「それから、警部さん、主人が貴方にお渡ししてくれと言って、こんなものを書いていったんですが。」
コックの虎吉が、十徳の胸を開いて、揉みくちゃになった一枚の紙切れを取り出し、係長の前に差し出しました。
中村係長は、引っ手繰るようにそれを受け取ると、皺を伸ばして、素早く読み下しましたが、読みながら、係長の顔色は、憤怒のあまり、紫色に変わったかと見えました。
そこには、次のような馬鹿に仕切った文言が書き付けてあったのです。
「小林君によろしく伝えてくれたまえ。あれは実に偉い子供だ。僕はかわいくて仕方がないほどに思っている。だが、いくらかわいい小林君のためだって、僕の一身を犠牲にすることはできない。勝利によっているあの子供には気の毒だが、少々実世間の教訓を与えてやったわけだ。子供のやせ腕でこの二十面相に敵対することは、もう諦めたが良いと伝えてくれたまえ。これに懲りないと、とんだことになるぞと、伝えてくれたまえ。ついでながら、警官諸公に、少しばかり僕の計画を漏らしておく。羽柴氏は少し気の毒になった。もうこれ以上悩ます事はしない。実を言うと、僕はあんな貧弱な美術室に、何時までも執着しているわけにはいかないのだ。それがどのような大事業であるかは、近日、諸君の耳にも達する事だろう。では、そのうちまたゆっくりお目にかかろう。
二十面相
中村善四郎君 」
読者諸君、かくして二十面相と小林少年の戦いは、残念ながら、結局、怪盗の勝利に終わりました。しかも二十面相は、羽柴家の宝庫を貧弱と嘲り、大事業に手をそめていると威張っています。彼の大事業とはいったい、何を意味するのでしょうか。今度こそ、もう小林少年などの手におえないかもしれません。待たれるのは、明智小五郎の帰国です。それもあまり遠いことではありますまい。
ああ、名探偵明智小五郎と怪人二十面相の対立、知恵と知恵の一騎うち、その日が待ち遠しいではありませんか。
美術城
伊豆半島の修善寺温泉から四キロほど南、下田街道に沿った山の中に、谷口村と言うごく寂しい村があります。その村外れの森の中に、妙なお城のような厳しい屋敷が建っているのです。
周りには高い土塀を築き、土塀の上には、ずっと先の鋭く尖った鉄棒を、まるで針の山みたいに植えつけ、土塀の内側には、四メートル幅ほどの溝が、ぐるっと取り巻いていて、青々とした水が流れています。深さも背が立たぬほど深いのです。これはみな人を寄せ付けぬための用心です。たとい針の山の土塀を乗り越えても、その中に、とても飛び越す事のできないお堀が、堀めぐらしてあるというわけです。
そして、その真ん中には、天守閣こそありませんが、全体に厚い白壁造りの、窓の小さい、まるで土蔵をいくつも寄せ集めたような、大きな建物が建っています。
その付近の人たちは、この建物を「日下部のお城」と呼んでいますが、無論本当のお城ではありません。こんな小さな村にお城などあるはずはないのです。 |