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[好书连载] 【好书连载】十二国記 月の影 影の海(一) 

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发表于 2006-7-29 00:58:34 | 显示全部楼层 |阅读模式
   月の影 影の海(上) 十二国記



   一章


   1

 |漆黒《しっこく》の|闇《やみ》だった。
 彼女はその中に立ちすくんでいる。
 どこからか高く澄んだ音色で、|滴《しずく》が水面をたたく音がしていた。ほそい音は闇にこだまして、まるでまっくらな|洞窟《どうくつ》の中にでもいるようだが、そうでないことを彼女は知っていた。闇は深く、広い。その天もなく地もない闇の中に、薄く|紅蓮《ぐれん》のあかりがともった。闇のかなたに炎でも燃えさかっているように、紅蓮の光は形を変え、踊る。
 赤い光を背にして無数の影が見えた。|異形《いぎょう》の獣の群れだった。
 こちらはほんとうに|踊《おど》りながら、あかりのほうから駆けてくる。|猿《さる》がいて|鼠《ねずみ》がいて鳥がいる。さまざまな種類の獣の姿をしていたが、どの獣もどこかがすこしずつ図鑑で見る姿とはちがっていた。しかもそのどれもが、実際の何倍も大きい。赤い獣と黒い獣と青い獣と。
 |前肢《まえあし》をふりあげ、小走りに駆ける。あるいは跳躍し、宙を旋回し、まるで陽気な祭の行列でも近づいてくるようだった。陽気といえば陽気には違いなく、祭といえば祭にはちがいない。
 異形の者たちは犠牲者をめがけて走っているのだ。|生《い》け|贄《にえ》を血祭りにあげる歓喜に、小躍りしながら駆けてくる。
 その証拠に殺意が風のように吹き付けてきていた。異形の群の先頭まで、もう四百メートルもない。どの獣も大きく口を開けて、声はいっさい聞こえなかったが、歓声を上げているのだと表情でわかる。声もなく足音もなく、ただ洞窟で水がしたたるような音だけがつづく。
 彼女は駆けてくる影をただ目を見開いて見つめていた。
 ──あれが、来たら殺される。
 そう理解できても、身動きできない。おそらくは|八《や》つ|裂《ざき》にされ、|喰《く》われるのだろうと思ったが、まったく体が動かなかった。たとえ体が動いたにしても、逃げる場所もなく戦う方法もない。
 体の中で血液が逆流する気がする。その音が耳に聞こえるような気がする。それはひどく|潮騒《しおさい》に似ていた。
 見つめるあいだに、距離は三百メートルに縮まった。

 |陽子《ようこ》は飛び起きた。
 こめかみを汗がつたう感触がして、目に強い酸味を感じる。あわてて何度もまばたきをして、そうしてやっと深い息をついた。
「夢……」
 声に出したのは確認しておきたかったからだった。ちゃんと確認をして、自分に言い聞かせていないと不安になる。
「あれは、夢なんだ」
 夢に過ぎない。たとえそれが、このところひと月にわたって続いている夢だろうと。
 陽子はゆっくりと首をふる。部屋のなかは厚いカーテンのせいで暗い。枕元の時計を引き寄せてみると、起きる時間にはすこし早かった。体が重い。手を動かすのにも足を動かすのにも|粘《ねば》りついたような抵抗を感じた。
 あの夢をはじめてみたのはひと月ほど前だった。
 最初はたんなる闇でしかなかった。高くうつろに水滴の音がして、まっくらな闇のなかに自分がただ一人でたたずんでいる。不安で不安で動きたくても身動きができない。
 闇の中に|紅蓮《ぐれん》のあかりが見えたのは、同じ夢が三日続いた後だった。夢のなかの陽子は、あかりのほうから|怖《こわ》いものが来ることを知っていた。ただ闇のなかに光がある、それだけの夢に悲鳴をあげて飛び起きて、それを五日も続けたころに影が見えた。
 最初は赤い光のなかに浮かんだシミのように見えた。何日か同じ夢を見るうちに、それが近づいてくるのだとわかった。それがなにかの群れだとわかるまでに数日がかかり、異形の獣だとわかるまでにさらに数日を要した。
 そうして、と陽子はベッドの上のぬいぐるみを引きよせた。
 ──もうあんなに近い。
 ひと月をかけて地平線からの距離を連中は駆けぬける。おそらく明日か、明後日には陽子のそばにたどりつく。
 ──そうしたら、自分はどうなるのだろう。
 そう考えて陽子は頭をふった。
 ──あれは夢だ。
 たとえひと月続いていても、ましてや日ごとにすすむ夢でも、夢は夢でしかないはずだ。
 言い聞かせても不安は胸を去らない。鼓動は速くて、耳の奥で血液が駆け巡る潮騒のような音がしている。荒い呼吸がのどを|灼《や》いた。しばらくのあいだ陽子は、すがるようにしてぬいぐるみを抱きしめていた。
 寝不足と疲労で重い体をむりに起こして、制服に着がえて下に下りた。なにをするのもひどくおっくうで、おざなりに顔を洗ってダイニング・キッチンに行く。
「……おはよ」
 流しにむかって朝食の用意をしている母親に声をかけた。
「もう起きたの? 最近早いのね」
 母親は言って陽子をふりかえる。チラリと投げられた視線が陽子に止まって、すぐに|険《けわ》しい色になった。
「陽子、また赤くなったんじゃない?」
 一瞬、なんのことを言われたのかわからずに陽子はきょとんとし、それからあわてて髪を手で|束《たば》ねた。いつもならきっちり編んでからダイニングに顔を出すのだが、|今朝《けさ》は眠る前に編んだ髪をほどいて|櫛《くし》を入れただけだった。
「ちょっとだけ染めてみたら?」
 陽子はただ頭をふった。ほどけた髪がふわふわと|頬《ほお》をくすぐった。
 陽子の髪は赤い。もともと色が薄いうえに、日に焼けてもプールに入ってもすぐに色が抜けてしまう。背中まで髪を伸ばしているが、伸ばすと毛先の色がぬける。おかげでほんとうに脱色したような色になってしまっていた。
「でなきゃ、もっと短く切る、とか」
 陽子は無言でうつむく。うつむいたまま大急ぎで髪を編んだ。きっちり三つ編にすると、すこしだけ色が濃く見える。
「誰に似たのかしら……」
 母親は険しい顔でためいきをついた。
「このあいだ、先生にも聞かれたわよ。ほんとうに生まれつきなんですか、って。だから染めてしまいなさい、って言ってるのに」
「染めるのは禁止されてるから」
「だったらうんと短く切れば? そうしたら、すこしはめだたなくなるわよ」
 陽子はうつむく。母親はコーヒーを入れながら、冷たい口調でつづけた。
「女の子は|清楚《せいそ》なのがいぢはんいいのよ。目立たず、おとなしくしてるのがいいの。わざわざ目立つよう、はでな格好をしているんじゃないか、なんて疑われるのは恥ずかしいことよ。あなたの人間性まで疑われてる、ってことなんだから」
 陽子は黙ってテーブルクロスを見つめる。
「その髪を見て不良だと思うひともいると思うの。遊んでる、っておもわれるのもいやでしょ。お金をあげるから、帰りに切ってらっしゃい」
 陽子はひそかにためいきをつく。
「陽子、聞いてるの?」
「……うん」
 答えながら窓のそとに目をやった。ゆううつな色の冬空が広がっていた。二月なかば、まだまだ寒さは厳しい。

[ 本帖最后由 粗粗 于 2006-7-28 17:05 编辑 ]
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 楼主| 发表于 2006-7-29 00:58:57 | 显示全部楼层


 陽子が通っているのは平凡な女子校だった。女子校であるということ以外、なんの特徴もない私立高校。父親が断固として選んだ学校だった。
 陽子の中学時代の成績は比較的よいほうだったから、もっと上のレベルの学校も|狙《ねら》えたし、事実教師は強くほかの学校をすすめたのだが、父親はゆずらなかった。家から近いこと、悪い気風も、反対に華やかな校風もないことが気に入ったらしい。
 最初は模試の成績表を見て|惜《お》しそうにしていた母親も、すぐに父親に賛成した。両親がうなずけば陽子には選択の余地がない。すこし離れたところに制服が気に入っている学校があったが、制服にこだわってダダをこねるのも気がとがめたので、だまってそれにしたがった。そのせいかどうか、入学して一年になろうとしている学校には、今も特に愛着がわかない。
「おっはよー」
 陽子が教室に入ると、あかるい声がした。二、三の女の子が陽子にむかって手を上げている。なかのひとりが駆けよってきた。
「|中嶋《なかじま》さん、数学のプリントやってる?」
「うん」
「ごめーん。見せて」
 陽子はうなずく。窓際にある自分の席についてからプリントを引っぱり出した。数人の女の子が机のまわりに集まって、さっそくそれを写しはじめる。
「中嶋さんってまじめなんだねぇ。さっすが、委員長」
 言われて陽子はあいまいに|微笑《わら》う。
「ホント、まじめ。あたし宿題なんてきらいだから、すぐ忘れちゃう」
「そう、そう。やろうと思ってもよくわかんないし。ダラダラ時間かかって、それで眠くなっちゃうんだよね。頭のいいひとはいいよなぁ」
「こんなの、一瞬で終わっちゃうんでしょ」
 陽子はあわてて首をふる。
「そ、そんなことない」
「じゃ、勉強が好きなんだ」
「まさか」
 陽子は笑ってみせた。
「うち、母親が厳しくて」
 それは事実ではなかったが、こう言っておいたほうがカドがたたない。
「寝る前にいちいちチェックするから、いやになっちゃう」
 母親はむしろ陽子が勉強することをきらう。成績などどうでもいいというわけではなかったが、塾に行く時間があったら家事を覚えなさい、というのが母親の言い分だった。それでもまじめに勉強をするのは、好きだからというわけではない。ただ教師に|叱《しか》られるのが怖いからだった。
「ひゃあ。教育ママなんだ」
「そうなの。勉強、勉強ってうるさくて」
「わかる、わかる。ウチもだよぉ。人の顔見ると、勉強ってさぁ。自分はそんなに勉強が好きだったのか、ってーの」
「だよね」
 どこかほっとしながら陽子がうなずいたとき、女の子のひとりが小さな声をあげた。
「あ、|杉本《すぎもと》だ」
 教室にひとりの少女が入ってくるところだった。
 チラチラと全員の視線が向けられて、そうしてすぐに離れていった。しんとそらぞらしい空気が流れる。
 その生徒を無視するのが、ここ半年ほどクラスではやっている遊びだった。彼女はそんなクラスの|様子《ようす》を上目づかいに見わたしてから深くうつむいた。おずおずと陽子のほうに歩いてくると左隣の席に腰をおろす。
「中嶋さん、おはよう」
 遠慮がちに声をかけられて陽子はとっさに返事をしそうになり、あわててそれをのみこんだ。いつだったか、うっかり返事をして、あとでクラスメイトに皮肉を言われたことがある。
 それでもだまったまま気がつかなかったふりをした。くすくすと周囲でしのび笑いがおこる。
 笑われたほうは傷ついたようにうつむいたが、物言いたげに陽子に視線をよこすのをやめなかった。それを感じながら、陽子は周囲の会話に相づちをうつ。無視される彼女を哀れに思うけれど、情けをかけて周囲に逆らえば今度は自分が被害者になる。
「あの……中嶋さん」
 隣からおずおずとした声が聞こえたが、陽子はこれにも気がつかなかったふりをした。故意に無視する気分はにがい。それでも陽子には、ほかにどうすればいいのかわからなかった。
「中嶋さん」
 彼女は|辛抱《しんぼう》づよく何度もくりかえす。そのたびに周囲の声がとぎれ、やがてその場に集まっていた全員が彼女のほうに冷たい視線を向けた。陽子もそれ以上無視することができなくて、上目づかいに自分を見ている相手に目を向ける。視線を向けたが、返答はしなかった。
「あの……数学の予習やってる?」
 彼女のおずおずとした声に、陽子の周囲がどっと笑いくずれた。
「……いちおう」
「悪いけど、見せてくれない?」
 数学の教師は授業で当てる生徒を前もって指名する。そういえば彼女が今日指名されていたことを陽子は思い出した。
 陽子は視線を友人たちに向ける。誰もなにも言わず、同じ色の視線でそれにこたえた。全員が、彼女を拒絶する陽子の言葉を期待しているのだとわかる。陽子はにがいものをのみこんだ。
「まだ、見直しをしたいところがあるから」
 |婉曲《えんきょく》な拒絶は観客の気に入らなかったようだった。すぐさま声がかかる。
「中嶋さんって、やさしーい」
 ふがいない、と暗に責めている声だ。陽子は無意識のうちに見をすくめた。別の生徒がそれに同意する。
「中嶋さん、ピシャッと言えばいいのに」
「そうそう。あんたなんかに、声をかけられるの、迷惑だって」
「世の中にはハッキリ言わないとわからないバカっているからさぁ」
 陽子は返答に困る。周囲の期待を裏切る勇気は持てないけれど、同時にまた、隣の席でうつむいているクラスメイトにあえてひどい言葉を投げつける勇気も持てなかった。それで陽子はただ困ったように|微笑《わら》う。
「……うーん」
「ホントにら中嶋さんって、ひとがいいんだから。だから誰かさんみたいなのに、アテにされるんだって」
「あたし、いちおう委員長だし……」
「当たるのがわかってるのに、やってこないほうが悪いんだって。そんな奴のめんどうまでみることないよぉ」
「そう。──だいいち」
 と言った生徒は|酷薄《こくはく》な笑みをうかべた。
「杉本なんかにノートを貸したら、ノートが汚れるじゃない」
「あ、それは困るかも」
「でしょお?」
 どっ、と再び全員が笑いくずれる。いっしに笑いながら陽子は視線のすみで隣の席の様子をうかがう。深くうつむいた少女は涙をこぼしはじめた。
 ──杉本さんにも、責任はある。
 陽子はそう自分に言い聞かせる。誰もが理由もなく被害者を決めるわけではない。被害者になったからには、彼女の中にそれなりの要因があるのだ。
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 楼主| 发表于 2006-7-29 00:59:15 | 显示全部楼层
 3


 ──天もなく地もない闇のなかに、高く高くうつろに水滴の音がする。
 陽子はその闇のなかに立っていた。
 顔が向いた方向に、薄く|紅蓮《ぐれん》のあかりが見える。その光を背に無数の影が|蠢《うごめ》いている。|異形《いぎょう》の獣の群れが踊りながら駆けてくる。
 群れと自分のあいだはもう二百メートルほどしかない。異形のものたちが大きいだけに、それは恐ろしく短い距離に見える。|哄笑《こうしょう》の形に口をあけた大きな猿の、赤い毛並みが光を|弾《はじ》いて、跳躍するたびに盛り上がってはのびる筋肉の動きが見てとれる。もうそれだけの距離しかない。
 体を動かすことも声をあげることもできなかった。まなじりが裂けるほど目を見張って、近づいてくる群れを見守っているしかない。
 走る。跳躍する。踊るように駆けてくる。吹きつけてくる殺意は突風のように呼吸を詰まらせた。
 ──起きなきゃ。
 あれがたどりつく前に、夢から覚めなければ。
 そう念じても目覚める方法がわからない。意志の力で起きることができるのなら、とっくにそうしている。
 なすすべもなく見つめるあいだに、距離はさらに半分に縮まった。
 ──起きなきゃ。
 歯ぎしりするほどの|焦燥《しょうそう》に襲われる。|身内《みうち》でうずまいて肌を突き破りそうだ。荒い呼吸と速い鼓動と、駆けめぐる血潮が海鳴りに似た音を立てる。
 ──どうにかして、ここから逃げなければ。
 そう思ったとき、突然頭上に気配を感じた。殺意が陽子を押しつぶす勢いで落下してくる。陽子は夢のなかで初めて身動きをした。頭上をふりあおいだ。
 茶色の翼が見えた。同じく茶色のたくましい脚と、おそろしく鋭い太い爪と。
 逃げる、という意志さえ念頭に浮かぶ暇がなかった。一瞬、体の中の潮騒が強くなって、陽子はただ悲鳴をあげた。

「中嶋さん!」
 陽子はとっさにその場を逃げた。体が逃げることを切望していて、思わずそれに従ってしまった。逃げた後でようやく周囲の様子が目に入る。
 あきれた表情の女教師と、同じくあきれた表情の生徒たち。一拍送れて、どっと笑いがわいた。
 ほっと息をついてから、陽子はにわかに赤くなった。
 眠っていたのだ。このところ夢のせいで寝つきが悪く、眠りも常に浅かった。ずっと寝不足ぎみだったから授業中にトロトロしたことはよくあるが、夢を見たのははじめてだった。
 ツカツカと女教師が近づいてきた。どういうわけだが陽子を目のかたきにしている教師だった。よりによって、と陽子は唇をかむ。陽子はおおむね教師にうけがよかったが、いくら従順にふるまっても、この教師とだけはうまくやっていくことができなかった。
「……まったく」
 彼女はそう言って英語の教科書で陽子の机を叩く。
「いねむりをする生徒ならいますけどね、寝ぼけるほどゆっくりお休みいただいたのは、はじめてですよ」
 陽子はうなだれて席に戻る。
「あなたは、なにをしに学校へ来てるんですか。眠いんだったら家で寝ていればいいでしょう。授業がいやなら、なにもむりに来ていただかなくてもいいんですよ」
「……すみません」
 教師は教科書の角で机を叩く。
「それとも、そんなに夜遊びでいそがしいの?」
 どっと生徒たちが笑った。てらいもなく笑った生徒のなかには、友達の姿も混じっている。聞こえよがしの笑い声が左隣からも聞こえた。
 女教師はかるく、ひとつに編んで背中にたらした陽子の髪を引っ張った。
「これ、生まれつきなんですって?」
「……はい」
「そう? わたしの高校の友達にもいたわね、こういう髪のひとが。なんだか彼女を思い出すわ」
 そう言ってから教師は笑う。
「もっとも、その人はあなたと違って脱色してたんだけど。三年のときに補導されて学校を|辞《や》めちゃったの。今ごろどうしてるかしら。なつかしいわ」
 教室のあちこちで、しのび笑う声がおこる。
「──それで? 授業をうける気があるの? ないの?」
「……あります」
「そう? じゃ、時間中立ってなさい。そうすれば起きてられるでしょう?」
 教師はそう命じてふくみのある笑い方をしてから、教壇に戻った。
 立ったまま授業を受けたその時間中、教室の中ではしのび笑いが絶えることがなかった。

 陽子はその日の放課後、担任の呼び出しをうけた。どうやら英語の時間の|所業《しょぎょう》が耳に入ったらしい。
 職員室に呼び出されて、どういう生活をしているのか長々と問いただされた。
「夜遊びをしてるんだろう、と言う先生もいるしな」
 中年の担任はそう言って顔をしかめる。
「どうなんだ? なにか夜ふかしをするような事情でもあるのか」
「……いえ」
 まさかあんな夢の話を他人にできない。
「夜遅くまでテレビでも見てるのか」
「いえ、あの……」
 陽子はあわてて理由を探す。
「中間テストで成績が落ちたので……」
 担任はあっさり納得したようだった。
「ああ、そういやちょっと悪かったな。それでか。──だがな、中嶋」
「はい」
「いくら家で夜遅くまで勉強しても、かんじんの授業を聞いてなきゃ意味がないぞ」
「すみません」
「あやまってもらうようなことじゃないが。中嶋は誤解されやすいんだよ。けっこうその髪の毛が目立つんだよなぁ。それ、なんとかならんか?」
「今日、切ろうと思ってたんです……」
「そうか」
 そう言って担任はうなずく。
「女の子だからなぁ。いやだろうけど、そのほうがおまえのためだとおもうぞ。先生は。染めてるだの、遊んでるだのと言う先生もいるしな」
「はい」
 担任は陽子に手をふる。
「じゃ、帰っていいから」
「はい。失礼します」
 陽子は頭を下げる。そのときだった。背後から声をかけられたのは。
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 楼主| 发表于 2006-7-29 00:59:36 | 显示全部楼层
 4

「……見つけた」
 声といっしょにかすかに海の匂いがした。
 担任が不審そうに酔うこの背後を見て、それで陽子もふりかえる。
 陽子のうしろには若い男が立っていた。まったく見覚えのない顔だった。
「あなただ」
 男はまっすぐ陽子を見て言う。年は二十代後半といったところだろう。ぽかんとするくらい奇妙な男だった。|裾《すそ》の長い着物に似た服を着ている。能面のような顔に髪を|膝裏《ひざうら》に届くほど長く伸ばして、それだけでも|尋常《じんじょう》でなく奇妙だというのに、その髪がとってつけたように薄い金色をしている。
「誰だ、君は」
 担任がとがめるように聞く。男はそれを気にしたふうもなく、さらにあぜんとするようなことをやってのけた。陽子の足元に膝をついて、深く頭を下げたのだ。
「……お探し申しあげました」
「中嶋、おまえの知りあいか?」
 担任に聞かれ、ぽかんとしていた陽子はあわてて首をふった。
「ちがいます」
 あまりに異常な事態に、陽子はもちろん、担任もうまく反応ができないようだった。困惑した気分で見つめていると、男は立ち上がる。
「どうか私とおいでください」
「はぁ……?」
「中嶋、なんなんだ、こいつは」
「わかりません」
 聞きたいのは陽子のほうだった。救いを求めて担任を見る。職員室に残っていたほかの教師たちがけげんそうに集まってきていた。
「なんだ、おまえは? 校内は関係者以外は立ち入り禁止だぞ」
 担任がやっとそれに思い至ったように強く言うと、男は無表情に教師を見返す。すこしも悪びれたところがなかった。
「あなたには関係がない」
 冷たく言って周囲に集まった教師たちを見わたす。
「あなた方もです。さがりなさい」
 あまりにも|居丈高《いたけだが》な物言いに誰もがまず驚いている。同じように驚くばかりの陽子を男は見すえた。
「事情なら、おいおい説明いたします。とにかく私とおいでください」
「失礼ですけど」
 誰なんですか、と陽子が聞きかけたとき、ふいに間近で声が響いた。
「タイホ」
 人を呼ぶ語調の声に男が顔をあげる。この奇妙な男の名前なのかもしれない。
「どうした」
 |眉《まゆ》をひそめて男が問い返した方向にはしかし、声の主は見当たらなかった。どこからともなく再び声が響いた。
「追っ手が。つけられていたようです」
 能面のような顔が急に|険《けわ》しい表情になった。ただうなずいて陽子の手首をつかむ。
「失礼を。──ここは危険です。こちらへ」
「……危険、って」
「説明をする余裕はありません」
 ぴしゃりといわれて陽子は思わず身をすくめる。
「すぐに敵が来ます」
「……敵?」
 なんとはなしに不安を感じて問い返したときだった。もう一度近くで声がした。
「タイホ、来ました」
 見回したけれど、やはり声の主の姿は見えない。教師たちが何かを言いかけるのと同時だった。
 ──裏庭側の窓ガラスが割れたのは。

 割れたのは陽子の間近の一枚だった。とっさに目を閉じた陽子の耳に、ガラスの砕ける音に混じって悲鳴じみた叫びが聞こえた。
「なんだ!?」
 担任の声に閉じた目を開くと、教師はガラスが割れた窓に駆け寄るようにして外を見回していた。広い川に面した窓からは冷たい風が吹き込んで、冷気といっしょに、なにか|生臭《なまぐさ》い臭気を外から運んできていた。床には破片が散乱している。比較的窓のそばにいたにもかかわらず陽子が破片をかぶらずにすんだのは、奇妙な男が|盾《たて》になってくれたからだった。
「なに……?」
 状況がつかめずに問う陽子に、男がいくぶん冷ややかな声を出した。
「だから危険だと申しあげましたのに」
 言って、あらためて陽子の腕をつかむ。
「こちらへ」
 強い不安を感じた。つかまれた腕をふりほどこうとしたが、男はまったく離すふうがない。それどころかかえって強く引っ張る。たたらを踏んでよろめいた陽子の肩に手をかけた。
 引っ張る男を押しとどめたのは、担任だった。
「これは、おまえのしわざか!?」
 男は険をふくんだ目で担任を見る。あげた声は冷ややかで|容赦《ようしゃ》がなかった。
「あなたには関係がない。さがっていなさい」
「えらそうに、なんだ、おまえは。うちの生徒になんの用だ? 外に仲間でもいるのか!?」
 男に向かって怒鳴ってから陽子をにらむ。
「中嶋、どういうことなんだ!?」
「……わかりません」
 聞きたいのは陽子のほうだった。首をふる陽子を男は引っぱる。
「とにかく、ここは」
「いやです」
 こういう誤解は恐ろしい。こんな男と仲間だなんて思われたら。身をよじって男の腕をふりほどくと同時に、再びどこか上のほうから声がした。
「タイホ」
 緊張した声だった。教師たちが声の|主《ぬし》を探すように周囲を見まわす。男はあきらかに顔をしかめた。
「まったく、|頑迷《がんめい》な」
 吐き捨てるように言ってから、男はいきなり膝をついた。反応する間も与えず陽子の足をつかまえる。
「ゴゼンヲハナレズチュウセイヲチカウトセイヤクスル」
 早口に言うやいなや、陽子をにらみすえた。
「許す、と」
「なんなの!?」
「命が惜しくないのですか。──許す、とおっしゃい」
 語気荒く言われ、けおされて陽子は思わずうなずいていた。
「許す……」
 ついで男がとった行動は、陽子を|呆然《ぼうぜん》とさせるのにじゅうぶんだった。
 一拍おいて、周囲からあきれたような声があがる。
「おまえら!」
「なにを考えてるんだ!」
 陽子はひたすらあぜんとしていた。この見ず知らずの男は頭をたれて、つかまえた陽子の足の甲に額をあてたのだ。
「なにを──」
 するの、と言いかけて陽子は言葉をとぎらせた。
 たちくらみがした。なにかが自分のなかを駆け抜けていって、それが一瞬、目の前をまっくらにする。
「中嶋! どういうことだ!?」
 顔をまっかにした担任が怒声をあげるのと同時だった。
 どん、と低い地響きのような音がして、裏庭側に残ったガラスというガラスが白く|濁《にご》った。
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 楼主| 发表于 2006-7-29 01:00:00 | 显示全部楼层
   5

 その一瞬は、まるで大量の水が吹きこんでくるように見えた。
 |砕《くだ》け散ったガラスの破片が鋭利な光を|弾《はじ》いて水平に殺到してくる。
 とっさに目を閉じ、腕をあげて顔をそむけた。その腕に、顔に体に小さな痛みが吹きつけてくる。すさまじい音がしたはずだが、陽子の耳には届かなかった。
 小石のぶつかるような感触が絶えたことを確認して目を開けると、教室はガラスの破片で光を|撒《ま》いたように見えた。集まってきた教師たちがその場にうずくまっている。陽子の足もとには担任が身を伏せていた。
 大丈夫ですか、と問いかけて、彼の体には無数の破片が刺さっているのを発見する。教師たちがあげているうめき声がようやく陽子の耳に入った。
 陽子はとっさに自分の体を見おろす。担任の脇に立っていたにもかかわらず、陽子の体には傷ひとつなかった。
 ただ驚くしかない陽子の足を担任がつかんだ。
「おまえ……なにをしんたんだ」
「あたしは、なにも」
 その血だらけの手を引きはがしたのは男だった。
「行きましょう」
 この男も無傷だった。
 陽子は首を横にふる。ついてけいばほんとうに仲間だと思われてしまう。それでも手を引かれるままつい足を動かしてしまったのは、その場に残るのが恐ろしかったからだった。敵が来る、という言葉には現実感がない。それよりも|怪我人《けがにん》だらけで血の臭いのたちこめた、この場所にとどまっていることが怖かった。

 職員室を飛び出したところで駆けつけてきた教師に会った。
「どうした!?」
 初老の教師は怒鳴り、陽子の脇にいる男に目をとめて|眉《まゆ》をひそめる。陽子がなにを言うよりも早く、男が手を上げて職員室を示した。
「手当てを。怪我人がいる」
 それだけを言って陽子の手を引く。背後で教師がなにかを叫んだが、なんと言ったのかはわからなかった。
「どこへ、行くんですか」
 陽子が声をあげたのは、男が階段を下りようとせず上がろうとしたときだった。この場をとにかく逃げ出して家に帰りたかった。そう意図して階下を指さす陽子の腕を、男は上に向かって引く。
「そっちは屋上……」
「いいから、こちらへ。そちらからは人が来る」
「でも」
「我々が行くとかえって迷惑をかける」
「迷惑、って」
「無関係な物をまきこむことをお望みか」
 男は屋上へ通じるドアを開く。強く陽子の手を引いた。
 無関係な者をまきこむということは、陽子は無関係ではないということなのだろうか。男が言った「敵」とは、いったいなんだろう。聞きたかったが、なんとなく|気後《きおく》れがした。
 手を引かれるまま、なかばよろめくようにして屋上へ出たとき、背後から奇声がとどろいた。
 |錆《さ》びた金具がたてたような声に、陽子は背後に視線を走らせる。今出てきたばかりのドアの上に影が見えた。
 茶色の翼。毒々しい色合いの曲がった|嘴《くちばし》が大きく開かれて、興奮した猫のような奇声をあげている。
 両翼の先までが五メートルはあろうかという巨鳥だった。
 ──あれは。
からめとられたように身動きができなかった。
 ──あれは、夢のなかの。
 建物の屋根から、奇声といっしょに濃厚な殺意が降ってくる。夜をむかえはじめた|曇天《どんてん》の空は暗い。大きな|襞《ひだ》をみせる雲に、どこからかもれた夕陽がかすかに赤い光を投げていた。
 |鷲《わし》に似たその鳥には|角《つの》があった。首をふり、大きく一度|羽《は》ばたきすると、いやな臭気のする風が圧力をもって吹きつけてきた。夢と同じように、陽子はそれをただ見ていた。
 巨鳥の身体が舞いあがる。ごくかるく浮きあがると、宙でもう一度羽ばたきし、そうして急に翼の角度を変えた。
 急降下してくる態勢だ、と陽子は|呆然《ぼうぜん》と思った。太い脚が陽子をまっすぐに示している。茶色の羽毛におおわれた脚には、圧倒されるほど太く鋭い|鉤爪《かぎづめ》が見えた。
 陽子が立ち直るひまもなく、鳥の身体が落下してくる。悲鳴をあげることさえできなかった。
 陽子の目は見開かれたままだったが、なにも見ていなかった。それで肩に鈍い衝撃が当たったときにも、それが自分を引き裂く鉤爪のせいなのだとすんなり納得した。
「ヒョウキ!」
 どこからか声が響いて、目の前に暗い赤い色が流れた。
 ──血だ……。
 そう思ったが、不思議にさほどの痛みは感じなかった。
 陽子はようやく目を閉じる。想像していたよりも楽そうだ、と思った。死ぬことはもっと恐ろしいことだと思っていたのだけれど。
「しっかりなさい!」
 強い声の主に肩をゆすられて、陽子は我に返った。
 男が顔をのぞきこんでいた。背中にコンクリートの感触がして、左の肩にフェンスの堅い感触が食いこんでいる。
「自失している場合ではない!」
 陽子は跳ね起きた。立っていたはずの場所から、かなり遠い場所に陽子は転がっている。
 奇声が響いて、ドアの前で巨鳥が翼をふっているのが見えた。
 羽ばたくたびに圧力のある風が吹く。鉤爪は屋上のコンクリートをえぐっていた。爪が深く床に食いこんで鳥は身動きがとれないようだった。
 いらだったように大きく首をふる。その首に赤い獣が喰らいついているのが見えた。暗い赤の毛並みにおおわれた|豹《ひょう》のような獣だった。
「……なに」
 陽子は悲鳴をあげた。
「なんなの、あれは!」
「だから危険だと申しあげたのに」
 男は陽子を引き起こす。陽子は一瞬だけ男と鳥を見くらべた。
 鳥と獣はもつれ合うようにして|競《せ》り合いを続けている。
「カイコ」
 男の声に呼ばれたように、コンクリートの床から一人の女が現れた。まるで水面に浮かびあがってくるように羽毛におおわれた女の上半身が現れる。
 女は鳥の翼のようなその腕に一本の剣を抱いていた。宝剣、といっていいような優美な|鞘《さや》の剣だった。|柄《つか》は金、鞘にも金の装飾がある。宝石らしい石を散らし、|玉飾《たまかざ》りをつけたその剣はとうてい実用に耐えるようには見えない。
 男は女の腕から剣を取りあげる。手にとったそれをまっすぐ陽子に突きつけた。
「……なに」
「あなたのものです。これをお使いなさい」
 陽子はとっさに男と剣を見くらべた。
「……あたしが? あなたじゃなくて?」
 男は不快げな顔をして剣を陽子の手に押しこんだ。
「私には剣をふるう趣味はない」
「こういう場合、あなたがそれで助けてくれるんじゃないの!?」
「あいにく剣技を知らない」
「そんな!」
 手のなかの剣は見かけよりも重い。とうていふりまわせるとは思えなかった。
「あたしだって知らない」
「おとなしく殺されてさしあげるおつもりか」
「いや」
「ではそれをお使いなさい」
 陽子の頭のなかは混乱の極致にあった。殺されたくない、という思念だけが強い。
 だからといって剣をふりかざして戦う勇気はない。そんな力や技量があるはずがない。剣を使えという声と、使えるはずがないという声と、両極の声が陽子に第三の行動をとらせた。
 つまり、剣を投げつけたのだ。
「なにを──おろかな!」
 男の声には|驚愕《きょうがく》と怒りとが混じっている。
 鳥をめがけて陽子が投げた剣は、目標に届きもしなかった。打ちふるう翼の先をわずかにかすめて巨鳥の足元に落ちる。
「まったく。──ヒョウキ!」
 舌打ちするのが聞こえそうな声だった。
 男の声に鳥の翼に爪をたてていた暗赤色の獣が離れる。離れざま身をかがめて落ちた剣をくわえると、矢のように陽子のほうへと駆け戻ってくる。
 剣をうけとりながら男は獣に問う。
「持ちこたえられるか」
「なんとか」
 驚いたことに返答したのは、まぎれもなくヒョウキと呼ばれた暗赤色の獣だった。
 頼む、と短く言って男はだまってひかえていた鳥のような女に声をかける。
「カイコ」
 女がうなずいたとき、細かな石が飛んできた。
 巨鳥が爪を抜いてコンクリートの|飛沫《ひまつ》があがったところだった。
 舞いあがろうとする巨鳥に赤い獣が跳びつく。いつの間にか全身を現して宙に舞い上がっていた女がそれに加わった。女の脚は人そのもの、ただし羽毛におおわれて、さらに長い尾がある。
「ハンキョ。ジュウサク」
 男に呼ばれて女が現れたのと同じように、二頭の大きな獣が現れた。一方は大型犬に、一方は|狒狒《ひひ》に似ている。
「ハンキョ、ここは任せる。ジュウサク、この方を」
「|御意《ぎょい》」
 二頭の獣は頭を下げた。
 うなずき返し、男は背を向ける。ためらいのない動きでフェンスに歩み寄ると、するりと姿をかき消した。
「……そんな! 待って!」
 叫んだときだった。狒狒に似た獣が腕を伸ばした。
 陽子の身体に手をかけ、有無を言わさず抱え込む。陽子はとっさに悲鳴をあげた。それを無視して狒狒は陽子を小脇に抱える。その場を蹴ってフェンスの外に跳躍した。
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 楼主| 发表于 2006-7-29 01:00:26 | 显示全部楼层


 狒狒は屋根から屋上へ、屋上から電柱へ、驚異的な跳躍を繰り返して風のように駆けた。
 陽子がその乱暴な運送から開放されたのは街はずれの海岸、港に面した突堤の上だった。
 狒狒は抱えた陽子を地面におろし、陽子が息をついているあいだに一言もなく消えうえせた。どこへ消えたのかと周囲を見渡していると、積みあげられた巨大なテトラポッドのあいだからすべり出るようにして宝剣をさげた男の姿が現れた。
「ごぶじか」
 聞かれて陽子はうなずく。|眩暈《めまい》がするが、これは狒狒の跳躍に酔ったせい、そうして次々におこる常識はずれのできごとのせいだと自覚していた。
 足腰がなえてその場に座りこむ。意味もなく涙がこぼれた。
「お泣きになっている場合ではない」
 陽子はいつの間にか|傍ら《かたわ》に膝をついた男を見た。いったいなにがおこったのか。問うように男を見あげたが、男には説明する気がないようだった。
 陽子は目を伏せる。男の態度はあまりにもそっけなくて、あえて質問をする勇気が出ない。それで震える手で膝を抱いた。
「……怖かった」
 つぶやいた陽子に、男は強い口調で吐き捨てるように言う。
「なにを悠長なことを言っておられる。じきに追ってくる。ゆっくり息を整えている|猶予《ゆうよ》はないのですよ」
「追って……くる?」
 驚いて見あげると、男はうなずく。
「あなたがお|斬《き》りにならなかったのだから、しかたない。ヒョウキたちが足止めをしているが、おそらくそんなにはもたないでしょう」
「あの鳥のこと? あの鳥はなんだったの?」
「コチョウ」
「コチョウって?」
 男は|軽蔑《けいべつ》したような目つきをした。
「あれのことです」
 陽子は身をすくめる。そんな説明ではわからない、という抗議は声にならなかった。
「あなたは、誰なんですか? どうして助けてくれたんですか?」
 短く言ったきり、それ以上の説明はない。陽子はかるくためいきをついた。タイホというのが名前ではないの、と聞きたかったが、とうてい聞けるようなムードではなかった。
 こんな|得体《えたい》の知れない男の前から逃げ出して家に帰りたかったが、教室に|鞄《かばん》とコートをおいたままだった。とうていひとりで取りに戻る気にはなれないが、かといってこのまま家に帰るわけにもいかない。
「──もうよろしいか?」
 とほうにくれた思いでうずくまっていると、唐突にそう聞かれた。
「よろしい、って」
「もう出発してもよろしいか、とお聞きした」
「出発ってどこへ?」
「あちらへ」
 あちら、というのがどこなのか、陽子にはまったくわからなかった。ただほぼんやりしている陽子の手を男がつかんだ。腕を引かれて、これで何度目だろう、と思った。
 どうしてこの男は満足な説明もなしに、陽子になにかを強制しようとするのだろう。
「……ちょっと待ってください」
「そんなひまはない」
 男はいらだった口調で言う。
「じゅうぶんお待ち申しあげた。これ以上の余裕はない」
「それは、どこなんですか? どれくらいの時間がかかるの」
「まっすぐに行けば、片道に一日」
「そんな、困ります」
「なにを」
 とがめるように言われて、陽子をうつむく。とりあえずいってみようと思うには、男はあまりにも得体がしれない。
 片道に一日というのも陽子にとっては論外の数字だった。両親になんと言って家を|空《あ》ければよいのか。頭の固い両親が、陽子のひとり旅など許すはずがない。
「……困ります」
 なんだか泣きたかった。なにひとつ陽子にはわからない。男はなにも説明してはくれない。それなのに、こんなむりな要求を怖い顔でつきつけるのだ。
 泣けばまた叱られるだろうから、必死で涙をこらえた。
 ひたすら膝を抱いてだまりこんでいると、突然またあの声が響いた。
「タイホ」
 男は空を見あげる。
「コチョウか」
「はい」
 ぞっ、と陽子の背筋を|悪寒《おかん》が走った。あの鳥が追ってきたのだ。
「……助けてください」
 男の腕をつかむと、男は陽子をふりかえる。手にさげた剣を突きつけた。
「命がおしければ、これを」
「でもあたし、こんなの使えません」
「これはあなたにしか使えない」
「あたしには、むりです!」
「ではヒンマンをお貸しする。──ジョウユウ」
 呼ばれて地面から男の顔が半分だけ現れた。
 岩でできたような、顔色の悪い男で、くぼんだ目が血のように赤い。
 するりと地中から抜け出したその首の下には身体がなかった。半透明のゼリー状のものがくらげのようにまといついているだけだ。
「……なに!?」
 小さく悲鳴をあげた陽子をよそに、それは地中からすべり出る。まっすぐ陽子に向かって飛んできた。
「いや!」
 逃げようとした陽子の腕をケイキがつかむ。
 逃げ出すに逃げ出せない陽子の首のうしろに、ごとんと重いものが乗った。あの首が乗ったのだとわかった。冷たいぶよぶよとしたものが制服の|衿《えり》の中へもぐりこんでくるのを感じて、陽子は悲鳴をあげた。
「いや! とって!」
 つかまれていない片腕をめちゃくちゃにふって、背中のものを払い落とそうとするとケイキがその腕までもつかむ。
「やめて! いや!!」
「聞き分けのない。おちつかれよ」
「いや! いやだってば!!」
 冷えた|糊《のり》のようなものが背中から腕を|這《は》う。同時に首のうしろに強くなにかが押しつけられるのを感じて、陽子はひたすら悲鳴をあげた。
 膝が崩れて座りこみ、がむしゃらに男の腕をふりほどこうと身をよじって、腕が自由になるや、勢いあまってその場に転ぶ。なかばパニックをおこしながら両手で首のうしろを払ったときには、もうなんの手ごたえもなかった。
「なに? なんなの!?」
「ジョウユウが|憑依《ひょうい》しただけです」
「憑依って」
 陽子は身体中を両手でこする。身体のどこにも、あのいやな感触はない。
「剣の使い方はジョウユウが知っている。これをお使いなさい」
 そう冷淡に言って男は剣をさしだす。
「コチョウは速い。あれだけでも斬っていただかねば、追いつかれる」
「あれ……だけ?」
 だけ、ということはほかにも追ってくるものがあるということだろうか。あの夢のなかの光景のように。
「あたし……できない。それより、さっきのジョウユウとかヒンマンとかいうばけものは、どこへ行ったの」
 男は答えずに空を見あげる。
「来た」
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 楼主| 发表于 2006-7-29 01:01:09 | 显示全部楼层


 陽子がふりかえるより先に、背後から奇声が聞こえた。
 声のほうを見あげる陽子の手のなかに、剣が押しこまれる。それにはかまわず陽子はふりかえる。背後の上空に翼を広げた巨鳥の姿が降下してくるのが見えた。
 悲鳴をあげた。逃げられない、ととっさに思った。
 逃げるよりも落下してくる鳥のほうが速い。剣なんて使えない。あんな、ばけものに|対峙《たいじ》する勇気なんてない。身を守る方法がない。
 太い脚の|鉤爪《かぎづめ》が視野いっぱいに広がった。目を閉じたかったが、できなかった。
 目の前を白い光が走って、堅い激しい音がした。岩と岩とを打ちつけたような音をたてて、|斧《おの》のように重量感のある鉤爪が顔のすぐ前で止まった。
 とめたのは剣、剣を|鞘《さや》からなかばまで引き抜いて目の前にかかげたのは、ほかでもない自分の両腕だった。
 なに? と自問するひまもなかった。
 陽子の腕が残りの刀身を引き抜いて、抜きざまコチョウの脚を払う。
 赤い血が散って、生暖かな温度をともなって陽子の顔に噴きつけた。
 陽子は|呆然《ぼうぜん》としているしかなかった。
 断じて剣を使っているのは陽子ではない。手足が勝手に動いて、|狼狽《ろうばい》したように浮上するコチョウの片脚を|斬《き》って落とす。
 また鮮血が|飛沫《しぶ》いて顔を汚した。ぬるいものが|顎《あご》から首をつたって、衿のなかに入ってくる。その感触に陽子は震えた。
 陽子の足は|血飛沫《ちしぶき》をかわすようにその場をさがった。
 宙へ逃げ出した巨鳥は、すぐさま態勢を立て直して突っ込んできた。
 その翼に斬りつけながら、陽子は自分の体が動くたび、動きにしたがって冷えたぞろぞろとする感触が身体をつたうのを感じる。
 ──あれだ。あの、ジョウユウとかいうばけもの。
 翼を傷つけられた巨鳥が、奇声をあげながら地に突っ込む。
 それを視野にとらえながら、陽子は|悟《さと》る。
 あのジョウユウとかいうばけものが自分の手足を動かしているのだ。
 |身悶《みもだ》えするように羽ばたいた巨鳥は、地を巨大な両翼で叩くようにして陽子に向かってきた。
 陽子の身体はよどみなく動いて、身をかわしざま、その胴を深く斬って捨てる。
 生暖かい|血糊《ちのり》を頭からかぶって、手には肉と骨を断つおぞけのするような感触が残った。
「いや」
 口は陽子の意思によってつぶやいたが、身体は動きをやめなかった。
 血糊が身体をつたうのもかまわず、地面に落ちてあがくコチョウの翼に深く剣を突き立てる。刺し貫いた剣をそのまま引いて大きな翼を斬り裂いた。
 そのまま陽子の身体はきびすを返して、奇声をあげ血泡を噴いてのたうつ首に向かった。
「いや。……やめて」
 巨鳥は転がるようにして傷ついた翼を大きく打ちふるっていたが、翼はもはやその体重を浮上させることができなかった。
 陽子の腕は、音をたてて宙を|扇《あお》ぐ翼を避けて胴を刺し貫いた。とっさに目をそむけたが、ぶよぶよとした抵抗を斬り裂く感触が手に残る。
 その剣を抜きざま振り上げ、|躊躇《ちゅうちょ》なくその首にふりおろした。首の骨に当たって剣が止まる。
 あらためて|粘《ねば》る血肉から引き抜いてふりあげ、赤く染まった首を今度は完全に|斬《き》り落とし、そのまだ|痙攣《けいれん》している翼で剣をぬぐったところで手足の勝手な動きが止まった。
 陽子は悲鳴をあげて、やっと剣を投げ捨てた。

 突堤の端から身を乗り出して陽子は吐いた。
 泣きじゃくりながら海中投げこまれたテトラポッドをつたって水のなかに飛びこむ。今は二月もなかばで、海の水は身を切るほど冷たいことは、まったく念頭に浮かばなかった。とにかく、頭からかぶった血糊を洗い落としてしまいたかった。
 無我夢中で水をかぶって、それでようやく落ちつくと、水のなかから|這《は》いのぼることさえできないほど震えた。
 のろのろと這いのぼって突堤に戻り、そこであらためて声をあげて泣いた。恐怖と|嫌悪《けんお》で泣かずにはおれなかった。
 声が|嗄《か》れるほど泣いて、泣く気力さえつきたころにようやくケイキが声をかけてきた。
「もう、よろしいか」
「……なに……」
 ぼんやりと顔をあげると、ケイキの表情にはなんの色もない。
「これが追っ手のすべてではありません。じきに次の追っ手が来る」
「……それで?」
 神経のどこかが|麻痺《まひ》したようだった。追っ手という言葉に恐怖を感じず、男をまっこうからにらむことにも|気後《きおく》れを感じなかった。
「追っ手は手ごわい。お守り申しあげるには、私ときていただくほかはありません」
 陽子はそっけなく返した。
「いや」
「分別のないことをおっしゃる」
「もうたくさん。あたし、家に帰る」
「家に帰ったからといって、決して安全ではない」
「もういいの、どうだって。寒いから家に帰る。……ばけものを取ってよ」
 男は陽子を見すえた。その目を陽子も淡々と見返す。
「あたしの身体に張りついてるんでしょ。ジョウユウとかいうばけものを取って」
「それは当面、あなたに必要なものだ」
「必要ない。あたし、家に帰るから」
「どこまでおろかな方か!」
 怒鳴られて、陽子は目を見開く。
「死んでいただいては困る。否とおっしゃるなら、むりにでもおいでいただきます」
「勝手なことばかり言わないで!」
 陽子は叫んだ。他人を怒鳴りつけたのは記憶にある限り、生まれてはじめてのことだったが、いったん叫んでしまうと、身内には奇妙な|高揚感《こうようかん》があった。
「あたしがなにをしたっていうのよ! あたしは、家に帰るの。こんなことに巻き込まれるのはもういや。どこへも行かない。家に帰る」
 突きつけられた剣を、陽子は乱暴に手で払いのけた。
「あたしは、家に帰りたいの! あなたに指図なんかさせない!」
「危険だと申しあげているのがおわかりにならないか!」
 陽子は薄く笑ってみせる。
「危険でもいい。あなたには関係ないでしょ」
「関係なくはない」
 男は低く吐き捨てて、陽子の背後に目線でうなずく。まえぶれもなく背後から二本の白い腕が伸びて、陽子の腕をつかんだ。
「なにをするのよ!?」
 ふりかえると、最初に剣を持って現れた鳥のような女だった。女は陽子の腕をつかんで無理やり剣を抱かせる。そのまま|羽交《はがい》いじめにするようにして抱きかかえた。
「放して!」
「あなたは私の|主《あるじ》です」
 言われて陽子はケイキを見あげる。
「主?」
「主命とあれば、どのようなことでもお聞きするが、あなたの命がかかっている。今はお許しいただきます。まずはお身の安全を|図《はか》り、事情をお聞きいただいて、その上でお帰りになりたいとおっしゃるのなら必ずお送り申しあげます」
「あたしがいつあなたの主人になったの? 勝手にやってきて、なんの説明もなしに勝手なことばかり。ふざけないでよ!」
「説明申しあげる猶予はありません」
 言ってケイキは、底冷えのする視線を陽子に向ける。
「私としてもこんな主人は願い下げだが、こればかりは私の意のままにならない。主人を見捨てることは許されない。ましてや無関係な人々をまきこむことは絶対に避けねば。否というなら力ずくでもおいでいただく。──カイコ。そのままお連れせよ」
「いや! 放して!」
 ケイキは陽子をふりかえらない。
「ハンキョ」
 呼ばれて赤い毛並みの獣が物陰から現れる。
「離れて飛べ。血の臭いが移る」
 次いでヒョウキ、と呼ばれて巨大な|豹《ひょう》に似た獣が姿を現した。女は陽子を羽交いじめにしたままその背を|跨《また》ぎ越す。
 ふうわりと、同じようにハンキョに|跨《またが》った男に陽子は訴えた。
「冗談じゃないわよ! 家に帰して! せめてあの、ばけものを取って!!」
「別に邪魔になるわけではないでしょう。ジョウユウが|憑《つ》いていたからといって、なにかを感じるわけではないはずだ」
「それでも気味が悪いの! 取りなさいよ!」
 ジョウユウ、と陽子のほうをふり向いて男は命じる。
「決して姿を現さず、ないものとしてふるまえ」
 これに対して返答はなかった。
 ケイキがうなずくと、陽子を乗せた獣が立ちあがった。とっさに自分を抱えた女の腕にしがみつくと同時に、獣は音もなく跳躍する。
「……いやだってば!」
 陽子の叫びを無視して獣は抵抗なく宙へ向かって駆けあがった。
 まるでゆるやかに宙を泳ぐようにして高度を増す。地面が眼下を遠ざかっていかなければ、動いていないのかと錯覚するほど獣の動きは穏やかだった。
 獣は宙を駆ける。夢のように地上は遠ざかって、日暮れた街の姿をあらわにした。
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 楼主| 发表于 2006-7-29 01:01:29 | 显示全部楼层


 天には|凍《こご》えた満天の星。地には都市の輪郭を作る一面の星。
 獣は海上に踊り出た。
 宙を泳ぐように|翔《かけ》て、それでいながらあきれるほど速い。どういうわけか風を切る感触はしないので、さほどでもない気がするが、背後の夜景が遠ざかるスピードを見れば尋常でない速度なのがわかる。
 なにを叫んで訴えても、こたえてくれる者はいなかった。ついには哀願さえしたが、返答はない。
 暗い海上のこと、高さを暗示するものは見えないので高度に対する恐怖は薄いが、行方に対する恐怖がある。
 獣はまっすぐに沖へ向かった。ケイキを乗せたもう一頭の獣の姿は近くには見えない。ケイキの言葉どおり離れているのだろう。
 そろそろと背筋を投げやりな気分が這いあがってきて、陽子はようやく叫ぶことをやめた。あきらめてしまえば、思い出したように四肢を動かして宙を駆ける獣の背は心地よかった。背後から回された女の腕が冷えた身体に温かい。
 陽子はためらい、そうしてようやく背後の女に聞いてみる。
「あの……追ってきてる?」
 半身をひねるようにして聞くと、女はうなずいた。
「はい。追っ手の妖魔が多数」
 女の声は耳にまろく優しかった。それに陽子は|安堵《あんど》する。
「あなたたちは……何者?」
「我々はタイホの|僕《しもべ》です。──どうぞ、前を。お落としすると叱られます」
「……うん」
 陽子はしぶしぶ前を向く。
 視界に映るのは暗い海と暗い空、薄く光る星と波、天高く凍えた月、それでぜんぶだった。
「しっかり剣をお持ちになって。決してお身体からお離しになりませんよう」
 その声に陽子は|怯《おび》えた。またさっきのような吐き気のする戦いをしなければならないのだろうか。
「……敵が来そう?」
「居ってきてはおりますが、ヒョウキのほうが速い。心配はございません」
「……じゃあ?」
「万が一にも剣や|鞘《さや》をなくされませんよう」
「剣と、鞘?」
「その剣は鞘と離してはなりません。鞘についております|珠《たま》は、あなたさまのお身を守ります」
 陽子は腕のなかの剣を見た。鞘には飾り|紐《ひも》のようなものがついていて、その先にピンポン玉大の青い石がついている。
「これ?」
「はい。お寒いのでしたら、珠を握ってごらんなさいませ」
 言われるままに手のなかに握りこんでみると、|掌《てのひら》からじんわりと暖気がしみてくる。
「……暖かい」
「怪我や病気、疲労にも役に立ちます。剣も珠も秘蔵の|宝重《ほうちょう》。決してなくされませんよう」
 うなずいて、次の質問を考えようとしたとき、急に獣の高度が下がった。
 まっくらな海に白く月が影を映している。波の上に縫いとめられたその影が、勢いを増して近づいていた。海上がその勢いに押されたように泡立つ。
 さらに下降すれば、海面は|沸騰《ふっとう》したように水柱をあげて荒れているのがわかった。
 獣はその荒れる海の上に輝く、光の円の中へ飛び込もうとしている。それを感じて陽子は悲鳴をあげた。
「あたし、泳げない!」
 白い腕にしがみつくと、女はやんわりと腕に力をこめる。
「大事ございません」
「でも!」
 それ以上を言うひまはなかった。海面が前に|塞《ふさ》がって、陽子は悲鳴をあげた。

 光の中に飛び込んだ瞬間、叩きつけられる衝撃を覚悟したが、そんなものはまったくなかった。
 逆巻いた波の|飛沫《しぶき》も、水の冷たさも感じない。ただ光の中にとけこむように、閉じた|瞼《まぶた》の下に白銀の光がさしこんできただけだった。
 ごく薄い布で顔をなでる感触がして目を開けると、そこは光のトンネルだった。少なくとも陽子には、そのように見えた。音もなく風もない。たださえざえとした光だけが満ちている。
 頭から飛び込んできた足元では、月の形に白い光が闇を切りとっていた。その表面が大きく波立っているのが見て取れる。
「なに……これ」
 もぐるように進む頭上には、足元と同じように丸い光が見える。
 頭上にある光の円盤が、足元に白く光を投げかけているのか、それとも逆に、足元にある円盤が頭上に光を投げているのだろうか。いずれにしてもそれが出口だとしたら、このトンネルはひどく短い。
 |煌煌《こうこう》とした光の中をあっという間に駆け抜けて、陽子を乗せた獣は丸い光の中に飛び込んだ。再び薄い布で体をなでたような感触があって、そうして踊り出たそこは、海の上だった。
 突然に耳に音が戻る。鈍い光を|弾《はじ》く海面、目をあげるとそれが見わたす限り続いている。入ったときと同じように、まっくらな海上の月の影から陽子たちは|滑《すべ》り出ていたのだ。
 海面の、はるか向こうはわからない。ただ暗い海ばかりが、月の光を浴びてどこまでも広がっているように見えた。
 月の影から出ると同時に獣を中心に大きな波が同心円を描いて広がりはじめる。海面はみるみるうちに泡立って、嵐のように荒れ狂う波を打ちあげはじめた。
 波頭の飛沫がちぎれていく様子を見れば、恐ろしいほどの風が吹いているのがわかる。ずっと無風に近かった獣のまわりでも、ゆるやかな風が逆巻きはじめ、頭上には雲が流れはじめた。
 獣は高度を増して宙を駆ける。荒れた海の上に縫いとめられた月の影が、月の影そのものにしか見えなくなるほど遠ざかってから、ふいに女が声をあげた。
「ヒョウキ」
 |堅《かた》い声に陽子は女をふりかえり、そうして彼女の視線を追って背後を見た。夜の海の上、白い月の影から無数の黒い影が踊り出てくるのが見えた。
 光を宿したのは天頂の月とその影だけ、それもかき消すように雲におおわれ、やがて完全な闇が訪れた。──まさしく、漆黒の闇。
 天も地もない闇のなかに薄く|紅蓮《ぐれん》のあかりが見える。月の影が落ちていた方角だった。その薄いあかりは、炎でも燃えさかっているように形を変え、踊る。
 その光を背に無数の影が見えた。異形の獣の群れだった。
 こちらはほんとうに躍りながら、あかりのほうからこちらへむけと駆けてくる。猿がいて|鼠《ねずみ》がいて鳥がいる。赤い獣と黒い獣と赤い獣と。
 陽子は呆然とした。
「あれは……」
 あれは。この風景は──。
 陽子は悲鳴をあげた。
「やだ! 逃げてーっ」
 女の手があやすように陽子をゆすった。
「そうしております。どうぞご安じくださいまし」
「いや!」
 女は陽子の身体を伏せさせる。
「しっかりヒョウキにつかまって」
「あなたは?」
「すこしでも連中の足を止めにまいります。しっかりヒョウキにしがみついて、なによりも決して剣をお放しになりませんよう」
 陽子がうなずくのを見て、女は腕を放した。
 そのまま漆黒の宙を蹴って背後に向かって駆けてゆく。金茶の|縞《しま》がある背が、あっという|間《ま》にのまれていった。

 陽子の周囲にはすでに闇よりほかになにひとつ見えない。風が巻いて、陽子を揺さぶり始めた。
「ヒ……ヒョウキ、さん」
 陽子はしっかり背に伏せたまま声をかけた。
「なにか」
「逃げられそう?」
「さて。どうですか」
 ごく緊張感のない声が答えてから、
「上! ご注意を!」
「え?」
 ふり|仰《あか》いだ陽子の目に、赤いほのかな光が映った。
「ゴユウが」
 しがみついた腕の下の獣が、言うやいなや体をかわして宙を横に跳んだ。その脇を恐ろしい勢いでなにかが墜落していく。
「なに? どうしたの!?」
 ヒョウキは宙を左右に跳びながら急激に高度を下げていく。
「剣を。──伏兵が。はさまれました」
「そんな!」
 叫んだ陽子の目の前の闇に、うっすらと赤い光がともった。その光を背に黒いなにかの影が見える。踊るようにして近づいてくる、なにかの群れ。
「いや! 逃げてーっ!!」
 剣をつかうのはいやだ、そう思った瞬間、そろりと足を冷たいものがなでた感触がした。
 獣に|跨《またが》った陽子の両膝が音がするほど強くヒョウキの体を挟む。背筋を冷たいものが|這《は》って、陽子の上体をむりにもヒョウキの背から引きはがして起こさせる。
 腕が勝手に戦闘の準備を始める。両手をヒョウキから放し、剣を|鞘《さや》から抜き放つと鞘だけを背中へ、スカートのベルトにはさみこんだ。
「……いや。やめて!」
 右手は剣を構える。左手がヒョウキの毛並みを|毟《むし》るようにしてつかむ。
「お願い、やめて!!」
 近づいてくる群れと、近づいていくヒョウキと、双方が疾風のように突進して交わった。
 ヒョウキは異形の群れのなかに躍りこむ。当然のように殺到する巨大な獣を、陽子の手が|斬《き》り捨てた。
「いや!」
 陽子は目を閉じた。叫ぶことと目を閉じることだけが陽子の意のままになる。
 生き物を殺したことなどない。理科の解剖でさえ直視することができなかった。そんな自分に|殺生《せっしょう》を要求しないで欲しい。
 剣の動きが止まった。ヒョウキの声が響く。
「目を閉じるな! それではジョウユウが動けない!!」
「いやっ!!」
 がく、と首がのけぞるほどの勢いで獣が横に跳躍する。
 前後に左右に去りまわされながら、陽子は堅く目を閉じていた。殺し合いなどみたくない。目をつむることで剣が止まるなら、断じて目など開けるものか。
 ヒョウキが強く左に跳ぶ。
 突然に、壁にでも突き当たったような衝撃を感じた。ちょうど犬があげる悲鳴のような短い声を聞いて、陽子はとっさに目を開ける。瞳が深い漆黒だけをとらえた。
 なにがおこったのか考える間もなく、ヒョウキの体が大きく傾き、両膝の間から毛並みの感触が消えうせた。
 悲鳴をあげる余裕もなかった。陽子は宙に投げ出されていた。
 驚いて見開いた目に、突進してくる|猪《いのしし》に似た獣が見えて、右手に肉を|斬《き》った重い衝撃を感じた。陽子の耳に刺さったのは獣の|咆哮《ほうこう》と、自分の悲鳴。
 それを最後に五感までもが闇のなかに墜落していった。
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发表于 2006-7-29 01:04:39 | 显示全部楼层
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