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楼主: demiyuan

[好书连载] [山田風太郎] 忍法帖系列~魔界転生 上

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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:12:48 | 显示全部楼层
地獄篇第五歌


     【一】

 チラ、ホラ――と枯枝に降って、すぐに止んでしまった雪のようだ。
 わずかに咲き出したところで、三月はじめとは思われないここ数日の寒さに、そのまま凍りついてしまった桜であった。
 冷気と夕闇は、庭からしずかに座敷にはいあがってくる。
 その冷たさも暗さも意識せぬかのように、その老人は白衣をきたまま|褥《しとね》の上に端座し、すぐ横に置いてある経机の上の書類にじっと眼をそそいでいた。
 その姿勢のまま、もう一刻もたつ。
 ぽつりと、
「……十兵衛がいたら。……」
 と、ひとりごとをいった。
 江戸霞ケ関にあるこの屋敷のあるじ柳生但馬守|宗《むね》|矩《のり》である。――曾ては将軍家に剣法を指南した但馬守も、このとし七十五歳、それに、去年の暮れのころから病んで、寝たり起きたりしていた。
 いまつぶやいたじぶんの声に、ふとわれにかえったように、
「これよ」
 と、彼はいって、机の上の鈴を鳴らした。
 呼ばれるまで来てはならぬ――と命じられているので、暮れて来た外光を気にしつつ、一室おいた座敷に座っていた小姓のひとりが、滑るようにやって来て、手をつかえた。
「|灯《あかり》をもて」
「かしこまってござりまする」
「あ、それから、|主《しゅ》|膳《ぜん》を」
 と、但馬守は命じた。
 まもなく、灯が来た。それから――間もおかず、子息の主膳宗冬が来た。
「父上、御機嫌は」
 と、いいながら、顔をあげて、眉をひそめた。父がいままで横にもならず、机にむかって何やら見ていた様子を悟ったからだ。
 もっとも主膳は、父のこのような行動に、きょうはじめて気づいたわけではない。病んで床に|臥《ふ》してからも、しょっちゅう何やら調べものをしている。深夜何者かがひそかに、しきりにその部屋に入って報告しているらしい気配も感づいている。
 元来但馬守は、幕府の大目付であった。大目付とは大名に対する監察の任にあたる。いまでいえば、検事総長である。
 従って、そういう父の動静はいまさらのことではないが、しかし病んでから、かえってそれが切迫したようだ。何か重大なことが起っているらしい。
 ――と、主膳はおぼろげに察してはいるが、むろんそれがどんなことか知らない。将軍家剣法師範の役目はもうだいぶ以前から主膳にゆだねてはいるが、大目付の職務の内容は、その息子にもあかしたことのない但馬守宗矩であった。
「父上。……左様におつとめなされては」
 と、おそるおそるいう主膳に、但馬守は彼のやって来たのも気づかぬのではないかと思われるほどうごかぬ姿勢でいたが、やおら、
「主膳、大事がある」
 と、いった。
「|牛込榎坂《うしごめえのきざか》の由比張孔堂の」
 と、但馬守は口を切った。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:13:04 | 显示全部楼层
「あれが、何やらたくらんでおるということじゃ」
 由比張孔堂。――その名をいま江戸で知らぬ者はない。榎坂の大道場に、
「軍学兵法|六《りく》|芸《げい》十能医陰両道其外一切指南・張孔堂由比民部之介橘正雪」
 という、人をくった、長ったらしい大看板をかかげている人物で、その門弟三千と称されている。
 むろんそれくらいだから、その軍学は楠、真田に匹敵し、剣術一つをとっても、いまや将軍家師範たる柳生の一門中にも、当主の但馬守はもはや老いているし、正雪にあたる者はないのではないか――という評判すら|巷《こう》|間《かん》にある。
 またきくところによると、彼が|大《たい》|身《しん》の訪客に会うときは、机の間に、楠正成、正行、正澄の三幅をかけ、机に香を|焚《た》き、金の軍配と采配を飾り、髪を総髪にして、浅黄の小袖に紺地の長絹をまとって相対するという。――
「きゃつのことでござりまするか」
 と、主膳は苦笑をまじえた声でききかえした。
 父が、このごろ何やら憂悶のていをみせ、いまかくも深刻な顔つきをしている対象は、あの男のことであったか。――と、ちょっと、拍子ぬけがしたのである。
「あれは、まともな人間の相手にすべからざる大山師。――」
「――と、わしも思うておった。ところが」
 と、但馬守はいった。
「その大山師、と見せかけておるのが、あの男のかくれ|蓑《みの》ではないか?」
 主膳は、はっとして父の顔を見た。
 父の表情はまじめであった。病気にならぬ壮年のころから、どちらかといえば、小柄で、痩せぎみの但馬守である。知らぬ者が一見しただけなら、誰もこれを柳生の剣名を一世にとどろかせた人とは思うまい。いかにもさりげなく、地味で、質実で、剣をとるよりは筆をとって終日事務に精励しているのにふさわしいと見える風貌であった。
「何と仰せられまする」
「そのような評判があれば、いかに人を雲集させようと、御公儀も疑われぬ。――大山師、とは、正雪みずからが、わざと世に立てさせた人物評ではないか。わしは、きゃつ、それほどたかをくくってよい男とは思わぬ。いや、そのことが、このごろようやくわかったのじゃ」
「何か、ござりましたか、父上。――」
「このごろ、夜中、しばしば榎坂に出入りされる容易ならぬ身分のお方がある。――」
「それは」
 しばし但馬守はまた黙りこんで、
「伊賀者の報告によれば、どうやらそれは、紀州大納言|頼《より》|宣《のぶ》卿。――」
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:13:20 | 显示全部楼层
と、いった。
「紀伊大納言さまが!」
 そうさけんで、息を吐いたきり、主膳は次の言葉を失っていた。
 紀州大納言――徳川頼宣、いうまでもなく御三家の一つ、五十五万五千石の大守であるのみならず、現三代将軍家光の叔父にあたる。すなわち神君家康の第十子であり、二代将軍秀忠の弟である。その性|豪《ごう》|邁《まい》不屈、ひと呼んで南海の竜と称し、みずからも南竜入道と号している人物であった。
「まさか、大納言さまが……あの山師ごときに!」
 と、主膳はくりかえした。
 由比張孔堂、門弟三千と称するなかに、むろん大名旗本もふくまれているが、調べてみると、たいていとるに足らぬ物好きで酔狂な連中ばかりで、心あるものはすぐに遠ざかる。――と、きいていたからだ。しかし、紀州大納言頼宣が「夜中、しばしば」榎坂の由比屋敷の門を出入りするとなると、これはまことにききずてならぬことであり、笑殺できぬことである。
「伊賀者は、そう申した」
 と、但馬守はくりかえした。
「そりゃまことでござるか」
「伊賀者が二人、ここに来てそう告げた。……しかし、その両人とも、恐ろしい傷を受けてもどって来て、報告の言葉もまだ終わらぬうちに落命した」
「伊賀者が――斬られましたと?」
 ことはいよいよ重大である。
 ただじっと眼を見張っている主膳の眼前で、但馬守はひたいに手をあてた。
「しかし、それが果たして紀伊大納言さまであるか、どうか、伊賀者もたしかでない風であった。というのは、その両人ともに、いまだ大納言さまをじかに拝見したことがないからじゃ。では、なぜそれを大納言さまと思うたか、と問うたのに、はかばかしい返事もせぬうちに、両人ともにこときれた。……」
 但馬守は顔をこちらにむけて、
「事は容易ならぬ。伊賀者が死んだはふびんでもあり、恐ろしいことでもあるが、かかる風評がひろがらぬうちに彼らが死んだのは、徳川家のためにはかえってよかったかもしれぬ。……」
 父の眼が、しだいにひかって来た。
「主膳、そちは城中で大納言さまを存じておるの」
「はっ。……」
「この秘事、余人にまかせられぬ。……そちが探れ」
 病んでいるとは思われぬ父の眼であった。いや、ここ十数年、しずかに老いつつあった父の、久しぶりに見る|凄《すさま》じいまでの眼光であった。
「大目付柳生但馬守として、この御用、柳生主膳に命じるぞ」
「はっ」
 両手をつかえた主膳を、じっと但馬守は見つめている。
 のちに飛騨守宗冬と呼ばれた三男坊だ。決して不肖の息子ではない。それゆえに、父はこの秘命を下した。にもかかわらず。――
 但馬守は、また胸の奥でつぶやいた。
「……十兵衛がおってくれたら。……」
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:14:20 | 显示全部楼层
【二】

 柳生家に妙な訪問者があったのは、その翌日であった。
「宝蔵院が来たと但馬どのに申してくりゃれ」
 と、その客は玄関でいった。
 取次の武士は、眼をまろくした。碁盤に墨染めの衣をまとわせ、|網《あ》|代《じろ》|笠《がさ》をのせたような雲水なのである。それはいいとして、うしろに従えているのが、実にはっと眼を見張るような美女なのだ。――しかも、ふたりも。
 宝蔵院? と主人はおどろき、|胤舜《いんしゅん》坊なら通せ、と命じた。
「や、御病気か」
 座敷の入り口で、胤舜は立ちすくんだ。
 褥の上で、但馬守は座ってこれを迎えたが、このときなぜか、彼自身もひどく驚愕したように、全身がしばらくうごかなくなった。
 老いたり但馬守。――その感慨よりも、夜具をのべているその状態と、病みやつれて眼のまわりに|隈《くま》のあるその姿に、胤舜は、と|胸《むね》をつかれたらしい。――逆に、但馬守の方がはやくわれにかえり、微笑した。
「去年の暮れより、この始末じゃ。ほかの人間なら通さぬところじゃが、胤舜ゆえ、かかるありさまで失礼する。――まず、そちらも、座ったらどうじゃ」
「や、これはでくのぼうのように突っ立って」
 胤舜はあわてて座った。そして、あごをしゃくられて、うしろについていたふたりの女も、そっとそこに座った。
「これは、とんだところへ推参したものじゃ。いや。――御病気とあれば、来てよかった。いちどひき返そうとして、やはり江戸に来たのは、虫が知らせたのかもしれぬ。あらためて、但馬どの、お見舞いを申しあげる」
「胤舜坊、どこから来たか」
「どこといって、例によってあてどなき漂泊の雲水じゃが。――こんどは東海道を下って来た」
 ふっと思い出したように、
「但馬どの、おぬしには悪いが、名古屋を通る途中、ちょっと尾張柳生を訪ねて来たぞ。……どうあっても、ちかごろ工夫した槍を、如雲斎相手にためしとうなっての」
「悪い? ……何も、悪くはない」
「江戸柳生は、尾張柳生の息のかかった者をきらうであろうが」
「何を――向こうは知らず――」
 と、但馬守はこともなげに笑いすてて、
「で、どうであった」
「如雲斎どのは留守であった。京の寺へ参られたそうじゃ」
「ほう」
 と、いったが、但馬守は尾張柳生の主人公の動静にはそれ以上の興味はないらしく、
「それで胤舜坊、こんどはここへ試合に来たか」
 と、笑顔できいた。
「ううむ。そのつもりではあったが。――」
「それはきのどく。わしは、もはやふたたび起てぬ死病にかかっておる」
「死病」
 胤舜ははっとした。
「それはまことか、但馬どの」
「この腹をなでるに、シコリがある。俗にかめ腹という奴。――」
 かめ腹とは、いまでいう腹部の内臓|癌《がん》のことである。胤舜は、むろんその恐ろしさを知らない。
「かめ腹? なんであろうと、柳生但馬守ともあろう者が、そうやすやすと死んでたまるか。わしと立ち合えば、そんなもの、吹きとんでしまうのではないか」
「そうはゆかぬ。いままで、この病いにかかって|癒《い》えた奴を、わしはまだ知らぬのじゃ。……立ち合いたい、胤舜坊となら、もういちど立ち合ってみたいと、御坊のくるのをずっと待っておったのじゃが、人間の命は思うようにならぬ。はは、わしはともかく、せっかく来てくれた御坊の方にきのどくじゃて」
 自若として、但馬守は笑った。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:15:05 | 显示全部楼层
「それで、何か悟るところがあったか。御坊がまたここにやって来たとあれば、必ず何か工夫があったのであろうが」
「うむ。……」
 と、いったまま、宝蔵院胤舜はむずかしい顔をした。
 そもそも彼が、こんど江戸に旅して来たのは、この柳生但馬守と試合するためであったのだ。
 胤舜は、奈良で宝蔵院の二代目をついだあと、すぐちかい柳生谷の人々と親交があった。このころ柳生兵庫はすでに加藤家に仕えて九州に去り、さらにそこを致仕したあとも漂泊していたから、胤舜は兵庫を知らない。胤舜が知ったのは、この但馬守宗矩の方であった。というのは、石舟斎歿後、柳生の庄は徳川家から、兵庫にではなく但馬守に与えられたために、但馬守はしばしば柳生に帰ったことがあるからだ。
 年は二十ちかくもちがうが、但馬守はこの槍にすぐれた若い僧を愛した。豪快な胤舜は、年長の、しかも大名となった宗矩を、但馬どの但馬どのと友達あつかいにしたが、謹直な宗矩は、かえってそれをよろこんでいる風であった。
 しかし、胤舜の槍は、ついに但馬守の剣に及ばなかった。
 槍に関してだけは決して|洒《しゃ》|落《らく》ではない胤舜は、しだいに深刻になり、まだそれほどの年でもないのに、彼が宝蔵院を三代胤清にゆずって放浪の旅に出たのは、主としてこのためであったといってよい。
 そして胤舜は、ついに江戸のこの柳生道場にあらわれた。――もう十数年前のことだ。
 彼は一工夫を案じたから、是非お手合わせを願いたいと請うた。すでにこのころ、柳生流は将軍家指南のお|止流《とめりゅう》――他流のものとは試合をしない――ということになっていたが、但馬守はとくに胤舜と立ち合った。荒木又右衛門が見分したのはこのときであり、また但馬守が荒木ひとりに見分させたのはこのためである。
 そして胤舜は、またも但馬守の一撃に敗れ去った。――
「もういちど参る」
 胤舜は悲痛な顔をしていった。
「こんどくるときは、必ず但馬どのを破ってみせる」
 そういって去った彼は、十数年を経て、ふたたび但馬守の前に出現したのである。
 いま。――
「工夫はした。……このたびこそは、さしもの但馬どのを負かしてみせるという工夫を案じて来たつもりであったが。――」
 と、いって、胤舜は、お佐奈をふりかえった。
「細工のたねは、あの女じゃ」
「あの女人?」
 胤舜は、ぽつりぽつりと、例の――禁欲によって精を貯め、そのぎりぎりの前日乃至前夜にたたかえばほとんど超人的なわざを発揮できるという能力――を発見したことを語った。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:15:33 | 显示全部楼层
こんなことを語るのに、胤舜は実にむずかしい顔をしていたが、但馬守が破顔したのは当然である。しかし彼は、
「なるほど」
 と、うなずいただけであった。
「御坊が、女人をつれているのはおかしいと思ったが、そのためであったか」
「それが。――」
 と、胤舜は苦痛にみちた眼を但馬守にむけて、
「その工夫も、怪しゅうなった。落胆のあまり、いちどはここへくるのもやめようとした心境にまで立ち至った。但馬守どのと立ち合う以前に、わしはべつの人間に敗れたのじゃ」
「べつの人間? ……御坊にまともに立ち合える人間が、ざらにこの世にあろうとも思えぬが。……すでにあのとき――この数十年、但馬が真に冷汗をかいたは、このまえ御坊と立ち合ったときばかりじゃ。――」
「但馬どの」
 と、ふいに胤舜はさけぶようにいった。
「荒木又右衛門が生きておることを御承知か」
「荒木。――」
 但馬守はけげんな表情で、
「あれは、惜しいことに少壮にしてこの世を去った。もう十年にもなろうか」
「その又右衛門が生きておるのだ。わしは江戸へくる途中、大井川でたしかに見たのだ」
「御坊、眼がどうかしたのではないか」
 一笑する但馬守をにらみ、胤舜はうめくようにそのときのことを語り出した。
 東海道で三人の六部にからまれたことを――大井川の河原で、その若い方の六部の奇怪な術のために、じぶんがいままで味わったことのない無惨な敗北を喫したことを――年長の六部が、みずから荒木又右衛門だと正体をあきらかにし、それにまちがいなかったことを――そして、彼の語った忍法「魔界転生」のことを。
「その三人の六部のうちのひとりが、この娘じゃが」
 と、胤舜は、ちらっともうひとりの女の方を見やった。
「……この話、お笑いなさるか、但馬どの」
 但馬守は笑わなかった。
 彼は胤舜より、その女の方をじっと見つめていた。――そういえば、これまでの問答のあいだ、彼はふしんそうに、その女の方にしばしば視線をむけていたようだ。
「そうか。その女人は、はじめからの御坊のつれではないのか」
「左様、大井川で又右衛門らが姿を消したあと、この女だけ残っていたのじゃ。……やむを得ぬから、いっしょにつれて来たが。――」
「ふうむ。……」
 但馬守はなお女に眼をそそいだまま、
「そなたは月ケ瀬の女ではないか?」
「や!」
 と胤舜は大声をあげた。
「但馬どのは、この女を御存じなのか?」
「いいや、知らぬ」
「なら、月ケ瀬の女とは?」
 月ケ瀬は柳生の庄からほんの一足、東にある村で、古来梅の名所としてきこえたところだ。――但馬の頬が、この年にして、ややあからんだようであった。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:15:51 | 显示全部楼层
「わしは、実は最初その女がここへ入って来たとき、はっとした。わしの知っておる或る女人に生写しであったからじゃ。月ケ瀬の娘で、名はおりくといった。……が、それはわしが柳生を出て徳川家に出仕したころじゃから、もう五十年も昔のことじゃ。そのときわしの知っておった女が、いまここにあらわれてくるわけはない。……と、すぐに気がついたが」
 彼は苦笑した。
「しかし、いかにもよう似ておる。そのおりくと血縁つづきの女に相違ない。のう、そうであろうがな?」
「但馬どの、きいてもむだじゃ」
 と、胤舜も苦笑をうかべてくびをふった。
「その娘は唖じゃよ」
「何、唖?」
「されば、わしも荒木らのことをもう少しきこうと思ったが、どうにもならぬ。狐につままれたようなきもちでつれ歩いておる」
 この問答を、ふたりの女はほとんど無表情にきいていた。
 無表情といっても、仮面のような感じではなく、胤舜の|賦《ふ》|活《かつ》|剤《ざい》たる女は、たえず全身を微動させ、あかい唇を舌でなめて、白いのどのあたりをヒクヒクうごかせ、どこか肉欲に憑かれたような姿態をみせているし、唖娘の方は、ぼうっと|春霞《はるがすみ》につつまれているようだった。ただ、但馬守と胤舜の問答は耳にしているはずなのに、それに対して全然無反応なのである。
「胤舜坊、で……御坊がその佐奈と申す女人と交わると、そなた転生いたすというのか」
「荒木はそう申した」
「もうひとりの女人は?」
「これはどうかわからぬ。この女に、しんそこ惚れた男が交われば、この女からその男が生まれるかもしれぬ」
 但馬守は黙って、またその美しい娘を、褐色に|隈《くま》どられた眼で凝視した。
「で、但馬どの、信じてくれるか」
「いや、信ぜぬ」
 と、但馬守はいった。
「わしの申したこと……夢物語と思われるかや」
「いかにも、わしは左様な怪力乱神を信じない。御坊の逢ったその荒木と名乗る男は、よう似た顔をたねに御坊をたぶらかし、からかったものであろう」
 但馬守の眼は、剣法の名人というより、現実的な政治家の眼であった。
「なんのために?」
「目的は知らぬ。が」
 と、但馬守は冷静に、
「それがまことに又右衛門なら、又右衛門はまずわしのまえにあらわれるはずじゃ。だいいち、わしが死にかけておる。御坊、死にかけた男が、惚れた女と交合すれば転生すると申したな?」
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:16:23 | 显示全部楼层
このひとらしくもなく、|諧謔《かいぎゃく》のまなざしで、
「それとも、荒木め、もはやわしに交合する力はないと見くびりおったか? は、は、は」
 と、笑った。
「そうか。但馬どのはとうてい信じまい、とは思うたが、いや、わしの申すことを但馬どのならば信じてくれるかもしれぬ、とかんがえて、但馬どのだけに打ち明けたが。……」
 胤舜はさびしげに笑い、しばらく黙りこんだ。
 ふたりのあいだに、どことなく所在なげな、ぎごちないものがながれた。――胤舜はふと顔をあげ、
「御子息は? 御|挨《あい》|拶《さつ》したいが」
「|主《しゅ》|膳《ぜん》か。あれは折り悪しく、所用あってこのごろ他出しておる」
 但馬守はくびをふった。
「あれは、どうやらこうやら上様御指南を相つとめはおるが、とうてい御坊の御相手にはならぬよ」
「いや、試合のことではない。ほう、主膳宗冬どのは、たしか御三男であったな。将軍家御指南となられた、ときいて、もうそうなられたか、とおどろき、且よろこんでおった。――御長子は?」
「十兵衛か」
 但馬守はにがい顔をした。
「あれは、柳生谷にかえしておる。いや、放逐といってよい。三年前、ばかげた所業をいたしてな」
「何、柳生へ」
「御坊、御存じなかったのか」
「いや、わしはここのところ四五年、奈良へ帰ったこともないで。……そうとは知らなんだ」
 胤舜はふいに張りをとりもどして、
「柳生十兵衛。……このまえわしがここに来たときも、どこへいったか行方不明ということで、ふしぎにまだかけちがって逢うたこともないが……剣名はきいておる。ひょっとしたら、おやじどのたる但馬どのより腕は上かもしれぬ、という噂をきいたことがあるぞ」
「ばかな」
「わしはな、但馬どの、こんど江戸にくるとき――いま話した大井川の一件ある前は――但馬どのとともに、その十兵衛どのがおわしたら、これとも是非試合をしてみたい――と、こう思っておったくらいじゃ。なに、ばかげた所業をやって放逐したと? いったい、十兵衛どのが何をしたのじゃ?」
「上様に御指南申しあげて、上様が御気絶なさるほど打ちすえた」
「ほ、ほう」
 胤舜はぽかんと口をあけ、まじまじと但馬守を見ていたが、いきなりピシャリとひざをたたいた。
「噂にたがわぬ痛快な息子どのではないか。兵法の修行はさもあるべきもの。――」
「そうはゆかぬ。相手が上様じゃ」
「しかし、但馬どのは――十兵衛どのがまだ二十前後のころ――息子どのを教えていて、その片眼をつぶしてしまったというではないか」
 但馬守は沈黙した。
 その通りだ。しかしそれは、兵法修行のきびしさを教えるというよりも、その試合のとき、但馬守自身が危険をおぼえて、思わず本気の剣をふるった結果でもあった。わが息子ながら、恐るべき奴と思う。……が、その危険な嫡男が、このごろこの上もなく頼もしく思い出されるのは、どうしたことであろう?
「息子どのの所業の悪口はいえぬ。……たとえ相手が何者であれ、剣法は踊りの修行ではないはず。それで将軍家から、おとがめがあったのか」
「ない。ないが、わしが放逐した」
 胤舜はじっと但馬守を見つめて、その眼にやや軽蔑のひかりを浮かべた。
「……ははあ、一万二千五百石に縛られておると、人間、つらいものよのう」
「そうではない」
 と、但馬守はくびをふった。
「十兵衛がそれを望んだからじゃ。……あるいは、それを望まなかったからじゃ」
「――と、いうと?」
「わしも、七十をこえた。で、もはや将軍家御指南の役を、しかとだれかにゆずっておきたいと、たまたま十兵衛が旅から帰っておったのを機会に、きゃつをつれて御前に出た。すると、いま申した通りの始末となった。兵法修行のきびしさを上様にお教え申しあげる……それほど殊勝な、まともな考えをもつ男ではない。きゃつは、将軍家御指南という役がいやでいやで、それをわしに思い知らせるために、左様なまねをしてただ一撃でわしの意志をぶちこわしてしまったのだ」
「ふうむ。……いや、わかるぞ」
「きゃつは、とうてい左様な役、一万二千五百石で安閑としている奴ではない。いや、もっと大それたことを望んでおるというより、無頼奔放、常人の行儀作法にたえられぬ奴じゃ。それを当人が承知しておる。それどころか、きゃつの剣は、いわば殺人剣、柳生家をつげば、かならず柳生家をつぶしてしまうであろう。……」
「――すると、但馬どの、柳生家のあとは? あの主膳どのになさるおつもりか」
「まだ、よくきめてはおらぬ」
 但馬守は重い声でいった。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:16:43 | 显示全部楼层
嫡男は十兵衛だが、次男の刑部|友《とも》|矩《のり》は若くして死んだので、あとに残るのは三男主膳宗冬だ。重い声となったのは、この主膳が、剣法に於てはいささか兄たちに見劣りすることを思い出したからであった。
「そうか、主膳どのが御指南役になったのは、そういう事情であったか。……しかし、但馬どの、さっき死病にかかったと仰せられたな。そのことを、十兵衛どのには知らせてあるのか。……」
「いや、まだ知らせてはおらぬが。……」
 但馬守の声は、いよいよ重い。
「なぜ、知らされぬ。それでは……万一の際、死に目にも会えぬことになるではないか」
「いや、知らすまい。……きゃつに知らせる要はない」
 ――重い声は、そういいながら、但馬守自身まだ迷っているところがあったからだ。
 じぶんが死ぬとき、嫡男の十兵衛がそばにおれば、たとえ彼がそれを望んでおらぬことは明らかだとしても、父として、彼をおいて家督を三男の主膳にゆずることはできぬ。しかし、十兵衛にあとをつがせれば、あれは必ず柳生家を滅ぼすにきまっている。主膳ならば、おだやかに柳生家をついでいってくれるであろう。……但馬守が、おのれの死期を十兵衛に秘しているのは、ひとえにそのためであった。
 しかし、いま胤舜に、一万二千五百石に縛られていると笑われて、そうでない、とかぶりをふったが、かんがえてみればその通りだと思う。……但馬守は心ひそかに赤面せざるを得ない。おのれの操志の衰えたことをかなしまずにはいられない。主膳が柳生家をつぐ。いま胤舜に、柳生家のあとはまだきめてはおらぬ、といったが、結局そういうことになる。それで柳生家は安泰であろうが、しかし新陰流の|淵《えん》|叢《そう》たるべき伝統は?
 いや、それより以前に、いま死期せまったじぶんが、はからずも探知したある容易ならぬ事件に、やむなく主膳を起用したものの、すでに何とも名状しがたい心もとなさをおぼえているのだ。
 ああ、かかるとき、十兵衛がいてくれたら、と、切にそれが思われる。
 ――何やら、憂わしげに沈思している但馬守に、胤舜はあたまをさげた。
「では」
「御坊、ゆくのか」
「御病中、あまりに話しこんでは悪かろう。きょうのところは」
「胤舜坊、わしはまもなく死ぬぞ。坊主でありながら、わしに引導をわたしてはくれぬのか」
「いや、それは。……」
「まあ待て、胤舜坊、ここにいてくれ。あまりながいことではない。いま御坊の来たのは|一《いち》|期《ご》の縁じゃ。ともかくも――しばらくこの屋敷に泊まっていってくれい。それらの女人ともどもでよい」
 この人にはじめて見るすがりつくような眼であった。
「せめて、主膳が帰邸いたすまで」
 ――そうまでいわれて、胤舜は辞しかねた。
 彼ら一行は、そのまま柳生屋敷に滞在した。
 泊まって、しかし、胤舜はよかったと思った。よかったといっては語弊があるが、その日以来、急速に但馬守の病状が悪化していったからである。にもかかわらず、主膳宗冬は姿をあらわさぬ。「主膳どのは?」と但馬守にきいても、語をにごしているし、家人のだれもが、それについて胤舜以上に気をもんでいる様子はあきらかなのに、だれもそのゆくえを知らないようだ。
「――はて?」
 胤舜は、彼自身ここに来た目的、あるいは但馬守の病気のことはさておいて、この屋敷にはまったく別の何かただならぬ事件が進行中であることを|漠《ばく》と悟った。
「何かある。……何が起こっておるのか?」
 春はみるみる深くなってゆく。花は咲き、そして散った。三月も末にちかづいた。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:17:21 | 显示全部楼层
【三】

 三月二十五日の夜だ。というより、もう二十六日の|子《ね》の下刻(午前一時)にちかかった。
「慶安太平記」によると、由比正雪の道場は、建坪だけでも千五百七十坪あったという。これはちと|法《ほ》|螺《ら》くさいが、そう後代に法螺を吹かれるほど広大な榎坂の由比道場の裏門が、ぎいとひらいた。
 雨がふっていた。
 裏門から|一挺《いっちょう》の駕籠が出て来た。なんのへんてつもない町駕籠だが、それを四五人の男がとりかこんでいる。そのまま、ピタピタと|矢《や》|来《らい》|下《した》の方へ歩いてゆく。
「……?」
 やや離れて、それをひとりの武士が見送って、しばし迷っている風であったが、すぐに意を決して、それを追い出した。黒い|頭《ず》|巾《きん》をつけてはいるが、羽織袴の様子から、いかにも大身の武士らしい。
 これは柳生主膳宗冬であった。
 紀伊大納言頼宣卿が由比道場にしばしば出入りしている疑いがある。その実否を、なんじ、ひとりでひそかにたしかめよ。――という父の命令で、この十数日、外桜田の紀州邸やこの牛込榎坂かいわいを、ひとしれず探っていた柳生主膳である。
 幸か不幸か、この間、紀伊頼宣は外桜田の屋敷から、一足も外へ出ないようであった。
 そして今夜――夜に入ってから、ついに――ようやくその屋敷から出た一挺の乗物が、十数人の武士に護られて、この牛込の由比道場に入ってゆくのを彼は見たのだ。しかも、その裏門に。
 いま、数刻を経て、その裏門からまた一団の影があらわれた。
 さっきのような貴人用の乗物ではない。またそれをとりかこむ人数もちがう。――しかし、彼らはみな武士だ、と主膳は判断した。
 一見さりげない一団だが、それをつつむ雰囲気は粛然たるものがある。闇夜ながら、それはわかる。
 あれが紀伊頼宣卿? まさか?
 いや、あれはたしかにただ者ではない。そもそもこの夜中、あかりもなく出てゆくのがいぶかしい。大納言だ。十中八九まで紀州大納言だ。
 頼宣卿ならお顔は知っておるが、なんとかあの駕籠から出す工夫はないものか?
 主膳は気をもんだ。焦慮した。しかも、じぶんの顔をむこうに知られてはならぬのである。
 右は酒井家のなまこ塀、左は御先手組の組屋敷の土塀にはさまれた矢来下まで来たときであった。主膳ははっとあることに気がついた、もしこれが紀州頼宣卿に相違ないならば、それがくるときと帰るときと、乗物、人数まで変えているということは――追跡者があるということを知っているのではないか?
 そのとき、三四間も先をいっていた行列が、ピタリととまった。
「ここらでよかろう」
 だれか、いった。同時に、そこから何やらビューッと飛んで来た。
「……あっ」
 主膳は立ちすくんだ。
 飛来したものは、いままで彼が見たこともきいたこともないものであった。それは一つではなかった。小さな|蝋《ろう》|燭《そく》を十文字につらぬいた鉄串のようなもので、それが旋回しつつ飛来してくると、主膳とは反対側の土塀の壁に、音たててつき刺さり、四つ五つ羅列したのである。衝撃と同時に、なんたるからくりか、雨の中に蝋燭はいっせいに燃えあがった。
 くゎっと主膳は照らし出された。
「はてな?」
 向こうで声がかかった。
「これは、いつものように伊賀者ではないな?」
「武士だ」
「これはいよいよ生かしては帰せぬ」
 そして、駕籠わきに、ただひとりだけを残し、あとの四人がいっせいに抜刀して馳せ寄って来た。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:17:46 | 显示全部楼层
主膳がおどろき、狼狽したのは、その奇怪な蝋燭を見た刹那だけである。――よし、とむしろ彼はうなずいた。いかにして駕籠の中の人物を出すか、ということに苦慮していたところだ。これは向こうで、その機会をあたえてくれたものといっていい。
 壁蝋燭に照らされて、銀線のような雨の中に、白刃がきらめいた。二度三度刃がかみ合うと、四つの影は地にはった。灯影に血しぶきがとんだようにも見えなかった。
「狼藉だろう」
 はじめて主膳は声をかけた。刀身は血ぬられていない。彼はすべてみね打ちで襲撃者をたおしたのである。
 頭巾も乱さず、駕籠にむかっていった。
「どなたさまか、御挨拶なされ」
 二歩三歩、寄って、柳生主膳は、駕籠わきに残っていたひとりの男が、妖しい姿勢をとるのを見た。手には何の武器を持っているとも見えないのに、両腕をのばして頭上で組み合わせたのである。
 ――忍者だな。
 主膳の頭を、先刻の奇怪な蝋燭がかすめた。彼はピタと静止した。
「殺すな」
 そのとき、駕籠の中から、しゃがれた声がかかった。
「あれを殺してはならぬ」
 そして、みずから駕籠の垂れをあげて、ニューッと外に出て来た者がある。
 |十《じっ》|徳《とく》を着て、杖をついて、どっしりとした巨大な姿であった。しかも、入道頭だ。……主膳の頭を、殿中で見た南竜公頼宣の風貌がはためき、覚悟はしていたが、本能的にひざをつこうとした。
 ――が、次の刹那、
 ――ちがう!
 と、心中にさけび、愕然と眼を見張っていた。
 体格の大きさ、入道頭こそ似てはいるが、顔はまったくちがう。だいいち大納言頼宣卿はまだ四十の半ばのはずだが、眼前に立ってこちらを見すえているのは、もう七十にちかい老人であった。ただ、しかし、その全身からは名状すべからざる精気が発していた。
「ふむ、わしが挨拶してやろう」
 と、入道頭の老人はしずかにいった。
 ――しまった、と思うと同時に、主膳は、これ以上かかわり合えば事面倒、と判断した。
「いや、お顔さえ拝見すれば、それ以上の御挨拶は御無用。失礼いたす」
 背を返して、歩み去ろうとしたのである。
「待て、江戸柳生」
 声は、主膳の足を釘づけにした。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:18:03 | 显示全部楼层
「しかも……いまの手並からみると……おそらく柳生の御曹子、主膳宗冬と見たはひがめか。頭巾をとって、顔を見せい」
 笑みをふくんだ声をきくと、主膳はくるっと姿勢をかえした。ただ柳生と看破したならわかる。しかし、わざわざ「江戸柳生」と呼んだこの老人は何者か?
 なんにしても、柳生主膳宗冬と見ぬかれて、もはやこのまま背は見せられぬ。いや、それよりも、この老人をとらえて、頼宣卿ならずとも、その正体を明らかにしてやろう。
 いちど鞘におさめかけていた刀身をあげて、主膳はかまえた。
「名乗れ」
 老人はまだ杖をついたまま、ぶきみな笑顔で、じいっとこちらをながめている。
 ふたりのあいだに、雨はしずかに降っていた。
 主膳の背に戦慄が走った。相手はただ杖をついただけで立っている。それだけで、全身の筋肉がみるみる硬直してくるような感覚に縛られて来たのだ。
 ものもいわず、主膳は殺到していた。
「|推《すい》|参《さん》なり、小せがれ」
 その声をきいただけで、主膳は棒のようにぬかるみにたおされて、そのままうごかなくなっていた。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:18:34 | 显示全部楼层
【四】

 ――その夜明方。
 雨ふりしきる霞ケ関の柳生屋敷、その門の扉に、ひとりの男がもたれかかるように座っている姿が見つけ出された。
 すぐに失神しているだけだということはわかったが、同時にこれがこの屋敷の御曹子、主膳宗冬だということもわかって、人々を驚愕させた。
 ……主膳は意識をとりもどした。はじめ暗い空に銀の雨がふっている幻覚があり、その雨の向うに、じいっとひかっている恐ろしい二つの瞳がよみがえってきたとたん――「うぬ」と主膳はとび起きようとして、右の脇腹と背の腰の部分に激痛をおぼえた。
「主膳」
 と、呼ぶ声がした。
 父の但馬守と、ひとりの僧がのぞきこんでいた。主膳はここが父の病室であることに気がついた。
 ――どうして、わしは?
「おまえは、けさこの屋敷の門前に、雨にうたれて気を失っておった。いかがいたしたのじゃ」
 但馬守がきいた。
 主膳はすべてを思い出した。……思わずさけんだ。
「あ……あの入道は何者か?」
「入道とは?」
 主膳は起きなおろうとして、脇腹と背の痛みにまたがばと伏し、歯をくいしばりつつ、けさの矢来下の事件を語った。
「……駕籠から立ちあらわれましたるときは、てっきり南竜公さまと思いましたが、よく見ればちがっておりました。おそらく拙者の追跡を知り、替玉を以てたぶらかそう――すなわちはじめ由比屋敷に入ったのは大納言さまではない――と思わせようとしたものと存じまするが」
「それが、そちを、江戸柳生、と呼んで挑んできたというのじゃな」
「されば。……うぬ」
 と、主膳は立ちかけて、また苦痛のうめきをあげた。
「年はいくつくらいか」
「かれこれ七十に近うござろうか。あたまをまるめた大兵の老人でござった。……拙者、もういちど由比屋敷へゆき、あの老人と立ち合わねば気がはれませぬ」
「それが、そちを、主膳宗冬と見ぬき、柳生の小せがれ、と呼んだというのじゃな」
 但馬守の声は乾いていた。
「相手の武器は、棒か、|杖《じょう》か」
「杖――のように見えましたが、父上はなんで御承知で」
「そちの脇腹に打たれた跡がある。凄じい手練。……軽く打ったようで、主膳、そちはあと半年は刀もとれぬぞ」
 主膳は脇腹をおさえた。じぶんの刃は相手に触れもせず、ただ疾風のような一撃を胴に感じたことを思い出した。
「なお、そちの背――腰の上にも傷がある。それは|小《こ》|柄《づか》で刻んだあとじゃ。おそらく気絶したそちを、いちど裸にして、そのような細工をしたと見える」
「あ。――」
 こんどは主膳は腰に手をやった。
「小柄で刻んだ、と仰せられると?」
「尾という一字。しっぽの尾の字が」
 但馬守は、醜怪とみえるまで顔をしかめた。氷のような声で、
「同時にそれは、尾張の尾の字でもある」
「――尾張?」
 けげんそうな眼をむけたのは、宝蔵院|胤舜《いんしゅん》であった。
「尾張柳生。――」
 但馬守はうめいた。
「主膳、そちの相手になった老人は何者と思うか。いまそちは、もういちど、と申したが、そちごとき未熟者では、千たび立ち合うとも歯がたつまい。あれは、尾張の柳生如雲斎。――」
「やっ」
 胤舜は大声をあげた。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:18:58 | 显示全部楼层
「但馬どの、それが柳生如雲斎どのじゃと? 如雲斎どのが江戸におると? あの御仁は、京の妙心寺にいっておるはずではなかったか?」
「その如雲斎がなぜ江戸におるか、わしも知らぬ。御坊が名古屋でそうきいてきたのがいつわりであったか、如雲斎の家人もまたあざむかれていたのか、わしは知らぬ。ただ由比屋敷におるその老人が、柳生如雲斎であることにまちがいはない」
 但馬守は、息を刻んで、
「その入道頭、年ばえ、彼の申した言葉のはしばし、さらに主膳の腰に彫りつけたその文字。――何よりも、その手練から、それは如雲斎以外の人間ではない」
 胤舜も、主膳もしばらく沈黙していた。驚愕のため、口がきけないのだ。――ややあって、胤舜はじっと但馬守を凝視して、
「柳生如雲斎が……何のために張孔堂に?」
「それは知らぬと申しておる。ともあれ、それにて由比正雪なる男が、いよいよ容易ならぬ人物であることを知るばかりじゃ。……ただ、如雲斎が、主膳と知ってこれに挑み、これに恥辱を加えた理由はわかる」
 但馬守はきしり出るような声でいった。
「あれは江戸柳生に対する挑戦、いや、このわしに対する如雲斎積年の鬱憤ばらしじゃ」
「ううむ。……」
「もう二十年以上もの昔、あれがまだ兵庫と名乗っておったころ、いちど江戸に来て、わしに試合を挑んだことがある。その面魂には殺気があった。わしの心はうごいたが、しかし断わった。わが江戸柳生はお止流でもあるし、おなじ柳生一門が争って、どちらが勝ったにしろよい結果は残さぬと思うたからじゃ。彼は黙って、冷笑して去った。――」
「如雲斎どのが、江戸柳生に対してよい気持をもっておらぬことは、わしも承知しておる。しかし――さればといって、いま主膳どのに――将軍家指南役にかかる恥辱を加えて、あの御仁はぶじにすむものと思うておるのか?」
「将軍家指南役がかかる恥辱を加えられたことを、世にあからさまにできると思うか、胤舜坊」
 胤舜は、|面《おもて》をたたかれたような顔をした。
「ううむ、いかにも。――」
「江戸の柳生家のあとつぎが、尾張の柳生如雲斎に一合も合わせず地にはわされて、尻の上に尾の字を彫られたと世に知られたら。――」
 但馬守はキリキリと歯ぎしりした。
「知られてはならぬ。このことは、|金《こん》|輪《りん》|際《ざい》、世に知られてはならぬ、主膳の尻の上の尾の字は、永遠の秘密としておかねばならぬ。それどころか――主膳、いままでわしが探索してきた張孔堂一件のこと、それまでもすべて忘れてしまわねばならぬ。わしがおまえに用を頼んだのはまちがいであった。……」
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:19:15 | 显示全部楼层
蒼白になって這いつくばっている三男坊を、怒りにみちた眼でにらみつけ、但馬守はまた心中にうめいた。
 ――ああ、十兵衛がおってくれたら。……
 ――しかし、あれはあれで、柳生家を滅ぼす。……
「如雲斎はそれを見通して、あのような所業をしてのけたものとわしは見る。きゃつの狙いは、わしじゃ。腹が立ったら、但馬よ、出てこいと申しておる。……」
「わしが」
 と、胤舜はさけんだ。
「如雲斎に恨みはないが、世におのれを知る者は但馬どのおひとりとまで思うておる胤舜じゃ。わしが江戸柳生に代って、如雲斎どのと立ち合い、この恨みをはらしてくれる」
「御坊では、何にもならぬ。それに……御坊では……如雲斎に及ぶまい」
「何を。――」
「……天下に、いま生ける者のうち」
 と、但馬守はしみ入るようにつぶやいた。
「柳生如雲斎の相手に立ち得る者は、この|宗《むね》|矩《のり》くらいであろうか。――」
 すでに死相といっていい暗灰色の顔、苦病に枯れ朽ちんとしている小柄な肉体――それからいまめらっと燃えあがるような絶大の自信と、そして凄じい闘志に、宝蔵院胤舜は、次になお言い返そうとした声をのまれた。
「しかし――この但馬守は死なんとしておる。おそらく、きょう一日のいのちであろう。……」
「た、但馬どの! 何をいわれる」
「いや、わしにはわかるのじゃ。わしの命脈はまずきょうかぎりと計っておった。その朝、わが伜がかかる醜態をさらして帰ってくるとは……運命じゃな」
 そして但馬は、きっとして主膳を見た。
「ゆけ、主膳」
「は?」
「|退《さが》りませい!」
 いま死なんとしているという人にしては、|鉄《てつ》|鞭《べん》のように強烈な声であった。主膳は傷の痛みも忘れ、這うように座敷を去った。
 見送った感情のない眼をもとにもどし、
「胤舜坊、あの唖娘を呼んでくれ」
 但馬守は黒くひからびた唇をひきつらせていった。
「わしは、あの娘を以て、魔界に|転生《てんしょう》いたしたい。――」
 宝蔵院胤舜は息をひき、眼をかっとむいて相手を見まもった。
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