仁孝天皇の皇女和宮(かずのみや)が、大行列で江戸に下ったのは1861年(文久元年)初冬。翌年、15歳で徳川14代将軍家茂(いえもち)に嫁いだ。幕府の権威を保つための政略結婚だったが、和宮は同い年の若将軍と相愛の夫婦になった。5 F9 h. \/ N1 ]$ M5 [4 x- R, T- ^
6 k$ ^- p/ I$ y5 k C 家茂は長州征伐の陣中で病没する。20歳の亡きがらは、妻がねだった西陣織と共に江戸に戻った。和宮は〈うつせみの唐織衣(からおりごろも)なにかせむ綾(あや)も錦も君ありてこそ〉と泣き崩れたという。
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, T# Q4 r( u& J( ^% b 上野の東京国立博物館で「大徳川展」を見た(12月2日まで)。将軍家のほか、尾張、紀伊、水戸の御三家に伝わる品々には、天皇や公家をも制した武威が宿るかのようだ。東に「落ちる」前の和宮が宮中で着たらしい打ち掛けも、初公開された。' s1 g" u0 t# \$ b4 S" W
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関ケ原の戦いと明治維新。二つの「乱」に挟まれた2世紀半の太平は、武家文化に余裕と落ち着きをもたらした。徳川宗家の18代当主、徳川恒孝(つねなり)さんは「沈んだ美意識」と表現する。国宝級の刀剣がたたえる輝きは「未使用のすごみ」だろうか。
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- i; }$ M4 U, y. { 格式を重んじる幕府のひざ元では、実を貴ぶ町人文化が開花した。食品や雑貨は、関東の物産より、洗練された上方の品が「下り物」としてあがめられた(中江克己『江戸ことば100選』青春新書)。和宮はさしずめ、究極の下り物ということになる。
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公家に寺社、武家、大衆、そして舶来と、文化の担い手がそろう江戸期。それらの競い合いや交流に、めりはりの利いた四季が彩りを添えたことだろう。キンモクセイが香る上野公園を帰りながら、日本文化の豊かな根を思った。 |