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[天声人语] 7/5 《旅》 怀念中田英寿

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发表于 2006-7-5 18:18:42 | 显示全部楼层 |阅读模式
「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」。芭蕉の「おくのほそ道」の冒頭だ。この「月日は永遠の旅人……」の一節からは、月日の上を歩む人もまた旅人かといった連想も浮かんでくる。

芭蕉的那篇《奥州小道》中开头写到“光阴如同旅人一般永无止境的穿梭在茫茫旅途之中。如梭的岁月也似同旅人般来来往往。”(更改日月乃百代之过客,逝去流年亦旅人也)从这“光阴如同永远的旅人……”的一段中,不经触景生情的联想到倍日并行旅人。

 「人生とは旅であり、旅とは人生である」。サッカーの日本代表、中田英寿選手の「引退宣言」の見出しに、そんな文言があった。29歳の青年と、「人生とは旅……」との取り合わせに、面白みを覚えた。

“人生就是旅途,旅途也是人生”。日本国脚中田英寿在“宣布退役”的一文中用这段话作为了开头。一个29岁的青年将人生和旅途融为一体,并从感受到了其中的乐趣。

 確かに、サッカーの世界では、多くの旅を重ねてきた。国内にとどまらず、外国に進出した。日本選手のさきがけのひとりで、時代のフォワードだった。

  作为日本足球的开拓者,一个时代的先锋。不限于国内足坛,走向世界的他在足球界中的确历经了几多旅程。
 
  ゲームでの働きも、その風貌(ふうぼう)にも、独特の存在感があった。何かに噛(か)み付いてゆく、たけだけしさを備えていた。その姿が見られなくなることには、一抹の寂しさがある。しかし「中田英寿の旅」は、まだこれからも続く。

绿荫场上的飒爽英姿和那机敏的走动,都能感觉到那独有的存在感。时而虎视眈眈时而飙发电举。想到再也不能看到他的身影时。不由的飘过几许寂寞之情。但“中田英寿的旅途”还会持续下去。
 
  歌集「独り歌へる」に、「私は常に思つて居る、人生は旅である」と記したのは、若山牧水だった。サッカーとは懸け離れた世界に住んだが、やはり、独特の働きと風貌とを備えていた。牧水は続ける。「我等は忽然として無窮より生れ、忽然として無窮のおくに往つてしまふ、その間の一歩々々の歩みは実にその時のみの一歩々々で、一度往いては再びかへらない」
  
  若山牧水在短歌集“独唱”中写到“我一直这么想,人生就如同旅途一般”。虽与足球界莫不相关。但也具备了那独特的风貌。牧水继续写到“我们突然自由的来到世间,又突然身居于自由的深处。在那时的一个个脚步实际上已成为往日的一个个脚步,一旦走过来了就再也不会回首。”

 月日は永遠であり、途絶えることがない。人の方は、世代というもので連綿と連なっているが、ひとりの人間にとっては、一度行き着けば繰り返しは無い。その一度だけの、いわば片道の旅の重さや悲哀や妙味を、改めてかみしめた。

   岁月永恒,遥无止境,人类本身代代相传。一旦到达终点就不会回来。一生一次的人生如同一次单程旅程。不仅感到其中珍贵和悲哀。

[ 本帖最后由 老板是猪 于 2006-7-6 08:28 编辑 ]
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 楼主| 发表于 2006-7-5 18:27:06 | 显示全部楼层
本人觉得今天文章的难点在芭蕉の「おくのほそ道」和若山牧水的「独り歌へる」中特别是“我等は忽然として無窮より生れ、忽然として無窮のおくに往つてしまふ、その間の一歩々々の歩みは実にその時のみの一歩々々で、一度往いては再びかへらない”。确实没有完全理解。
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 楼主| 发表于 2006-7-5 18:29:56 | 显示全部楼层

若山 牧水略歴

若山 牧水(わかやま ぼくすい、 明治18年(1885年)8月24日 - 昭和3年(1928年)9月17日)は、日本の歌人。本名・繁(しげる)。


略歴
宮崎県東臼杵郡東郷村(現・日向市)の医師・若山立蔵の長男として生まれる。
明治32年(1899年)宮崎県立延岡中学(現・宮崎県立延岡高等学校)に入学。短歌と俳句を始める。 18歳のとき、号を牧水とする。

明治37年(1904年)早稲田大学文学科に入学。同級生の北原射水(後の白秋)、中林蘇水と親交を厚くし「早稲田の三水」と呼ばれる。 明治41年(1908年)早大英文学科卒業。7月に処女歌集『海の声』出版。翌、明治42年(1909年)中央新聞社に入社。5ヶ月後に退社。

明治44年(1911年)創作社を興し詩歌雑誌「創作」を主宰。この年、歌人・太田水穂を頼って長野より上京していた後に妻となる太田喜志子と水穂宅にて知り合う。明治45年(1912年)友人であった石川啄木の臨終に立ち合う。同年、喜志子と結婚。大正2年(1913年)長男・旅人(たびと)誕生。その後、2女1男をもうける。

大正9年(1920年)沼津の自然を愛し、特に千本松原の景観に魅せられて、一家をあげて沼津に移住。大正15年(1926年)詩歌総合雑誌「詩歌時代」を創刊。この年、静岡県が計画した千本松原伐採に対し新聞に計画反対を寄稿するなど運動の先頭に立ち計画を断念させる。昭和2年(1927年)妻と共に朝鮮揮毫旅行に立つが体調を崩し帰国。翌年夏頃より病臥に伏し自宅で死去。享年43。沼津の千本山乗運寺に埋葬される。

牧水の死後、詩歌雑誌「創作」は歌人であった妻・喜志子により受け継がれた。


旅を愛し旅にあって各所で歌を詠み、日本各地に彼の歌碑がある。大の酒好きで一日一升程度の酒を呑んでいたといい、死因の大きな要因となったのは肝硬変である。自然を愛し特に終焉の地となった沼津では千本松原や富士山を愛し、千本松原保存運動を起こしたり富士の歌を多く残すなど、自然主義文学としての短歌を推進した。

また、情熱的な恋をしたことでも知られており喜志子と知り合う前の園田小枝子との熱愛は有名なエピソードである。出身地・宮崎県では牧水の功績を称え、平成8年(1996年)より毎年、短歌文学の分野で傑出した功績を挙げた者に対し「若山牧水賞」を授与している。

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作品
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歌集
海の声
独り歌へる
別離
路上
死か芸術か
みなかみ
山桜の歌
など

独り歌へる

独り歌へる・序文

 私は常に思つてゐる。人生は旅である。我等は忽然と
して無窮より生れ、忽然として無窮のおくに往つてしま
ふ。その間の一歩々々の歩みは実にその時のみの一歩々
々で、一度往いては再びかへらない。私は私の歌を以て
私の旅のその一歩々々のひびきであると思ひなしてゐる。
言ひ換へれば私の歌はその時々の私の生命の砕片である。

 多人数のなかに交り都合よく社会に身を立てて行かう
がために、私は私の境遇その他からいつ知らず二重或は
三重の性格を添へて持つやうになつて来た。その中には
真の我とは全然矛盾し反対した種類のものがある。自身
にも能くそれに気がついて時には全く耐へ難く苦痛に思
ふ。しかも年の進むと共に四六時中真の我に帰つてゐる
時とては愈々少くなつて来た。稀しくも我に帰つてしめ
やかに打解けて何等憚るところなく我と逢ひ我と語る時
は、実に誠心こめて歌を咏んでゐる時のみである。その
時に於て私は天地の間に僅かに我が影を発見する。

 芸術々々とよく人は言ふ。実のところ私はまだその芸
術と云ふものを知らない。断えず自身の周囲に聞いてゐ
る言葉でありながらいまだに了解が出来難い。だから私
はそれ等一切の関係のなかに私の歌を置くことが出来な
かつた。私は原野にあそぶ百姓の子の様に、山林に棲む
鳥獣のやうに、全くの理窟無しに私の歌を咏み出でたい。

 私は私の作物を以て、かうして生れて来た自己の全て
をみづから明かに知らむがための努力であると今のとこ
ろでは思つてゐる。それ以上他に思ひ及ぼす余裕が無い。
歌を咏むのも細工師が指輪や簪をこしらへてゐるのとは
違つて、自己そのものを直ちに我が詩歌なりと信じて私
は咏んでゐる。歌と言ふもの詩と言ふものといふ風に机
の上にぶち転がして考へらるることを私は痛く嫌ふ。自
己即詩歌、私の信念はこれ以外に無い。

 一首々々取出して見ると私の歌など実に夥しく拙い。
技巧の不足なもの、内容の空虚なもの、嘘をついてゐる
ものなどばかりで自ら満足し得るものとしては殆んど絶
無である。それかと云つて全然これ等を棄却し去ること
は容易に出来ない。一首のうちに何処か自分の影が動い
てゐて、なかなか思ひきつて棄てがたい。いまそれ等を
拾ひ集めてこの一巻を編んだ。これからも尚ほ私が本当
に生きてゐる間、私は何処までもこの哀れな歩をとぼと
ぼと続けて行かねばならぬのであらう。

 歌の配列の順序は、出来るだけ歌の出来た時の順序に
従ふやうに力めた。前の歌集『海の声』の編輯を終つた
のが昨年の四月の二十日頃で、それからの作はたしか同
月二十五日の夜武蔵百草山に泊つた時を以て始つてゐる。
そして本書の編輯を終つたのは本年七月の十日頃偶然に
も同じ百草山の頂上の家に滞在してゐる時に於てであつ
た。つづまりこの『独り歌へる』一巻はその間約一ケ年
にわたる私の内的生活の記録である。その時その時に過
ぎ去つた私の命の砕片の共同墓地である。

 詩歌書類の一向に売れない現今にあつて、特にわがた
めに本書出版の労をとられた八少女会同人諸君に対し深
く感謝する。

 今夜は陰暦九月十三日、後の月の当夜である。風冴え
て時雨が時々空を過ぐる。街をば伊藤公暗殺の号外が切
りに走つてゐたが既にそれも止んだ。本書の校正刷を閲
しこの序文を認めて、自身の昨日の歌を見てゐると色々
に思ふことが多い。
  明治四十二年十月二十六日深夜
        若山牧水 
载自

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E5%B1%B1%E7%89%A7%E6%B0%B4
http://book.shinchosha.co.jp/meisaku/bokusui/html/bokusui006.html
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发表于 2006-7-6 16:17:25 | 显示全部楼层

《旅》

「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」。芭蕉の「おくのほそ道」の冒頭だ。
“日月乃百代之过客,逝去流年亦旅人也”(日月是百代的过客,去而复来的年年岁岁也是旅人)是芭蕉“奥州小道”的第一句。
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