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楼主: asuka0226

[好书推荐] [山田風太郎] 忍法帖系列 おんな牢秘抄

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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:43:17 | 显示全部楼层
 ――その翌朝、お竜のところへかけてきたお関が、
「お竜さん、お竜さん、いったいどうしたの。十日ちかくも牢にかえってこないから、もしかしたら――と思うと、あたし、心配で、心配で――」
「玄々教に祈っていてくれた?」
 と、お竜に笑われて、お関は顔色をかえた。恐ろしい想い出なのである。お竜は冗談がすこし過ぎたと|狼《ろう》|狽《ばい》して、
「お関さん、町じゃあ、どうやら玄々教のお手入れがあったらしいよ。ずいぶんいかさまな宗門で、いろいろむかしの悪事も出てきたらしい。まえの玄妙法印もたいへんな悪党だったとわかったようだから、あなたの罪もかるくなるんじゃないかしら?」
「まあ! それ、ほんと?」
 お関はぱっと眼をかがやかしたが、
「お竜さん、あなたは町へ出たの?」
 お竜はいよいようろたえたが、やっと、
「ああ、|穿《せん》|鑿《さく》|所《じょ》でちょいといためつけられたものだから、品川の|溜《ため》へいってきたんだよ」
 といった。溜とは、牢内で重患が出た場合にうつす病棟だ。
「え、溜?」
「じゃ、|娑《しゃ》|婆《ば》のようすはどうだったい?」
 それをきいて、ガヤガヤと女囚たちがあつまってくる。囚人にとって、どんなに浮世の風が恋しいか――おそらく辛い悲しい世間であったろうに――それは|渇《かつ》えたものが水の音をきくにひとしかった。この牢内からも、ときどき奉行所または火附盗賊改役所へ召喚されて取調べをうけにゆくことがあるのだが、たとえいって拷問を受けることがわかっていても、なお呼び出しを受けたものが|羨《せん》|望《ぼう》の眼をあびるほど、途中の風物は彼らにとって無上の魅惑であった。
 お竜はひどくこまった表情で羽目板におしつけられていたが、ふいに口笛を吹いた。――ややあって、例のごとく牢格子の外に、同心の姿があらわれた。
「武州無宿お竜、早々穿鑿所へ|罷《まか》り出ませい!」

 |浅《せん》|草《そう》|寺《じ》境内――五重の塔と大|銀《いち》|杏《よう》にあかあかと初夏の夕日がさしている。
 その奥山に立ちならぶ水茶屋、見世物小屋、また、大道講釈、居合、|独《こ》|楽《ま》廻し、刀の刃わたり、麦湯売り、薬売りなどの香具師のまわりに群れている人々――ここばかりは、いつも縁日のようだ。
「やいやい、この|婆《ばば》あ」
 突然、大きな声がした。むしろをしいて、竹でつくった|蛍籠《ほたるかご》を十ばかりならべた老婆のまえに、いなせな|哥《あに》いが、三人|仁《に》|王《おう》立ちになっていた。
「だれにことわって、このショバをとりゃがった?」
 婆さんは耳が遠いらしく、
「はいはい、ありがとうござります。孫娘がながの患いでな、薬を買う銭がねえので、この婆が夜なべに作ったものでござります。不細工なものを、これはまあ、おにいさん方、御親切さまに――」
「なにをいってやがる」
「おれたちにことわって、ここにコミセを出したかってきいてるんだよ!」
「――へ、三つ買って下さるので?」
 キョトンと|巾着《きんちゃく》みたいな顔をあげる婆さんの眼のまえで、いきなり三人は足をあげて、ばりばりと蛍籠をふみつぶしにかかった。
 ――その一瞬、うしろからびゅっと飛んできたひとすじの|縄《なわ》が、三人ひとまとめに、くるくるっとしばってしまった。
「あっ、畜生」
「だ、だれだっ」
 と、身をもがきつつ、三つの首をふりむけると、
「|三岐大蛇《みまたのおろち》、この珍物を三|文《もん》で売ろう、だれか買うものはないか?」
 と、ひとりの武家娘が、笑いながらあるいてきた。縄じりをとって、|颯《さっ》|爽《そう》たるものだが、顔は童女のごとく愛くるしい。
「て――て――てめえ、なんだ?」
 と哥いたちは狼狽した。武家娘というのにも面くらったし、それにいまの手練の縄さばきにはいっそう|胆《きも》をつぶした。
「この老婆の孫はわたしです」
 と、娘はにこにことして、人をくった返事をする。
「ここに店を出すのに、おまえたちにことわらなくちゃいけないの? おまえたちは、観音さまの家来?」
「えっ、おれたちが観音さまの家来?――こいつあ参った。降参だ」
「そんなことをいうと、|罰《ばち》があたるぞ」
 娘はとうとう吹き出した。
「それでは地獄の|牛《ご》|頭《ず》|馬《め》|頭《ず》か。そうであろう、さればによって不動の|羂《けん》|索《さく》で縛ってつかわした」
 あっけにとられていた群衆が、やがて面白がってぞろぞろあつまってきたので、三人はあわて出した。りきんでみたが、縄はゆるまばこそ。
「何でもいい、とにかくこの縄をといておくんなさい」
「あっしたちゃ、何もこの婆あを非道にいじめようってんじゃあねえ。この境内に、コミセ、三寸、コロビ、ボクヤ、ごと[#「ごと」に傍点]師、ぬけ打ち――|香《て》|具《き》|師《や》はいっさいうちの親方の御支配を受けることになっているんだ」
 武家娘は、縄をといてやりながら、うなずいて、
「その親方とは?」
「仁王門のデブ亀親分ってんでさ」
「それじゃあ、そのデブ亀のところへ、わたしをつれていっておくれ」
「へ、お娘さんを――なんの用で?」
「三岐大蛇を売りたいゆえ、親分のおゆるしを得たいのじゃ」
「まだ、あんなことを――」
 と、ひとりが眼をむくのに、もうひとりがその横ッ腹をひどくついた。ふりかえって、眼顔でおしえられて、気がつくと、そばにいつのまにかひとりの八丁堀同心が、腕ぐみをして立っている。いまの問答をきいていたにちがいないが、一言もいわない。
 三人はいよいよこの武家娘の素性がうすきみわるくなった。
「デブ亀は、どこに住んでいるの?」
「|蛇《じゃ》|骨《こつ》長屋で――」
「左様か、それではそこへ案内しやい」
 ふらふらとあるきかかるうしろから、娘は声をかけた。
「お待ち、このお婆さんに、籠代をはらっておゆき。おまえたちの踏みつぶした分だけ。――一つが一|分《ぶ》」
「そ、そんなばかッ|高《たけ》え蛍籠があるもんか」
「わたしはこのお婆さんの孫だから、ねだんは知っています。あ、六つも踏みつぶしたね、それではぜんぶで一両二分」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:43:37 | 显示全部楼层
    紅無垢鉄火

     一

 蛇骨長屋という名は神秘的だが、むかしここから蛇の骨が出てきたからというだけのことで、長屋の名称ではなく、地名だ。いまの田原町の一部にあたる。――
 ここに住む|香具師《や  し》の親方、仁王門のデブ亀は、三人の若い女を|侍《はべ》らせて、酒をのんでいた。仁王門とはいうが、背は五尺あるかなし、ただし、デブの名にはそむかず、|臼《うす》か|樽《たる》のようだ。眼は恐ろしく大きく、鼻はあぐらをかき、なかなか迫力がある。
 |香《て》|具《き》|師《や》というものが、決してばかにできない力をもっていることは、その世界に無縁なはずの現代のわれわれでも、尾津組とか安田組とか極東組とか芝山一家などという名を知っていることからでもわかる。
 親分のことを帳元といい、その下に、|帳脇《ちょうわき》――世話人――若衆と、厳然たる階級があり、縄張りのことを庭場といい、その統制のきびしさは、|博《ばく》|徒《と》にまさるともおとらない。
 さて、デブ亀帳元のまわりに侍っている三人の女は、いずれも二十歳前後、そのうちふたりは、どっちもズングリムックリ、眼だけ出目金のごとく巨大で、鼻はあぐらをかいているところをみると、親分の娘で、姉妹だろう。あとのひとり、酌をしているのは、蚊とんぼのごとくほそい女で、これは親分の後妻――というより、|妾《めかけ》だ。
 やがて、帳脇が、庭場から召しあげてきた|場代《あがり》をもってくる時刻だ。――と思っているところへ、ばたばたと三人の|哥《あに》いがとびこんできた。
「親分」
「な、なんだ。なんだ」
「お客人だ」
「なに、客人?」
 ふりかえるデブ亀の眼に、哥い連中のすぐあとから、つかつかとひとりの武家娘が入ってくるのが映った。デブ亀の眼はぐるりとむき出され、鼻の穴はいよいよひろがった。その武家娘が――
「敷居うち、御免なすって下さいまし」
 といって入ってくると、三足すすんで一足とまり、また三足すすんで、こんどは半歩ひくと、両ひざをまげ、まげたひざに両手をついて、
「これは御当家の親分でござんすか。おひかえねがいます」
 といったからデブ亀はとびあがった。|狼《ろう》|狽《ばい》しつつも反射的に、やはりおよび腰になり、ひざに手をあてて、
「客人、|旅《たび》|法《ほう》もございましょうが、おらくにお着きなさいまし」
「お言葉にしたがいまして、着かしていただきます」
 というと、娘は右ひざをつき、親指を内におりまげた右手をたたみについて、デブ亀をひたと見つめ、
「|無《ぶ》|様《ざま》がひきつけまして、失礼さんにござんす。御当家の親分さんならびにお|姐《あねえ》さん、かげながらおゆるしをこうむります。むかいまする|上《かみ》さんとは、今日はじめて|御《ぎょ》|意《い》を得ます。したがいまして、手前生国は江戸にござんす。江戸と申しましても、いささか広うござんす。江戸は八丁堀――」
 あっけにとられていたデブ亀は、このときはじめてわれにかえった。じろっと|乾《こ》|分《ぶん》のほうをみて、
「おう、こりゃいってえなんだ。きちがいにしても、そもそも、どこのどなたさまだえ?」
 若いものたちが口をもがもがさせているあいだに、娘は一気につづける。
「手前、兄と申しますのは、八丁堀同心巨摩主水介でござんす。名前の儀はお竜と発します。しがないものでござんす。お見知りおかれまして、万端よろしくおたのみ申します」
「な、なに、巨摩の旦那」
 デブ亀はすッとんきょうな声をはりあげたが、すぐ恐ろしい顔になって、
「こいつ、いよいよとんでもねえ|女《あま》だ。巨摩の旦那に妹さまがあるかねえかは知らねえが、八丁堀同心の妹さまが、こんなふざけた真似をするものか。やい、おれは巨摩の旦那とァ|親《しん》|戚《せき》づきあいをしてる男だぞ。人を|白《こ》|痴《け》にするのもいいかげんにしゃがれ」
「――ところが、仁王門の、ふざけてはおらんのだ」
 と、座敷の外で声がして、ぶらりと入ってきたのは着流しに捲羽織――音にきこえた八丁堀の|伊《だ》|達《て》姿だったから、デブ亀は息をのんで、絶句した。
「こ、これア巨摩の旦那!」
「久しぶりだな、仁王門の――親戚づきあいをしているお方へ、|無《ぶ》|沙《さ》|汰《た》をして相すまなんだ」
「そ、そんな……旦那、そうからかわないでおくんなさい」
 と、デブ亀は眼を白黒させて、
「旦那、いってえ、これアなんてことです?」
「実ア、ちょいとおめえにたのみがあるんだ」
 デブ亀はちらっときみわるそうに娘の方を見たが、あらたまった顔色の巨摩主水介に、
「承りますでございます」
 と、膝がしらをそろえた。
「仁王門の、おめえ、秀之助って野郎を知らねえか?」
「秀? 秀を御存じでごぜえますか!」
 と、さけんだとたん、デブ亀は|凄《すさ》まじい形相になった。
「旦那、秀のいどころを御存じなら、おしえて下せえ。あの野郎、見つかったら、たたッ殺してやんなきゃならねえ」
 主水介はめんくらった。
「仁王門の。秀がどうしたんだ」
「あの野郎は……ちょいと見込みのある奴だと、おれも眼をかけてやりやしてね。若衆から世話人へ、世話人から帳脇へと、身内の奴らの苦情もふみつぶしてとりたててやったあげく、うちの姉娘の婿にして、仁王門の一家をつがせてやろうとまでしたんだが、あの野郎、無断でずらかってしまいやがった」
 恐ろしい鼻息がもう一方から噴出される音に、主水介はふりかえった。ズングリムックリした|臼《うす》みたいな娘がふたり、怒りに顔をまっかにして、鼻の穴をひろげていた。ははあ、これでは秀之助とやらが逃げ出すわけだ、と主水介は苦笑して、
「それはふとどきな奴だな。しかし、そんなふとどきな野郎を、婿にしねえでかえって倖せだったろう」
「旦那、それが……恥をいうようでござんすが、あん畜生、娘に手をつけてからずらかっちまったんで――姉の方ばかりじゃねえ、妹の方まで……」
 主水介はあきれかえった。これは、相当ないかものぐいだ。なんにしても、それではデブ亀が怒るのも当然で、ふたりの|臼娘《うすむすめ》が|鼻嵐《はなあらし》を吹くのもむりはない。
「それはいつのことだ」
「去年の|梅《つ》|雨《ゆ》どきのことで――旦那、秀はどこにいます?」
「それをききに、ここまで来たのだ。が、いま話をきくと、おまえも秀の行方は知らねえ様子。――それじゃあ、弥五郎って奴あ知らねえか?」
 デブ亀は急に興味をうしなったように肩をおとした。
「弥五郎? きいたことがねえな、うちの身内じゃあねえ」
 と、乾分をふりむいて、
「おい、てめえら、弥五郎って知らねえか?」
「弥五郎……あいつじゃねえかな?」
 と、|哥《あに》いのひとりがいうと、もうひとりが、
「親分、秀之助の兄貴は、去年の春ごろから、たしか|賭《と》|場《ば》で知った弥五郎ってえ男と、ちょいちょい酒などのんでいましたぜ。そういえば、あの弥五郎ってえ野郎も、兄貴がいなくなったころから、どこの部屋の賭場にも姿をみせねえようだ」
 主水介はしばらく考えていたが、
「では、おまえたちは、弥五郎という男はあんまり知らねえんだな」
「へえ、とにかく|香具師《や  し》の仲間じゃねえようですから」
「――秀ってのア、どこの生まれだ」
「たしか紀州だってききました。ああ、それから三つちげえの妹が国元にいるとかいってたっけ。……そのほかにゃ、むかしのことアあんまりいいたがらなかったようです」
「では、そっちへ飛びでもしたかな。そうなると、ちょいとつかまえられねえな」
「旦那……秀が、何をしたんで?」
「さて、それが、秀之助があらわれなきゃあ、わからねえ」
 と、主水介が腕ぐみをしたとき、いままでだまってきいていた武家娘が声をかけた。
「主水介、わたしは、秀之助か弥五郎か、うまくいったら穴から追い出せる法が一つあると思う」
 主水介の妹と名乗っていた娘が、主水介と呼び捨てにしたので、デブ亀は大きな眼をいよいよまんまるくして、
「旦那……こ、こ、このお嬢さまは?」
「亀、余人にはあかさぬという誓いをいたすか」
「へ、口はばってえようだが、旦那、香具師にはね、五本の指にかけて、仲間の秘密は金輪際あかさねえっていう|掟《おきて》があるんです。――」
「ならば、申す。これは南町奉行大岡越前守さま御息女霞さまであらせられる」
 わっとさけんで、|平《ひら》|蜘《ぐ》|蛛《も》のようになってしまった一同――いや、デブ亀およびそのふたりの娘は、ふとった芋虫然ところがってしまったが――そのまえで、町奉行の御息女は、澄ました顔で、
「さっそくおひかえ下すって、ありがとうござんす。お見かけどおりの若年者でござんす。今日からお見知りあって、御引立のほどをお願い申しあげます」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:44:03 | 显示全部楼层
     二

 その夜のうちに――江戸の香具師、博徒、|丁半《ちょうはん》好きの旦那衆、渡り中間などのあいだに、ふしぎな風評が立った。浅草の香具師の大親分仁王門のデブ亀が、三日のちに大鉄火場を開帳するというのである。むろん、主だったものには正式の廻状がまわったのだろうが、|噂《うわさ》によると、そこに百両もった女がくるというのだ。それはデブ亀のもと乾分秀之助の妹だとかいうことでその女が何か念願のことがあって、一世一代の大ばくちをやりたいといっているというのである。しかし、その女が、どうして百両などという大金を|賭《か》けにつかう気になったのか、その念願とはどんなものか、その点はあいまい|模《も》|糊《こ》として、いっそう人々の好奇心をそそった。
 三日めの夜――浅草寺裏あたりの|或《あ》る料亭の二階に、廻状をもらった人々が続々とあつまった。
 階段下の受付で、仁王門一家の若い衆が客をさばく。廻状を受けない人間でも、顔で通されるものもある。その受付に若い衆にまじって、ひとりの美しい娘が坐っていた。蒼白い、病身そうな娘が、妙にひかる眼で客の顔をのぞきこむので、人々は、それがデブ亀の娘でも妾でもないから、さてはこれが例の秀之助の妹か――と思った。
 しかし、それはちがった。いよいよ賭場がひらかれると、あっと息をのむほど美しい別の女が登場したからだ。その美しさが――彼らのいままで知っているどんな美女ともまったく性質を異にする。身なりは|婀《あ》|娜《だ》たる|姐《あね》|御《ご》|風《ふう》だが、その顔は、|玲《れい》|瓏《ろう》と白光をはなって、まるで百万石の大名の姫君のような気品すらある。
「――お……あれか」
「秀にあんな妹があったのか」
「秀も役者のようないい男じゃああったが、これア人間ばなれがしておるの」
 そんな嘆賞のうめきをもらしているうちに、あの女なら百両はおろか千両もっていてもおかしくはなく、その百両を賭けようと、捨てようと、どんなとっぴなことをしようと、あたりまえみたいな気になってくるから、ふしぎな魅力をもった娘だ。
 ――けれど、当人にどんな魅力があろうと、|骰《さい》|子《ころ》ばかりは無情であった。それに彼女は|素《しろ》|人《うと》らしい。……
 夜がふけ、賭場が白熱してくるにつれて、彼女の紅潮した頬にほつれ毛が散り、その愛くるしさと気品に|凄《せい》|艶《えん》さが加わって、なんとも名状しがたい|妖《あや》しいばかりの雰囲気がかもし出されてくるのを遠眼にみつつ、
「あの秀の妹、もとは女泥棒だったってよ。――」
「姫君お竜とかいう。――」
 というおどろきを秘めたささやきがながれるようになったが、そんな素性の女にしては、おそろしく丁半のカンがわるい。
 たたみ三枚をつらねた通し|盆《ぼん》|茣《ご》|蓙《ざ》、一方に十人あまり|丁座《ちょうざ》のものがならび、そのまんなかに貸元のデブ亀が坐っている。反対側にやはり十人くらいの半座のものがならび、まんなかに中盆と|壺《つぼ》|振《ふ》りが坐っている。
 ガラガラッと壺が伏せられると、中盆が、
「どっちも、どっちも――」
 と、|丁方《ちょうかた》、|半《はん》|方《かた》のコマ数を見くらべながら、
「丁方ないか、ないか。ないか丁方っ」
 と、上ずった声をあげる。
「コマそろいやした」
「よし、勝負っ」
 壺振りがぱっと壺をあけて、
「丁!」
 ――姫君お竜のくいしばった唇のあいだから、「ちっ」というようなうめきがもれた。彼女は半に賭けたのだ。彼女の百両はすでにあらかたなくなったと、一同は見ていて、非情の鉄火場ながら、暗然とした。
 お竜は眼をすえて、丁方の連中をながめわたしていたが、ふいになに思ったか、
「貸元」
 と、呼んだ。
「むむ、なんだ?」
 と、デブ亀が近づくと、お竜はその耳に口をよせて、ひそひそとささやいた。
 デブ亀親分のあぐら鼻が大きくひろがって、しばらくまじまじとお竜の顔をみていたが、やがて大きくうなずいて、
「おれが丁方にまわりてえくれえだ」
 と、つぶやいて、もとの席にもどった。ぐるっと一同を見まわして、
「お竜のからだに百両賭ける奴あいねえか?」
 と、ニヤリとした。あっとみな口をあけたきりである。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:44:19 | 显示全部楼层
     三

 一両で米五石が買えた時代だ。百両をいまのねうちに換算すると、約六百万円にもなるだろうか。これだけ負けも負けたりだが、その金額にじぶんのからだを張るとは――とうとうこの女、のぼせあがったとみえる――とかんがえた男たちは、しかしひとりもなかった。
 のぼせあがったのは、男たちの方であった。見るがいい、すでに|髷《まげ》もガックリくずれ、一方の袖を肩までまくって、大あぐらをかいているお竜の形容を絶する|妖《よう》|艶《えん》さ、|絖《ぬめ》のような|雪《せっ》|白《ぱく》の肌、吸いついたら弁慶でもこたえられそうにない唇がにっと|笑《え》んで、珠のような歯がひかっている。
 しかし、それにしても百両とは! だいいち、それだけひとりで持っている奴がない。
「おまえさん、どうだえ?」
 と、お竜は、まえの丁座に坐っている男をのぞくように見て笑った。
 恐ろしく人相のわるい男だ。左眼がつぶれ、右半面はうすぐろい|痣《あざ》があって、それがぐいとひきつれている。この怪物みたいな男のまえに、勝った三十両あまりの金がつまれているところをみると、勝負の神は、人相には不感症とみえる。
「金がねえ」
 と、彼はうなるようにいった。しかし、一つ眼が異様なひかりをおびて、じいっとお竜の姿をなめまわしているところをみると、怪物、大いにみれんがあるらしい。
 お竜はまるで珍らしい動物でもみるように、へいきでその男を見返していたが、ふいに、
「いいよ、その金で」
 と、いった。
「なに?」
 一同が、どっとどよめく。お竜は何と思って、そんなことをいい出したのか?
「おまえさんの|面《つら》が気に入ったよ、あたしが勝ったら、足りないぶんだけ、おまえさんに裸踊りでもしてもらおうか」
「そんなことアたやすい御用だ。だが、それでいいのかね。今夜はおいらアついてる、おめえはついてねえ。おれが勝つのアわかってら。おれが勝ったら――」
 歯が、カタカタと鳴った。お竜は艶然と、
「ああ、あたしのからだを抱かしてあげるよ。煮るなり焼くなりどうとでもしておくれ」
 怪物は、きみわるい声をたてて笑ったが、だれも笑わなかった。その男のいうとおりだ。賭けごとというものは、つかないとなったら、金輪際つかない。お竜の敗北は、火をみるよりもあきらかであった。しかし――この怪物に、この美女を自由にさせる! その夢魔的空想は、人々の心をかきむしらずにはいなかった。
「それでは、やるか!」
 怪物は、一つ眼を火にして、|咆《ほ》えた。お竜は、きっとなった。
「壺っ」
 と、デブ亀みずからわめいた。
 壺振りの若いいなせな男が、|湯《ゆ》|呑《のみ》|茶《ぢゃ》|碗《わん》ほどの|籐《とう》であんだ壺皿に|骰《さい》|子《ころ》を二つ入れ、ガラガラッとふって、ばっとふせ、左の掌をこっちへむけて、扇みたいにひらいた。なんのいかさまもないというしるしだ。
「丁」ドスのきいた男の声。
「半!」りんりんとひびくお竜の声。
 鉄火場に、息のつまるような静寂がおちた。
「勝負っ」
 壺振りは、さっと壺をあげて、同時に、作法どおりいままで向うむきにしていた左の掌を、ひらとかえして、壺のわきへついた。――男の一つ眼が、かっとむき出された。
「半」
 賭場に、うなるような|溜《ため》|息《いき》がながれた。骰子の目は、一と二、まさに半! おのれの美しい肉体を賭けた大ばくちで、お竜はみごとに勝ったのである。
「その金をもらおうか」
 と、お竜はしずかにいって、かすかに笑った眼で相手をみつめ、
「それから、約束どおり、裸おどりをみせてもらうんだね」
 男は、無念の形相ものすごく、なおみれんげに盆茣蓙のうえの骰子をながめている。はじめて、笑い出したものがあった。壺振りの男だ。それにつられて、みんなどっと笑ったのは、たんに緊張がとけたせいばかりでなく、美しいものがまもられたという|安《あん》|堵《ど》感からであったろう。この怪物の裸踊りなど、だれも見たくはなかった。――ところが――
「やい! 裸にならねえか!」
 凄まじい声で、デブ亀が大喝した。男はとびあがり、あわててきものをぬぎ出したが、なおあっけにとられたふくれっ面で、
「何もそうどなるにア及ばねえじゃあござんせんか。へっ、おどれァいいんでしょう」
 と、ぬっとはだかで仁王立ちになった。
 お竜の眼が、キラリとひかると、ふりかえった。壺振りの男が向う鉢巻をとって、背後の一升徳利に手をのばすと、ざぶっとその|手《て》|拭《ぬぐ》いにかけて、つかつかとその裸男の|傍《そば》にあるいてきた。
「おい、おめえ、死んだはずじゃあなかったかえ?」
 と、壺振り男にいわれて、彼はキョトンとして、
「おれが、死んだ?」
「一年|前《めえ》――親父橋の下で――」
「な、な、なんのことだ」
「水死人の左の二の腕にあった一代無法の|刺《いれ》|青《ずみ》――それとおなじものがてめえのここにある!」
 ぐいと左腕をつかむと、もう一方にさげていた手拭いで、力いっぱい怪物の顔をぬぐった。
 あまりにも思いがけない壺振りの行為に、鉄火場にいたものすべてが息をのんで見まもるまえで、裸の男は、|忽《こつ》|然《ぜん》とべつの顔になっている。つぶれていた片眼はひらき、痣はとれ、半面をゆがめていたひきつれも消え|失《う》せていた。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:44:55 | 显示全部楼层
    おんな牢酒盛

     一

「これアだれだえ?」
 と、お竜がふりかえると、そのうしろからひとりの娘があゆみ出た。さっき階段下で、いちいち客の顔をのぞきこんでいた病身そうな娘だ。
「どうもそうらしいと思って、廻状にない客で通した人のひとりだけれど」
 と、つぶやきながら、その娘はそれでも信じられないような|茫《ぼう》|然《ぜん》とした眼を、まじまじと相手にそそいで、
「おまえは、やっぱり弥五郎さん。……」
 といった。
 グロテスクなメーキャップをぬぐいとられた弥五郎は、ふしぎな壺振りの男に腕をとられたまま、棒のようにつっ立ったきりであった。――その顔をみて、お竜が笑った。
「ははあ、これが弥五郎ってえ男の顔かえ。江戸のどこの泥ンこにもぐりこんじまったかわからないその|泥鰌面《どじょうづら》を、うまくしゃくい出す網にはちょいとこまったよ。おまえの殺した秀之助の妹が、一世一代の大ばくちをやると噂にきいて、思わずふらふら網にかかってきたくなったろう。それでも万一のことをかんがえて、それだけ|煤《すす》やら|膠《にかわ》やらをこすりつけてきたのア感心だ」
 一歩二歩あゆみよって、
「おい、弥五さんとやら――二十年まえに別れて、いまはひッそりと日蔭にくらしている女のうちにおしかけて、妙なからくりをして人間ひとりを殺し、あろうことかその罪をおっかぶせようとア、あんまりひどい仕打とは思わないかねえ? 百足あるきだの、七夕の短冊のいたずらだの、雨夜の軒下のひとりごとだの――いくらお半さんだって、お波ちゃんのことがなけれアひッかかりはしなかったろうが、お波ちゃんがおまえに百足あるきをのませて、親父橋でおまえがとびこんだのをみて、すっかり病人みたいになっちまったので、そのこわがりようが母親のお半さんにうつっちまった。お波ちゃん可愛さの一心で、よくもかんがえないでお半さんは自首してしまったのだけれど、そんな母親の情愛をちゃんと勘定にいれて|罠《わな》にかけるとア、なんて畜生なんだろう」
 笑ってはいるが、怒りに顔が紅潮している。
「秀之助の刺青は法の一字、おまえの刺青は一代無法。……おまえ、秀之助の刺青の上に、一代無しとつけ加えて彫りゃがったな。が、死人にまともな刺青はできねえはず。おそらくおまえをさがしに出た秀之助をつかまえて、法の字の上にむりに三字を彫り、生きながら顔をたたきつぶして思案橋の下へほうりこんだろう。いつか、お半さんが|夕《ゆう》|闇《やみ》のなかで、秀とおまえをひょいと見まちがえたように、からだつきだけアふたりよく似ていたのも眼のつけどころだった。――かんがえただけでも、身の毛のよだつむごい仕草だ」
「おい、秀之助にどんな恨みがあったんだ」
 と、壺振りの男がいった。
 弥五郎は口をぱくぱくあえがせていたが、きしり出すように、
「秀に恨みがあったんじゃあねえ。お半に恨みがあったんだ。二十年めえ、おれを裏切りゃがった恨みがよ。……」
「うそをつけ。世のなかに、二十年まえにふられた女に恨みをはらすのに、あれほど手数をかけるすッ|頓狂《とんきょう》な男があるもんか」
 と、お竜がたたきつけるようにさけんだ。
「彫物の痛みはなみたいていのものじゃあないという。秀に法の字の刺青があるのをみて、じぶんに一代無法の刺青を彫ってちかづいたのア、よほど秀に|曰《いわ》く因縁があった証拠だ」
「泥鰌、八丁堀の水で洗って、泥を吐かしてやろうか」
 壺振りの男がいった。八丁堀の同心だ! とはじめて気がついたとき、弥五郎はたったいまの丁半がいかさまであったことを知った。
 八丁堀の同心が、あれほど水際立ったいかさまばくちのやれるわけがない。うまく教えた奴があるな――と、はっとして見わたすと、仁王門のデブ亀が、ぶきみな笑顔でこちらをにらんでいる。
「おい、秀の|敵《かたき》だ。旦那にお手数をかけることアねえ。ふんじばれ」
 あごをしゃくると、どどっと周囲に|乾《こ》|分《ぶん》がうごく。万事休す。
 そのとき、人間とは思われないようなさけびをあげて、ふたりの娘がとび出してきた。いずれおとらぬ|盤《ばん》|台《だい》|面《づら》が、手にすりこぎ様のものをもって殺到してくる凄まじさは。――
「わっ」
 とさけぶと、弥五郎は夢中で壺振りの――いや、巨摩主水介の腕をふりはらってとびのいていた。床の間につまずいて尻もちをつくと、手が偶然にその隅に置いてあった油徳利にふれた。彼ははねおきた。
 秀之助の敵と知って、狂乱したようなデブ亀の二人の娘が、思わずはっとして立ちどまったとき、弥五郎はもう一方の手に、そばの行灯をつかんでいる。
「やい、みんなそこをどけ」
 彼は歯をむき出した。
「それとも、みんな|火《ひ》|達磨《だるま》になりてえか? こう油をまいて――」
 一代無法の腕がおどると、油は雨のように、ざあっとふたりの娘の頭上にふりかかる。
「次に、この行灯をなげつけると――」
「あっ、待ってくれ!」
 と、デブ亀が恐怖のさけびをあげて両手をのばした。一瞬の油断で、形勢が逆転したのだ。大広間にいる一同は、みんな|土《つち》|気《け》|色《いろ》になってしまった。
「みんなおとなしくしろ。――いいか、おれが階段のところにゆくまでジタバタする奴があったら、行灯をこのふたりのデブ娘にたたきつけるぞ。――やい、ほかの奴はうごくな、二人だけ、おれのまえをあるけ」
 せせら笑って、弥五郎が悠々と、二歩、三歩、あるき出そうとしたとき――ふいに彼は、行灯を抱いたまま、あおむけにひっくりかえった。胸の上で、ぽうっと炎がもえあがる。
「てめえが火達磨になるがいいや!」
 さけんだのは、お竜だ。彼女は稲妻のようにかがむと、弥五郎ののっていた三|帖《じょう》つらねの|盆《ぼん》|茣《ご》|蓙《ざ》をいきなりひいたのである。
 巨摩主水介のからだが飛び、デブ亀の乾分たちが|雪崩《なだれ》のように殺到した。
 弥五郎がさんばら髪のままとりおさえられたとき、そばにころがってもえている行灯を、ていねいにふみ消していたお竜がふりかえって、にっこりした。
「旦那。……」
 主水介は、しかししぶい顔であった。
「どうやらこれで、おんな|牢《ろう》の四人めの女の命を救えたようだ……」
 そして、ふと気がついたらしく、|蒼《あお》い顔で立ちすくんでいるばくちの常連の旦那衆たちにおじぎをした。
「旦那方、そんな泥人形みたいなお顔をしないでおくんなさいまし。今夜の鉄火場は大目にみるどころか、この捕物にみんな一役買っていただいて、お奉行さまから|御《ご》|褒《ほう》|美《び》が出るそうでござんすよ。おやかましゅう。――」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:45:13 | 显示全部楼层
     二

「やい」
 小伝馬町おんな牢のなかで、穴の隠居のお甲がどなった。――女囚たちがからだをかたくして、声もなく見まもるなかで、おせんという若い女がふるえている。
 例によって、おんな牢独特の私刑がはじまろうとするのである。原因は実にくだらないことだ。お甲が、おせんに髪を|梳《す》かせているうちに、|櫛《くし》がお甲のあたまにできていた|腫《はれ》|物《もの》にさわったというだけのことだ。
「だいたいこの腫物も、こないだてめえが櫛をたてやがったのがもとだ。おれにどんなうらみがあるのかしらねえが、牢内役人様に妙な意趣がえしをしようとアとんでもねえあま[#「あま」に傍点]だ。もうかんべんならねえ」
 と、サンバラ髪をふりたてて、
「おせん、のまねえか?」
 と、いった。
 おせんのまえに、汁もっそう[#「もっそう」に傍点]が一つおいてある。
「やい、穴の隠居のいうことがきけねえというのか!」
 おせんはあわててその汁もっそう[#「もっそう」に傍点]をとりあげて、口へもっていったが、一口のんだだけでもっそう[#「もっそう」に傍点]はふるえ、汁がこぼれた。これはただの汁ではない。にがいほどの濃い塩汁なのだ。
「こいつ、なんてもってえねえことをしゃがる。牢内じゃひと|杓子《しゃくし》の塩だってなみたいていの苦労じゃ手に入らねえんだぞ。礼をいってのめ。……おう、ありがた涙に手がふるえてひとりじゃあのめねえというのか」
 と、いうと、うしろをふりかえって四、五人の女囚にあごをしゃくった。
「てめえら、のませてやれ」
 女囚たちは、一瞬ためらったが、もういちどわめかれて、はじかれたようにおせんのまわりにあつまった。
 ひとりが、おせんをうしろから抱く。ひとりが顔をあおむけにさせる。ひとりが|椀《わん》を口のそばにもってゆく。――
「やい、こぼしゃがると、こぼした奴にも塩汁をのませるぞ。まだこの|面《めん》|桶《つう》にたっぷりとあるんだ」
 やむなく、ひとりが「おせんさん、かんにんして――」と小声でいうと、おせんの鼻をつまんだ。苦しげに、おせんの口がひらく、そこへ、がぶっと塩汁がながしこまれた。
「どうだ、うまいだろう、もう一杯のめ」
 お甲は笑った。
 牢名主の|天《かみ》|牛《きり》のお紺も、お路に肩をもませながら、ニヤニヤしてこの無惨な風景を見物をしている。私刑というより、これは牢内の娯楽である。いまではすっかり神経が異状になって、|娑《しゃ》|婆《ば》にもこれほどぞくぞくするようなたのしみはあるまいと思う。
 これから、まだまだ面白いことがつづくのだ。しばらくたつと、おせんはきっと水をもとめてもがくだろう。水をもらうためには、どんな恥ずかしいまねでもやるだろう。さんざんじらして、こんどは逆に、おさえつけてでも、白い腹がさけるまで水をのませてやる。すると、その次には。――
 そのとき、牢の外で声がした。
「これ、何をしておる?」
「御牢法によって、牢内のお仕置をいたしております」
 と、お紺がへいきでこたえると、役人は、
「左様か」
 と、うなずいて、
「|牢入《ろうにゅう》がある。泉州無宿お|倉《くら》、五十七歳!」
「おありがとうございます。――」
 と、お紺がきっとなってこたえると、牢内役人たちはおせんなどほうり出して、いそいでそれぞれの部署につく。
 やがて――|乞《こ》|食《じき》の女房にはだかにむかれたひとりの老婆が、貧乏のしみついたようなくろいからだを、尻からけとばされて、戸前口からころがりこませてきた。
 待っていたひとりの女囚が、ぱっとあたまに獄衣をかぶせると、例のごとくキメ板で、そのやせた尻をピシピシとたたく。老婆はひいひいと泣いて、かまきり[#「かまきり」に傍点]みたいに手足をもがかせた。
 あたまにかぶせられた獄衣をとられたところへ、下座に|坐《すわ》っていた本役が、例のシャベリを洪水のようにあびせかける。老婆はふぬけたようにそれをきいていたが、ふと穴の隠居のお甲の顔に視線がとまると、
「まあ、おまえもこんなところに――」
 と、奇声を発した。
 こちらでもどこか見おぼえがあったとみえて、まじまじとお倉をのぞいていたお甲が、ふいにぎょっとして顔をそむけたが、新入りの老婆は眼をまんまるくして、
「へえ、やっぱり……|岡《おか》っ|引《ぴき》の女房でも、牢に入るのかねえ!」
「なんだと?」
 お紺の眼が、ぎらっとぶきみにひかって、お甲の顔にはしった。
「お甲が、岡っ引の女房だと?」
 女囚たちは、恐怖のさけび声をたてた。お甲の顔色は鉛色にかわっていた。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:45:32 | 显示全部楼层
     三

 女囚たちが恐怖のさけび声をたてたのは、岡っ引の女房であるお甲を恐ろしがったのではない。そのつぎにお甲の身の上におこることを予想して、ふるえあがったのである。
 |天《かみ》|牛《きり》のお紺は、じろっと新入りのお倉に眼をもどして、
「おい、てめえ、お甲を知ってるのかい?」
「はい。もう十年もまえのことでごぜえますが――大坂でな、このひとは、まむしの|金《きん》|八《ぱち》という御用聞の女房でごぜえましたよ。青大将のお甲といわれてな。町じゅうのきらわれもので、あたしなんかどんなに泣かされたことか。――」
「お甲、それアほんとうかえ」
 お甲の髪の毛は、恐怖にさか立つようだった。
「へ、へえ――けれど、亭主はもう五年もまえに死んじまって――」
「ええ、ほんとうかときいてることに返事をすれアいいんだ。そうか、岡っ引の女房だったのか。てめえ、|身性《みじょう》をかくして、おれにうそをついていやがったな」
「お、お名主さん!」
 この恐ろしい女が、手をあわせて、お紺をおがんだ。
 ――理非善悪にかかわらず、岡っ引は、|御判行《ごはんぎょう》の裏をゆくものの敵である。とくにこの牢に入ってくるようなものは、かならずその手にかかって縛られたものである。しかも、当時のならいとして、その取調べは相当手荒いものであったから、罪人の岡っ引に対するうらみは骨髄に徹していた。そこで、坊主にくけりゃ|袈《け》|裟《さ》までにくいということわざどおり、もし牢へ入ってくる岡っ引などあろうものなら、たとえ本人たちがその岡っ引とはなんの関係もなかろうと、うらみを全体におよぼして、凄まじい|復讐《ふくしゅう》がその岡っ引のうえにあれ狂う。この世のものとは思われないほどむごたらしい私刑がくわえられたあげく、四つン|這《ば》いにして、|濡《ぬれ》|雑《ぞう》|巾《きん》を顔にあて、|陰《いん》|嚢《のう》を|蹴《け》って息の根をとめてしまうのが常道となっている。それをまた町奉行所や牢屋敷の方で知らぬ顔をしていた形跡があるのは、世の岡っ引に対して、当人が、入牢しなければならないような悪事をしないように、いましめの意があったからだろう。したがって、岡っ引が牢に入るときは、死物狂いでその素性をかくし、またかくしてくれることを牢役人に哀願した。――
 女の世界に、岡っ引はない。しかし、岡っ引の女房はある。そこで、このおんな牢では、岡っ引の女房が、復讐の祭壇にささげられる。
 天牛のお紺は、すうっとたちあがった。――ぎっちょ[#「ぎっちょ」に傍点]のお伝をニヤリとふりむいて、
「これアめずらしい客だ。|御《ご》|馳《ち》|走《そう》してやらざあなるまい」
 と、あごをしゃくった。
 お伝はうなずいて、いまおせんがのまされていた塩汁のお椀から、汁をぱっとなげすて、その椀をもって|雪《せっ》|隠《ちん》へ立っていった。まもなく、もどってきて、
「お|膳《ぜん》が出来やした」
 と、いう。その両手には、黄金いろのものを山盛りにした椀がのり、|杉《すぎ》|箸《ばし》が二本つッ立っていた。
「お熊」
 と、お紺がよぶと、お熊が「おう」とこたえて、お甲にとびかかり、|落《おち》|間《ま》にひきずってゆくと、あらあらしくその衣服をはぎとってひきすえると、髪をうしろから手にまきつけて、顔をあおのけにした。そこにお伝がしずしずとちかづいた。
「お勘」
 と、またお紺がよぶと、お勘はキメ板をとってお甲のうしろに立つ。お伝がおごそかにいった。
「これ、神妙にいただけよ。遠慮をすると、おかわりを申しつけるぞ。やい、口をひらきゃがれ」
 ――さっきお甲が、おせんに強要したのとおなじ言葉を、こんどはお甲じしんがきく破目になった。
 お甲のあごはカタカタと鳴り、それだけでもうむせかえっている。これは決して一椀ではすまない。たとえ涙をこぼして一椀たべたところで、牢名主が「お客も充分のようすだから、おかわりはやめてやれ」といわない以上、またこの|饗宴《きょうえん》の献立にとりかかるのである。そのあげく、あとで御馳走の御礼まわりとして、名主をはじめ役々へ|挨《あい》|拶《さつ》してまわらなければならないのが牢の慣習だ。そして、にくしみとさげすみに笑っているお紺の眼は、決して二椀や三椀でとめてくれそうにないことを物語っていた。――
「そうれ!」
 うしろのお勘がキメ板をふりあげて、お甲の背なかをどやしつけようとしたとき――ふいに、だれかがさけぶ声がした。
「お竜さん」
 そして、お半やお玉やお関が、ばたばたとかけ出していった。
 |穿《せん》|鑿《さく》|所《じょ》へ呼び出されたまま、この三、四日もかえってこなかった姫君お竜が、戸前口をくぐって入ってきたが、牢内の異臭異変に気がついて、妙な表情で見まわした。
「どうしたの」
 天牛のお紺は、さっといやな顔をした。――このおかしな女め、穿鑿所でどんなお調べをうけているかしらねえが、はやくくたばってしまえばいいのに、いつものほほんとした顔で舞いもどってきやがる。そのたびに女どもがやけにうれしそうな声を出して迎えるのも、|業《ごう》|腹《はら》だ。――お紺は、だんだん女囚たちの人望がお竜にあつまり、牢内の雰囲気がかわってゆく様子なのに、頭もいたくなるほどイライラとしていた。
「すてておいてくれ、牢法だ」
 と、お紺はしゃがれた声をしぼった。
「牢法?」
「そのお甲は、岡っ引の女房だ。大牢ならば岡っ引、おんな牢なら岡っ引の女房にこう御馳走をして、娑婆で受けた恩の礼をかえすが牢法だってことよ」
「へえ、お甲さんが――」
 と、お竜は、眼を白黒させているお甲を見、またお椀をみて、
「よしな。あきれたひとたちだねえ」
 と、苦笑いした。――すると、それだけで、いままでたけりたっていたお熊やお伝やお勘が、急に猫みたいにおとなしくなって、照れたようにキメ板やお椀をかくしてしまったのである。
「やい、なぜそんなあまのいうことをききゃがる?」
 と、お紺がわめくのに、お竜はとりあわず、
「ちょいと、|旦《だん》|那《な》」
 と、|牢《ろう》|格《ごう》|子《し》の外に立っている影によびかけた。気がつくと、お竜をつれてきたらしい八丁堀の同心が、格子のすきからこちらをのぞいている。
「ねえ旦那、牢法じゃあ、岡っ引の女房にはごらんのような御馳走をするんですってさ。岡っ引の女房でこんな|頬《ほ》っぺたのおちそうな御馳走をしてもらうのじゃあ旦那などはどうもてなしていいか途方にくれちまうわ。まあ、入って、旦那も|御相伴《ごしょうばん》にあずかりなさいよ」
「たわけ」
 と、同心は|叱《しか》って、椀をかかえているお伝をにらんで、
「これ、左様なもの、はやくすててこぬか」
 お竜はにこにこと笑った。
「まあいいじゃないの。せっかくおんな牢でつくった御馳走だもの、こんど穿鑿所へゆくとき、お奉行さまにお|土産《みやげ》にもってゆこう」
 お伝があわてて雪隠へはしってゆくと、急にお甲がばったりとまえにたおれた。たおれたかと思うと、這いよって、お竜の足にすがりついた。
「お竜さん、あ、あ、ありがとうごぜえます。……」

 ――ひとしきりのざわめきがやがてしずまって、おんな牢にまた|黄《たそ》|昏《がれ》がただよいはじめたころ、姫君お竜はひとりの女囚とならんで、羽目板にもたれかかって、ひそひそと話をしていた。
「――それで、おせんさん、おまえさんはどんなわるいことをして、この牢に入ってきたの?」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:45:53 | 显示全部楼层
    振袖女郎

     一

 おせんは、|源《げん》|氏《じ》|名《な》を|千《せん》|弥《や》という吉原の遊女であった。|花《おい》|魁《らん》ではない、江戸町の|丁字《ちょうじ》屋の花魁|誰《たが》|袖《そで》の妹女郎、いわゆる|振《ふり》|袖《そで》新造とよばれる女郎であった。
 むろん、単独で客もとるが、振袖新造には、花魁とはちがった|或《あ》る特別の役目がある。それは|名代《みょうだい》という役だ。つまり、花魁に|馴《な》|染《じみ》の客がきて、また別の客がきた場合――花魁にかわって二番目の客を一夜もてなさなければならないのである。だから、その花魁が売れっ子であればあるほど、名代の役も多くなる。
 その名代をしなければならない客のなかで、千弥が身の毛もよだつほどきらいな客がひとりあった。
 なんでも大坂の材木問屋の番頭だか、手代だかで、|門《もん》|兵《べ》|衛《え》という男だ。店では|読経《どきょう》の旦那と妙な|綽《あだ》|名《な》で呼んでいるが、屋号は|対《つ》|島《しま》屋というらしい。だいぶ江戸にながく滞在している|塩《あん》|梅《ばい》だが、言葉にはたしかに上方なまりがある。
 なんのために江戸にきているのか、きいたこともあったが、千弥はわすれてしまった。あらためてきく気にもなれない。それほどいやな客だった。まだ三十前だと本人はいうが、まるで四十男みたいにあぶらぎって、厚い唇はいつもベトベトぬれている。しつこくて、|図《ずう》|々《ずう》しくて、金はけっこうつかうのだが、ふしぎに|吝嗇《りんしょく》という感じがつきまとって、読経の旦那ときいただけでゲンナリとした表情になるのは、千弥だけではない。
 ましてや、お名ざしの花魁誰袖は、丁字屋一の|豊《ほう》|艶《えん》さを自他ともにゆるしているだけに、よく相手が腹をたてないとふしぎなくらい門兵衛をふりとおした。何十回かかよってきたのに、|枕《まくら》をともにしてやったのは、よほど他にのがれみちのない日で、五度か六度であったろう。彼がかえると、誰袖は|嘔《おう》|吐《ど》をついた。文字どおり、嘔吐をついたのである。
「あれは人間ではありんせん」
 と誰袖はいった。獣か、それ以下だというのだ。
 そのわけを千弥だけは、ほんとうにみぞおちを|逆《さか》|撫《な》でされるような思いで実感していた。彼女がほとんどいつも名代をいいつけられていたからだ。
 花魁でさえ、十度にいちどは寝てやらねばならぬ。まして振袖新造の千弥にそれを拒否するすべはなかった。
 ただ――名代というのは、本来ならたんに|同《どう》|衾《きん》するだけである。それ以上の行為は、なんの義務もないどころか、かえってきびしく禁ぜられているのが|廓《くるわ》の|掟《おきて》だ。おなじ店で、ちがう花魁の客となることさえ禁じられているのだから、まして名代が姉女郎の客をうばうということは、花魁に恥をかかせるものとして|大《だい》それた行為になっている。

 “振袖を質にとってるけちな晩”

 “名代は|狆《ちん》にあずける菓子のよう”

 “名代は背中あわせてほととぎす”

 “おいらんが叱りなんすと貞女めき”

 などと、川柳のいうとおりだ。けれど、この客にかぎっては、最初から花魁のおゆるしが出た。出たどころか、「あの客はおまえにあげんすよ」と片頬をひきつらせていった誰袖の言葉が、どれほどひどいものであったかを、千弥は身をもって知った。
 はじめて名代に出た晩――なんとなく虫のすかない客だとは思っていたが、しかたがないから、門兵衛のかたわらに身を横たえた。そのときはじめてこの客の胸に、「読経無用」という|刺《いれ》|青《ずみ》のあることも知ったのである。彼が読経の旦那と呼ばれる理由は、この刺青であった。町人のくせにそんな刺青をしていることもいよいよきみがわるく、そのわけをきくと、
「なあに、おれが死んでも読経も念仏も要らねえってことさ」
 と、黄色い|乱《らん》|杭《ぐい》|歯《ば》をむき出して笑っただけで、それはどういうわけか、またどうしてそれをわざわざ刺青に彫ったのか説明はきけなかった。
 野暮天のようにみえて、床入りまでのふるまいには案外さばけたところもみえ、廓の法はよく知りぬいているようなことをいい、それにこの醜怪な男の口から出るのは、誰袖へのあこがれ、執着、みれんばかりであったから、千弥は安心して――むしろ、|可《お》|笑《か》しみを伴った好意すらもって、背中あわせに寝入ったのである。
 寝るまえに、門兵衛はこんなことをいった。
「千弥、誰袖はおれをきらっているのだろう。それアおれもよく知っている。こんな御面相じゃあ、誰袖でなくったって、どんな女だって――おまえも、おれがきらいだろう」
「そ、そんなことはありんせん。どこに客のえりごのみをする女郎がありんすものか。そんなことをしたら、|御《ご》|亭《て》さんに叱られんす」
「ふ、ふ、ふ、語るにおちたとはそのことだ。亭主に叱られるのがこわくって、おれの相手になっているのだろう。――おい、いつか誰袖にいってくれ。この江戸町二丁目の大兵庫屋で、|籠《かご》|釣《つる》|瓶《べ》が血の雨をふらしたのア、おととしのことじゃあねえかとな」
 千弥は、ぎょっとした。まさにおととし上州佐野の大百姓であばただらけの|佐《さ》|野《の》|次《じ》|郎《ろう》|左《ざ》|衛《え》|門《もん》が、大兵庫屋の花魁|八《やつ》|橋《はし》にふられぬいた腹いせに、とうとう籠釣瓶という兇刀をふるって八橋を惨殺し、大屋根の上まであばれまわって吉原じゅうにえくりかえるような大騒動をひきおこしたのは、まだ記憶になまなましい事件であったからだ。
「|主《ぬし》さん、な、なんということをいいなんす」
「ふ、ふ、ふ、とまあ、これくらいのことはいいたくなるじゃあないか」
 顔をみたら、この|醜男《ぶおとこ》の眼が涙ぐんでいたので、一瞬に恐怖はきえ、千弥は可笑しくなった。
「なあに、おれはそんな名刀なんぞもってねえ。材木屋だから、丸太ン棒でもふりまわすよりほかはねえが。――まあ、夢のなかででも、誰袖花魁をぶち殺してやろうかい」
 ――その夜、千弥は門兵衛に犯された。女郎が客に犯されたというのは妙だが、名代の掟ということを別にしても、まさに犯されたというよりほかはないような|手《て》|籠《ご》めにあったのである。
 気がついたときは、彼女は門兵衛の肉の下にあった。そういうことには|馴《な》れているはずの千弥が、声も出ないほどの兇暴さであった。彼女は、殺されるのではないかと思った。この怪物のような商人は、彼女を|熟《う》れきった果物みたいにしゃぶりつくし、白い泥のようにこねくりかえした。|嵐《あらし》のようないっときののち、千弥は腰も足もしびれ果てて、ただ「ひい、ひい」とうごめいているだけであった。
 そして半分死んだようになって、四肢をばたりとなげ出している千弥は、じぶんのからだのいたるところを鼻嵐が吹いてまわりながら、「誰袖……誰袖……」とうめいている声をきいたのである。
 ふいに彼女はわれにかえり、吐き気をおぼえた。狂気のごとく起きあがろうとしたが、門兵衛は鼻でおさえつけたまま、うごかさなかった。「だ――だれか、きて!」千弥はたまりかねて、遊女らしくもない悲鳴をあげた。廊下をあるいていた不寝番の若い者がのぞきこんで「へっ」といったきりすぐに障子をしめてしまった。
 ――あくる日、千弥は誰袖のまえにうなだれて、首をのばして、ヒステリックな姉女郎の|煙管《きせる》を待った。しかし、誰袖は美しい顔をニヤニヤとくずして「気にすることはありんせんにえ、あのお客はおまえさんにあげるといったではありんせんか」といっただけであった。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:46:12 | 显示全部楼层
    二

 運命――というほどのことではないが、事のなりゆきというものは、皮肉なものだ。
 誰袖が、門兵衛はいうまでもなく、このごろほかの客だれにでもつんけんとしはじめたのは、|或《あ》る理由があった。彼女はすばらしい情人を得たからである。
 どこから迷いこんだのか――まったく、迷いこんだとしか思えないほどの美少年が、誰袖の客になったのだ。最初は貧乏旗本の子弟ばかり四、五人で登楼してきたのだが、いささか不良少年じみた連中のなかで、その|南条外記《なんじょうげき》という若侍だけは、場ちがいな感じであった。白鳥のように清麗で、ういういしい。
 |驕慢《きょうまん》ともいえる誰袖の方が、夢中になってしまった。どんな金持の客も|羨《うらや》ましいとは思わないほかの花魁たちも、これだけはよだれをながして誰袖を|嫉《や》いた。金持の客はほかにもうんといるが、こういう人肉の市に、これほどきよらかでういういしい美少年の客などめったにあるものではない。
 むろん、丁字屋一の誰袖が腕によりをかけるのだから、外記の方も夢中になったらしいのは当然だが、さて貧乏旗本の子弟として、|大籬《おおまがき》のお職花魁を張りとおせるほどの軍資金のあろうはずがない。それでも誰袖は彼をゆめはなそうとはしない。つまり外記は、誰袖の|間《ま》|夫《ぶ》同然になってしまったのである。間夫というより、いまの言葉でいえば、ペットだろう。
 そして、或る秋の一夜、誰袖が客をみんな断わったことから問題がおこった。彼女は、その夜南条外記がくるという約束であったので、他の客を断わってひたすら待ちうけていたのだが、どういうわけか、外記は姿をみせなかった。そこで丁字屋の亭主とはげしい口論になったのである。遊女屋の亭主にとって、金にならない女郎の間夫こそは最大の敵である。ふだんからこのことについては苦虫をかみつぶしたような顔をしていたので、ここぞとばかり誰袖をせめた。そこでさすがわがままな誰袖も進退きわまり、逆上し、やけになって――相手もあろうに、いくら断わられてもみれんげになお丁字屋にねばりついていた例の門兵衛を客にとってしまったのである。それは亭主へのあてつけ[#「あてつけ」に傍点]でもあり誇りたかい女の自虐でもあった。
 ところが、引け四つちかくになってから、南条外記がはしりこんできたのだ。――いかになんでも、もはや門兵衛ととりかえるなどいうことはゆるされなかった。誰袖は泣く泣く、千弥を名代とした。
 はからずもこの美少年とおなじ|閨《ねや》に身を横たえて夢見ごこちになった千弥を、だれが責めることができようか。彼女は、夜具そのものが芳香に染まったような感じがした。
 くるりと背をむけたまま、千弥は全身をかたくして、じぶんの心臓の音ばかりひびくのに、ひどい恥じらいと|狼《ろう》|狽《ばい》をおぼえていた。まあ、わたしとしたことが、|生娘《きむすめ》のように、なんということだろう。
「千弥、こっちをむいてくれ」
 その肩に手をかけられた。やさしい手であったのに千弥はしびれたようになって、人形みたいに向けかえさせられた。
 外記の白い顔が、すれすれのちかさにあった。それが、まっかに上気した千弥の顔をしげしげとのぞきこんで、
「まえから、言おう言おうと思っておった」
 と、いった。
「…………」
「そなたは、わしの姉に似ておる」
「え、わたしが、おまえさまのお姉えさまに」
「左様、この春に亡くなったが……年もそなたとおなじくらい。……」
 外記の美しい|瞳《ひとみ》に、涙がキラキラとかがやいた。われをわすれて千弥は外記の肩を抱いた。
「かわゆい。……」
 と思わずいって、はっとして、
「可哀そうに!……でも、わたしのように汚れた遊女が、おまえさまのお姉えさまに似ているなどとは」
「いいや、そなたは、きよらかなわしの姉そっくりじゃ」
 千弥は、外記の肩にまわした白い腕をあわててはなそうとした。
「千弥、たのむから、このままわしを抱いていてくれい。姉はよくわしを抱いてねてくれたものであった……」
 千弥はもういちど抱いた。
「こ……こうでおざんすかえ?」
 外記はこっくりして、涙ぐんだ顔を遊女の胸にうずめて――故意か、はずみか、いつしか千弥の乳首は、外記の口のなかにあった。彼女の全身に甘美な|戦《せん》|慄《りつ》が波うち、眼は|恍《こう》|惚《こつ》となった。
 香ばしい息はあごをくすぐるのに、妙に遠いところで、外記のつぶやくような声がきこえる。
「千弥……ほんとうは、わしはそなたが好きであった。……」
「あれ。……」
 千弥は、外記をおしのけようとしたが、手が|萎《な》えた。
「花魁に叱られんす。そんな名代ではありんせん。……」
「わしは誰袖がきらいじゃ。いや、きらいになったのだ。あれはしつこい。わしをつかまえて、一夜じゅうこんなことをする。……」
 そういったかと思うと、千弥の顔に外記の顔が重なり、舌がチロチロと千弥の舌にからみついてきた。手は蛇のように女の腹をすべり、まさぐっていた。彼女はあえぎ、身もだえしながら、
「お……おまえさまは、わ、わたしにこんなことを。……」
「みんな誰袖がおしえたのじゃ。けれど、あの女とこんなことをするのは、わしにとってはいまは地獄じゃ。おまえとするなら――これ、だまっておればよい。誰袖にはないしょで、千弥、|喃《のう》、それ、もうこんなになっているではないか」
 処女のような恥じらいと快美感に彼女はそりかえり、もはや地獄におちようと、なるがままになれと没我の陶酔におちいっていった。千弥は白い炎と化した。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:49:45 | 显示全部楼层
     三

 南条外記は、朝早く去った。――
 そっと見おくって、もとの|閨《ねや》にもどると、千弥はまだしびれたような手足をなげ出した。白い炎は、なおそこらいちめんにもえているようだ。
 あたまの深部に、ひどい疲れとかなしみがあった。恐れは誰袖に対する気のとがめからにじみ出し、かなしみは、二度ともはやこのような一夜はこないだろうという絶望からながれ出した。けれど千弥は、それらをドンヨリと深いところに沈めて、ただ|刹《せつ》|那《な》の歓喜の余韻をたのしもうとした。
「千弥」
 ふいに声をかけられた。枕もとにすっくと誰袖が立っていた。その|蒼《そう》|白《はく》な顔をふりあおいで、千弥はどきっとした。
「わたしの|主《ぬし》さんはかえりなんしたかえ」
「え、お待ちなんしとおとめ申しましたけれど、花魁のお客にわるいからと皮肉な笑顔をつくりなんして――」
 それは、外記との打ちあわせによる弁解の言葉だった。誰袖は片頬をねじれさせた。
「わたしの顔を見たくなかったのでありんしょう」
「花魁、主さんはほんとうに怒ってかえりなんしたえ」
「千弥、いいかげんにおしなんし。女郎をだまそうなどとは、身のほどしらずの男ではありんせんか。まして、妹女郎が姉女郎の……」
 声がワナワナとふるえた。
「客をとったあげく、そのうえ、だ、だ、だまそうとは……」
 千弥はがばとはねおきた。はやくもばれたのかと|驚愕《きょうがく》したのである。しかし、だれにも知られていないことのはずなのに、どうしてわかったのだろうか。いちど、さっと全身が|爪《つめ》のさきまでそまり、それからみるみる血の気がひいてしまった。
「千弥、廓の法をやぶった女は、どういうみせしめをうけるのか、覚悟のうえでありんしょうね」
 誰袖もまた青い美しい鬼女のようであった。おし殺したようにいった。
「ついてきなんし」
 千弥は、ふらふらと誰袖について廊下に出た。廊下に出ると、門兵衛がだらけきった姿で、ボンヤリと立っている。
「ははあ、おまえさんか。あの色男と乳くりあったのは。花魁、こいつはまったくつまみ食いの好きな女だよ」
 と、彼はこびるようにいったが、その鉄面皮に、千弥はやりかえす気力も失っていた。誰袖は一言も口をきかず、さきにあるいてゆく。
 途中で、|禿《かむろ》に手をひかれて、亭主がやってきた。
「花魁、なんだって? 千弥が名代の掟をやぶったと、おまえさんに投げ文をしたものがあったって?」
 とおろおろして誰袖と千弥の顔を見くらべてから、
「だれだい、そんな奴は?」
「知りんせん、とんだ|金《かな》|釘《くぎ》流で、まさかと思っていいしたに、どうやらほんとらしゅうありんす。千弥の顔をみておくんなんし」
「そうかえ? まあさ、しかしあの客は、あんまりたちのよくねえ客だから……」
「|御《ご》|亭《て》さん、それは外記さまがわたしの間夫だからという意味合いでおざんすかえ。……それなら、間夫をとられて、いっそうこの誰袖の顔が立ちいせん」
 そして、千弥の顔をみてあごをしゃくった。千弥は幽霊のようにあとに従う。
 |折《せっ》|檻《かん》部屋に入ると、千弥はくずおれた。病気で死んだ女郎たちの遺品や心中のあった夜具などがごたごたとつんであるうすぐらい部屋だ。窓の格子には|蜘《く》|蛛《も》の巣がかかり、壁はまだらに|剥《は》げおちている。けれどたたみがジットリとなかば腐ったようなのは、たんなる日蔭の湿気か。それともここに入れられた何十人何百人かの遊女たちの涙と血のせいであろうか。
 誰袖は|物《もの》|凄《すご》い眼でしばらく千弥を見すえていたが、そこにまだついてきていた門兵衛をみると、
「だれか……その女をしごきで、あの柱に|吊《つ》って下さんせいなあ」
 と、つぶやくようにいった。
「おおさ、合点だ」
 門兵衛は、千弥にとびかかって、彼女自身のしごきをといてうしろ手にしばりあげた。だぶだぶしたからだが、妙に喜々としてはずんでいるのは、誰袖の命令に奴隷のごとく従うのに無上の歓喜をおぼえているのか、それともこの男に、天性このようなことを好む兇暴な血がながれているのか。
 八尺の高さに、ちゃんと鉄環がひとつついていた。下には、|皮《かわ》|鞭《むち》が一本さげられてある。これが悦楽の讃歌にわきかえる花の不夜城のどん底の一室であった。
 そのまま、きりきりとつりあげると、門兵衛は、
「花魁、ぶつのかえ」
 誰袖はうつろな眼でわずかにうなずいた。
 ぴゅっーと皮鞭がかびくさい空気を切ると、ぱしっと千弥の肉に鳴って、彼女は空中で回転した。帯のない|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》が、ぱっとはだけて朱色の花が白い奇怪な花となる。
「こ、殺しておくんなんし。……」
 千弥は泣きさけんだが、恐怖と|疼《とう》|痛《つう》のなかに、どよめくようなよろこびをもおぼえていた。
「死にたいのはあたしだよ。……」
 と、ひろがった瞳で見あげて、誰袖はつぶやいた。この声にも恐ろしい真実性があった。
 上と下と、火花をちらすふたりの女の|敵《てき》|愾《がい》の気流に、狂ったかのように門兵衛はめちゃくちゃに鞭をふるった。口は歯をくいしばっても、肉体そのものからあふれ出る悲鳴が、血のしずくとともに上からふりおちる。
 そのとき、部屋の入口をガラリとあけて、
「千弥!」
 と、ひとつの影がとびこんできた。
「あっ、外記さま!」
 と、千弥は|血《ち》|声《ごえ》をしぼる。
「|土《ど》|堤《て》を半分までいって、何だか胸さわぎがするからもどってきたら、果せるかなこのありさまだ。誰袖、なんという無惨なまねをする」
 南条外記は肩で息をしながらいった。
 誰袖は|蒼《あお》|白《じろ》い炎のもえているような眼で、美少年の紅潮した顔をにらんだ。
「主さん、胸さわぎがするとは、やはり気のとがめからでおざんしょうね。むごいのは、どっちか。主さんはわたしを殺しなんした」
「なに?」
「誰袖はもう恥かしゅうて、廓じゅうの花魁にむける顔もありんせん。いいえ、そんなみえ[#「みえ」に傍点]よりも、わたしの心はもう死人も同然。……」
「やいやい」
 と、そばで門兵衛がほえ出した。
「てめえ、廓の法をやぶりながら、よくもぬけぬけと舞いもどってきゃがったな。この吉原で掟をやぶれば、こらしめの罰は女郎同様客にもあるってことを知らねえか。|桶《おけ》|伏《ぶ》せ、待ち伏せ、|散《ざ》ン|切《ぎり》、|晒《さら》し――どれが望みだ。それともおれが、千弥とならべて吊してやろうか」
 もともとこの男が、誰袖の間夫として外記をひどくにくんでいたことは容易に想像できるが、それにしても、かりにも武士にむかってこの|雑《ぞう》|言《ごん》は、どうみてもただの町人ではない。――もっともこの廓というところは、大名も|大《おお》|門《もん》外で|駕《か》|籠《ご》をおりねばならず、武士も二本の刀を店の入口でおいてこなければならない別天地ではある。
「おお、おまえら、わしも千弥とおなじ目にあわせたくばあわせるがよい。それが本望じゃ」
 と、外記はいって、どっかとそこに坐ってしまった。
 陰惨な遊女屋の折檻部屋に、四人の男女はじっとにらみあった。――どうしても、このままでぶじにすみそうにない、恋とにくしみの四すくみだ。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:51:20 | 显示全部楼层
丁字屋心中

     一

「主さん、おまえさんも、千弥とおなじ罰をうけたいといいなんすか?」
 と、誰袖はおし殺したような声でいった。眼が、異様なひかりをおびている。南条外記はちらっと柱の上の千弥を見あげて、蒼白い顔でこっくりした。
 誰袖の眼にたまりかねたような涙がたぎって、
「主さん! おまえさんは、わたしより千弥の方が好きでありんすかえ?」
「ああ、好きだ。千弥の方が好きだ。おまえは、しつこくてきらいだよ」
 と、外記は大声でいった。やけくそになった子供のような表情だ。
 折檻部屋の戸はあいて、そこからほかの|花《おい》|魁《らん》や新造や|禿《かむろ》たちが花のようにざわめいてのぞきこんでいた。
 事情はすでに知れていたし、|丁字屋《ちょうじや》一の花魁のやることだから、うしろの方で亭主ややりて|婆《ばば》あもおろおろとして見まもるばかりだ。
 その見物人たちのまえで、ハッキリと「おまえはきらいだ」といわれて、恥辱のために誰袖は完全にのぼせあがった血相になった。
「対島屋さん、それじゃあ望みどおりにしてあげなんし!」
 そういわれて、門兵衛は、そばの|葛籠《つづら》のふたからこぼれていたしごきをきゅーっとひきぬいたが、さすがに背後の見物人たちに照れたらしく、
「おい、廓の掟破りだ。面白そうに見てねえで、おまえたちも手伝わねえか」
 と、ちかよった。女たちはあわてて逃げ出す。門兵衛はピシャリと戸をしめて、にやりと笑った。
 やがて、外記はあらあらしく縛られて、柱につりあげられた。門兵衛は見あげて、舌なめずりして、
「やい、覚悟はいいか?」
「よい」
 と、外記は観念した様子でゆがんだ微笑をうかべた。その美しい微笑を宙に近ぢかとみて、千弥は、このひととここで死にたい――と心にさけんだ。
「そうか。こいつあ花魁のいいつけだぜ。それにおまえもいいという。わるく思うなよ。――」
 と、門兵衛はせせら笑うと、皮鞭をふるって、外記をなぐりつけた。
「ううっ」
 さすがに痛苦のうめきをあげて、外記は空中で身もだえする。
 鞭の乱打に、しごきはもつれて、外記と千弥は一つになってキリキリとまわった。
「これでもか! これでもか!」
 ふたりの髪はみだれて蛇のごとくからみあい、宙にもがく四本の足もまた縄のごとくからみあう。
「――よしておくんなんし!」
 ついに悲鳴をあげたのは、責められるふたりよりも、責めることを命じた誰袖の方だった。肩で息をつき、下から見あげた眼は散大し、いまにも失神しそうだ。
「よせ?」
 と、門兵衛もあらい息を吐きながら、
「もういいのかい、花魁、間夫に仏心がおきたのかえ――そうはやくおまえさんの方で仏心を出しちまっちゃあ、廓のしめしがつくめえ。え、みんなのみているまえで、おまえは赤ッ恥をかかされたんだぜ。あれほどみんなの後指さすのを承知のうえでたてひいてやってよ、そのあげく

[ 本帖最后由 asuka0226 于 2008-4-30 09:53 编辑 ]
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:51:45 | 显示全部楼层
     二

 丁字屋が蒼白い人間たちの暴風に吹きくるまれたことはいうまでもない。
 その死の部屋から|業《ごう》|火《か》がもえ出したように、人々は上を下への混乱の波をうって、そして急にしんとなった意味不明の静寂のなかに、だれかが、
「あれだ」
 と、さけんだ。
 だれしも、はじめ心中とはかんがえなかった。それはこの吉原でも指おりの美女と、この醜悪な男とを、いくら花魁と客の仲とはいえ、心中という観念でむすびつけることに抵抗をおぼえたためであり、また、他人に殺された――とわけもなく考えたとき、ただちに思いうかぶふたりの人間があったからだ。
「あれだ」――だれかがそうさけんだ意味は、電撃的に人々を打った。人々は|雪崩《なだれ》のようにはしった。そして――折檻部屋の戸をあけようとして、
「あかないぞ」
「あわてるな、サルがおちてるんだ」
 と、さわいでいるうち、あっと思ったのだ。この中の人間は、外へは出られない!
 戸をあけてみると、外記も千弥も、縄でくくられたままころがっていて、人々の|跫《あし》|音《おと》に蒼白くおびえた顔をあげた。人々は|茫《ぼう》|然《ぜん》として窓をみた。格子にむろん異常はなかった。

 てっきりそうだと思いこんでいた人間が下手人でないとわかると、ほかに下手人を雲の中からさがし出すより、はじめて心中という考えが人々の胸をしめた。
「そういえば、読経の旦那は、じぶんの手に匕首をにぎっていたじゃねえか」
「そうだ。それに、夜中寝ねえでさわいでる人間だらけのうちだ。他人が殺したのなら、そのさわぎをだれもきかねえという法はねえ」
「とくに読経の旦那が――いくら読経無用ったって、猫みてえにおとなしくお|陀《だ》|仏《ぶつ》になるわけがねえ」
 不寝番や二階番や|風《ふ》|呂《ろ》|焚《た》きや――いわゆる若い者がさわいでいるうしろから、|幇間《たいこ》の|孝《こう》|八《はち》が幇間らしくないまじめな思案顔をあげて、
「――というと、心中ってえわけか?」
 と、つぶやくと、|禿《かむろ》のひとりが金切声で、
「花魁が――この読経の旦那と――いえいえ、そんなことはありません!」
 と、さけぶように言った。
 むろん人々は、だれもが合意の心中とはつゆ思わなかった。無理心中である。そしていうまでもなく、門兵衛の方からしかけた無理心中である。
「そういえば、きのうの晩、花魁は酔っぱらって、旦那のほっぺたをピシャピシャぶちのめしていなすったなあ」
「わたしの主さんをひどい目にあわせなんしたにくい奴と、まだ間夫にみれんのある口をきいていなすった」
「ぶたれてもへいきで、ニタニタ笑いながら、しまいにはむりむたいに花魁をおんぶして部屋へつれていってしまったが、床に入ってもまだあれじゃあ、旦那も気のたってる日の夜だから、ついかっとして――」
 そのとき、|見《み》|世《せ》の入口の方から、重苦しいざわめきとともに、
「お役人の御出張だ」
「八丁堀の旦那だ」
 と、ささやく声がきこえたかと思うと、丁字屋全体がしーんとして、やがてまたかるいささやきの波がながれた。遊女たちの|溜《ため》|息《いき》である。
「まあ、いい男前――」
「なんて名前かしら?」
「巨摩主水介といいなんすとか――」
 丁字屋の亭主、番所の|四《し》|郎《ろう》|兵《べ》|衛《え》などにみちびかれて、巨摩主水介が岡っ引の銀次をつれてやってきた。
 ふたりの|屍《し》|体《たい》をしらべる。かたわらで亭主が、これはお客さまの方からの無理心中で――といいかけると、
「心中ではない、|相《あい》|対《たい》|死《じに》じゃ」
 と、美男に似合わぬきびしい声で訂正した。
 心中という言葉が、|元《げん》|禄《ろく》以来急速にロマンチックな色彩をおびて、はてはこの語感に酔って心中する若い男女がふえてきたのをみてとった大岡越前守は、さきに心中という言葉を禁じて、相対死といわせたのである。そして、双方情死をしそんじたものは三日間|晒《さら》しものにしたうえ|非《ひ》|人《にん》に下し、一方が生きのこれば下手人として断罪し、双方死ねばはだかにむいて野外にすてるという|峻烈《しゅんれつ》な|法《はっ》|度《と》を出した。丁字屋の亭主が、客からの無理心中だといったのは、誰袖にこの恥をみさせまいという下心もあったのである。
 それから主水介は、一言のもとに、
「客からの仕業だと? 両人同時に首をつる無理心中――無理相対死はめずらしいな」
 と、笑殺した。
「切れたしごきが下に一本おちている。それからみると、男が首をつりそこねて、あとで匕首で自害したかにみえるが、それより男が先に胸を刺して死んで、あとで女が首をつったと考えた方が自然じゃな」
「えっ、誰袖があとで――」
「左様、男は自分で胸を刺したというより、刺し殺されたのだ」
「な、な、なぜでござります!」
「見よ、男は|心《しん》ノ臓をつらぬいておるではないか。自分で心ノ臓をつらぬけば、もはや匕首をぬき出すことはかなわぬはず。にもかかわらず、男は投げ出した右手に匕首をにぎっていたと申すではないか。すなわち|何《なに》|人《びと》かに刺されたあと、その匕首を手ににぎらせられたのだ」
「で、では、誰袖が――?」
 と、亭主は息をのんだものの、そういわれればそのとおりだが、誰袖を知るものにとっては、亭主のみならず、彼女が読経の旦那などに無理心中をしかけようなどとは、だれもが|納《なっ》|得《とく》できなかった。とくに遊女たちのなかには、誰袖にベタ|惚《ぼ》れのこの醜い男が、あんまり手ひどく振りつづける誰袖をどうとかこうとかしてやると口ばしったのをきいたものも少なくないだけに、なおさらであった。
「誰袖がやったとは言わぬ」
 と、主水介は冷静にいって、鴨居からおろした誰袖の眼や|頸《くび》のあたりをじっとのぞいていたが、急にふりむいていった。
「おい、けさから客、女、ひとりも外へ出しちゃあいめえな」
「へい、番所からすぐきていただきまして、四郎兵衛さん相談の結果、旦那方が御出張になるまではそうせざあなるまいと、お客さま方におひかえをねがっております。けれど旦那……外から入ってきてにげた奴だとすると、こいつああたしにもわかりません」

[ 本帖最后由 asuka0226 于 2008-4-30 09:54 编辑 ]
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:54:36 | 显示全部楼层
     三

 ――その夜泊っていた客は、いつづけの対島屋門兵衛をのぞいて十三人であった。当時のことであったから、正確な死亡時刻はわからない。けれど、門兵衛と誰袖が大一座でドンチャンさわぎをやっていたのが引け四つ(十二時)ごろまでで、そしてけさ五つ(八時)に発見されたときにはすでに冷たくなっていたのだから、深夜から夜明けまでに起った惨劇であろう。
 いや、それよりもっと範囲をせばめた証言がある。それは、禿のりん|弥《や》という子が|厠《かわや》に立ったとき、廊下のむこうをへんなものがあるいてゆく。小山のようなものが遠あかりにきらめきつつヒョロヒョロとよろめいてゆくのだ。それが誰かが花魁をおぶってゆくのだと気がついて|可《お》|笑《か》しくなり、ちかづいてみると、それは誰袖の部屋に入っていった。遠あかりではあったが、そのうしろ姿、|裲《うち》|襠《かけ》の模様からしてたしかに負ぶわれていたのは誰袖花魁だったと思うし、従って負ぶっていたのは読経の旦那で、おそらく酔い|痴《し》れた花魁を厠へでもつれていってやったかえりではあるまいか。花魁が酔っぱらったからといって、厠まで負ぶってゆく客はあんまりないけれど、あの読経の旦那ならやりかねない。げんに昨晩部屋へひきとるときにもじぶんで負ぶっていったくらいなのだから、よほどそれが気に入ったのにちがいない。そのとき仲の町の方から、「八ツでござい」という夜廻りの声と拍子木の音がきこえたから、それからふたりのあいだにあの悲劇が起ったとしても、八つ(二時)から夜明けまでのことだと思う。――というのであった。
 とはいえ、そのあいだの客、女郎たちのアリバイはというと、むろんそれがハッキリしているものはほとんどない。少なくとも一方が寝ているか、起きていたといったところでそれがどれほどあてになることか、しれたものではない。
 ただこのなかで一番アリバイのたしかなのは、折檻部屋にとじこめられていた南条外記と千弥だけだという結果になったのは、皮肉であった。
 けれど、客や遊女で、門兵衛と誰袖を殺さねばならぬ動機のあるものは、さしあたりひとりもないようにみえた。
 またふたりを――|或《ある》いはそのいずれかを殺すのに、叫び声ひとつたてさせなかったというのも考えられないことだ。
 では、やっぱり心中か。しかも主水介のいうように、門兵衛がひとの手によって殺されたとすれば、誰袖はそのあとで首を吊ったということになるのだから、誰袖の方からしかけた無理心中なのであろうか。
「下手人は、拙者かもしれませぬ」
 腕をくんでいる主水介のうしろから、沈んだ声でいうものがあった。
 ふりかえると、ほつれ毛を頬にちらした水の精のような美少年だ。――折檻部屋から出された南条外記であった。
「――かも知れぬ。と申すと?」
 と、問いかえして、主水介はしかし外記のうしろにうなだれている千弥という遊女が、異常なばかりにふるえつづけているのを見ていた。
「花魁を、門兵衛を殺し、あとで自害をするほどのきもちにおとしたのは、この拙者かもしれぬという意味です。……わたしは花魁に恥をかかせました。そのときは恥をかかせるつもりではなく、はじめは|廓《くるわ》の|掟《おきて》をやぶって名代の千弥と妙なことになったうしろ暗さからの強がりもあり、のちにはあまりに千弥がひどい目にあわされるゆえ、ついかっとなり、花魁がこの吉原で笑いものになるような|雑《ぞう》|言《ごん》を申しました。まさか、こんなことになろうとは思いもかけませんでしたが、しかしいまにして思うと、あの誇りたかい誰袖のこと、のぼせあがってかような始末に立ちいたったのも、むりはないと拙者ならわかるのです。……」
「ところがな、門兵衛は誰袖に刺されたものではないのですよ」
 と、巨摩主水介はうす笑いしていった。|愕《がく》|然《ぜん》としたのは、外記ばかりではない。周囲にいたものすべてに、衝撃的な波がわたった。
 やがて、亭主が声を殺して、
「旦那……おそれながら、あたしには旦那のおっしゃることがわかりません。さっき旦那は、対島屋の旦那を刺し殺したあとで、誰袖が首を|吊《つ》ったといいなすった。……」
「誰袖がやったとはいわぬと申したではないか」
「しかし、なぜ誰袖が下手人ではないのでござる?」
 と、外記がいった。
 主水介はしずかに、
「誰袖がもし匕首で男を殺したのなら、なぜかえす刃でじぶんの胸を刺さなかったものか」
「何を仰せられる。人の死にようにはさまざまござる。誰袖は門兵衛を匕首で殺したものの、血の色をみてからじぶんは首を吊って死ぬ気になったとかんがえて、どこが不審です」
「なるほど、そうもいえるな。しかし、あとでじぶんも死ぬ人間が、門兵衛の手に匕首をにぎらせて、自害の|態《てい》にみせかけたことこそはみのがせぬ不審」
「…………」
「のみならず、切れたしごきなど一本ほうり出して、はじめ門兵衛が誰袖とおなじく首を吊ろうとした形跡をみせようとした小細工もある」
「…………」
「下手人は、迷ったのだ。門兵衛が誰袖に無理心中をしかけたのか、誰袖が門兵衛に無理心中をしかけたのか、どっちにみせたら人が自然に思うだろうと迷ったのだ。人の推量をあてにしてのことだから、迷ったあげく、どっちにも人がとれるように小細工をしたために、どっちもおかしくなってしまった。惜しいなあ」
「御役人。それじゃあ、だ、だ、だれが下手人だとおっしゃるのか」
「誰袖をも、門兵衛をも、声ひとつたてさせずに殺せる人間。――」
「――と、おっしゃると」
「ふたりが、殺されるまで安心している人間ということです」
 しんとした沈黙が、身の毛もよだつ冷気とともに一同をつつんだ。亭主が|生《なま》|唾《つば》をごくりとのんで、
「旦那さま、それは、ここにいるもののなかに?」
 主水介はうなずいて、みなを見まわした。
「おそらく」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:54:55 | 显示全部楼层
   夢竜初見世

     一

「それはだな、誰袖と門兵衛とひどく親しい人間だな」
 と、主水介は言った。眼はじっと南条外記と千弥を見つづけていた。千弥の顔は|蝋《ろう》のようであったが、外記は|勃《ぼつ》|然《ぜん》と顔を紅潮させて主水介をにらみかえし、
「お役人、なぜ拙者をそう御覧になる」
 とさけび出した。
「わしは誰袖とは親しかったが、門兵衛とは仲がわるかった。もしお役人の仰せられるように、下手人が門兵衛を声ひとつたてさせず殺せるような親しい人間なら、拙者はちがう。仲がわるくて殺したといわれるならまた別だが、残念ながら、わしは昨夜ここにとじこめられたままでござったわ」
「折檻部屋の戸はあいた」
「なに? ばかな? あなたは、あの戸を調べられたのか。あの戸が外からでなくてはあけられないことをおためしではなかったのか?」
「戸は外からあけられたのだよ!」
「外から? だれが?」
「誰袖が」
 みんな、あっとさけんだ。しかし、外記と千弥は、息をひいたまま、声もなかった。
「と、まあ考える手もあるさ。廓で花魁がひらいちゃいけないといった戸を、禁をやぶってあける度胸のあるのは、まあ当の花魁とみるのが順当だなあ」
「――な、なんのために?」
「そこまでは知らねえよ。もういちど、お前さんたちを折檻する新しい手でもかんがえついたのか、それともやっぱりお前さんにみれんがのこって、ふびんがつのって、仲なおりにやってきたのか――とにかく、あかずの戸をあける理由はいろいろと考えられようさ」
「そこで、拙者が誰袖をしめ殺したとでもおっしゃるか。たわけたことを!」
 たたきつけるように外記はさけんだ。
「廓の禁制をやぶって折檻されたのをうらんで、花魁を殺すほどみれんな男なら、拙者ははじめからこの丁字屋へもどってはこぬ。折檻をうけるのは、かくごのまえ。――」
「立派だ」
 と、主水介は笑った。外記は笑われたのも意識しない様子で、
「わしは誰袖をちっともうらみには思ってはおらぬ。それどころか、売言葉に買言葉できらいだと言ってのけはしたものの、わしは誰袖を――殺すほどにくいとは思ってはおらなんだ」
「というのは、お前さんの言いぶんで、わたしにゃ何ともいえない。廓の禁制をやぶって|名代《みょうだい》とくっつくほどの男なら、何をし出かすか知れたものではない――と考えられても、いたしかたがない立場ですよ、お若いの」
 主水介の語気には、しかし皮肉とともにどこかあいまいなところもあった。眼を宙にあげて、ひとりごとのように、
「あそこには首も吊れる柱の環があったし、|禿《かむろ》がみたという、誰かに背負われた誰袖ってえのは、ありゃ|屍《し》|骸《がい》じゃなかったか?」
 寒い風がぞうっと吹いて、一同の顔を鳥肌にした。亭主があえぐように、
「だ、旦那……それじゃあ、花魁は折檻部屋で絞め殺されて、部屋にはこばれたとおっしゃるのでございますか?」
「絞め殺された……とは言わねえ」
 と、主水介はくびをふって、かんがえこんで、
「あれア首を吊った屍骸だな。……頸にくびれこんだしごきのあとが、のどの下から耳のうしろへななめにはしっているし、そのくびれに血のにじんだあとがまったくねえ。ふつう人の手で絞め殺せば、殺される方はあばれるし、絞めた力に波ができるからどうしたって血のにじみ出ることが多いもんだ。……」
「そのとおりでありんす。花魁は夜中に折檻部屋に入ってきなんした!」
 突然、千弥がさけび出した。おさえにおさえた恐怖が|堰《せき》をきったように、手は宙をつかんで、
「そして、わたしたちへのあてつけに、首を吊って死になんした」
「これ、千弥!」
 愕然として、外記はその|脇《わき》をとって制しようとしたが、千弥はなかば狂乱したように、
「花魁は、じぶんで首を吊りなんした。けれど、それを人にみつけられては……わたしが殺したものと見られんす。いいえ、手をかけて殺したとまでは見られなくとも、わたしが花魁の客をとって、花魁に死恥かかせたものと思われんす。そこでわたしは……」
「千弥、とりみだすな、それ以上何も申すな!」
「いいえ、折檻部屋の戸をあけたのは花魁とまで見ぬきなんしたこの旦那、このままお調べがつづけば、主さんもひょんな目にあいなんす。まだお若い、お武家さまの主さんが人殺しの罪にかかりあっては、わたしは天にむける顔がおざんせぬ」
「何をいう。千弥、だまっておれ、証拠がないのだ。花魁が戸をあけたという証拠さえないのだ。まして、門兵衛を殺したのがだれかなどとは――」
 と、狼狽していって、急にはっと口をとじた外記に主水介はニヤリとして、
「門兵衛を殺したのは、新造かえ?――そこで、どうした?」
 千弥はいざりよって、|嗚《お》|咽《えつ》しながら、
「わ、わたしはわるい女郎でありんす。花魁に死なれてこまりきったわたくしは、ともかくも花魁の屍骸ばかりはどこかへはこばなければ、と|焦《あせ》りんした。さいわい折檻部屋から外へは出られるとはいうものの、見世のどこへはこんだらわたしがたすかるのかわかりんせん。いいえ、どこに屍骸を置こうと、花魁が死になんしたというだけで、わたしをみる人の眼はおなじでありんしょう。……わるい|智《ち》|慧《え》が起りんした。これをのがれるには、花魁と読経の旦那が心中したようにみせかけるよりほかはない。旦那が花魁に、無理心中をしかけたようにみせるがいちばんだと考えんした。そこで、花魁の裲襠をきて、部屋に入り、ねぼけまなこの読経の旦那に花魁と思わせて、ゆだんをみすまして、旦那をこの手で刺しんした。……」
 主水介はうなずいた。
「それから、花魁の屍骸をはこび、いちどふたりが首をつって心中しようとし、旦那だけしごきがきれて、あとで匕首で胸を刺したようにみせかけんしたが、わたしが刺した気のとがめから、旦那の手に匕首をにぎらせたは、ほんに女の浅智慧、見やぶられたも当然ながら、これこそ天のお裁きでありんしょう。……」
「そして折檻部屋へもどって、戸をしめれば、外から自然にサルがおちる。それから、もとどおりしごき[#「しごき」に傍点]にしばられたままの姿にとりつくろったか」
 茫然として、うつろな眼で千弥の顔をみていた外記は、急にはっとわれにかえった面もちで、がばと主水介のまえに手をつかえて、
「御明察、恐れ入りました。さりながら、もとはと申せば、誰袖の自害、その誰袖を自害いたさせたは拙者、あれが死んであてつけようとしたのは千弥ではなく、このわたしに相違ありませぬ。したがって、門兵衛を殺したのは、よし千弥にせよ、拙者も同罪。たとえそれが千弥をすくう唯一の手段と存じたとは申せ、千弥の大それたしわざを坐視した罪もござれば、なにとぞ拙者にもお縄をかけられい」
「何をいいなんす。人殺しはわたしでおざんす。人を殺さぬ人が、罪をきる理由はありんせん」
 千弥はさけんで、主水介にとりすがった。
「旦那、いま申しあげたとおりでありんすにえ、打首獄門はわたしだけ、この外記さんはお家の名も出ぬように、どうぞこのままゆるしておくんなんし」
「いや、おまえばかりは殺さぬ、拙者も、なにとぞ、なにとぞ――」
 さきを争って断罪の|笞《しもと》を待つこのふしぎなふたりの「恋人」を、鬼同心はあきれたように|黙《もく》|然《ねん》と見くらべていた。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:56:09 | 显示全部楼层
    二

 ――女囚おせんの話は終った。
 これが、姉女郎の客をうばい、彼女を憤死させ、それをあばかれまいとして、彼女の屍体を心中とみせかけるためにほかの客を殺害したという罪で、お奉行さまから、やがて死刑を宣告される遊女の物語であった。
 |闇《あん》|黒《こく》のおんな牢のなかに、くびもおれるほどうなだれたおせんのひざに、滴々と涙がおちている。
「それで、そのお役人はどうして?」
 と、姫君お竜がきいた。
「親切な旦那でした。……」
「というと?」
「つかまって、牢に入れられたのはこのわたしだけ、それはあたりまえですけれど、ほんとうなら、外記さんもお叱りの程度じゃすまないところを、さわぎを大きくしたくない|御《ご》|亭《て》さんのねがいもあって、何とか内輪にことをすませて下さいました。……」
 おせんは顔をあげた気配であった。
「お竜さん、そのお役人が、おまえさんを|穿《せん》|鑿《さく》|所《じょ》へよび出しにくるあの旦那なんですよ!」
「へ?」
「おまえさんはどんなお調べをうけているかしらないけれど、なんどお呼び出しをうけてもこのとおり元気でかえってくるところをみると、きっとお調べに御慈悲があるのにちがいない。ね、ほんとに親切な旦那でしょ?」
「あのひと、親切かしら? あたしにゃ、ちょいとのろまにみえるわ」
「まあ、そんなことをいうと|罰《ばち》があたりますよ。もしおまえさんが大それたことをしたというのなら、あの旦那だけには素直に白状しなさいよ。決してわるくはなさらないから」
「わるくはしないって――あなたをこうしてつかまえた同心じゃないの?」
「わたしがつかまったのは当然なのです」
 闇のなかに、おせんの声が一種異様の|昂《こう》|然《ぜん》たるはずみをおびた。むしろ歓喜と満足にちかいひびきをききとって、お竜は妙な顔をした。
「あなたは牢に入って、まさかよろこんでいるのじゃないでしょうね」
「よろこんでいるわけはないわ。ここは廓より、もっと恐ろしい。――」
 あたりまえだが、それだけに廓というものが、遊女にとって、どんなにかなしいところであるかを想像させた。
「でも、お竜さん。……」
 と、おせんはなおはずんだ声で何かいいかけて、
「おまえさんをこのあいだから見ているのだけれど、ふしぎなひとだ。なんでもしゃべってみたくなるひとだ。でも……よそう」
「おっしゃいな、おせんさん、どんなこと?」
「あのね、あたし、小さいときから|不倖《ふしあわ》せで、女郎に売られて、そのあげく牢に入って、どうせちかいうち|斬《ざん》|罪《ざい》になるのだろうけれど、いまは――牢に入るまえより、倖せに思ってるんです」
「へえ、なぜ?」
「だれもわたしを、ほんとうに好いてくれたひとはなかった。……けれど、どんなにじぶんがひどい目にあっても、わたしを救おうとしてくれたおひとを知ったから」
 誰のことをいっているのかすぐにわかった。夢みるような声であった。
 お竜は顔をあげた。
「外記さんは、いま何をしています?」
「知らないわ」
 と、おせんはいった。
「知らなくてもいいのです。あのひとは、あれで女というものにこりてしまったか。……いいえ、あれだけきれいで|侠気《きょうき》のある殿御なら、女の方でほうってはおかないでしょうけれど、それはかまわない。わたしはあの晩、丁字屋の折檻部屋にかけもどってきて、わしを千弥とおなじ目にあわせるがよい、それが本望じゃ、といってくれたひとこと、またお役人のお取調べに、門兵衛を殺したのは、よし千弥にせよ、拙者も同罪、といってくれたひとことだけで、もう死んでもいいのです。……」
「おせんさん、わたしにはわからないことがあるわ」
 と、お竜はしずかにいい出した。
「|間《ま》|夫《ぶ》をとられて、つらあてに死ぬほどのたかぶった|花魁《おいらん》なら、あなたか外記さんを殺してからじぶんも死ぬでしょうに――可愛い男がにくい女とひとつになって縛られているまえで首をつる女があるでしょうか」
「あるでしょうかって……実際、あったのだから……お竜さん、わたしはあなたにしゃべらなきゃあよかった……おまえさんはいったいなぜそんなことをきくのです?」
「あ、ごめんなさい。ほんとうにそうだ。相手があなたたちを殺さないでじぶんひとりで首をつったといって、あなたを責めてもしようがないわねえ。――けれど、あなた方ふたりは、花魁が首をつるのをだまってみていたんですか」
「わたしたちは縛られていたんです。花魁が柱の環にしごきをかけるのをみて、必死にとめようとしたのだけれど、どうにもしかたがなかったのです。からだが自由になったのは花魁が死んだあとだったんです」
「折檻部屋に灯はあったの?」
「い、いいえ、そうだ、だから花魁が、これからふたりの一生にいつまでもとり|憑《つ》いてやるからといっても、まさかと思ってだまっていると、花魁はほんとに首を吊ってしまったのです……」
「それじゃあ、まっくらだったのね? それならわたしはいっそう花魁のきもちがわからない、いくら眼のまえだって、灯のない|闇《やみ》のなかで死んじゃあ、つらあてのききめがないと思うんだけど――」
「…………」
「おせんさん」
「な、なに?」
「花魁は、折檻部屋で首を吊ったのじゃあありませんね?」
「ど、どうして?」
「わたしが花魁のきもちになったとして――どうしても、あなたたちのまえで死ぬ気にも、まして闇のなかで死ぬ気にもなれそうにない」
「おまえさんと花魁とはちがうわ」
 と、おせんは別人のようにひくい、ふとい声を出した。怒りと恐怖と|軽《けい》|蔑《べつ》と後悔と――ひらきなおった気配が、闇のなかにもあきらかであった。
「おまえさんに、花魁がどんな気で死んだかわかるものか。いつもいっしょに暮してたあたしにだってわからないのだから――けれどそんなことが、いまのわたしに何だというの? わたしは読経無用の旦那を殺した罪で牢にきたのですよ」
「そ、それはそうにちがいないけれど――」
 と、お竜は急にうちのめされたように吐息をついたが、やがてまた小さい声でつぶやいた。
「もうひとつ、まだわからないことがある。――」
 怒ってしまったおせんは、もうものもいわなかったが、きいてもお竜にはこたえなかったろう。
 夜明け――女囚たちは例の口笛をきいた。格子の外に例の同心の姿があらわれた。
「武州無宿お竜、穿鑿所へ|罷《まか》り出ませい!」
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