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天声人语(8,8)

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发表于 2006-8-8 16:27:18 | 显示全部楼层 |阅读模式
 神戸市中央区の公園にある「1・17希望の灯(あか)り」は、阪神大震災の犠牲者を追悼するためにつくられたガス灯だ。白木利周(としひろ)さん(64)は、灯りの管理をするNPO法人の理事を務めている。
        神户市中央区公园中的“1·17希望之灯”是为追悼阪神大震灾中的死者所设的煤气灯。白木利周先生(64岁)担任管理该煤气灯的特定非营利活动法人的理事长。

 いろいろな行事の際に、火を分けてほしいと言ってくる人がいる。先月3日の夕方、須磨海岸の水の安全を祈願するため、婦人会の人たちが火を採りに来た。近くに自家用車をとめて分灯に立ち会った白木さんが30分後、車に戻ったところ、助手席の窓ガラスが割られ、置いてあったリュックサックがなくなっていた。長男の健介さんが使っていたものだ。
        在举行各种祭典时,总有人过来希望借点火。上个月三号傍晚,为了祈祷须磨海岸水的安全,妇女联盟的人过来取火。白木先生将私人汽车停在附近,赶过去给她们送火。30分钟后回来时,发现车子副司机座位的玻璃被打碎,置放在那儿的帆布背包也不见了。那是长男健介曾用过的背包。

「明日、6時に起こして」。それが最後の言葉になった。プレハブの自室がブロック塀に押しつぶされ、下敷きになった。21歳だった。
        “明天6点叫醒我”。这句话成了健介的遗言。他被压在自家预制装配式房间的水泥预制板下去世了。当时只有21岁。

妻は泣き続け、自分も長いトンネルの中にいるようだった。立ち直りの兆しが見えたのは4年後。各地につくられた慰霊碑を回る活動に、夫婦で参加するようになった。
        妻子一直哭个不停,自己也仿佛置身于漫长的隧洞中,直到四年后夫妇两人开始参加巡览各地死者纪念碑的活动,才出现一点振作的迹象。

以来、形見のリュックを背負う白木さんの姿が国内外の被災地で見られるようになった。ボランティア活動をしたり、義援金を届けたり。妻は再び体調を崩し、01年に亡くなったが、白木さんの活動はやむことなく続いた。
        之后,在国内外的灾区内都能看到白木先生背着儿子的遗物帆布背包的身影。他常参加志愿活动,热心捐款。后来妻子身体再次垮了,于01年离开人世。但白木先生仍然没有停止活动。

 「息子と一緒にいる安心感があった」という、黒い古ぼけたリュックには、金目のものは入っていなかった。テニスが好きだった健介さんが自分で買った。「WIMBLEDON(ウィンブルドン)」のロゴが入っている。「どこかに捨てられているのでしょう。何としてでも見つけ出したい」。白木さんはそう話した。
        那个陈旧的黑色帆布背包让白木先生感觉到“和儿子在一起的安心感”,包里没有一分钱。爱好网球的健介自己买下了这个包,上面还有“WIMBLEDON(温布尔顿)”的标识。白木先生说:“应该被人丢弃在哪儿了吧,无论如何我都想把它找出来。”
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发表于 2006-8-8 17:37:11 | 显示全部楼层
 神戸市中央区の公園にある「1・17希望の灯(あか)り」は、阪神大震災の犠牲者を追悼するためにつくられたガス灯だ。白木利周(としひろ)さん(64)は、灯りの管理をするNPO法人の理事を務めている。
  在神户市中央区公园有一盏“1.17希望之灯”。那是为追悼阪神大地震牺牲者而制造的煤气灯。白木利周先生(64岁)作为NPO法人理事负责管理此灯。

 いろいろな行事の際に、火を分けてほしいと言ってくる人がいる。先月3日の夕方、須磨海岸の水の安全を祈願するため、婦人会の人たちが火を採りに来た。近くに自家用車をとめて分灯に立ち会った白木さんが30分後、車に戻ったところ、助手席の窓ガラスが割られ、置いてあったリュックサックがなくなっていた。長男の健介さんが使っていたものだ。
  举行各种仪式活动时,常有人来取火种。上个月三号傍晚,妇女会的会员为祈祷须磨海岸无水害来取火种。白木先生将私家车停到附近,从灯里给他们分取了火种。三十分钟后,当他回到车上时发现副驾驶旁的车窗被打碎,放在那里的登山包不见了。那是白木先生长子健介的遗物。

 「明日、6時に起こして」。それが最後の言葉になった。プレハブの自室がブロック塀に押しつぶされ、下敷きになった。21歳だった。
  “明天六点叫我起床”,这是健介最后说过的话。他被压在预制装配式房屋的墙板下,去世时年仅21岁。

 妻は泣き続け、自分も長いトンネルの中にいるようだった。立ち直りの兆しが見えたのは4年後。各地につくられた慰霊碑を回る活動に、夫婦で参加するようになった。
  丧子之痛使白木的妻子以泪洗面,白木自己也觉得像走在漫长隧道中,没有希望和尽头。从悲伤中初见好转是在事件发生四年后。那时各地正举行慰灵碑巡展活动,白木夫妇俩参加了该活动。

 以来、形見のリュックを背負う白木さんの姿が国内外の被災地で見られるようになった。ボランティア活動をしたり、義援金を届けたり。妻は再び体調を崩し、01年に亡くなったが、白木さんの活動はやむことなく続いた。
  从那以后,白木先生背着作为遗物的登山包奔赴国内外的受灾地。他参加志愿者活动并分发援助金。他的妻子病危于2001年去世,那时他仍马不停蹄地继续进行志愿公益活动。

 「息子と一緒にいる安心感があった」という、黒い古ぼけたリュックには、金目のものは入っていなかった。テニスが好きだった健介さんが自分で買った。「WIMBLEDON(ウィンブルドン)」のロゴが入っている。「どこかに捨てられているのでしょう。何としてでも見つけ出したい」。白木さんはそう話した。
  “背着儿子的登山包,和儿子在一起心里很踏实”,白木先生说。那是一个黑色破旧的背囊,里面没有贵重物品。它是喜爱网球的儿子健介买的,带着温布尔敦的标牌。“它被扔到哪里了呢?无论在哪儿,我都想把它找回来。”白木先生说。
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发表于 2006-8-8 18:18:39 | 显示全部楼层
二人ともじょうずですね。
べんきょうしました。
どうも
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