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发表于 2005-11-14 21:19:24
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2005年11月13日(日曜日)付, g1 z2 g+ R" }! K
60年前の今ごろ、米占領軍は日本のどこかに危険な兵器が隠されていないか調べ回っていた。東京・駒込にあった理化学研究所も疑われた施設の一つだ。4 D4 A, Z* I/ j8 E6 V3 ^
& S4 [5 `" ^' c- k+ w2 r9 O 11月下旬、米将兵らが現れた。「原子爆弾を作る機械だ」と決めつけ、粒子加速機サイクロトロンを壊しにかかる。重さ200トン、同位体や原子核など先端研究に欠かせない装置だ。
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「何かの間違い。占領軍から使用許可を得ている」。開発に10年を費やした仁科芳雄博士がいくら訴えても、将兵たちは耳を貸さない。解体して東京湾に沈めた。無念のあまり、博士は吐血して病に伏した。+ `2 |: |" C+ y, Z" e4 s; s& {
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「核物理の分野では高水準にあった日本が、サイクロの破壊で10年は後れをとった」。東大名誉教授で仁科記念財団理事長の山崎敏光さんは語る。海中投棄が報じられると、米科学界からも「恥ずべき蛮行だ」と非難の声がわいた。, h, J/ K& b& d& ]0 U3 D* f
" ]: z2 `/ A/ ]4 ] 仁科博士の業績を伝える特別展が昨日、東京の国立科学博物館で始まった。海に消えた巨大装置の設計図のほか、後進たちと交わした手紙も公開された。戦前、中間子理論を米学者に酷評された湯川秀樹博士は「心外だ」「心細い」と書き送った。慰める仁科博士の復信が温かい。「せっかくの新理論だ、何とか仕上げよう」と。3 Z: e, c8 o" d( K& M0 f% C. X; p
. d* k' f2 n# g o 書簡を整理した中根良平・元理研副理事長は筆まめぶりに驚いた。多い年には湯川博士が関西から3日に1通を出し、仁科博士も東京からこまめに返した。心通う便りの行き来がなかったら、湯川理論は完成せず、復興日本に希望を与えた初のノーベル賞もなかったかもしれないと考えた。 |
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