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楼主: bgx5810

中国故事物语(已载完)

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 楼主| 发表于 2005-6-22 10:07:42 | 显示全部楼层
肯綮に中る

- s: U. L0 J, h, a) m
6 S; b+ c4 a6 k) T1 x 戦国時代の話である。梁の文恵君(恵王)のところに庖丁つまり庖の丁% k2 ]  |, L! L8 Z( [
という料理の名人がいた(いま国語で料理用の刃物を庖丁というのは、
( b( `! x  \4 o* B  [8 v2 m7 ]; k9 kこの人の名の転訛したものである)。 彼が牛を料るときの巧みさといっ; }4 T+ R* e4 \
たら、牛の体に左手を軽く触れ、左肩をそっと倚せかける、その手の触, u* B- u+ Y( J+ h% i8 a- l/ @
れかた、肩のよせかた、さては足の踏んまえかた、膝のまげかたにいた% n8 W/ h( z  @. T  m4 ]) _5 z+ w1 ~
るまで、まことに見事この上なしで、さて刀を動かしはじめれば、骨と& n3 B7 l2 e4 O9 |( b; c% Q
肉とがサクリと離れ、切りはなたれた肉塊はパサリと地に落ち、さらに
6 |6 V7 h$ K7 t* q刀を進めればザクリザクリと音をたてて肉がほぐれる。すべてがリズミ& l* L2 V, q; R- `6 F7 f0 e
カルで、いにしえの舞楽である「桑林の舞」や「経首の会」を思わせる
3 w1 [# X! h& h; }* {- O  Kほどであったという。さすがの文恵君も感嘆して、
. ?" k# G) s) U3 P 
' X6 z& l6 f! i 「あありっぱなものだ。$ J. z  O+ B$ J0 C6 ?3 B
  技とはいえ、名人ともなればここまでくるものか。」4 Q9 u: E$ M6 N* I& S3 z
 : J6 k. E* p' }% S6 O# H1 z% B' J
 すると庖丁は刀をわきに置いて一息しながらこう答えた。
+ }: y4 P* A- \5 O % A' F; v% D; I7 A' H. H9 h
 「いえいえ、私の志すところのものは『道』でございます。
) A& A3 u- A) h" R% X$ p2 w& l6 I) `2 Q  技以上のものでございます。2 j  j: t8 }% ^" ^4 U' Q# Z/ K
  もちろん私とてもはじめて牛を料ったころは、
2 I; S8 Q  o5 ~  牛そのものに心を奪われて、手もようつけ得ませなんだが、0 i' v$ x8 m7 {+ s# N5 b3 I
  三年もするうちに牛の全形などすこしも気にならなくなりました。
$ C4 G. \  q  g% Y" A- O1 f  ただいまでは、全く勘をたよりに、
  e4 W8 ?/ t3 ^  目で見ずともりっぱにしこなせます。
9 o  @4 O4 `4 a) |' [  つまり五官(耳・目・口・鼻・形)のはたらきがやんで、
: K% U, L! n- b  精神のはたらきだけによるとも申せましょう。
8 v( r0 ~) u1 ]; ^  なればこそ、牛の体の自然の理に従って大きな隙間に刃を揮い、+ d) W; j& p5 M2 Y" }" m. X* A1 Q
  大きな竅穴に刃を導き、全く無理を致しません。0 p) c" t& P2 c/ K  I$ H  M# m2 x
  ですから今まで一度だって刃を肯綮に当てた事はございませんし、
: T) N2 t) m8 F) E) H  ましてや大きな骼に刃をうち当てるようなしくじりなどは、
2 T, b2 ?) l8 W7 R$ |4 m  思いもよらぬことでございます。」
3 y: i/ S& e) h$ t6 Q& @) w : a4 d2 K- N+ a. X4 U! b
 肯綮の肯とは骨に纏わりついた肉、綮とは筋と骨のいりくんだ場所。2 {, ?4 J1 q9 R( m2 w5 A
だから「肯綮に中る」といえば、事の急所・要所に触れるという意味に8 E4 F* m; U" [7 t& J" B/ u
用いられるのである。
; W* h7 ]2 z4 b 
/ M" j2 ?) x  ?9 s( o  T; ? 庖丁の名人譚はさらにつづく、+ z7 K. x0 W4 e
 1 E! g* q9 Y' A) f1 S, b4 u) Q3 M) R
 「まあ腕達者な料理人ともなりますれば、6 L$ P9 i# l- w6 D
  時たま刃を割く程度でございますから、
" Q1 \) B: p; W) d  年に一本の刀で事たりますが、
: Z* d) ~, T+ A6 \- U- c, `. a  なまくらの料理人などは、
( l. {- o9 @, E  えてして刃を骨にうち当て折ってしまうので、' T! [1 ~, G6 i6 s/ c" H
  月ごとに一本の刀が必要でございます。
7 M4 W+ T. I! m* _$ r; h2 d  ところが私のこの刀は使いはじめてからすでに十九年、
$ h6 }, W; ?% J' E  何千頭の牛を料ったかも覚えませぬが、
6 o1 J+ M* q2 `% g+ p, g% ^  御覧のとおり、
- B# k( W' X8 P( U+ |3 v  刃は研ぎたてのようにピカピカで刃こぼれ一つございません。
1 }) c0 [( {0 _4 V! b( `  それというのも牛の骨筋には、
/ M/ k: V9 d! J, l; H  おのずからなる隙間というものがございますので、
7 |' q4 G5 Q9 R8 z, h. \% y  厚みのない刃をその隙間に入れるとすればいささかの無理もなく、
( H; g6 e( I9 `: X7 E  楽に刃を使いこなすことができるわけでございます。* o, g. y+ q: q5 k/ J7 F# `
  もちろん私とても筋や骨の族がりあつまっているところに、
# J9 p& m5 d2 Z! c% c0 ?2 i9 ~; A  手をつけますときは、
9 r. l; S6 L; h8 ]/ T  むずかしいと見てとるとシャンと心をひきしめ、
7 A  J7 ~4 D, K( k% h" M: l  じっと目をそそぎ、5 z7 Q/ I3 f( c9 ]/ l* J- ~
  手のはこびを遅くし、
& V# Q5 u  f: p3 p) g6 W# O/ ?+ `! w  d  いと細心に刀を動かします。
; V% }3 T* J/ u& v1 m* q  そして急処を切り抜け、% P4 {9 [" L* }0 C, t
  大きな肉塊があたかも土塊のように、/ {& c3 ]5 g: s# n
  ドサリと地上にはなれ落ちるのを見とどけたときには、
# P/ K# \. k7 a# ?1 k  さすがにホッとして刀を手にしたまま立ちあがり、
! `  a0 i" I+ C  M' n  四辺を見まわして、- o2 R1 ^1 K7 [/ D7 n4 J, X
  ゆりと満ち足りた心持で刀を拭い蔵いこむのでございます。」
* Y  s" j# o2 z: S1 y0 @7 L 2 \2 b0 x/ G9 ~9 a- H5 C
 この話を聞くと、文恵君は重ねて感嘆して言った。
0 c% ^! A2 d4 B8 Y6 l* r 
, m4 q* d0 c, A/ B- ~ 「ああ、なんともはやりっぱなものじゃ、
! i! f7 Y& z5 n% w- ^) V  わしはいま庖丁のはなしを聞いて、  X5 n) O& L1 _& F  J- _
  養生の道をも会得することができたわい。」
! V" U5 d. ?* V $ A& z# v! |* a( z9 O1 s" c
 文恵君の会得した「養生の道」とはなんであるか。この物語を書き伝/ h. E9 m& }3 F0 Z: h% w
えた哲人荘子は、この話の前置きにこんなことを書いている。
! ^3 s# z  w0 r5 l( J % _: I2 V' V( G) w
 「われわれ人間の生命には涯があるが、その知欲には涯がない、* n: D3 Y! O( k& Y- z8 ]! l
  涯ある身を持って涯なき知識・欲望を追求するのは危険なことだ、6 q8 X4 s- o2 e% h4 ?
  と知りながらもこれに引きずられるのは、
/ G5 j: k) j4 n# N) i  ますますもって危険なことだ。& W) m) N( m$ Q. \8 O  t
  だから善を為すも名利に近づかず、! v# |) S; ^% g, y# Y: [% M
  悪を為すも刑戮に近づかず、
, F7 @% M5 |: q, B  善に偏らず悪に偏らぬ無心の境地を守って、
! s- d4 W8 \: ?/ @  自然にあることを生活の基本原理とすれば、. g7 N1 r- P' m4 m
  わが身を保ちわが生を全うし、
5 \0 H  s9 l2 k# j2 T' F  親に孝養をつくし、天寿を尽くすことができるというものだ。」- D! L) l8 y) C
 
8 v$ c' g+ Z* u, Q0 T+ ?6 v 人知のさかしらを捨てて無心に自然へ随順することが「生を養う」根# u% i8 C) M  G. U2 `! R
本の道であり、庖丁の体験談もまたこの自然随順を示唆するのである。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 10:28:11 | 显示全部楼层
巧言令色鮮なし仁
6 H. c/ T2 K  d* B
! K0 C% Y7 m, j9 r* e$ S
――巧言令色、鮮なし仁。(巧言令色鮮矣仁。)(「論語」学而篇・陽貨篇)
( z# Y. X9 f' V; ^4 y5 Y$ n# E : ]& c" Z! I; n' J, u# Z% r! y" d
 というのは、孔子の言葉で、「口先が巧みで、角のない表情をするも
+ c3 y- m) F3 wのに、諏gな人間はほとんどない」という意味である。
6 t9 ?$ w$ s' V+ K% ]* J# }9 d( f 
* \- k' R; l8 h# K7 ~ これを裏返して、孔子はまた、
5 t( n( ]# q% e: u* Z6 z) ] 
# w& I9 X/ G+ f- D ――剛毅木訥、仁に近し。(剛毅木訥近仁。)(「論語」子路篇)
  [1 o. d' r  `" B2 O % a$ O6 t5 t- ]
 すなわち、「剛毅で飾らぬ人間は、(諏gなのだから)完成した徳をそ6 N4 p. [- c8 B' @+ q" @3 J( |
なえたものに近い」とも言っている。利己的な打算がなければ《飾る》
2 c5 t, S8 d1 S; ^! {# t, ~" v必要がないのだから、当然《木訥》になるであろうし、みずから正しい: P1 z1 {2 U# |# e: I. r1 q
と信ずるものの前には、その生命さえ惜しまぬなら、当然《剛毅》にな
. g0 U( R0 l$ D+ }" r6 o2 Zるであろう。しかし、このような人間でも、《仁》(完成した徳をそな
/ ?% _" Z4 b, ~( V3 `4 vえた人間)そのものではない。: r; l8 I: {4 d
 
6 I$ h$ o3 K1 p6 ?) c4 u 孔子は、
4 P$ U" N: P) h 
6 J& p; e0 q3 ^1 `5 { ――文質彬々として、然る後に君子なり。(文質彬彬、然後君子。)
4 \5 l- @# \' j8 v4 c                       (「論語」雍也篇)% B; F5 u0 l( d+ Z+ u( b9 `
 % ]8 M% x/ C8 E8 v. y' m. u, Y
 とあるように、文(形式)と質(実質)とが彬々として(調和して)いるこ
6 a8 s/ V7 t7 Y* n; I( `2 jとを、君子(徳をそなえた人間)の条件としていたのである。6 t2 I' ?. R% a  W; i  t1 M& |/ o
 
2 H- \/ ^2 G& y: r2 u8 \4 K9 O8 k だから、弟子たちには、
5 @! V% w; f+ m6 ^. W 
9 R8 P- n% q9 i  d8 d. z! R ――博く文を学び、之を約するに礼を以てす。6 |$ I, e7 B( o% B6 {! n* W
         (博学於文、約之以礼。)(「論語」雍也篇・顔淵篇)# i0 \7 L; m1 ]9 a& M, `1 @
 
2 _0 C; u0 Y& u# I9 m/ U3 `/ p と、多方面に文(ここでは学問すなわち実質)を学び、それを礼(形式)3 D0 t1 y+ E/ u0 U4 b6 ~7 r9 w
で整理統制することを強調しているのだ。決して剛毅木訥という荒削り
) Q! }2 R/ a3 L* U4 r: z7 ]な態度を薦めているわけではない。
0 b0 P" q; L; a% _# @. m' v ) B& N6 Q* S0 u2 b) L7 A0 \
 しかし、その剛毅木訥を推称しているかに見えるほど、孔子は、巧言. l" H" t& A2 T% u
令色の徒を憎んでいた。
2 C( v% O5 F* d( d# R& O/ F 6 Y4 j7 p4 W+ }! w
 その増悪は、' I5 y2 ~2 Z  j: i1 R! k- A4 U
 
& V9 b6 {0 C4 `- n/ L0 V2 i ――その之を言うてハジざれば、則ち之を為すや難し。
( V! j: ~8 o% D0 E     (其言之不zuo<立心偏+乍>、則為之也難。)(「論語」憲問篇)
/ _9 }9 z) w: u  f2 I8 A' y  (臆面もなくものを言うような奴には、到底実行はできぬものだ。)
3 R" T2 ?# G" e% U: d) @ / R8 z/ O$ I7 i# N+ A! _0 B; h
 と言う痛烈な言葉を吐かしているほどである。孔子は何よりも、巧言1 E- k+ p& F+ Z) w% V
や令色によって、他人を瞞着する、その狡猾さを憎んだのだ。& `& h, N% {+ ~- e2 @9 f3 x
 * ]$ |2 L& H7 z9 w5 f
 
* u* P( e% G5 u; x6 x" X. d& H% c$ ` 政党の公約は不履行に終るのが常識だが、国民を欺瞞して恥じぬこの1 d, _7 q2 G# p! ], w  A9 O0 |, L
ような巧言令色の徒の充満している今日、孔子のこの言葉には、私たち' I1 E- C6 x. D
の俗根を凛々と打ち叩くものがあるのではないか!
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 楼主| 发表于 2005-6-22 10:32:01 | 显示全部楼层
恒産なき者は恒心なし

6 h5 i4 \; q7 h0 x5 I  v) b7 c1 x9 ?. s. @, N
 それは周の赧王の八年頃のことと思われる。孟子はその理想である王4 Y1 L7 v3 q9 D, V! E' C6 s
道の政治を説いて諸国をめぐり歩いたが、いずれの国でも意見が容れら. u, p! a+ q; w  ?0 e& t4 l( E
れぬために、郷里の鄒(山東省鄒県)に帰っていた。すでに六十歳をだい
1 Q8 e6 F4 g1 s. y. |ぶ越していた。その頃滕(山東省滕県)という小国では定公が薨じ、その
! E( k; \  c1 d* |& r/ M子の文公が即位したばかりであった。文公はかねがね孟子に私淑してい
( x4 B& |1 U& `/ _たので、孟子を招いて政治の顧問とした。文公はさっそくいかに国を治
6 Q" T! s: R/ M/ y7 wめたらよいかをたずねた。孟子も文公の情熱に感じてここに堂々と彼の1 c2 h2 L" W. o. E! H( e- L! M$ v
見解を述べたが、これが有名な井田説である。# e; `9 B6 n6 J1 `
 # Q' D$ A1 M& \  \4 m/ w+ k
 次にその要旨を伝えよう。7 A8 _# F+ U. Q6 C% p; P+ U$ {
 
6 ?- u6 j* O* d' |4 C* n4 `5 t . @, t& N1 X7 l$ ~) ^5 s; h
------& S7 o, R  ~9 z' }
 「詩経」の中に、「春は種まきなどで忙しいから、冬の間に家屋の修
, M, M; w" [. T2 A: v) ?3 ]理を急げ」と戒めた詩があるが、国政もまず民肖谓U済生活の安定から
7 B. v4 d/ g. k4 E  j3 s* `5 a3 B始まる。恒産つまり一定の生業と、恒心つまり変らぬ節操との関係は、
# K: y5 J+ a# y6 L- E「恒産ある者は恒心あり、恒産なき者は恒心なし」である。恒心がない
: E& u+ {! u( z& V. N0 \と、どんな悪いことでもする。民肖铯寺浃沥皮榱Pするのでは、法" {2 F6 ^# [% r8 R
の捕網にかけるようなものだ。: c% W0 L: c- G# V% G. m! ^
 
$ P' a+ p' a# {0 g# l 昔夏は一人に五十畝、殷は一人に七十畝、周は百畝の田を与えて、そ8 d: m5 b, v( A  Z1 q8 ], \
の十分の一を租税としていた。夏の法は貢法と言い、数年間の平均収入, ?8 E( n+ \; h8 t" F
を見て一定額を納めさせたが、豊年にはあり余り、凶年には足りなくて
" w8 Q+ c- C$ u! y0 s: Y- o- |5 Kも取るという欠点があった。殷の法は助法と言い、私有の田と公田にわ
3 O- v2 X2 _1 ~, B8 w: }け、公田からの収穫を納めさせた。周の法は徹法と言うが、助法を受け
& ~" a6 y" X1 S: b' @8 H$ h継いでいる点を考えると、助法こそ模範とすべきであろう。
/ |2 P7 r" u( f------
  L+ i. f2 S; t2 s* }  j ; J% G, m/ J- B9 f% @6 u1 l
 
6 t% M! s. h) ^, T+ u こうして孟子は「恒産」を具体化したあと、「恒心」として学校にお6 _& I$ }# u; ?# |! @
ける道徳教育を強調している。続いて文公は臣下の畢戦に井田法につい
0 P  M7 e: V. H' O5 a! Wて質問させたことが見えるが、ここで孟子は助法を更に明確に説いてい
, e8 B, B* p( s/ g! c  Aる。3 J9 ~) X6 Q9 L5 K' S- y6 |. t1 p
 & O) U. Q8 W0 N$ ~
 
, t7 y: X/ P0 u, {$ P7 s' @6 u------( ^5 r( `3 V' s3 w
 一体国家は君子(治者)と野人(被治者)より成立するが、その体制を維( A+ e- Y8 {) y& {
持するにはまず君子の祿位の世襲制を認めるべきである。野人の方は助
  i1 s+ g. q3 O! B' E7 @$ u+ y法による九分の一税を確立する。そのため一里四方の土地を井字型に区) c: K1 _! _* C- B& c
分し、九百畝のまん中に百畝の公田をとり、残りの八百畝は八軒の家で  W* {$ d4 R- v, u; s( N: U5 Y
それぞれ百畝ずつ私有する。公田の共同作業が終ってから自分の田の方
+ k( S" f2 P# E# G. X9 z: x$ Gにとりかかる。民肖舷嗷シ鲋翁逯皮扦悉毪韦恰⑼恋丐螂xれた
9 a7 u! C1 r, R8 Pりしなくなるだろう。
2 o1 ?2 I6 _0 \* C0 r------4 [2 M& C% H. d/ y- y
 % Z$ ?3 {2 f1 k" Y6 S
 
) |5 s8 X3 ?5 n8 j" f+ ] 以上によって明らかなことは、この井田法は原始共産的なものであっ
* r; C3 @$ o. |  L2 E' Nたろうということである。しかしその前提として治者と被治者を区別す$ x" a5 B9 C6 `* \0 `, y
る主張は、後世の支配階級に孟子が担がれた最大の理由となっている。0 }& _# N# c) ^1 @, t% Q
 
- ]8 c/ z9 ?5 j! W7 D' e4 e 「恒産なき者は恒心なし」は「孟子」の「滕文公篇」にある、以上の話" ^3 Y% r  P& Q
に出ているが、「梁恵王篇」にも出てくる。「倉稟実ちて礼節を知る」の2 @. y9 N8 k# S4 R- m6 b
ように、孔・孟の主張が単なる修身ではなかったことを告げている。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 10:36:10 | 显示全部楼层
後世畏るべし
1 [: W7 S' W/ }1 T( d

7 f9 T1 B5 U: X+ z& G' p; n この語は孔子の言ったことばから出ている。孔子は春秋のみだれた世, C# J1 h& S/ B3 x6 ?# D
に、じぶんの理想とする礼楽の正しい国を作ろうと各地を流浪した。そ
" K, m7 ?4 @) x* G! Dして、ついに容れられなかった。孔子は、しかし、じぶんの学燈がうけ4 `; b$ H! a% k9 B
つがれ、いつかは生かされるということに、希望をつないでいたのでは# Z5 ]6 M! T4 P
なかろうか。学を薦めることばは多いのだが、これもその一つである。
+ K( e7 ]( A. J) S0 j  l6 a0 s 
" v3 i3 z+ ]* g6 m6 ^6 U9 f, M 「孔子はこう語られた、苗のまま秀でずに枯れるものもある。4 n" e" m2 O9 n$ V
  また秀でても実らずに枯れてしまうものもあるのだ。( c! L& n  P; c$ u8 \( q. H
  (だから、君子はみずから努めるのだ。)……& Y5 B' T4 ~9 k7 N2 S, y
  じぶんより年若いもの(後世)の伸びる勢いは、
( \4 {! E2 T" w/ H1 _  まことにおそるべきものがある。7 n4 F: f3 u; x5 b5 X+ \4 z
  この少年が、いついつまでも、' s+ f+ C: y) x% |  `
  今のわれわれに及ばないままかどうか、
$ v. |2 ]! x' S  わかるものではない。5 `* }% i  _  W1 `
  (後世畏るべし、焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや)! {+ L( q$ v9 T) B( w$ W
  人の進歩は、はかることができないからだ。! L+ Y2 S5 }  s1 I
  この人が四十、五十になっても、6 G% e2 X- @- C2 h
  まだ世に聞えるほどにならないなら、1 q8 B8 K5 X7 n$ U, @3 Z$ {
  そのときやっと、おそるべきではないとわかるだけだ。
. D) {6 Y( g+ C6 C  学はやめてはならない、と。」(「論語」子罕篇)
% A- Q# }# ~- E- z& z! a 
* v$ W0 k' w2 v) L) O この語はのちに「後世畏るべし」と書いて、今後どこまで伸びるかわ6 x2 R* I2 [% |, b" D1 k. C
からない、という意味につかわれるようになった。「この子、まことに
* E8 C# D( G* V* o7 l& |4 y" a4 J後世おそるべしだ」などと、子ほめをするたぐいである。この後世のこ3 }6 @! x. x' ~* t7 Q) i
とばのなかにも、孔子のなげきはつたわっているのだろうか。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 11:28:05 | 显示全部楼层
狡兔死して良狗烹らる

' X! ~* v9 j' |9 V
8 b# S6 S6 k: a5 D4 l楚の覇王・項羽がほろびて、天下は漢に帰した。漢王・劉邦が帝位に- m6 \( v& w+ l& J; Y6 [7 x
ついて、漢の高祖となった。その翌年(漢高祖の六年)のことである。詔
5 }: @# h( J/ g% l) jがおもおもしく諸侯にくだされた。* O: o, w$ I- `$ K  H1 Y
 ) {5 Y, H2 b4 C$ s8 `4 ?2 S  K
 「朕は、これより雲夢湖(湖北省陸県)に游幸する。
$ {9 i/ Z% w. ~, C2 u2 d  汝ら、随行すべく楚の陳(河南省淮陽県付近)に集合せよ。」5 d$ A& u/ @! T  u7 z3 t+ x
 
' x1 P9 X( C& x: t4 P+ u0 u これには理由がある。当時、韓信が楚王に封ぜられていたが、その韓3 R' p/ b& O0 t" f9 F  u# I
信のもとに、項羽の勇将であった鍾離バツがいた。かつての戦闘で、鍾% B& E7 r. A5 Y* W
離バツのためにしばしば苦しめられた高祖は、彼を憎むことはなはだし
) \) E0 ^4 w7 x4 s! \* Z& ^5 K5 kく、その逮捕を韓信に命じたのだが、以前から鍾離バツと親しかった韓
( X- _- g  K6 t3 D( w7 i信はその命をきかず、かえって彼をかくまっていたのだ。このことを知
7 d2 D. |! j1 d& A: Qって、「韓信には峙绚我猡ⅳ搿工壬蠒筏郡猡韦ⅳ盲郡韦恰⒏咦鎈
1 c; M4 w7 X* n% Q% j" [- U/ Pは陳平の策略にしたがって、游幸を口実にして諸侯の軍を招集したので
/ G1 R2 x2 P4 {' x  |9 Fある。! C! v) U# {7 n* y' N7 P. Z
 ' B: ]5 E) I, {8 Z
 事態がこうなると、韓信は本気で叛旗をひるがえそうかと考えてみた
) X( B& W, F( D: ^5 rが、「自分には何も罪状がない」とまた思いかえして、進んで拝謁しよ
- w  ?' L- @* I+ t& dうとした。しかし、ノコノコ出ていくと、捕縛されそうで、どうも不安
  G" ^  A5 r4 k3 L2 [; y, cである。そうしたある日、こざかしい家臣が韓信にささやいた。
' m' D% I' J0 S- A  ^ 
+ t9 z- G: T) F0 F8 F 「鍾離バツの首をもって拝謁なさいましたら、/ b9 u8 ]; H6 Y  D" B
  陛下もお喜びになられ、
" Q" {- K) \5 b  わが君におかれましても憂慮すべき事態がなくなりましょう。」
" s& P* N" \$ r. }2 S 1 `  q- Z' _2 q7 \* z
 もっともだと思って、韓信はその由を鍾離バツに告げた。すると鍾離( m  D# M6 O8 ~- F3 K  ^( y( _3 V( a
バツは、4 a8 P  \1 M* b4 H' t' O# S
 
9 }/ r- \8 T5 a, { 「高祖が楚を襲撃しないのは、君のところに僕がいるからだ。
- l, J3 e, q+ K, `' C  それなのに君が僕を殺して高祖に媚態を示すようなことをすれば、& V" Q- Z* c+ J
  君もたちまちやられるぜ。
+ I5 w7 j8 ^0 u  君としたことが情けないことを考えたものだ。# D& A* I$ x0 }$ K+ d: G
  僕は君を見そこなったよ。
, y9 o  R- _& K% k  よし、僕は死んでやるさ。
* l  k; R' u$ v4 u- I& B2 M  君なんか、とても、人の長たる器じゃないよ。」
5 |( F  U! ^" X9 f2 c1 `6 u 
" ^: p2 O: y7 j9 c0 }. | と罵って、みずから首を刎ねてしまった。その首をもって、韓信は陳
  n1 r* t3 D9 U; gにおもむいたのだが、はたして址慈摔趣筏撇犊`されてしまった。韓信% z9 ], M0 a; K3 j: E
は口惜しがった。8 o" _( c  {, S" F2 P
 
3 K9 l. Z8 V% D" y( ^ 「ああ、狡兔死して良狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵れ、
1 ~' O* f6 Z( Z+ u  x" u1 z$ h. I  敵国敗れて殖激郅恧帧ⅳ趣い铯欷毪ⅳ蓼盲郡饯瓮à辘馈# j2 o/ v8 J% x- Z: x1 X* R# t
  天下が平定されて、おそるべき敵が跡をたったいま、8 C5 [0 g3 o. {4 O6 b: u  M0 }3 O
  狡い兔が狩り尽されると忠実な猟犬が主人に烹て食われるように、- n2 a0 }+ d) x  T$ N
  さんざん漢に尽くした自分が、こんどは高祖に斃されるんだ。」
% P5 f" K7 {) p  [ 4 o2 a  y. p! F. ^4 k
 ところで、高祖は韓信を殺さなかった。しかし、楚王から淮陰侯に左$ m4 X& m4 n  y' s# n  c
遷したので、これ以降、韓信は淮陰侯とよばれるのである。$ t# a  U( G3 `! V3 i  o4 C
 $ n' v! k7 d% G5 ^: r
 
5 }3 M5 l. [7 K+ y( d3 L この話は、「史記」の「淮陰侯列伝」にある。「うさぎ」は「兔」が9 R- p9 r3 V* ~( {  K
正しい。「兎」は俗字である。同一の列伝のなかに、斉のカイ通が韓信8 s7 R: i" |4 D: h1 r
を説いた言葉として、越王・句践にたいする忠臣の范蠡を例にあげて、
! X6 q- z, C1 E3 w1 j5 e「野獣すでに尽きて猟狗烹らる」とあるが、同義の異語である。
' Y4 P. C7 y9 z* P 5 x% ~- K/ A9 {" z+ n  B
 「呉越春秋」には、「狡兔」を「郊兔」と記してある。「狡兔」とい7 ^' `+ x2 E, o6 S/ U7 P, K
う語は、よく使用される語で、「戦国策」にも東郭逡を「海内の狡兔」
3 x' o) Q4 ?& A" Mと記している。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:34:31 | 显示全部楼层
古 稀

( D  t2 X4 s- C2 m4 H6 |
! r9 ~. x  L2 r  e/ Q* z; ? 唐の都長安、その東南のはしに曲江という池があった。池の南には芙: u! L. d! [9 s" w
蓉苑という宮苑もあり、風光美しく、春には花をめでる長安市民でにぎ8 z+ q1 K* h7 m% s+ Z
わった。この曲江のほとりで、杜甫がいくつかの詩を残している。それ
0 H: m( @& y, C- l( Cは乾元元年、杜甫四十七歳のころである。* U0 R  R7 @  ?8 X
 , a9 r5 V; L- E8 D
 杜甫はこのころ左拾遺の官をえて、宮中に仕えていた。そして、この+ d& b7 Q# o6 \# V! m
一年にみたない月日が、彼が中央に仕えた最初で、最後の日々でもあっ3 W/ V" x8 |# w+ f
た。杜甫は年少にして各地を放浪し、三十半ばをすぎて長安にもどり、
  B: _# u8 \3 G" n( x( T( a1 n官途をもとめた。望みはかなわなかった。やがて、唐朝をゆるがす安禄
/ s9 B( A9 D2 t" v2 n山の乱。杜甫は霊武の行在所にいる粛宗のもとに参じようとしたが、乱
( l+ t. {6 D7 l# a" I4 k軍に捕われて九ヶ月幽閉され、ついに脱出して鳳翔の行在所に赴き、功
# d& T$ U/ o8 R% I7 r3 t9 ~# dにより左拾遺に任ぜられた。そして前年の冬、粛宗にしたがって都に還
1 y. Y! t4 q+ oったのである。だが粛宗をめぐって渦まく政治は、彼の心に憤りをさそ
9 }& h, J6 k- k+ r! J. i7 Xうものであったらしい。杜甫は参内もせずに、曲江のほとりにいること# j2 x7 S4 \6 M3 v5 y/ G2 c
もあった。……曲江のほとりに花をめでる杜甫の脳裏に行き来するもの
, L' `1 {) t2 _/ Aはなんだったろうか。その一首にいう。
; ]' d" c/ r. D, j. U( U! t 
. ~. `: E3 N# M! Q7 E* n 
/ y3 r, }- P& T( F0 I3 W  朝より帰りて日々に春衣を典し
, |. U' e6 ]$ R  毎日江頭に酔いを尽して帰る
8 l+ g7 P2 M7 Z% r. d0 U  酒債尋常 往く処に有り, \2 }# o2 U, W
  人生七十 古来稀なり
( N9 W( f6 O+ e' H1 B1 z  花を穿つキョウ蝶は深々として見え
2 F) z! [4 ^+ a2 m6 ~! j  水に点する蜻テイは款々として飛ぶ, B0 j3 |. j1 c  d+ s8 q
  風光に伝語す 共に流転しつつ0 D6 W; Y, j8 x* [$ e9 F
  暫時相い賞して相い違うこと莫からん     (曲江二首の二)6 a( M3 n% b9 A2 ^/ N- O
 1 r, f1 Y0 p5 g- h  l
 ……日々朝廷から帰れば、春の衣を質草におき、
( i: b4 t9 o2 [3 S4 C  c0 j1 H   曲江のほとりで酔いしれて、帰る。3 x( ]. X. c) Q" v
   酒手の借りなどあたりまえのこと、' s; T5 X  G* H& D% Z& S
   どうせ行く先々にあるものだが、人生はそうながくない。2 t- ]5 x+ T. _9 x) A
   昔から、七十まで生きる人は稀なのだ。
+ ^( Z: x% Y  A3 a$ N0 j   むれ咲く花をぬって飛ぶ蝶は奥ふかくも見え、
8 E5 Z1 P5 Q( v  `5 o% l   トンボは水に尾をふれつつ、ゆるやかに飛びゆく。
1 l- u/ z5 A* S( N, ?# g( _* _   春の風光よ、言伝えてしよう。
# i9 P! e, X0 O- P8 M" H/ D9 ]   わしもおまえも、ともに移ろい流れるもの、- |. L$ q6 S7 p0 i( Z
   この短い一時は、
: E0 A& d& h! S+ m+ o   たがいにだいじにしあい、そむきあうことはよそうよ。……
2 u+ C% b7 _9 K  b9 G  s 
* ~. e/ U7 i2 y9 Q5 I: p5 I 
4 W7 R3 Q( l) t この詩のうち最後の二行には、古来さまざまな解釈があり、また「人# ?4 z2 ?, u3 y" O: ?6 U( k
生七十古来稀なり」というのは、言伝えられた諺だろうともいう。だが. _0 R" x5 {! S
ともかく、この言葉は杜甫によってみごとに定着され、あるときは哀感
6 }9 T2 n6 ?! i6 p# nをこめ、また稀な年に達したのを祝う意味にも使われるようになった。) Z: H& F: \/ U( u- G
七十歳を古稀というのも、ここから出ている。4 p7 e# j$ ?( ^' a2 ?. e/ Z- R8 D( I
 8 r* F7 d7 o4 X8 O
 
3 o# M. p* k* o- b. X# O そして杜甫は……彼にも七十は稀な歳であった。中央に仕えるのも一
8 `2 w- j+ G) G* w- `" o9 Q0 Z年たらずで、地方官に左遷され、その官もやめてふたたび各地をさまよ* _& F- H4 W( U8 @4 R$ M
う。甘粛省の辺境の町から谷あいの町へ、そして猿の残したドングリで
# |1 D( b9 o8 K( ^* R. T飢えをしのいだりする。やがて四川の成都でほぼ三年のあいだ、わりに* y* ?" J7 s( m
幸せな日をおくるが、それも破れて、また流浪の生活がはじまる。大暦; ]+ G! f( `& [
三年春、彼ははるか長安めざして、舟を揚子江にうかべ、最後の旅にの
1 Z1 X8 ^' ~  U* aぼった。だが道はとざされ、舟は水上をさまよいつづけるばかり。大暦
& Q% S- Z# {: ?9 ?" |五年の春に、彼は舟中でうたった。……年老いた目にうつる花は霧をと
3 K( c0 \& g! [9 J4 iおすようにかすむ。あでやかな蝶はたわむれつつ、ひっそりした舟の幔
4 |. v! K5 `' c- V幕をよぎり、おちこちの鴎は、身もかろく早瀬をくだる。雲白く山青い* p% |! J' P& C, d! F
万余里のかなた、その真北にこそ長安があると、わたしは愁いつつなが
( J2 C3 ]0 C; ?  E$ P1 x: Y" M: nめる。……この冬、湘江にうかべた舟の中で杜甫は死んだ。五十九歳。7 w4 ?, c( p2 O. A. h5 Y# E" \( {' \
だが、ながらくの流浪の困難を通じて、彼の詩はただ悲痛というのでは
/ P7 N1 d0 @5 J$ ^  jない、ふしぎな美しさにみがきあげられ、すでに世の流転をこえるもの
& r6 {# Y; V: k2 r# yのようであった。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:34:59 | 显示全部楼层
国士無双

6 m& M' n* S. M) k5 v1 Y' z* G5 @$ k
 秦がほろびて、楚の覇王・項羽と、漢王・劉邦が天下をあらそってい2 {% S& }. h  Y! \% |! |4 D
た頃のことである。楚軍の勢威におされて巴蜀の地に逼塞していた漢軍
0 [& Q5 d+ C$ P" ~) Yのなかに、股くぐりの話で有名な韓信がいた。韓信は、はじめは楚軍に& n: L% }# H" H, j/ U
属していたのであるが、いくら軍略を献策しても項羽が一度もとりあげ3 w$ a) y* S  Z  |* ~; ~) X
なかったので、あいそをつかして逃げだし、漢軍に投じたのだ。まだま
: u4 |- k4 b5 s- Z" [& {5 U# vだ劉邦に知られる機会などなかったが、それでも、フトしたことから部8 l- _, E" e1 a" M9 X- X
将の夏侯嬰に認められ、治粟都尉に推挙された。兵糧を管理するその職& y- Q; M8 w+ _" w( E" O7 Q
務柄から、彼は、さらに丞相の蕭何と知りあいになった。元来、韓信は3 J9 Y6 @/ J  G& [
大望をいだいていて、それにふさわしい英才を秘めていたのであるが、
6 |. w$ F% x5 x( C) d5 Cさすがに蕭何はそれを見ぬいて、ひそかに期待をよせていた。' c" w. S  y3 z, s2 V. h# H
 * m0 O% r" ]# ]  R4 B1 E/ b, e
 そのころ、関東各地から劉邦にしたがってきた部将のうちには、やみ2 l; E! Y' \7 c4 e9 @* z
がたい望郷の念にかられて逃亡するものが相当あった。当然、軍中に動7 t% V' X4 [  i
揺のいろが見えはじめた。あいつぐ逃亡兵にまじって、韓信も逃げだし
/ H) d1 f7 z0 Gた。おのれの英才に自負するところの大きかった彼は、治粟都尉ぐらい# H7 S5 E! \" A% x
ではとても満足できなかったのだ。韓信逃亡の報せがつたわると、蕭何
+ r3 e4 _1 y# y, {) }は急遽あとを追った。それが異常なまでに急であったので、蕭何も逃げ
5 Q% W- B2 j' r. K3 ]たと早合点したものがあって、劉邦にその由が報ぜられた。劉邦は左右
9 {; \6 |+ j: ^& ]; K& Pの手をうしなったように落胆し、怒りもまた大きかった。ところが、二
& B% N  K3 E/ n5 W: i! i- X$ v! w' Z日ばかりたって、蕭何がヒョッコリ帰ってきた。その顔を見て、劉邦は
/ j8 l$ y! G7 {& C; I1 ?) N$ L6 D5 W/ ?, n怒りかつ喜んだ。. |% x% c5 j1 h5 Z3 c
 
, H; j' M! F5 L8 [- z" S 
! U9 q; S5 P5 t& W* l4 d9 k& z4 F 「丞相ともあろうものがどうして逃亡したのだ?」' r/ e+ v+ c! o7 K
 1 y# k9 o# Y" P0 V7 n- U
 「逃亡したのではありません、逃げたものを追いかけたのです。」
- K9 K, I* @0 L7 b! w' F4 u 
$ h; c( K$ A( @. l! {% @ 「誰を?」" t- T! W! |9 b9 ?) D
 
- x( I6 @5 |, _( R 「韓信です。」
2 d5 n# w2 v: d 
0 V" W- O( X! Z 「なに、韓信?: c7 r; g/ b  A7 A1 g6 r
  いままでに、諸将の逃亡したものは十をもって数える状態だ。1 m, a5 W0 o- [/ C6 V
  卿は、そのうちの一人だって追いかけたことがあるか?
2 I& q  }! ?6 ?7 D0 D1 a) m  それなのに、名もない韓信にかぎって追ったとは、嘘であろう?」
7 g: g5 B5 ^7 R7 J : S9 ?) n) @5 F' V* x5 \/ \
 「いままでに逃亡した将軍ぐらいの人物でしたら、# D6 F3 M6 k& l9 V
  いくらでも見つけ出せます。% T% \+ A- u  {5 ~& ]3 Z1 H( `
  主公は、名もない韓信とおおせられますが、) e/ d. C& F8 g+ [5 I) m5 p
  それは韓信を御存じないからです。
/ p* ]5 t, ]% g+ P' u  韓信はじつに国士無双と称すべき人物です。2 @" i  d: y6 ~) k7 U
  主公が、この巴蜀の地だけを領有して満足なさるのでしたら、. T+ N/ Z( Y8 i1 f9 Q% G1 C9 [
  韓信という人物は必要ありません。
6 n/ ^1 N7 \! {0 a  もし、東方に進出して天下をあらそうことを望まれるのでしたら、, l, ^' i3 ?# E6 N$ \1 N) Q
  韓信をのぞいて、とても軍略を計るものはございません。
( t: F- A/ P, v/ B# i% I/ B# v9 ^) s  韓信が必要か否かは、
1 ^# \4 b* n  t/ G1 M1 h  主公が天下を望まれるか否かによって決ることです。」
, t$ p3 n6 H! w# s. v$ Y% ` " u8 S3 o0 r. A6 k( k" j  n2 }
 「もちろん、自分は天下を目標にしている。
9 o8 U  \& J1 S- c- {& {  この地に朽ちはてる気持は、さらさらない。」4 m' x' x# j- m( h2 u
 
! @, o$ T+ [+ Y 「それでしたら、韓信を活用するよう御決意ください。. ?, B& t" D- S! I
  活用さえすれば、韓信はかならずとどまります。」+ r! @/ B* _  X" y. [7 x2 W
 & L1 l! R% ]2 S
 「よろしい。自分は韓信という人物を知らないが、
* p) j: x% z" g# k4 E  卿がそれほどまでに推挙するなら、
2 F! q, e2 V, z, T! u! a# l6 h  卿のために韓信を将軍に任じよう。」! v' g. m7 C, P% E
 
. p, T; U+ o3 d; Q( L- G! p9 n 「いいえ、その程度では、まだ活用することになりません。」
& t1 N0 B7 P+ C 3 H+ i3 u' M/ x- \, r
 「よし、それでは大将軍に任じよう。」
9 g" K4 T4 d) A 
% b9 Y3 o6 K9 l0 P こうして、韓信は漢の大将軍になった。いよいよ英才をふるうべきス
$ J7 b3 @1 |$ Y# r+ o; R+ X, z+ fタートに立ったのである。ときに漢王の元年のことであった。: ?- k8 O& g* b9 ]' z  f+ H
 
% v' l7 K% \) n5 B( m) B$ W/ c 
# d. J6 i" S; u# ^ この話は、「史記」の「淮陰侯列伝」にある。. j& h) E: n! }6 d; n. }
 国士無双とは、一国中に二人といないすぐれた士という意味である。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:35:46 | 显示全部楼层
虎穴に入らずんば虎子を得ず

$ b( \- q' {: E$ Y8 I
4 T  F2 l( w! m: V, r9 {: @ 「漢書」を顕したのは後漢のはじめの班彪・班固・班昭の父子である. x5 q4 _  E. ]. p6 L
が、彪を父にもち、固と昭を兄妹とする班超は、この一家ではいささか
- y+ S! A2 S) P& Q1 k  H6 U, [: i毛色の変った存在だった。なかなか勇壮活溌な生れつきで、およそ系統! U' N7 w' X, z' r; i9 M8 q: Q
だった学問とは縁がなさそうにおもわれるのに、いざとなると意外に弁
+ G! q* ?/ n. O4 f" @$ ~舌がたつし、書物もたくさん読んでいる。もともと清貧をもって聞えた
1 e7 o1 f+ Q0 u: q9 c* H- a3 L家柄のうえに、厖大な資料集めに家産を傾けてしまっていたから、班超
/ R5 W% w. j  Q. J+ w! I) Vもこと志とちがい、退屈な役所勤めをしてどうにか口すぎをしていた。
9 q1 @: |) ]" M* g( @ 
* R# t' g# D" ~6 O8 v+ ^ そして時に、
: K9 \$ |, k% x+ c4 P- ] 
( E% X; O: F. K; z 「男と生れたからには、傅介子・張騫のように、# U$ j( O7 q/ G- m4 j' G
  手柄を西域でたてたいものですね。
% _7 H9 f/ S/ F) W  それで大名にとりたてられれば、わが志なれり。/ k1 R- |/ H  z: \" T
  いつまでもこんなつまらない事務なんか執っていられますか。」( F+ V0 `$ o- ]+ M- I' n2 r- J
 8 p# e1 `  E# A9 p3 i1 _* C2 S
 というような、平凡な事務屋の度肝を抜くような大きなことを言うの
: z' S8 ^: a0 Q  q& Z5 s& ~  Yだった。こんな調子だから、小役人など尋常に勤めあげられようはずが
. V& M& Y' L: ]# a; Mない。ついに事に坐して免職されている。浪人生活に入ってからは、西; L" q: ?( P; z: g2 u7 T& l2 y$ u) `
域往来の商人や、気概を尊ぶ遊侠の士と交わり、静かに機会のくるのを$ R# W* g# @3 M$ ?- @7 M( v
待っていた。& M$ ?! ^( G+ _2 u( [+ w5 e0 i
 # Z/ T2 t+ ]7 V# N; K% v& v
 その知識と能力を見出されて、はじめて西域に武名をとどろかしたの
7 Z3 N0 h5 y4 V* a9 z' L4 `9 E( Iは四十に手のとどく頃だったが、それからの班超の西域経綸ほど、華々0 h$ T% Q, m5 K9 d& o
しいものはない。彼の往くところ、どんな困難にぶつかっても、おのず
1 a. P+ Q# e0 N; c9 T2 lから道が開けるかのようだった。4 `- F" @4 A8 w3 S/ B7 H: g* D
 
0 b+ |% C9 |* M1 f 
' e, O8 r! m# g3 u) O9 r, X 例えば、天山南路と天山北路の分れ道に当る、本土に一番近いオアシ, Y& T* u1 b# i/ s
ス国ゼン善で示した、あらゆる緊急の事態への対応ぶりにうかがわれる. {$ {; x3 f7 e# C* q% s
ように。――; b# ?9 {, R/ S
 
# [5 m, m: `& E2 g) @' r" ~) b 最初のうちゼン善から手厚い待遇をうけた班超の一行は、或る日手を9 A' K, m2 Y0 ~5 u2 J' w
翻すように悪くなった彼らの扱いを、どう解していいのかわからなかっ- M3 @* R, [) X
た。給仕女に至るまで、眼の青い美姫から中年の山だしに変っているで
& m1 ~+ T% D# ^+ G; fはないか。一同ただあっけにとられてぶつぶつ不平を並べているばかり
9 e) W; O3 }1 L( `8 u" Fだったが、超ははたと膝を叩いて、: ^! F' M: e. @" ?' x
 6 p4 y0 J8 ]: M8 [( R: U* D- H9 H$ v
 「我々には秘しているが、さては、匈奴の使者が着たに相違ない!」' c4 Z9 L- T5 [) u& D
 
* X/ T9 [2 y3 h- d さっそく、王城へ壮士の一人を走らせ、王の信任厚い侍従を呼びよせ
9 D, d6 n/ f  tると、
' L' P2 j' B' j) {7 L) ^ 
2 Q; |1 N- W& a1 _3 _4 ` 「匈奴の使者はどこにいる?」5 g: y! Z* r0 o$ p! S* R
 3 E8 F2 E3 n' C9 r  j/ B" c
 鎌をかけて訊きだしておいて、奥の間に押込んでしまう。そして、三5 e6 H2 W2 u0 F1 O5 j, C
十六人の壮士をことごとく大広間に集め、上等の肴はないが、まずは盛
6 Q) d  z0 }8 M4 s$ U- F8 T$ O6 i大な宴を張ったのだ。ここであらたに匈奴の使者が到着し、王が彼らに
  G, @  Y8 U) l/ {誼を通じている事実を告げて、! E% W' H4 q  {) e9 K: v# S
 , a4 x: C) n/ A) x. A# X7 @) [' U
 「それからのわれわれに対する冷遇は諸君承知のとおり。8 ~2 y- R# D1 ]/ W( k/ W+ O
  手を拱ぬいてこのままゼン善の術中におりいり、9 ~6 r! z5 C* w
  匈奴の国におくられ、狼の餌食などになっていられようか。
0 ]0 h0 E9 {* a, R  意見のある者は誰でもいい、遠慮なく言ってみよ。」/ @: J' ~# {( X4 |/ x" _/ y; i
 
8 E* [" K) i' [8 _ 一座の重苦しい沈黙を破って頭だった者が一人にじり出て、
+ n5 |  ?4 X& w$ { ) L( h) p9 Q% @- ^) a5 [7 ~
 「もともと命はあずけてある、お役に立つならどんなことでも。」
6 a/ ~! o# a+ R- D  I 
# ?; E7 \8 X3 v( Z' C 班超はずいっと睨みまわし、
, |# A. Y0 A2 h6 Q- O! X) `) R" V 
; b4 L9 e' I# H+ K3 ]: u 「虎穴に入らずんば虎子を得ず、) P. F- c3 }. K2 ]9 ^! L4 {3 @
  匈奴の宿舎に火を放って夜襲を仕掛けよう。/ A- |3 l- b; H0 G: `: d. v6 z
  味方がわずか三十六人の無勢とは夢おもわない奴らは、" b, [/ j+ L& I: p: X0 h! D: N0 ~6 _
  上を下への大騒ぎとなろう。」
/ l3 c. ~. ]$ P/ ] 
4 d6 l# H1 X) T2 c* n; k4 G1 u- D2 U 言葉に応じて、てんでに獲物をひっ掴んだ命知らずどもは、闇のなか
' U6 ^. M; z3 j9 qへ消えて行く。折から吹きつのる風に仱袱啤⒐膜虺证盲渴摔斉hの2 e7 i6 z, m, D. G; D- O
うしろへ隠れれば、あとの者は門の両脇に伏せる。火があがると同時に( k: f% G: P$ o. l6 s  U4 h
鼓を鳴らし簸紊颏ⅳ病⑹钉螖长蚪詺ⅳ筏摔筏郡韦坤盲俊%讥笊皮琝
6 a! l. a  B" `! z屈伏したのは、いうまでもない。
2 `1 y7 @! C: N, J- g/ I, K                        (「後漢書」班超伝)
+ B8 L: i+ A9 {' C7 B, W3 T& u4 V- h3 d 
. {. F: f0 L/ s  q% j) N4 x 
, G# M& Z; |& x# V* ` 5 V; X4 S7 M8 H3 m0 F6 m! x( j$ @
 
7 ^1 A1 j+ x* T傅介子(漢の昭帝の時、西域鎮圧に功を立てた人物)- g: f) B+ e, E" ]) i( H* f" N
張騫(漢の武帝の時、匈奴の勢力を駆逐して西域諸国を服属させた人物)
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:36:58 | 显示全部楼层
鶏群の一鶴

+ P6 x7 P/ E. w) Y9 L# I3 m8 M' m- R# J8 C( v8 s
「鶴立鶏群」というのも同じ意味で、腥摔瑜辘踏螭扦皮い毪长取3 G4 r1 T' c% M: b8 L$ T. B& |  L  Q
多くの凡人の中に一人の傑出した人物がまじっていることにたとえられ$ u9 @; m+ l2 n) w  Z9 K2 J) A
る。俗にくだけて、「はきだめの鶴」などといったりする。「晉書」の& W; G8 _; W4 v! q0 q
「ケイ紹伝」から引いた言葉である。* h, ^  Q& e' K! \) J
 ! {6 N8 E6 h, q  b$ t
 ケイ紹は字は延祖といい、竹林の七賢の一人で有名な魏の中散大夫・! c" O, p0 v8 u. F6 I
ケイ康、字は叔夜の子である。
. S6 M9 o- C1 |6 _# k5 k4 Q ' e; G1 f* N* r, w2 d4 L$ z: F
 紹は十歳の時に父が無実の罪で刑場の露と消えて以来、母を守って謹
% j# P& A: ^1 I+ x2 \慎していたのであったが、亡父の親友である七賢の一人山濤$ w  O' @. R5 @
 6 [+ {# }+ N* W4 L. C; F
――ケイ康は、紹に向かって、山濤おじさんがいるから、おまえはみな3 R: W. e$ Z' @" B: x: D
しごなんかじゃないんだよ、と言いおいて死んだのである。――
. o8 y: m( t% i: \/ Q 
& x. \3 h8 ]! r5 ?* l' z- d0 h4 Tが当時吏部にいて、武帝に、9 n4 X+ m+ S. J: l
 9 [6 o, \5 y( _0 @# ]! ]; I' R
 「康誥(「書経」の篇名)に父子は罪はたがいに及ばないとあります。, b# A7 y( f. u9 |0 Y0 y+ _5 E" y
  ケイ紹はケイ康の子ではありますが、
6 Q6 |& g6 z+ b& l" X  賢さといったら、春秋の晉の大夫の郤欠にまさるとも劣りません。: }) h3 F+ v: P8 L
  どうか思召しを加えて秘書朗になさいますよう。」' z1 Z0 K$ ]! x1 I+ I7 b
 $ ?- |* u) i% w7 g3 m% {
 と言上したところ、帝は、+ M+ V& Q0 r% d  @/ P2 `9 @- G
 7 Z2 z* }" g( S- A& G; J; [
 「卿が言うような人だったら、丞でも大丈夫だろう。
+ P4 n# o! [- ^" {/ _  朗でなけりゃならんことはない。」
) i, m% b5 E; R! h$ v4 @! y ( E# w# }! w) M0 N: H" D9 i
 といって、秘書朗より一つ上の秘書丞で官途に入ったのであった。
/ i* k. ^0 P* f( h 
2 J4 Z7 F! T  p# @% q' O' a/ D 8 v0 H/ k' {1 J# C. K
 紹がはじめて洛陽に入ったばかりの頃、ある人が七賢の一人王戎に、
1 Z5 H  O4 g% p. P1 x+ _' N! Z 
9 q6 Q+ |/ ?! R  I+ H8 r 「昨日、人ごみの中ではじめてケイ紹を見たんですが、
( z  ~, {' W+ B5 p/ S! i2 K. N7 u3 Q  意気高らかにさっそうとしていて、
2 i' R) ~. [; D7 W4 e* q  独立不羈の野の鶴が鶏の群におり立ったみたいですね。」
/ D3 d' ^+ N' O8 ?3 `' M8 J- b9 B* J$ G4 f (昂々然として、野鶴の鶏群に在るが如し。)% x3 B; ~, ^0 }3 A2 r- d
 - w& u# g3 a; G5 p6 w6 V8 n! j
 というと、王戎は、: M# L& N- \5 R1 s/ [
 
; }: c: c' @# D6 V- ] 「君はそもそもあれのおやじを見たことがないだけのことさ。」
5 _  s( e1 B/ M& N , M6 V; f1 W) J. }4 n3 h  z
 と言ったのである。ここから、「鶏群の一鶴」という言葉が出た。そ
+ `  H2 P: C. |+ y# r! pれはともかく、これで見ると、やはり父親ほどの器量はなかったのかも
7 p% j  v8 e) ~; Oしれないが、やがて汝陰の太守になり、尚書左僕射をしていた裴キも大
1 V4 J+ H2 w- n  N2 E0 Z' r+ {  r, Zそう紹をだいじにして、7 R- h2 D- q, c3 u
 
4 x6 l$ n% k5 O$ J- V' A" g 「延祖を吏部の尚書にしたならば、( b. {6 k/ J5 T7 V( k% K, ^
  天下に取り遺される英才はなくなろうものを。」) t$ P; J& v3 h9 E
 7 B6 m6 T/ p! I% r2 K3 n# \; I
 と、いつも口にするのだった。
8 ]+ X# U2 o! \3 v' U, G4 f ' O& \; ?# g4 J/ c/ t8 i: F
 紹はそのため、散騎常侍から侍中となり、恵帝のかたわらにあって直2 b4 E9 j. E4 b  ?
言をたてまつっていたのである。* k) W) Z  }; s% L* O$ c" [
 ; }3 I3 K5 z9 U- @: @
 / w5 c2 _" q- T$ a3 l" e
 斉王冏が勢威を振っていた頃、紹が相談することがあって王のもとに
& l; ^) U% O! r4 I) {6 B出かけると、王は二・三のものと宴会をしているところで、その者たち. o- ^+ s7 i) F. j! |
が、ケイ侍中は糸竹に御堪能だからといって、琴を持ってこさせて、王, Z; H+ i( M6 A2 v: z4 T- v+ I$ _
が紹に弾じてくれと頼んだ。すると紹は、王に向かって、
/ O% O$ w7 X( E1 W( q( o 
( f$ V; _  a3 B 「あなたは国家を立て直し、
/ k) k- p& c) K, A9 E  肖文9牑摔胜椁胜堡欷肖胜椁胜い饯扦悉ⅳ辘蓼护螭
: ?$ g1 w* c% r; I, K  称も拙いながらも天子のおそばにかしずき
& E+ O+ g* }' G' D/ x) S' d  朝服を帯びて宮中にいる者です。' [! ?" ~/ b- m8 w6 i
  糸竹を手にして伶人のまねができるものですか。+ Z: ~% F2 p  e* s+ k" f
  平服を着て私的な宴席ででもあったら、
( {+ I0 u7 Y! W& X/ {) m  お断りしようとはしません。」
7 O1 Z# y) o* `9 V5 v% J0 L % }- [) B3 H$ O! V, @0 q
 といって恥じいらせたこともあった。
3 b  H% \+ k3 s/ ?8 m + q7 n2 A1 y; q1 E
 ) S& G, C# v+ a
 永興元年、八王の乱たけなわの時であった。帝は河間王ギョウを討と
1 M0 ?( R5 {, k/ f; ]6 \うとして兵をあげたが、利あらず蒙塵し、紹が詔をうけて行在所へかけ8 K6 q7 `& h2 U1 c3 S5 g
つけたのは、帝の軍が蕩陰で敗れたときだった。紹は百官侍衛ことごと( @; }" T6 k: G- h6 ^# |
く逃げさったあと、ひとり冠を正し、兵刃が御車の前に火花をちらす中- s" B9 u: S& E# \  f# _( @3 M
を身をもって帝を守り、ついに雨ととびくる矢を被って帝の側に倒れ、$ M# m5 ]9 L5 q, j+ \+ W
鮮血は御衣にそそいだのだった。
7 ]/ T* G( W# o7 R1 z* k* ^4 \' }   l; ^; b* \, U/ U' Y
 帝は深く哀れんでいて、事件が落着してから近侍たちが衣を洗おうと
" g$ q0 p# `! x( E) I8 yすると、) _4 [4 K& r% T. x
 % \( ], Q7 c. O4 M1 v6 H3 k2 U' O: {# r
 「これはケイ侍中の忠義の血である。洗い落としてはならぬ。」
/ G3 V- f5 W; C) P8 u) u0 B: l 
' L4 `% A/ `! W+ D( c# h といって洗わせなかった。
- F. t) {7 E6 Z, d  l9 ~* k* E+ m' a 5 R9 v3 V7 v' Z9 c" t
 , B  @# N. I8 G* k" k: D
 はじめケイ紹が出発しようとしたとき、同じ侍中の秦準が、/ w" x, s4 m! |% k: |4 ]* p
 
) G, X* y/ u& e+ `- {! t  l* d2 r: K 「こんどの大難に向かわれるのに佳い馬をお持ちかな?」
* g) q1 E# j; u. q: v+ I # [# I+ e7 E7 j1 c
 とたずねたので、紹はきっとなって、5 ~( U7 Q& X0 \
 . u3 K( V( {& c) Y$ k
 「陛下の御親征は正をもって逆を伐つのであるから、2 {$ r/ x9 {6 |" [! e
  あくまでも征であって戦いというべきものではない。4 c( h, o4 {( A; ^$ j% b, y
  御身まわりの警護を失敗したとすれば臣節がどこにあるものかね。  i: L. Y7 m- a! C: O1 M9 W1 `$ k# |
  駿馬がなんになるもんか。」
! n; M3 K3 R( ^, A; F% T3 Y 
5 F% e/ {! b8 F と言った。それを耳にした者は嘆息しない者はなかったのであった。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:37:24 | 显示全部楼层
傾 国

# \! `* r& K+ ?7 e$ `6 @; m
; @; X3 i! z& x 漢の武帝に仕える歌手に、李延年という者がいた。音楽的な才能が豊
+ P& a% c7 G( k, k" fかで、歌も踊りもうまく、新曲を作ったり編曲したりするたびに、人々
6 I: [9 b1 x; G0 v. `) Yを感動させたので、武帝のお気に入りになっていた。ある時、彼は武帝+ t* ^) i' r" m3 B/ |$ X/ U
の御前で舞ながら唱った。
( s! X8 O/ @- D 0 H2 u; K5 n5 Q6 `
  北方に佳人あり、& g, u, U9 L7 N
  世に絶して独り立つ。
0 K7 V4 `8 K, C) X# s  一顧すれば人をして城を傾けしめ、
. C6 o. m( u  r  再顧すれば人をして国を傾けしむ。9 a& N% g; E' P" T& T# ~5 P3 \, p
  寧んぞ傾城と傾国とを知らざらんや、
7 D5 a+ Y3 ]/ p. @! p  佳人はふたたびは得がたし。/ M2 \8 n1 x0 |1 q9 T; P8 R4 h1 K6 B
 ! l* _4 g! Q% w  q# T6 a. a/ G' a
        (北の方に麗しの人、
' q$ `/ D: k  P         世にならびなくただひとり。  c' F6 D( J2 p+ f% p0 l6 H6 ^
         そのひと目には城もなく、
5 ]+ u& @7 l! d; _, c         ふた目に国も傾けん。
' W. C: \( D. G4 ~/ H         城や国を忘れしにあらねど、
8 V: W/ v( q( D& d: G0 t, d         またと佳き人ありと覚えず。)
- z, l& [  m1 a, o! k3 ?  { " b4 H: f% W: z5 [/ Z7 m
 武帝は歌をきき終わると、ため息をついて言った。* X5 m9 `* m8 l& ~
 . e+ a0 Q$ O' O% {0 b* Q: j3 ^2 z
 「ああ、この世に、そのような女がいるだろうか!」: N: e* M) l# D% j
 ( i6 s2 i1 I* x# h5 O% `
 「延年にはね、妹がいるのですよ。」
/ Y- n8 x8 A( ` / h9 x' I- h) K
 武帝の姉の平陽公主が耳もとでささやいた。  J1 {5 c! y3 t# I
 
# p9 i( v9 z8 _  h2 j6 `% ]3 Q- c' B 6 h9 O) f' m1 Y! x2 }
 武帝はさっそく延年の妹を召し入れた。彼女はこよなくあでやかで、# W5 \# i& x6 }! |, ?
舞が上手であった。武帝はたちまち、彼女のとりこになってしまった。! m* A6 l+ }7 s9 c5 {+ n8 A
 " S# u7 m* r: ]7 g
 
, n8 f( y3 l& X) L2 I  s% ] これは、「漢書」に記されている、武帝の晩年の寵を一身にあつめ、! ?5 V8 j" J/ D; q9 O
若くしてこの世を去り、帝をして追慕の情を禁ぜしめなかった、李夫人
# n: c5 \; ~: F& Q9 x. V+ J$ jの伝の一部である。; D: U4 R8 Y8 B- E8 ~' o% @
 
/ u1 p0 K- q4 w$ v$ ^7 j5 m# T 
) u0 l6 m: |( c1 y 「傾国」という文句を使った例は非常に多く、李白の「楽府清平調」
; c; d5 m0 i5 D! eに「名花傾国両つながら相歓ぶ」(名花の牡丹と傾国の美人とは、とも+ Q/ w3 V! Z5 w) B
に愛すべきものだ)というのがあり、白居易(楽天)の「長恨歌」の出だ
4 N: v) H$ o+ N, mしには「漢皇色を重んじ傾国を思う」である。' H6 u" v$ S: f+ ?' a
 . ?) v  v; I. Y3 e2 D% ^
 5 @; g4 ]; D4 [2 o) t( _% ^
 「傾国」の元来の意味は「国を危うくする」であり、「史記」の「項7 b/ [! r6 g8 O, J6 v
羽本紀」に高祖が項羽に父母や妻子をとりこにされて困っていたのを、
% E( M4 Q$ V2 b# N1 l) V8 B' i+ j( y侯公がその弁舌でとり返した時、高祖の言葉として、「これ天下の弁士) y1 L+ k2 V/ D( L5 d( L
なり。居るところ、国を傾く」(彼のいるところは、その弁舌で国を傾
4 B  k! [/ T0 i, mけることもできる)とあるのは本来の意味であり、李延年の歌も「傾国」
, q# L9 [0 A- d) q! r自体に美人の意をもたせてあるわけではないが、李白・白居易の詩では2 a: @, [, E7 X2 p- q7 O/ K5 |- I
完全に美人の意味に使われている。なお「傾城」も、「一顧すれば人を
6 h9 {* q! I) W. d% M+ kして城を傾けしめ」から出たものである。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:37:49 | 显示全部楼层
鶏鳴狗盗
' C5 Z: [% A: g2 c& V) y" ]( X

: H( z; h  C* W; @  M「芸は身を助く」という諺があるけれど、これは「芸」が「身」ばか
) d$ E# z$ v' w" a3 t! p8 c  xりでない、その主君・朋輩の危険まで救ったという話。またもうひとつ
. Y$ c2 I8 J4 `/ V2 w4 J' Qひねくっていえば「馬鹿と包丁は使いようできれる」、下らん人間がひ4 q3 n: }: c9 [: x+ Z; ]
ょんなことで、とんでもない役に立ったという話と解してもらってもよ; t/ y& v1 W. o  W7 @& k, w% f
い。% x) b& m; R, b; U
 - Y* }% C1 m6 f; c" F
 
% x* s# S+ A# A# N) z さてその話というのは――
/ f4 t# k$ a  q  ~0 r+ Y2 C! q 
5 f* O8 F2 m  l2 g そのむかし秦・楚・斉・燕・韓・魏・趙と列国の抗争華やかなりし戦* J& Y5 T2 ]+ t5 `) f. L( p# j, C
国時代も早やなかばをすぎた頃のことである。斉の王族のひとりで、薛
, t4 n1 s$ [7 n; d$ U. n8 m. dの地に封ぜられた靖郭君田嬰の子供に孟嘗君田文という人がいた。田嬰
5 l3 C  n; r1 T$ a2 Nには四十余人の子供があり、田文は身分の低い妾の生れ。しかも当時の6 P9 g& F; Z, J% `, w* J9 p
俗説では「五月五日に生れた子供は父母に仇をする」といわれた五月五! O- E  v0 ~2 \, k
日の生れで、父からもはじめはいい顔をされなかったが、実は中々の才' S5 K/ r0 g4 v/ N3 E' ^; `9 p
物で、やがて父の後を継いで薛の城主になると、善政おさおさ怠りなく/ P5 J  j3 t9 ~* a: b6 B! E1 J
、ことに莫大な財産を惜しみなく投じて、幕下に天下の人材を集めにか8 u6 J1 {0 u0 H3 W
かったので、一時孟嘗君のもとに身をよせた食客は何千という数であっ7 q1 X- j" L6 w' k
たといわれる。食客の面々いずれもわれこそはと自信たっぷりな天下の
# l2 a6 `+ t" L! v; M3 Z1 e豪傑どもだが、中にはこの話の主人公のように狗盗(こそ泥)の名人や、" \% B/ N5 m4 K. V
猫八まがいの声色屋で、朋輩連中から白い眼で見られる男もまじってい5 f9 O$ Q" G4 H! M/ O2 v) I
た。1 |& W$ N/ ~; J* D: G# h
 
8 f0 V7 y3 B$ Z' _( T8 u 
5 R* E) U& j. S" O: t' ]5 R そのうちに孟嘗君の人物名声を聞き知った秦の昭襄王が、孟嘗君を自! i! E9 \1 B) D, F  J" J, |/ S: h
国の宰相に招聘したいと申し出る。孟嘗君は周囲の人の反対もあって一3 o5 w5 v; x( U5 E5 c
時は行き渋ったが、自分が秦の宰相になるのは母国斉の為にもなる事と
( \/ q2 G/ H+ y" y% U$ t覚悟を決め、えりすぐった食客の何人かを引きつれて秦の国に赴き、高
& j( n; O5 `; E. G価な狐白裘(狐の白い脇毛の皮衣)を手土産にして昭襄王に目通りした。2 T1 m4 E- v1 {: L( [  x, V
王は約束に従って宰相に任命するつもりでいたが、* M3 q% o: G& L' R& j; _
 3 a# m" k( u  r4 a* n
 「斉の王族の血筋の者を宰相にするのは秦の不為。」
# e, y, m7 K6 Y! B0 r 
. r- C; y, r: C という反対が出て約束は一時とりやめ、そうかといって孟嘗君をこの! H! S, W- S9 ]$ _- q1 L
まま帰せば、王の仕打ちに怨みを含んで秦に仇するは必定というので、  l6 K! P# _% i+ b8 I0 [# z' I
よりより孟嘗君を闇に葬る計画が持ちあがってきた。5 v$ {4 ?  L5 i# C+ J& \: J# d, @
 0 j  x- M' @' `- i5 Z; g
 その計画を察した孟嘗君は、頭を絞ったあげく、王の寵姫に泣きつい
$ y* c7 q5 T6 q& V6 eて帰国のとりなしを願いでると、( [- e0 _4 C( V/ P9 k
 2 c( @  K9 Z/ U- N4 {6 |/ f
 「とりなしてあげてもいいけど、
' t( N- B& k6 q' r/ \  お礼は王様へのお土産と同じような狐白裘でなければ嫌。」4 u5 g$ B: e6 [2 f- e
 . u  }' L/ Q3 s" a% b
 という無理難題。孟嘗君にしてみれば高価な狐白裘をそうたやすく二
' w+ ?& j) m: G8 \) \% P& F% \# Z枚も手にいれるあてはないので閉口していると、それをきいた食客の中
4 N( r$ P& K% `; Lからのこのこまかり出たのが、あの狗盗を売り物の男。見事に秦王の宮
! @8 j; R: {0 I; U  H中に忍びこんで献上した狐白裘を盗み出してきた。そうとは知らぬ寵姫
: o9 U, Q$ z3 q' z! eは大喜びでそれを受けとり、昭襄王を口説いて孟嘗君の帰国を承知させ
7 W. v8 g7 v8 L6 Jてしまった。
  Z% o% _3 m9 B- [: v% b 4 w% Z9 _/ H' M% x2 u# p) B7 c/ c
 孟嘗君の一行は、愚図愚図していればまた危険と、即日秦都咸陽を脱, F" j/ f* ^5 `# b
出して国境の函谷関へ向かう。一方、昭襄王は孟嘗君の帰国を許したこ2 ?% H7 ^$ T; U: r6 r( K
とに後悔のほぞをかんで、追手の兵を差しむける。4 P/ P! K( [- q! ?. `0 w$ F
 
% [  m+ K3 W+ V( ^ 孟嘗君の一行が函谷関についたのは、まだ夜明け前。この国の掟で関; w/ p# Q1 {, R
の門は一番鶏が鳴くまでは開けられない。愚図愚図していれば追手に追. n6 T* ]1 S; k: B
いつかれる。一行が青息吐息でいると、こんどは食客の中から別の男が5 c) t6 p6 @4 A1 D' O8 \# }
のこのことまかり出た。あの猫八まがいの声色屋である。自信ありげな
+ K* }) B9 A- Q1 S0 H( A男の姿がすたすたと暗闇の中に消えたかと思うと、まだ夜明けには間が
1 R7 f% G- z, Z6 O- L1 b$ a( Gあるというのに、なんと爽やかな一番鶏の鳴き声。それにさそわれてか
  C0 O$ d0 _' Pほかの鶏までがいっせいにときをつくる。ねぼけまなこの関門の番卒た+ }* x) v" D" V- Y3 o. ]( O! R6 V
ちが、なかばいぶかしげに大門の扉をあけるのを待ちかまえて一行は難9 R* b8 c) q, i0 ~  Q5 D' U/ N
なくそこを通りこし、あとは馬に一鞭、闇に紛れて脱出に成功した。
. F3 B4 _) z  v7 F' T4 V/ ?6 p5 e" h2 O 
; V+ L5 \7 T1 F0 T5 _ 昭襄王の追手が関についたのは、そのわずかに後の事だったという。
9 I# B/ e$ ?& v# X+ z2 i ' Y+ E. N4 w" o8 ?2 Q7 U2 v
 
- ~0 K; X' u0 J  A  o, c6 w! q清少納言の、「夜をこめてとりの空音ははかるともよに逢坂の関はゆる
3 c; |( k6 v5 @  Eさじ」はこの「鶏鳴」の故事を引いたものである。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:38:55 | 显示全部楼层
鶏 肋

  Y3 o2 r! I/ ^/ K/ |+ g1 a6 F" T# G  g! H- v; A" m, a. n
「三国演義」で名高い三国の鼎立時代が現出する一年前、すなわち後
& X. e0 w. j) w) \0 u3 b! M. t漢の献帝の建安二十四年のことである。「脾肉の嘆」を発した甲斐あっ
9 x7 L4 W7 q' F9 O1 Bて益州(四川)を領有した劉備は、漢中を平らげたのち、劉備討滅の軍を
4 X( x! k0 N" F6 jすすめた魏の曹操を迎え討ち、歴史的な漢中争奪戦をはじめていた。$ G! M+ w3 M+ i& c( h
 
) p; r8 w: y' ^$ Q2 L 戦いは数ヵ月に及んだ。劉備の兵站は、後方根拠地の諸葛亮が確保し
/ A6 @) h* W* hたのに反し、曹操は兵站をかき乱され、逃亡兵が続出、進むことも、守. b& s1 e; v  U& Z& n
り抜くこともできず、ジレンマに陥った。- J5 r: N4 y, @) O
 
8 T/ J4 C. n' f- }; n" y そこで、曹操は「鶏肋」という命令を発した。さて、何のことやら、
7 G# e: H: p, D, H部下たちは狐につままれたようであった。
- I* x7 O" ^1 z& ?" W 
! ?. x  i0 C7 o8 u ところが、曹操の軍には楊修という隠語を解くことの巧みな主簿がい
: J( `7 z/ w  u- [0 Tた。かつて江南へいった時、曹操と碑字の隠語の解き比べをしたことが
0 y7 j. `+ p8 `, H9 }5 @+ vあった。そのとき、楊修はすぐ解いたが、曹操は三十支里歩いたのちよ
0 H* f7 E, a6 }うやく解いて、「自分の才はおまえの才に及ばぬこと三十里だ」と嘆じ" j- N$ }; |, n  \# n
たという。弘農の人で、字を徳祖といい、はじめ考廉に挙げられ、朗中  d6 K: f/ H! m
を経て主簿になった学問好きの俊才であった。5 {3 n! p4 i" F- M6 b$ n! O4 o5 m
 ; a; A* x2 j& d. C5 w- y/ ]& e
 さて、楊修は、曹操のこの命令をきくと、ひとりでそそくさと首都長+ i1 |# E* E( u% v6 [9 E
安へ帰還する身支度をはじめたのである。みなが驚いて、そのわけをき& k: \, x5 O9 @4 [9 f
くと、楊修はこう答えた。
$ i( G) {8 Y: T6 V: w2 k + i( F" |! y0 ^9 J8 K
 「鶏の肋は、食うとなると、食えるところはないし、( n( r% A! R8 g$ o
  さりとて、棄ててしまうのは惜しいようだが、
# i* @1 M4 X( o' ~  漢中をこれになぞらえたので王は帰還することに決めたのさ。」& G6 Q) ^0 G% r# t% r8 w
 
% J4 B# `' X6 y. w9 Y% u 果たして、曹操は魏の全軍を漢中から撤収した。(「後漢書」楊修伝)
% |4 e5 O( M3 K 8 m4 s5 w4 W" S! b  Q; D. L+ f! b
 / M3 K" W2 Y- ], {3 s
 「鶏肋」は「無味」の譬え、「大して役には立たないが、棄てるには0 U& k* s- y: U, O$ d. f# V
惜しい物事」に譬える。宋代には、この意味をとって「鶏肋編」(荘季
! D) R5 b4 G: T! k: \/ ?. }7 \祐偏)といった書名にも用いられるようになった。
; ^3 z5 N" @9 { 
+ t. t. h2 h" I' Q4 r) N “つれづれなるままに集めしよしなしごと”といったところ。! o5 E) ]) h2 k! A% E
 
, e7 M, U1 X) K6 |) c 6 A# `" Y* |% z
 因みに、楊修は官渡の戦に敗れ、華北の覇権を曹操に奪われた袁紹の6 ~$ @4 }) k' o5 {  F
弟袁術の甥だったので、曹操の次男曹植を魏の嗣にしようとして往来し
( G% p. a; ~3 Iたところを、諸侯と通じているのだとされ、魏軍が漢中を撤収した年、
/ @, o: [: H5 S) v曹操に誣殺されてしまった。  s) A5 I. V& f4 {/ J$ h1 X" a
 + Q" g$ F' G/ U4 q
 
! D0 O6 t( M% @) @ 「鶏肋」は、体が痩せていて弱いことの譬えにも用いる。鶏の肋骨の
' L/ \# e9 F3 ?ように骨格の貧弱な体、といういみである。「晉書」の「劉伶伝」にこ2 B+ _' k; M% E
んな話がのっている。――
6 q. Z/ L# o$ `/ E) j+ W+ l- T ! [% B- x$ |2 }' x& J) `2 g
 酒好きな竹林の七賢のうちでも酒徒の長だった劉伶が酔っぱらって人0 _1 n$ k, C# r( F8 G
といさかいを起こした。
; M; o5 E9 x, W) @% G5 Q) ~/ W. C2 z5 ] 
( N! J$ g8 V# H0 H  ~6 L 相手が袖をまくりあげ、拳骨をふりあげながらかかっていくと、劉伶- A- E( L5 s2 W# ?& _
はおもむろに言った。- _4 z3 n8 d! R& B$ v$ l+ D0 J' ^2 O
 
9 o8 {  x% M3 D 「なにぶんにも鶏の肋骨みたいに貧弱な体じゃから、# r. s, m8 t8 O: b0 ^2 P
  そちらの拳骨はいただきかねますわい。」
; R+ g9 N$ j$ P& O9 Y / `3 {7 w2 [% ?7 ?% L1 B
 相手は思わず吹き出し、叩くのをやめてしまった。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:39:36 | 显示全部楼层
逆 鱗

; `8 P" L% z. I+ _( g  M5 j
+ m1 K; ^1 V& } 竜は、まか不思議な力を持つとされる、想像上の動物である。. `8 C9 U# o4 h- b% r
鳳・麟・亀とあわせて四霊という。鱗あるものの長であって、よく雲を
+ C: @$ e$ q' \4 z0 Qおこし、雨をよぶという。そこで中国ではよく君主をあがめて竜にたと
& A/ R1 T- ^: D% D0 wえる。竜顔うるわしく、などというのも、そのたぐいである。したがっ& v" _! N6 D0 \2 J( t# g* @
て、竜にまつわる諺や言葉もたくさんあるが、これもその一つだ。
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! C: x8 d: J  _ 
+ f9 [7 G9 ~3 B: a; t7 L( t4 k' Y6 u 韓非は戦国時代の人である。そして現実主義的な「法家」の代表者で
+ P2 f$ Y; S. _+ yもあった。どこがどこと結び、どこと戦うかも判然としないような、混2 _' k+ x% i5 l& }8 @) z* X
乱した戦国のありさま。君と臣とがたがいに疑いあい、すきがあれば倒
* |# [1 h, W2 kしあう社会。……彼はそれを鋭い目で見ていた。そして、このような情* ?- F% y/ p6 }: O
勢のなかで、国家の計を立てるしかたを考えていた。彼は秦に抑留され
$ O5 q8 w7 V4 w/ c+ }2 L& j9 rているあいだに、相弟子の李斯にはかられ、毒をあおいで自殺したとい0 }/ I0 b' t$ t% _
うが、この世に「韓非子」という書物を残した。その行間からは、その
7 Z' O4 T! m, ^" O8 ]" Z: {ような戦国の息吹が立ち上っている。その「韓非子」の「説難篇」で、
! j1 N, F, ?( T6 m( v+ W+ P; Z彼はこう述べている。- a* B, d4 R9 u9 Q
 7 o$ X* k& `7 E
 「竜はやさしいけだものである。なれれば仱毪长趣猡扦毪郅嗓馈! F" B6 o0 r* B" V
  だが、そののどの下のあたりに、& A# c% G% i( U3 n. T- M9 @
  さしわたし一尺ほどの、逆さに生えた鱗、逆鱗が一枚だけある。
) X# |) }! l/ u$ _/ A  もし、これに触れるものがあれば、
0 o& S5 E5 r( F; o6 G4 r0 B( k  竜はかならずその人を突き殺してしまう。
4 Y: z) H4 S( X9 C3 h- v2 ~# j  君主にもこの逆鱗があるのだ……」
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 だから、「用心しなくてはいけない」という。ここから、君主の怒り
! X- B- c! A% d- b* V2 |を喩えて「逆鱗」といい、また怒りにあうことを、「逆鱗に触れる」と
- E0 g: z" E8 @* ]いうようになった。ずいぶんとお目にかかることばだ。ところで、茫々
* Q3 z" ^8 [9 f6 |: G# i- Z# ^たる歴史のことである。この喩えにあてはまらないものも、だいぶある+ q$ v" Q$ P, g8 ?* |7 o# ]$ C
ようだ。怒るべきときに怒れない君主もある。また、どこの鱗で怒って9 ^/ E) O/ U% U$ D
いるのか、体中が逆鱗みたいに、わけもなく怒っているものも多い。
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5 w$ n9 R; |* `: X 君主というものは数々あっても、ほんとの竜は存外にすくないということか。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:40:18 | 显示全部楼层
月 旦
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7 ^& e- w3 C% L. t 後漢も前漢と同様、皇后の一族(外戚という)と宦官(刑によって去
. i5 m1 N: w, Q: |* u7 n勢された男を、宮廷の大奥で使っていた。これを宦官という)の勢力に' w; y* r' ^( ?! G
悩まされ通しだった。第十代の桓帝のとき、その宦官が結束して気節の
. f6 S6 q' w3 q% D5 O( r2 Y士二百余人を殺した「前党錮の禍」が起り、次の霊帝のときも、同様七# X8 z  ~8 W( I
百余人が殺され、さらに、その門下生から知人、親族までが流刑や投獄
% J" B: W& n' F3 Oの目に遭うという「後党錮の禍」が起った。
; u7 j; ]- R+ A% b( y  P8 ` , k, s0 c, W+ b
 こういう下らない事件のため、政治は乱れ、漢室の威光も衰え、天下
6 F- Q; s: \7 V2 F6 L) w) Jは騒然となりかけたが、これに拍車をかけるようなことが発生した。そ: R' R0 y9 U) H' H
れは「太平道」という邪教の流行である。+ u0 [: q! j3 ]
 ' x, L( O5 L0 Q0 ?) F5 n6 a3 @
 「太平道」というのは、河北の張角という男が唱え出した当時の新興; L" b" l# A: u: N3 n7 U
宗教だが、黄帝(三皇五帝の一人、伝説上の人物)や、老子の学説に屁: b7 [  U6 S) ^1 c* _1 Q
理屈をつけただけのもの。しかし政治が正しく行われていないと、民衆\
+ S# \- Y+ F3 U: @: W# E0 I, }/ ^0 Jがこんなものにまで救いを求めることは、戦後の日本がよい例。ともか
# d( K  r( l$ B. Kく、天下が騒然としているスキに、またたく間に数十万の信徒を集めて: T, w& D" v* \  s4 h% ]
しまった。
' q# K" C2 E' w/ d$ a" C 2 g6 `8 G- C% B: w) Y) g
 こんなに勢力を得た張角、こんどは天下を自分のものにしようという
# |0 W5 F! {' q- b野望を起し、霊帝の十七年、宗徒をひきいて兵を挙げた。その勢いは非
3 ?7 x$ h/ A- m) z! Z6 L  ~5 e' n常に盛んで、またたく間に全国に拡がった。反乱軍は目印として黄色い3 h4 u0 C/ B, M0 P/ x8 `: k, _
巾をつけていたので「黄巾の佟工群簸印ⅳ长温窑稀富平恧温摇工趣い颸. S% O" c3 {; r; E2 Q% P
れる。& ^+ `/ m8 h" _  C% H% _
 ! c. `3 [9 Q  ?8 O
 さてこうなると、宮廷という井戸の中の蛙で、権中g数によって人を
8 W9 C  n# u1 h9 O% F/ vおとしいれる能しかない宦官には手の施しようもない。党錮の禍のとき# k2 ^7 H" F& t
監禁した士をあわてて赦して討伐に当たらせるとともに、全国の有力者( b  ?; n% d* y' k
にだれかまわず討伐を命じた。ことあれかしと待っていた野心満々の連
, @- \$ u( e0 v2 _( ^& ?3 i中、挙って兵を挙げたが、なかにも知证摔郡堡坎懿
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:40:42 | 显示全部楼层
乾坤一擲
& E8 c: b$ t( A/ ^
  o0 C5 m7 S; m& E. _; `( N
 この語は韓愈(字は退之、昌黎と号した。)の「鴻溝を過ぐ」という
- R& `5 k+ G1 v) f2 i( D) i" W  ?1 d+ V詩から出たものである。鴻溝というのは今の河南省の賈魯河のことで、* {! Q7 d! K3 {/ I% E( j' J
そのかみ、秦滅びて天下がまだ統一しない時、楚の項羽と漢の劉邦(後7 h! ]- ]8 r5 ~0 j  ]) x; D
の高祖)がここに一線を画して天下を分有した。詩は当時を追懐したも( Y, D1 F8 `  U9 A0 G6 H
のである。! O5 h4 u! m, S; d  x8 S7 i  x
 8 x- Q6 h$ C3 U" B
   竜疲れ虎困じて川原に割ち、
& l1 X# R- {# U1 F1 v, ^   億万の蒼生、性命を存す。
& L. ^- B( Z" a   誰か君主に馬主を回らすを勧めて、
9 |" o4 s4 {) n% S% H9 Y   真に一擲乾坤を賭するを成せる。2 q8 w5 r) G) N0 r5 d1 Q1 I; U
 ( I! _7 s, f  k. C
 ! ]" N* {+ Q5 ~4 \/ @+ F+ S: v
 秦末の失政に当たって陳渉らが前二〇九年まず叛旗をひるがえし、こ
0 I) n" c) G7 Mれに呼応して各地に兵を起す者相次いだが、そのうち、風雲に仱袱皮鈂
9 R# o$ ]& p% k; _) ~っとも頭角を現したのが項羽であった。歴戦三年、ついに秦を滅ぼした0 G" `: M7 \6 S% m; ~
項羽は、前二〇六年、自ら西楚の覇王となり、九郡を領して彭城(江蘇  Q# B7 g0 G/ f
省徐州)に都し、劉邦はじめ功のあった人々をそれぞれ王侯に封じて一2 i$ U, n+ @8 o! J
応天下に号令したかに見えた。しかし、ともあれ、名目上の主である楚
4 f! P+ M! i# g8 s- }: jの義帝を翌年弑してしまったことと、行賞の当を失したことは再び天下
, O/ B# d  [# M/ Bを混乱に陥れた。
0 S7 g, d1 Y% \( s: Y! C( S  g/ V 
8 n; b: N: S2 {: g: w5 G* y 則ち、田栄・陳余・彭越らが次々に斉・趙・梁の地で叛乱を起し、し* I8 H% [; i; t- N$ A
かも、項羽がこれを討っているすきに、漢王劉邦が兵を起して関中の地
1 D5 t8 n% f( X3 rを併合してしまったのである。
4 o4 n( H0 g1 b2 _8 ]! M 
4 m2 q4 V% W/ l* q 由来、項羽のもっとも恐れていた者は劉邦であり、劉邦が敵と視てい/ }" h3 n) F; o: l5 [
た者は項羽である。最初に関中(陝西)を平定した者が関中の王となる/ X" H, o! a( O: K& C; \0 u
のだという義帝の公約を無視され、関中に一番仱辘筏郡摔饩肖铯椁骸* ?, K) ?+ w$ C& ?$ \# O
項羽によって巴蜀の地に封ぜられたことは、劉邦の項羽に対する最大の
7 c3 T  ]& `* P: e# x. e怨みであったが、今や関中を手中に収めた劉邦は、一応項羽に対して他
8 @+ h* w1 T0 D3 M意なきことを申し送っておいて、着々と力を養い、他日関外へ進出する- l# S8 A# o8 F8 \) n
折りを窺っていた。- Y$ a4 q& Z6 ~0 V7 `
 6 A* F3 L, t  e5 {; O
 翌年春、項羽は斉に連戦していたが、まだ斉を降すことができなかっ
2 ^+ I: H0 ?' D6 C, p- Vた。頃合良しと見た劉邦は、楚の義帝のために喪を発し、逆夙椨黏蛴慭
/ q; ^1 M, X0 @* c4 q) Uつことを諸王侯に呼びかけるとともに、五十六万の兵をひきいて楚に攻
; B' t- e; X( \) u( I: hめ入り、都の彭城を仱萌·盲皮筏蓼盲俊
' B+ @" l3 Q" m7 ]3 e9 p 
" c- _/ p6 a- R5 Q6 c3 N6 P 項羽はこれを聞いて引返し、彭城の周辺で漢軍を完膚なきまでに叩い
# J  ]5 F( G0 r/ t' Hたので、劉邦は命からがらケイ陽(河南省ケイ陽県)まで逃げのび、し
. Z% F; D' {0 t' A1 W0 hかも父親と夫人を敵中に残すという惨めな結果になり、再び囲まれて、/ k7 o5 s/ H3 G! w6 ?$ ~! l8 n
ここをも辛うじて脱出する有様となった。' T7 m1 C+ y8 v7 Y: ^- R3 o6 E
 
, U) ]: I; ]% u) x# M* K その後劉邦は、韓信が斉を収めるに及んでようやく勢力を増し、また, f: ^' F9 k2 f! s3 o: v
関中から兵力を補給してしばしば楚軍を破り、彭越も梁の地で楚軍を苦
8 A, M% S  H' b7 c' h+ G8 g. Z* i: [しめたので、項羽は各地に転戦せざるを得なくなり、しかも彭越らによ
. L! @7 ~! X( t" Cって糧道を絶たれたため、兵少く食尽き、進退窮して、ついに劉邦と約
% x. d: t* Z6 k8 A! Q0 d0 |して天下を中分し、鴻溝より西を漢とし、鴻溝より東を楚とし、劉邦の
, P1 ]0 E& }; m父親と夫人を帰すことになったのである。
: ^) K* |) L/ c1 w, T) B- M5 q7 S : x* C& a+ o; Z9 O
 時は漢の四年、前二〇三年であった。項羽は約束ができたので、兵を5 _8 N, V" _- W( X
引いて帰国して行く。劉邦も引上げようとする。それを見て張良と陳平& f: {3 u) J* d  v% l7 {* }
とが劉邦に進言したのである。. w5 m1 @2 |2 ~% P/ D. O; X
 1 }0 M4 x7 b6 W- b0 H( l
 「漢は天下の大半をたもって諸侯も従っておりますが、
$ u6 G3 u" p8 o2 K  T( b( {  楚は兵は疲れきって食もございません。
  i, j* q. e0 s7 f$ C  これこそ天が楚を亡ぼそうとしているので、' V" ^# K9 C8 w
  飢えているときにやっつけるべきです。- M7 Q/ n, L9 b( Q" U
  今撃たなければ、虎を養って患いを遺すというものです。」
% b5 g" ~; B' g% X% }4 n9 S; _ 
3 D7 A% }  n( l  T: b そこで劉邦は意を決して翌年楚軍を追撃し、ついに、韓信・彭越らの
, z# J+ v* d6 Q! D軍とともに、項羽を垓下(安徽省霊壁県東南)に囲むこととなった。" X/ g% t" b5 z. r- l0 r/ p
 
) K9 n3 }+ s: N  m6 r' y' h. [ 
+ V6 e5 L/ `' I( n/ B; B1 X2 { 韓愈はこの張良と陳平が漢王を援けた功業を鴻溝の土地でしのび、ま
6 y( Q% c- N; M( _, ]. z6 j4 @さに天下を賭けた大ばくちと見たのであろう。一擲というのは、すべて
. z+ Z! d- F7 a' U$ yのものを一度に投げ出すことで、一擲千金とか一擲百万とかよくいわれ, ^+ H3 t; q) d1 N+ Z
る。乾坤は則ち天地で、「一擲乾坤を賭する」則ち「乾坤一擲」は、天  c# v2 s* N% q% _# b
下を取るか失うか、のるかそるかの大冒険を行うことによく用いられる! O. |" e% G+ D9 E3 B7 c
言葉である。
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