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[天声人语] 8.7

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发表于 2006-8-7 16:23:40 | 显示全部楼层 |阅读模式
 21歳の松浦喜一少尉は、大きな爆弾を抱えた戦闘機で、鹿児島から沖縄をめざしていた。アメリカの艦船に体当たりするためだ。1945年6月19日のことだった。
  二十一岁的松浦喜一少尉驾驶着携带有巨型炸弹的战斗机,由鹿儿岛向冲绳飞去。飞行目的是撞击美军舰队。这发生在1945年6月19日。

 アメリカのレーダーを避けるため、豪雨の中を海面すれすれに飛んだ。何も考えていなかった。大和魂や忠君愛国という言葉は存在しなかった。身内の愛する人々のことは少し考えの中に現れた。突然、「春の小川」の歌が口をついて出てきた。
  为了避开美军雷达,飞机冒暴雨紧贴着海面飞行。松浦君回忆道,当时脑中一片空白,根本没有大和魂或忠君爱国之类的豪言壮语,只是稍稍想起了内心深处爱着的人们。突然,下意识地哼唱起了《春天的小河》。

 そうした体験を今年、「戦争と死——生き残った特攻隊員、八十二歳の遺書」という小冊子にまとめた。3機のうち、沖縄の目前で1機が墜落する。隊長は機首を転じ、引き返す。これでは任務を果たせないと判断したのだろう。松浦さんは隊長に従った。
  今年,松浦将当时的体验写成了一本小册子,名为《战争与死亡——幸存特攻队员八十二岁的遗书》。书中写道,快到达冲绳时三架战斗机中的一架坠毁。队长调转机头返航。这意味着放弃执行任务吧。接着松浦跟随队长返航。

 死に向かって飛び続けていたのに、何も考えなかったのはなぜか。松浦さんは「怒りをもって帝国軍人であることを拒否したのではないか。そこには、もはや愛する人々を守ることができないかもしれない絶望感」と書いた。
  飞向死亡却脑中一片空白,这是什么原因? 松浦君写道:“是因为胸怀愤怒,怀疑帝国军人的身份吧。而且这样做已保护不了所爱的人,感到很绝望。”

 戦後、松浦さんは東京に戻り、麻布十番で家業のカステラ店を継いだ。特攻隊は志願したのですか。「学生出身で未熟な飛行機乗りとしては、もうこの戦法しか残っていないと思った。しかし、数多くの若者が志願したことと、軍上層部が特攻作戦を採用したことは全く別の話です。戦争を始めるべきではなかったし、絶対に特攻作戦などを計画してはいけなかった」
  战后松浦返回东京,继承了位于麻布十番的家业——蛋糕店。当年是志愿参加特攻队?他在书中写道“当时身为学生不成熟,认为驾飞机是剩下的唯一战斗方法。但是,众多年轻人志愿参加与军部上层采取特攻战略则是另一番事情。战争根本就不该发动,特攻计划也根本不该被采用。”

 特攻で亡くなった人たちを神格化する風潮がある。その危うさを語り続けることが生き残った者の務めだ、と松浦さんは考えている。
  时下流行着将特攻中阵亡的人神化的风气。松浦认为,将特攻的可怕告诉众人是幸存者的责任。

とっこう-たい【特攻隊】  〔「特別攻撃隊」の略〕第二次大戦中、爆弾を積んだ飛行機などで敵艦に体当たり攻撃を行うために編成した部隊につけた名。
「神風―」
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发表于 2006-8-7 21:01:31 | 显示全部楼层
21歳の松浦喜一少尉は、大きな爆弾を抱えた戦闘機で、鹿児島から沖縄をめざしていた。アメリカの艦船に体当たりするためだ。1945年6月19日のことだった。

 21岁的松浦喜一少尉,驾驶着装有大型炸弹的战斗机,从鹿儿岛飞往冲绳。他将驾机撞击美国战舰。这一天,是1945年6月16日。 

 アメリカのレーダーを避けるため、豪雨の中を海面すれすれに飛んだ。何も考えていなかった。大和魂や忠君愛国という言葉は存在しなかった。身内の愛する人々のことは少し考えの中に現れた。突然、「春の小川」の歌が口をついて出てきた。

 为了避开美国的雷达,战机在暴雨中贴着海面飞行。什么也没想。没有想到什么大和魂、忠君爱国之类的字眼。自己的亲人至爱也只是一闪而过。突然,“春天的小河”这首歌从嘴里冒了出来。
 
そうした体験を今年、「戦争と死——生き残った特攻隊員、八十二歳の遺書」という小冊子にまとめた。3機のうち、沖縄の目前で1機が墜落する。隊長は機首を転じ、引き返す。これでは任務を果たせないと判断したのだろう。松浦さんは隊長に従った。

《战争和死亡—幸存的特工队员、八十二岁的遗书》这本小册子完整地记述了当时的经历。 3架飞机中的一架在快到冲绳的时候坠落。队长调转机头返航。大概判断已经无法完成任务了吧。松浦跟着队长返航了。
 
死に向かって飛び続けていたのに、何も考えなかったのはなぜか。松浦さんは「怒りをもって帝国軍人であることを拒否したのではないか。そこには、もはや愛する人々を守ることができないかもしれない絶望感」と書いた。

明明知道自己在向着死亡飞行,却什么都没想,这是为什么呢。松浦先生写道,“应该是非常愤怒,对于自己是帝国军人非常抵触吧。有一种绝望的感觉,从此以后自己将无法保护亲人了”。
 
戦後、松浦さんは東京に戻り、麻布十番で家業のカステラ店を継いだ。特攻隊は志願したのですか。「学生出身で未熟な飛行機乗りとしては、もうこの戦法しか残っていないと思った。しかし、数多くの若者が志願したことと、軍上層部が特攻作戦を採用したことは全く別の話です。戦争を始めるべきではなかったし、絶対に特攻作戦などを計画してはいけなかった」

战后松浦先生回到东京,继承了麻布十番的祖传蛋糕店。是自己志愿加入特攻队的吗。“当时心想,自己是学生出身,不能熟练驾驶飞机,大概只能做特攻队员了。但是,当时很多年轻人的志愿,和后来部队领导采取的特攻行动,完全是两码事。根本不应该发动战争,更不应该采取特攻行动计划”。
 
特攻で亡くなった人たちを神格化する風潮がある。その危うさを語り続けることが生き残った者の務めだ、と松浦さんは考えている。

现在有一种将特攻行动中死亡的人进行神话的风潮。松浦先生认为,这种风潮非常危险,幸存者有责任将危险性告诉人们。

[ 本帖最后由 t_hikari 于 2006-8-7 13:10 编辑 ]
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发表于 2006-8-9 06:17:48 | 显示全部楼层
特攻幸存者(天声人语060807)

 21歳の松浦喜一少尉は、大きな爆弾を抱えた戦闘機で、鹿児島から沖縄をめざしていた。アメリカの艦船に体当たりするためだ。1945年6月19日のことだった。

  21岁的松浦喜一少尉,开着挂有大炸弹的战斗机,从鹿儿岛飞往冲绳。目的是要与美国军舰同归于尽。此事发生在1945年6月19日。

 アメリカのレーダーを避けるため、豪雨の中を海面すれすれに飛んだ。何も考えていなかった。やまとだましい大和魂やちゅうくんあいこく忠君愛国という言葉は存在しなかった。身内の愛する人々のことは少し考えの中に現れた。突然、「春の小川」の歌が口をついて出てきた。

   为避开美国的雷达,他不得不冒着倾盆大雨,贴近海面飞行。脑子里一片空白,根本没有大和魂、忠君爱国之类的豪言壮语。微弱的思绪中偶尔闪现过的,是自己的亲人们。突然间,歌曲《春天里的小河》竟脱口而出。

 そうした体験を今年、「戦争と死——生き残った特攻隊員、八十二歳の遺書」という小冊子にまとめた。3機のうち、沖縄の目前で1機が墜落する。隊長は機首を転じ、引き返す。これでは任務を果たせないと判断したのだろう。松浦さんは隊長に従った。

   这样的经历,今年被写进了一本名为《战争与死亡——幸存的特攻队员、八十二岁的遗书》的小册子中。在快到冲绳的时候,同行的3架飞机中,有一架坠落了。队长立刻掉转机头往回飞了。大概他判断已无法完成任务了吧。松浦先生自然是唯队长的机首是瞻。

 死に向かって飛び続けていたのに、何も考えなかったのはなぜか。松浦さんは「怒りをもって帝国軍人であることを拒否したのではないか。そこには、もはや愛する人々を守ることができないかもしれない絶望感」と書いた。

    明明是飞向死亡,为什么脑海中什么也不想呢?松浦先生写道:“不就是出于悲愤,抗拒自己帝国军人的身份吗?在此,有一种或许已不能保护亲人的绝望”。

 戦後、松浦さんは東京に戻り、麻布十番で家業のカステラ店を継いだ。特攻隊は志願したのですか。「学生出身で未熟な飛行機乗りとしては、もうこの戦法しか残っていないと思った。しかし、数多くの若者が志願したことと、軍上層部が特攻作戦を採用したことは全く別の話です。戦争を始めるべきではなかったし、絶対に特攻作戦などを計画してはいけなかった」

   战后,松浦先生回到了东京,在麻布十番继承了家传的蛋糕铺。那么他是自己报名参加特攻队的吗?对此,松浦写道:“对于一个学校出来的半楞子飞行员来说,也只有这一招了。但是,有众多的年轻人报名,和军部高层采用这种战法,是两回事。战争,本不应该发动,更不应该策划什么特攻战法”。

 特攻で亡くなった人たちを神格化する風潮がある。その危うさを語り続けることが生き残った者の務めだ、と松浦さんは考えている。

   现在,有将特攻阵亡的人们神化的风气。松浦先生认为,不断地揭示其危险性,是特攻幸存者的使命。
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