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发表于 2006-7-23 23:09:19
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2006年07月20日(木曜日)付
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/ E, d/ T5 n% Y0 A$ Q, D 「今からすぐに日本の吉田茂首相に電報を打とう」。1953年5月、フィリピン紙が一面トップで伝えた。「失われた日比の友情を回復するのに外交官はいらない。オール鐘紡のようなチームをよこすことだ、と」。国交が回復する前、反日感情の強い現地に渡った全鐘紡の野球チームを率いた総監督が、18日に95歳で亡くなった前・高野連会長の牧野直隆さんだった。
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親善試合に全力を尽くして引き分けた翌日、反日的とされる新聞の好意的な記事を見て「体の力がスッと抜けた」(自著『ベースボールの力』毎日新聞社)。「理屈ではない。スポーツが人に与える生の感動が、状況を変えたのだ」$ H9 V! K0 P/ Y* ]
) p, q4 v% y3 M2 L) L) ~, v0 j 当時、マニラ郊外のモンテンルパ刑務所には、100人を超す日本の戦犯が収容されていた。試合の3日後にそこを慰問し、大統領との会見では釈放を嘆願した。2カ月後、全員が特赦された。8 t4 p0 k% O; @
Z h1 p8 |$ y 渡辺はま子さんのヒット曲「ああモンテンルパの夜は更けて」は、この刑務所の死刑囚が望郷の思いを込めて作詞、作曲した。彼女は、全鐘紡チームが行く前の年に刑務所を訪れ、それを歌った。渡辺さんの歌に加えて野球遠征などが特赦を後押ししたのだろう。
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学生野球、社会人野球を経て、高校野球の世界では、現場の声を生かす改革を進めた。外国人学校に門戸を開いた時に述べた。「規則が受け入れを拒むなら、規則のほうを変えるべきだ」, ^5 ~, l( ~% X( @7 c# N
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週1日休養の勧め、投手の肩の検査、「勝利至上」への戒め。柔軟な発想の奥底には、「ベースボールの力」への固い信念と熱い思いがあった。 |
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