しあわせと、その自動車の運転手がまた、心きいた若者でした。車は新しく、エンジンに申し分はありません。走る、走る、まるで鉄砲玉みたいに走り出したのです。
悪魔のように疾走する二台の自動車は、道行く人の目をみはらせないでは起きませんでした。
見れば、後ろの車には、一人のお巡りさんが、及び腰になって、一心不乱に前方を見つめ、何か大声に喚いているではありませんか。
「捕り物だ、捕り物だ!」
野次馬が叫びながら、車と一緒に駆け出します。それにつれて犬が吠える。歩いていた群衆がみな立ち止まってしまうと言う騒ぎです。
しかし、自動車は、それらの光景をあとに見捨てて、通り魔のように、ただ、先へ先へと跳んで行きます。
いく台の自動車を追い抜いた事でしょう。いくたび自動車にぶつかりそうになって、危うく避けたことでしょう。
細い道ではスピードが出せないものですから、賊の車は大環状線に出て、王子の方角に向かって疾走し始めました。賊は無論追跡を気づいてます。しかし、どうすることもできないのです。白昼の都内では、車を飛び降りて身を隠すなんて芸当は、出来っこありません。
池袋を過ぎたころ、前の車からパーンという激しい音響が聞こえました。アア、賊はとうとう我慢しきれなくなって、例のポケットのピストルを取り出したのでしょうか。
いや、いや、そうではなかったのです。西洋のギャング映画ではありません。にぎやかな町の中でピストルなど撃ってみたところで、いまさら逃れられるものではないのです。
ピストルではなくて、車輪のパンクした音でした。賊の運が尽きたのです。
それでも、しばらくの間は、無理に車を走らせていましたが、何時しか速度がにぶり、ついにお巡りさんの自動車に追い抜かれてしまいました。逃げる行く手に当たって、自動車を横にされては、もうどうする事もできません。
車は二台とも止まりました。忽ちその周りに黒山の人だかり。やがて付近のお巡りさんも駆けつけてきます。
ああ、読者諸君、辻野氏は、とうとう捕まってしまいました。
「二十面相だ、二十面相だ!」
誰言うとなく、群集の間にそんな声が起こりました。
賊は、付近から駆けつけた、二人のお巡りさんと、戸塚の交番の若いお巡りさんと、三人に周りを取り巻かれ、叱り付けられて、もう抵抗する力もなく項垂れています。
「二十面相が捕まった!」
「なんて、ふてぶてしつらをしているんだろう。」
「でも、あのお巡りさん、偉いわねえ。」
「お巡りさん、ばんざーい。」
群衆の中に巻き起こる歓声の中を、警官と賊とは、追跡してきた車に同乗して、警視庁へと急ぎます。管轄の警察署に留置するには、あまりに大物だからです。
警視庁に到着して、事の次第が判明しますと、庁内にはドッと歓声が沸きあがりました。手を焼いていた希代の凶賊が、なんと思いがけなく捕まったことでしょう。これというのも、今西刑事の機敏な処置と、戸塚署の若い警官の奮戦のおかげだというので、二人は胴上げされんばかりの人気です。
この報告を聞いて、誰よりも喜んだのは、中村捜査係長でした。係長は羽柴家の事件の際、賊のためにまんまと出し抜かれた恨みを、忘れる事が出来なかったからです。
さっそく調べ室で、厳重な取調べが始められました。相手は、変装の名人の事ですから、誰も顔を見知ったものがありません。何よりも先に、一違いでないがどうかを確かめるために、証人を呼び出さなければなりませんでした。
明智小五郎の自宅に電話が掛けられました。しかし、ちょうどその時、名探偵は外務省に出向いて、留守中でしたので、代わりに小林少年が出頭することになりました。
やがてほどもなく、厳しい調べ室に、りんごのような頬の、可愛らしい小林少年が現れました。そして、賊の姿を一目見るや否や、これこそ、外務省の辻野氏と偽名した、あの人物に違いないと証言しました。 |