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发表于 2011-8-5 17:31:43
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本帖最后由 sonei711 于 2011-9-1 12:15 编辑
不好意思,最近有点忙,来上第三课了。
第3課 水の東西
本文
水の東西
「鹿おどし」が動いているのを見ると、その愛嬌の中に、なんとなく人生の気だるさのようなものを感じることがある。かわいらしい竹のシーソーの一端に水受けがついていて、それに筧の水が少しずつたまる。静かに緊張が高まりながら、やがて水受けがいっっぱいになると、しーそーはぐらりと傾いて水をこぼす。緊張が一気に解けて水受けが跳ね上がるとき、竹が石をたたいて、こおんと、くぐもった優しい音をたてるのである。
見ていると、単純な、ゆるやかなリズムが、無限にいつまでも繰り返される。緊張が高まり、それが一気にほどけ、しかし何事も起こらない徒労がまた一から始められる。ただ、曇った音響が時を刻んで、庭の静寂と時間の長さを弥が上にも引き立てるだけである。水の流れなのか、時の流れなのか、「鹿おどし」は我々に流れるものを感じさせる。それをせき止め、刻むことによって、この仕掛けは帰って流れてやまないものの存在を強調しているといえる。
私はこの「鹿おどし」を、ニューヨークの大きな銀行の待合室で見たことがある。日本の古い文化がいろいろと紹介される中で、あの素朴な竹の響きが西洋人の心をひきつけたのかもしれない。だが、ニューヨークの銀行では人々はあまりに忙しすぎて、一つの音と次の音との長い間隔を聞くゆとりはなさそうであった。それよりも窓の外に噴き上げる華やかな噴水のほうが、ここでは水の芸術として明らかに人々の気持ちをくつろがせていた。
流れる水と、噴き上げる水。
そういえばヨーロッパでもアメリカでも、町の広場にはいたるところにみごとな噴水があった。ちょっと名のある庭園に行けば、噴水はさまざまな趣向を凝らして風景の中心になっている。有名なローマ郊外のエステ家の別荘など、何百という噴水の群れが庭をぎっしりと埋め尽くしていた。樹木も草花もここでは添え物にすぎず、壮大な水の造型がとどろきながら林立しているのに私は息をのんだ。それは揺れ動くバロック彫刻さながらであり、ほとばしるというよりは、音を立てて空間に静止しているように見えた。
時間的な水、空間的な水。
そういうことをふと考えさせるほど、日本の伝統の中に噴水というものは少ない。せせらぎを作り、滝をかけ、池を掘って水を見ることはあれほど好んだ日本人が、噴水の美だけは近代に至るまで忘れていた。伝統は恐ろしいもので現代の都会でも、日本の噴水はやはり西洋のものほど美しくない。そのせいか東京でも大阪でも、町の広場はどことなく間が抜けて、表情に乏しいのである。
西洋の空気は乾いていて、人々が噴き上げる水を求めたと言うこともあるだろう。ローマ以来の水道の技術が、噴水を発達させるのに有利であったということも考えられる。だが、人工的な滝を作った日本人が、噴水を作らなかった理由は、そういう外面的な事情ばかりではなかったように思われる。日本人にとって水は自然に流れる姿が美しいのであり、圧縮したりねじ曲げたり、粘土のように造型する対象ではなかったのであろう。
いうまでもなく、水にはそれ自体として定まった形はない。そうして、形がないということについて、おそらく日本人は西洋人と違った独特の好みを持っていたのである。「行雲流水」と言う仏教的な言葉があるが、そういう思想はむしろ思想以前の感性によって裏づけられていた。それは外界に対する受動的な態度というよりは、積極的に、形なきものを恐れない心の現われではなかっただろうか。
見えない水と、目に見える水。
もし、流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのに、もはや水を見る必要さえないといえる。ただ断続する音の響きを聞いて、その間隙に流れるものを間接に心で味わえばよい。そう考えればあの「鹿おどし」は、日本人が水を鑑賞する行為の極致を表す仕掛けだといえるかもしれない。
文化論の落とし穴
ひと昔前、眼鏡をかけカメラを肩にして、猫背の観光客を見たら日本人だと思え、という浅薄な冗談がはやったことがあった。演説やあいさつをする時、アメリカ人はまずジョークで始めるが、日本人はおわびと弁解で始めるというのも、言い古された決まり文句の一つだろう。西洋の文化は罪を基盤とした文化だが、日本人の行動の規範は他人に対する恥の感覚であるというのも、もう長らく語り継がれてきた日本人への先入見である。わけのわからない微笑を浮かべて不気味な国民だという非難から、とかく感情的でヒステリカルに行動するという悪口に至るまで、過去百年、さまざまなタイプのレッテルが日本人と日本文化に張られ続けてきた。
こうしたレッテルは、確かにある程度、日本人の現実を言い当ててはいるものの、たいていは事実の一面が誇張されているのは、言うまでもない。しかも困ったことに、そうした事実が変わったのちのも、イメージは一つの固定観念として、ひとり歩きをすることが多い。どうやら、人間にはだれしも他国の文化や他民族の民族性について、安易な固定観念を抱いて安心する癖があるらしい。日本人についてばかりではなく、世界のさまざまな国民や民族の間で、互いにエスニック.ジョークというレッテル張りが楽しまれてきた。ポーランド人はお人よしであり、イタリア人はいつも女性を口説いているし、ドイツ人は数字と規則しか信じないなどというのは、その典型的なものだろう。
それにしても、とりわけ日本人については、近年に至って、この文化論的なレッテル張りがいささか危険な域に達しているように見える。日本の急速な経済成長と、世界の中での地位向上に伴って、日本人を見る外国人の目がしだいに鋭く、険しくなってきたということだろう。貿易摩擦をめぐって、今では日本人の経済活動を批判するだけではなくて、その背後にある日本社会の特性、文化的な伝統そのものを攻撃するといった論調が目だってきた。アメリカのある政府高官が、日米の貿易不均衡を正すためには、日本の文化そのものを変えなければならないという、驚くべき発言をしたと報道されてから、もうずいぶんの時がたった。
だが、実はそれ以上に不幸なことは、これに対応して日本人の側にも、自分たちの文化にある固定観念の枠をはめて、それを変え難いものとするかたくなな態度が芽生えてきたことである。経済の問題をめぐって、例えば「日本の経営」という言葉が誇らしげに口にされ、その背後にある集団への忠誠心とか、協調心というものが過剰に強調される傾向が見られる。
けだし、一般に他人に固定観念のレッテルを張り、その人の性格や行動を決まり文句で決めつけると、我々の頭の中は明快になり、心が楽になるのは事実である。現実が複雑であったり、世界がとらえどころがないと、我々は不安になる。とりわけ、物事を精密に考えることの苦手な人たちは、とかく現象の一面だけを見ることで思考を中断しようとする。蛇は地中に潜るものだし、鳥は空を飛ぶものだ。そう思い込んでいれば、我々は蛇や鳥のそれ以外の微妙な現実について、忘れて暮らすことができる。同じように、我々は、地球上にともに生きる他の国民や民族について、常にこまやかな理解を示すほど暇でもなければ、また強い精神力を持っているわけでもない。そこで、エスニック.ジョークから高級な文化論に至るまで、わかりやすい一面的な説明を聞くと、それに飛びつくことになるのだろう。
これに対して、逆に自分自身について、固定観念をもったり、自分の属する国民や民族に文化的レッテルを貼りたがる性癖は、一見わかりにくい心理のように見える。しかし、これも実は、人生を安易かつ簡単に生きるための、怠け者の知恵だと見ることもできる。というのは、この人生には芝居のような一面があって、人はそれぞれ自分で決めた役を演じ、そのことによって心を安らがせることができるからである。
例えば、「男らしさ」という言葉があって、かつての男たちは、どこの国でも男らしく生き、男らしく行動するように教育されてきた。すると、仮に人生の悲しい事件にぶつかった時、人は男らしさという役を演じることによって、それだけで悲しみに耐えることができる。親から習ったり、本で読んだ男らしい人物のことを思い浮かべて、こういう時にはどういう顔をして、どういうひと言を口にすればいいかを考える。そして、それを身をもって再現することによって、無意識のうちに一種のヒーローを演じて自分を励ますことができる。複雑な人生のそれぞれの局面の中で、一つ一つの行動の形を決めていくのは、だれにとっても簡単なことではない。その場合、もし我々が日本人らしさとか、日本の文化的伝統といった簡単な観念を持っていると、それを演じることによって自分の進路を簡単に選べるにちがいない。歴史を学び、あるいは伝説の中の英雄物語を読み、最も日本人らしい人間はこういう時どう行動するだろうかと考えると、特に危機に臨んだような場合につよくなれるのである。
しかしこの場合、注意しなければならないのは、とかく問題の「らしさ」の持つ多様性を忘れて、その一面だけを安易にのみ込む危険があることだろう。実際、男らしさといっても、考えてみれば、ずいぶん多様な側面を含んでいるはずであって、ある人は男らしさと言えば腕力が強く、決断力があって、大まかに行動する人間のことを思い浮かべるかもしれない。しかし現実には、男は女性よりもはるかに小さなことが気になり、人間関係のこじれにこだわり、よく言えば繊細であり、悪く言えば感傷的になる性質も持っている。男らしく振る舞うのは結構だとしても、この二つの側面のどちらを選ぶかで、我々の行動は全く違ってくるはずである。そして、もし人が正確な目で事実を分析しないで、早のみ込みに一つの先入見にとらわれれば、行き方はたちまち間違った方向に固定されてしまうことになろう。
考えてみると、我々は自分をあるしかたで認識するが、実は、その自己認識がまた自己の実体を作るという側面を持っている。人間は、生きている自分を見つめて自分のイメージを作るだけではなくて、いつの間にか自分で作ったイメージに合わせて、逆に現実を行き始めてしまうという性質を持っている。文化論についても同じことで、もし誤った民族性のイメージを作り上げてしまうと、その後の行動の中でこのイメージは補強され、増幅され、私たちを思いがけない方向に引っ張って行くことになる。文化論というのは、決して単なる事実の認識であるだけではなくて、実は行動の規範であり、またひと回りして認識の枠組みにもなるという、恐ろしい事実を見つめておかなければならないだろう。
しかも、男らしさなどといういわば生理的、自然的な性格と比べた時、一つの社会の文化は格段に複雑であり、多様であって、それだけにその認識は恣意的になりがちである。長い歴史の中で無数の個人が集まって、半ば無意識のうちに作り上げてきた集合的な性格、あるいは生活の様式が文化というものである。したがって、一つの文化について考えるにしても、その歴史の中の時点に焦点を当てるか、あるいは多様な広がりのどの一点を強調するかによって、まったく違ったイメージが浮かび上がってくる。それだけに、文化および民族性のイメージを考えるにつけては、我々は特別に慎重であり、焦点の選び方に注意深くあらねばならないはずである。
(『新選国語1改訂版』尚学図書より)
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