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楼主: Jennifer

[经验方法] 連載《天声人語》想看中文版请去看1590楼最新公告

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发表于 2005-8-3 21:06:27 | 显示全部楼层
2005年08月03日(水曜日)付 ( ?  ?3 [) l& {7 c: i0 o
ふるさとへ、あるいは海へ山へ、多くの人が旅をする季節である。しかし、車で移動する人たちは、今年は複雑な思いを抱いているのではないか。日本をつなぐ幹線道路を造ってきた日本道路公団が、公団ぐるみで「官製談合」に関与していた疑いが濃くなっている。* M2 b+ j6 Q5 b. E, F0 ]5 V* [
4 y2 I  A1 O, `7 l- m% n
 もう一つの「談合」も浮上した。公団と国土交通省が、公団民営化推進委員会の懇談会への、幹部の出席を見送ったという。「事件が捜査中で委員の質問に答えられない」「談合対策で多忙」などと弁明しているようだが、両者間に「欠席談合」があった気配が感じられる。
& X5 L* ^0 _( _) j9 z, ?/ W0 x) G
 本来、推進委員会は、道路をめぐる構造的な問題を、広く深く検討する場のはずである。そこに背を向けるような姿勢をとるのでは、両者に日本の道路の将来を託すことはできない、との思いが強まる。, {% o5 j) }) e# V
& |) \. w- x: z% S1 n+ m) {6 v$ e, p
 公団が約20年前に刊行した『日本道路公団三十年史』に、終戦直後の道路の状況が記されている。「(昭和)20年度末における我が国の道路総延長は89万9000kmで、このうち舗装されていたのはわずか1・2%である」。戦後しばらくは、どろんこの道も多かった。# J% g/ ?8 t4 t  q
- r+ X/ Q" U4 ?* ^
 昭和21年、民俗学者で歌人の折口信夫が「日本の道路」と題した一文を書いている。「まつ直な道、うねつた道、つゞらをり、光る道、曇る畷道、さうした道の遠望に、幾度魂を誘はれたことか」(『折口信夫全集』中央公論社)。0 H1 Y& }- k8 Y/ q9 G

5 S1 O# M; D0 ?: t$ m2 J2 ~1 K 人に寄り添っていたはずの道が、国や公団、業界のものになってはなるまい。戦後60年、この国の道を本来の姿につくりかえる時である。
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发表于 2005-8-4 16:11:08 | 显示全部楼层
2005年08月04日(木曜日)付
3 V% w9 P( }5 e. E+ S! [1 }昨日の朝6時ごろ、出張先の宿で目が覚めた。朝刊を手にテレビをつけると、飛行機が燃えている。カナダの空港に着陸した直後のエールフランス機だという。垂直尾翼が地面近くから突き出ている。胴体は壊れたのか、ほとんど見えない。鼰煠悉搿. x( j2 n. `+ ^0 b# L  y

$ I- _3 N9 f( D, P2 Q 大惨事かと思ったが、幸い、そうではなかった。300余人全員脱出、死者なし、けが人は軽傷、などと続報が流れた。滑走路からオーバーランし、衝突、炎上で結果がこれなら、よほど幸撙丐胜盲郡韦坤恧Α%圣坤芜輸相は「奇跡としか言いようがない」と述べたという。
6 {6 g4 w' U! e4 G& R# B% a: n( {# i) b) I, M; I. o
 「奇跡」は、なぜ起きたのか。想像するのは、全員が脱出し終わるか、それに近いころまで炎が広がっていなかったということだ。# `% L6 `2 u4 R2 N+ U1 ?

% h# X7 K. ?. c3 F, L7 f9 @ 迅速な動きと冷静さが、結果を決める。亞Tの的確な指示と伩亭蚊羲伽蕦潖辍f力が欠かせない。詳しいことは不明だが、人の動きと、出火の時期や火勢、くぼ地に突っ込んだ時の速度などの要因が掛け合わされて「奇跡」がもたらされたような気がした。
! h" ]4 G" z* {" {/ M8 I; r& T. G& I; e$ i0 ~" @
 帰京する新幹線で、猛スピードで後ろに飛んでゆく車窓の景色を見つつ思った。新幹線の速度は、ジャンボ機が滑走路に着陸する時の速度に近い。もし翼があれば飛びそうな速度で、これだけ大量の輸送を重ねながら、長年事故がない。これも、一つの「奇跡」とは言えないだろうか。. I; |$ Z  a9 V1 C$ A

" e* Z, X9 P+ ~4 M. L. Y0 H 安全確保のために昼夜を分かたず励む、数多くの人たちがいる。天災など、人知を超える事態もいつかは起こり得るが、この「奇跡」は、いつまでも続いてほしいと思った。
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发表于 2005-8-5 16:30:07 | 显示全部楼层
2005年08月05日(金曜日)付
% c, r! V4 }$ u- K1 \暑い時分には、塩味はやや濃いめで、酸味も強めが望ましい。これは勝手な好みでしかないが、料理に味の加減はつきものだ。足す引くだけではなく、割ったり掛けたりもする四則演算の舞台である。
% D5 b0 u& K# y' t, _! f& Z- i# t/ S2 N# s) E1 Y
 料理をすると「脳」が鍛えられる、という記事が本紙に載っていた。料理を習慣づけると、前頭部の血流が良くなり、判断したり計画を立てたりする脳の機能が上向くそうだ。材料を、加減伋撬激ねà辘巫摔任钉耸松悉菠搿kyしい課題に挑むことに通じる気はする。
" J0 G, ~3 X$ m( k* f! p" g  v, M& T2 C# z0 b0 K
 帝国ホテルの総料理長として活躍し、84歳で亡くなった村上信夫さんは「料理は腕で作るのではなく、頭で作るもの」と書いている(『村上信夫のフランス料理』中央公論社)。波乱に富んだ人生を思えば、「頭で」の意味合いは、そう単純ではなさそうだ。8 Q6 R6 c& z, Z9 `. ]! O7 n. V1 ]" q

( ~. {" u% _. a' G 東京・神田の大形餮罅侠砦荬松蓼欷郡I親を早くに亡くした。小学校に通えたのは6年生の2学期までで、3学期からは洋食屋で働き、仕事の合間に登校した。卒業はしたが出席日数が足りず、ひとりだけ卒業証書をもらえなかった。  t; P1 b* p+ o

1 P: [- U* y# S" J5 O- A 67歳の時、NHKの番組で、母校の小学校の子供たちにカレーづくりのコツを教えた。お礼にと校長先生がくれた卒業証書に、「昭和九年三月二十四日」と書き込んだ。「卒業証書をもらえない卒業式の日付を私は半世紀あまりも忘れたことがなかった」(『週刊朝日』)。) @* P0 i- w' }1 }6 W% x/ `4 q, h# N
6 P. V7 K. h. E4 u4 a5 ^- F
 フライパンのような丸顔と笑顔が魅力的だった。その風貌(ふうぼう)のようにふくよかな味の世界には、ちょっとしょっぱい人生の味加減が利いていたようだ。
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发表于 2005-8-8 12:58:54 | 显示全部楼层
2005年08月06日(土曜日)付 3 r6 c& k- y4 M* C# p7 ^. R) L
きょう、広島市の平和記念公園では、被爆から60年の平和記念式が開かれる。式場に近い図書館の庭に、英国の詩人、エドマンド・ブランデンの詩碑がある。
7 E+ Z! b* v, _5 S( V! W& N6 G# J! r5 l+ B# g
 「かの永劫の夜をしのぎ はやもいきづく まちびとの……とはに亡びし もののあと たちまち動く 力あり」。戦前、東大で英文学を教えたこともある親日家のブランデンは、被爆から3年後の広島を訪れ、焦土から立ちあがろうと力を尽くす人々の姿にうたれた。+ ^- @6 [! {9 B. M- z& {; V

! E) F. b4 ^" J3 U. J 「ヒロシマ よりも 誇らしき 名をもつまちは 世にあらず」。末尾には「友・寿岳文章 訳」とある。
, ?& R6 U8 y8 L4 p" d
. q7 Q0 j: H* z5 f/ \ この60年、「ヒロシマ」と「ナガサキ」は、反核兵器のメッセージを世界に発信し続けてきた。原爆の惨禍を展示した平和記念資料館に置かれている「対話ノート」にも、外国人の書き込みが目立つ。ノートは900冊を超え、約90万人のメッセージから326人分を収めた『ヒロシマから問う』が出版された。1 }0 m# Z7 E" _; w+ ^

  X6 s2 y- C( N9 S$ [ 原爆を投下した米国人に、二通りの感想が見える。「このミュージアムは私の国の間違った行為について私にはっきりと教えてくれました」。「このミュージアムは、世界平和のための希求よりも、日本人に対する哀れみのための希求をより印象づけようとしているようだ」) {& X0 b+ D( w& s3 `0 G+ i9 n9 d

( t) g* I+ w" y3 v 感想はどうあれ、広島、長崎に来れば、核兵器を使うことの実相の一端に触れることができる。いつの日か、米国の大統領が広島、長崎を訪れ、その実相と向き合う時は来るだろうか。せみ時雨に包まれたブランデンの碑の前で、その日が遠くないことを願った。
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发表于 2005-8-8 12:59:27 | 显示全部楼层
2005年08月07日(日曜日)付
, w. I6 x. I# J* x5 W作家の堀辰雄が4歳か5歳で見た花火の群肖斡洃洡颉赣啄陼r代」に書いている。ものごころつく前だったのに、花火見物の人波に押されて母の背で泣きじゃくったことは鮮明に覚えていると。年譜によれば明治40年ごろ、東京・隅田川の花火を見たようだ。  z1 b% ]0 A* a" H. t$ T* r
2 k7 V: Q; P5 k" d* Q3 d+ z. y! ^
 隅田川の花火は徳川吉宗の時代にさかのぼる。江戸庶民に人気のあまり雑踏事故が何度か起きた。明治の半ばにも橋の欄干が崩れて数十人が転落死した(小勝郷右『花火-火の芸術』岩波新書)。% G4 K8 P6 w* _* V& c( z$ n" k

  \2 z! @0 i. q  h; {$ m 今年も全国で大小700もの花火大会が開かれている。どこも資金不足に雑踏対策が重なって、かなりの難事業になりつつある。たとえば千葉県の印旛沼花火大会の場合、毎年30万人を集める行事だったが、今夏は中止された。4年前に兵庫県明石市で起きた事故の教訓で警備費が膨らみ、一方で協賛金が集まらない。
' I# i) \( ?% E, v3 C* W0 ]$ C. J4 s  Y. u' r, t
 主催の佐倉市観光協会の斉藤啓光さんは「明石の事故は各地の花火を変えた。どこも警備費を増やし、観客の誘導が綿密になった」と話す。以前なら50人で足りた警備員を昨年は299人雇った。* c$ Z1 E3 t' s' k
. m+ z0 ^: a! V* H
 花火での雑踏事故は海外にもある。英国では18世紀、王族の結婚を祝う花火で群星摔匹啷捍à塑灓猜浃沥俊%螗堀弗ⅳ扦霞s10年前、国王誕生日の花火に市民が殺到して死者が出ている。/ Z0 ]3 Q7 o& W: L# d# X$ H
+ m; \: f& B- t/ a# ^' s
 「地獄絵図さながらの群集雪崩」。明石の惨劇を、神戸地裁の判決はそう表現した。善意の群肖郡沥蓼了摔蜓氦筏膜证贡┝ψ爸盲藟浃铯搿¥ⅳ尾坤丹蛐丐丝踏撙膜摹ⅳ长蜗膜猡嗓长恰⒁箍栅虿胜胍凰菠蚊坤驑Sしみたいと思う。
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发表于 2005-8-9 15:26:18 | 显示全部楼层
2005年08月08日(月曜日)付 ! X5 q& J4 @# ?- I& }
前日が新聞休刊日でしたので、この日の「天声人語」はありません。ご了承ください。
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发表于 2005-8-9 15:26:46 | 显示全部楼层
2005年08月09日(火曜日)付 * {( g9 j. A* t* `# `
被爆60年の取材のため、長崎に来ている。昨日の参院での郵政法案否決の場面は、本社の長崎総局のテレビで見た。) I0 g" u; F" |9 B$ s

; z9 k- }, l2 e. ]' `/ ]& M* W' z 「江戸の敵を長崎で討つ」という言葉が思い浮かんだ。意外な所で、あるいは筋違いのことで昔の恨みをはらすという成句だ。この解散には、「参院の敵を性氦怯懁摹垢肖袱膜蓼趣ΑC钉堡欷小附瓚酩螖辰馍ⅰ工P院から見れば、通り過ぎていったはずなのに戻ってきた「ブーメラン解散」でもある。
% i% g3 k# R. Q2 ^# V  D0 Q, G, H& L; z. a) \/ G2 U
 これを「筋違い解散」と呼ぶ向きもあるだろうが、世間一般の受け止め方はどうだろう。昨今の八方ふさがりのような気分を転換して、見通しの良い世の中に向かうきっかけになるのなら解散もいいという機撙猡ⅳ毪瑜Δ馈
' M# A( p) x7 h0 [! g! i: T. K6 o, Z: K/ e- M! |
 前回の03年の解散は、かなり前から解散説が流れていたので衝撃は小さかった。予告された「透け透け解散」とか、解散の大義が見えにくい「大義なき解散」などと、本欄で呼んだ覚えがある。" I% G7 H* }- g8 m7 N4 P

9 K& S& I. I5 M  J; J 今回は、決着の間際まで小泉首相の一言が注目された。「殺されてもいい。おれは総理大臣だ」。首相にとっては、「いのちがけ解散」ということか。「かむんだけど、硬くてかめないんだよ」。首相との最後の談判の後、森・前首相は、つまみに出されたというチーズのかけらを手に「変人以上だ」と評した。「超変人解散」とでも言いたいところか。
5 L* i& _6 O/ c9 F9 e% E8 C( [& y% d+ V/ ?/ o8 U: p  k
 首相は「おれの信念だ」とも述べたという。強い「信念」を持っているのは確かのようだが、問題はその中身ではないか。「おれの信念解散」に続く総選挙では、その中身を改めて吟味したい。
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发表于 2005-8-10 14:31:24 | 显示全部楼层
2005年08月10日(水曜日)付 % S! I% O( \/ C' w6 T
9日午前11時2分、長崎市の「原子爆弾落下中心地」の碑の下から空を見上げた。太陽が目を射る。60年前のその時、地上約500メートルの所で原爆が炸裂(さくれつ)した。! L8 E* `. ]$ m: t1 v
# D6 \: I) W' I3 {
 太陽が落ちてきたようなありさまを想像する。直後の映像や被爆した人たちの証言、原爆の資料館の展示などを念頭において周囲に目をこらし、また瞑目(めいもく)して考える。来るたびにそうするが、実際に何がどうなったのかを想像できたというところには、とうてい至らない。やはり、人間の想像をはるかに超えるおぞましい行為が人間によってなされた現場というしかないのか。
! O, f; X1 c) t, d
1 n# D  F3 J3 I, o# m 8日、爆心地から1キロ余りの所にある長崎大学の構内の慰霊碑の前で、花に水をやる女性がいた。今年で70歳という女性は、小学校5年の時に被爆した。爆心からやや離れた自宅に居たため生き延びたが、当時この地にあった兵器工場で働いていた父親を失った。「遺体も見つかりませんでした」。60年間、父は行方不明のままだ。
! I" f# O" `5 D5 t3 t1 ], L3 j) V7 r  N& v7 u  e
 9日、爆心地近くの丘に立つ浦上天主堂で「被爆マリア像」が公開された。もとは大聖堂の祭壇に飾られていたが、あの日、わずかな側壁を残して建物が吹き飛んだ。後日、木の像の胸から上だけがみつかった。
6 n  X, r) D6 f* ^8 H) u
2 ]. e# R* s- F 間近に見ると、ほおや髪が焦げている。眼球が抜け落ちた両の目は、Δ膜恧恰⒌字欷胜ざ膜伍湦韦瑜Δ馈5 N$ ?1 ^6 q: B6 g: z& l/ q+ E2 C

$ M! d- B: `% M' L* V いたましい姿だが、不思議な生命力を感じさせる。像の失われた部分は、長崎であり、広島ではないか。マリア像はその存在の証しであり、その記憶を未来に伝えようとしているように思われた。
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发表于 2005-8-29 22:21:04 | 显示全部楼层
2005年08月29日(月曜日)付
& }7 x+ u, b. Q. X8 l8 ~8 O! zあすの公示から、総選挙は本番を迎える。残暑が続くなか、あの騒々しい候補者名の連呼が始まる。そう思うだけで汗がにじむ。7 a7 j+ o) {* c* B

/ |# x7 _2 a  C4 Q ところが今夜、ピタリと止まる政治の動きがある。正確に言えば、30日午前0時をもって、公職選挙法によって「動かすな」と言われる。インターネットでの邉婴馈:蜓a者のホームページは更新が禁じられる。活動報告のメールマガジンも配信できない。投票依頼の電話がかけ放題なのとは対照的だ。金権選挙を防ぐための法律が、膨大な情報を速く安く伝える手段を封じている。/ ?' k& D0 m7 f8 l, q# m, @

1 k' h  A) M( [; ? 米国ではネット選挙が当たり前だ。昨年の大統領選では「ブロガー」が注目された。ネット上に個人的な書き込み「ウェブログ(weblog)」を載せる人たちで、共和、民主両党の大会にも招かれた。討論会でブッシュ大統領の背中が膨らんでいた「無線機疑惑」も、彼らが情報源だった。
, @8 W1 W& U% `# ]2 M/ c# s
$ s) L% I+ V7 k) T9 [ 韓国の盧武鉉大統領は、ネット上のファンを現実に組織化して勝った。選挙当日には投票率の経過発表ごとに「いま○○パーセント。君は行ったか?」というメールが飛び交った。
( |& C8 U  g) T4 p0 Y* F* M2 z5 R( n% u9 D6 ~* A2 u
 日本でも3年前、総務省の選挙研究会がネットの一部解禁を促した。なのに国会は法改正をしない。「お年寄りの支持者が多い党に不利」「中傷に悪用されないか」。こんな慎重論が自民党などに多いからだ。
0 E* Z# p; P: b7 L" x3 \! X4 f; [* q3 y( [5 b6 e
 公約の解説や候補者の選挙中の本音がネットで読めれば面白い。有権者が探して見に行くので受け身でない選挙体験にもなろう。「あと一歩、最後のお願いです」なんて絶叫もメールならうるさくない。
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发表于 2005-9-1 21:26:55 | 显示全部楼层
2005年08月30日(火曜日)付
- _4 i5 r- z# P3 W吾輩(わがはい)は「刺客」である。名前は言えない。人前で言えるような仕事でもない。吾輩に仕事が来た流血の時代はとうに過ぎたはずなのに、現代の日本で「刺客」が飛び交っていると聞いて驚いた。  a' K  Q, X0 \2 ~  A

2 z, }! i0 ]6 W 民主主義社会について、哲学者カール・ポパー氏も言っていたというではないか。流血を見ることなく、政権を交代させる可能性のある体制だと。今の日本はどうなったのかと思って来てみたら、実際には刃傷ざたはないというので、ひとまずほっとした。6 ^9 \6 q- D5 C9 U% l3 {2 C5 `9 o

0 }0 G* i' P0 V$ Q# o 先日、政権党が、候補を「刺客」と呼ばないでほしいと報道機関に申し入れたという。吾輩とは逆に、表舞台に立つ人たちだが、元気で楽しそうに殴り込んでいる面々も居るようだ。
4 X9 k4 Z/ o% B: v3 M9 e0 |" |, r
4 o0 J' w, C7 }3 m( M# m 党首の小泉氏は「別に『刺客』とか言うつもりはない」と言っていたが、この人の言辞は、相変わらず独特だ。郵政法案が参議院で否決されて解 散した日には、あのガリレオを引き合いに出した。「地動説で有罪判決を受けたとき、『それでも地球は動く』と(ガリレオは)言った」& @0 \+ x, e6 u. }% c$ y: V/ P9 Y
9 c, H& a3 j' O5 R& l$ p
 法案の正当さを地動説にたとえて強調したかったのだろうが、中世の闇の中の宗教裁判に重ねるのは、闇をかいくぐって生きてきたような吾輩からみれば、やや無理がある。参院でだめなら即総選挙という手を使ったとも聞いたが、現代日本の首相の権力も、なかなか絶大なものだ。
  ^% D8 y; A. u2 R/ O& }
# d5 k3 s4 z. E3 G+ ], W+ x7 \4 J: O. V 今日は、その総選挙の公示日らしい。そういえばポパー氏は、流血なしに政権交代を可能にする手だての一つとして選挙をあげていた。来たついでに、吾輩も結末を見守ることにしよう。
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发表于 2005-9-1 21:27:18 | 显示全部楼层
2005年08月31日(水曜日)付
( ~/ r" y6 x9 u3 ~; T3 J最近の言葉から。戦後60年の8月がゆく。広島県海田町の鼮仴榨单长丹螭蠚皶姟啢堡长菠骏亥堀螭耸证蚝悉铯幻撙搿趰u市で被爆して亡くなった夫、原八朔(やいち)さんがはいていた。「母の後は私がズボンを守り続けます」と娘の村上隆子さん。
6 d" c( h% d% A; W5 m" i2 G8 X: ]0 m5 r; i) |$ k
 韓国には、被爆しながら被爆者援護法の対象外にされたままの高齢者が400人以上いる。鄭外先(チョンウェソン)さんは申請に必要な証人が見つからない。「手帳をとるのは、天の星をつかむようなものです」! I$ T3 c- o8 l1 N7 v/ A3 [
7 j+ f3 Q+ _2 D3 q9 S( |8 S- @
 「今度こそ双方が対立に終止符を打ってほしいというのが、痛めつけられた住民の切なる願いだ」。津波で住民の8割以上が死亡したインドネシアの村の村長が政府と独立派ゲリラの和平調印で述べた。# N% O# R0 A8 q3 X# u

  H& H( s6 L; A1 k 少年院や刑務所の篤志面接委員らの手記集が出版された。DJの西任白鵠(にしとあきこ)さんは、撮る角度で様々に写るカメラを例えに、少年たちに語りかけたという。「人はみな物の見方も違えば、考えも違う。君たちもそのままでいい」 。  s$ o0 \4 h9 k3 ^' X
8 w+ s! e: f- y
 後味の悪さが残る甲子園大会だが、長崎県立の清峰が、さわやかな風となった。初出場で優勝候補を次々破り、ベスト16に。甲子園が「普通の高校生でも練習すれば行ける場所と分かった」とエースの古川秀一君。+ A0 }# ?6 y$ Q6 C/ g! K

8 s& V! M% x- u# K/ E3 d 骨肉腫のため昨秋13歳で亡くなった福岡県大牟田市の猿渡瞳さんの作文「命を見つめて」が教科書に採用される。「戦争や、平気で人の命を奪う事件、いじめを苦にした自殺など、悲しいニュースを見るたびに怒りの気持ちでいっぱいになります……本当の幸せって、いま、生きているということなんです」
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发表于 2005-9-1 21:27:41 | 显示全部楼层
2005年09月01日(木曜日)付 9 N, o( t2 [3 Z8 S
1923年、大正12年9月1日の昼前、寺田寅彦は東京・上野で絵の展覧会を見た。11時58分、喫茶店で紅茶を飲んでいるときに、関東大震災に遭う。
) K! z' @/ R, m' G0 c6 |! S0 u# D8 A( {0 r
 両足のうらを下から木槌(きづち)で急速に乱打されるように感じた。物理学者でもあった人らしい表現だ。次いで、大きな揺れが来た。われ先に出口に駆け出す人たちがいる一方、ビフテキを食べ続ける客もいた。) X9 U. v% c3 ^3 M2 n0 @% W
. `: g. {5 B6 ^) K" V! {! z
 震災時の東京を、作家の著作で横断的に見ると、揺れや被害は場所によってかなり違った。家の被害が瓦の落下程度だった芥川龍之介は、早々と見舞いに出かけた。室生犀星には、子守車にサツマイモやジャガイモをいっぱい積んで届けた。
" j# `" G# u+ ], T  o5 ~. V1 D0 {' O! ]* M% p4 J# d  R9 G
 犀星は、生まれたばかりの赤ん坊と妻が入院していた都心の病院が焼けたと知らされる。避難先は不明という。その夜はほとんど眠れず、翌日上野の公園を捜し回ってようやく妻子と出会った。8 o4 n  G# D4 M4 e

- w  o6 @8 }( l0 p, u& e 幸田露伴の娘、文は、1日が19歳の誕生日だった。住まいは隅田川の東方で、被害はさほどではなかったが、傷ついた避難民が続々とやってきた。萩(はぎ)すすきが見ごろの庭を休み場に開放したが、誰も入ろうとしない。人々は放心してたたずみ、みとれ、涙をこぼしたという。* Q6 v, l( w8 R
" r$ _% L7 `  e- w) T' M0 u9 _
 芥川が、佐藤春夫に言っている。「地震だからいまいましいよ……たゞ自然が四寸動いただけなのだ……不服の持って行きどころがない」。芥川は、震災で燃える東京を「大いなる溶鉱炉を見るが如し」と記した。自然が動くのは、いまだに止められない。しかし炎の炉の方は、少しでも小さくなるように備えてゆきたい。
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发表于 2005-9-7 17:20:39 | 显示全部楼层
不错,收藏啦
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发表于 2005-9-9 22:00:08 | 显示全部楼层
2005年09月03日(土曜日)付
) K# M: o4 z3 ]  w: R; T* F( C; A& pラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、日本に移住する前、米ルイジアナ州のニューオーリンズで記者として働いていたことがある。その時代に記憶して後に本にまとめたことわざに「水は絶えず川に向って流れる」がある(『ラフカディオ・ハーン著作集』恒文社)。
# A3 N3 O' m* r% V3 X: N
. I0 P2 U8 \4 ]$ `1 O: M( h# ? 大型ハリケーン「カトリーナ」に襲われたニューオーリンズで、湖や吆婴蔚谭坤蚱皮盲克薪证肆鳏燹zんだ。街より周りの湖やミシシッピ川の水面の方が高い所が多く、ことわざとは逆に水が絶えず街に向かって流れようとしているような場所だ。危険性が指摘されていたのに、堤防の強化はなされなかった。
/ q8 d$ d/ w4 f  A
/ a+ a4 o  J# X: |- H& z0 w 行政の対応には、まだ疑問がある。地震とは違い、ハリケーンは刻々と近づく「予告された災害」だ。対策をとる時間はあった。常襲地帯の住民が怖さを知らないはずもない。6 l+ K- |5 ?" X1 @$ s% b6 O

; }; L. I* e" o" O! L3 V 避難命令は出されていた。しかし逃げる手だてを欠いた人たちが多く、犠牲になったらしい。行政側は避難のための車の手配や近隣の州との連携を十分とっていたのか。警告を出すだけでは責任を果たしたとはいえまい。
9 s# N! ~4 w, N7 ^% L( |9 I( @2 _: C* X
 ハーン編のことわざ集にはこういうのもある。「思案が彼の頭に居つくと、足には居らぬ」。頑固さについてのことわざで「人に足を動かすことを強要できても決心を変えさせることはできない」の意だという。
) M4 q( v' _6 E1 t
- e' D# H6 e% T8 b( h, ^/ a 災害時には、足を動かすように促されても動けない人がいる。軽くみて、動こうとしない人がでることも考えられる。それを前提にして、住民の全体が速やかに足を動かせるように導く計画が必要だ。
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发表于 2005-9-9 22:00:49 | 显示全部楼层
2005年09月04日(日曜日)付
$ S; d1 ]) B: j$ ]% n南北戦争の英雄だったグラント元米大統領は明治の初めに来日し、天皇と握手を交わしている。随行した米紙記者が、その場の天皇の緊張ぶりやぎこちなさを強調し、「歴代天皇で初めての握手」と報じた。2 l" C& S9 L/ L- S! T4 A
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 歴代初かどうか定かでないと断りつつ、ドナルド・キーン氏もこの握手の模様を『明治天皇』(新潮社)で詳しく紹介している。どんなに不慣れでも、握手は開国日本が避けて通れない作法だった。
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  Z% b9 T3 q: N, E/ ^" m  f 維新より前は宮中にも庶民にも握手の習慣はなかった。今でも日本人同士はまずしない。出張先の外国でやむなく握手することはあるが、気恥ずかしさが伴う。できれば省きたいとも思う。
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0 }% z' o/ e* p/ v+ g( c0 P 先日、性哼xの女性候補が、面談した岐阜市長に握手を拒まれる一件があった。帰り際、候補が「じゃ握手でも」と求めると、市長がやんわり断った。特定候補に肩入れしない姿勢の表れだったが、テレビで報じられると、「非礼だ」「大人げない」と批判が集中した。
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  x4 U, K, Z8 X/ K( H" K! i$ ? 昨年秋、球界初のストをめぐる交渉でも握手拒否が話題になった。席上、球団側代表が笑顔で差し出した手を、古田敦也選手会長がきっぱり拒む。球団側の甘い顔にだまされてなるものかという決意が感じられ、こちらは広く共感を呼んだ。4 C) L, W3 T+ H9 a. a: e
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 あいさつ文化に詳しい国立民族学博物館の野村雅一教授によると、お辞儀や会釈が伝統の国々にも握手文化は浸透しつつある。それでも「握手史」の短い人々には、握手はするのも拒むのも難しい。あまり強く握ると粗野な印象を与えるが、日本人は概して握り方が控えめだそうだ。
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