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楼主: bgx5810

中国故事物语(已载完)

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 楼主| 发表于 2005-6-22 08:57:43 | 显示全部楼层
豎子与に证毪俗悚椁�
7 {7 |2 g6 x+ I5 i6 @/ \6 \
+ Z" v0 ^3 D1 ]
漢の元年秦を亡ぼして首都咸陽に一番仱辘筏縿瞍稀⒁喩希ㄒ喫蝄* v6 v& g' o- m
ほとり)に戻って諸侯の到着を待っていた。一足おくれて鴻門(陝西省; Z( x- M& _  E. s' `
臨童県の東)へ進駐した項羽は、劉邦がすでに秦の財宝を独占したとの1 r6 I9 T3 S  O$ s( l
密告をきき、「よし、明日攻撃だ」といきり立った。項羽の軍は四十万、( b& e! }2 n9 d! `, m3 t
劉邦の軍は十万だった。競争者の劉邦を亡ぼす絶好の機会と見て、纸玕
( o$ J+ U9 h" Oの范増は項羽に説いた――
+ `( B. F! f  Q5 W; N' A# ~ 6 S/ g6 P$ X1 d, @9 k' `: F
 「財宝と女の好きな劉邦が、
; b. ~, k4 g' r3 E: f2 p& Z  関中に入って身をつつしんでいるのは野心があるからです。
3 b7 e. B; I( q+ I  逃がさぬよう不意をお衝きなさい。」
6 g; b1 K. t  Y1 j% O) W$ m % M1 D2 d5 S/ E. r* ~1 M- k
 ところが項羽の叔父の項伯がひそかにこの計画を自分の親しい劉邦の
- A1 K, Q. m6 f+ T客分の張良にもらした。劉邦は項伯にとりなしをたのんだ。項伯は項羽2 U  P9 V# ?3 w4 j; g
の怒りをなだめ、一応攻撃を中止させた。翌朝、劉邦はわざと少人数で, Q1 {8 }" N  O2 k) j( S1 L
項羽を訪れた。こうして有名な鴻門の会となったのである――5 T- j2 }) y" g
 9 y" V6 C9 R6 p, r8 o: o" ^
 
- P" a1 L- W* n$ l/ s# K% z 一番仱辘螣o礼をわびる劉邦の言葉をきいて、項羽の気持は大分やわ  f) A! ]3 G' B  G1 ]
らいでいた。: J& C% {/ o; h" G# z4 k4 Y! v
 9 d0 {9 e2 S  \. Z$ G: g6 D2 G! E+ U
 宴席の途中で、范増はしきりに項羽に眼配せし、腰の玉ケツをあげて: i/ Y; q! h8 M5 Y( P* l* x) a
早く切るよう合図したが、項羽は応ずる気配がない。7 t1 o. C  N$ P; z
 
  a, i7 D. W7 q( V たまりかねた范増は項羽の従弟の項荘を呼んで剣舞にかこつけ、途中
, d' V: b+ v0 \* h0 K# ^! N) `で劉邦を切るよう命じた。/ A1 y. }: B9 O1 _
 
9 E1 T- l9 y* ?% f 項荘が項羽の許しを得て舞いはじめた。項伯はこれを見て只事ならず, R0 j* |* Z$ R( \- h& I; v' Q
と気付き、彼も並んで舞いはじめた。項荘が切ろうとしても、項伯が巧3 X7 [" e9 y! s2 Y! L
みに立ちはだかって切らせないのだ。5 v+ h* y7 T, T) a, X
 # y& N7 G/ @/ L
 張良は危機せまると見て、席を立ち樊カイを呼んだ。樊カイは殿危う( `9 R+ P, m, n4 e$ Q  R  ~5 `
しときいて楯で衛兵をつき倒し、帷をかき上げて仁王立ちにつっ立ち、2 t! |& \, V7 \! ^4 |
ぐっと項羽をにらんだ。頭髪逆立ち、まなじりことごとく裂けるすさま; V# o8 Y6 j* {. f* e
じさであった。' M  U9 ?1 E% W; f7 b6 u
 
: `; ~: w! K! @6 r% G( k0 Q 項羽はぎくりとして身構えた。: K- X% C" J* T1 q% I7 T  T- B
 
" T% m: K* {6 G, I+ y/ T. q" [& [ 「あれはだれだ?」6 ^- {' Z7 @3 g* [$ |1 q7 a
 
8 ]' D7 c( D% C6 H2 m& u+ r 「供の樊カイです。」6 K* u# ?1 V( q7 x+ h/ g
 
& d7 f  g, y, \) l& |7 p) l 張良が答えた。6 ^6 g6 R1 x9 k& b
 3 o: V. d' R. n7 ]3 }) D% s
 「ウム、なかなかの壮士だ。酒をやれ。」
8 l) I" N9 `" h* k! n5 S% W 
: q$ C, @9 F/ h, h3 c- r 樊カイは立ったまま大杯の酒を飲みほした。項羽はまた肉をやるよう
1 ~  \4 V% ^. S: T1 J+ {に命じた。その肉はしかし生の豚肉だった。だが樊カイは平然として楯6 a7 \; ~3 Y5 E
を俎代りにして切り、ムシャムシャ食った。
9 t3 X7 N, y$ Y9 J 
6 L2 b4 v7 x" _$ j3 I 「もっと飲むか?」
* D, K  ~& R- y9 T3 | ( V, t% D1 ^7 o: u. |
 項羽は言った。樊カイはそこで劉邦の処置を弁護し、項羽は小人ばら/ G+ R  X3 T+ ?; {) ~
の言を信じて功労者の劉邦を切るのかと迫った。
! f' Q& ^+ @; l+ v. k$ X1 z 
& U; g# L( ^  U2 M; b0 @ 座が白けた。やがて劉邦は樊カイを呼んで厠に立った。このとき危機
  n% l6 g; p' N* ]3 J3 p$ }は去っていたのである。劉邦はあたふたと間道伝いに覇上へ逃げたのだ6 y1 @% Q% s' ]' ]' J: M! \$ r
った。最大の危機を切抜けたのだ。あとに残った張良は、劉邦と示し合# l6 @" I5 ]+ N1 x
わせておいた通り、劉邦が覇上へ着いた頃を見計らい、宴席に入り、劉
1 d6 L! p, j; Q% B邦からの贈物――項羽には白璧一対、范増には柄付の酒器一対を献じて
/ K4 o$ Q$ }* u# s無礼をわびた。: T/ s+ E' R: z/ u; |' m
 
+ o! m& W: e5 Z* m! n0 W3 S2 L8 r 贈物をみて范増は砂を噛む思いであった。さっと剣を抜いてそれを突
; }  h4 u/ D, F7 Iきくだき、
9 Z% \  u2 t3 b 
4 [8 K& g4 t& h! I5 s1 u0 [  E 「ああ、豎子与に证毪俗悚椁骸8 W. }. X3 V0 W2 H7 `1 Q
  項王の天下を奪うものは沛公(劉邦)であろう。」/ R9 e, ?# D: D# D4 {3 q3 ~
 : z$ J' @1 O& f9 L  z0 @9 B
 と言って嘆じた。               (「史記」項羽本紀)
# [/ b3 v' o7 w9 [ " m  S+ W/ V5 {
 
  j& B: j# |- |8 n4 z& b 豎子云々――こんな小僧っ子(罵語)は相談相手にならぬ――は項羽を( a2 j1 _9 M" e+ m9 F6 I7 ]
罵ったもの、項荘を罵ったもの、との二説があるが、いまは詮議しない4 n: T. _. W; `/ P) W$ f/ @2 Q
でおく。6 g9 A) @8 u" @6 U6 X
 
6 ]) w) W: X" z 「豎子」の語は「左伝」に見える。6 h/ z% c# T! |! g  K7 S
 
' K* J* y7 g- fまた1 V- N: s1 L6 g! Y. i
 「豎子の名を成す」(「史記」孫子伝)
5 ^/ k) |% h/ `0 `+ _% ~+ | 「豎子教うべし」(「史記」留侯世貨)
& z1 d6 a" V- a+ [- p  Nという語もある。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 09:03:37 | 显示全部楼层
首鼠両端
0 o9 ]7 p! }/ e( g! u3 A

9 \" h" w6 [$ |8 B前漢第四代の考景帝のとき、互いに好敵手として渡り合ったのは魏其8 ]# B- K! o  `
侯竇嬰と武安侯田フンの二人。魏其侯は第三代孝文帝のいとこの子、武% w  Y1 `# h7 y' M* Q; H! W* w7 ^
安君は考景帝の皇后の弟と、どちらも漢室にとっては関係の深い間柄だ
6 a8 ]" {9 `0 U' |った。/ ~1 T* R7 @9 w' z+ b
 
. L$ F& o( s+ B* K- N1 S 田フンが幼いころ、竇嬰の方はすでに大将軍となっていたが、景帝の
5 w& }' ^) P+ w5 F, s# ~, _晩年には、田フンもかなり出世しており、景帝が死んでからは、逆に武" A6 g+ ?# p2 j0 J& `: b
安の方が宰相になり、反対に魏其の方は次第に落ち目となった。
7 z/ \: b! L  r+ m8 z. z/ u; E* U& a 
4 H% ^. ~. h5 ] この二人が、決定的に犬猿の仲となったのは、魏其の親友で、剛直の
. D; V  A* U+ {7 i勇将として聞えていた灌夫が、つまらぬ事故を起したことからだが、二
6 J3 @3 T' \8 g. H; i7 d人とも自分の正しさを認めてもらおうと、帝の所へ出かけ、口を極めて
! r8 j" N- {4 s' m5 R相手の悪口をいった。
9 k$ ^  b, j, `. ^ 6 N0 n* l: v+ ?- o
 二人から訴えられた帝は判断に困り、臣下の者に、どちらが正しいか: _, o- D  u5 X3 A/ C. O% @
たずねた。官吏の罪を糾明する役所の長――御史大夫の韓安国は、2 s$ E8 c8 _: P5 U
 ( j4 x8 A. a4 a" e) S0 P
 「どちらの言い分も、4 C# ?6 y, F6 N2 H4 S
  それぞれ一理ありますので、判断がつきません。
3 g$ n3 [8 I' Z* O4 K; _  この上は陛下のご裁断を仰ぐばかりです。」
* J) r! E3 w/ [, a" Y8 N+ O 
, l$ w) f" r" P# T, l( w と答えた。そのわきにいた宮内大臣の鄭は、はじめ魏其の方の肩をも
0 q, _, o4 E, z, A  Z+ Tっていたが、この席では形勢必ずしもよくないと見て、ハッキリした意% G' ~8 r7 ^" }4 j: G& l, Y8 `# q
見をのべなかった。そこで帝は、宮内大臣をしかりつけた。6 Y8 B3 B; g; m& W6 y# A
 8 F4 N! @# Y2 x$ P8 o% |
 「お前は平素、# M; o& F6 D5 |
  二人のことをあれこれと批判しているくせに、- a, P3 S; p6 V, ~* X+ b
  肝心なときには何もいわない。
6 E7 O% f9 F& ~0 o+ ^: B; C& W  そんなことで宮内大臣がつとまるか。. H' Y- w, r9 n9 _' Q
  不屈者、お前の一族はみんな斬罪だ!」
, A6 s( [/ j% I( d 
& L* o+ i# p0 `! ^ 鄭は恐れ入って、ただ頭を下げるばかりだった。- y) l5 B7 K6 }: c$ K% R
 
9 x; q( v8 ~+ G 武安はこんな争いで帝の心を悩ませたことを恥じて宰相をやめ、その; j0 Q8 X+ \% P
足で門のところまで退出、そこで御史大夫を呼んでしかりつけた。
  k; @0 c" g1 `2 z3 J 
7 \; r$ J; S$ k- d! E! D 「なぜお前は、穴から首だけ出して、: X( F6 c: R! o; d
  出ようか出まいかとウロウロしている鼠のように、
. W; M7 U6 G# y$ `5 ]/ o7 p4 Q  この事件にハッキリ驻虺訾丹氦衰蕙触蕙搐筏皮い毪韦馈
/ y) K* I7 w$ D4 {2 k8 p4 q  (何ぞ首鼠両端を為す。)  d. `3 {) {  ~  x8 K/ B
  だらしがないぞ、理非曲直は明らかなのに……」
  Z* a" r4 f* g# y8 H7 K 
9 O: J" P$ }. i) W% C! D" n1 Z しかられた御史、しばらくキョトンとしていたが、やがていった。9 a5 F' F: l8 _* @% X3 W
 7 N5 t6 u" R: H3 v% H/ B+ o
 「あなたは喜んでいいですよ。
# a  F( t$ U1 z( ~% e! ^0 _% u1 |  あなたはまず宰相をやめることです。: U2 D* Q! R7 @( d/ l
  そしてこういうのです。
) a8 [; I8 x) y 8 f2 w; a4 X" \
  『魏其のいうことが正しいのです、" g; W& ]- w, A
   私は無理を通そうとして、  [3 a% x+ a* Y% U
   陛下にご迷惑をおかけしたことを、心から遺憾に思い、
; Z: C0 q! V# j& Y( H# O+ y   いま謹んでお叱りを待っております。
* x+ Z9 w) B3 o   こんな至らない私が宰相の地位にあるなど、: ]- ?8 Z* k$ K# J9 D. i  V3 m; S' }
   とんでもないことです。
5 ^) Y3 h8 D* D6 X% h' n4 V7 P) L   どうか私をやめさせて、罪に落して下さい。』9 y) H* E) _8 w7 Y9 [# p6 ^5 `
 / v1 C6 r, w% S7 P& f6 z9 p
  と。
0 N+ e- X5 B' _ 
6 c3 ?, |9 y$ @7 x9 B# ~& Q  そうすると、帝はきっとあなたの謙譲の徳を多とし、
7 m" l6 Y6 ^1 ]7 g/ |' }  決してあなたをやめさせたりなんかしないでしょう。  _( _7 v7 w, t% W% x
  そうすれば、魏其の方は内心恥じ入って、' s* B& p: N* ~
  自殺するでしょう。$ P- ]7 I0 `: T
  いま、お二人で互いにののしり合っているのは、  L( O! k! @1 L% q% L
  全く大人げない行為だとは思われませんか?」5 e1 x4 ~6 C) s4 z- ]2 c
 . @3 F, w* \8 M5 F% @' O
 武安はなるほどと、いう通りにした。御史のいった通り、武安はやめ
7 |2 u. a  M" ^& J* oさせられるどころか、反って帝の信任があつくなった。6 ^6 K4 L2 t4 _) k" @: j% w3 y9 E
 & i2 [9 x# U, \0 R" a* |" C9 q
 魏其の方は、いままでの事を、あれこれと洗いざらい調べ上げられ、( {; I" n. `, M5 L/ r$ M- r
まず問題の中心であった灌夫将軍の一族が全部殺され、次いで魏其も間( c0 R2 K( t6 Y: l. y
もなく同様の目に遭い、この争いは一応、武安の勝ちとなった。
, o7 W+ {2 }: P" {7 F2 F7 [ - `. r5 n  ^& U: ~6 V
 ところが、この争いにはまだ後日譚がある。その後、間もなく武安は
/ f8 C. z* q! f/ e2 J- }" o病気になり、夢うつつの間に、
/ h- A. v% x' w$ I & @3 m; G/ H' P1 n1 V: k
 「許してくれ、俺が悪かった。」
3 c' k( Y" W# J2 z/ Y: t + t' M% s; F, `
 と叫び続けるようになった。近臣が心配して、祈祷師に祈祷させたと4 T" `2 s9 L; e- s$ c
ころ、この病気は、さきに恨みをのんで殺された魏其と灌夫の二人のた
% Y% L1 R; j( kたりで、武安をとり殺そうとしているのだということがわかった。驚い
' L( A2 o% A: [3 l  Aてあらゆる加持祈祷を加えたが、二人の怨念はしつこくつきまとって離
( `, p! T' q9 u2 G6 Tれず、武安は苦しみもだえながら、一週間ばかりしてついに死んだ。+ t! F+ _! [0 x$ I. L
                     (「史記」魏其・武安侯伝)+ g8 G. g; a! z/ M" d! Y
 ; ~& D) u% T( X+ m: a6 Q8 K2 o
 結局この勝負、どっちの勝ちかわからない。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 09:08:50 | 显示全部楼层
先んずれば人を制す
7 ~: U4 N( u; `

, s$ x" s/ ?8 r1 }' A2 k秦の二世元年七月、安徽省の大沢郷で秦の暴政に反抗して蜂起した陳
/ h: |8 B" ~: k2 ?6 p1 u勝・呉広の農民軍は、河南省で旧六国の貴族――魏の旧官僚の張耳と陳
: y" X6 n# h1 J0 f0 K% Y余その他の勢力を加え、破竹の勢いで目指す秦の首都咸陽めざして進撃
3 n4 h% O1 D$ }していた。
0 R; x4 p2 `6 ~: }% |% m 
- m3 A9 f( Z& V6 ] 
; S$ b- Q. _0 W+ s 江東の会稽郡郡守だった殷通も、これに呼応しようとして、郡都の呉4 v6 b7 t# f( U5 E
中(江蘇省呉県)で有力者の項梁を招いて相談した。項梁は秦軍に敗死し! ^1 v; ~- _& u
た楚の名将項燕の子だが、人を殺して甥の項羽とともに呉中に逃れてか
$ V8 d6 }* R% z4 T, eら、持ち前の兵法を巧みに使って夫役や喪儀などに腥摔蝰l使し、偉大* L. t" u5 F$ Y0 g- x
夫の項羽とともに呉中で畏敬されている実力者だった。+ r: V' s9 o6 h/ ^( B# v
 
2 O/ z/ P* g; g9 D5 |* Q) ? 殷通は項梁を招いてこう相談をもちかけたのである――
; v9 U$ R( J$ E & P& O8 m4 X& [" V- _
 「いまや江西(安徽・河南方面)地方はみな叛旗をひるがえしたが、: Y) S6 }- u2 ]! d
  この形勢から察すると、
; Y# f1 M1 S/ s$ q% [5 z  もはや天が秦を亡ぼす時撙摔胜盲郡韦馈
$ c: C$ f' L4 s  先んずれば則ち人を制し、, s' S) }( @/ U9 _
  後るれば則ち人の制する所となる、とか。
# x; @" f3 H, f* D  ついては君と桓楚の二人に挙兵の指揮を委任したいのだが。」
! q9 l8 p6 l, h2 B) h. ^7 S7 ^ 
, z- O+ [  D/ b. a2 x) E' j 殷通は時代のバスに仱辘欷蓼い趣筏啤⒊钨F族であり兵法の心; F" W7 K8 g8 ?
得もある実力者の項梁を利用しようとしたのだった。だが、そうは問屋1 t2 w, [% ?% l) o
がおろさなかった。桓楚が逃亡して行方不明だったのだ。項梁はこれを6 j3 w$ z+ d/ a, W. O- I
利用した――
" o, g- P/ F$ e, r! u& [ 7 c/ s( {3 h, X
 「桓楚はいま逃亡の身で、どこにいるのか誰も知りませんが、. u9 \+ d  p3 C0 l; H0 M1 j
  甥の項羽だけは存じております。」
7 N& n  c9 I$ E7 u) L) N 9 l/ _* u3 G" u; s. D. t
 そう言って項梁は室を出て何事か項羽に注意し、剣を持って待たせて
$ H9 \  M; H" X! K* `# s* Dおき、再び室内に戻ってきて坐った。! M: w% E! D% S9 \( S% r
 : ]( \1 |- ?. ~. a. U, b
 「項羽を呼んで桓楚を召還するよう命じていただきたい。」! ]% A- [  \- R8 X! A  A
 「そうしよう。」
" l& p6 t# B  R. z( s+ R 
% i6 F) Q9 ]" o2 G では、と項梁は項羽を呼び入れた。しばくすると、項梁は項羽に眼配
( n. B7 b: q% o( Aせして言った。
. D& F# Z# }9 U9 ~4 d : U3 K/ `4 w  `5 I
 「やれ!」
4 [; ~" l9 {: {5 G" ~0 V) z 
* E$ e0 D* t- t: |; u9 P4 l 項羽はサッと剣を抜いてバッサリ殷通の首を斬り落とした。4 K4 s: H( _. G- j# Q
 
5 [5 S/ I. o9 P. C; m0 f% ~ 
- r% Z" m" ^6 V 「先んずれば則ち人を制し、後るれば則ち人の制する所となる(先んず
1 k+ r+ i2 P) P& ]. tればすぐ人を制し得るが、後れれば自然に人に制せられる)」を実際に行) ]  M- _3 v$ @
なったのは、殷通ではなく項梁と項羽だったのだ。項梁はみずから会稽
) b9 |- L4 a( U0 L郡守となり、郡署を占領、八千の精兵をごっそり手に入れて鮮やかに挙0 Q) c' l0 b' S; D/ g8 P
兵したのだった。1 x% Y2 v2 \% B
 
. N( J/ Y" m* P& ] 
6 o1 O) _% e) W これは『史記』の「項羽本紀」にのっている記録だが、『漢書』の「項% d6 e2 c* u- V7 A- y4 O
籍伝」には「先発すれば人を制し、後発すれば人に制せらる」と見え、し7 a% q& L0 t; T+ c- ?
かも殷通の言ではなくて項梁の言として記されている。いまは詮索を避: p4 A- x8 F* |2 d
け付記するだけにとどめておく(なお『隋書』の「李密伝」にも「先発すれ
- b- J; C* W- D: ~# p& ^" k# nば人を制す、此の機失うべからざる也」とこの語が見える。また、「後る6 x& L" z1 j9 ?, T2 L
れば則ち人の制する所となる」は、俗に、「後るれば人に制せらる」と言い
1 c$ J# w5 z4 l! W習わされている)。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 09:10:55 | 显示全部楼层
五十歩百歩

  p/ t* ]% V, R. o4 D/ J: V0 t4 b" S- D, O. b
孟子は西暦紀元前三七一年に生れたという説があるが、たしかなこと! ?) R: u' S0 I3 ?9 L
はわからない。五・四・三世紀と続いた戦国の世のまっただ中、つまり- M" P+ ^, m1 O$ I" }# v
四世紀中葉に生きていた人である。その乱脈な世に人道主義的な孔子の1 p# ]& y7 Q% N0 U
教えをひろめ、仁義の道を説いて廻った孟子は、当時の人々にはずいぶ9 B* q5 x1 L* I: z
ん変った人間に見えただろう。しかも孟子は徹底した理想主義者で、人
% U$ U0 }# u9 }" ^! x2 _  Pに自説を説く時の口舌はがむしゃらと思えるほどである。またそれだけ
) M& i! o" J1 t! C4 a& T4 H$ [に気概のこもった鋭い弁舌を展開する。# ^  v% l* E& y! z) {6 P7 m" e
 
" y- u* j$ `# V8 @4 N% N 当時の思想家や策略家や知恵者たちが諸国の王に遊説して廻ったよう, S" t# D' e; I$ x
に、孟子もまた多くの王に遊説をこころみた。魏の国の王、恵王に招か
4 _" {  u2 b; Y' Z  V0 hれた時の話である。恵王は都を梁(今の開封)に遷したので梁の恵王とも
( ^# Q: r& W( ?) c/ ^3 C5 ?. q% \( ^いわれる。
* g+ d: E- `- j1 h  I2 u 
- a& r! v9 f4 f 魏の国は当時、西からは虎狼とあだなされた恐ろしい秦の国に圧迫さ, e+ G* C0 q( K; s$ |/ E
れ――実はこの圧迫にたえかねて東の梁へ遷都したのである。――また/ P8 {- C, U! O  B$ x! ^5 w
東の斉の国との戦には再三にわたり大敗を喫し、逆境のどん底にあえい
2 n7 ~' U# T1 ]9 mでいた。恵王は名の知られた賢士や逸材を招いて、意見をきき、あるい& M7 U, ?( E5 E$ ]6 c4 k+ `7 b, r
は召しかかえるなど、極力国撙瓮旎丐摔膜趣幛皮い俊C献婴猡饯韦瑜
) j4 N: H. O6 O2 u5 M6 G7 Oにして招かれたのである。1 w+ m5 N) z+ O+ j7 H8 B
 2 H5 t3 I: W3 g2 d
 
( W6 ^- p  E% r3 u恵王「先生よ、
) G0 Q9 @( p0 C9 [5 [/ n8 k   千里を遠しとせずしてようこそおいでくださったは、
1 R4 p- P! W8 e$ R- [# U   ほかでもなく、私の国を強めようとのおぼしめしでござろう。」
1 Z' T* f* a0 C# B( L) r6 _ - S0 P: @  N8 o) t% m4 P+ p
孟子「王の国が強くなるか、ならぬか、それはさておき、
. k3 C/ s( x/ {2 z+ r   私めは仁と義とについてお話ししたいと思ってまいりました。」8 m) Z; _) e. J  t
 
) K  }+ |! s" ]" n 両人の会話はこんなふうにして始まる。この言葉は書物「孟子」の冒3 H/ y7 P8 Q5 f9 |
頭に出てくる。
- ~- \& T. g2 E: T. m0 W3 w$ h0 f 
. M# f. s+ Q/ J6 H" n' ~; M+ O さて、話はさらに進み、いろいろのことに及ぶ。孟子はここにしばら. Z& M8 ~( W) W
く滞在した。恵王は自分の思惑とどうもちぐはぐな孟子の考えをともあ$ o2 g% T& B' Y  L$ Y2 s
れ辛抱強くきいた。或る日のこと、, i/ h  k( L3 W: h- p& B2 E
 
4 \4 i) I4 h7 r0 m9 Q- M恵王「先生よ、あなたの民を思えというお教え、4 }" b/ M) ?; }+ \; D
   ふつつかながらずいぶん私もつとめておるつもりだ。
4 r$ Y- ~( i; J   たとえば私の国の河内地方が凶作の年には、) J  z" A$ j  p1 V9 E
   若い者たちは河東地方に移住させ、
3 P9 c! ~$ F4 \* Z0 g0 a8 v   残った老幼者たちには河東の穀物を撙螭抢搐剖长铯弧
/ }' E' H5 @* G+ w4 Q* M' g2 h   その逆に河東地方が飢饉の年には若い者を河内に移住させ、
% r' t, n8 x* p   河内の穀物を河東に撙证胜伞O力つとめておるのだが、" X: W7 C5 M" X# j0 q9 n
   百姓どもが私を慕い集って来る様子もない。# A, w" A! v6 x% i' `
   隣国の民は依然として数の減る様子もなく、0 A& l( ]% @6 R9 _" m) c# a- Q
   私の国の民が数を増す様子もない。9 U! t* Y3 I' @# Y0 r& J! ?
   民を思えとおっしゃる先生のお考えからすれば、
$ B1 R) ~$ _" a9 }* i   これはどういうことですかな?」
" @/ Q7 i# C) J# s) W; _9 N 
9 }! Q- c8 [8 a% {: H3 L孟子「王は戦争がお好きでしたな。
; q& M: v9 \. H4 n: r, d1 X/ `+ B   ひとつ喩えばなしを申し上げましょう。
7 n. x. R# J* b: q   戦場でいざ両軍矛を交えんとし、
$ E" Q: s) i0 ~" Q0 @1 g   合図の太鼓が勇ましくなったと致しましょう。
" a3 P. I$ l  g   いよいよ白兵戦です。
. r* v- }, n, f5 S, A  H   と或る兵士はすっかりおじけづき、" j2 m: }/ _9 |1 S
   甲冑をかなぐり棄て、刃物をひきずって、
* z1 X( _. m9 b! H3 D7 ]8 d   すたこらすたこら逃げ出しました。
% N) x! r7 s3 t: i) g   そして百歩ばかりで立ち止りました。
2 U# b3 M3 e" d$ `# y   ともう一人逃げ出した奴がいて、! M4 h# g; K( j, ~# [
   こいつは五十歩のところで立ち止り、
0 ^( L1 u. [5 A  X8 [! |  R6 N   百歩逃げた奴を[卑怯者!]といって笑ったといたしましょう。3 `# L* |1 c  p5 e
   いかかです、王よ!」! [$ P% s4 F4 A, l6 L  K' p: {
 
8 j, I4 c! F" v7 D0 y恵王が「いやはや、ばかげたことよ、
+ g" I, i$ Q( s4 B! O2 ]5 t    五十歩も百歩も、逃げたに変りはないではないか。」" e. `6 i% g6 g9 b
 
: [( w( K& P" @2 B& j" S: f+ Hと答えると、すかさず、; ]" x' W4 s+ i3 a* m# ^2 {
 1 B9 B, L4 z3 R% L
孟子「それがおわかりなら、王よ、
2 T1 Y$ J, O4 b1 N  W4 M7 r   隣国より民を多くなさりたいという、
, {9 J& G& r' E   王のお望みもちと似通ったことですぞ!」
1 Z3 }7 P6 ^# `5 V  C, Z8 h) t6 j 
* A3 ]: t% S6 e; @7 A* h" Z そう言って、孟子は自分の話したい中心のことへと恵王をひきずりこ# P9 z! {0 \+ g/ K9 X4 v
んでいった。その中心のこととは、孟子の思想体系の中核をなす王道、0 |) W- F6 s' |, G
つまり王者の道である。この王道にまともにぶつかったのでは話が退屈
  X3 g7 p; M  w- L6 y# u, cになる。それで孟子は王の最も好きな戦争の話を持ち出して興味をさそ6 U/ i9 X4 f8 @3 ^$ {
ったのだ。3 C; d7 o7 ]% N$ x9 ~- w+ g
 
% T' e' S) k5 K. y! L 原文では、「五十歩をもって百歩を笑わば則ち如何」という問いかけ$ w. r/ {: H5 j
に対して、恵王は、「不可なり。ただに百歩ならざるのみ。これもまた" N3 b, w" m  W( Z
走れるなり。」と答えている。
% q8 s7 t0 I4 R6 t6 u& ~# I3 I 
+ ?# T  q( w( A2 Q# b& V 隣国の政治のやり方も王の政治のやり方も孟子の王道からみれば、い0 _( C; Z# @' R8 {5 ]0 F$ C
かに恵王が民を思おうと五十歩百歩のちがいで、結局は同じこと。真に. Y" F8 G; G6 E* a( y( w
民を思う王者のやり方とは逃げるか逃げないかほどの本質的な差異があ* y/ h$ V. q3 G% i. a' E6 e
る。王道とは、常日頃からの民の生活の安定、その安定の上に築かれ、
7 k8 y& y; t6 A/ x# x* C7 Q民を主人とし、民のために存在する愛情と礼儀との道徳国家、教育のゆ
! b+ m7 g$ _, M, g! C- mきわたった文化国家それをめざすことであり、またそれ以外の何物をも
2 @" N. }* v* u. ]  Tめざさない考え方なのである。その国が強大であるか否かは王道にとっ
! R! \! l; E! A/ h! R% `ては関心のないところであった。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 09:11:47 | 显示全部楼层
五里霧中

0 ]) r4 Z0 W/ `+ T6 a+ F# v- B  o$ h6 X3 w& o. l
宦官や外戚が政治を牛耳った後漢の和帝のとき、張覇という成都出身
7 V9 u$ c6 `7 yの学者がいた。和帝が病没し、ついで殤帝が八ヶ月で没し、安帝が即位
% h/ M; M* v/ ^. G% Kしたときには侍中(側近の顧問官)を勤めていた。殤帝と安帝の政治の実
  d6 g3 W8 P) y' u0 m0 _1 j権は、トウ太后(和帝の皇后)と、その兄のトウ毪栅盲皮い俊owぶ鳥
5 p. _2 _) N$ N. C0 R, s+ vも落すそのトウ毪瑥堃啢蚊蚵劋い平护铯辘蚯螭幛郡趣堃啢襄襖
/ H) t3 ~7 a! f" o4 N% {+ D巡して返事をしなかった。みなは、かれのかたくなさを笑ったが、やが
+ n7 u9 K: E  x) qてかれは七十歳で病死した。
1 d  a* K/ o, U0 {, Q) v5 ~) b + L6 w) z2 g( e
 
& M0 _% Q: N% C1 Y& r" g その子供に、張楷という者がいた。字を公超といい、やはり「春秋」- N2 O# w7 Q9 ]6 [2 H: m6 s6 ]* w
「古文尚書」に通じた学者で、門徒つねに百人を擁し、先代からの夙儒た
' ?5 v/ P2 Q, W+ z! uちがみな門を叩いた。車馬が街を埋め、お伴のものは金魚の糞のように6 v2 P9 X( Z9 l+ N
ひきも切らなかった。宦官や皇帝の親戚たちも、かれと往き来できるよ! H6 u3 n; u+ {4 c& s! ~# r% b& b
う骨を折った。
7 \( G$ w# ?5 l$ } ( D/ K" i! {. @! ~6 F/ t, Y
 だが、かれは父のように、それをいやがり、郷里へ戻ってしまった。
+ {; V3 J( t. F6 ]1 h' F, k司隸(警視総監)が茂才(官吏登用有資格者)に挙げ、長陵の令に任命した
; n, i' q& e1 e& Q3 lが、出仕せず、弘農山中に隠居してしまった。学者がこれにしたがい、
0 A3 n4 F3 N. M5 @+ F% M- a$ cその居所は市を成したという。後には華陰山の南についに公超市ができ. E% _3 ]0 [9 ~$ R
るという有様であった。そうなると、ますます挙用したくなるのが、人
3 C5 s' i3 \; S+ @# b情である。重臣たちは何度も賢良方正(官吏登用有資格者)に挙げたが、
& c% i* @2 ^, o* o1 dやはり仕官しなかった。. N+ }$ v1 y( |. n4 m8 v- J* e
 
. {4 w' y" J5 C4 P6 [2 q 
' P: ?+ @- h" R) K* B  M5 _ 安帝が没し、次に立った順帝は、とくに河南の伊(長官)に詔を下し、1 r$ u4 r* t8 Z8 }1 V, f
 
* m& G: x* R9 k1 d/ G* z* r0 z2 W+ q: r 「張楷は行は原憲(孔子の義子の子思)を慕い、; j# i4 D0 S% K' G" o
  操は夷斉(伯夷と叔斉)に擬す。……」
  |, U+ b8 g6 K1 P. L 2 J- p2 f4 u; G8 z  p7 P7 I5 Q% f. d
 と激賞し、礼をもって迎えさせたが、張楷はこのときも病気を理由に# @6 Q6 N4 N* w& n4 V1 c
出仕しなかったのである。7 v# q" [8 z' n% d: _
 
) a1 y4 Q) i( j2 S5 T  R$ ^# L) r ' x1 D( q4 }  ~. X& u+ S
 ところで、張楷は学問ばかりでなく、道術も好み、能く「五里霧を作$ }7 Y4 L5 e5 ~6 _8 }8 R
した」。 つまり方術で五里も続く霧を起したという。当時、関西の人で6 D" L# |" G. Q! m+ x
裴優というものも方術を使って三里にわたる霧を起したが、張楷が五里; v" E9 n5 f( M# U: ?) o
の霧を起すと聞いて学びたいと思ったが、張楷は姿をかくして会わなか+ n' H' H2 `( ~3 J  A7 r
った。こうして「五里霧」ということばが生れたのである。/ l% z, z1 Z1 J) C% K; c4 R' z
                        (「後漢書」張覇伝)
/ }& o5 ~. l; t- Z, O1 ] 2 k! h' R7 g* v+ a" J4 _- y
 
& L7 t# c) y8 [. T, w 「五里霧中」ということばは、この「五里霧」+「中」であって、はじ
* N3 v7 v( O( I7 d8 qめから「中」がついていたわけではない。
6 O3 o5 W: q. J ' C/ o, d0 b% `$ F# m
 五里も続く深い霧の中にまよいこめば、東も西も皆目わからなくなっ5 M- B! c6 v% X# ]" C. j; j
てしまう、どうしたらよいかわからず困っている、そういういみに使わ
0 \, I0 K1 \% k6 C) gれるが、要するに物事の方針の見込みがたたぬこととか、心が迷って途6 R5 s9 L3 L4 ]2 G5 k/ n9 m
方にくれる、ということの譬えに用いられるわけである。
% a8 R# e: ~: z" z 8 c9 m# u; R& i8 z- [) n( i, d
 黄帝が指南車を作って霧の中で方角を知り敵を破ったという話の伝わ, o5 t  k) l' c( R( Z
る中国にふさわしい故事だが、むろん真実のほどはわからない。
5 U3 \' `( I& S% [1 `) G- \ ' D4 Q/ i" J4 n  Y2 n# U; O
 
% W; T) A* Z  E0 U 因みに、安帝が没し、次の冲帝が三ヶ月で没し、質帝が立ったとき、9 x5 v" W" K' [/ r1 D# n5 ?, M8 ?
裴優が霧を起して悪事を働き、それが発覚してとらわられたとき、張楷& o8 M7 U( J* \! \  {5 V2 L
に術を学んだと言ったため、張楷はまきぞえを食って、にねん間獄につ  F7 b7 \1 o1 V% C, I
ながれた。獄中でかれは経籍を読み、尚書の中を作っていた。のちに事* E7 m; U. U& Q1 h: M3 C0 u
実無根と判明して釈放されたのち、質帝の次に即位した桓帝の建和三年8 h( T6 z, L/ I6 K) X, S$ T0 g
再び詔が下って招聘されたが、やはり病気を理由に仕官せず、七十歳で9 u$ [, |! `0 I, s. L& b3 p
死んだ。獄につながれたときは、さぞ「五里霧中」だったことだろう。8 C8 j1 M; a/ z
 
5 u, m4 w- D$ r 6 l1 _7 }2 p- w+ x# M. k
 「五里霧中」の次に「に迷う」と加えて言うことも多い。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 09:19:46 | 显示全部楼层
細 君

8 C" O, `$ ^6 w! z1 Z4 _$ {& Z' n$ {7 {2 ^7 A! E7 m' w0 k! u
英語はワイフでこと足りるが、日本語はそうはいかない。北の方とは
2 |8 C) ^! k4 O$ e( t* Xいかなくとも、妻・家内・女房・うちのかみさん・かかあに至るまで千
; K5 ]. V/ H2 b# [変万化、機に応じて使いわけるしかけである。ここに細君の語も割りこ7 ~" O. V# _6 d! l& B2 F
んでくる。この「細君」の由来は古く、すくなくとも千七百年前、前漢の
; k* z+ X2 M& b武帝のころまでさかのぼる。武帝はおおしく、あらあらしく、典型的な
# X" H$ m; b& N$ g古代帝国の専制君主だったが、その宮廷にひどく風がわりな人物がまじ
: D3 O$ ]9 @, R# R: pっていた。名を東方朔という。/ Y/ u! Y* a( N1 k1 Q  n/ M
 
0 X2 Z/ ~8 H* D0 @# S: O 0 z; X3 d% z/ h! ~3 W4 F
 武帝即位の初め、広く天下から有能の士を募った。そのとき斉(山東)0 f* x  ^* w! v. V
の人で東方朔と名のるものが、自分を推薦するため上書をした。どっか
& i) r0 s' l7 u! kり役所に撙婴长螭坤韦稀ⅳ胜螭热钉魏啝N涞郅弦幻丁⒁幻钉日i
( X) @, L6 `" Uんだ。文は堂々として、人もなげな風がある。二月かかってやっと読み7 z2 Z( w5 ?* q- Q0 S# i
終えた武帝は、 東方朔を郎に任命した。これから朔は武帝の側近く仕3 v3 k$ z5 J0 u6 P
え、しばしば召されて語りあったが、口をついてでる言葉は奇知にかが% O4 ~* z8 F! }$ u% W9 v
やき、武帝をいたく喜ばせた。行いもそうだった。ときどき帝の前で食
1 h! [. O) D# {6 o3 g; Y" }0 b# U事を賜わる。食べおわれば、余った肉をさっさと懐に入れて帰るから、% @  p' D0 G9 a$ Y* z$ y! C
衣服はまるで台なしになる。そこでカトリ帛を下賜すると、それを肩に  @& U: o  a& E
ひっかけて持ち帰る。廷臣は、朔を半ば気ちがいあつかいにした。
( i; S3 A3 ^9 i5 S" ^ ; \4 C+ b% w  w& h3 e, x
 ; k# u1 F4 U' Y1 C
 さて、夏のさかりの三伏には、皇帝から廷臣に肉を賜わるのが習わし2 M* _" W: Y2 |
だった。その日、肉の用意はもうできたのに、分ける役人がなかなか来6 l; f5 U- ~- e6 N) _
ない。朔は剣を抜いて肉を切ると、懐にたくしこみ、「お先にごめん」と! y" F, L0 C1 [$ E- F# @1 s, M. z
引きあげてしまった。もちろん御注進があり、朔は帝によびだされて、1 F6 j3 m, G( z: ~
わけをきかれた。朔は冠をぬいで、一礼。武帝がさらに問いただすと、
- b( V, Q. h- T$ g" {8 W$ ]朔は答えた。! {) e/ s6 f3 E1 m1 a
 : u+ s1 D: J" G9 [' ~
 「まったくもって、詔も待たず、( Z+ ^4 p$ c( X' F& c
  かってに頂戴いたすとは、なんと無礼でありましょう。: f( Q+ w! ~3 F
  剣を抜いて肉を切る、まあなんたる壮烈さ。. x7 G" ]% ~: [+ ?9 L$ g
  切りとる肉はほんのちょっと、なんと廉直でしょうか。# Z; h# h! H9 x' x/ L* O8 o  @
  おまけに、持ち帰った肉は細君に贈る。
( I9 K" j' E0 f+ s5 L1 I  なんと情にあふれるわざでしょう。」
% z) p/ x2 O& w2 ^- l, S 
2 M8 p3 X6 m6 U( Z 武帝大いに笑って、酒一石と肉百斤をまた賜わり、「帰って細君につ
* U" R* _5 G0 H. Yかわせ」といったという。            (「漢書」東方朔伝)
4 v+ ~$ U0 @$ Y ) u/ X, m1 e+ S; l# O
 
( @5 s4 A' T4 p, u6 N1 F 細君の語が広く使われるようになったのは、このあたりからである。9 v# ^8 [) F  m: _, X: h# H( z4 A
これにはさまざまな説がある。諸侯の夫人のよび名が小君だったことが, ?' h7 A' H# b) B. J$ L$ N4 `: d% @
「礼記」などに見え、小君はすなわち細君、だから東方朔はじぶんを諸侯( v. }8 c1 \; R% B
にたとえ、妻を細君とよんだのだともいう。また漢代には、細君という( x# W0 d  F0 G/ p% l$ i: P: D
字をもったものも散見するので、朔の妻の名が事実細君だったともいわ/ k; N3 e  X: j# w( [# T: h9 p
れる。ともかく、ここから細君はしだいに、自分の妻をいうことばとな
6 z3 J. r5 j2 p2 s% S2 t/ Sり、また他人の妻をもそういい、妻君と書かれるようにもなってきた。# q, e! S/ K: ?$ X- c$ W% D
だが東方朔は、ただ滑稽な人ではなかったようだ。彼は博く書を読み、
; @9 u3 B2 h8 J3 s$ q事にあたっては武帝をはっきり諫めた。武帝が莫大な人民を駆って上林
8 [* u0 c6 c7 Z9 U, d苑を造ろうとしたときは、おそれず反対している。彼は公卿といえども
$ b2 p. v( K  `7 o2 N$ W; z$ Mはばかることなく、むしろこれを翻弄した。酒に酔うと、「わたしは宮
6 i+ L' s- q! n( X" a% f8 |殿のうちに世を避ける。世を避けるのは深山の、草のいおりには限るま& s5 @/ |6 ~' D3 x1 j; C
い」と歌ったという。このような彼を庶人も愛したのだろうか。彼には
# N  C0 }6 t9 I4 v2 Nさまざまな伝説がつくられたらしい。西王母の桃を三つ盗み食いしたの, j' K8 M2 B7 T3 C
で、長命だったなどという話である。だから、落語「厄払い」にもこうあ
5 z% {8 j8 X9 ~1 t+ [) Mる。% P; x& Q- d$ s% c: P
 
  ]  e  c; Y# l( l ……アーラ目出度いな目出度いな、目出度きことにて払いましょう。1 s3 ]& d0 q. d
   鶴は千年亀は万年、浦島太郎は三千歳、三浦の大輔百六つ、( |: L. A  E( g9 u0 Z6 r: C: y; n
   東方朔は八千年……
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 楼主| 发表于 2005-6-22 09:22:26 | 显示全部楼层
采薇の歌

& `* C& k/ p9 m/ o6 Q0 Y! k, p" ]. x0 Q
司馬遷の著した壮大な歴史書「史記」には、六十九の列伝があるが、そ
9 c0 l* K, P$ Q1 i& |の第一は伯夷列伝である。ここには伝説的聖人である伯夷と叔斉のこと
  ^0 B) u) G' p) l8 B, }がのべられている。しばらくその話を追おう。……
3 T, h" z3 a( b, S& a 
/ f2 o$ ^( F2 Z/ B$ d9 c. c 
% K5 i3 \) w7 _( p, i# h 伯夷と叔斉は孤竹(今の河北省廬竜県)の君の子であった。孤竹君は末
8 K2 C1 V  |$ B. e* {子の叔斉を跡継ぎとしようと考えていた。しかし父の死んだのち、叔斉
) c8 o- H& Y+ S+ D+ `9 h& y/ Rは、自分が父の跡を継ぐのは礼にそむくものとして、兄の伯夷にこれを: {  D5 |% J! g
譲ろうとした。だが伯夷は、父の遺志にそむくことは子としてとるべき
1 Z9 r/ K8 R7 f) Z% I, Dではないとして、これを受けず、兄弟は互いにこれを譲りあった。つい
( Z+ m6 b) B5 g8 ^/ o; `. A# bに伯夷は、自分さえここにいなければと思い、密かに国を逃れ去った。
* C% |% A/ I3 p& n8 X# Cだが叔斉もすぐ兄のあとを追って国を捨ててしまったので、国人は別の, K+ m% o3 ?% F: y. ^  ~0 \( q  E& [+ {
兄弟を立てて王とした。
6 b( H1 g* S3 j. g0 z # Y" \/ @( U# s! ?' E$ X
 こうして伯夷と叔斉とは、かねてから仁徳の聞え高い西伯(周の文王)
* g! I" w6 X: _( f4 gをしたって、西のかた周の国にむかった。しかし、ふたりが周に着いた) Q, n( B; r- \
ときは、西伯はもう死んでいた。情勢も大きく変化していた。
0 Z  y/ H% G& D) x5 S$ _+ _" Y 0 ^% e3 T1 n4 @. C5 n5 ^
 これまで中国北部を制圧していた殷王朝の基礎は大きくゆらぎ、西伯# o2 h: D2 M% G) |1 Y6 I* C
の跡をうけて立った太子の発は、みずから武王と称し、広く諸侯の軍を  g! z( ~! S, K
あつめ、大軍を発して、東のかた殷の紂王を討とうとしていた。武王は
+ `5 M3 j) x( }( n! {軍中の車に父の位牌をのせていた。
: t- g0 q9 }2 B# f: W3 U 
4 y: s! {% O1 B# H5 U 伯夷と叔斉は、これを見のがすことができなかった。周の軍がまさに2 n7 h" L6 m2 j7 W
進発しようとするとき、ふたりは王のまたがる馬を左右からおしとどめ7 I) o3 ]7 Z2 S+ D( D
て、武王を諫めて言った。" X) e8 i' I6 L' c% N9 x- n
   ?! V+ e5 d- s
 「王よ、父王がなくなられてまもない今、
; J9 t6 ]0 j( P+ g$ {  その祀りもされないままに戦陣におもむかれるのは、! c# B8 u) b2 X$ _# @1 R$ {7 ]8 Y
  孝子の道と申せましょうか。
7 m5 P, N+ s% i3 |( z9 D  また、紂王はあなたの主君でございます。# [5 h/ n  ~* Y/ j5 x6 r
  臣下の身として君を殺すということは、仁と申せましょうか。」
& k( ^5 u! J- P' Y( U' k' b6 T 
; T! M: o# H6 C, j しかし武王は、ふたりの言をきかなかった。大軍はついに進発し、や
6 \  ?. F; ]! P* W6 ]  |5 Iがて牧野の戦いで殷の軍を破って、周は殷に取って代ることとなった。
' y$ |, N" o, y, [" U" j  g 2 w. O3 z; [, R9 `" P. d3 D0 Z
   F: q) ^) g; b! \" [
 歴史の歯車は大きく回転した。各地の諸侯もこぞって周を宗室とあお
* }9 x; G9 c2 y4 y& Cぐ世になったが、伯夷と叔斉はその世にさからった。暴にむくいるに暴% f; b9 `7 l) F& w
をもってする武王のやりかたに、彼らはいささかの道も認めることがで) U  p5 N, g: ]( E6 L9 A9 x4 G
きなかったし、そうした周室にしたがうことは恥ずべきことであった。
5 ^) s& m* {! q* \信義を守って周の粟を食らわず、と心にちかったふたりは、遠く人里を
. A" c9 P+ p0 A7 @# C離れた首陽山(山西省水済県ともいうが、諸説あり)に隠れ、薇をとって
% a, E3 M3 V, C' Q' y命をつないだ。餓えて死のうとするとき、こんな歌をつくった。……
! c  a! K8 a5 R% B4 h 
2 p2 k3 [/ J( A2 d   かの西山に登り その薇を采る: v5 M% @- W6 {3 c
   暴を以て暴に易え その非を知らず
, [& ^' ]) Y! |( R* Y7 l   神農・虞・夏忽焉として没す 我いずくにか適帰せん2 i$ u2 ^4 q: f! z8 U; f7 F
   于嗟徂かん 命の衰えたるかな
6 }" S, Z5 ?* x) } 
8 |8 V* J# G* e2 L0 l こうして、この「采薇の歌」に世をうれい、うらむ思いをのこし、いに" K# {, D' b7 |6 r$ T4 F3 o
しえの聖王たる神農・舜・禹の世をしたいながら、彼らはついに餓えて
  F3 b4 G% `* ?+ i$ ~死んだという……。! X  O8 A# Z' U
 
5 h2 A- v% b9 [ . C# {1 ^$ h( X2 x
 英雄豪傑でもなく、大学者でもない、世をいとうて餓え死にした、い6 o% w" ?( i* R4 P( M" u/ b
わば不思議なふたりの老人。司馬遷はその伝を、あえて列伝の冒頭にす
' O# X' D4 P6 x+ Uえた。それはその逃避を笑うものでも、その行為を無条件に讃えるもの/ N+ I) e- M' k+ ~& P% _$ r
でもなかったろう。武田泰淳の語るごとく、彼は「伯夷・叔斉の聖人ぶ9 f& O) W8 j4 j  Y$ X8 ?; O( }7 i
りを語りたいのではない。(自らの反対する無道が実現して、この世界) n$ a% B8 R6 [! y# g
は悪の世界となった)その絶体絶命の境地を主張した」のであろうか。そ9 w6 f6 n" y3 I# ]
して司馬遷はつづけて、「天は常に善人の味方をする」というのを疑い、& E2 }9 i; [- D8 h7 P
「天道 是か非か」という根元的な問いを発する。そしてこれを第一とし
* U1 x6 \* @; a% o1 U+ pて、人世の驚くべき万華鏡ともいえる、史記列伝の世界を展開しはじめ
- ^& O3 z4 ^6 S5 [+ X4 x9 r" G* wるのだった。「采薇の歌」は、こうして司馬遷によって生かされた。司馬
, a& ]5 F4 [, B遷の憂い・憤り・疑い・信念を重ね焼きされることによって、それはく
8 F; o, [2 i# r( K# g1 gりかえし、くりかえし、人の心を打つものとなったのである。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 09:22:58 | 显示全部楼层
酒は百薬の長

8 ~. y0 K& t6 `6 t1 b1 i5 u
  X5 j* r# W. ^: {3 X; D 「酒は百薬の長」――われわれアルコール党には、まことにありがたい1 k" F2 g2 H, x4 e* Y
ことばである。この出処は、「漢書」の「食貨志」で、王莽が下した詔の冒
/ \$ F$ T8 A& B& ?, {頭の一句、「夫れ塩は食肴の将、酒は百薬の長、嘉会の好、鉄は田農の
0 M1 Y2 n+ M; K" \7 R& M' S本」から出ている。$ q- A7 t8 K( T
 
/ ^) p; Q& d$ K# g' a" k 前漢と後漢の間に、十四年間つづいた新という国がある。この詔は新
# L0 W6 }  w2 d9 d9 ^2 t  {の皇帝の王莽が経済政策の徹底を期したもので、その発端はやはり酒と5 \. U8 K* K2 A, t
奇縁がある。しかし些か血なまぐさい。――
2 i& b7 u% b7 ` 
5 Z& s2 r$ n, F* A& ]8 J 
8 P- i: p5 p2 i, I キリスト教の始った前漢の元寿二年、哀帝が死ぬと、その外戚から朝
8 y, G+ B7 E/ N- v+ R( J廷を追われていた王莽が再び大司馬(軍・政の大権をにぎる最高官)に帰
3 I2 Y- b1 B$ o- `% ]% Nり咲いて幼い平帝を立てた。当時「民に七亡ありて一得なし、民に七死: [$ g" t* g* V# @
ありて一生なし」といわれるほど社会は窮乏していた。王莽はやがて自) j+ _2 L9 a/ h9 u4 T& J" B
分の娘を平帝の后としたが、不老長生の薬酒である椒酒を献じて、十二
. c* ~. u  t5 S歳の平帝を毒殺すると、別に操縦しやすい二歳の幼君を立て、みずから
+ J3 P; B4 A& Z- S6 L) m仮皇帝と称し、ついに野望を達して皇帝となったのである。
! v3 @; Z7 X: b5 q  _ 
2 a" K/ e: ~3 d- ^- @0 ^" X. h かれは儒教の聖人周公を理想として、「周礼」に基づく盛度――「聖制」1 F% u/ C: V3 O# n4 F: G0 J
を地で行おうとした。そこで、「五均」(五大都市に官を設け商工業と物: ~0 |8 A3 q0 x* Y# I
価の統制を取り締るもの)、「シャ貸」(国家からの金貸・融資)を行い、) v" x. o7 a2 X9 Y  ]& }9 U
貨幣を鋳造し、山林や河沼を管理し、また、塩・酒・鉄を政府事業にし
+ G" d/ Q* ]% zた。これを「五均六幹」といい、監督官を置いた。( X' s' Y# [8 d% |  F- j3 _
 2 |# s2 p: Y  A, i; c8 ?
 ところが郡県の役人たちは、洛陽など大都市の大商人たちと組んで、
, [3 h1 |7 E- ^) ?+ fこの制度を悪用し、金儲けを計ったため、「郡県(の役人)と姦をなし多- V+ w9 D% q9 O( U4 v7 J
くの空簿を張り」(空帳簿を作り)、横流しにし、「百姓(人民)はいよいよ
* P0 X+ }: r6 c: E) j* I# M病む」という反対の結果になった。
0 n% I9 a  w$ q; I4 Q* Y) Y 
) E) Z/ s# [5 J% |( X そこで、王莽は「民の苦しみを知って」、再び前記の詔を下して、五均) O( H8 g8 I  W9 S4 A' D6 w
・六幹は人民の所得をならし、有無を通じて人民の用に備えるものであ& ^& n/ n4 G6 O  X. M% w6 g( Q
ることの趣旨徹底を計った。だが人民の生活はますます悪化し、「赤眉」6 x8 V2 F5 T( V1 z1 f
や「緑林」の乱が起り、ついに地皇四年、有名な昆陽の戦いで失脚してし
" d4 g% q' I' q% N; _; qまった。そのときかれは、やはり酒ばかり飲み、周礼や孔子の言葉を口
' j, P8 \3 h3 T; u- e8 m* o! wずさみ、それにあやかって災難除けの奇跡があらわれるのを待ったが、
7 A2 p: _! Z+ t. q1 n" y  vついに全身を切りきざまれて死んだのである。7 p5 }/ p' K+ y' `
 ' T! p/ M4 x! A" Z0 @* `
 8 P! T* S6 _( E0 {4 @$ q- M
 「酒は百薬の長」(酒はどんな薬よりも心身に利く)の出処にまつわる話
& b$ e6 i5 h5 D2 W7 _は、以上のように、あまりきいて楽しい故事ではない。しかしその血は
% r- I$ P, I: z- A洗われ忘れられて、後世の酒のみには便利な言葉となったわけである。
( r+ Q, N, m, @: B5 Y4 g因みに酒の異名の「美禄」(酒は天下の美禄――酒は天から賜わった手厚
& q: c8 P* e& v, l3 v9 P0 `# l* S+ ?% Cい封禄である)の出処も、同じ「漢書」の「食貨志」である。
3 z1 p, _0 t: ]5 p( S# y9 i: \ 
5 e7 }: |. X* a5 o) P 日本では、「酒は百薬の長」の逆をいく「酒は百毒の長」という言葉がで* N! d9 J* _8 R2 C7 f
きた。その出処は「徒然草」で、こう書かれている。
9 ~$ I5 ]4 h9 l% d- e* t2 H3 v. X; b ) D) E" {' d. R, i: z$ Z/ J  u
 「酒は百薬の長とはいえ、4 W: n% K& r) Y: w5 n+ y
  よろずの病は酒よりこそ起れ、
  W  X2 T6 S/ ?* s- u9 A0 T  憂いを忘れるといえど、: |9 G& G. W% o' J) C+ g; h
  酔いたる人ぞ過ぎしうさをも、& m, q3 C4 L8 |. n% ~9 ]' W3 G8 e
  思い出でて泣くめる。……」  D* y  u& q7 Y! o! h
 . u+ @5 g* E# d& Y, |
 もっとも中国にも、儀狄がはじめて酒を作って禹王に献じたところ、
$ s# v0 ]; C1 r/ Z9 j! L& x禹王は後世酒が害をなすことを憂えて、彼をうとんじたという話がある
' Q* Y$ Y0 `0 v* c3 `( y/ `* [7 q8 A! bが、これは伝説である。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 09:23:42 | 显示全部楼层
左 袒
2 A/ b- t- C; y

2 Z5 M: B' D! X8 {" E! a" V( Z3 r 漢の高祖・劉邦が没した後、皇后であった呂皇后が天下の権を握り、
* Z2 o+ I$ @8 {: V% E! Q呂氏一族を宮廷の要職につけ、また、つぎつぎに王侯に封じたので、呂, k& _- F8 A6 y1 s( D2 N& {
氏が劉氏をしのいで全盛をきわめた。そうした状況を、劉氏一族や高祖
+ A% w, \/ c# X* [8 dの遺臣たち――周勃・陳平・灌嬰らはにがにがしく思っていたが、どう
4 n- c6 r/ p* r  W1 g; V$ Q$ e4 [0 S& ?+ eにも手のくだしようがなかった。
1 \2 J1 G8 w* x5 C & V% G* O6 i6 w' e* }
 ところが、少帝弘四年の三月、呂太后が病気にかかり、七月には枕も
. N, `% u0 w  P% sあがらぬ状態になった。彼女は死病の床のなかで一族の将来を案じて、/ X3 t* S. C  ]+ t9 x
趙王の呂祿、呂王の呂産を上将軍に任じ、北軍を呂祿に、南軍を呂産に. j8 ]8 d. i5 Q$ M( w# @: W
掌握させた。そして、二人を枕頭によびよせた。; P; {6 ?* `% h% P& }0 \, W' d
 
4 g. q0 C# x/ u6 N! T 「高祖が天下を定められたさい、その重臣たちと、0 p/ G  Y! a2 p' g" ]2 M
  『劉氏にあらずして王たらば、天下ともにこれを撃て』
, _& f8 a- r5 e6 C3 [' n0 m# X0 R3 G  と盟約されました。
+ e, i' Y1 V4 A. c7 b7 b 
: Z1 e. T$ R! [: W& y  ところが、いま、そなたたちがそうであるように、
% l  n6 t' j  K' ^+ K9 t  呂氏は、それぞれ王侯に封ぜられています。5 y9 a+ \$ w2 Y' T' c( u% ^
  劉氏一族や高祖の遺臣たちは、このことが不満なのです。7 i6 Y$ |9 K! F" K7 P7 c$ f- y
  私が死んだら、彼らは、おそらく変事を惹きおこすでしょう。! k; \( A9 b9 P3 U5 T
  ですから、そなたたちは、かならず兵権を掌握し、
# ?  k1 P, R( B5 m6 ^  宮中を衛ることに専念しなさい。
5 Z# C1 N; X" P4 v* j' a$ M0 [  そのためには、私の葬儀にも参列する必要はありません。」
# O; S5 K5 W; ?& Y* Y6 U  f% d9 P 
1 m) Z$ `7 {: x. Y$ Z かたく戒めて、まもなく呂太后は死んだ。するとそれまで酒色に溺れ0 g$ g2 I) D  V, y' q, C3 B& _, ]
ているかのように見せかけていた右丞相・陳平は、ただちに本来の姿に
2 E6 H! `; n# @# @$ j1 d9 Uたちかえり、太尉の周勃と計って呂氏打倒の策をめぐらした。たまたま1 m8 y0 a( b# ~' `
曲集好・レキ商の子のレキ寄が呂祿と親しかったのに着目して、二人は
3 D/ F6 Y  C1 }7 X. kレキ寄をやって呂祿に説かせた。; c$ k& {3 e$ i5 R
 . M* _1 n3 g6 z$ S* a
 「いま、呂太后が崩じて、皇帝は幼少であります。
4 L1 J$ q/ R" H  G4 L8 s5 H$ a* [  このさい、諸王はそれぞれの封地をしっかりと統治して、
* ~1 k: K  |$ N  皇室の藩屏としての実をあげることが急務であります。
" ^" T2 J1 d0 U. U  もちろん、賢明なあなたは、
! \1 l; f4 o7 m) F! U8 ]! R  趙に帰らねばならぬとお考えのことでしょう。0 x: ?7 }+ f. c2 t3 u8 ]' |
  ですが、北軍の上将軍としての任務をも併せ考えられて、* H8 z' e2 G$ K3 ?5 x, K
  躊躇なさっているのでしょう。
, u# ~$ o" s# x 
. u7 k4 P' V* a. S2 J* _3 C  皇帝は、太尉の周勃に北軍をゆだねて、. s" b, l/ ]2 |
  あなたが趙におもむかれることを希望しておられます。$ k( M3 ]* E% h
  ですから、安心して帰国なされたらいかがですか?」
0 D9 N# {% `; V  a- _+ I& Q 0 F% l1 o# b( T: X
 呂祿はウカウカとこの言を聞いて、上将軍の印綬を返上し、北軍を周" }- Y, @1 ^& o8 U  M6 _# x
勃にわたしてしまった。周勃は北軍の兵を集めて告げた。
4 T* K) V2 g8 D9 n. r" [0 x7 q 
! Q% J2 t# w  y. M5 N( x) H. {& m 「漢室は、元来、劉氏を宗としている。
( w7 Z9 e$ p. j( p5 x0 z$ \" T  しかるに、
/ }1 p# `2 j+ d# x  おこがましくも呂氏は劉氏をおさえて実権を握っている。
$ I4 P- b# O9 k8 a1 D- w  これは漢室の不幸であり、また天下の痛恨事である。
" l- t5 M& c, ?* x0 Q: G  いま、上将軍は劉氏に忠栅蚺酩菠啤
* n. t0 U- K8 u3 e0 B  天下を正常にかえそうと思う。
4 F& p" k0 T" @+ [' b ' O: H7 P- h" ^( X6 z2 R% X' N# n
  諸兵諸君! 
# W& u# a$ Y4 O+ [  y8 q  呂氏につくそうと思うものは右袒せよ。( _& o% ?& o: ?1 r
  上将軍とともに、劉氏につくそうと思うものは左袒せよ。」8 H7 n- B9 C9 `/ J  I; T3 q
 - T0 R  v; k) {
 これを聞いて、全軍ことごとく左袒し、劉氏のためにすることを誓っ
2 d4 Q6 f7 ^4 nた。
5 B. E9 [$ v$ S/ t# v- ~- @ 
* I% b9 G! @* F. E; S$ L6 x 一方、呂産も朱虚侯・章に誅せられ、天下はまた劉氏に帰したのであ
8 U' D" |& x* `) R9 R) x( |る。1 W3 _6 }: [- ^# j& y  U
 9 Z7 F4 r6 F: J' X/ i
 2 U4 F+ r# Y# _9 E. i! |
 この話は、「史記」の「呂后本紀」にある。「右袒」とは、右肩を肌ぬぐこ
* x7 {1 d$ X) I3 Pと、「左袒」とは左肩を肌ぬぐこと、この故事から、「左袒」は、味方する* s2 k' q* V: k9 D! Z4 P; r
こと、同意することを意味するようになった。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 09:24:11 | 显示全部楼层
三十六計逃ぐるにしかず

* R3 {& [9 }9 Q) g8 }) s
; F( i0 Q  b( Q9 ~3 W三十六計逃ぐるにしかず? 全く判りきった文句のようだ。……が、, r; n+ J+ A+ L
そう簡単でもないらしい。ある本では、「はかりごとが多いが、逃げる
, W4 A9 N) M# @1 D- Dべき時には逃げて、身を全うするのが最上の策ということ、転じて、困7 A/ }- I. Q/ P+ r1 k
った時には逃げるのがいちばんよい方法だ、となる」とある。だが別の, E7 e! M# O3 t$ V! m' E+ b
本では、「最上の策」までは同じでも、これは「卑怯者をそしる言葉だ」と
2 S& \/ h% D& p& Z; rあるのだ。こういうニュアンスは、どこからでてくるのだろう?
9 U4 l1 n3 z) J2 \ : p* R' s9 j1 O1 f
 
$ [5 d* i. y. E8 h8 H6 @% ~* J 魏・呉・蜀漢、三国の争いも終って、天下が晉朝に統一されたのも、
+ c# ^' O) K* v8 H& k) ]8 }わずかに四十年、晉は内乱と匈奴の襲来にほろびて、その後は揚子江の
) [- G! I% H) T9 t- K南にうつり、北方の黄河流域には、北から、また西から、たくさんの異7 ]" P! m' w9 x6 b( m
民族がなだれこんだ。こうして麻のように乱れた勢力分布も、しだいに
0 {  q& o& k% P6 Z& k; t南と北の二つに大きく分れ、それぞれの中での内紛と、南北両朝の争い0 L# X* e) z+ ?: o' ?: A
が小止みなくつづくようになる。この南北朝のころのことだ。北方では: v  `: T1 C8 C! t, D
鮮卑族の建てた魏が勢いをまし、南朝は斉の時代だった。宗の最後の皇" n# n5 W3 _, p$ {- `4 j  u  y
帝だった順帝は、斉王蕭道成や王敬則らの圧力で、国を斉に譲らされ、. U- O" m5 ?  H5 H1 y
やがて殺されたのである。
, K. A  G: s8 m4 h9 W/ a+ d0 ` , r+ W4 m1 E  y) ?! a. k7 ]
 そして今、その王敬則は、叛軍をひきいて、成都・建康(今の南京)め
5 D$ A' _# L7 ?( D& T& G; F9 Qざして攻めのぼっていた。彼は会稽の太守になっていたが、いまの皇帝
. _: B0 w- i2 t- `4 D- Iとはながく争いをつづけ、息子たちも殺されていた。もう決着をつける; |& |; Y; D2 x( C# t8 |# b
つもりだった。その途上だった。彼は皇帝側がとばしたうわさを耳にし
$ H) u% p0 I- nた。王敬則が逃げるらしい、というのだ。敬則は、吐きだすように言っ
2 N$ }9 |8 U( n9 P6 Zた。
3 c% S/ @, G) H& r . c; j# `8 G( w* X) }8 u" [
 「檀将軍の計略はかずかずあったというがな、1 y$ J- }( e5 U& c, j
  逃げるのがいちばんの策だったそうな。
; R" c- F8 W9 Z! {2 W9 M             (檀公の三十六策は走るがこれ上計なりと)
( n, w$ `- O2 I7 J$ ~2 _* i' ?  きさまらこそ、さっさと逃げるがよいわ……」
# _/ q$ c; R' z! r. P 
7 c; G$ x) a( P これにつづけて、「この語は、檀道済が魏軍をさけたのをそしったも$ Y" G7 Y- u4 i0 S; W1 u2 t
のである」と、注している書もある。4 X; h+ L7 y+ Q
 
; Z* e8 @: G, v1 I: \3 p: a 
+ T+ Z) U2 g! R) w: B1 \4 W 王敬則はやがて斉の軍にかこまれ、逃げることもならずに首をうたれ3 D3 f: u8 N3 n( R5 ~0 g, {
たが、「三十六策……」のことばは残って、語りつたえられるようになっ2 y6 h. \& G* n* F+ E1 ]  }* T
た。だが、こう言われた檀道済とは、どんな人物だったのだろう。
1 X9 Y/ n* K6 B7 V 
/ D7 |) ?& `2 D& J+ L8 H$ { 
6 e9 [) D3 w6 _0 ~ 檀道済は、前代の宗につかえた名将である。宋の基をきずいた武皇帝
& t* |: T# u$ Y6 D' [  `のころから軍事をあずかり、北方の大敵、魏の軍としばしば戦い、功を$ t3 d$ I& i+ n$ n
たててきた。そのころ魏の勢いはますます強く、燕国も涼国もその鉄騎
' m1 @- t1 z( W3 Fのために攻めほろばされた。檀道済は、こういう敵を支えるために心を
4 Z7 _4 k% H1 `7 Wくだきつづけたのだ。彼は兵を用いることに老練であり、その生きてい
0 a; {" K9 R8 @9 `. fるあいだは、宋の土地をあまり失わずしっかりと守っていた。名将檀道
- w9 O' P& z2 @" X0 p: D1 ^済の名はしだいに重きを加えていったが、その名をにくむものは、ひそ
9 y' D  D' t% B& \7 z+ ~2 [かに彼をおとしいれる機会をうかがっていた。( L! o1 `/ }% B- k' Y
 , r0 j* n3 h$ L- W
 前王の葬儀にからんで、讒言が王の耳につぎこまれた。戦国時代の国5 t- b" Y  a. G1 `  K
王は、じぶんの将軍の力が強大になるのをつねに恐れている。讒言は聞& H& V# L6 y) k5 S: \$ r# Z; n
きいれられ、ついに檀道済は捕えられて、皇帝のまえに引き出された。
  M% C- b, S/ X; ]死罪は必定だった。そのとき、彼は頭巾をつかむと、それを床にたたき
/ R8 P4 Q; n, Q1 Z: @& d1 H2 Vつけ、火のように燃える眼をかっと見ひらき、皇帝をにらんで言ったと1 c0 @$ Z- f7 J3 h: m- R3 Z
いう。
% a7 y- f8 l% ^- o6 l2 V . V- Z9 K  s. l- f
 「皇帝よ、この檀道済を殺すとは、
) B+ Z. L3 P! p+ S, o  V6 e0 n  みずからの手で万里の長城を壊すにひとしいですぞ!」
4 A* s2 |: J2 C7 }7 S5 V9 L6 R ) O* \: f0 k: O$ G/ y# }
 道済の死をききつたえると、魏軍はこおどりしてよろこんだ。はたし
/ f- C( m+ |" }4 ~% v( k/ {て、宋の元嘉二十八年冬、魏王仏狸は百万と号する大軍をひきい、かた
' I) H5 [: q8 n+ @く凍った河をかけわたって、宋に侵入した。この鉄騎のまえに、宋軍は
$ x6 [% R# O5 P3 ]2 O# |もろくも敗走し、魏軍はそれを追って宋の奥ふかく攻めこんだ。村々は+ H- r, \: m, Q6 R3 f" a
強掠され、大人は斬り殺された。魏兵は槍の先に赤子をさして、それを
( `, S9 ~3 ?; n. ~: y4 d振っておどったという。家々が焼きはらわれたため、春になって帰って
  [8 l+ P( M) \: V2 l2 q5 cきた燕も、林の木に巣をつくった。建康の人々も先をあらそって避難し
9 I+ P( A7 q9 x, ?た。……! x" c3 g( ?5 c6 c8 `
 9 [# I7 ^  P6 z: W. n' ]$ k
 このころ、皇帝は石頭城にいたが、城のやぐらからはるかに北をのぞ- f+ e) q! V  p, Y( N  h
んで、嘆いて言った。
. o; ]2 T0 `% |4 x1 n6 g , @" p/ [/ q- V. R
 「ああ、檀道済さえいたならば、
+ r3 j- d9 Q7 M# S  あの胡軍にこうも踏みにじらせはしなかったろうに!」* |2 c9 a) n4 B; Y# d3 ^- z
 ; h/ \5 Z! e% n
 「三十六策走るを上計」としたとそしられた檀道済とは、こういう人物
) y  d( u% U5 X6 R6 n5 [6 aであった。彼は宋の支柱であったようだし、じぶんでも、はっきりそう
  F' ^) F! o" q8 h+ h* [8 z思っていたのだ。強大な魏軍と戦って、いったんは退くことが「上計」で
$ `; H* r) a0 c8 H7 Z5 m: Z# Gあったことも多いだろう。じぶんや兵力を「全うする」ことは、宋のため
0 G. u6 \# b  ^" E4 Cにも、たしかに必要であったろう。逃げるといっても、いろいろの意味
* ?9 q1 U# w7 F" P* M6 a: f% @( H4 Dがあるのだ。だが、こうしてはじまったことわざは、ことわざとして、
* |8 v3 T  o3 y% X独立に生きはじめる。やがては、張扇につれて、「三十六計逃ぐるにし4 a+ \+ x+ Z) D2 w5 N' m1 j
かずと、尻に帆かけてすたこら……」と語られるようになる。歴史とい# S% v3 I5 b2 ?+ F  P6 T: c9 F1 A
うもの、よくこういう妙なことをするものだ。   (「斉書」王敬則伝)
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 楼主| 发表于 2005-6-22 09:26:14 | 显示全部楼层
去る者は日に以て疎し

8 |# y) B& t$ `1 r3 l5 d
$ ^2 C$ f& [6 N; Y0 |1 ~( ^ 「去る者は日に以て疎し」とは、死者は日がたつにつれて、だんだんと" U/ e4 E7 y8 p" w! P1 C' v* |
忘れられていくことであり、親しい間柄だった者も、一たん遠ざかれば
' F2 P4 ]$ [/ G3 H. d6 \疎遠になってしまうことにいわれる。+ G7 r+ k0 M* g$ A8 J8 U- M
 & `6 {8 _6 ]( \! G1 E
 この語は、「文選」の雑詩のうちにある作者不詳の古詩十九首の第十四
( O/ s2 O% c8 q/ f' L首の冒頭に見える。その第十四首というのは、すなわち次にかかげるも
4 F- T/ g5 ?3 O3 uのである。
" @4 ~+ i! _' ]2 H/ l$ v% s , u3 P/ |  u) ^  T4 V
  去る者は日に以て疎く、4 u& Y3 b8 ]$ M) b
  来たる者は日に以て親し。
  d  j9 i" q! D  郭門を出でて直視すれば、3 @0 J  p  x0 K7 t# ]0 b; Z5 Z8 H7 h
  但見る丘と墳とを。9 }9 b6 i; E: X7 G& J5 K
  古墓は犂かれて田と為り、6 B8 Q3 U$ i' P: W
  松柏は摧かれて薪と為る。
' d) z8 r: @9 f' {3 }9 ~0 ?8 `# ?) h  白楊には悲風多く、
. x8 @% F7 d4 f; E1 C3 ]7 z" i  蕭蕭として人を愁殺す。5 c7 ~; |: d; V, x! c2 n
  故の里閭に還らんことを思うも、5 Z0 p/ A) o$ n* C: V, r
  残らんと欲するに道の因る無し。
/ g& J7 O1 w8 a! R # U; t. h$ a2 T% Y+ c
    死んでしまった人は忘れられていくばかりだ。7 P$ O' g0 }! h. S+ ?. M0 r9 C
    生きている人は日ごとに親しくなっていく。3 V/ D# a) r0 [4 b5 B
    (この来者云々は詩句の体裁を整えるために置いたものだろう)  {9 C7 {" R' A3 B+ k
    町の城門を出て郊外に目を向ければ、; x; y  W* o1 B! O' b& a
    かなたの丘とその下に土墳が見えるだけだ。
6 C6 @% M, {% G* S! e/ X    しかも古い墓は耕されて田になり、4 L! Y; h( e" k- t
    その土墳も跡形を止めず、" q' |. w, T3 A( }1 ]
    墓の辺に植えられていた松柏も薪になってしまったらしい。
  E- A" e; O+ I9 H5 r, X    白楊の葉をさらさらと裏返して  l' }8 n& Z6 a% V2 L& S6 u9 M% E
    悲しげに鳴らしながら過ぎゆく風は、
, N9 N) M" M+ [1 t    さむざむとして魂の底まで食い入る。2 _9 x. x$ A1 M
    それにつけても故郷にもどりたいと思うのだが、
) ]' L$ J1 C' {) W$ e+ r    流離落魄した身の帰るすべがないのをどうしよう。  L4 X0 C  o) q9 }2 h
 / q' }5 ]0 M9 ~+ W1 D# l" a
 古詩十九首のうち、男女相思の情を詠んだと見られる十二首を除いた
1 @$ W  F" \/ F1 `他の六首は、すべてこのような人生の苦痛と無常を唱ったものである。
1 ]: @; n) c  i% f: Z; `6 V: Cたとえば、! `: @1 K4 v" I: R2 H$ u
 0 }* G! y! }. L' b6 J3 p7 P
  「人生天地の間、忽として遠行の客の如し」(第三首)
/ y7 O6 U. ^3 Y! Z  「人生の一世に寄る、奄忽かなることヒョウ塵の若し」(第四首)( z+ i- p# o% y: D
  「人生は金石に非ず、豈能く寿考を長くせんや」(第十一首)9 G% E9 t+ r$ R! |4 d3 o" a
  「浩々として陰陽移り、年令は朝露の如し」(第十三首)
3 \* _  S% L- S  K3 h' j  「生年百に満たずして常に千歳の憂いを懐く」(第十五首)' v9 O1 K$ y; Z% f
 
2 A' K$ U' V7 w# j, J+ e( L' s 等があげられる。ここにあげたのは摘句にすぎないが、いずれも感情
0 L3 N4 f3 K  Q% b0 X3 ?3 z3 `の流露という点からいって、前後に及ぶものがないほど美しい。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 09:27:22 | 显示全部楼层
三寸の舌を以て百万の師より彊し
4 h2 g6 T# d7 T1 A" ?! ?

; c* B3 b* S7 ]7 [ 時は戦国時代である。西の雄国秦の侵略の前に、東方の諸国が知恵の
( D1 D. k/ M& V6 `) Y. W% J+ oかぎり、力のかぎりを尽してなんとか生き残ろうと必死にあがいていた
$ M/ {# |" D# z4 m( {: {ころの話である。ここ趙国は秦軍に囲まれ、王の一族に平原君のような
. D9 c5 a2 ]2 n天下に聞えた知恵者もいたが、秦の昭襄王の雲霞のごとき大軍を支えか
" E5 j7 E9 I0 A2 G9 S2 z5 X& Q9 Yねて、首都邯鄲の城の呙猡铯蓼椁螭趣筏皮い俊¥趣摔笠黄イ琝2 z3 a, }" t7 d7 v' H: s5 [$ W
銭刀三十枚の値を呼んでいるくらい食糧事情は急迫していたし、唯一の2 ]0 |$ g; u8 u2 T3 H
打開策は、他国の援兵を得ることができるか否かにかかっていたのだっ$ s8 T$ I0 k, s, n1 P
た。もちろん、諸国に救援を求めてはいたが、書簡などでのまどろっこ
3 Z- h4 l( c* B4 E8 [' F5 oしい手段ではたいした効果は期待できず、どこからも反響はなかった。
7 y0 c  ~( l4 Q/ d( M; E' q滅亡寸前の状態にある趙を救うために、兵を動かしてもし失敗でもすれ
( y" e  J4 R' P- e3 o4 f4 }ば、強秦の鉾先は今度はわが身に向けられることはわかりきっている。
& _7 u* B# X4 K' hこの生存競争の激しい世の中に溺れかかった他人を救うために、たいし! C% d6 l( R% ^
て水泳に自身もないのに逆巻く波のなかに身をおどらすような真似をす+ O1 t. q/ x, t& B
る者がどこにあろう。4 d' d6 X- @1 F, T
 
# x6 p! x; n% I& ^* d かくて、最後には平原君自身で楚王を説くことになる。常日頃平原君6 I6 |6 r. y, Q$ P
とあまり面白くない関係にある趙の孝成王の顔は、さすがに暗かった。
6 ]3 T# o& }- g* o( ~' j4 C4 \ * w! p9 A% c* ]; p& I1 J0 g. K
 「趙国の呙韦盲皮い胧拐撙馈㈩mむ。」1 S( p* F' N7 t% w6 A* k- [
 
7 V+ w) D3 j7 j5 x5 E 平原君は三千人とうわさされる食客のうちから、二十人を選りすぐっ4 R$ M. }  p5 ^, K7 r/ f+ z
て出発するつもりだったが、この大任にふさわしい人物となると、十九
$ I" ^: ^4 ~4 Z! s" L人まではわけなく揃ったが、二十人目ではたと行き詰った。考えあぐん
' `$ a" \. T+ A" c( ~5 g( Z& Bでいるところへも毛遂という食客がやってきて、( V' a% V3 ~+ N7 L2 A6 I% t' o
 2 v3 N- ?+ P' P' L; ^' {& ~( }
 「ぜひ自分を!」- Q% |4 e! A- `: N9 F1 S
 
1 W: I) M( \. X! U) s/ S- V  r と、自薦するのである。別にこれといった取柄もなく、ごく目立たな8 d" x5 D) w+ z; \8 ]' n% D
い男だったから、平原君も驚いた。
( @( Y% ?+ b* c: z  M7 Y/ V/ _/ t ) F% Y$ V1 s  ]- i7 v& C
 「あなたはわたしのところへ来て、何年たちますか。」: L& z9 k+ l7 o5 s- T: O6 O3 }
 * q* _! ]6 f- u5 J3 h5 O
 「三年になります。」$ a1 P& C! u4 M, I( Y' X
 
" N" |5 T7 P3 ?* O 「賢士が世にある時は、
# ]. N( S: {+ z) ~# ?- B  あたかも錐がふくろのなかにあるようなもので、/ }# f2 b' p  g
  すぐに鋭い先をあらわします。' u. G. R5 g+ V
  先生は三年もおいでになるのに、2 Z2 L# m4 {+ R* t9 M  q
  人の噂にひとつものぼらない。
7 d/ a  U7 X$ {  v$ ~9 x  たいした才能がないということになりはしませんか。」
  T1 h! x4 b  Z2 r . e  M1 i* K( @- O' ~% w
 「ふくろのなかに入れてさえくださっていたら、, q  J2 D5 |! f  P, h
  柄まで突き出ていたでしょう。」(「嚢中の錐」)
7 m$ T% c  o1 z, y0 v0 \4 P$ A/ | 
1 N  b  r6 ?+ b' x4 f9 g こうして二十人の数に加わった毛遂を、みんなは目顔であざけるが、$ X6 H) E6 J! r! G6 ?: C8 }
毛遂には自信がある。道中で議論をふっかけてみて、論破されたのは十1 R; Q8 c9 e0 q# {  J" ]
九人の方だった。( r  N& K2 M( M# o
 5 A9 |7 |' F( p/ p+ c  s& l! `
 7 k0 Q$ i6 x+ |" b5 O% Y2 K0 D
 楚の考烈王と平原君との趙楚同盟の交渉は難航した。1 O3 A8 c( j& u) D' W' U9 s
 
8 K1 P* Q) I' f8 j  e 「先生、ひとつ頼みます。」
/ a8 q- O! I6 P8 y 
& r; s0 ]6 Y% ~- h! L! l2 Z$ a% [ と、十九人が毛遂をうながした。たちまち毛遂は、階段を駆上がる、5 W8 V  U, k/ ^& c8 Y
手は剣のつかにかかっていた。
3 G2 y+ a# s" f& k4 {8 ~- q' B+ G+ j 
6 J0 U1 s1 y7 M+ a: Z 「朝から半日もかかって、
& X. c. g& W4 z" p' _+ q1 ]: `  まだ決らないとはなにごとですか。」
9 c3 j  P) U" c8 t: k0 H) R 
" v4 E' `! v/ j. ^; v 考烈王が叱りつけても、ひるまばこそ、4 @8 h4 z! U* o3 U2 B
 * b9 o4 M1 k) L: n
 「王がお叱りになるのは、' {; V& G0 x3 x& x
  楚国の大兵力を背後に持つからでしょう。
7 U7 w1 [- h" D* u' ~/ ~  しかし、御覧ください、
) R! }% @+ c- W# _  u  i. a% A- b  王と私の間にはわずかに十歩の距離があるだけです。
- U7 |! W) I+ L2 m$ x9 o  `7 R  大兵力もお役にはたちませぬ。
0 l# X% j% j6 s0 [. n  私の手にお命は握られている。' D2 Z* {! N+ b0 p! Z4 d
  それに楚ほどの大国が、
( m8 ]* Q$ n! e4 O/ E  むざむざ秦国の下風に立とうなどとはおかしな話。) H' W: Y/ ~4 w- `2 t+ \3 j/ _* z
  合従をお薦めするのは楚のためですぞ。」
; F, n; `0 k1 @' {" R2 E 
8 Q5 ]# Z# v& G+ R5 s; B3 E0 h 「……君のいう通りだ。% Q6 h2 N8 l. l
  国を挙げて君の意見に従おう。」4 R% j/ ^) r7 J+ Q; _, U
 * ~2 u- ~- t( a" {) \$ ~+ `1 O6 |! ^
 「盟約の決意がおつきになりましたか。」8 N% Y- @; l) {( x
 1 O, q! f* J+ K% e
 「そうだ。」  c3 w" s0 U' F' _
 
) @- n2 F( W% @  F! C* y 「では、鶏と犬と馬の血をここへ。」
& B0 F5 G9 g3 I2 }/ e. x, Z ! L# @1 ^1 B8 s9 `8 O2 Z
 やがて、楚の従者の手でそれらの品がととのえられる。
# E7 |9 c; O6 h  } 
: ~, r" \  W& m; X8 U8 P 「まず王から血をおすすりください。
( \0 u5 @3 S/ r4 d1 _: b8 ^  次はわが君、それから遂がいただきます。」
! Q) a( F6 B* g' N" ?! F 6 \# ~+ g0 u* y6 T/ e% F
 式がとどこおりなく終ると、毛遂は左手に銅盤を持ち、右手で十九人7 \! ^) ]: N3 `  y8 U3 y# _9 L6 _" S4 F
をさしまねいた。
0 c4 Y/ E  {6 Y. ~( M" L5 n 
1 z4 J' S; q3 F# w$ B1 [ 「いっしょに血を堂下ですすりなさい。2 g0 \2 n- L2 b% `0 p1 ~( C
  諸侯みたいな人たちを、2 R+ S2 t$ t5 I
  碌々として他人のおかげで手柄をたてる者というのですよ。」
4 |: x' E- j3 U1 f2 | 
2 m# }- ]9 Q0 |+ ? かくて、趙国は亡国の危機を切り抜けたのであるが、人を見る明を誇
5 I9 N, j) x8 K+ M* f* {0 p4 W! dっていた平原君もこんどばかりは兜をぬいで、
+ ]7 o' l, E5 ^" l& X( G ' E6 u2 a7 n6 u# J
 「毛先生ばかりには、
0 b9 {* D! L- @; o+ R1 a% g  すっかり失礼をいたしましたわい。
4 }4 |7 j1 J+ A6 W% s4 d3 j" |  先生は一度楚に使いしただけで、
1 Y+ y' i% L3 B& O  H) h- B- Z( p  趙の国威を九鼎大呂より重くしました。' N& m0 L$ U# [( H/ v9 a9 c
  毛先生は、0 `9 o5 @+ u3 [
  三寸の舌をもって百万の師より彊し、$ G1 U/ ]4 C0 R2 u5 j" [7 ?
  というべきでしょうな。
* f9 _, f: V  }: M! d! c/ v% \  以後はみだりに人を評価せぬようにしましょう。」0 O5 [+ |. D' ~* ^
 # M8 Y+ F* r$ F' v
 
, ^, R  v2 U  d# c 賢人平原君の、これは反省の言葉である。    (「史記」平原君伝)
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 楼主| 发表于 2005-6-22 09:27:50 | 显示全部楼层
三人市虎をなす

; a8 c4 S' B" b7 L& l% ^* ~( j: N# F; E8 b
戦国時代の魏の恵王はあまり立派な王さまではないが、なかなか逸話
9 F) r% V7 y# q( w5 P! Yにとんだ面白い王さまである。孟子がこの王さまに会い、どのように王
/ M6 I8 b. K7 }# n( L: W) r1 m5 v道を説明しても理解できなかった有様は、孟子の「梁恵王篇」に詳しい。
& t# ^( Q7 X) [. F. |8 V魏がこの王さまの時に西の秦の圧迫にたえかねて、東の方の梁に遷都し! O/ c4 ~0 b5 \% _6 r  a4 `
たので、魏のことを梁ともいうのである。漢文をやらされたことのある
0 ~: |: A0 y/ B: H人ならば、この篇は必ずお読みになったはずである。
. l7 X1 J, m2 t' ^3 E 7 L- B7 h7 O: U$ O3 a4 y; p
 2 ]+ v: z- x) H- l% _0 H& C; @
 さて、「三人市虎を成す」の故事も、この王さまが主人公だ。「戦国策」
5 @, U6 T; D: {% t9 ?! i2 Oの「魏」の巻に出て来る逸話で、讒言がいかに容易に信じられるかを物語
7 r  K$ K- s5 U3 I7 |1 x, z6 n& w0 Tったものであり、またこの王さまの愚鈍ぶりを伝える話でもある。ホウ( K2 X  |4 L2 n, l  v& s) r1 x) p
葱なる人が、魏の太子とともに趙の邯鄲へ人質として送られることにな  _! l+ F7 m! U$ I  ]; A7 [0 {, g
った時、ホウ葱が恵王に言う。
  b+ m4 b4 Z" s$ k! A9 J 
1 G4 g! D$ X% T6 _" ?- k 「ここに一人の人が、
3 f6 {/ }- z" N, k  市場に虎が出ましたよと言ったとして、
4 {6 B5 W$ v% \2 [0 s$ E8 L1 h  王さまはそれをお信じになりますか?」( ?" \9 _5 ^$ }; o6 V7 Q- b  W
 
7 `( z/ g; J, t  G 「誰が信じるものか!」
# L: ~" m4 {8 D4 R: |: h4 g- u 6 A( @& D4 b7 L5 m& D3 L) Q3 L
 「では、二人の人が同じように、( a$ u' N# l* i3 M# H# E* A6 u
  市場に虎が出たと言ったらどうなさいますか?」
/ \- o9 U0 L3 ~# [* [ 3 N; D" j- x$ w
 「やっぱり疑ってみるね!」# a' m, Y# e4 A" }) o. t" ?1 R) D
 # A6 m9 O# L7 i8 M( Y+ d4 Y
 「では三人もの人が同じように申せば、
) K# A, e/ C/ b  王さまだってお信じになりましょう?」
3 P2 C% ~5 [1 r9 K/ A ! ~4 |: @5 r) k: ?3 ]+ S$ `; t
 「それは信じるぞ!」. J5 h. f9 r9 L/ J( o* z
 + S! h# \' o7 G6 j
 「大体市場に虎が出るなどとは明らかにありえぬことです。
; o( f: A; \5 h2 _  それが三人もの人間が言いたてるとなると、
) O+ }# `: j. O' T  市場に実際に虎があらわれたことになるのです。
8 {; ]5 \/ w3 j: }/ j  (原文――三人言いて虎をなす); o. m( ~' a' e0 T) ~% e
  私はこれから梁を去って邯鄲へまいりますが、# x$ f9 R( P+ u: e. Y
  邯鄲は梁からは市場より遙かに遠方でございます。 
1 `0 G. ]" G' X7 @  しかも私が立ち去った後、1 S1 J3 i+ X+ c' C# E. D- q* T9 ~* t
  私についてとやかく噂する者は三人どころではありますまい。  ?- m3 v$ P3 j$ R' i
  王さまよ、くれぐれも耳聡くあられますように!」9 O7 v$ S, a# J: w$ j  U) \$ e2 p
 # `& X/ Z; h$ {& K( M. V
 「安心せよ!
9 g; t. h) n; y& x( o. n) F  わしはな、わし自身の眼をしか信じない。」2 y3 I# h# r7 o9 d
 
; B+ v# ?9 B6 M& M ところで、こうして恵王に別れたホウ葱が出発するやいなや、さっそ5 s' X+ l+ p7 C
く王さまに讒言するものがあらわれる始末。後日、人質はとかれたが、
, ?1 c. g# y' J- p3 j# |: o帰国できたのは太子だけで、ホウ葱は恵王に疑われ、魏にもどれぬ身と( g) W& b) t, d5 Q& `6 N
なってしまった。# j4 j, ?% e! a8 e( Q
 
- U; F  z. N; ?7 a/ h + |. u7 o% R7 D3 Q7 d
 言葉というものはおそろしい。「ひょうたんから駒が出る」とは道理に3 z$ K5 d' }# t  p" z% l( k7 W
合わぬ意外な事態が発生したことをいう本邦のことわざだが、人の言葉
5 C, K+ o2 v. n  |はひょうたんが駒を出す比ではない。無から有を作り出す。しかもその1 W! \( g( ]: L" k% q
有を至極道理なことのように錯覚させる。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 09:28:21 | 显示全部楼层
自家薬恢肖韦猡�
2 C* V! {, w" G% ~0 U, c2 d# B

: t0 Z4 ?6 s- Y# _( ] 唐朝第三代の高宗が死亡し、その子中宗が立ったが、その母の武氏は
) ]1 d6 K! G1 K2 y' ~/ \. D" w自分の子の中宗を帝位から引きずり下ろして、中宗の弟の睿宗を立てた
& L% ?6 p! z- _0 @/ r+ vが、間もなくさらにその位を奪って帝位につき、国号を周と改めた。こ) t3 \1 {7 J: B6 q; V6 _
れが則天武后である。. r5 F' d' }) Y2 i
 0 u7 c# A+ w  g! T+ l7 O) F
 そのころ狄仁傑という名宰相がいた。能吏の誉れ高く、民に敬愛され/ H/ G4 Z" E2 U0 Z. d& b
ていた。+ w3 y2 w! l$ B2 C
 6 D- J  K* f, l  n; d
 武后は実子を廃して自ら帝位についたため、武氏の一族には、この際. J6 J! u& K  q% `; U4 y
女帝を唤jし、あわよくば武后から帝位を譲ってもらい、皇帝になろう9 u: }3 ~# k  U
という不遜な考えを持つ者が現われはじめた。驚いた狄仁傑は、張柬之0 a6 i3 M/ R5 W2 k
とともに、面をおかして武后をいさめた。
; N- l% n4 C) x9 k9 s: m- u 2 C; X$ _$ |6 M; o# h3 D- d( X5 v
 「御実子の中宗がおいで遊ばすにもかかわらず、
* ?; {; ^8 Q! G7 [! X& l  他人に位をお譲りになることは天意に反しますし、1 I5 r' K* l, @$ J: {: r
  それでは宗室の万全を期し得ません。
. I, ]. t8 D# f- j" z  J  太宗皇帝が千軍万馬の苦労をなされたのも、3 q2 S: r0 D+ ]& p& A! u0 G1 \& |
  ひとえに御子孫の長久を願われたためです。6 @. n1 q5 A$ ~' o) }* Z2 i3 ~
  いまこれを他族に移すとは何ごとですか。( u. w0 A4 z; U& ^; T# D
  陛下は一体、自分のお子と、姑や姪と、
' _5 x6 W  t7 U  N5 h  どちらを大切におぼしめすのですか?」& z( c5 A- [, X; ?" n  C: `: N. ?
 
8 P7 @/ {# k) w+ F! V& R これには、さすがの武后も反論のしようもなく、ついにはこの動きは
- _. m1 |+ \0 `: w4 {- g封じられてしまった。5 c1 [  w% \6 p* e6 }9 W7 I: e5 F- y* I
 ' ]  I9 r! W5 f$ q6 D2 C6 j# ]+ W. b
 
: y, L$ O2 U2 B$ q2 p 武后は女ながらも帝位につくぐらいの男まさりだっただけに、才色兼% k+ h- }  C' X$ Q
備、知能俊敏、思慮も深く、その裁断は明快で、よく名臣の言をきいた
6 E5 `  O6 j3 f; `* j% Pため、政治は概ね巧くいった。これには狄仁傑の力が大きくあずかって
+ t3 J8 G, N( ^  _0 fいたことはもちろんのことだ。それだけに武后も、仁傑には「国老」の称9 t& m" z- L, B% N& v2 Z; j% L
号を与え、狄が死んだと聞くと、声を上げて嘆き悲しんだという。
: I) z# A# Z- n: G4 `8 G! q! B8 o 2 [8 a4 w2 o5 l! T
 仁傑は多くの人材をひき立て武后に推薦して用いさせ、その数は姚元
2 Z* [% c) A- M, H崇ら数十人に及んだ。みな仁傑を尊敬してその門に集った。ある人がい- q% A8 G2 d" h8 M# I
った。
3 q8 y# B6 o# z( i7 h 
( y, _$ U1 U5 t6 W 「天下の明果珍宝がみんなあなたの家にありますね。」; t- `" W9 d' C- L+ ~' m& l
   `" t" o7 f% Z9 |& D. j
 仁傑はいった。
) E1 M3 c! o& J' f# b- V 
3 [& e6 g2 g; X& M 「賢臣を君にすすめるのは国のためです。
6 J% i4 w- D9 B7 S" @. A" h6 }  私情からではありません。」* r. m4 ~" F5 ~
 , g, n! _$ ?% M. D1 G, _1 ^/ i3 ~) {& \! ]
 この仁傑が重用した人の一人に、元行沖という、博学で万事に通じて
. s' J4 g1 M5 Hいる人材がいた。その行沖があるとき仁傑にいった。7 M5 P5 N6 x+ Y; y0 P
 1 d. U* a  t/ G5 M: J/ s
 「あなたの門には珍味がたくさんありますから、+ J+ @5 }- J+ E* V1 m+ m
  食べ過ぎて腹をこわさないよう、, p3 [. Z" f- S1 Z3 O# z' Q+ c
  私のような薬の粉末みたいな人物も加えて下さい。」
$ a0 O2 f) r: z+ ?+ \" | 
+ l9 \/ |" p7 {2 k: o5 l 仁傑は笑って答えた。- B0 S# F+ K$ O# ?
 / ~( \% \; T1 z
 「とんでもない。& {3 g1 N8 c7 |+ m/ E# x+ S3 F
  君は私の薬恢肖挝铯馈
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 楼主| 发表于 2005-6-22 10:06:29 | 显示全部楼层
紅一点
) i0 [2 C; X' k+ K" \/ Z7 d9 O: s

% {2 e2 {1 e  V' x7 f 宋の神宗に仕え、いわゆる“王安石の新法”を持って一挙に富国強兵
( Q1 F* K" m5 W' S8 y- \) D+ Iの実を挙げようとして、司馬光・欧陽脩・程伊川・蘇軾ら有名な学者連  I2 R# @; ^, }' a8 e5 O
に猛反対され、ついに中途で挫折、六十八歳で悶々のうちに死んだ王安
5 \! l3 }- k# V2 {" Y6 z+ J+ Z石は、卓抜なこと唐宋八家文中にその比を見ないと言われるぐらいの文1 `  o# A, [) d3 X9 Y
章家でもあった。
. H. Q9 }  P2 { # K, e% C; j! j( `2 @  Q
 その王安石の作った「石榴の詩」の中に、次のような句が見える。
( S( \1 j. B2 z3 N; O 
; R) {3 `7 P: X: E! Q: R! u6 {# Q    万緑叢中に紅一点あり
# q) i2 z# {0 d% D    人を動かす春色は須らく多かるべからず
: V( X) |6 `: l' l6 \) C 
. B7 ]' Q7 K; b, s: Q# J( Vとして、一面の緑の中に咲く一つの石榴の花の美しさ、可愛らしさを、1 _. U8 {9 R* V# g& e6 q
春色第一と讃えている。
9 D" z0 @2 n: V* ^* H- E: L2 J 
- T& _7 G5 ?- M* o( A ! S" H7 M& [  R9 Q% u+ f4 I
 また「壬斎詩話」には、
! A8 N# _+ G5 s / i( a7 f  F. s% h& p* B
 「青州の推官劉俘がかつてこういった―――9 C$ U3 h: I; R3 ^: k3 D: `' k2 u
 “詩を考えるのに、その席上、もし紅一点あれば、
; ^+ ]+ j8 W: t- x+ f( Z  一斗ますほどの小さな器でも、千の鐘と同様、
; B) @/ l4 w4 P3 Y" p5 k  グッと引き立つだろう”と。」
" p" C. H0 N! D9 ?; s) O* C) A, o / P) {/ s. r% ?( I
と書いてある。
. R9 I* X! H* \5 ^7 ^; @! K 
& P! V% g+ p- T& ?( i: [ 2 K4 X/ S1 i/ q3 h& I; X
 更に「七修類稿」には、
5 `3 ~% w5 U( ? 
* h: X8 i! `1 G" y( O. L 「英廟がかつて天下の画工を召して上京させた。その時、
; n- U8 T7 C0 f9 ^) s& i* d! H( F# L 9 g+ ^& C+ ]9 P2 c
    万緑枝頭に紅一点あり
/ T1 `" _6 q5 L5 s8 Z; w    人を動かす春色は須らく多かるべからず
( {3 O3 y& H9 F2 i7 T! A ' V4 U4 Q5 b# f  ?' {. ]
  をもって題とし、これらの画工をこころみたことがある。」, j; }( ]. y+ E
 & {) }# b7 r( I* E' |! G
と載っている。
  X% c) q4 c- B# i, R 
: t  Z: j  u5 K! S* r/ X 
3 Z0 p/ ?! N- y' z$ F) E もう一つ、「事後文集」には、
5 O6 ]0 G! @9 a$ e" p+ m+ J 
7 M  z' ~( I3 I/ ~0 d, T8 K 「「王著句法詩話」に言う。" m3 c8 H6 C- r" Q+ n+ A
  荊公が内相となり、庭園内を散歩していたところ、: S- j% c. |) R7 D, G  g+ @7 ?
  石榴が一叢あった。4 z) y' p4 e/ y0 |. v, P! W
  枝はよく茂り、僅かに紅の花がついていた。
  t1 X& T2 Q0 d. ]2 n  v  輿を起こした荊公はそこで、
% Z( l! m: w" k, H 
7 i2 W/ y2 T% T" u- @: d    濃緑万枝に紅一点あり
2 O$ n) C2 m: B& d' h: A    人を動かす春色は須らく多かるべからず
8 }1 G4 Y; K# t! ^# a6 f   N5 r9 d( w- c& A. W
  といったそうだが、
% P2 d: d' m# ]  自分は残念ながらまだその全文を読んでいない。」( B5 G* x; H: g: {
 2 r2 m$ t3 l5 c5 y$ d7 B( w6 {
と書かれている。
( g6 p4 n7 w5 B  e& ^& Y4 y 6 ]1 N& m$ D1 B9 ]
 8 A8 ]. Z# i% f4 H' p! ]7 ~2 f
 以上のように「紅一点」の出所については、“万緑叢中”と、“万緑
" {7 C* z1 b5 a0 M* X  r- b枝頭”、および“濃緑万枝”の三つがあり、いずれも非常に有名な話で% ~% l/ R: _! y: V2 R
ある。最初の詩の作者について「遯斎閑覧」には、
- t1 o! x$ j: N% I! L 
* @) H4 Y4 n$ c 「万緑叢中紅一点という唐人の詩は、
. D0 D+ t1 {% y7 c3 y  作者の姓氏を記していない。" E1 `+ I' n& f5 G
  かつて王安石が扇に書くのを見たという話があるので、8 t3 A" _& o0 U3 ]
  安石の自作だろう。」- T1 P9 f: L; u
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とあり、「侯鯖録」には、
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4 N5 j0 @' n) M) D1 F) e9 j# a9 \ 「確かに王安石の詩である。」
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2 W( t/ R" f# E8 aと載っている。更に、「孝経楼詩話」には、
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6 [; T) x! L) T( f0 H- z" c+ `9 R 「王安石の詩である。0 L( Q7 @! Q. R* X6 I" f4 L; |- U
  遯斎閑覧は誤って唐人の詩としたのだ。」
* {) p' v- Z' B6 T: ^: ^5 q 2 n: U9 t$ n- u; O1 {
と書いてある。いずれにせよ、はじめは植物のことだったらしい「紅一
3 Y/ Z! s% o5 ~1 C0 A点」も、いまでは専ら“男性の中にいる一人の女性”という意味に使わ; p, G  T$ x7 t6 u/ [
れている。
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