' Jである。この短文は桃花園に兄弟親族が集まって酒宴をはった時の作、
+ g& ~7 F& ?. o$ j; {" y全文の意味は、桃花に対して坐し、酒杯をとばして月に酔う良夜、われ
" k* E2 {% F- b; a! ~# M5 v* m# F5 ?われははかない存在ではあるが、天地より詩文を作る才をさずかって生# b% B( \$ J6 F3 j
れた、されば、大いに佳作をものして楽しもう、もしできなければ罰杯2 R: ~0 R& w2 s( g5 y
としようではないか――というので、この文だけについて言えば、別に
* R$ [% K- \* r) ]  n" R( ?& x/ O取り立てて述べるほどのこともない。しかしさすがに天地といい、逆旅
9 u& ]8 m1 C8 y4 @0 }( Y! Sといい、過客という比喩の確かさや大きさは李白である。4 Y: o3 |4 ?/ H1 }
 
: m- q) g2 }+ c1 V0 Q2 d 本文は、
. e: u) T( Q( ^+ f" S$ K$ T/ n- M 
- D$ h5 P' d, j3 l 「それ天地は万物の逆旅にして、
7 |5 l$ ^* Q8 I1 ~" A' @  光陰は百代の過客なり、6 T- [; A, E. M
  しこうして浮生は夢のごとし、6 t' G1 M/ c9 E. m
  歓をなすこといくばくぞ。# J) I  {* A6 ?6 V
  古人、
1 l. _* w1 i1 Y. Q" t2 [  燭をとりて夜遊ぶ、( E4 q) A" u$ o7 D. x2 P
  まことにゆえあるなり。……」; p: M* C5 C! t/ f
 
* @$ c% |8 D5 n9 b$ W1 Y というのである。  a4 Q5 S+ L7 B5 t" x5 x
 
  d# a& j& q% g6 j+ g$ H 天地は万物の旅弧⑷赵陇嫌肋hの旅人、ひとたび去って帰らない。百- ?, M% x& G! _, r) S+ A' w" @7 ?
代とは永遠ということだ。一代は人ひとりの一生の長さ。抽象的な概念1 l  w1 _" ?- N$ E
を持たなかった古代人は、百といったり万といったりして無限をあらわ6 d2 c* g& g* b% A( Y
す。現代人ならば「宇宙という無限の空間、無限の存在がそこで発生し4 S, q9 A, x% q
消滅し、それ故に限定されぬ空間と時間」などというであろう。
5 _: M0 D  l% N: K/ N5 r- P 
6 m# ~2 X) r9 O 無限の宇宙とか永遠の時間とか天地とか光陰とかに対立する時、自己
0 M3 _4 |& H: K* k& ?4 |8 oの卑小を感じて不安になり淋しくなる状態は原始人も現代人もあまり変1 d' D3 U: G" [" Z3 G* G
りがない。その時、人類は最も悲しく最も淋しくなる。ヨーロッパ人は) e* V  _5 H$ u; a/ E
それを合理的に処理しようとした。. c# `, o* c( p+ ~: [
 
! m  u  ?7 S  \8 J 李白の場合、その淋しさを自分の方でも非常にエネルギッシュな意志6 \4 S6 K3 A* i- L/ x
や感情の世界を樹立することによって克服しようとしたらしい。この文6 ?* T: h# ~3 Q: S
章にもその片鱗がうかがえるが、彼の数多い詩を貫ぬいている一つの特
+ F- W: E' X) T0 q. \; d長はこの考え方だ。「江上吟」という詩に、人間の営の空しさを歌い、そ1 D: ], x# p1 p& P) c6 Z% O
れに対して、自分は江上に舟を浮かべ、千石の酒を飲み、妓をはべらし
1 q- h$ K/ I6 V! [4 f4 V: Rて波のまにまに去留しようと言い、
3 v- _4 u+ s2 W 9 x1 x  s6 M$ R: g" K% ^& E, y
  興酣にして筆を落とせば五嶽を揺るがし
6 v) \4 r4 R1 `% {# [8 d, l1 w  詩成って笑傲滄州を凌ぐ: r# o! R" D% e& l$ M2 o- K
 
; J7 |# o2 l7 k) G  Q! } と歌っている。女をだき酒をのみ、天地を詩を作ることによって笑い
2 _4 V! B+ B, d( Vとばすのだ、というのである。これは瞬間を快楽にごまかそうという頽
/ x: B: s$ X& X1 b# _7 A廃に甚だ近く、しかも甚だ遠い。李白には全力をもってする笑傲と詩作! S1 H2 }' @% H) Z9 W# m4 E
という行為とを永遠なるものに対立させようという意味がある。それは+ Q( i& }% o: b9 V
巨大な緊張したエネルギーがする業だ。そのやり方を李白はまず対立し
) o+ {6 Q$ s" v5 ^5 |ている天地の巨大さをつかみ取り歌いあげ、そうすることによって筆先; O( j; }% k7 n% M
で相拮抗しうる新しいおのれ自身の天地を打ちたてる、そして「どうだ
8 v9 u/ `  J/ W# o! p: Z!」と天才的に笑うのだ。だから李白の本領は感傷や悲哀にはない。李8 u: k- B4 x6 P% {4 F4 e
白は笑傲の詩人である。
  Z1 E, E9 `# [5 Y 
& ~9 G' Q" V  a9 |7 L# y # K, @$ j1 Q" z& m4 W3 d) ^/ u6 V9 ~5 Q( r
 芭蕉は「奥の細道」を次のように書き出す。9 ^! ?4 M  f0 ~; r& ]
   y% I1 X( n5 |+ A* j
 『日月は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり。舟のう
' ]3 O, q3 @; F8 K" N$ n* l- E& K  えに生涯をうかべ、馬の口をとらえて老を迎うる者は、日々旅
6 ]* t8 t* a0 |7 L& y  にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいずれの
: n* e$ w+ x9 T2 m  年よりか片雲の風にさそわれて漂泊の思いやまず……』  b) X6 A' |. }, E& ]( ^1 z2 Z+ Y+ ]8 W
 
/ i; T0 f( G8 _+ E そして奥羽の旅へ出かけたのだが、これは永遠の旅人である「時」に
) ]! i1 m/ d& X8 V+ d) O# X: tおのれを同化させ、自己を旅そのものにすることによって、淋しさを越
0 Q) _" h/ f% M4 s* V0 `えようとする。彼の文には、淋しさと苦渋とがただよっている。李白よ
# [% N  ^% h$ O% x. Mり素直であり、また修道者的でもある。
/ ]0 C" l  X+ m. V! S 
' ]5 x& P. J7 u3 r4 S 
: n: Z& C/ c% j# S  V# \" T われわれの近代詩人島崎藤村も、これら中国や本邦の先達から詩の世' v+ g& {5 h1 C# U: _
界に開眼された。人生を旅と見立てる趣向は、彼の作品の随所にあらわ
$ D! a6 F7 @$ F4 k( Qれる。しかしいささか小規模で感傷的であるようだ。
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 楼主| 发表于 2005-6-20 22:03:58 | 显示全部楼层
輾転反側

! l2 ?3 w2 U4 }- M8 N/ `- r
% C' n! f- d8 h* Y1 u  _一晩じゅうねがえりをうって苦しむ不眠の状態は誰しもよく経験する: ^5 |+ w: O( _
ところ、そしてその状態を形容する「輾転反側」も誰しもが親しく口に6 B" f0 Y0 t. M+ k, }3 n
し、また使いふるされた言葉であるが、しかも大変適切な形容詞として
) B( V0 _' y" |$ j捨てがたい。文字にした場合のかっこうも、口にした場合の発音のぐわ
% F* `7 @. J  W* Z& K( m  z/ c8 Fいも、不眠の夜を形容する言葉として、これほど適切な言葉はないであ
7 o# U) u3 I5 G7 F1 W* v1 Nろう。* [) J( n9 V( I+ O) z! R2 W
 
* B. @. O3 ~, N) e& O( u この言葉の起りは大変古い。というのは紀元前六世紀頃、つまり孔子- N4 a$ y* }) u$ k/ q1 K8 T
が在世していた頃にすでに詩の手本として古典化されていた「詩経」の
& R! W# [& H1 _! `( B「国風」の篇の冒頭を飾る「関々たる雎鳩」にある言葉だからだ。この
5 l. |5 C/ T. F0 J2 {; N# B- C歌は聖人のほまれ高い周の文王とその妻のタイジを讃えたものだという
3 w6 P7 }4 n8 Q" Bような伝説がある。文王は紀元前千百年以上も昔の人である。こういう/ N' n: Q# y5 l/ N% u
伝説は後人が勝手に作り出したものでもちろん信ずるに足りないが、
( c& x! ^, b8 Q4 r' }# L「詩経」三百余篇の詩の中でも比較的古い時代の作と推定されているか2 X* C! Z2 [- E" @; Y9 _
ら、「輾転反側」も三千年あるいはそれに近い歴史を持つと考えてよい。, \0 m) N1 M& ], F0 P; ]2 W' m: m! I
 ! e* m) L2 {( R+ j9 ?4 Y
 
0 r" `( ~; d, T 詩はまず、河の洲で鳴いている雎鳩という水鳥を歌う。それは関々と8 B6 T+ n& y4 R0 c) s( B7 p3 V7 l
よい声で鳴いている。その美しく物静かな姿は窈窕たる乙女を思い起さ
' I' }- ^6 `2 W& |せる。よき配偶者として男子が求めるべき乙女はあの水鳥のように奥ゆ5 A/ L. {3 {5 t8 \3 C# U7 X
かしく美しいというのである。第一章でそう歌い出して、次の第二章に
- U/ z5 Z% N6 U) R& Z2 P7 Iつづく。
6 T9 J# L  T/ R4 v# i4 |& Q ( z1 ]; l6 i  r# o1 S  L# i
   参差たるアサザは
) ~2 r9 g/ j0 Y+ _   左右に流る
  Y$ y2 [: Q3 O0 X/ ?. i: y   窈窕たる淑女は# M; y3 y& G# v5 G4 c! C
   寤寐にこれを求む
( j- K1 A6 a% u   悠なるかな 悠なるかな' |/ o8 c) B3 x+ P/ D! [' A/ X
   輾転反側す
. E6 p3 O& C3 O, X% y# I2 {2 \ ! R( `( B% p7 ]
 参差として長短ふそろいな水草のアサザが左右に流れているというの
2 u4 E/ I# _. ^$ D+ E+ _% Eは、水草摘みの有様を歌ったもので、「水草摘み」から「乙女を摘む」6 ]6 c) V+ q; {
つまり「乙女を求め手に入れよう」とする気持につながり、「寤寐にこ7 h$ x  D; T7 a& V' \! l3 O
れを求む」の句を引きおこすはたらきをする、というのが一般的な解釈9 ~8 O1 _7 @) C" g9 F$ V
である。この句を、先の「関々たる雎鳩」の句とともに、淑女の美しさ
& U2 q( p1 g. I; d1 Iや、淑女を求める気持を引きおこすためのたとえ(詩経ではこのようの
+ i; d4 P( `' f) b9 G詩作法を興という)とは解釈せず、眼前の実景――乙女が河辺で水草を
# b$ M1 \. p* Z5 y摘んでおり、河の洲では水鳥が美しく鳴いている、そういう風景として
2 O* j# w( C9 D/ s! |8 m素直に歌っていると解釈する仕方もあり、そうすれば詩全体が河辺にい2 [/ e& x' G& W  i$ ?- H
る水草摘みの乙女への思慕を歌った詩ということになり、民謡風な感じ- ], I$ r5 ~, [. m' \3 K# {/ y6 `
が強くなる。どちらの解釈がよいかは、決定しがたい。詩経は細部の字+ f( O6 n" _! `# \3 h
句の解釈のみならず、詩の主旨そのものにいろいろの異説があって解釈! ^- f& |3 Y3 `( ^1 [
に苦しむ。「関々たる雎鳩」のごとく最もポピュラーな篇であるが、こ+ h$ F  H# Q/ H2 l- F
の例にもれない。7 s' M; j& x1 f# m9 M
 ( t+ C0 K/ u2 J8 t
 ともあれ、これは女性を思い慕う恋歌であることには変りはない。
- f9 _' P/ S# z& g5 l6 F9 k「寤寐」とは寝ても覚めてもの意である。「悠なるかな」とは思慕の情
& S$ V9 k# f2 u- {( ?のつきないさまである。美わしき乙女は得られぬ。得られなければなお
% J! ~- m; m- J, Y- M" W9 ?さら思いはつのって、「輾転反側」することとなる。
1 R/ A2 R' \, {2 e, U 
, f4 u% G# d$ N8 ~ 詩の末尾は、もし乙女を得られたならば琴瑟と鐘鼓とをかなでて、い, E7 ~! u% t3 o' m$ f9 d$ C
つくしみ喜ばしめようと歌って結んである。9 O% f$ h' c! K) O$ z8 T8 C
 
6 X$ A" \  ?% z- V$ `) s 
0 F. x$ Q% j) {& K5 O) f4 l 輾転反側した古代の男子の恋情を三千年後のわれわれにもよく理解で5 g: Z1 e, Q5 p3 U0 n9 O) J
きる。そして現代人もよく輾転反側するのだが、現代人の場合は恋情に& z$ \  e* O8 S
よってではなさそうだ。二十世紀はノイローゼの時代という。ノイロー
8 q* X4 g1 z2 [/ q! Kゼの顕著な病状の一つである「輾転反側する不眠症」は美しい乙女を摘
, v+ D% j. O  H) z/ _: l, Y6 U. R7 yみとったからといって、なかなかなおりそうにもない。
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 楼主| 发表于 2005-6-21 08:32:36 | 显示全部楼层
大道廃れて仁義あり
) }1 v% w. n6 n! ^2 a
* l' R" c" v% T. g
「老子」の第十八章に出て来る言葉。大道とは老子が第一章で「道の道
) s8 ~+ B! S5 \& cとすべきは常の道にあらず」――およそこれが道だといわれている道は$ R' d+ B1 c1 F2 G' U
永遠の道ではない――と言っている「常の道」のことである。; h3 n  q0 O, B: m, K4 g; E4 N
 $ t: \7 H2 R( C% P
 老子によれば永遠の道は自然の原理、ないしは自然そのもののことで
. h  I4 u9 C" T# g' f' v# nある。自然の中の一つの現象にすぎない人間も、永遠の道に支配されて
2 O4 w8 ?8 V6 j6 U3 x; Wいる。自然にはこれがよいということも、これがわるいということもな
9 k6 U( G" P& Q' h5 n3 Xい。あるものがあるにすぎない。にもかかわらず、この人間が自分らの3 I: _% X! ]; \3 g% ^
行為について、これが正しい、これが正しくないと道徳的な価値判断を9 D# `2 ?0 V) m. w5 _
やり、その価値判断にとらわれることは永遠の道にさからい、自然にさ
& L6 ~4 `( R0 Zからうことである。だから仁義という価値判断が人々の口にことさらに) {$ D5 t. g: G9 O
強く主張される時、それは人間が永遠の道を忘れ、あるいはみずから放
9 I. ^/ g- ]3 l2 O0 N& j0 b. N棄してしまった時だ、ということになる。人間は「大道が廃れる」と、自
& i; `' y5 U7 Y. R3 J8 \分自身が自分の考えで作り出した道徳的価値判断により、他人を裁き世. p3 m0 @* \3 N5 [) z; K' L" o" G
の中を裁こうとする。仁義の尊ばれる時、それは世の乱れた時である。( h0 _3 _- w; Q4 T6 _# A9 D1 m
 
, p! o0 Z4 }/ O; N 人間に仁や義を強要したり、あるいは道徳的に教育しようとしたり、
0 ]) K4 y7 \8 h0 k! y2 @0 }また道徳的に他人をさばこうとしたりする思想や行動は、すべて人間本
! M, K( f! D1 @' c! L来の自然をみずからの手で破壊することにすぎない。あるいはさらに敵
' x  x4 h: e, D2 k$ @対者を作り、争乱を起すこととなる。人間にはなにほどかの道徳が必要' ]0 `& q- C- f& T. x% u
であろう。しかし道徳に絶対的な権威を与えることは、従って他人に道
" |% d( _& U3 C徳を強要することは、やはり人間が自分自身を自分の手で破壊する行為
  R3 S+ H8 G* T+ c4 j; @6 _であろう。この関係を老子は「大道廃れて仁義あり」と逆説的な言い方を
1 ?7 Y3 Q1 @! ^% i: h8 yして表現した。たしかに人間と人間の歴史が時たま演ずる不自然な思い
8 S$ @$ h0 U4 K5 Aあがりを指摘した点で、この言葉は真理である。
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 楼主| 发表于 2005-6-21 08:34:15 | 显示全部楼层
泰山北斗
$ D/ i' M0 g# q8 p; Q# j
$ U5 ^. i2 T% W+ D% y  \
 李白(太白)・杜甫(子美)・白居易(楽天)とならんで、唐代の四大詩人
% Z0 M' t" U5 X" w5 ^  j( V: T+ ~  e& Nといわれた韓愈(退之)は河南省の生れ、二歳で孤児となり、以来刻苦勉" b( }9 \- f3 v: L
励して、唐九代の徳宗のとき、二十五歳で進士に挙げられ、だんだん出
/ ]  b/ d8 {/ Y0 _2 `+ V世して吏部の大臣となった。この間しばしば皇帝に諫言をしては左遷さ+ u) {7 m* ?% a! l  z8 a. d* ~
れたが、一番有名なのは十代憲宗の元和十四年、帝が仏骨を迎え、宮中
( i, z0 E3 k$ [1 L" G: Yに三日間留めてのち諸寺に送ったことをきびしくいましめ、
- m+ B. y1 D2 x! F/ e: X7 b 
  }1 K. R) t" {2 ^; T) a& ]) J 《仏教は邪教であり、仏骨などは水火に投ずべきである》# a. [( Z2 N) t0 Z- H4 m
 . j/ ?: ]( i# a0 |) D
 と痛論したいわゆる「仏骨を論ずるの表」を奉ったため、仏教への信
1 Q4 I# C$ r, h( [2 I仰心の厚い帝の逆鱗にふれ、遙か広東州の潮州刺史に左遷されたことで
/ y" x- H+ G: f0 T1 `/ w( X1 a( I, S) H1 Mある。このとき作ったのが、いまも名高い、
0 X  n  @! k; P3 o8 b4 G 
% B& S, e$ l- x( l   雲は秦嶺に横たわって家いずくにかある
" a8 H* i* [9 D# l; n   雪は藍関を擁して馬進まず
( H! u- o- q5 ?% N8 d4 U9 q 
3 v. s, g# S& z- d4 G: ?5 u1 @ という[左遷せられて藍関に至り、姪孫の湘に示す]の一詩である。
8 o- q0 E! Z6 a ( C) _( t+ @+ h( t+ U
 次の十一代穆宗のとき、再び召しもどされて国子祭酒に任ぜられ、更9 t* n+ x/ I: i' L3 d8 {5 G+ R
に兵部侍郎、吏部侍郎を歴任して退官、間もなく五十七歳で死亡した。
, g2 Y2 x6 z7 j: W1 r; \  L. }2 D礼部尚書を贈り、文とおくり名された。( U, H: F/ I$ B6 n
 
4 j+ N9 ^+ o' a6 I' k, `) z$ }6 G( e 
; M& O! i# g8 O: \ 韓愈は文の模範を先秦に求め、よく六朝時代の悪習から抜け出したた
) s8 W; T9 K3 h4 j& Q8 @2 x1 [& S- jめ、その文章は孟子に迫るほどうまい……とまでいわれた。唐代三百年; H. b$ d; V8 U( x5 y- ~- y$ i
の間の第一人者であるのはもちろん、中国古今を通じて屈指の名文章家% W2 o2 v5 e# {: }9 f) I
とされているが、その韓愈のことを書いた「唐書」の「韓愈伝」の賛には、4 Z7 i! o& P# s/ X; d6 e
 
3 Q+ t$ \& r/ p. U「湯が怒って以来、韓愈は六経(詩・書・易の各部、春秋・礼記・楽記)の9 c" t0 u: l1 o& [' n( E, S
 文をもって、もろもろの学者の導師となった。韓愈が死んで後は、- j4 ?: z, e6 N5 p
 その学もいよいよ盛んとなり、ために学者は韓愈を《泰山北斗》を
. d, k; V7 d: E. M* X6 o 仰ぐように尊敬した。」
. a! q6 E% ]+ d 
+ s3 s9 d- F9 f0 A' ?7 e7 p2 q8 b と書いてある。( f- m2 A4 p5 B
 3 ?" c; {2 G+ @3 `
 
6 A, S5 m7 g& x# m# |3 y 泰山は中国の五岳の一つで、山東省にある。ちょうど日本人が富士山
$ k) N* `; `0 E8 Zを仰ぐと同じように、古来から名山として敬われている。
) h1 o6 Z9 }+ U9 f9 }# q" r 
! C: B) r' g2 p  d1 U( ?  〈泰山巖々〉(詩経); E# ]/ `9 B/ S' }8 H# w1 L# k7 E
  〈泰山は土壌を譲らず〉(戦国策)
# I8 k! L6 @$ Z5 z; u, S& B0 i  〈泰山前に崩るるも色を変えず〉(蘇洵文)6 k4 J4 j* U; v4 e! o3 m8 ^
  〈泰山卵を圧す〉(晋書)1 g* n0 T5 u6 O$ K8 B
 
! A3 g  ~1 A" z( @ などなど、いずれも泰山の威容をたたえて諺にしたものである。
- C, Z- K- u( V' f / C3 @6 g4 k* Y; S, z
 一方の北斗は、北辰、つまり北極星のことで、「論語」にも《北辰のそ& T  q0 M! T5 E/ ~7 _
のところにいて、行扦韦长欷蛴à毪绀贰筏趣ⅳ胪à辍⑿扦沃行膜萛+ B, F5 B1 E9 A0 A0 M7 z" D/ L$ A
して仰がれていることを、立派な人物になぞらえている。, T+ p3 Y' N- j. Q% L# {
 . C7 z, E- z. S9 h
   |% E+ t& T% Y3 E+ o& Z
 《泰山北斗》とはつまり、それぞれの道で、人々から尊敬されている
) c, i1 [  O) e& l; y人のことであり、現在では《泰斗》と略されている。とくに学問の分野
$ m: s- M* v3 y$ g; V/ iで仰がれる人のことをいう場合が多い。
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 楼主| 发表于 2005-6-21 08:35:07 | 显示全部楼层
大器晩成
1 h, L6 c8 ?8 Y

7 G, [: k/ O& R三国鼎立の時代、魏に崔エンという有名な武将がいた。崔エン、字は2 G0 E; o6 W# ~
李珪、山東省武城の人で、声といい、姿といい、おおようで大人の風格8 Q. D8 V' [, ]- A% }
があった。ひげの長さは四尺もあり、武帝の信任はなみなみならぬもの1 _' v  i3 \* w2 r6 n
があったというから、とにかく相当な人物だったらしい。
3 i" j6 E1 J2 A& Q3 Q7 X' A( } 
; r/ F4 H9 j" y, u ところで、この崔エンの従弟に林という者がいた。見掛けはあまり利+ K: o6 ~4 s3 A6 i6 C2 d9 |: B
口そうでなかったためか、サッパリ名声が上らず、一族の者も馬鹿者あ2 H) _9 M+ W+ z5 [% y/ J5 I* E
ついして、テンデ軽視していた。しかし崔エンだけは、さすがに、その1 d+ R7 Z* B0 p8 c' Y( N2 U) Z) q
人物を見抜いていた。
( B; _% Z9 ^& x) C4 W 4 g' ^4 \. y( b  e; L, N3 r
 「大きな鐘や、大きな鼎は、5 v" Q9 y9 J" R/ ^: o
  容易に鋳られるものではない。
  I* Y* P4 f: R# l. T8 K/ D% r  それと同じように、8 n5 M2 j& ]3 r& |7 n
  大才能はそんなにたやすく出来上がるものでもない。
9 g+ a: l# J$ ~  @' Y( ?1 o  完成するまでには、どうしても時間がかかる。; W4 [; m8 s( d9 K* A/ K
  林もこのように、大器晩成の組なのだろう。
7 k7 m  {. m, j' w( |  見ていなさい。& w/ A8 L. j$ X) A6 k
  ついには必ずや大した人物になるだろうから……。」
8 H: N8 z7 e1 s! W* A( v4 K9 } 
' A/ P  k7 P! c0 g8 c' m3 J その言葉の通り、林はのちに三公となり、天子を補佐する大任を果た" V! c( T5 T6 n
すような立派な人間になった。      (「三国志」魏志・崔エン伝)
8 F  B* ?: J* U5 }# r   L5 L1 k9 Y1 h- n
 
% u4 a% @0 e* J' ^+ {. `5 a9 h もう一つの話。後漢の初めごろ、扶風茂陵(陝西省)に馬援という武将4 y) @' Q6 o' {$ G  m* W! k& ~0 F: X
がいた。はじめは、前漢の天下をかすめとり、新という国を建てた王莽9 g! F  t' k0 J
につかえたが、王莽が死んでのちは、後漢の光武帝につかえ、しばしば
; C* G- i/ Q; ?9 e功を立て、伏波将軍に任ぜられた。伏波将軍とは前漢の武帝以来、大功, i3 s- U! V( @$ E2 F' D. S; q3 l
のあった将軍にのみ授けられる地位である。そしてインドシナなどの叛7 @; m# N2 N2 t: ^4 \$ `1 D
乱を平らげ、各地に後漢の威光の及んだしるしの銅柱を建てた。晩年に
' y' Z! p- l* V" Z- h! ]1 b8 [7 N匈奴の烏桓を征伐するため出征したが、光武帝の建武二十五年、不幸に
1 u/ E9 B5 K9 P4 _8 Qして陣中に没した。時に齢六十三歳。この名将馬援がかつて兄の況の所
; C; s' h% Y$ f% H7 ]を辞し、田舎の田畝を司る官吏になって赴任しようとして、況のところ( M1 u7 N( N- M& P7 |
へあいさつに行った。況はいった。  N! y4 |2 g/ o0 r
 4 t; k3 ]3 J: s  O% m9 d: Q9 e9 _6 r) n5 ^
 「お前はいわゆる大器晩成型だ。
" @0 n0 Y; b1 |0 C& O8 C% O* P  腕の立つ大工は、
; {; ?; t. a" j7 V- q4 i5 p  山から切り出したばかりの、: F$ h" A* }5 ^9 R! P9 R' [
  削ってない材木は決して人に見せないが、# z9 F, |$ [: [* K- A* B3 j* t
  自分の好きなように細工してしまう。: @/ l3 [9 t) w! V% c- O+ ?
  お前も自分の持ち味を生かし、" C9 C" U( O& l- O  i  t! D
  時間をかければ大人物になるだろう。& o2 u# i- V6 ~# X- a$ N; Y; g) B
  自重してやれ。」
6 i$ F% W9 J: P" x) |0 U0 Q6 S2 H# y. p$ b 
, z- K4 B- e. k; r( g# _) m この忠告を守った馬援は、のちに果たして歴史に残る有名な人物とな5 R  z- h6 G7 N
った。この話は「後漢書、馬援伝」に見えている。
) e" }* {- v7 q9 T! x 
2 H1 @9 Q# p# B8 L 
' H+ _4 q# W& H' u さらに「老子」には、9 {8 y* Q1 H. ?7 n. X$ K2 I
 
: I' I% l* c( {) t 《大方に隅無し、大器は晩成す》
0 H3 z" B- P" d! B1 e               (大地には隅がない。大器は晩成する)
4 P  A# O# y' ~* @2 M7 Q/ Y ( k& w) Z, _2 `1 m+ U3 U
 という語がある。大人物は要するに、そんなに簡単に出来上るもので
+ B8 R  ?" N/ a) i9 M8 Pはない。長い年月と、たゆまざる勉励によって、はじめて生れるもので
$ ^0 X& F' b" @ある。物事はやはり長い目で見るべきである……というのが、この大器$ Q- V/ k$ k6 H- l0 Q# z5 C. |2 y" h8 V
晩成の趣旨である。
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 楼主| 发表于 2005-6-21 08:36:10 | 显示全部楼层
大義親を滅す

7 Y5 W1 e& z8 T1 t* v" K  J, A% W# O, ?( ]9 D% ?
時は春秋、周の桓王の元年、魯の隱公の四年のことである。
+ F1 C# ?# @, _8 S$ N ) z0 g( h! r7 V' Z3 l! \0 Z% v  t
 衛国では、公子州吁が主君桓公を弑して立った。先君・荘公の時代か' \- x: y% ^; r8 A- [( ]
ら、かれは桓公に対して不平の気持をいだいていた。荘公が愛妻荘姜に
! O% @0 T2 J8 q, P6 u. x% B動かされて、妾腹のかれを太子に立てようとしなかったからだ。桓公に6 Z4 y" v1 `: ]8 y3 o1 @
しても荘姜の実子ではなかった。0 s- V- s% O. ]3 ~( g: ^' D
 + q7 j3 o: l. g3 m
 大夫石ジャクが、かつて荘公を諫めたことがある。
5 ]6 J, O5 s" k 
9 r8 H/ Y% E; R6 h) M: [ 「州吁若さまを可愛いと思し召さば、
5 R: F, j3 T, H7 \' N  早く太子とお定めあそばされますよう。
) h( _0 s: v, i0 f  なかなかの兵を好まれるお生れつき。
. |6 P; x& Y% q' g2 b  御猶予なさいますと、
% c7 x; o0 O5 H: n: k$ B+ Q* }  乱に及びましょう。」/ w1 Z; g" y( g, l. Q4 i* V1 U
 3 v0 G2 d6 A9 ]- J# z; f. z
 しかし、荘公は聴かなかった。石ジャクはわが子の厚が、州吁と仲よ6 o6 [) J1 _! K( h6 n
くしているのを禁ずるほどの純忠の臣であり、桓公が立つと引退した。( O2 m6 B: _1 R3 o
 " O: Y! P- ~; T3 b7 h
 州吁は桓公を亡き者にすると、何はさて諸侯の信任を得るとともに、6 @4 Z4 q& q/ c5 }& R# A2 E
自国の人気をかき集めようと企てた。そのためには、先君以来の怨敵で5 a/ F2 c0 y* a+ e, l
ある鄭国を攻めて、功名を立てるに如かずと、時、たまたま宋国と鄭国- T. R, m& ~9 z( z1 Q; y  J7 T
との間に紛争のあったのを利用して、衛とは仲のよい陳・蔡の両国と語
; L; t. l4 Z, |" X2 Sらった上、四国連合に成功し、鄭国討伐の軍を起してかなりの武名をと
& [5 N# j' e2 p+ _: u8 K+ M1 ~どろかした。しかし、そうした武断攻伐の行動だけでは、なかなか民心
. L8 C, q# R) x( y0 }& Q" S; vを把握するまでには至らなかった。; E, G% v+ |. y% }
 
2 ~  p$ F( o: X 石ジャクの子、厚が、州吁を衛君として定めたい旨を父に訊したとこ; J+ h$ X' A( v" x' u' U  L
ろ、石ジャクは、
# c! Y% k/ m# U2 p+ w8 ` . T. l% L; O/ R$ B' G+ W! g
 「やはり周の王家にお目見得したがよかろう。」/ M) M8 x, @0 V0 t
 ) p; W1 E5 m7 J
 「何としてお目見得できましょ?」
1 M- j" @- e- \ 
0 y. G, L) i6 F. a, @2 ] 「されば、陳の桓公が周の王室のお覚えもめでたい。) K1 N8 N, R& x( Z% A. e$ N
  陳国はわが衛とは親しい間柄なるゆえ、
- ~" A* ?& D, R- S- ]" N* ?  陳公を通じてお願いすれば、2 D2 `. ^$ d/ h/ |4 L% h
  必ず事は叶うであろう。」! f6 _! m1 w- W$ a4 d
 / D% D+ r6 F- A1 c# E
 厚が州吁について陳に出かけたあと、石ジャクはひそかに使を陳にや* i4 ~2 g& T0 ?3 f3 Z; j
り、* a' D+ m. Q! C) O
 " y3 f: @2 H% b
 「わが衛国は、国力乏しく、かつ小生も老耄した。& {& H' H3 z8 _+ o: |" s
  何をなす能もない。8 D/ l$ F5 }4 F$ ?% ^
  この二人の者は、わが桓公を弑した叛逆者。
! h/ P/ \% l# |" f' ?  なにとぞ適切な御処置をお願いしたい。」* v( ]7 }, S% d" `0 _' ?  W
 
2 E% N& O4 `/ e2 d と告げさせた。
0 O2 z2 j8 t3 m9 m4 C0 ` 
! G% [: w$ C$ r4 o! Z 陳国では、さっそく二人を捕え、それぞれ立会人の差遺を衛国に請う" h, g% A/ k  p8 |. e' q1 I! d
た上、誅殺した。衛の国法を発揚せしめようとする機宜を得た処置とい9 w- u, F. z0 e+ I& ?! J
えよう。州吁の断罪には、右宰・醜が出向き、厚には石ジャクの家老・
) J" W5 T0 v# V2 ?5 \" ~ドウ羊肩が立ち会った。
* R; N/ C2 S7 c) a9 a3 A & w7 J+ K# b* _: j" P/ f
 # J; S" }  ~* P# k5 J
 以上は、「春秋左氏伝」の隱公三・四年の条に出ている物語である。君! j" G/ M% l: D
臣の大義を全うせんがためには、父子の和親をも犠牲にしなければなら& r; O0 }" b' k  d, I$ u
ぬ。そこで、二心なき純臣として、史家は《大義親を滅す》と、この石6 `) j$ h- ~; ^; U6 O- t
ジャクを称えている。
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 楼主| 发表于 2005-6-21 08:36:42 | 显示全部楼层
樽俎折衝
, e8 T3 j+ I6 M! X9 a* Y" F9 n6 L& X" h# w

. e. I& s& R$ A. R8 i$ @5 ~; W2 V春秋の頃、斉の荘公が家臣の崔杼に殺されるという事件がおきた。荘
; C9 ~5 Q4 D. R7 ^1 R' {公が無道であって、崔杼の妻と通じたから、義を正すために討ったとい
' @7 L1 ~; ~6 b+ Q4 Vうのであった。事の真意はわからない。が、荘公が殺されたのは事実で
$ v! D3 s  L2 `/ ?! oあった。そこで、荘公の弟が立って景公となった。しかしその時には、
% ?2 y- y9 b, B. G- F1 [もう崔杼やそのなかまである慶封の力がつよく、おさえることは出来な" L/ H% D9 o1 f$ t, X; {  t. h
い。それどころか景公は、崔杼を右相に、慶封を左相にし、この二人に; P  J8 Y8 }. M' M9 W4 K: ^+ b( F
反対のものは殺さんと盟うことになった。群臣は皆その勢いに従って、9 B! }* V9 U( u7 n* f+ i7 C
つぎつぎに盟った。, m1 k: D$ B/ M) A1 r( U, n
 4 z7 ^; a" i& N7 J
 ただ一人、盟わないものがあった。晏嬰(字は平仲、晏子)という。霊" a- I6 w5 Z3 x. @6 B( w
公、荘公の二代につかえて、人望もあった。彼は天をあおいで、こう嘆# z# I; f& g+ `* R5 S$ \% m: {
じただけであった。……君に忠であり、国に利となるものになら従いま1 A- }2 D8 g, E, R9 S9 g
する、と。慶封はこれを殺そうといったが、崔杼にとどめられた。
4 Y$ O7 U' J+ C! D! D 
8 Q/ P; p! h% k. W, r& k# q" R 斉の内紛はなおつづいた。が、まず崔杼が殺され、やがて慶封も、風
/ h7 Q# N1 x" X0 O7 w5 B: W2 Vをくらって呉の国にのがれた。このとき、さきの晏嬰が斉の相国になっ
: R) Z* X: X4 @9 zて、国政をあずかることになる。これが、春秋時代に名だかい名相、晏& D! Y) [3 O& n  v% O5 l
相国である。
. {) L1 \6 j) ?9 ?2 Y/ `- R 5 }5 L# v0 f" Z. C
 春秋のころには、大国だけでも十二の名があげられる。小国をかぞえ: K0 w" K0 U2 B. |1 P
れば、百をこえる。晏嬰は、国内ではこみいった派閥の騒ぎをしずめ、, G2 X, o2 l6 O0 [9 \
外に対しては、このように雑然とした情勢のなかで、斉の地位を安泰に
! v- @0 B# x, k+ T( _9 Tしようと心をくいたのである。その人となりはおだやかで、くらしは質
, @8 x5 x4 J. f" _4 _: w0 S& t素だった。同じ狐裘(狐の毛皮でつくった皮ごろも)を三十年も着ていた# }3 W7 F8 {, n$ Q
というのもこの人である。景公が広い土地をあたえようとしたとき、彼
& Q8 d8 f, d0 w) X  m3 [は、
# z; P( z# Z& }& A# i% N8 O ' x( N+ r+ l- F/ ]: u
 「欲に足りれば、
: g9 r/ u2 q: R1 g* W! L  亡びる日が近うございます」; [( }, o1 m, p" I
 
0 _0 Q9 j; L& f2 Y* u2 }- R といって、辞退している。
) }# [) U/ d8 N! p3 G- f 
, B9 g' E& X/ s' R4 R/ } # `) V+ \; Z$ C: e( k' X
 晏嬰は、しばしば他国に行って会談した。また諸侯の使いがくれば、/ Y0 B1 N/ \9 J( X4 j" B+ v
これと応待して、くるいのない外交手腕をしめした。こんな話がある。) _( X: H% J! P7 C5 u: Z+ A
それは、彼が景公にしたがって、強大をほこる晉国にでかけけたときの2 L& P7 R$ {1 K+ y+ E
ことだ。" g# a3 S" [8 Y; `# ^* t5 h: w. G/ V
 ' k/ w* Y3 a8 y, d. A1 z% }
 余興として投壺をすることになった。矢を投げて壺に入れる遊びであ
$ R8 o+ k% C9 V8 Lる。晉の家臣がすすみでて、
4 Q3 z5 B; z- f( Q3 E( c# d, w 
8 T2 Y- Z7 o8 Z. Y* t; j 「もしわが君がお中てになれば、' r' m& N+ R  d: o
  諸侯の師となるしるしなり」
6 C# J# V* Y) F( q3 \6 K$ s* u . e( d: M* A4 ?1 d  e
 と、讃辞をのべた。
; D8 {9 V: Z: [, l 
6 y* a! T: f# K9 R8 W& K1 e& p 晉の公平は投げて、中てた。やんやの喝采だった。この時、晏嬰は進! T! V- a: Z/ Q( i( `
み出て、
  |* D0 k) |: V7 K5 H  G 
% t: i+ j% ~; f 「もしわが君がお中てになれば、
( J9 e/ h- e$ ]' m  斉は晉に代わって興りましょう」3 Q* w# l' ]. u
 
# `% q6 }& t' I7 U; B/ ] とのべた。
+ q) U4 T4 e* O. b: r 
9 Y1 c+ Y/ v0 `9 w5 r. ]) o5 K 景公は投げて、中てた。晉の公平は怒り、家臣たちもすわとばかり立& T8 L2 E( N% l8 e
ちあがった。しかし晏嬰は
9 [& a: V# ?0 ^: A1 c- F" x0 E   W- H, \2 m* {+ @+ Q* D6 d
 「投壺はたのしみごと、2 g( w5 q5 D# K3 {' I
  賛辞はざれごとであって盟いではありませぬ」& \' D+ ]' l+ J( C0 {
 6 [" O* \5 M' O
 と押しかえし、景公とともに、しずかに退出した。3 J) [; \7 V& p  x7 Y( q
 
7 A( o4 C' C+ ?1 ^5 x" N これは晏嬰の外交をほめるための作り話かもしれない。晏嬰が外交に
4 n  ]! V3 O8 {: x9 X. Uあたって心をくだいたのは、もっと複雑で、大規模な力の関係を調整す
. {( ?: t7 j; Q8 Qることであったろう。だが、ともかく晏嬰は、斉国の舵をしっかりとと
- o" _) i! W8 S0 y& o, yって、からみあった諸国のあいだを進んで行ったのである。そのことを
$ [; w8 O/ ]+ k+ k6 z晏嬰の言動をしるした「晏子春秋」は、こう書いている。
, q9 J- H5 U1 O+ f9 K0 u2 N 4 x) E8 X- D# }: z6 h8 K% w* k8 F
 「樽俎の間を出ずして、
9 N* H% F7 y, h) E! L4 M+ U8 Y% a  千里の外に折衝するとは、
/ B! a+ v( b3 W+ ]  C  それ晏子の謂なり」( \  X" X% Z" \; e) G
 
2 O6 F/ T# ]4 I% o. {  S 酒だるをおき、いけにえの動物(俎)をならべ、こうして宴席で談笑し
1 {6 Y0 J* B4 n' hながら、敵の先鋒をさけて有利に話を決めてしまう、いわば千里のかな2 ~) t; H! {* [: b- B- z4 k2 ]
たから敵の攻撃(衝)を折いてしまうとは、まさに晏子のことである。
+ S- s/ G. ^$ S: |# [8 w 
6 e! a5 M' z- V/ i  F/ `! V+ z) | ( {/ X5 {# y& ^) ]
 酒席でなごやかな外交交渉をおこない、有利にことを結ぶことを「樽
* C/ H! W, P/ [俎折衝」というのは、ここから出ている。転じて、談判やかけひき、国
- @4 R3 W5 S: [0 r, e: Q8 n際上の会見などをこの語で言うようになった。おなじ酒席であっても、- W, ^: ~. Y: c5 X* d2 r
本来は待合政治のことではない。
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 楼主| 发表于 2005-6-21 08:37:56 | 显示全部楼层
楚人弓を遺れて楚人これを得

; C- r! z7 s8 X7 r3 Y2 s
. I% h6 J8 Z0 p: I% H孔子の生まれた頃、中国は、晉を盟主とする北方諸侯同盟と、楚を盟5 w# Y3 i9 R* x( t
主とする南方諸侯同盟の二大勢力に分かれて相対峙していたが、ここま6 m8 ?6 r2 c# ^
で楚を強大にしたのは、春秋五覇のひとりに数えられる楚の荘王の力に; u% s2 W' C! |0 R7 P
俟つ所が大きかった。この英主荘王をついで立ったのが、その子共王審
& r& ?* J+ a! h1 F! Pである。
9 c. w1 o8 ]' ~! @' U+ F  A 4 {1 L9 ~3 r( ]) m9 x
 ある時、共王は、狩猟に出かけて自分の弓を忘れて来てしまった。そ- g5 e$ J4 K1 w& X$ F! t% _1 p, u
こで近侍たちが、9 D2 [: c# m/ u" ~! e
 ) d' k8 p6 a0 Y" A
 「お弓をとって参りましょう。」
* V) e" D* z3 @* w2 W" }" Y$ q: b 2 [0 U9 }2 ~! t  K: g
 と言うと、共王は、, l) L6 c- K5 u6 R
 : }) p! g1 l' ^! A0 X$ G
 「よいではないか、, C0 c* B& ]; W, H8 k
  楚の人間が忘れた弓を、楚の人間が拾うだけのこと、
1 [; W% \( F" x3 @  (楚人弓を遺れ、楚人之を得)
- _# ?) w5 K, ]' j, j& E( m  わざわざとりにいくことがあろうか!」2 j2 Z9 Z/ c/ W# m  f
 
9 {$ O# O9 k4 i9 L+ U と答えた。このエピソードは、いかにも国君に適わしい腹の大きな話1 x: w& _9 w% s
として、後々まで語り伝えられたものらしい。共王の没後八年(BC.552)
+ o1 x$ P1 O6 ^- p( ?+ qに生れた孔子も、誰かから、このエピソードを聞かされたが、すると孔- K* F% Z* L6 \3 _
子は嘆じて、
# \! J: J* \7 s$ K 
- x/ f& k0 H5 a" g* Z 「何と腹の小っぽけなことだ。: }4 ~. k( q; d- l
  《人間が忘れた弓を、人間が拾うだけのこと》! l- z8 m' y$ @* I' G& H
   (人弓を遺れ、人之を得)
1 N& J. n6 K5 R$ o# K# n  と言えばよかろうに。
8 i! V8 |0 _: [, i2 R# i% x  どうして楚に限ることがあろうか!」4 N+ J7 b' i4 {3 j! R# G2 B# X+ Q
 
$ G- k4 F- x8 F; Y, P と言ったという。国家権力というものを持たなかった孔子には、国家) F8 ]2 w0 t# ^* g6 e5 A
をこえて、《人間》としてあらゆる人間に接し得る自由闊達な心境があ: O4 t9 n, K7 Y5 [0 P
ったのだ。これは、前漢の劉向の著わした歴史逸話集「説苑」にある話
# `+ r, ~0 `$ B3 S' F: K& aだが、おそらく劉向は、自己を小さな限界に閉じ护幛搿段镉筏趣い9 Y/ u* ^( r5 K/ M0 {: d$ ^  b  K
ものからの脱却を薦めるエピソードとして、これを記したのであろう。
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 楼主| 发表于 2005-6-21 08:38:51 | 显示全部楼层
宋襄の仁
0 X% h4 r* [" x% T0 p
% l5 }: O. {+ j/ t' \0 S8 J/ a
周の襄王の二年(BC.650)、宋の桓公が死んだ。死ぬ前に太子の慈父は! z1 g1 b5 q" W8 i9 \
庶兄の目夷が仁徳に富んでいるのを見て、太子を目夷に譲ろうとした。
! A/ L; Z. l# U: kところが目夷は、% R% j, z" q+ r7 s
 
* K0 Z8 q9 C. v" c9 u 「国を譲ることのできる人こそ最大の仁者です。」
& D; e3 W: S0 I  \7 R, |7 a( e 
8 Z9 X/ U) x' w7 `  M& G と言って固く辞した。そこで慈父が位に即いて襄公となったが、目夷) T8 h3 D4 [+ j7 \: O! ]. r
を相に任じたので、宋の国は大いに治まったという。" ~: E& M" d. e6 G2 s' H
 
0 x9 A5 Z& q2 P' p& y% y' { ところがこの襄公の在位七年目に、宋国に隕石が五つ落ちた。これは# k0 j. i1 y4 s0 K% w  {4 P
諸侯に覇となるきざしではないかと勝手に考え、次第に襄公は野望を逞3 G' `2 I& T0 ]- u9 I, p
しくしていった。まず斉の桓公の死後(BC.639)、公子どもが候位を争っ
% K8 ~+ p" I1 }+ l' }% }ていた時、襄公は斉軍を討って、公子昭(孝公)を立てた。続いて周の襄: u, Z  Q0 e1 A( s$ u
王十三年(BC.639)春には、春秋第一の覇者斉の桓公をまねて、鹿(宋領)
3 h5 @/ Y1 C( V' yで宋と斉と楚の諸侯が集まり、襄公は盟主となった。この時目夷は、" {5 e1 k8 K/ l  f. y4 {8 l8 Q
 0 ^+ q+ B9 K$ [
 「小国が覇を争うのは禍のもとになるでしょう」
4 h4 _2 q2 O/ s( Y  h 
) G& Q% l! d$ y と言った。/ z7 T) Z0 i# P8 I7 `
 7 L$ v( y, A' g. `
 同年秋には盂(宋領)で、宋・楚・陳・蔡・鄭・許・曹の諸侯を会した/ a+ g# p$ B" `- r
が、強国楚は、襄公のこういう行動を不遜とし、秘かに計って捕虜にし
+ Q' k0 J- Q3 |. B1 Lてしまった。冬、襄公は許されて帰国したけれども、目夷は、
- E% O6 q8 K5 s) E2 J! P. G3 X 
# E8 e. [% f& F  y 「禍はこれからだ。
3 a6 @( t1 {; ^7 @" U% ~1 K2 k; k  まだまだ君は懲りていない」
6 g' ]% O/ W3 f; q7 F2 o % t/ s% L: H/ ]6 X5 Y
 と言った。
; Y* l7 c  U6 e6 f, l 
9 a( E! e/ P5 c/ B1 k8 n 翌年春のことである。鄭は襄公を無視して、勝手に楚の国と通じた。% M4 z8 Z( y9 I# d) `! J2 j2 O
怒った襄公は夏、鄭を攻撃した。目夷は、
, H/ e) i4 g4 A( t6 c  t& W : W$ T( A3 T" E
 「いよいよ禍が起るぞ」
' @/ B4 D. ?  Z" u1 } 1 \9 ?+ e5 g/ Q: ?
 と言った。
  T* L( v0 B1 z! L, O 6 G5 d( M9 t& F9 T. h% t
 冬十一月のことであった。果たして楚は鄭を救いに来た。襄公は泓水
' t, n0 U" ]8 S) X$ ^& Y(河南省)でこれを迎え討つことにした。楚軍は続々と川を渡りつつあっ
: l- G; k2 W9 t) m% j+ nたが、まだまだ渡りきれないで、陣容も十分でなかった。宋軍の方は完! l( y0 J' @) Q. s/ Q. p. b: t
全に整っていた。そこで目夷は主張した。! M- O& }: S, Q5 x; }
 9 M& r. |, Z4 N8 E8 _: `6 Q
 「敵は多く味方は少ないのですから、, K" L5 T) |9 x- x$ U! c
  敵陣がよく揃わない今のうちに討つべきです。」, b1 t' I' ?/ `, i' c
 
" ]: T& l2 C8 }- |( a しかし襄公は賛成しなかった。
" s; b! A0 k$ L 
, x# z' d% o+ S1 j8 m" N 「君子は相手の弱みにつけこむものではないぞ。( _* i$ Q, n* b! Y6 p1 ?
  敵陣のそろわない弱みに攻め入るなんて卑怯千万だ。」
, g# g' Y" r9 F( F 3 v9 Y1 ?) j" e! v5 N4 O4 ]' M
 しかし目夷は敵軍が渡り終えても、まだまだ十分に整備していないの9 R  p( F5 {* U+ N
を見て言った。8 z+ {: \9 Z2 ~* C; v
 % Z2 T' B- B0 d* s' ~4 i. k6 Z7 E
 「楚は強敵ですから、
% b* G. g; k/ T5 n  今攻めても勝てるかどうかわかりません、& X% `4 I7 B: J1 T, O0 e/ j' s& }
  戦いは勝つためにするのですから、
: m1 W& y. n) D  敵の弱点に仱氦毪韦饬⑴嗓史椒à坤人激い蓼埂!筡
* U. [% B( |' P& C/ x2 j 4 R7 s( `6 T) E+ A8 T: _
 だが襄公は奇妙な君子人を気取っていた。彼は楚の体制が整うのを待
% u, o3 j/ C4 S7 g0 Sって、やっと攻撃した。その結果、弱小な宋軍は散々な目にあって敗北  ^' v2 K9 y! p
し、襄公自身も股に傷を受け、それが原因で翌年(BC.637)五月死んでし
9 U/ c! a. ]/ ~1 d, Qまった。彼は春秋の五覇の一人に数えられるが(一説では数えない)、と+ V4 n( u. D( a; e- I5 q
うてい斉の桓公や晉の文公のような大人物ではなかったのである。" ^+ e4 P& A0 i. o' }/ t) F
 + t" l/ i7 U  B: R! B4 [
 
$ M( p0 X; W- Q) ~; G この説話は「春秋左氏伝」によったが(「十八史略」にもある)、これか
( H9 z. b5 T! A( \8 E4 dら出て「無用の情け」を「宋襄の仁」という。
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 楼主| 发表于 2005-6-21 08:39:57 | 显示全部楼层
糟糠の妻
0 X0 q7 G+ f( X! {$ ~

% k3 N& G, v6 C7 L* J$ ?8 X2 h7 v『後漢書』の「宋弘伝」に見える《貧賤の交わりは忘るべからず、糟糠
8 {, @7 k1 `, {6 M+ z+ y$ Nの妻は堂より下さず》という語にまつわる話はこうである。――! V9 }8 M, {2 ]! Q7 g+ n
 ( ]* s2 G6 d: H7 s/ W
 後漢の世祖となった光武帝のもとには、その天下統一のあと、いわゆ' K- {1 e* c; c  Q
る《鉄中の錚々》といわれる人物が数多く集まったといわれるが、この
: W5 w6 _9 s4 W. U' [* y1 T話も光武帝に事えた一人物の毅然たる態度を示すエピソードである。
& e* m( J( N9 V7 M' f4 a; a7 [ : z) I' ~) s2 j8 q$ w& H5 b. ]
 光武帝は、自分の姉で未亡人であった湖陽公主が、かねてから大司空) O5 P* H% m# t; w) k- k: S
の職にある宋弘に意があることを知った。しかし、いかに光武といえど& b$ x, I* C% ?  ]% Y  g* I
も、宋弘に対してまともに姉を買ってくれまいかとは言いだしかねた。' V& u( E* ?1 B" g# T$ U9 u
そこで、あらかじめ隣りの間に姉の公主を呼んでおいて、宋弘を召し出
9 C# d& R3 I$ w5 O; ], u  gした光武帝は、おもむろにこう話しかけた。
- u6 n; `& `$ [. t) s3 J- z $ |$ u! \/ b9 J
 「どうかな、- U8 D# ]; W3 u* C
  《富みては交わりを易え、貴くしては妻を易う》: k& ?& O3 ^  g7 R
  ということがあるが、
4 n2 ^- d+ Z# |  l: F  貴公はそのへんを一体どう思うかな?」! T: R  F) o- o# V+ M
 
6 ^5 S! t! E, _5 F! u# p- `7 B やんわりと光武の姉のことを匂わせられた宋弘は、しかし、はっきり
0 h4 m1 @, S- E, N' _とこう言上した。
* @  o8 _6 V" x 
: t4 x: X2 {2 v2 I 「いや、私には; J; m( R1 e: C; t: t4 o. _3 w; h* S
  《貧賤の交わりは忘るべからず、糟糠の妻は堂より下さず》! J$ a1 g9 Q  p$ _  r6 H( o
  というのがほんとうに思えます。」" g  ^$ W3 g1 F& y9 v0 v( v0 Y
 
6 y0 \1 q9 r7 X) P& `+ F* U  U 宋弘が退出すると、してやられたりと光武は姉の公主をふりむいてい' R1 i8 p: Q3 u$ Z( V
った。; h0 X9 A& a0 o. p7 @( U
 
  x+ B; w9 H7 H* m1 ^ 「うむ、どうもあれでは見込みがありませんな。」
3 _) ?" y$ r0 Y) @9 ]  i3 N* A! x 
' f: K- R6 o! n2 N) |4 D; O 人の亭主を横取りしようとした公主も、こうはっきり言われてみては
3 w# }9 l& o; e; L$ {2 y3 Bあきらめるほか仕方がなかったであろう。《糟糠の妻は堂より下さず》
( r9 Z5 [, q; e" }: Gの糟糠は、「かす」と「ぬか」のこと、ひどく粗末な食事のことであり、貧
( ?6 \# T8 S/ D" ?/ P5 Fしくて糟や糠のたぐいしか食えずに艱難をともにしてきた妻は、たとえ
! q  y: V% X8 r+ R5 {- O( ^. q2 Y1 V後日処を得て富み栄えるようになっても、これを棄てやったり、粗略に
# q. A4 R- `$ ^3 Z4 V/ M扱ったりはしないということである。
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 楼主| 发表于 2005-6-21 08:40:53 | 显示全部楼层
創業は易し守成は難し

% L" U. D- r1 H( P1 m' C) t6 L+ Q: d
初唐の盛世を形容して、よく唐初三代の治という。( Q/ ]2 G3 h! ?- ?! s
 
6 p. p+ o  U, Z8 l- U  貞観の治(太宗の627~734)* J+ z" K2 M4 k5 ~' N; n
  永徽の治(高宗の650~655)& y) ]7 B% Y& ?. a5 h
  開元の治(玄宗の713~734)のことである。
; z2 Q1 A% N9 }- s( d , q4 o7 w" K3 \' i6 N1 w. L: u
 これらの時代には、皇帝が奢侈を戒め、よく賢臣を用いて、天下大い
: R0 b% x0 m4 c8 Nに治まったからである。
) ^' V4 a3 ^  g( O( g# G " [5 x3 |4 [9 j! |3 N
 とくに太宗の貞観の治は、後世の治世の鑑とされ、民は「道に遣ちた! H. A! o; c, S- M8 p7 ^1 R7 Z& E
るを拾わず、商旅は野宿する」(道傍に落ちているものを拾わず、盗伽琝1 c! z+ e2 M. }; \) C" P+ `4 N
いないので安心して野宿する)ほどの太平の世であった。太宗が群臣と
8 u/ `7 H+ {7 B& n0 k3 n5 V# ^" [政事を論じた語を類偏した「貞観政要」が、徳川家康の施政の参考にさ+ `  x, ]' l0 M' ^& g% k
れたことは有名である。" B! a9 G( Q- G& F; K5 r* o9 m( k( y1 s
+ P3 Z6 X4 E5 a8 e/ r" x
 貞観の治が生まれた原因の一つは、前述したように、太宗が奢侈を戒
& e$ P7 ^  q( o5 P8 s' Sめ、多くの賢臣を得たためであった。貞観の初め、決断に秀でた杜如晦
3 z6 F7 t, L7 U4 Yと、計を練るに秀でた房玄齢の名コンビが左右の僕射(大臣)を、剛直の
- ^% b# u, t) u$ q! J魏徴が秘書監長を、清廉の王珪が侍中(侍従職)をつとめ、太宗の政治を4 ]0 I- J# x  y& w
よく輔佐したからにほかならない。
6 \5 C' w0 B3 P+ R/ ?3 j ) u8 R  a) w& {/ X& i2 c
 あるとき、太宗が、王珪に向かって、
$ _# j6 k8 f* q) D4 N. _ * c+ Q; n# Y& T6 ~4 i2 P
 「その方は、玄齢以下のものたちと比べてどうか。」
3 W: k  h' u* o8 D2 ^ ; e* J3 R# x1 o( P
 と下問したとき、王珪はこう答えている。* U2 s1 n& ~6 p' z% C. A3 Q
 0 X" D% e* e6 o5 o; u+ U( P9 U0 L. n
 「孜々として国に奉じ、知って言わぬことのない点では、
, U( c* I+ E+ g" V3 Y  臣は房玄齡には及びません。
: i3 j  v( x. q3 [  才が文武を兼ね、入っては宰相、出でては大将たる点では、0 {. @9 ~9 _: Q- Y) \
  臣は李靖にかないません。
, A) J5 f7 c4 E& z  君主が堯舜のようでないことを恥じ、& v+ R7 u. `" V
  諫諍をもって己の任となす点では、' C& T7 v9 K  {0 w8 x! G
  臣は魏徴にかないません……。」
, P! Q7 H+ c! k6 y# u$ n6 \6 A 
6 z' k) s* l9 e, } また、太宗はかつて近臣たちにこう下問したことがあった。% ?) O4 e* b' T! {8 v
 . K: n5 ~1 m0 A# m& z, O
 「創業と守成とはいずれが難き?」
3 r' V( }: M* j 
( Z/ Y3 q; T, q6 }7 r 房玄齡はこう答えた。
' ~5 A5 {2 E) N3 f 
; R! @+ X/ ?; V  |5 w 「草眛の初めは、( w1 D$ s! `0 c
  群雄競い起り、攻め破って降伏させ、4 [& N9 O. a4 b5 l+ P. d
  戦って打ちかつのですから、$ t$ c( I4 x$ x1 M. H
  そういう点からいえば、
: y7 B$ X; K8 R+ X8 h6 c  創業の方がむずかしいと思われます。」
; |# \' w0 ?8 z( z : |! F9 R; Q. f, W2 C: W- x
 魏徴は、しかしこう答えた。
1 k  c4 s, E; d- W  M1 _" F 
0 l- v6 n- B) I  ]9 W 「昔から帝王は位を艱難の間に得て、! j& {$ B; u- t6 S; `4 ~* g
  これを安逸の間に失うものです。  E/ s) I) g" d( |1 R. s; l
  そういう点からいえば、
: r. u/ C$ U! P- @* b* C4 @/ {- H  守成の方がむずかしゅうございましょう。」
9 W' R, r4 Q/ j 
: ~  H2 m5 J* P' p+ M6 T すると、太宗は言った。
; v8 p% C3 Z  D 
! ]( r8 J, i0 A  G; i2 O 「玄齢は朕とともに天下を取り、百死に一生を得た。) J7 D( p6 }+ M
  だから創業のむずかしさを知っている。9 F% Z. F% a; y( L2 x! f0 [. Q
  徴は自分とともに天下を安んじ、
& w% W1 `' e/ R0 X1 a  G9 \  常に驕奢は富貴から生じ、
9 R8 j' h# l6 @' |% S  禍乱はゆるがせにするところから生ずることを恐れている。
  g: h9 Z! H+ w) D; n  だから、
, M. q: Z1 F. \! P+ g# t  守成のむずかしさを知っている。
, i% w" g6 H' j+ Z' E6 N  しかし創業のむずかしさは、もう去った。' H  Y+ Y3 G4 }. f4 D' `  A
  いまは、守成のむずかしさを諸公らとともに慎もう。」
9 a3 A( s; w6 s1 B                        (「唐書」房玄齡伝)
/ V' n" e+ g9 M) R8 o) W; r " R& N: S( `; V% l( t( K
 5 q. e+ n+ q& ]. }0 ?( |7 X+ z
 「創業」は「孟子」に見える語で、「業を創める」(しごとはじめる)こと。4 J2 d# `0 T# b+ D
「守成」とは成業を保守するいみである。「貞觀政要」の注に、' P0 S. U% _. [. A
 : Y5 w- r% ^/ R" [6 P4 D
 「古より業を創めてこれを失うものは少なく、
" @' G) n/ @, s% D  成るを守ってこれを失うもの多し」
" N1 }" @+ `  F4 x, D& R/ R   G' ~) d& {1 w0 q: D% _
 とある。
& Q; o+ s' Z3 m/ _5 I% B" Z) | 
1 H% c. e2 L% R2 I 太宗は自分の偉采が臣下に恐れられているのを知っていて、いつも温
/ o4 p/ ]& H/ D$ L& D' g  w- @8 y顔で群臣に接し、諫めるものを賞した。ただ、末年には東征を諫められ& B! [& K4 S( ?4 g! b
ても聴かず、しだいに奢侈に流れていった。「創業は易し守成は難し」の4 o+ B7 ?% K% V8 z3 X7 ^) i3 ^1 E
感が深い。高宗の永徽の治も、いわゆる武韋(則天武后と韋后)の乱のた6 _1 E/ W$ g' \
め、また玄宗の開元の治も楊貴妃や安祿山の乱のため、しだいに傾いて$ l" }$ r4 V# d+ t% w
いったのである。
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 楼主| 发表于 2005-6-21 08:41:16 | 显示全部楼层
千里眼
% o% c# {6 @) n4 @" i
/ A/ |5 I+ F( f' a" m8 }; x
北魏のすえのころ、楊逸という青年が光州(河南省コウ川県)の長官に
9 i- _! O+ Z% u# pなって赴任してきた。名門の楊家の一門で、まだ二十九歳だった。) T( |. v0 i, j5 L- ]: J0 a
 & j- o" W2 I7 o* i: w! e$ _% [
 彼は青年らしいすなおさで、州の政治に心をくばっていたらしい。州
- y+ t$ \; q5 |の人々は、
- n% @4 A% i1 j7 ^- [9 }( V 
: u" b- K* B! I2 _+ y0 G/ W 「楊長官は、7 h0 L! b2 `4 N$ x& `
  昼は食べることもわすれ、  F0 B  P5 U+ g9 S2 d& g
  夜には寝もやらずに仕事をしていらっしゃるそうだ。」
# R" Z% P8 L- u- ~) l 8 ^2 Z; ]# R8 i7 f' i. B
 と、うわさしていた。兵士が遠くにでかけるときには、楊逸は、雨の
6 D3 _* X$ q, [日でも雪のなかでも、いといもせずに見送ったという。法令はきちんと
' p; E. R/ a; X5 x6 K. T9 a! [6 n; \行い、といってきびしくはしなかった。
5 v' Y- M4 x3 D8 B" l2 { ) ~7 `5 g4 a6 ]9 W/ ?" {4 G1 c1 j9 w
 
2 l* J; H% [/ s 戦乱のうえに、飢饉がおそってきた。飢え死にするものも各所に多か
$ c$ _: s6 v7 {1 f, [4 {  Pった。このとき楊逸は、食糧を保存してある倉をひらいて、飢えた人々
1 M9 C# |$ R. P/ a9 i, I, {にわけようとした。係りが中央の意向を気にすると、楊逸は、こう言っ
7 H5 G. n5 m& C* ^; e- O, Zた。3 I9 p" e- v6 Q# t  ]3 G5 t- L+ c
 7 ~* `" z8 }6 G1 e
 「国のもとになるのは人だ。  o7 P8 J+ i( ?& |& j3 m8 F; |' c
  その人の命をつなぐのは食なのだ。; W" O& v' {0 _) z
  一般の人を飢えさせてどうするのか。4 d& r# d: t1 S" n6 ]
  倉をひらくがよい。, v7 q( x) O; m$ }0 f" v
  罪だというなら、+ q- u( e; l; `8 q3 R. F* U3 n
   甘んじて受けようよ。」
8 _" Z4 N5 F( r5 `# ^8 v 
9 H6 p' N$ E" r& @7 g こうして食糧を放出し、また老人や病人などには炊きだしをした。こ
8 D! b5 b% f! R" X& ^! F0 I7 lの楊逸のことである、千里眼をもっていたといわれるのは。" P. T/ m+ c  S: ]8 p
 
4 T9 G3 ]% F. ^" l& E 楊逸が赴任してきてから、光州の田舎の人々がふしぎに思ったことが
8 D  `/ t0 V' T  k6 @& tあった。まえには、お上の役人や軍人がくると、かならず宴会がつきも* {2 _6 H" m! B; K
ので、袖の下だって要求されたものだ。それが、ぱったりなくなった。) D5 e5 R* ]- X) @
それどころか、こんどは弁当ご持参でやってくるのだ! 忠義だてをし
9 t! n' X/ D1 t' H+ b2 n0 S+ wて、まあここならかまいますまいと、暗い部屋で料理を出しても、よう3 ~' v; y$ q  e( P! F9 R% V
手を出さない。みんなは、そのわけを聞いてみた。すると、口をあわせ( w( |7 d0 [" ~+ A  {, m' y, V
たように、こういう答えだった。% b7 D* X. I) K; d' @( D
 
5 q/ W1 p' C# g. ?# N7 J  _4 y 「楊長官は千里も見とおす眼(千里眼)をおもちだ。
( d/ W: |( C4 n1 ^' I5 u" ]8 A  とてもごまかせやしないや。」& g) c, t* p# S  }! j  K' y. `" O
 
( F$ y6 D$ L  c7 q' X) Y 楊逸は、庶民こそだいじだと思っていた。だから、お上の風をふかせ6 y* M0 h8 j* V' H% u" {8 V; J
て豪傑ぶるのを、どうしてもやめさせたかった。そこで彼は、州内ひろ
: ?- s3 ?* B% ^7 Q! C! K( e( T5 zく手先のものをおいて、役人や軍人の動きを報告させていたのである。& N6 W8 {4 [" a! K4 {! ^, ^
ふるえあがっていたのは、そのためだった。
/ K' F4 h$ D; y/ F3 i5 E) K! i% } 
* |: g7 h& o  ?) p9 b これが「千里眼」の出所だ。だから、遠くのことまで見とおす力をも
( H# _; j+ m/ f- t8 z" |6 Eつことに使われる。飛耳・張目(密偵)をおいて探らせるという意味は、
- `* W$ _6 \3 n% ]. y, Zもうあまり残っていない。これはまあ残ってほしくないものだ。手先に. z' q, g: y5 j. z% W, H
さぐらすなどというのは、良くつかわれればいいけれど、悪くつかわれ
' T# L0 ^: G% |# d0 O9 Tれば、善良な市民はたいへん迷惑するから。……! C# Q  X% z0 Z9 x( ~5 d
 0 P; v) F. q5 u# @) \
 ; v% N" A4 v" K  Z9 x; U* R: w
 楊逸は軍閥のあらそいのあおりをうけて、光州で殺された。時に年三3 f- |: I+ E& z& m3 E4 t
十二。その下にいた官吏や、それにもまして市民や農民は、その死を悲" B  A- ^: x5 `0 p7 N
しんだ。町や村々では、彼のために霊をとむらい、そなえものや花はな" g( y; ~, c: j; b0 R2 c5 d1 r& r
がく絶えなかったという。(『魏書』楊逸伝)
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 楼主| 发表于 2005-6-21 08:42:28 | 显示全部楼层
過ぎたるは及ばざるがごとし

: Y3 ]+ `5 V  S
; B. t2 q2 Q0 R' \( \9 F0 Sあるとき、弟子の子貢が孔子に聞いた。, P9 M9 L3 J+ V5 [. r- @* }
 
% w" |+ l. ~* U6 o 「セン孫師(字は子張)と卜商(字は子夏)とでは、
" ~& L( p! `# S& X- C8 j  どちらが賢なのでしょうか?」6 W0 W2 v( C, V9 g+ B3 O: B$ }
 1 l2 G/ H' a4 E0 V+ h/ v$ B6 c& f
 おそらくこの二人は、よほど対照的な性格の持ち主だったのだろう。/ `/ F2 f0 Y/ r$ F' v+ q
「論語」には、こんなエピソードが記されている。) y/ Z& n7 x  t6 W
 
6 V. V, t9 n* A, s+ K+ g9 b 
- D4 \# J! U8 u8 g# i6 W3 `. D# F 一日、子張が孔子にこう訊ねた。2 G3 K5 R9 q0 }# c, e4 }5 K
 
$ ^- t% d2 K" T+ ^" V8 ~5 W  B 「士としてどういうふうなら[達]といえるでしょう?」* \& o3 J: R1 C) g2 G$ P( G
 $ I5 i4 W5 @' B7 G0 H, Y
 孔子は、逆に子張に問うた。
  \. j2 e$ e5 V4 w' s4 J 
! b+ }2 K3 B; X. D1 }5 D5 z 「どういうことだ、君のいう[達]というのは?」
# n- ]2 X6 t% F0 W3 _ 
: G, u9 c5 n3 l 「諸侯に仕えても必ずその名が聞え、
! n# a* t  j- w7 Y, ?; T! e0 C8 A2 z  卿大夫の私臣となっても、
# x1 H. y+ i2 r1 V  やはりその名が聞えるということです。」: {% O7 F8 a0 F( O" p
 
2 d" Y, o- u8 f4 @( |) Q8 T$ T 「それは[聞]であって[達]ではないよ。
$ [& P1 S' E0 `+ `  z7 b  本性が真っ直ぐで義を好み、. _! {0 a8 T+ f/ A/ v( O- w
  言葉や顔色から相手の気持を見抜き、
) D- [, @; O0 ]% N& i( g6 _  慎重に考えて他人にへりくだるようにし、
! b6 I- B7 h4 _" k! e( a! p4 X  その結果、おのずから、
% E6 f' N0 V5 f# p4 j3 C' q: M+ c3 i  諸侯に仕えても、卿大夫の私臣になっても、
) }$ `6 O9 e# x; R  誤ることがない、
0 K/ h9 V( C$ B0 b- F  こうなってこそ[達]といえるのだ。
' _) H+ t% m1 p+ Q" d2 [# v 4 j1 |  h8 p3 d" v, g1 q
  ところが、
0 T/ h7 r: Y5 E% w  仁徳ありげな顔つきをしながら、
, _+ w8 l% r7 ?0 q& T) N  道に外れた行いをし、1 [. a& ^9 X, V+ t0 Q
  しかもそれに安んじて疑わないでいると、  h, ^- L- N4 w
  諸侯に仕えても、卿大夫の私臣になっても、
$ K* N, @, [1 i7 e) b  やがて君子だなどと言われるようになる、( u% z8 W- B4 B# u6 x
  これが[聞]というやつさ。」             (顔淵篇): v! ^& q! _: s& B2 c$ A6 a
 
" h* N+ \# J4 X  N4 F ' a2 G5 Y* g, g& X( Y4 d$ J
 孔子は、子張の虚栄心を叩いたのだった。しかし、叩かれるだけ、子
, A9 w- A& h' i2 J! _張は、何ごとにも積極的で、自由奔放に自身を誇示しようとする所があ2 }/ m; P$ b, l5 b  D0 I; J4 a6 X
ったに違いない。3 C  q& L' C" y3 P! P" G7 [3 [
 
  I& X' P( }8 b7 K8 a 一方、子夏には、こうさとした言葉がある。
4 g, T, m" P! J) ?+ D" i 8 y; a) n; u1 W
 「君子儒になれよ、小人儒になるな!」         (雍也篇)
- N' H- S5 B9 l9 b7 F3 Y 
/ E, U' c5 P, E& `3 e+ B! F; {/ g" U 君子儒というのは、自身の修養を本義とする求道者のことで、小人儒
9 \( Z  p0 N6 P& F: J1 Uというのは、知識を得ることだけに汲々としている学者のことである。
. n+ N: C" {1 g3 n3 O* Rおそらく子夏は、やたらに金科玉条をかかえこんで、そのために身動き
4 U5 D& ]  n9 ?; B& K4 X+ Zのとれぬような所があったのだろう。# X& `9 Q1 |/ @# n3 e) ?" p
 
4 s3 v- ^* F! N/ T! T/ P この二人の比較を乞われた孔子は、子貢に答えていった。# ]# ^5 Q+ M2 n# C" L- ?% F! c
 ) P4 h/ }! D9 Z, X/ Y4 }2 R
 ――師(子張)や過、商(子夏)や及ばず。(師也過、商也不及。)(先進篇)
; H3 _2 E  f" ^7 [- ^0 y   (師は過ぎるし、商は及ばない。); r# T+ |+ g8 }8 X
 . W3 v/ W0 q/ M& b+ [( `6 |8 x
 「では、師の方がまさりますか?」+ N0 n6 w$ E" {9 V4 f
 
) |' v0 E/ K7 Z' @. n0 `5 o; b1 S ――過ぎたるは猶及ばざるがごとし。(過猶不及。), x" B5 z& B$ k2 ]  p7 l
   (過も不及と同じことだ。)
. `- Y8 j$ G; K5 G! e& c' w 
  r& [6 g' D" R! S5 w/ E 通常、これは[中庸]を教えた言葉と解されている。わかりよければそ; d6 N* j+ D% s  M+ y/ u
れでも差支えはないが、私としては[調和]を説いた言葉と解したい。孔* E  @% J, r# r  P7 y. a
子が追求した窮極のものが、自己と外界との完全な調和だったからだ。
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 楼主| 发表于 2005-6-21 08:43:02 | 显示全部楼层
清 談

* n' ~# m1 B1 W4 j, N" j' |' |7 g
$ M( y, y- R- }! a0 S世に“竹林の七賢”――竹の林に集いする七人の賢人達というのは、
1 s4 D. Z& \' ^! f/ G5 `& X魏晉(西暦三世紀後半)の時代に生き、その奇矯放達の言動によって世評
$ S/ d8 t. X- F) `' V3 jの中心になった一群の名士達、山濤(字は巨源)・阮籍(字は嗣宗)・稽康
! n) d) n2 b5 P- Z(字は叔夜)・阮咸(字は仲容)・劉伶(字は白倫)・向秀(字は子期)・王戎(濬仲)の七人をいう。
! a8 v3 P/ U1 Q- ~) P2 m 3 q# K6 C( n. _
 彼らは、その時代の目まぐるしい政治社会の変転を目睹し、政治的権
1 q+ G( F, d* p& Q: s5 P* B; X% P3 C力者とそれに追随する世俗的官僚士人の陋劣な生活態度にあきたらず、
  N8 J4 `: h* K! r) C欺瞞的な儒教的名教礼節の束縛を嫌悪して、ことさらに奇矯放達の言動
: k# p  h! a* z: L- u5 [$ uを敢えてし、飲酒への陶酔と超世間的な老荘思想への心酔に身を委ねた, j! a  N1 t' P( R% n; [
のである。
# O" N7 ~0 D7 ]2 t) q% k& D 
7 }4 H6 m" T. c9 t 
, K+ q8 s% t, r0 K5 Q “竹林の七賢”とよばれるのは、彼らが騒然たる世情をよそに相携え  M+ f* g& E0 A' D/ V
て“竹林”に遊び、酒に酔いしれては“清談”に耽ったからだという。
6 i8 I* t/ X5 fしかし、そのグループ的行動が続いたのは、魏朝末年のごく短い時期の
$ i/ t& V" B7 w4 ^ことであったと思われるし、その竹林の在り場所も当時の首都洛陽の近: r7 T. e& e# \2 p
郊というだけで、さだかなことはわからない。私達はただ“竹林”とい
6 F/ J' I6 h! L1 k/ I9 n. Nうことばから、世俗の塵埃から超脱した清高飄逸の雰囲気を象徴的に感$ X& i9 ~3 r9 V3 M6 n# K
じ取ればよいと思う。では“清談”とは何か。女三人よれば“姦”をな
' L0 h' n+ I1 E8 E6 |す。ましてや大の男が七人よって酒に酔いしれての“清談”ならば、ま
  w% u3 B& T* u1 ~& J& \/ pずもって“セイ談”すなわち風流滑稽談の類であろうと勘ぐるのは、し
$ {1 y. c0 X' s9 G8 H( o0 }4 Fょせん私達杏蓼涡愚たる所以であって、“七賢”ともなれば“清談”
+ C7 |; I# g' A9 C; C! Eとはすなわち清新奇警の談、つまり世俗の名利・悲喜を越えた高邁な精' M+ N% o4 S# {
神の自由の世界を主題とした、清新奇矯な老荘の哲学を論ずることであ3 Q! J6 U( U; L* F9 a
る。もっとも、今日現代の紳士諸“賢”には老荘の哲学など晦渋難解に
' J, P4 c' L; l+ x0 ~すぎるというのならば、必ずしも老荘でなくても良い。要は清高超俗の2 F: t' V" w4 \/ a$ b7 G0 S
談、それが“清談”と諒解して下さればよろしい。スタンド・バーでハ, D  Z+ @3 @; b7 h
イボールを傾けてカミュを論じても、今様“竹林の清談”にはなり得る, s( x% D! M4 A8 R4 b9 }6 W1 F
のである。
) ]6 ^1 @5 N1 x% ~6 Y 
/ f) u9 r4 K9 W& }9 _/ X! e 2 t# W9 Y% ?, k  n' d
 ただ何としても酒精だけは欠かせぬ。七賢をしてその名を高らしめた
6 I) R. X/ Q1 i' B* c- M9 c所以も、その酒への陶酔であり、それによって彼らは汚濁の政治世界か" d& r. m; A- ]
ら身を守り、名教道徳に抵抗したのである。浴びるほど酒を喰らって、3 t1 w! B; _) }* m9 U; g
下らない俗物の来訪者を“白眼視”した阮籍、豚と一緒に大甕の酒のガ
3 }- n+ R- w9 B2 ~: `/ w' ~5 H+ }& Vブ飲みを憚らぬ阮咸、酒くさい息をプンプンさせながら、素裸で家の中
' O2 Q( }( g) Y7 G9 F1 _: e9 e$ }にふんぞりかえり、訪ねてくる者に、2 X- J3 ^8 j% x8 Q4 F9 ~0 }2 G+ P3 ~
 - ]! N$ C7 m7 m$ [, ~, r7 r
 「わたしにとっては、天地が棲家、
! D" N. W9 H1 c  このボロ家なんぞは褌にすぎん。* m& J4 d9 X2 f$ E7 ?( ^7 I
  君は何だって人の褌の中まで入りこんでくるんじゃ。」6 z  `, X( f* M$ m" v
 3 b! {( |# p3 W# q) W( W
 と嘯いた劉伶などはその典型だが、このような彼らの行動をいたずら! a4 U! m; ^7 w# e0 f7 U% X* }
に外的に模倣するだけでは無意味である。人はすべからく、その中に、
, p! ]' k! ?9 y. D. Y: F; p/ B虚偽の礼教道徳を憎み、自然の純真率直を愛する内心の欲求、世俗名利
( ?  O+ P' Z+ Tの念をすてて精神の自由に生きんとする衝動を汲みとらなくてはならな* L4 e; J* z' }. q: {
い。
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 楼主| 发表于 2005-6-21 08:43:29 | 显示全部楼层
掣 肘

/ l) y! o1 E6 B9 ?; x8 u# q0 P# A* K9 C/ G" w6 G+ s
孔子の弟子にフク子賤という人があった。魯の哀公に仕えていて、亶
6 x5 Y. s# x% a+ l5 f父という地を治めることになったが、フク子賤は、魯公がそのうちつま
# \) D. J  ~+ bらぬ小人輩の讒言に動かされて、自分の思うような政治が行えなくなっ
5 P" L) n# t' k& n, p* u! p: m% uてはこまると思ったので、魯公の側近の役人二人をかりうけて、これと
8 h* Y' i3 C; N一緒に亶父に赴いた。任地について役人たちがみな挨拶をのべにやって8 L" h7 F3 t* |0 |
きたところで、フク子賤は、魯公のもとからつれてきた二人の役人に書3 u6 z. K4 w( {) q1 |  {; Q
類を書くことを命じた。
0 W' y+ I0 [! H/ Q' M4 N 9 |4 h, ]$ ]1 r" Q# _7 S+ f
 さて、二人のものが筆をとって書きはじめると、フク子賤はその傍ら
2 k0 w5 g' l- N5 r: ^  x% A* _にあって二人の肘をちょいちょいとひくのであった。できあがった書類/ N6 E5 b2 }# e7 Y5 {9 o1 A
は当然字画が曲ったり、ふるえたりしていた。しかしその書類を受けと
8 e4 ~  X1 F8 E% Pったフク子賤は、字がまずいといって二人を叱りつけたものであった。
2 v( P6 d+ l" s: T/ B# Tそこで大いに憤慨した二人は、ただちにフク子賤に辞任を申しでた。す  |" s/ i; b7 w5 H
るとフクは平然とこう答えた。
; o9 @( c; [1 f# @1 Y 
6 H- l5 F: k3 G, F% O/ d 「貴公らの書はまったくなってないね、( P. |3 T' N/ v7 r/ b8 J) k- p
  これじゃ使いものにはならないから、
7 w7 |/ _& j4 t( H8 l  お望みならばさっそく帰りたまえ。」
# J# r8 s' C( @" h 9 ]. u& M7 ~% D) B' f) |* K
 亶父を去って帰りついた二人は、その足で魯公に謁見してこう報告し8 L; Z0 E. ^% Q/ D& E$ \, K0 Y
た。
$ w' @6 G9 Z! k $ r/ F' e, b1 n4 H* d' W+ S
 「フクさんのためには、
/ G. {3 c; Z& p7 k) C) H- A  働くどころか書きものすらできません。」+ @" [  w- @) |- F# f
 : h9 J" x! Q8 V
 魯公がいぶかしんでその理由をきくと、
  A' S/ S% w4 p2 v . r# W, F2 m9 Z9 h1 {
 「フクさんは、いきなり私たちに書きものを命じましたが、
  U' S9 f* y+ @2 o3 `5 c( ~$ q& k  はたから肘を押えたり、つついたりするので、
. U" q! Z; K+ l/ x" R4 F! w  字が思うように書けません。5 d) v9 T4 a3 x
  それでいて、
1 t0 d$ V- g. \# u 2 a+ g9 K. |! _
  『お前たちの書はへたくそで使いものにならない』
% q7 ^0 K" f. \2 ^ / N" H2 I9 J0 W
  とさんざんお叱りになるのです。
2 h" W. z4 I! q% Y5 q  同座していた役人たちも、
0 P- s% p9 U$ ~  q$ d& K  みな笑っておりましたが、; _/ _9 s0 S5 S, ]
  こんな馬鹿馬鹿しいことでは、
: e" l, E+ q+ q& Q9 [: |  私たちには働きようがありませんので帰って参りました。」
1 M$ D* {4 s( E3 D* C 
8 s: {& h  i+ z というのであった。3 A6 x3 c' b9 ?6 }% h4 A. n% T
 9 }( u0 W% {) h" `5 ^
 これをきいた魯公は思わず嘆息していった。
( `2 f6 R( k- ? 
/ I) y( l  ]( L; x 「それは、私の不明をフク子賤が諫めようとしてのことだろう。
) x8 L4 N; y/ S3 ]4 v  おそらく私は、
- R/ e5 q. C, }4 i; Z  フク子賤の政治のやりくちを乱して、# M6 z6 R) T; ~8 x* L( p
  思うさまの施政をやらせなかったことが、0 I: q1 C) O9 s4 p; Z) N% T. r3 q
  度々あったのに相違ない。, F6 g  X9 |$ p# ?1 M; v1 B
  これを知らなければ大きな過ちをおかすところであった。」" V& I- m9 _. O. b6 Q3 e
 
; Q+ j4 J& ]  F2 F/ @' g+ C9 n こうして、自分の信頼する側近を亶父につかわしてフク子賤にこう告. n: L$ u, U; W! W8 v
げさせた。9 i8 k5 g, [4 f' [+ E  ^  h
 7 [6 V( {1 N4 K/ Q) Q9 M2 H! U& U
 「今からは、
! |2 s+ X, I( Y3 }6 h  亶父の地は私の所有でなく、( v# Q. F3 q" y, \
  子の所有である。
5 A! A9 L7 s' x3 i/ ~: N8 u  亶父でなすべきことは、6 U, Y& T! ^! c1 x5 H9 R; a- r: Q5 s# `
  子の思う通りに行って下さい。8 l1 F" ^7 @. v4 |8 J# e% m
  五年をへてからその報告をうけましょう。」
6 i6 e; |# i( J 
9 N8 m+ N+ B% E0 B フク子賤はつつしんでこれを承諾し、自分の思うままの施政にはげむ
" `2 q1 D# A* M" n" |ことができた。
, Y* f7 c3 Q. a, t 
  I% P# c$ N6 F+ @ その後三年をへて、巫馬旗というものが、ボロボロの百姓姿に身をや' R7 |) ]  B3 B  |" ]# r" |
つして亶父に赴いてその徳化のさまを見たが、夜、漁をするものがあっ5 s3 u9 ^5 a) C
て、せっかく網にかかった魚をまた河に放しているところに出会った。
7 x/ W& |5 k0 L/ @" A, E2 a不思議に思った巫は、その漁師にたずねた。& V% Q3 F/ T# }9 }
 
% J( ?$ Y& s4 f5 v 「漁をやっているのに、$ z, E. T  I2 Y9 J; m  [  Y5 A
  せっかくの獲物をなんで放しなさるのかね?」. ?1 n: X. C: T6 A+ Y+ U/ C4 g" V
 3 [* j" |0 X; y. d, o. Q* w/ v/ y
 「フク子賤さまが、6 N1 Z+ G; `) f' B
  小さいうちに魚をとってしまうのは、
/ W2 P4 @- R# r2 W  みんなのためにならんとおっしゃるだでな。
2 m! ?+ g& D/ v/ p3 |  小さい魚がかかれば放してやるまでだよ。」
7 w( I3 B) c+ B2 b) I 
# }( f8 M' g7 n+ b+ S" m という返事であった。3 I* V' I( Q4 S) b$ b- N7 K; H8 \; i) u
 9 w! ^$ W, J- E* C' U9 J7 [
 巫は大いにその治政に感嘆させられたということである。% L6 X! q! g1 V- w4 J
 
7 f+ B8 E% J* P0 { 
- l% K3 r( U& U! z8 X- T これは、「孔子家語」と「呂氏春秋」に見える話であるが、ここでは
, L8 a. U/ T; [/ ]1 _# @2 F, L「呂氏春秋」の「審応篇」によった。
. b5 W, o9 m7 t% @& M4 S             (「孔子家語」では亶父は単父となっている)
& K; O# z) L$ Y! H$ Z4 d! U( x; C& ^ 
$ a+ j+ g# j4 L0 ]8 F" g ; ~# y0 m; T4 \" E
 掣肘とは、この話にみられる通り、人の肘を制約してその動きを束縛8 V$ b- n; e! ^
すること、他人の自由を制すること、他人の仕事に邪魔をするという意
$ o1 J2 g' \- A2 j% D2 s; k$ `味をもっている。
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