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翻译的一篇空手道传记,丢人现眼一次啦!还请华南虎级别的高人多多指点一二!!

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发表于 2006-8-5 00:21:44 | 显示全部楼层 |阅读模式
真的感觉这篇翻译的内容在我的能力之外,但还是硬着头皮翻下来了!里面大概有3句话翻不出来,翻译的中文不对的地方应该有好多!还请各位高人指点一二!先谢谢各位高人啦!

                              自 伝 武 道 記
                            義村仁斎
 おもい出話をかくとしても、何しろ60年も昔に遡らねばならんので、遠い夢の世界を語るような気持である。それだけ、部分的にはっきり浮んでくるところと、ぼんやり薄れたとことがあり、前後錯綜、そのけじめさえつけかねる事柄が多分にあるのはやむを得ない.それに、こうして書く段になると余計、悠長な昔の世をなつかしむ感情が先に立ち、何処から話の系口をほぐしたらよいか。それさえわからぬしまつ。

自传武道记
                            義村仁斎
 即使是写一些往事,因为不管怎样是追溯到60年前的过去,所以总有一种像讲述遥远梦境的释怀。因此,总有些部分是记忆深刻的,而又有些部分渐渐淡忘了,前后错综复杂,多少总有一些难以区分清楚的事件。在此,在写这段的时候,一直有种对多余或者说是悠长往世的惜念之情涌上心头。这些到底从哪里开始讲呢?连自己都不清楚,所以就陷入困惑中。

 だから、そのつもり居てもらいたい。いろいろある内、私と武道に就て、おもい出すままに語ることにしょう。

所以,就抱有这种想法活下来了。就尽情地说说在这个烦琐的尘世间,我与武道的一些往事吧!

 私は慶応2年、旧9月27日首里赤平で生まれた。父は朝明、母は尚氏、伊江王子朝健の長女真蒲戸金である。私は二男で、兄の朝真は三つ歳上であった。

  我是于庆应2年的农历9月27日出生的。父亲是朝明,母亲是尚氏,她是伊江王子朝健的长女。我是次子,哥哥朝真比我长三岁。

 とにかく、「権門の次男坊」として、広大な御殿の中に育ち、多くの奉公人にかしずかれて、気随気儘にふるまっていた。それでも一方には厳格な家憲というものがあって、家柄の光となるべき躾け、即ち礼儀作法と嗜み、即ち学問諸芸をさずけられていた。とりわけ先考が武芸好きで、「さむらいの嗜みは武道が第一だ」という建前から、11.2歳になると、空手の手はほどきを授けられた。師匠は、家の総聞といって、会計その他家事一切の事務を承けたまわっていた石嶺という60年前後の老人だった。毎日のように広庭にひきだされてナイフアンチとパッサチでたたきあげられた。無論、手習や学問の片手間であったが、時々口実をかまえて怠けたものである。それでも二ケ年はたっぷりやったろう。それがちょうど、廃藩置県前後にまたがっている。

  总之,身为“权势之家的二公子”,在宽大的府邸中长大的,被许多仆人服侍着,所以也就养成了随心所欲的脾气。但是,另一方面也是有严格的家规的,为了光耀门第的教条,就是那些礼仪作法和教养和教授一些学问诸艺啦!先父酷爱武艺,从“唯武士的修养乃武道之冠”这一准则来看,我11、2岁的时候,就传授了空手道技艺的解析。老师号称是该道的鼻祖,传承着记帐等的其他一些家事事物的一个叫石岭的60岁前后的老人。毎日のように広庭にひきだされてナイフアンチとパッサチでたたきあげられた。当然,学习和做学问都是在业余时间,有时也找各种借口,偷一下懒。就这样,过了整整2年。也正好是废藩置县的前后了。

 17.8歳になると、もう立派な一人前の男として、自他共にゆるされる。その頃から、武士松村に就いて、本腰にやることなった。当時松村翁は歳既に古希を越えていたおうに記憶うぃている。南苑の御番をつとめて一緒だった。「五十四歩」が主で、クウサンクウを併せまなんだ。この頃から、漸く武道に対する眼がひらいたと見え、一生懸命にはげみ出し、自ら武士の卵を以て任じ、それがいつしか、身のこなし足の運びにまで反映させるように仕向けていた。生意気ざかりの誰れにもある経験である。

  到了17、8岁,已经成为了一个标准的男子汉了,这一点是被公认的。从那时起,就跟随武士松村,开始认认真真干了。在记忆中,当时的松村已经是一位年越古稀的老人了。在南苑的番厅一起当差。「五十四歩」が主で、クウサンクウを併せまなんだ。从那时起,才渐渐觉得对武道有些开眼的感觉,开始勤学苦练。自认为有武士的种气,在不知不觉中,在身体的运用自如,抬腿踢足之中反映出来。这种意气奋发的体验,相信每个人都有过吧!

 一方木刀で剣道の型を、松村翁に学んだ。翁の師は、伊集院という鹿児島の剣客で、示現流の名手だった。

  另一方面,用木制的剑型的剑道是跟松村老爷爷学的。老爷爷的师傅是在鹿儿岛的一个叫伊集院的剑客,是为示现流(可能是日本空手道、剑道的流派)的名手。

 当時那覇には、長濱という空手の名人がいたし、東恩納も既に頭角をあらわしていた。首里には松村翁の外に系洲があり、松村門下の逸才としては、安里と多和田がいた。世間の口を藉りると、多和田の方が安里より少し強かったとなってにノッポだった。その師は不明である。

  在当时的那霸(冲绳),有位叫长滨空手名人,东恩纳已经显示出头角了。在首里松村老爷爷之外还有系洲,作为松村门下的贤才,有安里和多和田。世間の口を藉りると、多和田比安里要略高一畴ノッポだった。其师不明。

 22.3歳ごろから東恩納師の門をくぐった。月三回ほど首里から通ったものである。本願寺の前(真教寺)浜辺(今は埋立てられて住宅地となっている)近くで薪商をいとなんでいた。そのうち師匠の方から、首里の邸宅に出張してもらって教えをうけたが、それが一ケ年ばかりというものを雨の日も、風の日も休みなくつづいた。時間は夕方の6時から10時までであった。今とちがって駕篭以外には乗物のない時代で、東恩納師のかえりつく頃は毎晩人通りの絶えた時間であったようにきかされた記憶がある。おもえばありがたい話である。

  22.3岁的时候,纳入到东恩纳师傅的门下,每月都要去首里那三趟左右。在本愿寺前(真言宗教寺)的湖边(现在被添埋了,成为了住宅的小区了)的附近经营一个木材小店。在那段时间,从师傅那里,经常带我到首里的府邸去受教,那一年不管刮风还是下雨,都无休地坚持联系。时间是每天傍晚的6点到10点。和现在不同,除了轿子以外没有别的交通工具,在我的记忆中,东恩纳师回来的时候,几乎已是每晚万人空巷的时间了。现在想起来,真是难人可贵的往事啊!

 東恩納師からはサンシンを基本に、ペッチウリンを習得した。それでどうやら武道の奥義を究めんと欲すれば、四肢の運用は末技にして心丹の錬成が根本だということがわたって来た。それからどういう根拠があって、そう言い出したか知らぬが、世間の人は、松村は沖縄手といい、東恩納は唐手といっていた。それから誰れいうとなく松村は「生れ武士」石嶺は「型」といいはやれと言って居られたが、東恩納師は嘖嘖たる名声と共につとめて「実戦」を戒めもし、やるなら私とやれと言って居られた。師の高潔なる武道精神はそこにあった。今さらかくまでも無いか知らぬが、「実戦」とは実地に戦うことである。あからさまにいうと「喧嘩」である。即ち習得した武技を、実際の場合に応用することである。その実戦の舞台が遊廓内であった。そのため辻、渡地、仲島の三遊廓では途上毎夜のように「掛け試し」という「腕だめし」が行われた。喧嘩の売り買いである。それが幾組となく行われたものであった。巻藁で錬えた手拳の実力をためす喧嘩は、ちょうど本土に於ける、刀の切り試しに比すべきものである。手拳でおもい出したが、松村にこういう話がつたえられている。彼が尚灏王の御側仕をやっていた頃というから20前後であろう。王命に依り猛牛と立合い、一拳の下に突き据えたという事であるが、真偽の程は保証のかぎりでない。彼は武人にして書を嗜み、書を能くした。

  东恩纳师是以サンシン为基本,再学好ペッチウリン。然后,总算明白了,如若想要探究到武道的奥义,以四肢的活动作为最基本的技能,练就丹田才是最根本的。也不是怎么最清楚,到底是什么根据就这么说出来了,人们都称松村是冲绳手,而东恩纳是空手。从那以后,也不知道是谁开始盛行叫松村是“天生武士”,叫石岭是“典型”,东恩纳师努力构筑赫赫名声的同时,也训诫“实战”,说如果要“实战”也只和我动动手。师傅高洁的武道精神就在于此。也许也没有必要现在写出来,所谓的“实战”就是实地上作战。露骨一点说是“争斗”。也就是说把学到武术在实际的场合下运用。那实战的舞台在游廊内。そのため辻、渡地、仲島の三遊廓では途上毎夜のように「掛け試し」という「腕だめし」が行われた。是争斗的对决。是组成几个组来进行的。为了验证在稻草人上练就出来的拳脚实力的争斗,也正好在本地,应该要比刀技。拳脚方面现在回忆起来了,松村是这样发话的。他当尚灏王的侍卫时,是20岁前后的事情。传说他依照王命与猛牛对垒,在一拳之下击倒猛牛的故事,其真假没法保证了。他虽然是一个武士,但是嗜好书法,书法上也很有造诣。

 少し順序が狂うけれど兄朝真の事に就て空手をやったらしい。どんな経歴の人はよく存じないけれど、歳は系洲を同年位だったというから、石嶺よりは歳下である。兄は何を習ったかしらぬが半年程熱心に通ったようである。

  稍微有些顺序颠倒了,好像哥哥朝真也从事过空手道。到底是怎样经历的人不可得知了,年纪好像和系洲同年,那应该是比石岭小了。哥哥到底学了些什么不得而知,好像仅有半年左右的热情吧!

 私は空手の外に棍、即ち六尺棒と木刀即ち尺棒を松村に習った。

  我除了空手道以外,还学了棒法,就是六尺棒和木刀,就是尺棒,这些都是和松村学的。

 それから馬術であるが、これは一番早くやった方で、10歳頃から乗り馴らされたものである。19歳から23歳までは、有名な馬乗真喜屋に師事した。屋敷内に木馬があって、それにより一通りの型をおぼえ、あとで識名の馬場で実習をした。月6回位だった。時々読谷山まで遠乗したものである。

  还有马术,这是最早学的,大概在10岁左右,就练习骑技了。19岁到23岁的时候,是和著名的骑师真喜屋学的。屋中有木马,因此那些大概的形状我还记得,之后就到识名的马场去实习了。每个月大概6次,有时也远骑到读谷山。

 弓はとうとうやる機会がなかったが、子供の時、識名の馬場であったという、流鏑馬の話をきかられた記憶が今でもありありと残っている。弓道もやればやれる機会もあったが、惜しいことをしたと思っている、以上明治20年前後迄の事。

  弓箭就没有什么机会练了,儿时,听长在识名的马场的流镝马的话,现在还历历在目,记忆犹新。弓箭之术如果要练的话,还是有机会的,但是想来毕竟也有些遗憾,上面写的这些已经是明治20年前后的事情了。

 私は若い時から負けずぎらいで、何んでも人のやるのはやらねば納らぬ気質があったので、大方のことはやって来た。武道の外に書も、絵も、歌も、三味線も、それから皇漢薬方にまで頭をつっこんで見たが、結局どれでも大成しなかった。要するに欲が多すぎたのである。しかしながら私は決して後悔はしれいない。何んとなれば、やっただけの事は分に応じてそれぞれの養いとなっていると信じているから。(筆者は沖縄書道協会相談役)

  我从小就有种不服输的精神,不管是什么,能为之而不为,总有些失落的感觉,所以大部分事情都体验过了。武道以外,对书法、绘画、歌曲、三弦琴,还有皇家中医都窥入过,结果都没有什么大成。总之是一个欲望很强烈的人。但是我绝对不后悔。因为不管怎样,我总相信:只有亲身体验过的事情,才能取其营养,溶入自身的。(作者是冲绳书法协会顾问)

*この「自伝武道記」は、昭和16年9月15日発行の「月刊文化沖縄」9月に掲載されたものである。

*这篇「自传武道记」,在昭和16年9月15日发行的「月刊文化冲绳」9月上登载。
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发表于 2006-8-5 00:41:11 | 显示全部楼层
@@@@
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发表于 2006-8-8 16:45:06 | 显示全部楼层
呵呵
楼主很强呢
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发表于 2006-8-10 19:24:50 | 显示全部楼层
拍砖来了,别的不看,仅仅看末尾就觉得不妥
(筆者は沖縄書道協会相談役)
(作者是冲绳书法协会顾问)
---------------------------
筆者是作者自己的谦称,怎么能翻译为作者呢??
建议翻译
(本人(鄙人)是冲绳书法协会顾问)
---------------------------
*この「自伝武道記」は、昭和16年9月15日発行の「月刊文化沖縄」9月に掲載されたものである。

*这篇「自传武道记」,在昭和16年9月15日发行的「月刊文化冲绳」9月上登载。
----------------------------
这个怎么看怎么觉得像日文式汉语
建议修改

*这篇「自传武道记」,刊登于昭和16年9月15日发行的「月刊文化冲绳」9月上。


偶素菜鸟,还是不多说了吧,闪淫~~
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发表于 2006-8-11 06:52:28 | 显示全部楼层
也别鄙人了,就笔者好了。
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发表于 2006-8-11 07:11:48 | 显示全部楼层
東恩納師からはサンシンを基本に、ペッチウリンを習得した。
从恩师东恩纳那里以三战为基础,习得了一百零八手。
(剛柔流の型を大別すると、「基本型(三戦)」「開手型」「閉手型」に分かれる。東恩納寛量から現在まで型として継承されてきたものには古流の「三戦(サンチン)」「砕破(サイファー)」「制引戦(セイエンチン)」「四向戦(シソーチン)」「三十六手(サンセーリュウ)」「十八手(セイパイ)」「久留頓破(クルルンファー)」「十三手(セイサン)」「壱百零八手(スーパーリンペー/別名・ペッチュウリン)」がある。剛柔流では、それと合わせて宮城長順が創作した国民普及型の「撃砕Ⅰ」「撃砕Ⅱ」、閉手型の「転掌」をもって剛柔流の鍛錬型としている。 )

看样子,楼主不能翻译的都是与空手道有关的背景知识。
查找太费劲。
就帮楼主纠正这一处吧。
抱歉!
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发表于 2006-8-11 07:22:32 | 显示全部楼层
给楼主两个链接,
也许对楼主翻译有帮助。
http://www.wonder-okinawa.jp/023/index2.html
五十四步和那个什么クウサンクウ的:
http://www.kenshinkai.com/Main.htm

我还是那句话:
要搞好翻译,
必须对自己要翻译内容的背景知识有个比较透彻的了解。
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 楼主| 发表于 2006-8-11 18:18:45 | 显示全部楼层
谢谢ATOM同学的帮助啊!
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发表于 2006-8-11 18:58:36 | 显示全部楼层
您太客气了!
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 楼主| 发表于 2006-8-11 19:08:51 | 显示全部楼层
ATOM看样子也是位空手道的高手啊!强人啊!
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发表于 2006-8-11 23:44:40 | 显示全部楼层
嗯,倒是经常空手而去空手而归的。
呵呵。
那么长的文章,楼主能将它翻译出来,
楼主才是高人呐!
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发表于 2006-8-18 19:41:53 | 显示全部楼层
楼主,我对这篇译文做了点小小的改动,其中有一句我也是不太明白的,我会请教下其他高手的,敬请指出不足之处,谢谢~
                                      自 伝 武 道 記
                                                    義村仁斎
 おもい出話をかくとしても、何しろ60年も昔に遡らねばならんので、遠い夢の世界を語るような気持である。それだけ、部分的にはっきり浮んでくるところ と、ぼんやり薄れたとことがあり、前後錯綜、そのけじめさえつけかねる事柄が多分にあるのはやむを得ない.それに、こうして書く段になると余計、悠長な昔 の世をなつかしむ感情が先に立ち、何処から話の系口をほぐしたらよいか。それさえわからぬしまつ。

                                                                                  自传武道记
                                                  義村仁斎
   哪怕是写一些往事,因为不管怎样这都是要追溯到60年前的过去,所以总有一种像讲述遥远梦境的释怀。为此,总有些部分记忆是深刻的,而又总有些部分渐渐淡忘了, 前后错综复杂,多少总有一些难以区分清楚的事件。在此,在写这段的时候,一直有种对多余或者说是悠长往世的惜念之情涌上心头。这些到底从哪里开始讲呢?连我自己都不清楚,所以就陷入困惑中。
     だから、そのつもり居てもらいたい。いろいろある内、私と武道に就て、おもい出すままに語ることにしょう。
    所以,就抱有这种想法活下来了。就尽情地说说在这个烦琐的尘世间我与武道的一些往事吧!
     私は慶応2年、旧9月27日首里赤平で生まれた。父は朝明、母は尚氏、伊江王子朝健の長女真蒲戸金である。私は二男で、兄の朝真は三つ歳上であった。
    我是于庆应2年的农历9月27日出生的。父亲是朝明,母亲是尚氏,她是伊江王子朝健的长女。我是次子,哥哥朝真比我长三岁。
     とにかく、「権門の次男坊」として、広大な御殿の中に育ち、多くの奉公人にかしずかれて、気随気儘にふるまっていた。それでも一方には厳格な家憲という ものがあって、家柄の光となるべき躾け、即ち礼儀作法と嗜み、即ち学問諸芸をさずけられていた。とりわけ先考が武芸好きで、「さむらいの嗜みは武道が第一 だ」という建前から、11.2歳になると、空手の手はほどきを授けられた。師匠は、家の総聞といって、会計その他家事一切の事務を承けたまわっていた石嶺 という60年前後の老人だった。毎日のように広庭にひきだされてナイフアンチとパッサチでたたきあげられた。無論、手習や学問の片手間であったが、時々口 実をかまえて怠けたものである。それでも二ケ年はたっぷりやったろう。それがちょうど、廃藩置県前後にまたがっている。
     总之,身为“权势之家的二公子”,在宽大的府邸中长大的,被许多仆人服侍着,所以也就养成了随心所欲的脾气。然而,另一方面也有严格的家规的,为了光耀 门第的教条,就是那些礼仪作法和教养和教授一些学问诸艺啦!先父酷爱武艺,从“唯武士的修养乃武道之冠”这一准则来看,我11、2岁的时候,就被传授了空手道技艺的解析。老师号称是该道的鼻祖,传承着记帐等的其他一些家务事物的一个叫石岭的60岁左右的老人。毎日のように広庭にひきだされてナイフアンチと パッサチでたたきあげられた。当然,学习和做学问都是在业余时间里进行,有时也找各种借口,偷一下懒。就这样,过了整整2年。也正好是废藩置县的前后了。

 17.8歳になると、もう立派な一人前の男として、自他共にゆるされる。その頃から、武士松村に就いて、本腰にやることなった。当時松村翁は歳既に古希 を越えていたおうに記憶うぃている。南苑の御番をつとめて一緒だった。「五十四歩」が主で、クウサンクウを併せまなんだ。この頃から、漸く武道に対する眼 がひらいたと見え、一生懸命にはげみ出し、自ら武士の卵を以て任じ、それがいつしか、身のこなし足の運びにまで反映させるように仕向けていた。生意気ざか りの誰れにもある経験である。
   到了17、8岁,已经成为了一个标准的男子汉了,这一点是被公认的。从那时起,就跟随武士松村,开始认认真真地干了。在记忆中,当时的松村已经是一位年越古稀的老人了。在南苑的番厅一起当差。以「五十四歩」为主兼クウサンクウ之类的。从那时起,才渐渐觉得对武道有些开眼的感觉,开始勤学苦练。自认为有武士的种气,在不知不觉中,身体的运用自如,抬腿踢足之中反映出来这是有了武士的气概。这种意气奋发的体验,相信每个人都有过吧!

 一方木刀で剣道の型を、松村翁に学んだ。翁の師は、伊集院という鹿児島の剣客で、示現流の名手だった。
   另一方面,用木制的剑型的剑道是跟松村老爷爷学的。老爷爷的师傅是在鹿儿岛的一个叫伊集院的剑客,是为示现流(可能是日本空手道、剑道的流派)的名手。
     当時那覇には、長濱という空手の名人がいたし、東恩納も既に頭角をあらわしていた。首里には松村翁の外に系洲があり、松村門下の逸才としては、安里と多和田がいた。世間の口を藉りると、多和田の方が安里より少し強かったとなってにノッポだった。その師は不明である。
  在当时的那霸(冲绳),有位叫长滨空手名人,东恩纳已经显示出头角了。在首里松村老爷爷之外还有系洲,作为松村门下的贤才,有安里和多和田。从世间人们的口中得知的情况来看,多和田比安里要略高一畴,其师不明。
   22.3歳ごろから東恩納師の門をくぐった。月三回ほど首里から通ったものである。本願寺の前(真教寺)浜辺(今は埋立てられて住宅地となっている)近 くで薪商をいとなんでいた。そのうち師匠の方から、首里の邸宅に出張してもらって教えをうけたが、それが一ケ年ばかりというものを雨の日も、風の日も休み なくつづいた。時間は夕方の6時から10時までであった。今とちがって駕篭以外には乗物のない時代で、東恩納師のかえりつく頃は毎晩人通りの絶えた時間で あったようにきかされた記憶がある。おもえばありがたい話である。
    22.3岁的时候,纳入到东恩纳师傅的门下,每月都要去首里那三趟左右。在本愿寺前(真言宗教寺)的湖边(现在被添埋了,成为了住宅的小区了)的附近经营 一个木材小店。在那段时间,在师傅那里,经常带我到首里的府邸去受教,那一年不管刮风还是下雨,都无休地坚持联系。时间是每天傍晚的6点到10点。和现在不同的是,那时除了轿子以外就没有别的交通工具了。在我的记忆中,东恩纳师回来的时候,几乎已是每晚万人空巷的时间了。现在想起来,真是难人可贵的往事啊!
    東恩納師からはサンシンを基本に、ペッチウリンを習得した。それでどうやら武道の奥義を究めんと欲すれば、四肢の運用は末技にして心丹の錬成が根本だと いうことがわたって来た。それからどういう根拠があって、そう言い出したか知らぬが、世間の人は、松村は沖縄手といい、東恩納は唐手といっていた。それか ら誰れいうとなく松村は「生れ武士」石嶺は「型」といいはやれと言って居られたが、東恩納師は嘖嘖たる名声と共につとめて「実戦」を戒めもし、やるなら私 とやれと言って居られた。師の高潔なる武道精神はそこにあった。今さらかくまでも無いか知らぬが、「実戦」とは実地に戦うことである。あからさまにいうと 「喧嘩」である。即ち習得した武技を、実際の場合に応用することである。その実戦の舞台が遊廓内であった。そのため辻、渡地、仲島の三遊廓では途上毎夜の ように「掛け試し」という「腕だめし」が行われた。喧嘩の売り買いである。それが幾組となく行われたものであった。巻藁で錬えた手拳の実力をためす喧嘩 は、ちょうど本土に於ける、刀の切り試しに比すべきものである。手拳でおもい出したが、松村にこういう話がつたえられている。彼が尚灏王の御側仕をやって いた頃というから20前後であろう。王命に依り猛牛と立合い、一拳の下に突き据えたという事であるが、真偽の程は保証のかぎりでない。彼は武人にして書を 嗜み、書を能くした。
    从恩师东恩纳那里以三战为基础,习得了一百零八手。然后,总算明白了,如若想要探究到武道的奥义,以四肢的活动作为最基本的技能,练就丹田才是最根本的。 究竟是怎么一回事?到底是根据什么就这么说出来的呢?人们都称松村是冲绳手,而东恩纳是空手。从那以后,也不知道是谁开始盛行叫松村是“天生武士”,叫石岭 是“典型”,东恩纳师努力构筑赫赫名声的同时,也训诫“实战”,说如果要“实战”也只和我动动手。师傅高洁的武道精神就在于此。也许也没有必要现在写出 来,所谓的“实战”就是实地上作战。露骨一点说是“争斗”。也就是说把学到的武术在实际场合下运用。那实战的舞台在游廊内。为此每晚都在街道上,河边,岛中进行练习[ 掛け試し ]和[腕だめし」,这是争斗的对决买卖。是要组成几个组来进行的。为了验证在稻草人上练就出来的拳脚实力的争斗, 也正好在本地,应该要比刀技。拳脚方面现在回忆起来了,松村是这样发话的。他当尚灏王的侍卫时,是20岁前后的事情。传说他依照王命与猛牛对垒,在一拳之 下击倒猛牛的故事,其真假没法保证了。他虽然是一个武士,但是嗜好书法,书法上也很有造诣。

 少し順序が狂うけれど兄朝真の事に就て空手をやったらしい。どんな経歴の人はよく存じないけれど、歳は系洲を同年位だったというから、石嶺よりは歳下である。兄は何を習ったかしらぬが半年程熱心に通ったようである。

    稍微有些顺序颠倒了,好像哥哥朝真也从事过空手道。到底是怎样经历的我就不太清楚了,年纪好像和系洲同年,那应该是比石岭小了。哥哥到底学了些什么我也不得而知,好像仅有半年左右的热情吧!

 私は空手の外に棍、即ち六尺棒と木刀即ち尺棒を松村に習った。
  我除了空手道以外,还学了棒法,就是六尺棒和木刀,就是尺棒,这些都是跟松村学的。

 それから馬術であるが、これは一番早くやった方で、10歳頃から乗り馴らされたものである。19歳から23歳までは、有名な馬乗真喜屋に師事した。屋敷 内に木馬があって、それにより一通りの型をおぼえ、あとで識名の馬場で実習をした。月6回位だった。時々読谷山まで遠乗したものである。
  另外还有马术,这是最早学的,大概在10岁左右,就练习骑技了。19岁到23岁的时候,是和著名的骑师真喜屋学的。屋中有木马,因此那些大概的形状我还记得,之后就到识名的马场去实习了。每月大概6次,有时也远骑到读谷山。
  弓はとうとうやる機会がなかったが、子供の時、識名の馬場であったという、流鏑馬の話をきかられた記憶が今でもありありと残っている。弓道もやればやれる機会もあったが、惜しいことをしたと思っている、以上明治20年前後迄の事。
    弓箭就没有什么机会练了,儿时,听长在识名的马场的流镝马的话,现在还历历在目,记忆犹新。他说弓箭之术如果要练的话,还是有机会的。想想这毕竟也有些遗憾。上面写的这些已经是明治20年前后的事情了。
     私は若い時から負けずぎらいで、何んでも人のやるのはやらねば納らぬ気質があったので、大方のことはやって来た。武道の外に書も、絵も、歌も、三味線 も、それから皇漢薬方にまで頭をつっこんで見たが、結局どれでも大成しなかった。要するに欲が多すぎたのである。しかしながら私は決して後悔はしれいな い。何んとなれば、やっただけの事は分に応じてそれぞれの養いとなっていると信じているから。(筆者は沖縄書道協会相談役)
   我从小就有不服输的精神,不管是什么,能为之而不为,总有些失落的感觉,所以大部分事情都体验过了。武道以外,对书法、绘画、歌曲、三弦琴,还有连皇家中医都窥入过,结果都没有什么大成。总之我是一个欲望很强烈的人。尽管这些都没有很大的成就但是我绝对不后悔。因为不管怎样,我总相信:只有亲身体验过的事情,才能取其营养,溶入自身 的。(本人/鄙人是冲绳书法协会顾问)

*この「自伝武道記」は、昭和16年9月15日発行の「月刊文化沖縄」9月に掲載されたものである。
*这篇「自传武道记」,刊登于昭和16年9月15日发行的「月刊文化冲绳」这一杂志中。
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发表于 2006-8-19 08:19:38 | 显示全部楼层
何为示現流?
查一下就可以知道了,
不能在翻译时凭猜测的:
是为示现流(可能是日本空手道、剑道的流派)的名手。
http://www.jigen-ryu.com/index_start.html
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发表于 2006-8-19 08:34:12 | 显示全部楼层
在首里松村老爷爷之外还有系洲,作为松村门下的贤才,有安里和多和田。从世间人们的口中得知的情况来看,多和田比安里要略高一畴,其师不明。
既然安里和多和田是松村的门生,

这里的翻译你不觉得有矛盾吗?
怎么后面又说其师不明?
我想会不会是说系洲这个人其师不明?

另外这个翁翻译成老爷爷,也太那个了吧?
不是写给幼儿园小朋友看的哦。


顺便再给你们提供一个关于空手道的链接,
没有一定的背景知识,
不可能翻译出出色的文章来。
http://homepage2.nifty.com/syoei_kai/syoei_kai_karaterekisi.html

[ 本帖最后由 atom 于 2006-8-19 00:39 编辑 ]
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发表于 2006-8-19 17:20:07 | 显示全部楼层
大変有り難うございます!
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