「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」。芭蕉の「おくのほそ道」の冒頭だ。この「月日は永遠の旅人……」の一節からは、月日の上を歩む人もまた旅人かといった連想も浮かんでくる。
芭蕉的那篇《奥州小道》中开头写到“光阴如同旅人一般永无止境的穿梭在茫茫旅途之中。如梭的岁月也似同旅人般来来往往。”(更改日月乃百代之过客,逝去流年亦旅人也)从这“光阴如同永远的旅人……”的一段中,不经触景生情的联想到倍日并行旅人。
「人生とは旅であり、旅とは人生である」。サッカーの日本代表、中田英寿選手の「引退宣言」の見出しに、そんな文言があった。29歳の青年と、「人生とは旅……」との取り合わせに、面白みを覚えた。
“人生就是旅途,旅途也是人生”。日本国脚中田英寿在“宣布退役”的一文中用这段话作为了开头。一个29岁的青年将人生和旅途融为一体,并从感受到了其中的乐趣。
確かに、サッカーの世界では、多くの旅を重ねてきた。国内にとどまらず、外国に進出した。日本選手のさきがけのひとりで、時代のフォワードだった。
作为日本足球的开拓者,一个时代的先锋。不限于国内足坛,走向世界的他在足球界中的确历经了几多旅程。
ゲームでの働きも、その風貌(ふうぼう)にも、独特の存在感があった。何かに噛(か)み付いてゆく、たけだけしさを備えていた。その姿が見られなくなることには、一抹の寂しさがある。しかし「中田英寿の旅」は、まだこれからも続く。
绿荫场上的飒爽英姿和那机敏的走动,都能感觉到那独有的存在感。时而虎视眈眈时而飙发电举。想到再也不能看到他的身影时。不由的飘过几许寂寞之情。但“中田英寿的旅途”还会持续下去。
歌集「独り歌へる」に、「私は常に思つて居る、人生は旅である」と記したのは、若山牧水だった。サッカーとは懸け離れた世界に住んだが、やはり、独特の働きと風貌とを備えていた。牧水は続ける。「我等は忽然として無窮より生れ、忽然として無窮のおくに往つてしまふ、その間の一歩々々の歩みは実にその時のみの一歩々々で、一度往いては再びかへらない」
若山牧水在短歌集“独唱”中写到“我一直这么想,人生就如同旅途一般”。虽与足球界莫不相关。但也具备了那独特的风貌。牧水继续写到“我们突然自由的来到世间,又突然身居于自由的深处。在那时的一个个脚步实际上已成为往日的一个个脚步,一旦走过来了就再也不会回首。”
月日は永遠であり、途絶えることがない。人の方は、世代というもので連綿と連なっているが、ひとりの人間にとっては、一度行き着けば繰り返しは無い。その一度だけの、いわば片道の旅の重さや悲哀や妙味を、改めてかみしめた。
岁月永恒,遥无止境,人类本身代代相传。一旦到达终点就不会回来。一生一次的人生如同一次单程旅程。不仅感到其中珍贵和悲哀。
[ 本帖最后由 老板是猪 于 2006-7-6 08:28 编辑 ] |