咖啡日语论坛

 找回密码
 注~册
搜索
楼主: syuunfly

[原创作品] 冷静と情熱の間(全书完)

[复制链接]
 楼主| 发表于 2006-6-7 11:30:31 | 显示全部楼层
 結局、ぼくは二〇〇〇年を迎えても、過去から抜けきれない人生を送っている。芽実とも別れ、過去のあおいとの約束だけを果すために生きている。そのほのかな約束は、西暦二〇〇〇年の五月、あおいの誕生日にフィレンツェのドゥオモで会おうというものだ。学生時代の戯れ事から生まれた約束だった。でもぼくが覚えている以上、彼女が忘れてしまっているとは言い切れない。忘れてしまっている可能性のほうがうんと高いのは知っている。でも可能性が零でなければ、そこに賭けてみたいと思うのが人間の心理というもの。そしてその約束の時間が近づくほどに、それはますますぼくの中で崇高な約束として高まっていく。
 
 あおいが住むミラノの電話番号にはその後三度電話を入れた。一度目はだれも出ず、二度目は男性が出た。
 もしもし、と男の声がしたので、息を殺してしまった。こちらが黙っていると相手もずっと黙っていた。三度目の時、同じように黙っていると、不意に片言の日本語でその男はこう言った。
 『アオイハイナイ』
 驚き、何も言えなくなって受話器を置いてしまったが、男のどこかいらついた声が耳元に残っていつまでも離れなかった。あおいはいない、とはどう言う意味だったのだろう。外出していない、のだと最初は思った。しかし、それから時間が経つにつれ、あおいはここにはもういない、といういみだったのではないか、と思うようになった。
 なぜそう思ったのか、はっきりとした理由があったわけではない。男の声に、どこか投げやりな感じがしたからだ。
 ここにはいないのだから、もうかけないでくれ、というような印象を感じ取ったからでもあった。だったら、もう一度かけて、イタリア語で問いただしてみることもできる。しかしぼくは受話器は何度も掴んだが、結局番号を押すことはできなかった。
 
 過去しかない人生もある。忘れられない時間だけを大切に持って生きることが情けないことだとは思わない。もう戻ることのできない過去を追いかける人生をくだらないとは思わない。みんな未来ばかりを語りたがるが、ぼくは過去をおろかにすることができない。あの日に帰りたい、とリフレインする日本のポップスを時々口ずさんでしまう自分を切り捨てられないでいる。
 
 祖師ヶ谷大蔵で電車を降りた。隣の成城学園前駅と比べ、かつては鄙びた垢抜けない駅だったのに、今は随分と新しい建物も建ち、駅前はすっかり近代的に変貌を遂げていた。あおいが住んでいたアパートは、南側の線路沿いの道を成城方向へと向かって歩いて五分ほどのところにあった。しかしこの道も今は大きく拡張工事がなされて、当時の佇まいは失われていた。僅か八年の歳月が、これほど大きく記憶を削っているとは思わなかった。
 ぼくは次第歩く速度を速めていた。小雨が降り出し、衣服が濡れたが、引き寄せられる記憶の引力の前には雨などささやかな抵抗でしかなかった。
 アパートはまだ取り壊されずに昔の場所にあった。周辺は随分と新しく立て直されたり、空き地もコンクリートで埋められて駐車場になっていたりしたが、思い出の建物だけは当時のままそこに立っていた。
 白くて綺麗だった壁も、時間と風雪には耐えられなかったようで、かなり色あせていた。しかしそこにはまだあおいが住んでいるような生々しさが残っていた。
 ぼくたちは当時、しょっちゅうどちらかの部屋を訪れては泊まって、半同棲のような関係を続けていた。しかし同棲に踏み切ったことはなかった。行ったり来たりは繰り返したが、あおいがけじめだけはきちんとつけたいといって一緒に暮らすことには反対したのだ。それは正しい判断だった。同棲をしていたら、もっとぼくは彼女に醜い部分を見せていたかもしれない。

 足元を殺して階段を上ると、あおいの部屋には新しい主人の表札がかかっていた。目を閉じ、中の様子を想像してみる。当時の記憶が蘇ってくる。家具の配置や、壁紙の模様、光の具合、部屋の匂い、あおいと抱き合ったベッドの感触、読書をするあおい、料理をするあおい、テレビを見るあおい、掃除をするあおい、洗濯物を干すあおい、どれも懐かしい記憶。忘れかけていたさまざまな思い出たち。それらは次々にぼくの頭の中に現れては消えていった……
 突然、かちゃかちゃとドアノブが動き出して、いきなり目の前のドアが開き、中から若い女性が顔を出し、ぼくを驚かせた。見知らぬ女性はドアの前に佇むぼくに気がつき、声を張り上げた。慌てて、すいません、間違えました、と言うと踵を返し、階段を駆け下りた。
 外に出るといつのまにか駆け出していた。もう振り返ることはなかった。雨は強くなり、頬に張りついてきた。薄れていく記憶を追いかけるようにぼくは全速力で走った。あおい、あおい、あおい、ぼくのたった一人のあおい……

 線路を渡り、道路を横断し、坂道を駆け上がり、人々を避け、十分ほど走ってたどり着いたのは成城大学だった。小さな小さな大学。まるで高校の延長のような、何もかも居心地の良かった大学。そして何より、ぼくとあおいが出会った大学。
 雨は更に激しさを増し、すっかりずぶ濡れだった。打ち付ける雨の中、ぼくは正門を潜り抜けた。新学期の前だからか、学生たちの姿は疎らだった。そのまま文連ハウスの方へと坂を下った。池の脇を通り過ぎると、懐かしい樹木があった。栗の木だ。ぼくとあおいが最初の口づけを交わした場所。あおいは背中を木に凭せ掛けていた。その木に当時のあおいを重ねて抱きしめてみた。
 呼吸が出来ないほど息が上がって、涙が溢れ出た。どうしようもなく好きなのに、どうすることもできない時、人間はただの樹木になるしかない……
 あおい。
 声を出した。打ち付ける雨に、ぼくの声が溶けていく。
 あおい。
 ざーっと地面を打つ雨の勢いに視界は朦朧と煙り、僕という存在さえ飲み込まれようとしていた。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2006-6-8 11:21:17 | 显示全部楼层
 翌日、千駄ヶ谷の工房に高梨から電話が入った。がらんとした作業場に事務所の女性が顔を出し、まるで暗号でも告げるかのように、タカナシさんから急用の電話です、と残して消えた。
 高梨という響きと急用という単語が最初頭の中で一つにならずぼくはどうしていいのか分からなくて、作業場の小さな窓から見える外の景色へ視線を逃した。青く色づく木々の葉に光が止まって眩しかった。
 事務所の電話を耳に押し当ててみると、海の音が聞こえた。高梨がどこから電話を掛けているのか分からないまま、イメージは遠くを彷徨った。
 先生が亡くなった、という彼の言葉からぼくは海外線に打ち上げられた貝殻を思い描いた。それは真っ白な一枚の美しい貝殻で、時折虹色の光を反射していた。
 高梨はジョバンナの死について詳しくは知らなかった。アンジェロからの連絡だということだったが、高梨が直接アンジェロと話をして聞いたのではなく、間に事務所の人間の存在があった。その人物は確かにアンジェロが英語で、ジョバンナという人物が自殺した、と言ったようだ。
 ぼくは確かめるためにイタリアに電話を掛けた。
 修業時代に世話になった画材屋の主人の口から、ジョバンナの死が確定された。だれもいなくなった工房の最上階にある先生の仕事場で、38口径の拳銃で頭を打ち抜いて死んだということだった。
 ミラノにもフィレンツェにも海はない。なのにぼくにはずっとイタリアの海岸の打ち寄せては返す波の音が聞こえていた。
 たった一度、ぼくはジョバンナと旅行したことがあった。べネツィアから南へ車で三時間ほど下ったところにMarottaという小さな海岸があった。夏は海水浴客たちで賑わう避暑地で、ぼくは先生と小さなバンガローを借り、まるで親子のように過ごした。
 毎朝ぼくは先生と、だれもいない海岸線を歩いた。
 アドリア海は水平線の先までずっと海が光っていた。ぼくにとって先生は母親の代わりだった。
 先生のすぐ後ろを歩きながらぼくは自分の母親と散歩をしているようだった。
 旅が終る最後の夜、ぼくは会ったことのない母の夢を見て泣き、隣のベッドで寝ていたジョバンナを起こしてしまった。ジョバンナはぼくのベッドに忍び込んできて、優しく抱きしてくれたのだ。ぼくはジョバンナのふくよかな胸元で眠った。彼女が好んで付けていたラベンダーのエッセンスオイルの甘い匂いがして、心も落ち着いた。
 翌朝、目が覚めた時、そこにジョバンナの寝顔があった。まるで彫刻のような骨格の凹凸がはっきりと出たイタリア人の芸術家の顔だった。閉じられた瞼や、ぎゅっと結んだ口元を母親を見る子供のような視線でしばらく眺めた。
 それからぼくはその唇にそっと口づけをしたのだ。
 
 工房にはちゃんと説明をして、仕事を引き継いでもらった。祖父からお金を借りた。ジョバンナの死のことを告げると、祖父は、悲しいことを引き受けることが生き残ったものの人生だ、と呟き静かに一つ頷いた。荷物は小さな鞄に入る分だけをまとめた。部屋に鍵を掛け、羽根木公園の梅に別れを告げて、ぼくはイタリアへと旅立った。次第に高度を上げる飛行機の窓から見る東京は仄かに霞んでいた。
 
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2006-6-8 15:15:06 | 显示全部楼层
 ローマを経由してフィレンツェに入ったのは三月の最後の日曜日であった。
 サンタ・マリア・ノヴェッラ駅を出るとフィレンツェの背の低い穏やかな街並みが眼前に広がった。統一感のある建物の外観は、しっとりと街を一つに馴染ませていた。世界一長閑なこの街で先生が拳銃自殺をしたとは想像もできなかった。
 小さな鞄を一つ抱え、ぼくは二年ぶりの懐かしい街を歩いた。取るものもとりあえず飛行機に飛び乗ったために、こうしてフィレンツェを歩いていると言うことがどうしても実感できなかった。しかも眼前に広がる景色は二年前と少しも変わっていないのである。どんどん変化していく東京とは違って、ここでは外観を弄ってはならないと言う決まりがあるせいか、新しい建物が建つということもない。このまま多分百年後も同じ外観を保っているに違いないのだから、フィレンツェという街とここに住む人々の辛抱強さは想像を絶するものだと言える。その辛抱強さが災いして、先生は自殺をしてしまったのかもしれない。
 不思議なことに、街の中心へと歩を進めるにしたがって、次第に先生の死を深く理解していくことができた。この変わることのない街並の中で、人が何か変化を望んだとき、その一つの選択こそ死ぬということに他ならなかった。
 
 駅前の大通りを曲がると、周囲の建物より一際大きな大聖堂ドゥオモのさらに最上部を覆う大円蓋が視界を遮った。低層の建物でできたフィレンツェの街の中、この大聖堂は実に高雅に聳えている。改めてこうして久しぶりに見ると圧倒される。
 ここで暮らしていた時は、その生活空間があまりに低かったせいで、この高さと威厳に気がつかずにいたのだった。しかしこうして二年が過ぎ、観光客の視線を取り戻して見ると、それはまさにここ古都に君臨する国王のような威風であった。
 しかし派手というのではない。その荘厳な外観は、ミラノの同じ大聖堂の煌びやかな美しさとは全く対極の、非常に弁えた美観を有していて、喩えるなら東南アジアの金色を配した寺や仏像ではなく、日本の奈良や京都を思わせる落ち着きと静寂を持っていた。
 ぼくはドゥオモ広場に立ち止まり見上げた。百メートル以上の高さに大円蓋が、まるで大きな手編みの毛糸の帽子のように乗っかっていた。更にその頂上にアラビックな様式の小さな小屋がくっついている。そここそ、あおいと待ち合わせをした場所であった。\
 待ち合わせの約束。もっとも、その約束はあおいがぼくたちの子供を中絶する前にしたものだった。二人がまだ恋の光に包み込まれていた時に交し合った誓いだった。
 感情的になって彼女を責め、彼女がおかれた苦しい立場も理解せず、一方的にその縁を切ってしまったのだから、彼女があの時の気持ちを今も持ちつづけ、このささやかな約束を覚えているわけはなかった。
 でもぼくは自分のした仕打ちを償う意味でも、たとえ一人で登ることになろうと、この聳える大聖堂の細く長い階段を一段一段踏みしめて歩きたかった。それは一方、若さの犠牲になった自分たちの分身への謝罪も込められていた。
 あまり長い時間見上げていたので首が痛くなった。冷え切った首の後ろを手で押さえ、ぼくは再び歩き始めた。アンジェロを探し出し、先生の墓の場所を聞くつもりだった。なのに不思議なことだが、もう先生はぼくのそばにいるような気がした。駅に汽車が滑り込んだ時から、すでに先生の魂の出迎えを受けていた、ような気がしていた。
 ジョバンナの魂が見える。
 きっと、あれから彼女は物凄く激しい後悔の中を生きていたに違いなかった。その魂の重みがぼくには手に取るように伝わってくるのだった。
 アンジエロを捜す気が薄れた。先生の墓はいずれ訪ねるつもりだったが、今はこの街の沈殿した空気を嗅いで、ゆっくりとここに留まり、静かに喪に服したかった。
 
 夕暮れまで懐かしいフィレンツェの街を一人で歩いた。小さい街だから、かつて仕事で世話になった昔の知り合いを見かけたりもしたが、声を掛けることはなかった。すべてぼくにとっては一つの記憶の景色に過ぎない。
 先生の魂を感じながら、ただぼくはこの街を呼吸していたかった。
 インスーのアパートを訪ねたのは、すっかり日も落ちた頃。まだ彼女は戻っておらず、代わりに、かつての芽実の部屋に住むブラジル人の女性が、多分もうすぐ帰ってくるから、とコーヒーを淹れて出してくれた。
 君の部屋にかつてぼくの友達が住んでいたんだ、と言うと、中を覗かせてくれた。作りつけの机やベッドは当時のままで、大きな変化がないせいか、不思議な気分に包まれた。あの頃に戻ることはもうできないのだ。後悔だけはしてはならなかった。しかしふっと芽実が言い残した言葉が頭を掠めていった。
 『誰か他の人が私を可愛がってもいいのね』
 芽実との別れにいったいどんな意味があるのか分からない。あおいとの別れのように尾を引くのかもしれなかった。
 人生とは後悔の連続だ。しかし今は五月を待つより他にぼくには方法がなかった。そしてぼくの未来は唯一この五月だけ……。後はすべて過去なのだ。いったいぼくは何をしたいのか。何をしようとしているのか。五月よりも先の未来は想像もできなかった。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2006-6-8 15:15:54 | 显示全部楼层
 インスーとの再会はまたもや過去との再会を意味していた。無言で彼女を抱きしめたが、いろいろなことがいっぺんに押し寄せてきて思わず言葉が詰まった。ぼくがあまりに強く彼女を抱きしめ、しかも何時までも離そうとしなかったので、彼女は気持ちを察してくれてかじっと動かずぼくの感情がもとに戻るまで静かに待っていてくれた。思えばそういう親切に無関係に生きてきた。親切を拒んできたようなところがあった。芽実さえも拒んだ。自業自得の孤独だとも言える。
 まだ部屋さえ決めていない、と告げると、インスーはすぐにかつての同級生が働いているホテルへ電話をかけてくれ、そこに一部屋を確保してくれた。話さなければならないことは沢山あったが、疲れていて口は重かった。
 ジョバンナが死んだことを告げると、インスーは、こっちでも大きなニュースになったから、と小さく頷いたが、それ以上は語ろうとしなかった。
 ホテルまでインスーが付き合ってくれた。この時点ではインスーのところで飲んだ温かいコーヒーのせいもあって、気分も幾分落ち着きを取り戻していた。アルノ川沿いの安宿にチェックインを済ませた後、二人は一階のレストランで食事をした。誰もいないがらんとしたレストランの窓際にぼくたちは陣取った。この二人ほどまともに食事もしていなかったせいで、出てくる料理を不謹慎なことに美味しいと感じた。がつがつと食べつづけるぼくを見て、インスーは微笑んだ。
 「良かったわ。食欲があるなら大丈夫」
 手を止め、目だけを向けるとそこにインスーの色白でふっくらとした顔があった。優しく微笑む目は緩やかな弧を描いていた。とにかく食べた。久しぶりに味わうトスカーナ料理の懐かしい味がもう一度ぼくの記憶を揺さぶるのだった。
 「少しは落ち着いた?」
 インスーが流暢なイタリア語で言った。彼女の語学力は前にもまして上達していた。ぼくのほうはすっかりテンポを掴めなくなっていた。時折とんちんかんな言い回しになっては、二人の口元を緩ませた。
 「そうか、そんなことがあったのね」
 芽実とのことを伝えるついでに、ぼくは時間を掛けて、生まれて始めて第三者にあおいとの過去を話した。このことはジョバンナにも祖父にも言ったことがなかった。インスーにぼくのことを理解してほしかったわけでもなかった。インスーに語りながらも、自分自身に言い聞かせているようなところがあった。記憶を紐解きながら、ぼくは自分だけの過去を旅した。
 「じゃ、五月までここにいるのね」
 しばらくして、どこから声が言った。エッとぼくが顔を上げると、インスーはじっとぼくの顔を覗き込んでいた。そこにインスーがいたことをすっかり忘れていた。
 「先生の死がぼくの重たい腰を上げさせたのは事実だけれど、ここに来たのは多分、あおいとの約束も大きかったと思う。先生の死に対しての悲しみがある一方で、ぼくはあおいとの約束が迫っていることに日々落ち着かなくなっている。先生の死とあおいとの再会はまったく別のものなんだけど、でもぼくの中では不思議なことに同居できるものになっている。先生の死に浸りながら、今ぼくは生きるということに目覚め始めている」
 インスーは頷いた。
 「あおいがこの約束を覚えているとは思えない。なのにぼくは芽実と別れてあおいとの約束に賭けた。芽実はあんなにぼくのことを愛してくれた。ぼくもそれにできるだけ応えたかった」
 「応えるなんて言い方、それは芽実を侮辱するものだから、使ったら駄目よ」 
 インスーの声は優しかった。
 「すまない。そういうつもりじゃない。あの芽実の無垢な愛情は他と比べれないほどぼくには意味を投げかけてくれたものだった。ぼくも芽実が好きだった。きれいごとを言うつもりじゃないよ。でも、あおいのことが忘れられなかった。忘れられるかと思って最初は芽実と付き合ったんだ。こんな不純な気持ちで付き合いだしたことを芽実には詫びなければ。でも好きだったし、もっと好きになれるかもしれないと思ったのも事実だ。しかし駄目だった。時間が経つうちに、ぼくの中であおいはかつてないほど大きく聳えてしまっていた。忘れられない人はいる。きっとあおいは一生忘れられない人なんだ」
 インスーは頷いた。そしてそれ以上は口を閉ざした。友人芽実のことを察した彼女の優しさからだった。申し訳ない、といい終わったあと後悔した。誰かに言いたくて、つい喋ってしまったが、かつてのルームメイトが今東京の空の下でどれほどの痛手を負って暮らしているかを想像すれば、インスーが安易な同情や同意をするはずもなかった。
 「何かあったら、いつでも連絡してね」
 「ありがとう。酷い話を最後まで聞いてくれて……」
 アルノ川沿いの道で二人は手を握り合った。インスーは空を見上げた。三月とはいえまだまだ寒かった。空はどこまでも澄んでいていたる所で星が瞬いていた。
 「そんなに誰かを好きになれるジュンセイが羨ましい」
 インスーがぽつんと呟いた。何もかもを捨てても、愛に走ることができる人が羨ましい、と付け足した。彼女が見ている空を見上げていた。東京で時々見ることができる星座があった。
 「こんな私にもかつて愛した人がいるのよ。その人は今、ソウルの大学で教鞭を執っている。でも会いたいけど会えない。その人には家庭があって、幸福があって、責任ある社会があるから。私があの国を飛び出したのは、そこにはいられなくなったから。こうしてここに残って過去を殺して続けているのも、つまりは他に行くべき所がないからなの」
 インスーの目に涙が溜まっていた。その涙に街灯の光が反射して生き物のように光って蠢いた。
 「忘れらない人。あの人はいまどうしているのだろう」
 インスーの声はアルノ川を吹き抜けていく北西の風に乗って消えていった。インスーの後姿を何時までも見送った。それはジョバンナのようでもあり、芽実のようでもあり、またあおいのようでもある。川の遥か彼方の上空、遠くに星が流れた。流れ星に願いをかける余裕もないまま、星は瞬時に宇宙に呑み込まれてしまった。
 
 安宿の硬いベッドの中で丸くなり、ぼくは自分で自分を抱きしめながら眠った。何に働き動かれてこうして苦しい人生を選び生きているのか分からなかった。あおいを忘れられないのなら、いますぐミラノを訪ねればいいのに、と口にしてみたが、途中でそれはため息となって零れ落ちてしまった。
 夢を見た。
 もう何度も見たことがある景色の中にいた。そこが冬のセントラルパークだと認識できた瞬間、自分が夢の中にいることが分かった。目の前には母の死体が横たわっていた。雪が舞い、母は半ばそこに埋もれそうになっていた。ぼくは駆け寄り、母を起こそうとした。しかしそれは母ではなく、頭から血を流すジョバンナだった。驚いたせいで思わず手を放してしまう。すると先生の体は雪の中にめり込んだ。激しい風が吹いて、先生の亡骸を雪が包み込んでいく。真っ白な景色の中、先生の流す赤い血が鮮やかに世界を染め抜いていた。先生の目は見開かれたまま、透き通った涙を流していた。眼球はここではないどこかを見つめている。先生、先生、とぼくは叫んだ。しかし返事は戻ってこない。ぼくは号泣した。もう先生が生きていないと言うことを夢ではじめて認識したのだった。
 そして自分の泣き声でぼくは目覚めた。真っ暗なホテルの部屋の中だった。目が覚めても泣き止むことはできなかった。ぼくは溜め込んでいた感情を全てを吐き出すかのような勢いで泣きつづけた。顔をくしゃくしゃにして全てをさらけ出してしまうべく泣いた。体の中に溜まっているこの業を涙とともに全て吐き出してしまいたかった。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2006-6-9 20:59:24 | 显示全部楼层
第12章 夕陽

 小高い丘を流れていく五月の風が荒れた頬の皮膚を浚っていく。
 光が降り注ぐ、そのなだらかな斜面に幾つもの墓が立ち並び、フィレンツェの街を見下ろしている。
 真新しい墓に祈りを捧げていると、一匹の蜂がどこからともなく飛んできて、ぼくの周囲を旋回し始めた。羽音が、静かな田園風景の中に異様なほど立ち上がる。まるで自分をそこから追い払おうとしているかのように・・・・・・
 蜂は今確かに目の前に居座り、その背後にはジョバンナの名が刻まれた墓がある。
 不意に恐れが足元を後退させる。ここには来るな、と言われているような悲しみに思わず踵を返してしまう。祈りも早々にそこを離れた。
 インスーに紹介してもらった駅の側にある安宿横町ヴィア・フェンツァにある格安ホテルに移って一月が経った。快適とはいえなかったが、老夫婦が経営する宿で朝食付だった。一旦ホテルに戻り、シャワーを浴びてから、近くのレストランで食事をするために出かけ直した。
 レストランには自分以外他に客はいなかった。アルデンテからはほど遠い、芯のない伸びきった薄味のパスタを食べた。窓越しに薄暗い通りが見える。学生たちや、旅行者がすたすたと通り過ぎていく。空から降り注いでくる光が、地面を浮き立たせていた。
 あおいの誕生日が明日に迫っている。しかし明日とはなんだろう。何の変哲もない長閑な一日が暮れ、長い夜が過ぎると、明日がいつものようにやって来て、ぼくはまた、人生を悟らなければならなくなる・・・・・・
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2006-6-13 14:31:35 | 显示全部楼层
 その後のことを考えるのが辛かった。しかし何も起こらない可能性のほうが圧倒的に大きい今、自分のこの三十年間の人生は一瞬にして真っ白な状態に戻ってしまうのだ。どうしていいのかきっと分からず、再び呆然と人生に向かい合わなければならない。
 しかしそんなことが怖いわけではない。確かに未来には不安しか残ってはいないが、ここまで来てしまうと、不思議なことに、逆にどんな結果が出ようとも、それはそれとして受け止めることができる、ような気もする。何も起こらないとしても、ぼくはあおいの思い出を生涯持って生きていく決意がある。
 数日前、インスーにそのことを話した。すると彼女は、それは不幸だと首を真横に振った。人生は一度だが、何度でもやり直すことができる。彼方は彼方の新しいパートナーを探すべきだ、と言われた。ああ、と頷いたが、心は決まっていた。
 ぼくはもう一度旅に出る。明日が何も起こらず過ぎたら、その日ぼくはぼくをリセットして。そしてあおいとの日々の記憶をもう一度鞄に詰めなおして出かけるのだ。かつて、一度も足を踏み入れたことのない異国で、全く違った人生を送りなおしたい。あらゆるしがらみから抜け出してぼくは残りの時間を旅するだろう。
 次から次に人は会っていく。そして次から次に人は別れていく。裏切り、卒業、転校、旅立ち、死別。その理由はいくらでも挙げられるが、人間は分かれるために生まれてきたようなもの。その苦しみから逃げ出すためにみんな新しい出会いを必要とする。
 でもぼくにはあおいを忘れて次に進むことができない。男らしくないと思われても、それがぼくという存在の行き方だから仕方がない。
 通りの先から、小走りにやってきた影があった。光の中を通過するとき、影がホテルの老主人であることが分かった。手を上げ合図を送ると、彼はそこにいたのかという顔をしてみせ、まっすぐにこちらを目掛けてきた。息を切らせながら、大変なことだ、君のお祖父さんがね、と告げた。
 祖父の死についてはどこかで覚悟していたせいもあり、ジョバンナの死とは違い、ぼくの心にぽっかりと小さな穴を開けたに過ぎなかった。祖父に不意に腹を殴られた時の痛みを思い出した。
 隙あり……
 祖父の声が耳奥に立ち上がった。日本を発つ前、阿形清治はぼくの手を強く握りしめた。多くを語らなかったが、現世での別れをどこかで意識していたのかもしれない。握りしめてきた彼の手は冷たく、血の温もりはすでに消え失せていた。

 ホテルから東京へ電話を掛けると、叔母が出た。その最後について語る叔母の声は穏やかだった。眠るように逝った祖父のその時の様子が脳裏に浮かぶ。
 『明後日お通夜を行うけど、帰ってくることができるかい』
 ぼくは小さく首を振る。黙っていると、無理しなくていいけど、阿形清治はお前のことを一番に思っていたからね、と呟いた。
 「帰りたいけど、今は帰れない事情があるんだ」
 国際電話とは思えない明白な声の輪郭がかえって祖父の死をはっきり伝えていた。
 『告別式にはお前の父さんも戻ってくる。阿形清治はお前に財産の多くを残すことを記した遺書を弁護士に渡してあった。お前の父さんは金の亡者だから、いろいろと手を回すかもしれないよ』
 金か……
 「叔母さん、ぼくはお祖父さんに多くのことを教わりました。ぼくにとってお祖父さんは親そのものでした。だから今すぐに飛んで帰りたい。でも明日、ぼくはどうしてもこの街に居なければならない。この八年ぼくはその日を待って生きてきたんです。おじいさんの最後に顔を出せない不幸を恥じています。でもどうか許してください。」
 叔母は、分かった、と一言呟いたが、その声の印象は暗いものではなかった。
 『順正、そこから祈りなさい。きっと通じるはずだから。』
 電話を切った後、目頭が熱くなった。宿の老夫婦がフロントの奥からこちらをじっと見つめていた。
 「日本に帰るのかい」 
 老婆の方が優しい声で言った。ぼくはかぶりを振る。
 「帰りたいけど、まだここにやりのこした用事があって……」
 老主人の方が、それは気の得に、という顔をしてみせた。
 「明日、ドゥオモに登ることができますか」
 聞くと、老婆がカレンダーを見た。
 「木曜日だから、大丈夫だけど。祈りを捧げるのかね。」
 天上のクーポラに登ることができるのは何時でしょう。老婆の問いには答えず、質問をした。老婆がカウンターの裏にある本を開いて調べてくれた。
 「朝八時半から」
 小さくお辞儀をし、部屋に戻った。硬いベッドの上で大の字になって天井を見つめた。静かな一日だった。こんなに大事なことがすぐそこに迫っても、世界は静かに回転をしている。
 
 空気を吸い、空気を吐いた。それから目を瞑った。涙が一粒を伝った。
 その夜はなかなか眠りにつくことができなかった。仕方なく、買い込んでいたワインをいつもより多めに飲んでベッドに潜り込んだが、アルコールが切れると同時に目が覚めてしまった。夜明け前であった。
 空が白み出すと、窓を開け、外の空気を吸ってみた。鼻孔の奥がつんと澄み、肺に朝の空気が染み渡る。西暦二〇〇〇年の五月二十五日だった。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2006-6-22 12:12:14 | 显示全部楼层
 着替えると、日の出を待たずに外に出た。霧で霞む路地に足を踏み出すたび、体が震えた。一歩一歩確かめるように歩いた。誰もまだ歩いていなかった。大通りに出ると、霧も消え、先にドゥオモの円蓋が見えた。百六メートルの高さがあるこのクーポラは街のどこからでも見ることができた。この街の人々は何世代も前から、あのクーポラを見つめて生きてきたのだ。
 会えるだろうか。それとも……
 ドゥオモが近づいてくるたびに、大きな期待と不安の板挟みにあった。毎日この前を通過しているというのに、いつもとは全く感じが違う。期待をしては駄目だ、と自分に言い聞かせてみた。会えないのが当たり前なのだ。十年前の、それもおぼろげの約束なのだから……
 会えなくてもぼくは最後の瞬間までこのクーポラの上で待つ。待ちながら、この八年を修復して。そしてあおいが来なくとも、ぼくは自力で壊れかけた自分を再生させて堂々とここを降りてこよう、と自分に言い聞かせていた。
 
 息を潜めて夜明けを待った。空が明け始めると、鳩の群が大円蓋のさらに上空を飛び去った。ドゥオモ前の広場にはジプシーの親子が抱き合って寝ている。ぼくは広場のほぼ真中の石畳の上にしゃがみこんだ。冷たい朝の、一陣の風が吹き抜けていく。
 通りや路地から人々がぽつりぽつりと姿を現し、目の前を歩いていった。バールが七時に開いたので、そこでパンと飲み物を買った。ジプシーの親子が目が覚まし、二人は手を繋いで通行量の多い場所に移動した。コインを受ける空き缶を取り出し、歩道の上に置く。父親が息子を抱きかかえた。まるで彫刻のように動かなくなった。光が彼らをそこに浮き上がると、フィレンツェの街は遠心力を得て、活動をはじめた。
 
 八時半、大聖堂の扉が開き、ぼくは中に入った。中はがらんとした巨大な空洞で、重々しい空気が張り詰めていた。一万リラを支払い、いよいよクーポラを目指して踏み出した。
 階段は大人二人がやっとすれ違うことができるほどの狭さである。ひんやりとした石の壁に手を添えながら、ぐるぐるとらせん状に巡る階段を登った。上まで、四百段以上もの階段を登らないとならなかった。
 すぐに汗が噴出してきた。随分登ったと思ったが、頂上にはいつまで経っても到達しなかった。このままこの石の階段を永遠に登りつづけていきそうな目眩に襲われた。着ていた服を次々脱いで、最後はTシャツ一枚になってしまった。
 記憶を手繰るようだった。あおいとの出会い、恋に激しく燃えた頃、半同棲の楽しい日々、中絶、分かれ。それらは汗をぬぐうたびに瞼の裏側に浮かび上がっては消えていく。苦しかった。一段一段の思い出はずっしりと重く、背骨に伸ばしかかっていた。息が上がり、何度も途中で立ち止まっては、腰を伸ばして休んだ。
 ようやくクーポラの上に出たとき、待ち受けていたのはフィレンツェを横切る春の風であった。ああ、と思わず声が出た。三百六十度、見渡すかぎりの開かれた景色がそこには広がっている。迷いのトンネルを抜け出すことができた後に、この景色が自分を待っていてくれたことに随分と救われ、安堵のため息が溢れた。
 頂上にはまだ誰も登ってはいなかった。展望台をぐるりと回り、三百六十度のフィレンツェを上から見下ろした。歴史をそのまま背負った街。二十一世紀という新しい千年期に突入した今もまだ中世を大切に留めている街。愚かさと偉大さが同居した街。修復を繰り返す街。過去を見つめつづける街……
 ぼくはクーポラの真裏に腰を下ろした。
 
 待っている時間の長さは、つまり悟るための長さだ。待っている先に待ち受けている現実があることを悟るため、人は待つという時間に身を浸す。そしてぼくの場合、それはこの八年という長さだった。
 だから今、不思議なことにぼくは予想以上に平然としていられるのかもしれない。昨日までのぼくとは違うぼくがいる。あおいは来ないかもしれない。この八年がぼくを解き放った。今はあおいとの過去に、そして自分の現在に決着をつけるためにここにいるのだ。
 目の前に青空があった。ぼくは今よりももっともっと若い頃、空だけを描く画家になりたかった。画家というより、絵描きに、空の絵を描く人になりたかった。
 空は常に一定ではない。曇りは形を留めることはなく、いつも自由に動き回っている。空を見上げるということは、心を見つめることに似ていた。だからぼくは空を描くたび、心が落ち着いた。
 いろんな空があるように、人間にもいろんな人間がいるのだ、と思うなんでもかんでも許せるような気分になれた。
 
 低い空、高い空。
 大きい空、狭い空。
 青い空、暗い空。
 澄んだ空、濁った空。
 しかしどの空に変わりはなかった。それが頭の上にあることで、ぼくは安心ができた。
 曇り空に向かって、話しかける。空を降らせようという気だね。でもぼくが家に戻るまで我慢してくれないか、と。晴れた空に向かって叫んだ。おーい、おーい、おーい。
 空があるかぎり、ぼくは一人ではなかった。学校で苛められても、家で父親に殴られても、都会の真中で孤独だと感じても、平気だった。そういう時は真っ先に空を見上げ、もしもその時スケッチブックを持っていたら、その空が変化する前にぼくは素早く永遠の一瞬を描き写した。
 空があった。何も遮るもののない平坦な空。光の粒子が溢れた青と白の混じり合ったような眩い空である。この八年を委ねるにはこれ以上の晴れ渡った空はなかった。ぼくはしゃがみ、まっすぐに空を見つめる。 
 
 多くの観光客が登ってきた。さまざまな国からの訪問者たち。笑い声が絶えなかった。ぼくだけが口をぎゅっと結んで正面を見つめていた。青空の中ほどにずっとあおいがいた。こちらを見て微笑んでいる。ぼくが知っているあおいは二十歳そこそこの女子大生だった。今はもう三十歳。しかし四十歳になっても、五十歳になっても、あおいはあおいだった。
 バールで買ったパンを口に頬張る。太陽が真上にあった。やっぱり来ないな、と思った。パンを噛みながら、それまで平然としていた気持ちが僅かに揺らいだ。もう一度青空を見つめた。そして口元に笑みを拵えてみた。くじけそうになったら、微笑みを作るのよ。そう教えてくれたのはジョバンナだった。ありがとう、と空に向かって呟いてみる。ここで出会った多くの人々に感謝をしなければならなかった。

 次第に太陽が傾き始めた。じりじりと一日が終えようとしている。このクーポラは六時二十分に閉まることになっていた。
 ドイツ人と思われるカップルがぼくのすぐ隣に腰を下ろした。二人はぼくの目を盗んではキスをしている。聴き慣れない異国の言葉が、ささやかなリズムを伴って、頭の中で揺れた。彼らがどんな愛の文句を呟き合っているのかは分からなかったが、彼らは世界で一番幸せな二人に見えた。笑い声は幸福で弾けそうになっている。女性の方と目があった。微笑みかけると、男性の方もこちらを見た。
 「コンニチハ」
 片言の日本語で挨拶をされた。
 「Bitte」
 ぼくが知っている唯一のドイツ語で返した。二人は微笑んだ。
 「一人旅かい」
 英語で、男性の方が言った。
 「いいや、ここで人を待っているんだ」
 女性の方が、恋人を? と聞いてきたので、ぼくは肩を竦めてみせてから、かつての恋人だよ、と戻した。
 「どれくらい待ったの」
 と男性が言った。何時間くらい待っているのか、という意味だったが、ぼくは、十年、と答えてしまった。二人の笑みはやんだ。 
 「十年前にね、西暦二〇〇〇年五月二十五日に、ここで会おうと約束したんだ」
 女の方が金色の髪をかきあげながら、小さくため息を漏らした。彼らの幸福を邪魔することはない、と自分に言い聞かせた。こんな私的なことを彼らに語ることはないのだ。なのに語りたくて仕方がなかった。
 「約束といっても、はっきりとしたものではない。ふざけてした曖昧なもの」 
 「でも君は今日を大切に待って生きてきたんだね」
 頷いてみせると、男はポケットから四葉のクローバーが入った小さなプラスティックの四角いカードを取り出し、差し出した。何?
 「お守りだ。ささやかなプレゼントだよ」
 「どうぞ。受け取って」
 二人は頬骨から笑みを振りまいた。ぼくは差し出されたカードを手に取った。イタリア語で、MHMBUONA FORTUNA (あなたに幸福が来ますように)、と書かれてある。
 「いいのかい」 
 女が口許に新たな、そして今までで一番くっきりとした笑みの光を作った。
 「ええ、いいわ」
 「べネツィアで買ったんだが、これは君が持つべきだ」
 「でも……」
 「MHMBUONA FORTUNA (あなたに幸福が来ますように)」
 ドイツ人のカップルはしばらくそこで一緒に時を過ごしたが、太陽が西の空に深く傾斜しはじめると、幸運を祈るよ、と言い残してそこを去った。\
 四葉のクローバーか。プラスティックのケースの中で小さな小さなクローバーが四枚の葉を広げていた。
 空が赤くなり始めていた。建物の屋根に光を反射している。やっぱり、来ないんだなとため息が出た。四葉のクローバーを握りしめた、その時だった。
 「順正」
 声が耳元を掠めた。風の悪戯かと思った。しかし、耳はしっかりと懐かしい感触を覚えていた。振り返ると、そこに待ち焦がれた人がいた。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2006-6-24 10:01:06 | 显示全部楼层
 昔のままのあおいを想像していたせいで、この八年の隔たりが築き上げた、慎ましく、美しいあおいに視線が凝固してしまった。
 「あおい」
 名を口にするのが精一杯だった。ゆっくりと立ち上がると、吸い寄せられるように一歩踏み出した。昔よりもずっと女らしく洗練されたあおい。自分の昔のままの見素晴らしさを忘れて、ぼくはさらに数歩前に出た。
 「来ちゃった」
 四百段以上の階段を登ってきたせいで彼女は汗をかいていた。それを手の甲でぬぐいながら、あおいは言った。
 待っていたよ、と告げると、彼女は、うん、と小さく頷いた。
 夕陽に彼女の顔が赤く染まっている。こんな時でさえフィレンツェという町は,相変わらず静かな時間の流れの中にあった。自分の人生においてこれほど重大な出来事が起こっていても、ドゥオモの頂上は世界で一番呑気な風が吹いていた。
 
 今すぐ伝えたいことがたくさんありすぎた。そのせいで言葉はできては消える泡のように喉元で次々に弾けていった。
 「覚えていてくれたのね」
 何もかもが信じられず、ただぼんやりと彼女を見つめていたぼくに代わってあおいがそう呟いた。懐かしい声・・・・・・。声には十代の頃の、瑞々しい若さの残滓があった。
 「三十歳の誕生日、おめでとう」
 「ありがとう」
 そこでやっと二人の口が緩む。しかしそれは溢れるようなものではなく、息継ぎのような儚い笑みでもあった。すぐにまた二人はまっすぐな視線と現実を見つめる厳しい表情を取り戻す。
 どうしよう、と迷った。夢が現実になることの不思議な感覚に自分を保てそうになかった。来ない、とどこかでずっと諦めていたせいもあった。なのに、あおいは今、目の前にいる。
 「来るとは思っていなかったよ」
 正直にそう告げると、彼女は、私も、と付け足した。
 「もうあんな約束忘れてしまっていると思っていた」
 「私も」
 「幸せに生きていると聞いていたから、絶対に来ないと思っていた」
 あおいは唇を噛みしめ、視線を落とした。
 「でも来てくれた」
 あおいは頷いた。 
 「来たんだね」
 あおいは再びまっすぐにぼくを見つめた。
 「来ちゃった」
 いったい何を誰に感謝すればいいのだろう。それともまだ感謝は早急すぎるのかもしれない。風が吹く。彼女の柔らかい毛がその流れに靡く・・・・・・
 「ずっと、ずっと、この日を待っていたんだ」
 彼女は何も言わなかった。何かを恐れているよな、躊躇っているような、用心しているような気がして、不意に喉元が諦めつけられた。急いで何かを語ってはならないような・・・・・・
 あおいは僕のほうへもう数歩近寄った。
 目の前に夢に見つづけたあおいの黒くやさしい目があった。感情の堰が開き、ため息が溢れた。苦しくて、どうしていいのか分からない。過去はばっかり見つめてきた自分がはじめて今という現実を見ようとしているのだ。目の前にいるあおいは過去ではない。目の前のあおいは未来だ。そのことを思うと、体の中でどうすることもできない大きな不安がぶつかり合った。
 
 次の瞬間、あおいが胸に飛び込んできた。抱き留めてしまったが、それはあまりに柔らかい現実だ。抑えていたこの八年の思いが、そのとき決壊した。両腕で抱き留める。学生時代よりもずっと細くしなやかな体躯・・・・・・。骨と肉の輪郭が生々しく伝わってくる。それは夢の中のあおいではなく、今を生きる今日のあおいであった。
 「あおい」
 八年の苦しみが解き放たれようとしていた。
 「あおい」
 ぼくの声は震えっぱなしだった。
 「順正・・・・・・」
 この八年の苦しみを脱ぎ捨てる勢いで彼女を抱きしめつづけた。斯界に空が広がっていた。切なく儚く赤く染まる古都の夕焼けである。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2006-6-24 10:04:10 | 显示全部楼层
最終章 新しい百年(il nuovo secolo)
 
 自分以外の人の気持ちがわからないのはどうしてだろう。
 子供の頃、一緒に遊んでいる友達の顔を見ながらいつもそんなことを考えていた。
 大人になるに従って、そういう幼い疑問はどこか現実的な諦めとともに消え去ってしまった。あおいと他人になってから八年が過ぎた。他人になって、彼女はますますぼくの心の中に居座ってしまっていた。過去よりも大きな存在だと言っても過言ではない。だから八年ぶりに不意に目の前に現れた彼女をぼくは困惑なしに見つめることはできなかった。
 三十歳になってしまったあおい。空白の八年はぼくたちの心にどんな変化をもたらしたというのだろう。
 会えなかったこの八年。あおいはぼくの中で付き合っていた頃よりも強く光を放っていた。二度と会えないのではないか、と思うことで、彼女はどんどん大きな存在に膨らんでしまっていた。
 ところが不意に現れたあおいに対してぼくはどう行動していいのか分からなかった。一緒にドゥオモの階段を下りながら、これから先のことを考えるのが、幸福なのに、怖かった。
 会えないと思っていたせいも大きかった。あえなければこれで諦めがつく、と考えていた。八年という歳月に決着をつける覚悟でぼくはドゥオモの上に立っていたのだから。なのに彼女が現れてしまったことで、忘れ去ろうとしていた心に新しい火が起きた。その炎は予想していなかっただけにいっそう大きく膨らんで、ぼくは錯覚した、幸福が戻ってきたのではないか、と。
 だからあのとてつもなく長いドゥオモの階段の中、ぼくはずっとずっと激しい鼓動を感じながら、足は曇りを踏みしめているかのような軽さを覚えていたのだった。
 
 

 彼女の持ち物は小さな鞄が一つだった。
 それをぼくが持ち、彼女はぼくのすこし先を爪先立つようにして歩いていた。二人の間には冷静と情熱が交合に押し寄せては、会話を抑圧し感情を微妙に諦めあげてきていた。
 スタッチオーム広場ののんびりとした景色の先にサンタ・アリア・ノヴェッラ教会の尖塔が聳えており、その高貴な佇まいを横目に、二人はフィレンツェの中心的な駅、サンタ・マリア・ノヴェッラ駅の構内へと歩きを進めた。
 駅前は、タクシーが列をなし、ヨーロッパやイタリア国内への旅へと向かう人々で賑わっていた。旅人たちがトランクを押しながら駅の大きな口の中に飲み込まれたり吐き出されたりしていたが、東京やミラノの無機的な駅とは違い、全体的には温かく清楚な佇まいを持っていた。
 「ここでいいわ」
 あおいがぼくの腕から鞄を奪うようなそぶりをして見せるたびに、ぼくは、大丈夫、それを拒んだ。何が大丈夫なのか実際わからないままに・・・・・・
 駅の構内の天井は高く、フロアーの人いきれとは裏腹に、迷い込んだ鳩が鉄の格子に留まって下界を見下ろしていた。あおいはまっすぐ駅の切符売り場へと進み、迷わずにミラノ行きのチケットを買うために並んだ。

 ドゥオモの上で再会した日、彼女は振り返ったぼくに向かって、来ちゃった、と告げた。信じがたいことに八年ぶりに聞いた彼女の声だった。ぼくはそれに対して、すぐには返事ができなかったが、しかし必死で言葉を探し出し、昔のように―いつだってぼくは兄のような態度で彼女を安心させることに生き甲斐を感じていた―待っていたよ、と言ってのけたのだった。なのに言いながら、心の奥は干しあがり、今にもその場に倒れ込みそうな混乱の中にいた。
 来るはずのない人が来たことの意味を探していた。そして当然、愛がまだ二人の間で消えていなかったのだと誤解をしてしまうのだ。八年なんか、十分のようなものだった、と誤解できそうな興奮の中にあった。
 二人は歳月の暗黒の中を手探りで探り合い、お互いの輪郭を見つめ合おうとした。会えたことの勢いが二人の熱情に火をつけ、冷静に水を注いだ。\

 彼女と一つになろうとしたとき、肉体は不意に萎縮した。嬉しさと驚きと不安のせいで。しかしそれだけではない。彼女の肉体の中で切断されてしまった小さな命のことを思い出してしまったせいもある。複雑な事情の絡み合いの中、あおいは一人で産婦人科の門を潜り、ぼくに内緒で二人の愛の結露を塞いだ。
 「どうしたの」
 あおいの掌がぼくの頬に触れる。ぐずぐずしているぼくの顔を彼女の漆黒の瞳が見つめた。\
 「いいや、なんでもない」
 いっぺんに降りかかってきた出来事にどうしていいのか分からず、ぼくはどんどん萎縮していった。するとまもなく暗闇の中に温もりを感じた。あおいの手がぼくの肉体を支えたのだ。柔らかく、仄かに温かい掌がぼくに光を注いだ。
 急激な再会が持ち込んだ精神的な疲労をあおいがほぐした。彼女を大人に変化させた八年という歳月を見た気がした。二人はまもなく一つになって、溶けた。記憶も官能も苦痛も喜びも一緒くたになってぼくを震わせた。
 男のほうがいつまでも過去を引きずる動物なのだ、とは言わないが、心の切り替えは下手くそかもしれない。あおいのリードでことが進むなか、ぼくは八年前の梅ヶ丘のアパートでぎこちなく抱き合っていた二人のことを思い出さずにはおられなかった。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2006-6-24 23:02:27 | 显示全部楼层
 あおいの肉体が官能に撓る度に、ぼくは力を込めた。ぼくとて、芽実と愛し合うことで学んだ男女の駆け引きの知識はあった。力を込めたり抜いたりしながら、そんなことを八年前のあおいとぼくは持っていなかったことを懐かしんだ。
 あおいは、アメリカ人の恋人に愛され、これほど美しくなったのだった。 
 あおいの肉体の変化や体臭の変化にぼくは気がついてしまった。そこにはまったくぼくというものが介在できない域が存在していた。
 「順正」
 あおいの声に興奮しながらも、どうしていいのか分からず途方に暮れつづけた。八年ぶりの交接が済んだ後、何千メートルも泳いだ気になったのはなぜだろう。いったい何に遠慮して、誰に気を使っていたのだろうか。
 あおいはあおいではなかった。

 あれほど待ち望んだ人が今自分の腕の中にいることにぼくは改めて驚かざるを得なかった。あおい、と名を呼んだ。すると彼女は顔を上げ、八年前と変わらぬ瞳でぼくを見つめた。幻ではない、と思えば思うほどに不安がどこからとも泣く起こってきた。
 こちらを見つめるあおいの目が窓から降り注ぐ月光を浴びてきらきらと非現実的に輝けば輝くほど、ぼくは眩暈を覚えてならなかった。久しぶりに、子供の頃の疑問が頭の中を過った。どうしてぼくは今、あおいの考えていることが分からないのだろうか、と。
 あおいの頭の中がどこへ向かおうとしているのか分からなかった。あおいがささやかな約束を忘れずにいてくれたことも驚異なら、八年も待っていた人が不意に現れたことも驚異だった。こんな奇跡が起こったのだから、二人はかつてないほど強い絆で再会を果たしたと思うのが本当だった。
 なのに、とてもそんなふうには思えない。ぼくを見上げるあおいの目が美しければ美しいほどに、ぼくは幾度となく途方にくれるのだった。
 二人はいったい何を抱きしめていたのだろう。ぼくが抱いていたのは八年前のあおいだった。あおいもきっと八年前のぼくを抱いていたはず。二人は過去と寝た。
 一秒でも早く、現在を過去に馴染ませたかった。二人の間にある大きな谷を埋めたかった。そこに即席でもかまわないから橋を架けたかった。なのに谷は思いのほか深く大きくかどうか分からない。

 三日目の朝、目が覚めると腕の中にあおいはいなかった。窓際の椅子の上で一人淡々と荷物をまとめていた。それをぼくは薄目を開けて見つめていたのだ。
 わずか三日で、当然のことなのだがソープオペラのように、ぼくたちはこの八年を修復することができなかった。二人は同じ絵を見つめながらそれぞれの思いを語ったに過ぎない。どちらも絵を修復するだけの情熱は残っておらず、まるであきれるほどに懐かしいだけの冷静な同窓会のようだった。
 
 二人はそれまでの八年を一気に口にした。しかしそれは相手に伝えようとした物語ではなく、自分自身にこの八年を納得させるための行為に過ぎなかった。
 この三日間、ぼくたちは必死には一年という歳月を埋めようとしてきた。何度となく抱き合い唇を重ねあって。
 言葉が詰まるとまた抱き合った。八年は長すぎた。だから全力で泳ぎきろうとしたが、決して数日で泳ぎきれる大河ではなかった。
 目の前にいるあおいは八年前のあおいとは違う人なのだ、と悟るのに、僅か三日で済んだことがぼくにはもう一つ大きな衝撃となって迫ってきていた。顔も声も体も昔を彷彿とさせるのに、でも何かが失われている。どこかにいつもの穴や綻びがあるような気がした。そこをぼくは修復士として見つけ出し、そんな修復を試みるべきか冷静に判断しなければならないのに、それができないでいた。

 ミラノまでの切符を買ったあおいがぼくの手から鞄を取った。腕時計を見て、後五分だわ、と告げた。
 「どうしても行かなければならないのかな」
 ぼくが言うと、彼女は唇を少し噛んで、うん、と頷いた。
 「どうしてもではないけれど、そこが私のいるべき場所だからかな」
 構内を五月の風が吹きぬけた。八年前の東京の五月の風をぼくは覚えていた。あおいが少し顔を上げた。鳩が飛んだ。人々の動きが不意に止まり、音が消え、まるで中世の絵画を見ているような気分になった。
 「行くね」
 あおいはそういいのこすと、そのままぼくのかたにうでをまわし、頬と頬をくっつけ合って、まるで外国人がするような、あるいは映画のワンシーンのような、全く綺麗すぎる挨拶の後、静かにそこを離れた。追いかけることも、縋ることも、泣くことももうぼくにはできなかった。わずかに三日。たったこの三日でこの八年が、修復ではなく、清算されてしまったのだった。

 あおいが改札を通り抜け、ホームの彼方に消えたとき、ぼくの視界に時間が戻り、人々が再び動き始めた。音が戻り、光が跳ね、風が吹きぬけた。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2006-6-25 00:07:14 | 显示全部楼层
 ぼくはもう一度最初から思い返す・・・・・・
 一日目、西暦二〇〇〇年の五月二十五日の夜。あおいはぼくの腕の中にいた。二人は眠りに落ちようとしていた。
 やっとここに帰ってきてくれたね、と眠りかけていたぼくは、言葉というものの限界を知りながらも必死に言葉を紡ぎ、そう言った。
 腕の中で彼女は、過去を思い出すように目を細めながら、小さく頷いた。
 二人は余力でお互いの輪郭をなぞりながらも、再会の戸惑いにすっかり疲れ果ててまもなく眠った。
 翌日、二人はフィレンツェの街をくたくたになるまで歩いた。
 ぼくはあおいのいる空気を堪能し、彼女もぼくのいる空気を満喫し、懐かしみ、感動し、噛みしめていた。
 フィレンツェの街並みなど全く目に入らなかった。隣にあおいがいるという事実だけを噛みしめて歩いた。あおいがいるという事実がいつまでも信じられず、何度も何度も彼女の顔を覗き込み、覗き込まれ、広場のど真ん中で立ち止まっては、お互いの顔を見つめ合った。
 そして夜は再び抱き合ってから眠った。激しく求め合ってから眠りに落ちた。
 眠る前に、なんだか不思議だわ、と彼女が言い、ぼくも、不思議だね、と伝えた。毛布の中で握り締めた手だけが、過去のままの温もりを伝えていた。
 八年か、とあおいが言い、長かったね、とぼくが答えた。あの頃は愛されていた、とあおいが更に呟き、とても、とぼくが言った。
 八年前と何が変わって、何が変わらないのかしら、とあおいが少し声を強めて言ったので、ぼくは、何もかも変わってしまったようだけど、でも実は何も変わってないじゃないかな、と暗号めいた言葉で応じた。
 ところが暗号はすぐに解読さてしまった。不意に彼女が横を向き、ぼくはその気配の中で網膜が乾いていくのを覚える。情熱が冷静に駆逐されようとしていた。それは世界中で毎夜明け、夜が朝に駆逐されるのに似ていた。
 三日目、きょうはどこに行く? とあおいが窓辺に佇みアルノ川の川面を見下ろしながら呟いた。
 フィレンツェの輝かしいほどの晴天とは裏腹に、彼女の声にはどこか翳りが合った。横顔には時間の暴力に対する諦めが滲んでいた。
 無理してどこに行くのはやめよう、と提案し、かわりに二人は壁に凭れてそれぞれの八年を語り合った。
 あおいが語る日々は幸福に彩られていた。過去の代表である自分が踊り出るべき舞台の上は、もうどこもかしこも草が生えて鄙びているようにしか思えなかった。
 「幸せなんだね」
 言うと、あおいは唇を一瞬真横にきゅっと伸ばし、それはぼくには微笑みに思えたのだが、そうしてからこくりと小さく頷いたのだった。
 決定的な瞬間だった。老役者は草ぼうぼうの舞台の上で立ち尽くし、出てこない台詞を必死で思い出そうとしては、手も足も出ないまま佇み続けるのだった。
 ぼくは負けずにこの八年のことをなんとか語ったが、それは強がりなぼくの性格が見せた唯一の演技でもあった。
 幸せなんだ。そうだよな、あおいは幸せなんだ・・・・・・
 アメリカ人の恋人がいて、彼女を待っている街があって、働く場所があって、肉親のようなフェデリカがいて、優しい友人たちがいるのだ。そこからあおいを奪う自信などなかった。そんな情熱は正しくない。
 ぼく芽実との日々のことを話した。多少誇張して。対抗意識がそうさせた。心の中、芽実に謝罪しながらも、ぼくは喋りつづけた。
 「でもぼくはずっと満たされない日々の中にいた。だから約束だけを忘れずにいつも生きてきた」
 呟くと、あおいは、こちらに向き直り、それから、
 「順正」
 と口にし、ぼくの頬に掌を押し当てた。
 「うん?」
 「順正」
 順正、順正、順正、順正・・・・・・。あおいの声は八年前の声のまま、高くて細くてか弱くて甘かった。
 「もう一回しよう。愛してるわ。すごくよ。どんなに会いたかったか、もしかしてあなたにも分かってもらえないかもしれないくらい」
 いいよ、しよう。二人は部屋中に溢れ返る光の中で抱き合った。光に浮かび上がるあおいの体をぼくは生まれてはじめて見た。この八年の変化はここにも打ち寄せていた。
 
 アカルイトコロデイツカラアイシアエルヨウニナッタノカ。
 
 美しい肉体。ラッファエッロが描く裸婦のような、幾世紀も生き延びる永劫の美と尊さを持っていた。
 
 あおいは何もかもが終わると、待ちきれないような勢いで立ち上がり、着替え始めた。ぼくはシーツに包まったまま、何かを吹っ切ったようなあおいをじっと、じっと、じっと、動けずじっといつまでも見つめていた。
 「おいしいお昼を食べよう。午後の列車で帰るから」
 何かを吹っ切るようにそう元気に告げた。まるで卒業旅行の最終日のような。ぼくはその勢いに観念し、分かった、と微笑んで見せた。
 「大丈夫だよ。とめたりしないから」
 最後の台詞は敗者の、勝者への精一杯の負け惜しみだった。悲しみを堪えながら、口元は彫像のアルカイックスマイルを真似て、強張ったまま微笑んでいた。
 「あおい」
 背中にそう告げた。
 「会えてよかったよ」
 あおいはゆっくりと振り返り、私もよ、と呟いた。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2006-6-25 01:03:04 | 显示全部楼层
 十七時五十一分発インターシティ(国内特急)はゆっくりとホームを滑り出していった。スマートではない大きな車体は中世の騎士のような勇ましさがあり、この歴史的な街にどこか釣り合っていた。
 ぼくは改札の手前で彼女を見送った。新しい世紀。何を糧に生きていけばいいのだろうか。或いは、生きていけるのだろうか。
 冷静が最後は勝った。構内に迷い込んでいた鳩がやっと出口を見つけ外へと抜け出していった。小さくため息が零れる。あっという間だった。思い出を反芻する間もないほど、あっけない幕切れである。こんな結末のために自分は八年もまっていたのかと思うと、脱力し、そこから動くことができなった。これじゃあ、死んだも同然。
 どうしたらいいのか、東京に帰るべきか、ここにもう少し止まるべきか、まるで分からないのだ。

 何とか駅を出た。しかしその足取りは鈍く、目の前も暗く狭まって見えた。夕刻の人々のせわしない行き来の中、肩を落としてぼくは歩いた。
 この街の役目は終わったのだ。そう思うと、何もかも違って見えた。見慣れた街並みも人々も。すべて、そこら辺で売られているポストカードの中のフィレンツェみたい。
 ただひたすらこの八年、あおいのことだけを考えて生きてきた。約束だけを生き甲斐に歩いてきた。過去だけを背負って生きてきた自分に、いまさら神は何をはじめろとおっしゃるのだろう。

 ドゥオモのクーポラが見える。とおりの突き当りに威風堂々と聳えていた。はじめてこのクーポラを見上げたときの感動を思い出した。
 あの時はまだ情熱があった。いつかきっとここであおいと再会する、と信じることができるだけの。
 毎日祈るようにぼくはあおいの名を心の中で呼びつづけてきた。それが今はもう判決を言い渡されてしまった死刑囚のように何一つ未来を思い描くことが許されない。二人がドゥオモの上で再会してしまったからだった。あそこで再会しなければ、とぼくは頭上のクーポラを苦々しく見上げた。
 再会しなければ、ぼくはまだ過去を背負って生きつづけることができたのではないか。夕刻の色づいた空に聳える尖塔。鳥の群れがさらに上空の空と宇宙との狭間を横切った。動けずその辺りをただひたすらを見上げていたのだった。
 どうして・・・・・・と頭の中を何かがかすめた。そうだ、どうしてだろう、と思い直す。どうして、あおいはここへ来たのだろう。

 ぼくは自分の中で小さな情熱が巻き返しの反撃に出るのを感じる。この瞬間、過去も未来も色あせ、現在だけが本当の色を放つ。広場を爽やかな風が吹き抜け、ぼくは風の流れに目を止める。四方八方からドゥオモに集まってくる人々の石畳に映る長い影が揺れる。過去も未来も現在には適わない、と思う。世界を動かしているのはまさにこの現在という一瞬であり、それは時の情熱がぶつかり合って起こすスパークそのもの。
 過去に囚われ過ぎず、未来に夢を見過ぎない。現在は点ではなく、永遠に続いているものだ、と悟った。ぼくは、過去を蘇らせるのではなく、未来に期待するだけではなく、現在を響かせなければならないのだ。
 彼女はここへ来た。十年前のささやかな、約束とも取れないようなあの約束を覚えていたではないか。彼女の幸福そうな人生の中にあっても、しっかり過去を覚えていて、そして何よりあおいはこの街へとやって来、二人は現実に再会したのだ。
 怯えて、恐れて、不安になって、このまま全てに背を見せてしまったら、機会の芽はそこで枯れ果て、二度と地上に現れることはないだろう。後悔だけではすまされないことになる。
 「あおい」
 もう一度、心の中で彼女の名を呼んでみる。大切なのは現在。サンタ・マリア・ノヴェッラ駅を振り返り、歩き始める。
 ぼくはまだ何も試していない。試さないで、彼女を一人彼女の現在へと送り返してはだめだ。この八年を再び練りつかせては駄目だ。
 駅にたどり着く頃にはぼくは走り出している。過去にはさせない、と念じながら。
 
 駅構内にぶら下がる超特大の時刻表掲示板を見上げる。一番速い列車は十八時十九分発のユーロスター(国際特急)だ。それに飛び乗れば、ミラノに到着するのは二十一時丁度になる。あおいの乗ったインターシティよりも十五分早く着くことになる。十五分、たった十五分だが、ぼくは未来を手に入れることになる。まだ間に合うのだ。
 構内を行く人々の間をぼくはまっすぐにユーロスターの切符売り場へと向けて走っている。
 「ミラノ行きのユーロスター」
 係りの者に告げると、男は時刻表をすばやく見つめる。男の太い指先が時刻表を辿っていく。機会を操作し、まもなく、一枚の切符が吐き出される。
 「十八時十九分だね。君はついている。空席ばかりだから。でも、急いだほうがいい。もうすぐ出発だからな」
 係員から切符を受け取るとぼくはホームへ向けて再び走り始める。どうしたいのか、会って何と言うのか、そのときどうするつもりなのか。一緒くたになって様々なことが頭を過る。
 はっきりとは分からない。分からないから走っている。
 ただ、もう一度会いたい。とにかくもう一度彼女の瞳の中に自分を探してみたい。
 
 改札を抜けると、ホームにユールスターは横たわっている。夕暮れの光が鋼鉄の車体を鈍く輝かせ、そこにヨーロッパ横断鉄道の雄姿を凛々しく浮かび上がらせている。
 ぼくはレールの先を見る。この列車がぼくを連れて行く先で、静かに待っているに違いない、新しい百年を生きようと誓いながら。
 「新しい百年か」
 大きく深呼吸をしてからユーロスターのタラップに右足をかける。
 
================= 終わり ===================
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2007-11-15 11:45:48 | 显示全部楼层

回复 72楼 的帖子

现在书店已经有这部小说的中文版本,有兴趣的可以去找找。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2007-11-15 11:54:39 | 显示全部楼层

回复 73楼 的帖子

一个回车不小心把帖子发出去了。。还没写完呢。。。
其实,这本小说共有2本。一本是我上载的这个,另外一本是目前人气很旺的一个女作家江国香织写的。据说写这本小说的时候,他们两人是交换着同步写完的。所以在内容上是相呼应的。我第一次看这样的小说,觉得很新鲜,就试着推荐给大家。如有喜欢的且想购买日文原版的日文小说爱好者可以到下面的网站看看。好东西大家一起分享。http://shop34194168.taobao.com/
回复 支持 反对

使用道具 举报

发表于 2008-8-15 19:36:47 | 显示全部楼层
8错。。。。
回复 支持 反对

使用道具 举报

您需要登录后才可以回帖 登录 | 注~册

本版积分规则

小黑屋|手机版|咖啡日语

GMT+8, 2025-6-7 18:37

Powered by Discuz! X3.4

© 2001-2017 Comsenz Inc.

快速回复 返回顶部 返回列表