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中国故事物语(已载完)

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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:53:51 | 显示全部楼层
渇しても盗泉の水を飲まず

% V, _  O% t( X8 y1 z* h6 [% K9 j5 ]4 e' J
 孔子がある時勝母という村へ行きついて日が暮れたが、その村には宿
+ V! Y# m1 \7 r3 mらなかった。また、盗泉のかたわらを通り過ぎるとき、のどが渇いてい
- _2 e4 r/ R! I/ W- n) ^7 Oたが、その泉の水を飲まなかった。それは、勝母、母に打ち勝つという" ?! p( o. u0 W2 s* F$ u( y
ようなことは、子としての道から外れたことであり、そのような名称の" G3 s. t5 D) i" d$ P
村に宿ること自体、すでに親に対して不徳義であるとしたからで、また5 }6 K: H# `! d6 D! u% b. u
盗泉という賤しい名称を持った泉の水を飲むことは、高潔な心をいだく
% g/ Q# q/ J* ~8 Q士にとっては、はなはだ不名誉な恥ずかしいことであるとしたからだと
. K4 k9 O1 ^8 S4 hいわれている。(『説苑』説叢篇)
1 o0 c9 Q1 ?! A: w8 S$ i) ?   B: n- C- ^) q# ?6 B
 盗泉は山東省泗水県の東北にあり、古来、その故事をもって知られ、
5 I5 q, g: N  w3 G, q盗泉という言葉は、恥ずべき行いのたとえにもなっている。4 D( p; H. c4 [: a1 L
 / d4 T! O0 c3 x. {( }" ]! [; e
 晉の陸士衡に「猛虎行」と題する詩があり、文選に載っているが、そ- ]6 a1 A  x8 k8 m, j! X
の冒頭に「渇しても盗泉の水を飲まず」の句がある。「猛虎行」は士た
, y$ q& P. \! b2 D6 l5 O6 uらんとする者の行途には辛苦の多いことを述べたもので、いまその詩を
  l& N; e. s5 a$ M) q( zあげてみると次のようである。* @$ X! ?: W5 l& P2 f7 j) O4 X
 & V2 M) G: |: f$ e2 T+ W, }, x
   渇しても盗泉の水を飲まず、
% r2 U( Z: u5 c3 P' ]   熱するも悪木の陰に息わず。
9 n9 r' n, F$ _( H   悪木あに枝無からんや、
9 Z& A% i, V0 U2 k: J2 D+ y* j0 w3 \   士を志すに苦心多し。) j1 k: p4 h3 [7 e
   駕を整えて時命を粛しみ、( Z) n& k0 o5 N( q/ q& Z0 s
   策を杖ついてまさに遠く尋ねんとす。" R( B+ P. ]9 M1 W
   備えては猛虎の窟に食し、. d. u5 [2 b# o
   寒えては野雀の林に栖る。) a- G  B/ ?- i% C9 A( ^5 ^
   日帰れて巧いまだ建たず、" G' ?5 p+ e7 C* p7 |
   時往きて歳載ち陰なり。
. f2 ?6 N4 L+ K5 C! N0 C   崇雲岸に臨みて駭ち、* Y) r8 q+ O* y1 d* k
   鳴条風に随いて吟ず。, [+ l% g' S, g, u8 Q% T% O
   静かに幽谷の底に言い、! \% x- I4 w# A; w/ U9 t
   長く高山の嶺に嘯く。
1 l/ a' ]! d$ c- K4 c   急絃には懦き響きなきも、: T$ s0 ~# J& Q3 Q9 k: G) E$ y
   亮き節は音たり難し。
; R2 ~4 S0 ]2 t2 U   人生栅摔い蓼酪驻椁骸
* F! {" J0 }& G( @5 T   曷んぞいわん、此の衿を開くと。5 @7 |) F2 o" A* A; b* o. y! B2 z
   我が耿介を眷み、
1 a$ z6 m. q2 ?) E   俯仰して古今に愧ず。4 @( J1 n1 \* p1 ~& r
 
% h$ [$ X4 a) P7 B: j 大意は、渇しても盗泉の水は飲まず、暑くとも悪木の陰にいこわない3 t0 a8 `6 V- W) h( }
というのは、正しい心を貫くためである。君の命をかしこんでは遠く軍9 a/ q. v% v' g" Z7 Z* P
役に出で立ち、辛苦をなめるが功ならず、歳月のみは徒に過ぎゆき、時3 b* j' h7 P6 T! k
には岸に高く上る雲、風に鳴る枝に心を傷め、幽谷の底、高山の嶺に思
, R" o, C1 O/ _/ @, Uいを遣るが、自分の心のはげしく高い調べは音になりにくい。人生はま
, j4 s, G8 M  ^7 Y5 h, ]さに困難である、どうして、この遠く軍役に従う心のくるしみを打ち明
4 h( P5 ]* ?/ D: s) mけられよう。自分の正しい心を世に行うことのできないことを思うと恥
! P" s# e8 o" m# F5 B' a% yずかしくてならない、というのである。
5 R3 `* {7 F, ~" E: q9 L 
  ]2 I: d+ Y4 W9 s/ m* m( U 陸士衡は名は機、士衡はその字である。祖父の陸遜は三国の呉の孫権
& j) a# c# G2 q+ ~% A3 g3 ^# Lに仕えて勇名をはせ、父の陸抗も呉の名臣であった。儒学を深く身につ; v! E/ [+ t0 t5 c3 v
け、詩文の才もゆたかであり、呉の興亡を論じた「弁亡論」、また「陸% o4 F# ~3 V. `8 P% h9 G
平原集」がある。のち晉に仕えようとして、弟の陸雲(字は士竜)と洛陽" j/ @5 D5 O% |& I- P6 z  i
に出でたとき、人をして「呉を伐ちし役は、利として二俊を得たり」と  n8 R& K0 f8 p" i7 l
感嘆させた。大将軍、河北大都督となったが、罪におとしいれられて、, V4 }4 m+ C& t( }1 G
「華亭の鶴唳(鶴の鳴き声)、あにまた聞くべけんや」の言葉を残して死. c6 J% f) Z6 y9 W
んだ。華亭は江蘇省松江県の西、平原村にあり、祖父の陸遜が華亭侯に
6 Q* e% {' K. N8 ~. e7 Y封ぜられてより、世々居た所、心情思うべきものがある。弟の陸雲も相- T' I  b* R/ N9 d$ H$ R9 ?$ Z- j
次いで殺されたのであった。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:54:23 | 显示全部楼层
合従連衡
  g1 r+ i  F: l. {. }- K" c

& O1 q2 a" @4 N% }- E7 u# h 蘇秦は張儀とともに戦国時代中葉の中国全土を三寸の舌と二本の足を1 ]9 L) G0 D) ?4 _- W7 i( l
もってかきまわした大策士であり大山師である。三寸の舌とはけたはず
; I& h. {9 u7 \れの能弁、二本の足とは相手どり、歩きまわった国が当時のいわゆる七
1 y, v: E  {9 [; N" ?: i5 u国(燕・斉・趙・韓・魏・楚・秦)にわたったことを意味する。* f$ D/ _9 k' E" h' }
 
5 I+ x& S& z9 a! j/ ^* v0 ` この二人は鬼谷先生(百般の知識に通じ、占卜をもやり、鬼谷子なる
% A: Y. V$ S2 R* R0 p3 K5 J' F8 v著を残している謎の人物)を師とした同門である。
; \1 s& P7 W( C2 ]  f0 Z  W* x2 { # Z" Q  y! ]0 N5 U
 鬼谷先生の住まっている処は、洛陽から十五里ほど東南の鬼谷という
: S1 N+ M" l% \山の中であった。蘇秦はここで長い修業を積んで山を下った。ここで何
) `" w3 }7 p) x, aを学び、ここを下ってどこへ行き、何をしたか、後世の私たちには皆目: H1 ]5 u+ Y1 U$ L
わからないのだが、とにかく蘇秦はあちらこちらと放浪したあげく、或0 K" j( }% T% ^5 Z( {2 N
る日ひょっこりと洛陽にある自分の家へもどって来た。歴史書はこれか) W( u( P( h, C
ら後の蘇秦の行動については詳しい。% B" n) t  b' L
 
3 X/ }3 q7 j5 Q. m 貧相ななりをして戸口に立った蘇秦に対し、妻は織っていた機の台か
( ~: D2 Z# ~8 a. U. H2 o! v$ U$ @* [ら下りなかったし、嫂は食事も出してくれなかった。そして、売れもし$ M3 B! S+ l3 P# @: q8 K
ないおしゃべりなどを売りあるくんだから苦しむのも当たり前だといっ
# i7 ~; y: F6 {. U/ ]6 |/ v& Y# bて相手にしなかった。$ K, v" z% @: E! p# z6 l, q1 y
 
: w) w5 N! M( X" O 家にとどまること約一年、蘇秦はふたたび家をとび出し、周の王を訪
5 S1 G2 m) {+ b) E* N. p* c- Uれたが相手にされなかった。次に秦の国をたずねたがやはり相手にされ
$ Z9 I- w3 e: c9 Z9 hなかった。趙の国へ行ったがそこでも無駄足、そこで遠く最北端の燕の+ z" Y+ f. A9 S" {( J
国へ出かけ、弁舌をふるった。ここでは彼の弁舌が功を奏し、車馬金帛! ~; ^8 `( e5 @( G4 o
の贈り物を受けた。蘇秦が燕王に進言した政策を『合従』という。2 o8 {* {# j/ P; ^6 W; y
「従に合わさる」という意味で、燕と趙と斉と魏と韓と楚が縦(従)に、
3 T( [( o% k8 lつまり南北に手をにぎり合って強国の秦にあたろうというのである。こ$ v- X3 u6 W: r+ F; O$ n
れらの六国は当時急激に強大となりつつあった秦の国を極度に恐れてい
* L" o0 x' V, i" B/ bた。蘇秦はこの恐怖心をうまくあやつり、もしこの際、六国が手をにぎ
7 v5 p8 e, g$ _# l* h6 kり合わず、孤立していれば、それぞれ秦に打ちほろぼされてしまう。ぜ: F4 c2 Y( s) n. s* C( P$ y" g
ひ合従して共同防衛しなければならぬ。そのまとめ役を自分がしようと, w2 @: G+ h9 s. F8 }7 n2 h
申し出たわけだ。0 y' n- e3 j# r- m
 1 C0 `# m2 Q; J. G
 燕王から合従の成就をまかされると、次に趙を訪ね、今度は大成功、
* g. l' r1 K) o7 i8 V# y車馬百仱税阻丹浠平黏溴刺繍を合従の準備費用として与えられた。" |5 y$ w! S/ L$ s/ E' J
 韓、魏、斉、楚の順で廻り歩いた蘇秦は、みごと王たちを口説きおと
) _! H% q9 O7 W' z" rし、六国の宰相となりおおせ、合従の盟主としてまつり上げられるに至+ T: B: s0 l: m5 a
った。$ y; m3 u$ h$ J; h& h' I6 G
 
, j3 q7 F' Y- d/ o, n0 z' P" } 南の楚から趙へ帰る途次、蘇秦は洛陽を通った。その時の彼の行列、* {. {, |) X" d. b! w; ~  d
車馬輜重は優に王侯に匹敵し、洛陽を都とする周王も使いに出迎えさせ6 R9 \" `. |1 z
る豪勢さ。兄弟も妻と嫂も、今は蘇秦をまともに見ることができない。
5 I# P6 U; v/ G# Y3 x食事の給仕をするにも顔を俯したまま。蘇秦は嫂にきいた。
% I6 o( c, k& { 
( _+ K$ l+ k% |- B2 M4 v' e 「以前、私がここへ戻って来た時には、
8 J3 P6 @0 E& ?1 Y$ W% Y, D  食事も出してくださらなかったのに、ずいぶんな変りようですが、
5 h! ~0 m2 E1 t1 Y% D. g  これは一体どういう理由ですか?」
0 h) W7 M2 t$ B6 [ % F2 R* {: L# a  {' R5 w$ l! F$ e
 と、嫂は頭を大地にすりつけて、
/ Q2 w8 z" x  z, y- i& K ' {' O: ^* y9 m& N' [
 「あなたの位がこんなに高くおなりになり、/ ]' R/ u5 R& B% ^3 y
  あなたがこんなにお金持ちになられたのを見れば、! \+ Q  }  Q' g4 ?
  誰だった自然にこうなりますわ。」
! G+ z' u$ f* I3 Z, ? 
( x3 ?  x5 f5 r 蘇秦は位と金がこうも人間を変らせ、かつまた、自分にもし僅かの田
# q8 N, q7 @6 E! N# J畑でもあったならば、一生それで満足し、今日の富貴をかちとり得なか
7 i5 k2 ~8 e6 F8 j" u5 j% hったであろう事を慨嘆して、親族朋友に千金を散じ与えたのであった。
$ v" P) b7 s5 s- S 
; g: H' `! u6 W! N 蘇秦が趙に滞在中、張儀がだしぬけに訪ねて来た。兄弟弟子である蘇
0 Y& ]' d- k2 {; }秦が宰相になっているときき、取り立てて貰おうと思ったからである。! R6 _3 V5 ^1 e( [
 
& `: @6 o  B& r0 S 蘇秦はこの張儀に六日目にやっと面会を許したばかりでなく、自分は; l( \! T8 y" s
堂上に、張儀は堂下にすわらせ、下僕に与えるにも等しい食事をあてが1 D5 G, N- P: X4 Y% G/ ]
って追いかえした。張儀は歯がみして口惜しがった。そして今に見てい
, z1 u/ q. f$ \" I  O6 Qれとばかり、その足で秦に向かった。ところがその旅につきまとい、絶/ Y- H/ V! S2 g# i
えず張儀の世話を見た人物がいる。旅宿の費用はもちろん、秦に仕官す: W3 ?3 l8 V! b' f$ b" ^  B! C3 i1 E9 \
るためには衣服も必要であろう、車馬も必要であろう、と世話をして、+ ^$ o$ o% k3 Q6 W2 E; ?, f. t
秦の国へおくりとどけてくれた。当時はこれは大物になりそうだと見込
( m6 D1 s8 e2 Y# Zんだ浪人に親切をつくし、将来の役に立てようとする商人が珍しくなか5 Q. K- ~3 V3 W) d$ t
ったから、多分そのたぐいであろうと張儀は思っていた。, G, ~2 l8 s/ M  Y/ z
 , W4 b, j! @$ l- }
 その商人は張儀が秦に入京し、客卿に取り上げられるのを見とどける3 R; u+ o3 c) t. g8 F. A! K
と、張儀に別れの挨拶に来た。張儀は自分からなんの代償も要求しない* D- `* l6 n$ r$ s( f+ E
商人を不思議に思って、わけをたずねると、商人は、  N, P1 S4 A" G' @: ]3 n) k
 
6 n' q& u' f, S6 m 「これはすべて蘇秦様のおはからいです。
5 Q: J0 l: G+ U$ x2 |5 e1 A  あなたを発憤させて秦に向かわせ、
; v: V  y* z& v# x5 c+ b  無事、秦に仕官できなさるようにと考えられたのです。* Q& K) h7 o# Y: p' e9 z
  秦は蘇秦様の合従の策には邪魔者です。
5 L8 T' g. ]" Y  その邪魔者の手足を封じる役目を/ b; X8 d7 _; o
  あなたにやっていただきたいのです。」% j- v( f  ?) f2 z9 N  Y
 4 x2 ^0 n" B) f9 c
 すると張儀は、' O, @! G; [9 T/ Q' K4 |3 ]; ?" V3 ]5 K
 & J- c/ m+ C7 F
 「自分は蘇秦殿の術中にありながら、
( L' C; n  m7 x3 X) n  それを悟りえなかった大変なうつけ者だ。8 ?2 U7 i7 w: g$ G$ H2 T0 z0 m
  このうつけ者がどうして蘇秦様の邪魔などできましょう。  [$ v, @5 n' E/ F- ~. C
  蘇秦様に告げたまえ、蘇秦様が存命中はこの張儀、
$ W$ l4 L/ W3 O  どうして口はばったいことができましょう、
( q: c$ L9 R: L  何ができましょう、とな。」
3 ]# U3 O$ }( c8 G7 w % A4 o3 T2 |$ M, v3 w' B9 X; m% E
 さて、張儀は秦にとどまって才腕を認められ、客卿から宰相へと出世
' h9 o' z- f6 F! O# B7 R1 M4 fする。彼は「連衡」の策を取った。つまり、六国のどこかと同盟を結ん( F) g% G8 h( f; t, t# K2 r; B& V$ `
で合従を破り、六国をばらばらに孤立させ、孤立した国々を各個に撃破  U& \- U, x$ U. {- C
ないし威圧して、秦に対し臣下の礼を取らせ、やがて併呑するという策
! [8 {8 C: ^$ ~  f3 A$ Kである。秦とどこかとの同盟を結ぶのは、六国とは「合従」に対して
7 O: Y, q9 ]6 g/ P「衡(東西)に連なる」かたちとなるので、「合従」に対して「連衡」と5 p2 D9 ]8 J, R- W$ ]) I# d
いうのである。張儀は後に蘇秦の成就した合従を完全に崩しさった。
; @  X. n1 U1 a) k# k8 l                   (『史記』蘇秦伝、張儀伝)
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:54:50 | 显示全部楼层
鼎の軽重を問う
7 z+ `& h  ~2 V; h# p- s  q, x5 \

+ s, \* |% Z: q9 p' Z1 O" ^  e 鼎は三つの足と二つの耳をつけた金属製の釜のことで、古代の中国で
1 I+ `" S6 x" z8 Aは料理は勿論、表彰の具、釜ゆでの刑具などとして用いた。& m/ G) |; t# ?+ U" x; b
 ( V- i# i3 G, Z% ]* v6 q5 b/ E" h
 さて話はずっと遡るが、周の定王元年のことである。楚の荘王は春秋
/ V& t( [9 Z+ v' `, s/ oの五覇の一人に数えられる(五覇の中に入れない説もある)ほどの実力
, w7 R' t# D9 w; t1 I) m) v者であり、大いに天下に対する野心を持っていた。この年の春、荘王は
+ J8 f9 R( f; g, e$ z! W; r( @: e陸渾の戎を討伐してから、洛水の畔に出た。洛水の北には周の都、洛陽
( V& U8 C! C$ o  i" }4 a* d  _がある。荘王は周の国境に大軍をおいて、周王の出方如何では攻撃しか- B6 }5 N" r% G: |2 I  m
ねまじい勢いを示した。定王は楚のデモンストレーションに驚き、大夫
& _, _6 J; S+ M3 o7 x- \の王孫満を遣って、荘王の労を厚くねぎらった。ところが荘王は、歴代
7 c6 w  E/ X5 x8 p$ U3 cの王朝に継承され、いまは周の王室に代々伝わる鼎とはどんなものなの6 J8 S. V4 S' U) N
か、かねてから知りたかったので、この時とばかりに、その「鼎の大小
  _3 U5 @' D: ^軽重」を聞いたのであった。
+ [( a$ Y; B: [5 l, O# P# F  M7 n# |9 M - P0 o* `% ~9 f3 d6 H: Z6 n- y
 この質問を受けて王孫満は、鼎の由来から説き起こした。その説明に" G4 _& c* S$ V" s/ s( z
よると、そもそも鼎は夏王朝の祖禹が、九州(昔、中国を九分した)の
. g6 p. f- F# {4 Z3 z朝に命じて金を献上させ、これを用いて鋳させたものである。鼎の表面
1 y7 {# A" S% |( E9 Nには万物の形を図にしてあり、人民に怪物の存在を教えたから、人民は+ X! J: g' D9 b% }: `
安心してどんな山や川へも入って、生業に励むことが出来た。しかし、
5 C  k+ d1 G# c* U夏の桀王の世に鼎は殷に移り、殷の紂王の時に周に移った。周の成王は
: J8 h8 e: T7 g/ ~1 C鼎を郊辱(今の洛陽)において、ここを王都と定めた。以後定王に至る
9 I" r* W' [4 n6 S5 H  E1 eまで三十代、七百年間継承されて来たのである。
- f1 X' O: Q* q" s" [* j! a 
' ~1 T8 x$ l7 F" N3 N( b; P3 R 最後に王孫満は強調した、& ^. a7 r  v5 b, u" t
 
( r% G( F, m; J  「鼎の軽重が問題なのではありません、徳があるかないかこそ+ [3 u, i" B2 l1 A
   が問題なのです。鼎は常に徳のある所に移って来ました。今/ L" s4 A/ l+ a7 I
   周の徳は衰えたと言っても、今日まで鼎を伝えて来た事は、
% t$ B7 Y1 N- `" I   天の命ずる所でありまして、天命がすでに革まったとは思わ
; J' G1 X$ _  I& W& R   れません。従って鼎の軽重など訊ねられるいわれはございま
* l* C5 q; v+ h7 Y   すまい。」
4 R$ p7 q6 m/ X9 v6 }) V 0 A* h4 \& D& _
 春秋時代はまだ周王の体面が保てた時代であった。荘王も力づくで周+ B' B7 ]% }4 N
を攻めることも出来なかったので、やむなく兵を引き上げることにした
: r' q2 S0 V4 ?のである。
; q0 F; F1 V% r. M/ F+ z 
: n/ ?% @. x+ I 以上の説話は「春秋左氏伝」によるものだが、「鼎の軽重を問う」こ- \- Y3 B+ u& E
とは、帝位を狙う下心のあることを意味する。というのは鼎の由来を見1 M# O8 D: I$ K( Q
れば解るが、わが国の「三種の神器」のように鼎は帝位の象徴であった
0 Y/ r% k) r' b# ?+ X: [からだ。しかし、これから転じて今では「相手の実力や内情を見透かし
( s# L" N4 o1 l  O. O* kて、その弱みにつけ入る」という意味に用いられるようになった。
0 K# a& ]+ I! z1 S . b; f2 I  ~$ p! }& V, K; k
 この話は「史記」によると、荘王が「人をして九鼎を問わしむ」とな% ], p; z, O% g7 n
っている。「九鼎」は中国全土九州になぞらえた言い方であるが、前記0 h8 M# E5 l* y: {- N  ]8 u$ p
の説話と同じ事である。ただ、周室の廟の「大呂」(大鐘)と結んで、3 b, ?0 ~  D. d+ U, ~4 {; s! R
「九鼎大呂」という言葉がある。何れも同じ事で「伝来の宝」「王位」
9 |, V2 V; a5 u" }「重々しいもの」の意である。/ f% M8 W! W) V9 |3 F  j, r4 A) {
 1 U  w& W$ h: T; v0 c$ ]; K
 余談であるが、「戦国策」の「東周」の所に、秦から九鼎を求められ
. e) b8 G0 a. z  N2 B- b0 Uた周王が、臣顔率の弁舌で斉王の力を借り、秦を追い払ったことが見え+ i( x) H+ o8 L2 H
ている。しかし逆に斉王から九鼎を求められたとき、顔率は4 U: p. n3 P6 B& o: b( ^) C: f* g1 d
 
6 `+ c+ H' Z% G0 `1 L( w  「昔、周は殷を討って九鼎を得たが、一鼎を九万人で引っ張っ
0 W$ z& ^7 Z- c0 |   て来た。九鼎を移すには、九つで九九、八十一万人もの人手
! i! p) s  g! i; S* F   が要りますぞ」5 y/ r; V0 F. h  O- ]5 `4 A
 
- n3 l. ]" u7 z! e# c/ f, O! ~9 ~と言って、斉王を煙に巻いてしまう。また同所「秦」の条にも「九鼎」
+ N% D8 w1 p2 A, @4 N# d; w/ I/ Yの話が出ている。
! P8 s$ }; N, A/ T& ^9 i$ ` 
$ b2 `: j0 z5 A% Y ともあれその行方は周の滅亡の時、秦に撙肖欷瑜Δ趣筏沏羲松颏骪
9 s5 e; {" \; K! R- V% t4 Lだと伝えられるが、はっきりしたことは判らない。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:55:15 | 显示全部楼层
画竜点睛

% V& u( {+ H5 n% f  \3 g- [- @& q# D7 W6 f
 南北朝のころ、南朝の梁国に張僧ヨウという人がいた。右軍将軍や呉
; E' W6 W  m" c0 \( K0 f! C2 I興太守になったというから、官人としても志をえたほうではあろうが、
6 _  c/ k' e5 E5 l0 o+ u張僧ヨウの名が高かったのは、 そのためではない。彼のふるう画筆に
$ i$ i. }  ~' V5 O8 aよってだった。とくいとする山水や仏画はいうまでもなく、一管の筆で
: x  F+ }4 M  {0 t& [, t3 \0 s' pあらゆるものを生けるがごとくに画きだしたという。いわば中国の伝統
5 n2 Q1 @: Y- b7 T的な大画家だ。
" z( x  L' Z' }$ K; R0 c- G/ G( ~ 
' t0 r/ I3 C$ A) ^# A あるとき張僧ヨウは、金陵(今の南京)の安楽寺から、竜を画くことを
' C' L% s+ c1 N" t! h+ ^: pたのまれた。彼は寺の壁にむかい、やがて筆をおどらせた。鼑狻─郡隲
" z# S( i3 c" b6 ^# D! \0 }' {むら雲をけやぶって、いましも天に昇ろうという二匹の竜‥‥、その鱗+ ~4 n; ~% A, E2 j+ r
の一枚一枚にも、鋭くはった爪にも、強い生命がみなぎっている。これ
0 h) f: X1 o4 _( g# b# Wをみて感嘆しないものはなかった。5 [9 c0 e" M$ y( r
 " g6 q1 o& U- y
 ただ、ふしぎなことが一つあった。竜の眼に、睛が画きこんでないのだ。眼はうつろのままだった。どう考えてもおかしなことではないか。
' @# z: U% ~- L! g  Yもちろん、せんさく好きの人々がほっておくはずがない。張僧ヨウが、
) Z) w0 \5 V7 s$ {+ g$ A; }理由をうるさくたずねられたのは、まあ当然のなりゆきだろう。% a0 d  t4 g9 }. J
 
4 K8 J9 p$ d, Z そんなとき、彼はいつでも言ったという。
. t) a: E+ a4 m# p' a' D / ?  H& j. S6 v
 「いや、睛は入れられない。
( b% w2 t- V. L4 }# t4 {5 Z2 H  あれを画きこんだら、竜は壁をけやぶって、, r& j$ U; B7 {6 S
  天に飛び去ってしまうのだ。」2 I2 l4 d# s. v+ X1 R% t% ~
 
0 e6 X! d8 S  B9 R% Y* J( f& I うそだ、そんなことがあるものか‥、もったいぶっているのさ‥‥。6 }. d% C) J, g; R; J" g- @% {' _
小うるさい噂がたったろう。ともかく、だれも信じようとしなかった。5 U' {* u* Y  ~/ y
睛を入れてみせてくれと、みんながせがんだともいう。
% D0 f5 ^, ?5 ?3 Z& b( x) W# E, b * s) x: x) f7 `- |* H- a
 とうとう張僧ヨウは、その双竜の一つに、睛を画き入れることになっ
& \/ x" o; ^" `, ?0 y+ ]9 R$ r5 Tた。彼は、墨をふくませた筆を、竜の眼にさっとおろした。ふいに、壁
0 s: ]* H" \, m/ _. V; K% w4 U! Jのなかから電光がきらめき、はげしい雷鳴がとどろいた。と見るや、鱗
2 Z2 o  p: K' B% ]8 M* Tをひらめかせた怪竜が壁をおどりだし、うつけたような人々を尻目に、) Y5 k3 L5 C9 V9 h9 s+ X, a$ V
はるか天のかなたに飛び去った。やっとわれにかえった人々が、また壁4 a  e& I! }) m9 l
を見れば、双竜の片方はすでにその中になく、睛を点じなかった一匹だ
8 `' w$ B  b% D1 d) hけが、まだ残っていたという(『水衡記』)。0 }# C. u* n6 |  s7 U4 Q) t
 6 l, _; X7 n7 _9 E
 このことから、「画竜天睛」といえば、物事の眼目になるところや、3 e6 n) A6 z3 A2 W. ]  d! N
最後のしあげをすることを言うようになった。逆に「画竜天睛を欠く」
2 J3 i( N9 \" P4 I3 o; oといえば、全体としてはよくできているが、だいじな一点が足りません! k# h9 x& X; G
な、ということになる。願いごとの成就するのを「入眼」というのも、) e6 q# A, H  m  Z; q7 D
これとかかわりあいがあろう。
% R4 g- }7 m0 e. c( } & c. M7 A3 z8 f. h7 T
 こういう孤高の名人の語り伝えは、われわれのあいだに、ふしぎな人% Z5 C: P0 U) `5 J1 ~
気をもっている。中国でも張僧ヨウのほかに、民間の名匠魯般などの伝
4 M* \5 {1 }/ n& P& w2 ^# x9 n/ r6 o説が多いし、わが国でも、飛騨の工から、応挙、甚五郎まで、かずかず
5 a; K4 `) k1 x& Wの話がある。画にかいた雀がとびだしたという、落語の「抜け雀」も、
1 g# s! F, k$ S1 @; Iべつに由来をせんさくされもせず、ただよろこんで語りつがれてきた。! J8 b1 s" ^% M, c) j% ^5 ?& A3 Z
すぐれた人間の力が竜を天におどらせ、木の人形に生命をふきこむとい
8 x7 I8 N/ O  U7 Nうこと、それがわれわれの心の奥底を、さわやかにゆすぶるのであろう2 ^* Y% w& a% R' H( @
か。そして、自分たちのほうは、願いごとが叶ってしまってから、やっ
' E) [( [( Q6 @1 Z' r7 yと目なし達磨に目を画きこむのである。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:55:48 | 显示全部楼层
肝胆相照らす
) V* z4 _# t7 m

7 W& X0 e& Z: }1 L, r 肝胆相照らすとは、互いに心の中を打ち明けて隔意無いことを示し
; w% ]1 {- d' i5 {合うことを言い、「柳子厚墓誌銘」に韓愈が書いている。
: u9 x" B! y) |  K) r) N+ A7 C! Q+ D + U6 y: E7 E5 t% Y4 [0 \8 x- r
 韓愈は厳しい現実主義者の眼を、彼が尊重する友情の世界にも注い
+ n! Z' X& z2 {0 _でいたらしい。李観や孟郊の様な良き友人を多くもっていた彼は、軽$ c( L. n/ N% N' E" E
薄な交際を憎んだ。1 u8 D3 A( S1 f9 @3 b) ]/ E
 
/ s. X# ?( e  C 似て非なる友情の本質を見極め、その信ずべからざる事を永遠の名
- g3 r; A. b; t% {9 ^3 }6 }7 ^2 h/ I文で書き残している。おそらく、生涯に幾度と無く出会った不遇時代
% r* z  Q) q8 i" ~  D5 O9 d8 k7 K! ~7 gに真の友情と然るべからざるものを区別する能力を身に付けたのであ
8 Z6 W5 G+ U8 m, b+ I- Oろう。「柳子厚墓誌銘」で次のように述べている。
# Z3 a  Y) K8 J 2 @8 o( C7 O% K/ ^8 e/ G
「嗚呼、人は困った時にこそ、初めて本当の節義が見られるものだ。
% Z4 t: m5 j. d$ n- l  W2 x$ @普段、無事に村や街に住んでいる時には、懐かしがり悦び合い、酒食
/ l0 y6 @! f) E: B" M5 s4 h7 p  n8 Cや遊びに呼んだり呼ばれたりして、大きな事を言ったり無理に笑い話
' Y/ f) ], W# pをしたり、お互いに譲り合い、手を取り合って肝肺を出して相示し、 ; k/ U% W& A/ t% b. u
太陽を指し涙を流して誓いをたて、生きるも死ぬも背かないと言えば、
; i7 g/ P% X2 Z3 l2 N' S6 a如何にも本当らしいが、一旦髪の毛一筋ほどの利害関係が生じれば、2 [2 p! h( L- N* {' x6 ~" n
今度は眼を背けて知り合いでも無いような顔をしている。落とし穴に
) Z  t0 D/ \, [落ち込んでも、一度でも手を引いて救ってやろうとしないばかりか、6 O) A' h0 w/ X; B  v, _! j
かえって相手を突き落として、上から石を投げるような真似をする者
! Z% Z# H+ u3 oが世間いたる所に居るのである。」9 P" [% @: P  O' {  B
 
: a4 N. D4 B: B, ] こう見ると肝胆相照らすという言葉はその発生に於いて、既に虚偽, Z7 @( F9 Z8 b! p( p% @6 C
の響きと、裏切りの要素をも内包している。本物の肝胆相照らす如き
8 a1 Z$ C& @$ _4 a3 X: [友情は、希有であるだけに、ますます高き価値がある。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:56:43 | 显示全部楼层
邯鄲の夢
  S+ E2 q0 a# O
. z6 s* t+ u& w/ _
 唐の玄宗の開元年間のことである。
1 G: G7 k. ]0 Y  C+ m7 s 5 L$ S* j& o1 Z
 呂翁という道士が邯鄲(河北省、趙の旧都)の旅舎で休んでいると、み7 T% l+ I3 y! j
すぼらしい身なりの若者がやってきて呂翁に話しかけ、しきりに、あく
6 [: i/ P) M! @* Vせくと働きながらくるしまねばならぬ身の不平をかこった。若者は名を8 ?. G& L% `5 O( P7 F  ]
廬生といった。
! X9 V/ i) W+ U6 }1 U. ?: A  D2 g   c; N7 `9 v  i9 _) U. _
 やがて廬生は眠くなり、呂翁から枕を借りて寝た。陶器の枕で、両端
4 M4 D& P" e$ ^' wに孔があいていた。眠っているうちにその孔が大きくなったので、廬生
# t' l6 N5 B1 Q  H$ u( ~% ^. uが入っていってみると、そこには立派な家があった。その家で廬生は清
- d: t5 ?& ^& r, s4 [河の崔氏(唐代の名家)の娘を娶り、進士の試験に合格して官吏となり、
/ M' W9 b4 s) z8 v6 w$ b( [0 Hトントン拍子に出世をしてついに京兆尹(首都の長官)となり、また出で
6 O# {& |! N: X* Wては夷狄を破って勲功をたて、栄進して御史大夫部侍郎になった。* g9 f; R4 b8 \1 v
 1 N7 W! ^7 {- U" d
 ところが、時の宰相に嫉まれて端州の刺史(州の長官)に左遷された。
( `1 [6 J1 x4 A: A+ h6 p9 bそこに居ること三年、また召されて戸部尚書に挙げられた廬生は、いく
8 c' Y$ S& Z/ m( J$ p& j) }7 L/ A. Xばくもなくして宰相に上り、それから十年間、よく天子を補佐して善政$ n# S- U' s3 {1 I( H8 z
を行い、賢相のほまれを高くした。' f3 H% X$ w7 w0 Z
 
9 u$ [. Y3 Y6 W+ k  \4 d; G 位人臣を極めて得意の絶頂にあったとき、突然彼は、逆伽趣筏撇钉╘! x0 I* {9 ]+ S$ y/ H
られた。辺塞の将と結んで峙绚颏郡椁螭扦い毪趣いo実の罪によっ
/ @; w0 ~& Z: Sてであった。彼は縛につきながら嘆息して妻子に言った。
8 u8 F, c6 r5 A( ]  d 
: {, k( ~/ h. _4 \ 「わしの山東の家にはわずかばかりだが良田があった。
- i* B2 ?* u: }6 V  百姓をしておりさえすれば、# u+ t5 ]/ d, h, {3 ]
  それで寒さと餓えとはふせぐことができたのに、6 k( S0 W  `! U. A; |- O
  何を苦しんで禄を求めるようなことをしたのだろう。! R& B" V( y; y0 p
  そのために今はこんなザマになってしまった。
) i9 Q- d  O- }2 j& P  昔、ぼろを着て邯鄲の道を歩いていたころのことが思い出される。
) y0 N4 e  ]8 ]  あのころがなつかしいが、今はもうどうにもならない‥‥。」
# d* I$ o2 Y/ w$ [9 ] " _% N# \: L$ X* z- L7 u
 廬生は刀を取って自殺しようとしたが、妻におしとめられて、それも' U; x8 Y1 _& C4 ~" o: d0 d
果し得なかった。ところが、ともに捕らえられた者たちはみな殺された
" ^% G5 ]6 E" b' O3 B; x6 [のに、彼だけは宦官のはからいで死罪をまぬがれ、驥州へ流された。  [1 ~1 x+ f+ @
 
6 V! n& r7 Y$ e# {8 i; Y( ] 数年して天子はそれが冤罪であったことを知り、廬生を呼びもどして. A0 k/ d4 e8 B4 }& ?
中書令とし、燕国公に封じ、恩寵はことのほか深かった。五人の子はそ
- a  v. y) b( I8 F! n% D/ tれぞれ高官に上り、天下の名家と縁組みをし、十余人の孫を得て彼は極- O9 i6 A$ T6 T$ d- \
めて幸福な晩年を送った。やがて次第に老いて健康が衰えてきたので、
2 m  r) o; ~) ~& N' Dしばしば辞職を願い出たが、ゆるされなかった。病気になると宦官が相( d- T! N5 u# z7 u! e. H
ついで見舞いに来、天子からは名医や良薬のあらんかぎりが贈られた。& _2 A  A+ p4 S& a/ p& F# o  k
しかし年齢には勝てず、廬生はついに死去した。
1 k+ g' e% k0 ] 3 _) V! Z/ f2 d2 t
 欠伸をして眼をさますと、廬生はもとの邯鄲の旅舎に寝ている。傍ら
9 E: k7 e- r+ t& mには呂翁が座っている。旅舎の主人は、彼が眠る前に黄粱を蒸していた
" p. R+ ~6 A/ _4 A2 [7 \$ q& ?! cが、その黄粱もまだ出来上っていない。すべてはもとのままであった。3 E5 }3 k: C, @) u  v6 C: e
 
/ S( C2 L" {# T/ X2 S- x, @" \ 「ああ、夢だったのか!」% N. F( Z5 V, M* k
 
* I3 {2 c4 t. t4 E) f 呂翁はその彼に笑って言った、
' J$ U; v4 A7 q0 R4 n& a 「人生のことは、みんなそんなものさ。」
7 j1 O# q9 l9 X' i8 v/ z / B8 d6 c: k. O( M/ E9 j# X. d
 廬生はしばらく憮然としていたが、やがて呂翁に感謝して言った。
  r. i4 ]: ?' K$ | 「栄辱も、貴富も、死生も、何もかもすっかり経験しました。. ~" S0 r7 k% {; C5 H
  これは先生が私の欲をふさいで下さったものと思います。: P. m# }  L5 r' h7 h6 ]
  よくわかりました。」
% L6 D6 `8 H9 P 
# G0 K6 X1 s, _% D; {2 T( k) |2 v6 t8 I 呂翁にねんごろにお辞儀をして廬生は邯鄲の道を去っていった。3 w1 |% n/ }9 Q9 Q/ O
 
6 {; `6 \$ O) v' Q 
& T8 p8 ]  }$ V' L& `% _ 以上は、唐の沈既済の小説「枕中記」のあらすじである。同じような! M) P- |% F3 e  u9 Y6 I( h+ e
説話の簡単なものは、すでに六朝時代の干宝の「搜神記」のなかにも見! }$ C( e$ u; n2 ~3 Y( u* D
られる。9 `) U( q4 q: L4 S1 l2 d
 「枕中記」より後のものには唐の李公佐の小説「南柯太守伝」、明の5 E2 O' B5 W' d7 C$ X, t6 b6 S& O4 w# ~
湯顕祖の戯曲「南柯記」が同じ構想のものである。' P7 A8 {( }9 c) Q2 a
 ! X' r2 x: f; C9 S
 この「枕中記」の説話から、栄枯盛衰の極めてはかないことをたとえ* E. F* c5 r) y  l+ A7 ~6 B
て「邯鄲の夢」とか「一炊の夢」「黄粱の夢」という言葉が生まれた。
) D+ l8 `' r5 H# O0 }( ?  K( G6 bまた「邯鄲の枕」とも「邯鄲夢の枕」とも言う。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:58:29 | 显示全部楼层
完璧
2 Q5 d) M  X; G: W  V

' |, P) k* j7 d 「完璧」の璧とは、環形に磨き上げた上質の玉、従って「完璧」と
) v# s' N/ [! T6 _は一点の非の打ち処の無い立派な(玉)の状態であり、「璧を完うす  O: ?( R2 b( b6 l# i, _# {
る」と読めば、立派な物をそっくり無事で元に戻すという意味でもあ
+ Y9 c7 J/ x& Y8 M0 [9 g! Mる。この言葉の出所になった元の故事は、やはり「璧を完うする」方; S( r6 B! V1 L7 ?7 w9 g
で、こんな話である。9 v# ]( I; w7 [& j
 
, ^1 b$ A1 {  Z* {+ @ 戦国時代、趙の国の恵文王は世にも珍しい「和氏の璧」といわれる
( _; V1 `* b0 ?1 I; s$ @. K3 G7 Z$ C+ X高価な璧を愛蔵していた。もとはと言えばお気に入りの家来の繆賢が
! l3 L4 @4 |9 A4 y' G$ {よそから手に入れた物を、恵文王が無理矢理に召し上げてしまった恰. {. o0 j2 q9 D5 M4 j
好の物だが、今では趙の国の名題の珍宝として、その名は遠近に隠れ, \5 [/ Q4 _' P4 {- a
もない。
$ {) a3 _& D9 h/ a ! Z* M% ]6 I* q# m9 o' z
 趙の国の西には、当時強勢になった秦の国があった。その秦の国の2 ]* q% X9 z7 H+ K1 s
昭襄王は、趙に伝わる珍宝「和氏の璧」の噂を聞くと、何とかして手  D3 `- e% P2 w' Y  n
に入れたくて仕方がない。さっそく趙に使者を遣わして、秦の領内の
- w& C6 t. W! P6 I- ^2 d) |十五城と「和氏の璧」を交換しようと申し込ませた。趙にしてみれば1 t9 y1 u7 u* S. m8 ?) Z9 N
至極難題である。申し出を断わればそれを口実に戦争を仕掛けられる! l' P: b3 O7 ?1 Y  I) ~8 r/ }' g: N
畏れがあるし、おとなしく璧を渡せば、横車を押すことが好きな昭襄/ P0 p5 [! s# t' ]
王の事だけに、それを受け取って十五城の話は知らぬ顔もされ兼ねな. `! F& o1 [" _! W; C
い。. {  w8 y8 l/ b
 / a0 e" p  V3 c1 r+ q0 @
 そこで恵文王は重臣達を集めて鳩首協議すると、繆賢が進み出て、
5 W  t8 e) A' E/ X7 x; D* J# H 2 U/ e6 |! o* a5 U! B
「秦の申し出は栅穗y題ではございますが、我が幕下の食客に藺相如
: k0 W5 Z( c, Y+ N7 oという知证扔職荬蚣妞蛡浃à磕肖辘蓼埂1摔胜椁星丐耸工い筏芢
" ~% ^! P! S1 l7 gもこの難局に処しておめおめ引けを取る事はあるまいと存じます。」
3 |7 Z1 ~6 N0 ~* K0 I) U 
* G; r0 {% o9 L2 W- q$ dと言う。さっそく藺相如を引見すると、果たして堂々たる面魂の頼も( Q9 O* Z5 W0 ^! c6 d' m$ s
しげな男、臆することもなく秦への使者の儀を引け受けた。
7 m: S* q! T+ ?9 ]% J' y& P $ N. o& P, w  h5 E
 秦では趙からの使者到来と聞いて、直ちに対面の段取りとなった。
9 X9 V% u, g& Q昭襄王は差し出された璧を受け取ると御機嫌斜めならず、$ d8 t, i9 c0 l; o
 9 v0 J6 E- b3 K6 u' u5 W& p
「ふむ、ふむ。これが名題の璧か、さすがは見事なものじゃ。」$ u$ ?: |3 X5 m7 v4 t$ v
 
3 f4 w# ?% S7 S1 gと並み居る寵姫や近臣にも手渡して、もうすっかり自分の物になった
& r+ T4 ~8 ~: _ような顔、そのくせ引き換えの十五城の話などおくびにも出さない。7 @8 g. t4 l% @
その様子を見て取った藺相如は、かねてこの事のあるを予期していた, Z( t( W4 e! p5 B0 r- P' k0 ?: H
ので、眉一つ動かさず、静かに進み出て言った。8 z8 u8 T$ P7 P: w- Z% }9 H
 
( g  w) \' W* @$ y  Q" }5 o6 E「その璧にはひとところ微かな瑕がございますれば、お教え申し上げておきとうございます。」  H! l7 q2 F2 e% q' S) o
 
5 n6 c- ]: u. o+ C: i+ X/ n言われて昭襄王が何気なく璧を手渡すと、藺相如は璧を手にしたまま、
- H9 y# b: _' `% g9 c* rするすると後ろの柱まで後ずさりし、怒りの形相も物凄く、昭襄王を: k0 W  f$ _. Y( R1 c
ハッタと睨んで呼ばわった。
! M2 n8 |% [3 I, B) ]* V ) I8 M) ]/ v0 @$ J
「王よ、我が趙の国は貴国との情誼を重んじたればこそ、かくは拙者' `2 I* z) ]( @% @; n) @
をして璧を持参致させたのでござりまするぞ。されどいま、王は璧の
0 z$ [6 ^6 g$ z, k  E- oみ取って、約束の十五城をお渡しなされる気持ちが露無い事とお見受7 s1 f3 }! d7 Y+ |; s
け申した。璧はひとまず拙者の手元に収め申す。ならぬとあれば拙者
# ?2 j) `# p! _" N$ h; j5 Eの頭共々この璧を、ここな柱で打ち砕きましょうぞっ!」
0 Z/ e9 x6 J7 E* S# |: P9 s7 w 
1 L5 A  T. B, N+ Z% s: @: p0 b さすがの昭襄王も璧を砕かれてはそれまでと、顔を和らげて交換の
- j! x, A8 ^! O0 Y約束を実行すると誓ったが、藺相如は王に到底その約束を果たす找鈂3 G, m! o$ P! N2 j/ Z5 `
なしと見て取って、口実を設けると璧を携えて宿舎に帰り、そのまま: |, T) A" R0 s, b
従者を変装させて璧を趙に持ち帰らせてしまった。昭襄王にしてみれ
# j3 @6 `( k0 vば、もともと十五城を手渡す意思は毛頭ない。璧を手に入れ損なった
/ f* g- Z  l5 v7 n$ ^. _のは残念だけれど、自分の方にも引け目がある。己を证盲刻A相如を
5 u3 N$ d( L* @小癪な奴とは思うけれど、またあっぱれ豪胆な男でもあるというので、2 R2 w3 ]# j; Y  V+ S: B
いきり立つ家臣を制して、鄭重に相如を持てなし、無事に趙へ帰らせ9 o& k. [# l* x5 F+ f) |0 i/ Z
た。」(「史記」藺相如伝)
5 K& E: a8 x# P) V . H9 R) n$ d+ R7 W2 r7 j
 この藺相如、後には将軍廉頗と「刎頸の交わり」を結んで、趙国の
/ p7 U: N0 {, ?/ ^! j3 S. _柱石の臣となった人物である。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:59:42 | 显示全部楼层
管鮑の交わり
/ Q/ [/ `& z' e9 e/ b$ F7 w7 |
5 ^! e  f. J: @1 A0 _" b
唐代の詩聖としてその名も高い杜甫の詩に「貧交行」と題して、+ ?$ T5 \" \/ R% X2 Y
 6 ~, H/ c3 V4 Q3 L7 o3 t
  手を翻せば雲おこり手を覆えば雨ふる、
6 u+ v* \( z& C* S& q  ふんふんたる軽薄なんぞ数うるを須いん。
  f5 ?5 X! {3 G, C4 s; y  君見ずや管鮑貧時の交わり、9 V' z& x6 g- @
  此の道 今人棄てて土の如し。
8 K' ]2 j7 [# f  `8 A; s 
2 O7 z& m3 l  D# f  c というのがある。その意味は、人情義理が地に堕ちた当世では、堅い
6 ?8 Q0 r+ Y: Y# g8 U+ m9 U交りをむすんだはずの友人でも、ふとしたはずみで気が変わり、全くお3 Y9 Q) K( ~5 q, D& G
話にならない軽薄さだ、ちっとは昔の管仲と鮑叔牙の間のような、貧富
& u: Y* A( }7 T変わらぬ交友ぶりを見習うがよろしいというのである。
2 T6 p6 p% x) q! \% N, B" ~5 O 
. g! z+ l* ?/ u. s6 D9 p8 Y$ u, W その管仲と鮑叔牙の交友ぶりとは?
" n) Z$ K- L! a/ k& D 8 |& ^- A2 ]2 I0 {
「史記」の「管(仲)列伝」によれば――
6 U. C% m0 p9 f; M 
! w2 p" j2 P) j3 I 管仲、名は夷吾、春秋時代のはじめのころの斉のひとである。若いこ" G. Z1 {8 K. ~6 s0 f$ ^  Z
ろから鮑叔牙と無二の親交をむすび、鮑叔牙も管仲のなみなみならぬ才$ |% ^0 d$ D) P9 a3 Z
智のほどに心から惚れこんで、いつも彼のよき同情者理解者であった。( ~+ ~9 b* `" t) L2 G, f
 $ s9 C! {! p- ?2 _1 r! ?
 のち管仲は召忽とともに斉の公子糾の側近に仕え、鮑叔牙はその弟君
! y* |6 m: D0 k! z; Y4 |1 gにあたる公子小白に仕えた。ほどなく、二公子の父の襄公は従弟の公孫- W4 q. F" X" T# K/ P2 v
無知の叛乱に遭って弑されたので、管仲・召忽は公子糾を奉じて魯の国0 T( }7 t# J( B! o
に、鮑叔牙は公子小白を奉じて筥の国に亡命した。僭主公孫無知が国人/ k0 }& F% y: d% ~$ [' x: R4 P5 l
に誅殺されるに及び、二公子は国君の地位を争うこととなり、従って管) I3 \9 w# X+ G8 z' H# z
仲と鮑叔牙も敵味方の仲となった。管仲は公子糾を位につけるため、一5 B/ e( e/ J8 `& A6 A5 g
時は小白の命をさえねらったが成功せず、小白はついに鮑叔牙や国元の5 b: K; T0 K1 T& q; i  N3 [. p
大夫高奚の協力によって位についた。これが春秋五覇のひとりとして名& |' j" M- C8 b2 x* X. O, Y9 A4 L" {
高い斉の桓公である。* J( |& Z) ?% ^& d1 Q: v( |$ C( C
 
( C9 m4 A+ K- K" W4 e 抗争に敗れた公子糾は、桓公の要求により亡命先の魯で殺され、その" S4 M1 Y+ g0 p* a$ J* T. T; U; u
協力者だった管仲と召忽は斉に護送を命ぜられたが、召忽は自殺して果
8 e% F6 ?7 w2 ^て、管仲ひとり従容として縛についた。桓公にしてみれば管仲はかつて
; h5 C6 m- M) I% ?* u- ]5 ^自分の生命をねらった不屈者、その首を刎ねて意趣を晴らすつもりでい
! u+ K. i' w( \  ?たのだが、鮑叔牙はかつての友誼を忘れず、しかも管仲の政治的才能に
! Y. r: d1 D/ W" P' R% x- L/ o( d1 W深く期待するところがあったので、桓公に向かって、
6 q8 \1 q. _! t4 V: U7 |/ F0 D- C 
$ o7 u# ?8 l2 u! X/ _' Z( @9 D 「御主君が斉一国をお治めになるだけで御満足なら、高奚と私とでも" n6 }8 E( x3 ~4 E/ [  c
十分でございましょう。しかし天下に覇を唱えるのがお望みなれば、管1 ~% k1 [  F# ^& B; G7 }3 ?2 G( |
仲をお用いなさなければなりませぬ。」5 X, d" i2 T3 u: l0 j% s3 O
 ) G4 b$ [! q1 d# g# ?
と勧めた。度量識見の大きい桓公は信頼する鮑叔牙の忠告を容れて、罪
8 O$ w5 u8 C8 v% j- o' s" u人たるべき管仲を快く迎えいれると、さっそく大夫に任じて政治に当た- g1 }1 v. y! Y' G( F; {
らせた。はたして管仲は大政治家たるの手腕を発揮して、あの有名な、3 r  p4 d1 B, L7 V, _- L6 w
 , x) C5 L' a3 M1 r; B8 v' f
 「礼・儀・廉・恥は国の四維、四維張らざれば国すなわち滅亡せん」0 p6 [& s( s; i+ u
                         (「管子」牧民篇)
8 v1 p5 Z5 N( k 「倉廩みつれば則ち礼節を知り、衣食足れば則ち栄辱を知る」8 N: X: V" h0 G: E9 Z! `+ p
 1 i& Z, P8 f* x; I  v
 ということばにうかがわれるような、国民経済の安定に立脚した徳本
) X, g- E/ i4 R, Y% o主義の善政を敷き、ついに桓公をして、春秋随一の覇者たらしめたので
2 W! F" K* ~. a& p1 Eある。9 L1 S3 }2 h" o! ?

! z/ L( U( w1 y5 } これらのことはもとより桓公の寛容と管仲の才智が相俟っての成功で
, G$ S; F9 Q" e6 F3 p) k2 Tはあるけれど、その発足点には鮑叔牙の管仲に対する終始かわらぬ友情
# s, U6 S% a* S( O$ q1 v4 oがあっての上でのこととも言える。だから後年、管仲は鮑叔牙に対する
& T( t9 ]9 H- A9 F& x* J感謝のまことをこめて、こう述懐している。
: w4 [( J( ~9 ]( H1 \2 z 7 a! ?; O. J0 W8 A
 「わたしはまだ若くて貧乏だった頃、鮑君と一緒に商売をしたことが( f  M! X" O. t* p4 X
あるが、その利益の割前を、いつも彼より余分にとった。しかし彼はわ; h/ a- m& g9 z7 }- n
しを欲ばりだとは言わなかった。わしが貧乏なのを知っていたからだ。
  \# v; Q' p0 j: z+ ?また、彼の為を思ってしてやったことが失敗で、なおさら彼を窮地に陥
7 S3 W# G. p% K8 Vれたこともあったが、わしをおろか者だとは言わなかった。事にはあた
( C7 o; E- ^  U% Z- Z9 u9 @りはずれがあるのを知っていたからだ。わしはまた何度も出仕してはそ/ ^. A/ j0 w: Y
のたびに馘になったが、それを無能だとは言わなかった。まだ撙颏
' T' `8 n) s# S8 d/ r/ @てこないのを知っていたからだ。戦の時にも、何度も敗けて逃げ出した: c% J6 C7 O) d, N
が、それを卑怯だとは言わなかった。わしに年老いた母のあるのを知っ
1 @; v! O. d& z  g  ?7 Jていたからだ。また糾さまが敗れ召忽が自殺した時、わしだけが縄目の8 v+ @  _4 p% B  W7 n7 }6 u8 `
恥をうけたが、それを恥知らずだとも言わなかった。わしが小事に抱泥
. m3 Y% [3 w# E; xせず、天下に功名のあらわれぬことだけを恥としているのを知っていた2 O3 D  S7 T. A0 d6 K
からだ。わしを生んでくれたのは父母だが、わしを知ってくれたのは鮑
5 `4 r3 n1 A+ _; X; J1 _君だ。」; X* ^# k  A7 q" U9 p
 
5 m4 ?1 l" _* Hこれほどまでに自分を知ってくれる友人があったならばと、私も思う。
$ `2 X! x: t/ T. E" m0 u4 U 
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:00:42 | 显示全部楼层
菊を採る東籬の下

+ ]! h2 e8 o) Y! D6 \* @6 n, z* I! u6 c8 O6 e5 A  B8 e
 晉の国が北方に侵入した異民族に圧迫されて建康(今の南京)に都し、
+ Y; O  g1 Z  x; q  s- D; F4 v東晉と称したのは西暦三一七年、それより隋が陳を亡ぼして天下を統一7 E8 [+ C" S* H/ M! ^+ H8 h. [
した五八一年に至る約二百六十余年の期間はいわゆる南北朝対立の時代( @8 ?: V, t" G  i: U9 {3 Q* [
である。
7 p$ \% r1 r1 k& o: {) V% G 7 y1 K' C( B- }. \" _1 L8 U! S: [+ C
 この時期は漢民族にとって不幸な一期間であった。北方中原の土地は
. d! P4 v; P7 y- E, l異民族に制圧され、主として揚子江流域に逼塞するのやむなきに至り、
  ?5 P' L+ L2 Rしかもそれを統率する王朝の威力は弱くて、宋・斉・梁・陳という四つ( C( a" l$ V+ D+ L9 P4 _
の王朝がめまぐるしく交代した。6 ^# ~' P! j( K" c; Q- P4 P
 権力は信用されず、文化は萎靡沈滞し、道徳と現実とには否定的とな
  H2 S2 i  H5 Sる、そういう風潮が支配的であったが、しかしこの逆境の中から漢民族, f: G' {5 R( G1 {  p4 S
は今までには見られぬ新しい精神的領域を獲得した。それは仏の世界と
9 ^; J9 C( H( D, i/ D; }か自然の境地とか、あるいは美的な洗練された感覚の世界とかである。% z# H8 T, |- t7 C
 ( @5 I3 c6 |0 f4 S
 この時期の中頃より少しく以前に生を受け、六十三歳で死んだ陶淵明
+ J" V6 W; `' ?2 kは、このような精神的新世界の最高峰であり、代表的大詩人である。淵; d% ~, Q; x; }2 o
明はいくたびか仕官をこころざし、そして失望し、四十歳以降の生涯を0 Q0 I; `& ~8 K* H' [1 I
一農夫としてすごした人物である。
% c2 w$ ]5 R- r  u1 b0 y7 C. y- G 
8 F0 _1 i$ M9 u( Q* \, G3 Y  菊を採る東籬の下、" q7 S; w: D9 z0 R
  悠然として南山を見る。
5 A0 {0 {2 W8 m; `6 g 
- S* }' C/ a$ D- S9 f2 B5 |$ u というこの有名な詩は彼の「飲酒」という題でまとめられている二十* R! n5 L4 s: H
首の詩中にある。彼の故郷は柴桑といって揚子江中流の南側にそびえる% F2 P4 _% l3 K. ^
名山盧山の西南方にある一村里であった。1 K" M) r# ~6 g' v
 
1 a( m' k9 Y% L' i* v0 j- x8 l そこは、0 m6 F2 t3 D# g1 `+ [. W" G
 ! Q) g% h! s7 L7 ], e! [
  廬を結んで人境にあり、
8 w) S1 F$ _% g2 q8 X) O9 s  w  しかも車馬の喧しきなし。
6 C) x8 _. E+ R 7 P$ \1 M' z9 T4 ^& Z5 t
 という場所であり、さらに続けて、- q- v/ o, O1 l$ f  N
 9 w* k0 a1 X; o; n8 s  o' o
  君に問うなんぞ能くしかると。; M2 F* Q. M2 t3 E
  心遠くして地おのずから偏なればなり。
: s, k4 _% O+ a* ?# L! _  菊を採る東籬の下、
7 S1 a" j1 t: Y9 W% @! H  悠然として南山を見る。
2 n! q3 X: _; ]+ b# w  [) s, A # x" P( |. g+ n$ B1 M: }/ z
 と彼は歌うのである。そこは人里から別に遠く離れた場所ではない、
7 B* _. _2 ^! c" f' ?. Iそれでいて生活を落ち着かなくさせるような車馬のうるささは聞こえて
$ W8 W6 O. Y- k* l8 S来ない。何故そうかといえば、自分の心が人間世界から遠く離れている& H, [2 \, A4 l2 g, Y, }
からである。そこで自分は菊を東のまがきに採り、悠然たる南山の姿を% s* h' l# _( @9 l: Z
見て楽しむのだ、というのである。つまり菊を採るとは田園の自然にし
0 x, \% ^. H1 \+ P7 tたしみ、そこにこそ安住の世界を見つけるという心境の象徴であるわけ
) e: \2 v7 q" C* u8 ~4 e# Kである。
% J5 f+ \6 c0 M5 c3 _2 n9 _ 
9 {- I  J8 W8 e* B さらに続ける。8 C% E2 x1 l% T
 
& k" R1 Q  w6 A% j! L" H  山気日夕佳なり、5 m8 o0 |+ y4 g: [1 P
  飛鳥あいともに帰る。
1 d6 [' f9 c. ?, k& T: q: z  此の中に真意あり、+ C2 m4 V7 q$ `$ |4 Y# L3 k
  弁ぜんと欲して已に言を忘る。
7 r/ z# N- c. h7 l & A2 R' W+ I" E4 u+ Z8 p9 z
 何の変哲もない菊を愛し、南山を愛し、飛鳥を愛する、そしてその生
, ]! w" t! @6 z, v  x# n1 u活こそ、権力と野望と貪欲が死にものぐるいに格闘しあう世界にわずら$ x" ~& M' r- F  j$ ^
わされぬ尊いものとして淵明は守り通そうとした。その態度を称して後( P! Y& d9 m/ Q0 A# K4 ~
世の人は淵明を田園詩人とか自然詩人とかいう。2 l' c- h" k) b" K) X% m/ J
 
" j3 r7 K7 R. T, u ところで菊をとって楽しむというのは、淵明にとっては悠々として余3 Q3 p, k3 h- {4 H# B) P9 _2 u: n
生を楽しむというような呑気なものではなかった。むしろその日の食事& L9 l- D. B! v; _7 V$ c2 h6 L0 p  x
にもことかくような恐ろしい貧乏な日々もあり、着物はつぎはぎのみじ
: J$ M1 E& f- M& e( Jめなものであり、家は風雨を十分にふせぐには足りないという状態であ- \, ?4 r+ f) Q) W  g
ったことを「五柳先生伝」という自伝で述べている。また「飲酒」の詩) H. h4 \5 `; F+ }* |1 v8 q
の序でも、長い夜は楽しみもなく、独りでいることが淋しくもあった、# l9 T4 j+ b8 A4 V6 t
それをまぎらわすために酒(酒といっても自分で作った濁酒)をのみ、2 m6 C; `/ K" r; l5 c6 X
詩を作ったといっている。
# G. a6 |( d0 C) g+ k- s- Q 
2 R' e, E# k" ~ 彼はいかに貧しく、また淋しくとも、ともあれ自己のまわりにある手' d4 B. y( ?4 i/ m6 T
近の菊や鳥や山や、あるいは家庭や、ひいては百姓としての生活を大切6 g7 }3 `. h3 Q* _( |) n
に守り通してみよう、自分にとって正しいと思える生活、このような手% C8 j6 S; F* A5 f0 }! a+ I; O$ `
近なものに対する愛に生きるよりほかにないと考えていたようだ。
0 ?& N4 i$ ~7 b" q+ ^: V% u9 I 
" _& R2 W/ G: [4 W 自然詩人といっても、彼が歌った自然は自分の家にある松だとか飛鳥1 W; ~( r0 ]8 I9 w, I8 _( y
だとか、あるいは雲だとか、そして、この菊だとかという程度にすぎな7 t2 ]) A' @; m) {, J' `
く、ごく限られたものであり、しかも平凡なものである。いわゆる自然
& {8 Z5 a/ l3 o; d# L詩人とか田園詩人とかいう名称から、ロマンティックな自然や田園を想
, D/ H( ?$ V: h2 l2 G& r像してはならない。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:01:52 | 显示全部楼层
奇貨居くべし
. D4 u, Y$ }& \& q2 Q; J

- `$ P- `6 z- x 時は戦国の末である。趙都邯鄲は国の衰えをよそに、中原文化の粋を3 i% q- k) F% x+ {% ]
集め、商業が盛んで、往来する諸国の人も多かった。韓の都陽テキの豪8 Z3 q5 J; A" w! F+ K
商呂不韋は商用でよく邯鄲に現われるのであるが、偶然、秦の太子安国+ @. l7 q5 v* d; B' n+ a1 n
君の庶子である子楚が、人質としてこの都に住んでいることを知った。3 ^1 r: T2 H+ s
話の様子では、どうやらひどく困っているらしい。それから数日、ふと/ l- @3 n# M- E: B8 |0 a- w7 I5 X
この商人の頭にすばらしい霊感が閃いた。
$ R9 M- M  v' A. C/ F) W' [! H 
! B6 ~. G8 k3 \" F ――この奇貨居くべし!
- b9 W' q8 C' v3 ~ (こいつは掘り出し物だ。取って置けばいまにえらい値が出るぞ。)
$ w6 t  T+ s. j; R; \9 i+ `. r 
6 f8 O2 |% q  N. Y 不韋はなにか大きな投機をするようなつもりで、すぐさま子楚の荒れ! d1 T& `  m% V+ V/ H
はてた屋敷を訪れ、' w1 U/ j/ f) r- F
 ) e5 j7 f- \3 r- m
 「ひとつ、あなたのお宅をお盛んにいたしましょう。」
: E# x! ^" M  [% ^0 \4 p1 G 
5 Y$ A! Q  y' E2 i$ k8 j と、突拍子もないことを言いだしたのである。冗談だろうと軽く受け0 F8 R& F. `) V3 {. f. a; x
流していた子楚も、2 q+ T6 O5 B" ~$ ?" R5 J
 
& M; q% x/ z7 z: y0 q% o 「いえ、あなたのお宅がお盛んになれば、自然わたしどもの家も栄え
. R0 @+ {3 N- F. r. Q  るという寸法でして……。」
7 K2 N* @" y; l' m3 q& a( E 5 Z! G6 d' h, v" |
 というなにか深いわけのありそうな様子に、奥の間に招じいれた。. }, \5 {# @, g: `9 V
: B" Q" c5 g) V) `$ G; i/ n9 g/ @
 呂不韋は声をひそめて、4 i& F- X3 ]) Q0 I, f0 Y7 k+ A
 
4 p  J5 O( I* A( ]& S# M2 E' G「よろしゅうございますか。昭襄王ももうお年ですから、3 G6 z+ x& t: A1 {
 やがてあなたのお父上の安国君さまが秦王におなりになりましょう。
: d( s4 N) e- z しかし正妃華陽夫人にはお子さんがありません。1 K8 Q& h# E7 W, i2 G
 あなたも含めて二十数人ある庶子の方々のなかから、
( v3 t2 x, C8 S" h 誰を太子におえらびになるでしょうか。
$ X9 _- F2 d) y( }2 q) n# ^; i 正直な話、あなたは有利な立場にあるとは申しあげられません。」! @- U) j" l# u' S
 ( `% @* P( m! F" ~
 「その通りだが、今さらどうにも……」
: l# H' i6 g# c% R- C+ Y) B0 m7 F 
( B6 S8 ^3 _" C% X3 G 「問題はそこです。わたくしには金がございます。; r  ]1 \6 c5 _$ q
 華陽夫人への贈り物や、+ }3 x9 L3 h/ H6 Y
 ひろく人材を集めるための資金は出しましょう。
& E; z6 z; @& g. T& u 直接秦まで行って、あなたを太子に立てていただくよう、% I; k: S& x  P- @) s
 邉婴猡い郡饯Δ扦悉ⅳ辘蓼护螭!筡
: t& f. e) o' z% P& c 
' ~9 U; c8 b; G% u4 w 子楚は手をとらんばかりにして、
9 S6 e/ a* r% g- @8 a) _% B ; r: G  h8 y6 B' n
 「もし君の言葉どおりになったら、いっしょに秦国を治めよう。」
0 V4 L2 a9 Q. P. q 2 [6 N" X  _+ Z& H8 |& I* s
 と、誓った。* m  \! U  ?) L+ m
 0 s2 X/ h0 q/ f( M- t) s
 呂不韋の財力と雄弁は、ついに不遇な一介の庶子を太子とすることに
, M. Y3 b  o2 j6 b* C" j成功したのである。そして自分の子を身ごもっていた趙姫を初心な子楚' W2 w4 P+ j+ @
に嫁がせ、生れた子が始皇帝となったのであるから、呂不韋の野望は見
& S6 z5 x3 H8 Q  A. m% E事に達成されたといってよい。子楚という奇貨は、呂不韋の手もとにお
% @3 K8 q9 w/ I0 ~" t4 n4 t' uかれて、ついに暴騰したのだった(「史記」・呂不韋列伝)。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:02:23 | 显示全部楼层
疑心暗鬼を生ず
% B9 C1 |/ x3 e

. O! U" }- S; P9 Y4 q) m6 k$ s 疑心は暗鬼を生ずる――先入観は往々にして判断の正鵠を失すると言2 j& A4 _8 o8 c' j+ L+ W- a
い直してもよいであろう。その一例として、列子は「説符篇」に次のよ
: }4 f" @- ~* ?うな寓話を書きしるしている。
9 \" G+ y- Q* V& w% ? % E" J/ Q8 r5 h9 [
 ある人が持っていたオノを無くしてしまった。誰かに盗られたに違い
0 l4 B9 }% O" Y! @4 V! iないと思ってみると、どうも隣の家の息子が怪しい。自分と出合った時- n8 @8 Y+ o% c9 p+ x+ a; }2 Z6 |
の挙動も、こそこそ逃げ出しそうな様子だし、顔色やことばつきもおど
$ A1 z. n) x0 [おどしていて、オノを盗んだのはてっきり彼奴に相違ないと思われた。
; D- {5 Q8 S8 S4 P. Q; N# ~ところが無くしたはずのオノは自分が谷間に置き忘れていたので、後に
0 L" Q# |; p8 uなってそこを掘りかえしているうちにひょっくり見つかった。おやおや- y1 i# O) t; p+ c9 }
と思いながら家に帰って来たが、さてそこで隣の家の息子を見ると、こ
0 a! L9 @5 I1 lんどはその起居振舞いべつだんに怪しいとも思えなかった。
  ^5 m+ _4 d, C8 D7 J* \2 @# T4 I# ` 
$ @# c) p. B" e1 Z9 ?9 I つまりじぶんの先入観で、怪しくない者までも怪しく見えたというの0 x' i' r- }5 h6 M" d! k- i
である。だから諺にも「疑心暗鬼を生ず」といい、「万事紛錯、みな意* j$ j( X* v$ r$ q6 Q6 ~
より生ず」という。なかなか人情の機微をうがった話であるが、警察官* V& X' c1 s( \* R
や裁判官にこの伝でやられては大変なことになる。
1 Z$ u! Y7 [1 Z, Z9 d : Z& j3 |) @  e2 B3 h
 「説符篇」にはもうひとつ、こんな話がある。
5 U" [7 M; P2 N1 q2 s) x ; ^) y) O% J8 L: Q4 r/ n+ {" q
 ある人の庭にはえていた梧桐が枯れた。すると隣の親爺が、
$ e) v$ B( ^7 F0 H% i/ B% }5 X4 M; ~ 5 T8 Y1 q/ e: n
 「枯れた梧桐は縁起がよくないようですよ。」. h, p$ i% c- z) x
 9 y1 S0 v) I9 a* [' s
 と忠告してくれたので、その人はあわててそれを伐り倒したが、隣の
, ]6 M& c8 @% N+ V$ H: P$ C親爺が薪にするからそれを譲ってくれと言いに来たので、すっかり腹を
0 L: F0 V5 t; Q立て、6 f" s0 }& r( a: G& g+ _1 r; ^) I
 ) o/ N9 e! ?5 G) P
 「さては薪がほしいばっかりに、おれをだまして伐らせたんだな。( c6 C9 ?& ?# `2 w
  隣り同士のくせに、そんな陰険なやりかたってあるもんか。」8 M+ S4 S" `( _) v1 T( W, j" T
 
4 h" X' V+ {6 j5 Z  h( V) s と怒ったという。9 d. z: [0 I: p, x# L( k7 ~3 O
 
2 O1 l1 w9 D* i6 N2 S さてこれはどう解釈するか。隣の親爺に陰険な下心があってのことと
5 ~) R8 h& I- R2 s( Y% N: t3 T8 [すれば論外だが、そうでなかったら、親切な忠言が相手の疑心暗鬼によ* ], j2 R4 \5 P/ y$ v. g
って、とんだ嫌疑の種になったわけである。この話をもっと面白くした, H9 C9 \- F3 j- f& q/ A
のが、「韓非子」の「説難篇」にしるされた話(「説林篇」にもほぼ同様の話がある)で、それはこうだ。
# J- r3 \/ ?6 K1 u 
. U8 }" c( }- }  u 宋に金持ちのひとがいた。なが雨が降って邸の土垣が壊れたとき、息
. x  p$ N1 ?2 o9 V5 m子がそれを見て、
6 |0 [' n, g% O* Q$ J2 V% ]/ X4 D 
7 l5 G9 a; h+ H 「はやく修理しておかないと泥棒にはいられますよ。」
, j1 k, n" c5 \ 3 o! c9 K5 T6 s6 Y& u. U
 と忠告し、隣家の親爺もおなじ忠告をした。ところがその夜のこと、( G5 A+ P% y/ s1 M
はたして泥棒がはいり、ごっそり家財を持っていかれたが、金持ちの家7 \$ n" L+ }6 y7 v. l# a, a/ O2 S
では、息子には先見の明があると言い、隣家の親爺にはどうも怪しいと( A7 S. G' B' w+ t' I0 S0 q
嫌疑をかけたというのである。* O" y* c* p) W4 N* `) \
 ( \0 {) d" O7 e' t8 v
 つまりおなじ忠告をしても、聞くものの先入観で、先見の明とも考え: K& _$ a6 _8 n! |+ E# `) g
られるし、泥棒の嫌疑もかけられる。人間の心というやつはどうもあま7 E9 P0 Z: z& v1 _& d0 J
り頼りにはならぬものらしい。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:02:46 | 显示全部楼层
木に縁りて魚を求む
9 z+ f% Q- I3 P. P% {$ C8 }$ Y

' y. C3 y+ P/ V. s+ ]: w) m8 y 周の慎セイ王の三年、孟子は梁を去って斉国に行った。もはや五十を3 z" q4 }1 n4 I/ v" Q
越していたと思われる。% n* W1 w- c1 ?+ ~0 ~6 M( \# Q
 
4 u. N' [1 o/ ], b' R 東方の斉は、西方の秦、南方の楚とともに、戦国諸侯の中でも大国だ
: Y! Z1 d- m8 m9 x7 Wった。宣王も仲々の器量人だった。孟子はそこに魅力を感じていた。だ; f1 i9 H# P4 l; I) w5 w) I
が、時代の求めるものは、孟子の説く王道政治ではなくて富国強兵であ
/ n+ i& Q- l$ I: i' d0 Xり、外交上の策吱D―遠交近攻策や合従策や連衡策などであった。
; Q2 f( p+ {0 e& ^0 r& ^ 5 e! k6 \* k& P8 V
 宣王は孟子に向かって春秋時代の覇者だった斉の桓公・晉の文公の覇
  j7 S4 }+ |# a! g2 t業をききたいと言った。宣王は中国の統一が関心事であった。, D6 t( D: T+ F& S, d$ h5 H
 
1 i  U! m: H6 K' x7 t2 f3 ]2 j 「一体、王は戦争を起されて臣下の生命を危くし、, E, C; b1 u2 T: _
  隣国諸侯と怨を結ぶことがお好きなのですか?」
& L" o4 @/ Y7 L: i9 N7 y, b; X4 j: A   a/ c$ N9 q4 j: z" i. @
 と孟子はきいた。
6 ~' y+ N* E9 L 
5 g4 s. P' l4 a+ i4 y! P/ A  | 「いや、好きではない。3 M5 S+ K( n8 [
  それをたってするのはな、わしに大望があるのだ。」6 k) v# }) ^5 d/ C; ^0 |
 8 p5 ^( ~0 F0 H
 「王の大望というのをお聞かせ願えませぬか?」
3 p& @# G9 H3 H9 k. V- G , M( C1 F; d0 p& k  c8 ]$ M
 仁義に基づく王道政治を説く孟子を前にして、宣王は少し照れ気味だ
6 V# C7 c' W' @, c. G) L  P* Fった。笑いでごまかすだけで、語ろうとしないのだ。そこで孟子は誘い
- ~/ D6 b& E2 W+ J; u3 Wをかけた。戦争の目的は衣食でしょうか、人生の娯楽でしょうか?
" e' I5 o9 ~! N 
5 f. u" k3 _( ]) O& {% _& E. Z3 {/ c 「いや、わしの欲望はそんなものではない。」9 F; j4 U) L* z
 ! l9 z. A1 _- C* j2 S2 U6 V! N$ W
 宣王は孟子の巧みな弁論術にはまりこんだ。孟子ははげしくたたみか. c- m1 _2 h: y3 Y! \2 c( r
けた。8 T, w* d# B' Z
 4 v* _$ @. [0 S3 Z. b9 y, b7 y
 「それではもうわかり切ったことです。領土を拡張して、秦や楚の大
. f; R5 u6 q  a! m4 E- F! B$ s( }" F  国を挨拶に来させ、中国全土を支配して、西方の夷どもを従えよう
1 q! d% y  f& A8 J  b  となさるのでしょう。しかしそうゆうこれまでのやり方(一方的な# _; A3 }/ H6 c, X
  武力)でそれを得ようとなさるのは、ちょうど木に縁りて魚を求む. d& ~' _; \  C2 b# D
  ――木によじのぼって魚を求めようとされるのと同じです。」6 z7 [% f2 c3 k& z8 [; a
 
6 i& b& c+ n( X* ^ 天下の統一を武力で計ろうとするのは、「木に縁りて魚を求む」るよ
! ^: T: c% |, Y$ bうなもので、「目的と手段が合わないから不可能だ」と言われて、宣王
4 x% R% h& q' {: @: W0 u+ Iは驚き、意外に思った。
+ K: R& a: _8 n5 M) E3 c0 G9 k 
& L1 e! K4 }8 i# [+ @ 「それほど無理かな?」
, Z& t" i4 C* }: @* T0 L$ w 5 C1 E: ^5 }2 l+ M6 S
 「いや、木に縁って魚を求めるより無理でしょう。木に縁って魚を求. y2 O4 G+ L! x& c5 p* ~. f, [; T
  めますのは、魚を得ないというまでのことで、後々の災難はありま( p( P4 }/ k( d: L; r
  せぬ。しかし王のようなやり方(一方的な武力を用いる)で、大望
; D; k- U, G( b* i3 Z, N  《領土拡張云々》を達しようとなさるなら、心身を尽くして結局は. G" |9 z: {( @7 _
  民を残ない国を破る大災難こそ来たれ、けっしてよい結果は来ます( [8 L/ _' I+ C+ w2 u" ^: r' P6 F6 X
  まい。」+ D  B$ |/ p# |+ T8 m$ W
 & M+ @/ c$ A7 o3 I+ R# y/ B1 H
 「後に災難があるわけについて教えてくれぬか?」' q) y3 O; ~+ W! g2 O0 v
 
: X) m4 s  X6 @1 `$ ^3 s と宣王は膝をのり出した。
! j% \) U- t, P8 `6 O) d9 h , f5 U. H" o- O. H# K4 }
 こうして孟子は巧みに対話の主導権をその手に収め、仁義に基づく王% g) e9 ~5 J% n% y
道政治論を堂々と説き進めていったのである。
# q9 E4 m1 Y* }5 H- v                     (「孟子」梁恵王篇第一)
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:22:00 | 显示全部楼层
屋上に屋を架す

  B/ Q! j$ ?$ }' d) x& f( {' j5 `: ?
 『三国志』に出て来る蜀と呉を亡ばした魏は、天下を統一して国号を7 f$ r1 x2 s% \- R, q7 H% N
晉(西晉)と改め都を洛陽に置いた。一方亡んだとはいえ、呉のかつての
$ ^7 F+ R! [* T) L* X都である建業(揚都=南京)は揚子江にのぞみ、後ろに山をひかえ、風光- N5 o- ?% {/ ^( m# ~
のすぐれた繁華な都城、依然として江南の中心地であった。
% ^# E& ?) ^0 Q# k1 { 
; i) W+ E+ _, T$ s* i そのころ、洛陽の都に★仲(ゆちゅう)という詩人がおり、絢爛たる揚
0 a4 U% P1 q( n% X8 g9 r5 T1 }  ^都の賑わいと風景をたたえる詩を作った。その中に「三二京、四三都」
% b2 e3 C  ]6 W( K4 W) }$ X) Q* K$ lという文句があり、この言い廻しが特にすばらしいと評判になった。都, p/ X4 j. j: P* v" F
の人々は、みんな争ってこの詩を写生し、壁にかけて鑑賞した。このた7 k% w, T' A( }% C) h! z+ \* p2 t
め、紙が足りなくなり「洛陽の紙価貴し」という状況を呈した。
8 Q9 d, p* C8 y' q8 Q/ T4 j; c - n  ~+ T0 h  g  {* ]# I- U- P; ]8 [
 だが、その詩を見た謝太傅(太傅とは太師、太保とならぶ三公の一つ)
. |9 q1 F3 W3 W5 O& p- i/ p6 nという高官、せせら笑っていった。
+ i$ ~8 D3 [" W 4 Y) _# M: ~& I& Z$ S
 「なんだ、あんな詩なんか、8 o7 F+ K8 }  b7 @5 L
  まるで屋根の下に、また屋根を作ったようなもので、
7 l$ d9 a% z/ C$ Z) V  F* _% K  同じことを繰りかえしたに過ぎんじゃないか、全く下らん。
+ d8 e" t- ?$ n1 P( D  あんなものに騒ぐ奴らの気が知れん。」
2 F( B0 I8 [6 Z  z& ? $ w! T8 P$ v- u4 _1 Y! v
 この話は『世説新語』に載っている。
2 u2 L7 v3 v* q7 J, l: @- t$ E 
7 X& Y4 i: C7 h4 L0 ?, \ 
' B0 [! y3 R; X0 |; j もう一つの話。
8 B/ w- g; h! K7 u 4 z  Y- @6 c4 _% P& u2 C
 これは北斉(南北朝の中の北朝の一国)の顔之推という学者の選に成る' {0 w" P( N* D: o
『顔子家訓』の序に、一篇を立てて書いてあるものだが――。
  _7 \$ U- f. x/ O: ?, e% U+ U 
# R7 N- k, b$ q$ k8 O2 U 「晉以来、訓詁の学という儒学の研究方法がもてはやされ、各学者6 E4 L/ z. V: g% l
  は争って、むかしの学者の著書を現代文に書き直すことをやって/ j% a# w! m+ }  ~' `
  いる。だが、これらの学者の書いているものは、みんな理論の立
5 i+ U6 H/ E* E) j' j  てかたが重複しており、同じことの繰りかえしに過ぎない。まる+ }; M0 {" n$ B& ~$ Q
  で屋根の下に、もう一つ屋根を作り、床の上にまた床を張ったよ  b1 ~- a9 B# B8 |# O% e" ?. |1 X
  うなものだ。全くムダな労作ばかりで、見るに値しない。」- X; J5 [! k( }9 D1 M. Q, v, @
 
; u( E# F; R  C  i: `& L 以上のように、原点はいずれも「屋下に屋を架す」となっているが、# A" {% _$ f$ i6 X$ O
いまの日本では、通常「屋上屋を架す」という言葉が使われている。$ d; c$ h5 _( c) M3 h3 V
 . S  A/ ~4 V2 J+ x+ n0 K
 いつごろから、こう変わったかは知らないが、おそらく頭の良すぎる
3 Z# q2 W1 D' {& v& ~(?)理屈っぽい人が現れて、考えたのだろう。
. X% M0 p$ Z" C0 s2 U1 H# M 0 g0 \  n, y$ a6 \: X+ e
 「屋上屋を架すというのは、どう考えてもおかしい。第一、家を建
0 A" a: }* ?' H  てるのに、一旦造った屋根の下に、また屋根を造るなんて、技術
& J. [  _* z$ G! o4 v. q, _  的にムリだ。むしろ、屋根の上に屋根を張る方が、実際にはやり$ \! a& C7 ]: t
  易い。現に、奥州平泉の中尊寺の金色堂は、その外側を鞘堂とい
* |* x# K& j2 ?0 P. b5 i! z( `  う保護建物で、スッポリ包んでいる。だから、屋上屋を架すとい/ {/ q, e  f  P8 O
  う方が、重複するという意味を表すために論理的かつ実際的だ。」# H6 ?6 a1 p$ g
 
+ ]! a6 W% N( G' d4 x! ~' K ともかく「屋上屋を架す」が日本では使われている。もし、誰かが考
3 G6 f5 u- x, ^1 P# g  ~えて、こう変えたとすれば、その変え方もまた「屋上に屋を架す」たぐ
$ A& E6 w* f1 v+ P, aいともいえよう。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:23:26 | 显示全部楼层
己の欲せざる所は人に施す勿れ
# ~: g( H) y2 u1 H6 K, q# p
1 |# h& D, k$ S' |) P3 r( n
 叔孫武叔という魯の大夫が、7 B2 Z8 ^( Z( T* ?# p( q1 q
 2 W. x; D, P4 ]0 h% [/ F) w
 「子貢(孔子の高弟)は仲尼(孔子の字)よりも賢人だ。」(「論語」子張篇)
" ?# V3 h* s5 z 
  g6 C" w4 \5 Lと評しているように、子貢は、世俗的な知恵と才覚では人並み秀れてい3 r: [7 r: U8 |
た。ところで、世俗的な知恵や才覚は、人間社会を対象にして働かすも
$ h3 l. w3 i9 }8 h! G$ `/ Q9 gのだから、当然、[自分]と[他人]という相対的な立場に自身を置いてい# w1 U  c; \4 l/ ~' O
る。そういう[人間]相手の世界に生きていれば、秀れていればいるだけ; ~2 J) G8 p* ]& p) ~8 d9 ~
に、自己を過信もしようし、己惚れもしよう。或る日、この子貢が、
/ b7 ^4 f6 U3 N$ z) R7 Q[どうです、これはいい考えでしょう!?]といわんばかりの得意げな顔つ8 w4 O7 X/ s" g5 G# C
きで、
3 f2 w( G( i* P' T& ? 
  {' ]9 }2 _3 m5 \$ n: H 「私は、自分が他人からされたくないことは、
5 v' }! A  T4 S  自分でも他人にせぬようにしたいと思います。」
! W  @. k' Z8 T ' k1 F* _$ X+ h5 o
と言った。孔子は、子貢の鼻先にブラ下がっている[自己意識]が気に入5 D% Y6 l& |7 R. L- P
らなかったので、ピッシャッと叩いた。7 Z# ?5 Y- r5 M" d/ ^4 g1 D# n
 
2 K2 z  r$ E+ H: [5 Y4 E8 w 「そいつは君にはできないね。」(『論語』公冶長篇)
  Q) A6 k7 d* G3 o! y; [ 4 j7 f" c, m2 R1 I: K+ _" L& o
 孔子は、己を虚しゅうして[天]の権威に順うこと、その[教え]、すな
2 ^0 c" z7 u" t. t4 h1 }わち[道]にいそしむことを、人生の本義としている。従って、子貢のよ& B' Y- _/ ^! N4 D
うな[自己意識]を抱きながら、他人に強要しないという行為は、事実と5 q- t7 ^" t5 R' g) e1 L; N0 C
してあり得ぬことと思われたのだ。$ S( U; ?. z" c/ u$ i9 S4 k
 
" s: t& D0 y% H" S# j: o しかし、子貢のこの思いつきは、我執を捨てて天に帰一するための要, s2 s% `/ \% Z* G
処には相違なかった。そこで孔子は、子貢から謙虚に、4 C; C* }! j0 v! G9 l$ {% ]0 Q
 - P0 A2 Y" {. p# U
 「何か一言、終身努めねばならぬような言葉はないでしょうか?」
" {" Z4 k! E3 w0 m 
  K  z2 T; e' r1 E7 x$ J. y と聞かれた際に、
% y* {. k' X4 h! Z* O 
" ?+ z$ g$ s/ d/ \, M ――それ恕か。己の欲せざる所は人に施す勿れ。, O; \  i+ I8 u% i$ N
  (其恕乎。己所不欲、勿施於人。)(『論語』衛霊公篇)
! L' G2 d0 Z9 v7 s+ N  (それは[思いやり]だろう。自分の望まぬことは、他人にするな。)7 b8 }3 `1 x5 w) z
 - ^# v0 K& S& Z* J# a
と、子貢自身の着想を子貢に返してやったのである。[恕]は、自己を抛/ t5 P3 E1 ]+ @6 j
棄する所に可能となる。従って、孔子はこの言葉によって、[我]から離
& G% g5 c, W$ ]3 mれよ、ということを教えたのだ。そして、この教えは、高弟の曾子が、
, g/ G* x; d7 g& ]. S* l 
5 z% h0 m/ m- H0 \2 F# G$ N0 y, ? ――夫子の道は忠恕のみ。(夫子之道忠恕而已矣。)6 D( K: O; `' c* q2 Q" O$ T
  (先生の[道]は、找猡人激い浃辘摔膜搿
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:24:03 | 显示全部楼层
骸骨を乞う
5 z, l- Z( _0 Y% e# C' O; S8 r* [
7 M# u0 I5 O6 `* O( d; @% m
 漢王劉邦(後の高祖)が天下を統一するには、幾多の苦難をなめなけれ) z" T7 f1 R8 e
ばならなかった。なんと言っても楚の項羽は強敵であり、しばしば窮地
! g, b% y" c3 X. v" J; [/ G% Wに追いこまれたのである。
9 x6 C. a/ Z  s2 T6 c1 v& u# } 4 W" ]; W4 i5 A" b
 それは漢の三年のことであった。漢王はケイ陽(河南省ケイ陽県)に陣
/ `3 P( S; R8 s5 g9 o7 v取って、項羽に対抗していた。前年、北上する楚軍をここで食いとめて
& ]0 L5 ^6 F3 C8 \7 G( U9 uから、漢王は持久戦を計ることにした。それにはかんじんの食糧を確保/ A8 l) p0 W1 D8 K
しおかなければいけない。そこで輸送路を作ることに心砕き、まず道の1 o6 l% e6 p8 T5 y- n8 Y" k
両側を塀で囲い、その道を黄河に続けて、ケイ陽の北西に当る河畔の米
% [: r9 z% }$ K8 X( {0 \倉から撙螭抢搐毪瑜Δ摔筏俊) \; b! }* z% i# N
 ! l4 E0 }- y0 [- |2 J& d8 a
 しかしこの輸送路は項羽の攻撃の的になり、漢の三年には幾度も襲わ# N1 T4 U8 Q9 |$ |& l
れて強奪された。漢軍は食糧が乏しくなってしまい、重大な危機に見舞
5 o# W! n  w; X. C# Vわれたので、漢王はやむなく講和を申し入れて、ケイ陽より西の方を漢: p. ]5 C  c: T3 K1 u. o
として認めてもらうよう願い出た。項羽もこの辺で和睦したいと考え、* j) C5 c& h. J7 ]6 P. N! `
そのことを亜父(父に亜ぐ者)として一目おいている范増に相談した。し& p- i3 y- d. Y! _" F9 t
かし范増は反対した。
5 \1 W4 f& J. h$ u7 S$ h5 a% H" M 9 m/ a" o0 y, p% [5 p9 L3 w
 「それはいけません。今こそ漢は御しやすい時です。
6 Q: o( |4 i% X# e* K  ここで討ち取らなければ、必ず後悔しますぞ。」* t8 `' o& I! a- I! C
 ' E4 A7 k; Z7 k% R/ d; E
 この反対にあって、項羽もその気になり、急にケイ陽を包囲した。さ9 I  v; `, ], m2 T% B" o
あ困ったのは漢王である。しかしここに陳平という人物がいて、一策を8 s2 s8 f! _0 l. x
計ることになった。陳平はかつて項羽の臣であったが、後に漢王の下に3 }8 n, V4 ^) {
走った人で、智略にすぐれていた。彼は項羽の気短かで早合点する気質
6 j' C: K5 d: e( x1 aを身をもって知っていたから、項羽と范増の間を割けばよいと考えた。/ a4 O! l  E+ l) P3 N3 T
まず部下の者をやって楚軍の中に「范増は論功行賞のないことを怨み、
, g; k, M3 s4 L1 N項羽にはナイショでひそかに漢と通じているのだ」というデマを飛ばさ
* \& c7 E) P3 R8 dせた。
3 p  a# ~; p6 [ : b9 S# [: A8 y% `
 単純な項羽はそれだけで動揺し、今度は范増にナイショで、講和の使
9 b7 n! n5 l0 W) U7 _者を漢王の所へ寄こした。陳平は張良ら漢の首脳とともに、慇懃丁重に
2 |$ z, w, S1 `使者を迎えた。また牛や羊や豚の肉をまぜた飛び切り上等の料理を出し8 ]# O  p, D  V6 e- H
て厚くもてなした。そして何げなく、. A# _3 L. q* Q% g5 K; i
 
1 a  B: H7 I$ a, ]) \( S$ X4 j% x) ~ 「亜父はお元気ですか」と聞いた。( J. ~$ c* V; ?# x2 N; ?
 使者は第一に范増のことを聞かれたので、いささかむっとして、& {$ {$ R0 A2 ~1 L7 ?8 b1 i
 「私は項王の使者として参ったのです。」
- e4 N& l' X; N と言い返した。すると陳平はわざとびっくり仰天して、
) i8 a6 \7 q. M% T& f" S2 A 「なあんだ、項王の使者か。
, s( |. n0 ^6 A- n, v3 [, n( ]  私はまたすっかり亜父の使者だと思っていたのに。」
! q# V: |$ R: n & U% {. h- t+ m
 陳平はいまいましそうに一旦出した料理をしまわせ、お粗末な食事に
9 q" Z+ i0 A5 E- o" j2 w6 _変えさせて、そのまま退出してしまった。
6 P5 j6 I) x9 [# w1 D + B* \, S6 a  \
 この事を聞いてカッとなった項羽は、その鉾先を范増に向け、漢と内, `* I8 k" F7 }1 l  J- I
通しているに違いないと判断し、范増に与えた権力を奪ってしまった。4 V' q  {, @& c) g2 a
范増は激怒した。: F, G* H  Y( a: @- B! Q
 
$ `- X, L8 _3 F- j 「天下の大勢は定まったも同然ですから、王御自身でおやりなさい。3 L* h, Z* ?; y$ M/ Z% D/ B! G
  私は骸骨を乞うて民間にうずもれることにしましょう。」$ [9 [: T6 G: ?% }
 " O) i4 b5 b, Y' i# g
 項羽は直ちにこれを認め、愚かにも陳平の策略にかかって、唯一の智* B. Z; b3 R9 _% s0 D5 W# A- W
将を失った。范増は楚都彭城(江蘇省徐州)に帰ろうとしていたが、途中1 l/ d3 V) t! C
激怒が過ぎたのか、背中に疽(悪性のはれもの)ができ、七十五歳で死ん" O8 Z+ c2 r$ R: D) A9 D5 F
だという。! M1 O' X2 j7 _! H* B, d* K2 B
 
0 c7 M8 J; a6 j# i$ @ 
) u6 u1 S9 m% E: ]0 ^6 s8 [ 以上は普通「骸骨を乞う」の出典と見なされる『史記』の「項羽本紀」; c0 K) ^' K1 g, |3 D  X
によったものだが、原文は「骸骨を賜いて卒伍(平民)に帰せん」となっ6 R6 R8 Y9 V/ k9 W
ている。「乞う」という文字が見えるのは、『晏氏春秋』や『史記』の$ Y9 x; ^7 _# ?& h2 l* p6 i- P
「平津候伝」などであるが、ここでは不問にふしておく。
" f/ i8 M, T* y3 X/ p( O  h2 s 
( @) T. X+ W9 M2 _3 t 「骸骨を乞う」というのは、自分の一身は主君に捧げたものだが、そ2 ~2 ]0 A; I9 N$ I
のムクロを自分に下げ渡して欲しい、ということで、結局「老臣が辞職+ U) o: @2 ]1 {8 W" d
を乞うこと」「役人が辞職を願い出ること」を意味する。
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