咖啡日语论坛

 找回密码
 注~册
搜索
查看: 1228|回复: 1

[分享]能

[复制链接]
发表于 2003-11-25 23:00:00 | 显示全部楼层 |阅读模式
 日本の中世に成立した歌舞をともなう劇。猿楽の能・田楽の能・延年の能などがあるが、今日ふつうに能というときは猿楽の能をさす。 起源  猿楽は、奈良時代に大陸から輸入された散楽を母胎にすると考えられている。散楽は中国の庶民芸能で、曲芸や軽業、幻術、滑稽なものまね、即興的な歌舞など、種々雑多な芸を鼓・太鼓・笛といった楽器伴奏で演じた芸能であった。日本でははじめは雅楽とともに朝廷の保護下にあったが、やがてその手をはなれて民間に拡散。平安時代には滑稽なものまねや道化芸など、笑いの芸が中心になった。猿楽という言葉は、かつてはそれらの諸芸の総称であったが、やがては笑いの芸に意味が限定され、演者も猿楽とよぶようになった。  その後、寺院の正月行事である修正会(しゅしょうえ)・修二会(しゅにえ)といった仏事で芸能をおこなう呪師(しゅし)たちや、祝福の祈祷(きとう)をして各地をめぐる翁猿楽たちと結びつき、座を組織して大和・近江・河内・丹波などの有力寺社に付属して活動した。鎌倉時代中期以降は、僧侶たちが法会のあとに余興に演じた延年の影響などもうけながら、しだいにこっけいなものまねや道化的寸劇からわかれて、歌舞を中心とした能を考案し演じるようになった。鎌倉時代の末期には、能と翁猿楽が猿楽の本芸になっていたと推定されている。いっぽう、猿楽が本来もっていた笑いの芸は、別に発達して狂言にひきつがれていった。  能の生成過程については不明な点が多いが、猿楽と発生をことにする田楽が能をとりいれるようになると、たがいにきそって能の発達をうながした。田楽は田の神をもてなす素朴な神事を起源とし、本来は一年の農耕のようすを春さきにあらかじめ演じて、秋の豊かな実りをいのる行事であったが、平安時代には神事をはなれて娯楽の要素を強めていく。この芸能はひろく流行し、専門の芸人が生まれて各地に座が組織された。一座はササラ・腰鼓・笛・胴拍子などの楽器で囃(はや)す集団の田楽踊りと、散楽系の曲芸を主体にして、猿楽と同じように社寺の祭礼や法会の場などで活動した。 観阿弥と世阿弥  猿楽と田楽はたがいに影響しあう関係だったが、鎌倉時代から室町時代の初期にかけては、名手を輩出していたことなどもあり、むしろ田楽のほうが人気が高かった。しかし、大和猿楽に属する結崎座(ゆうざきざ:今の観世流)のスター役者、当時42、3歳の観阿弥と12歳の子世阿弥の芸が、時の将軍足利義満にみいだされ、しだいに猿楽が田楽より優位にたち、他の芸能をも圧していくようになる。それは1375年ごろ洛東今熊野で能を演じたおりのことで、以後義満は強力に観阿弥父子を後援した。  すぐれた役者兼作者であった観阿弥は音楽面にすぐれ、情緒を重んじる近江猿楽の芸風や、名手とうたわれた田楽本座の一忠の風体などを手本にしながら、ものまねが基本で力感をむねとする大和猿楽に新風をふきこんだ。特筆されるのは、白拍子の芸をひく当時流行の曲舞(くせまい)のリズムを、猿楽能の伝統的な小歌節のメロディの中に生かしたことである。変化にとむ「観世の節」の考案は、今熊野で義満にみいだされる要因ともなったが、能の構造にも大きな影響をあたえた。  観阿弥が52歳で駿河に客死すると、猿楽を代表する役者として近江猿楽の犬王が活躍をみせた。犬王は義満や貴族がこのむ気高く趣きの深い芸風をもち、観阿弥の後継者である世阿弥を刺激しつづけた。世阿弥は、犬王や謡いまわしのたくみな田楽新座の亀阿弥らを手本に、やがて「源氏物語」や「平家物語」のヒロインやヒーローを主人公にした夢幻能という作風を確立し、猿楽の第一人者となっていく。結果的に、観阿弥・世阿弥父子がしめした方向にそって、能は今日にまでつたわることになった。 能をささえた人々  観阿弥・世阿弥によって大成された能は、応仁の乱(1467~77)に端を発した戦乱で滅亡の危機にひんしたが、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康といった戦国大名のもとで命脈をたもった。とりわけ秀吉は能好きで大和猿楽の金春(こんぱる)をならい、このことが観世・宝生・金剛をふくむ大和猿楽四座の庇護につながった。近江・丹波など他の猿楽座が大和猿楽四座に吸収されるような形で能は復興していく。  秀吉没後に天下を統一した家康も、秀吉の政策をひきついだ。家康は室町幕府の有力大名今川氏の人質だった幼年期に能にしたしみ、観世座とは縁が深かった。家康没後も徳川幕府は四座に扶持をあたえて保護し、幕府御用の芸能として正月の謡初(うたいぞめ)をはじめ、将軍宣下や勅使饗応など主要行事に重用した。能役者は幕府の庇護をうけるいっぽうで、技芸をおこたらぬよう、家業の古法をまもることなどが細かく規制された。こうして演目が固定化し、演技の様式性も高まった。  能はその大成期からずっと為政者である武家にそだてられてきたといえる。ただ、能と切りはなして歌謡だけをたのしむこともはやくからおこなわれており、室町時代後期からは一般の階層にも愛好者がひろがった。印刷技術が発達すると謡本(うたいぼん)も多数発行され、江戸時代の文芸に大きな影響をあたえた。この点では庶民も能をささえていたといえる。江戸幕府の解体と明治維新の動乱期、太平洋戦争後の混乱期など、近代にはいってからも能はたびたび消滅の危機にさらされたが、そのつどのりこえて今日の盛況にいたっている。江戸時代を通じて、能の音曲の魅力を幅ひろい層がうけいれていたことが要因のひとつである。 舞台の空間構成  能や狂言は、ふつう能舞台という専用舞台で演じられる。本舞台・地謡(じうたい)座・アト座・橋掛(がかり)・鏡の間・楽屋などの部分からなり、この様式が一応完成したのは桃山時代から江戸時代初期と考えられている。現在は客席付きの能楽堂とよぶ建物の中におさめられているが、屋根がついているのは、かつて野外にたてられていた名残である。4本の柱(シテ柱・目付柱・脇柱・笛柱)にかこまれて、客席のほうにつきでているのが本舞台である。およそ6m四方の空間で、演技のほとんどがここでおこなわれる。階段のあるほうが正面にあたる。  客席からみて本舞台の正面右にあるのが地謡座で、ふつう8人で構成される地謡(能のコーラス担当)の役者たちがすわる。本舞台の正面奥にある松をえがいた壁が鏡板。本舞台と鏡板の間にあるアト座には、笛・小鼓・大鼓・太鼓の奏者が位置する。アト座から左手のほうにみえる5色の幕(揚幕)までのびているのが橋掛で、能の登場人物が出入りする通路であるばかりでなく、演技空間としても重要な働きをする。揚幕で仕切られた奥の部分が鏡の間で、ここには大きな姿見がある。衣装をつけおわった演者が出をまつ大切な空間で、主役が能面をつけ、役になりきる神聖な場でもある。鏡の間につづくのが楽屋で、すべての役者が身じたくをととのえる。 役割の分業制度  能の役者は大きくシテ方・ワキ方・狂言方・囃子(はやし)方にわかれている。シテ方は能のシテ(主人公)を演じるほか、シテの気持ちを代弁したり情景描写をしたりする地謡を担当する。シテ方には、観世流・宝生流・金春流・金剛流と、江戸時代に金剛流からわかれた喜多流の5流がある。ワキ方は主役であるシテの登場をうながすなど、文字どおりの脇役的な存在で、高安(たかやす)・福王・下掛(しもがかり)宝生の3流がある。狂言方は狂言を演じるほか、間(あい)狂言という能の登場人物としての役もうけもつ。大蔵(おおくら)・和泉(いずみ)の2流がある。 囃 子方は笛・小鼓・大鼓・太鼓の4種の楽器の奏者を総称している。笛方はメロディ楽器として能管とよばれる竹製の横笛をもちい、舞などの伴奏をして情趣を深める。一噌(いっそう)・森田・藤田の3流がある。右肩に小型の鼓をのせた小鼓方は、左手で調べ緒(紐)をあやつりながら右手で表皮をうち、微妙でやさしい音色をだして情感をにじませる。幸(こう)・幸清(こうせい)・大倉・観世の4流がある。  大鼓方は大型の鼓を左ひざにのせ、右手でうってかわいた力強い音色をひびかせる。葛野(かどの)・高安・石井・大倉・観世の5流がある。太鼓方は舞台においた平たく大きな鼓を2本のばちでうち、軽味のある明るい音色をかなでる。観世・金春の2流がある。囃子方は各楽器ひとりずつの編成で場面の雰囲気をもりあげるが、太鼓のはいらない能もある。 作品の種類  能は詩情ゆたかな歌舞劇であり、独自の仮面を創案したすぐれた仮面劇でもある。舞台装置をほとんどもちいず、簡素な舞台空間に調和するようにむだをできるかぎりそぎおとし、抑制した演技で主題をうったえかける。観客の想像力の広がりによって無限の深い味わいをしめすのが、ほかの演劇とはちがう魅力でもある。  650年をこえる歴史の積み重ねの中で、能はさまざまな作品を生みだし、謡本あるいは能本とよばれる楽譜(節)つきの上演台本は、2500以上にのぼると推定されている。このうち江戸期を通じてシテ方5流は徐々に200前後のレパートリーをさだめ、今日でもほぼそれを踏襲している。各流に共通する演目と各流固有の演目があるが、これらは登場するシテの性格によって5つの種類に大別される。  これは江戸時代に、「翁」のあとに五番の能と四番の狂言を交互に演じることを正式な番組立てとした際に、便宜的にふりわけた分類である。俗に神・男・女・狂・鬼とよばれるもので、演能に際してもおおむねこの順に演じられた。現在の能の会で1日に五番立ての能を演じることはまれだが、この分類法は作品の趣などを端的にしめしており、番組編成の目安になっている。  能の精神的な支柱になっているのが「翁」である。これはすべてのものがよみがえりをはたし、同時に人々に有害なものも目ざめる春に、邪悪の発動を制して、天下の泰平や五穀の豊かな実りを約束する神事がもとになっている。舞台芸能として様式的に洗練されてきたが、今日でも演者は別火をしたり、斎戒沐浴(さかいもくよく)するなど古風をのこし、諸事別格のあつかいをしている。  この神祭劇ともいうべき「翁」の次に演じられるのが神の能で、五番立ての最初に演じることから初番目物とよばれ、また翁の次に演じることから脇能物ともよばれる。代表作に「高砂(たかさご)」「弓八幡」「竹生(ちくぶ)島」などがあり、老体の男神、若々しい男神、女神などが人々に寿福をあたえてさるといった内容で、さわやかさ、すずしさ、めでたさなどの祝言の気分にあふれる。  二番目物は男体の能で、おもに源氏や平家のいさましかった武将の霊が、ゆかりの地をおとずれた旅僧の前にあらわれて無念の過去をふりかえる。修羅道の苦しみをみせるところから、修羅物ともいう。修羅は戦闘をこのむという阿修羅神からきた言葉で、作品には「八島(やしま)」「忠度(ただのり)」「清経」などがある。  三番目物は女体の能で鬘物(かずらもの)ともいう。「伊勢物語」「源氏物語」「平家物語」などのヒロインが、恋人の気まぐれに一喜一憂した昔を回想し、みやびな舞に託してかわらぬ思慕をしめす。「井筒(いづつ)」「野宮(ののみや)」「松風」「熊野(ゆや)」「羽衣(はごろも)」などの作品があるが、老木の桜の精が老爺の姿であらわれる「西行桜」などの能もふくまれ、舞を中心にした情緒的な深い味わいの能がここにまとめられている。  四番目物は狂女物ともよばれるが、他の4つにおさめきれない色とりどりの物語をよせあつめているので雑能物といわれる。「三井(みい)寺」「班女(はんじょ)」「安宅(あたか)」「道成寺(どうじょうじ)」「善知鳥(うとう)」「隅田川」ほか、劇的な起伏にとむ能がそろっている。  五番目物は鬼畜物、または1日の能の最後に演じるところから切能ともよばれる。鬼・畜類の精・妖精などが、よきにつけあしきにつけ人間技ではとうていなしえない力を発揮し、はげしく機敏にうごきまわる。代表作に「殺生石(せっしょうせき)」「紅葉狩」「土蜘蛛(つちぐも)」「鞍馬天狗(くらまてんぐ)」「石橋(しゃっきょう)」「猩々(しょうじょう)」などがあり、にぎやかで、見た目に楽しい能が多い。  夢幻能と現在能  能を夢幻能と現在能に分類する方法もある。夢幻能は、現実の人間として旅の僧など(おもにワキ)が、とある史跡をたずねると、ゆかりの人物の亡霊(シテ)があらわれて過去を回想するという形式をとり、今と昔がいきかうように筋が進展する。修羅物・鬘物のほとんどは夢幻能である。いっぽう現在能は登場人物のすべてが現実の人間で、時の経過とともに筋が進展していく。雑能物の多くが現在能の範疇(はんちゅう)にはいる。  能面の選択  能は仮面劇であるが、すべての役が面をつけるわけではない。原則的に、シテの扮する神の化身や死者の霊は男女をとわず面をつけ、現在能でも老人と女性は面をつけることになっている。シテ方が扮する現在能の老人をのぞく男性役と子方とよばれる子供の演じる役、およびワキ方は直面(ひためん)といって面をもちいない。能のワキ役はすべて現実の男性である。  能面は、老体・女体・男体など、およそ8系統に分類され、役柄の身分や年齢などによってさらにこまかくわけられる。たとえば男の老人の神といっても、古くから日本にいた土着の神と、外国からわたってきたとされる神では面の種類がちがう。また、同じ小面(こおもて)とよばれる若い女の面も、作家の個性がそのまま面の個性となって、表情がそれぞれ微妙にことなる。役者は面の個性をみわけ、役の性格によって面をつかいわけている。
回复

使用道具 举报

发表于 2009-9-22 21:11:39 | 显示全部楼层
多谢指教@
回复 支持 反对

使用道具 举报

您需要登录后才可以回帖 登录 | 注~册

本版积分规则

小黑屋|手机版|咖啡日语

GMT+8, 2024-5-2 10:30

Powered by Discuz! X3.4

© 2001-2017 Comsenz Inc.

快速回复 返回顶部 返回列表