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[其他问题] 请问“黄門様の印籠”是什么意思?谢谢

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发表于 2006-10-18 19:02:50 | 显示全部楼层 |阅读模式
“黄門様の印籠”好像是日本的一个成语或者说是惯用句,我在yahoo找了半天也没有找到合适的解释,请知道的达人告诉我这句话的意思,以及经常形容那些事物,非常感谢!!
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发表于 2006-10-18 19:07:00 | 显示全部楼层
水戸黄門

水戸黄門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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この項目では時代劇の水戸黄門について説明しています。
その他の水戸黄門については水戸黄門 (曖昧さ回避)をご覧ください。

水戸黄門(みとこうもん)は、徳川光圀の異称であり、ふつうは光圀主従が世直しのために諸国漫遊の旅をするという架空の物語・時代劇を指す。かつてはもっぱら水戸黄門漫遊記(みとこうもんまんゆうき)と呼ばれた。メディアとしては、講談・歌舞伎・演劇・小説・映画・テレビドラマ・漫画などに広く及ぶ。

目次 [非表示]
1 概要
1.1 水戸黄門漫遊記
1.2 時代劇の定番として
2 あらすじ・内容
3 その他
4 参考図書
5 関連項目
6 外部リンク



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概要
実在の水戸藩主徳川光圀は、『大日本史』編纂のために家臣の儒学者らを日本各地へ派遣したといわれているが、彼自身が諸国を漫遊したという史実はないとされている。在世当時の光圀は名君としての誉れが高く、亡くなったときには

「天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門」
という狂歌が流行った。このような名君としての評判や、幕末における水戸学の浸透が後の物語の形成に影響していると思われる。後の物語の素材としては、光圀の伝記といわれる『桃源遺事』『久夢日記』や『水戸黄門仁徳録』などが残された。

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水戸黄門漫遊記
幕末になって、講談師(氏名は不明)がこれらの伝記や十返舎一九作の滑稽話『東海道中膝栗毛』などを参考にして『水戸黄門漫遊記』を創作したと考えられている。内容は、光圀がお供の俳人を連れて諸国漫遊して世直しをするというもので、大変な人気作となった。

明治になると、大阪の講釈師玉田玉知がお供を俳人ではなく家臣の佐々木助三郎(介三郎、助さん)と渥美格之進(格さん)とする話に膨らませて、さらに人気の題材となっていった。徳川幕府が衰退した幕末から維新後の明治・大正・昭和の大戦前にかけて徳川氏への評価が著しく低下したにもかかわらず、黄門物がもてはやされた背景には、実在の光圀が天皇を敬ったり楠木正成を忠臣として称え、『大日本史』編纂や水戸学が尊王論や天皇制・南朝正潤論に多大な影響を及ぼしていることと関連していると考えられよう。

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時代劇の定番として
明治末期に日本でも映画製作が始まると、時代劇映画の定番として『水戸黄門漫遊記』ももてはやされ、大戦前から戦後にかけて数十作が製作された。戦前~戦中には、山本嘉一、大河内傳次郎、市川右太衛門ら時代劇の大スターたちが黄門を演じている。黄門が老け役であることを嫌った大河内や市川のために、若侍との一人二役が設定された。

戦後は占領期の剣劇禁止を経た後に、東映が月形龍之介を主演にシリーズ化した。初期の月形黄門はB級作品であったが、好評のためオールスター大作が作られるようになり、題名も従来の『水戸黄門漫遊記』から単に『水戸黄門』が主流になっていった。月形シリーズでは、昭和34年(1959年)の『水戸黄門 天下の副将軍』が名高い。月形黄門の興行的成功により、各社が競作したが月形作品には及ばなかった。

テレビ時代になると、東京放送(TBS)がやはり月形を主演にテレビドラマ化(ブラザー劇場)し、さらに月形と同様に悪役が多かった東野英治郎を主演に起用したナショナル劇場シリーズ『水戸黄門』になって現在まで続いている。このドラマでは脚本家の宮川一郎の案により、ドラマの毎回の佳境で三つ葉葵の紋所が描かれた印籠を見せて「ひかえおろう。この紋所が目に入らぬか」と黄門の正体を明かすという筋書きが創られ、視聴者に大好評を得ている。

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あらすじ・内容
ときは元禄、「犬公方」こと五代将軍徳川綱吉の治世。藩主を隠居して黄門(中納言の唐名)となった光圀は、お供の俳人を連れて、諸国漫遊を兼ねて藩政視察の世直しの旅に出る。悪政を行なう大名・代官などがいれば、光圀は自らの俳号「水隠梅里」を書き記すなどしてその正体をほのめかし、悪政を正す。

お供は明治の講談以降、佐々木助三郎と渥美格之進の二人に定まった。現実の光圀は、家臣の佐々十竹(さっさじっちく、佐々介三郎、佐々宗淳)らを各地へ派遣しており、彰考舘総裁であった佐々と安積澹泊(あさかたんぱく、安積覚兵衛)の二人が助さん・格さんのモデルと見られている。家臣の藤井紋大夫を斬殺したことなども脚色された。幕末~大戦前の講談・小説などでは、湊川に楠木正成の墓参に行くなどの尊王論的色彩が強かったが、大戦後の映画やテレビドラマではそのような尊王色は払拭されていった。

[ 本帖最后由 老板是猪 于 2006-10-18 11:09 编辑 ]
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发表于 2006-10-18 19:12:03 | 显示全部楼层
徳川光圀
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徳川光圀 凡例

時代 江戸時代前期
生誕 寛永5年6月10日(1628年7月11日)
死没 元禄13年12月6日(1701年1月14日)
改名 三木長丸、徳川千代松、徳亮、光国、光圀
別名 子龍、観之、日新斎、常山人、率然子
梅里、水戸黄門
諡号 義公
神号 高譲味道根之命
官位 従五位上、従四位下左衛門督
従四位上近衛権中将、従三位、参議、権中納言
贈従二位権大納言、贈従一位、贈正一位
藩 水戸藩藩主
氏族 自称清和源氏、徳川氏
父母 頼房、谷氏、三木之次夫妻
兄弟 頼重、清泰院、亀丸、光圀、頼元、頼隆
頼利、頼雄、頼泰、頼以、房時、重義
妻 尋子(泰姫)、玉井氏
子 綱方、頼常、綱條

徳川光圀(とくがわ みつくに、寛永5年6月10日(1628年7月11日) - 元禄13年12月6日(1701年1月14日))は、江戸時代の常陸国水戸藩2代目藩主である。

水戸藩初代藩主徳川頼房の3男、母は側室。徳川家康の孫に当たる。水戸黄門としても知られる。諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。

目次 [非表示]
1 生涯
2 人物
3 光圀にみる水戸徳川家の地位
4 年譜
5 家系
6 墓所・霊廟
7 関連項目



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生涯
光圀の母(家臣谷重則の娘、久子)が懐妊した際、光圀の父(頼房)は、まだ本妻を持ってはいなかった。頼房には准母(お梶の方)がいたが、この准母が非常に嫉妬深く、これに配慮して、家臣である三木仁兵衛を通じて流産するよう命じた。不憫に思った三木仁兵衛は、久子に密かに光圀を生ませ、光圀を三木仁兵衛の子供「長丸」として育てた。1632年(寛永9)、光圀と兄(頼重)の存在が明らかになり水戸城に入城した。

1633年(寛永10)1月、光圀が世子に決定。1636年(寛永13)には元服し、名を光国と改める。

1654年(承応3)には前関白近衛信尋の次女、尋子(泰姫)と結婚。1657年(明暦3)、駒込邸に史局を設置し、紀伝体の歴史書である『大日本史』の編纂作業に着手。1661年(寛文元)、8月19日、水戸藩28万石の2代目藩主となる。弟松平頼元に常陸国額田2万石を分与し、26万石となる。1663年(寛文3)、史局を小石川邸に移し、彰考館とする。

1679年(83年とも、延宝7)には名を、光圀に改める (光圀52才)。1690年(元禄3):10月14日に隠居。藩主の座を退き綱條に譲る。1691年(元禄4)、西山荘に隠居し、1700年(元禄13)に死去、73歳。

光圀は、兄(頼重)を差し置いて藩主になったことを後悔していたと言われ、後継に兄の子(綱方)を養子に迎え世継ぎとしたが、早世したためその弟の綱條を養子に迎え世継ぎとした。
また、光圀には側室との間に実子(頼常)がいたが、この実子は兄の養子に出していた。

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人物

茨城県水戸市の千波公園にある徳川光圀像幼少時には、兄(頼重)を差し置いての世子決定が光圀の気持ちに複雑なものを抱かせたと言われ、少年時代は町で刀を振り回したりする不良な振る舞いを行っていたが、光圀18歳の時、司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け、これにより学問に精を出すこととなる。しかしながらその強い性格、果断な本質は年老いても変わることはなかった。

光圀は、学者肌で非常に好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。

日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、ラーメンをはじめ、餃子、チーズ、牛乳、牛乳酒、黒豆納豆がある。肉食が禁じられていたこの時代に、光圀は5代将軍徳川綱吉が制定した生類憐れみの令を無視して牛肉、豚肉、ヒツジなどを食べていた。

またオランダ製の靴下(日本最古)を使用したり、ワインを愛飲するなど南蛮の物に興味を示し、朱舜水を招き、海外から朝鮮人参やインコを取り寄せ、育てている。蝦夷地探索のため黒人を二人雇い入れ、そのまま譜代の家臣にしてしまってもいる。

鮭の皮が好物で「厚さ一寸の鮭の皮を食べられれば死んでも良い」と語ったといわれる。

『大日本史』完成までには光圀の死後250年もの時間を費やすこととなり、光圀の事業は、後の水戸学とよばれる歴史学の形成に繋がり、思想的影響も与える。1674年(延宝2年)には、父の頼房の実母(お万の方)の墓参りと、頼房の准母(お勝の方)の三十三回忌供養のため、鎌倉に出向く。この鎌倉までの日記を『甲寅紀行』(1674年)、『鎌倉日記』(同年)としてまとめ上げた。さらに1685年(貞享2年)には、「鎌倉日記」を基にした地誌『新編鎌倉志』の編纂を家臣の河井恒久らに命じる。

1692年(元禄5年)には、南北朝時代に湊川の戦いで戦死した楠木正成の功績を称え、同地に墓石を建立(光圀65歳)。墓石には、光圀の自筆で「嗚呼忠臣楠氏之墓」と記されている。尚、その場所は1872年明治天皇によって湊川神社が建立され、1955年には光圀の銅像も建立されている。

江戸時代には「水戸黄門」としての諸国行脚伝説が生まれ、講談や歌舞伎の題材として流布する。もっともその内容は大半がフィクションである。 昭和時代には度々テレビドラマ化され、のみならずアニメまんが水戸黄門、最強ロボダイオージャ、(光圀と二人の近臣だけだが)VS騎士ラムネ&40炎などのモチーフにもされている。

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光圀にみる水戸徳川家の地位
大日本史の編纂により、水戸藩は年間財政収入の三分の一近くをこの事業につぎ込むこととなる。

財政難に陥った水戸藩は、光圀の死後、光圀の養子である綱條が財政改革に乗り出すが、水戸藩領全体を巻き込む大規模な一揆を招き、改革は失敗する。これにより水戸藩は、幕閣や譜代大名から「綱條公は将軍の器にあらず」との認識を持たれることとなり、1716年の徳川家継の後継者選びにおいては綱條が御三家の当主の最年長であるにも関わらず、紀州藩主の徳川吉宗が後継者に選ばれた。

以後、水戸徳川家からは将軍を出さず、将軍の補佐役として参勤交代を行なわず江戸に常駐することとなる。このことから水戸徳川家は「天下の副将軍」と呼ばれるようになる。結局、2代目藩主である光圀以降、水戸藩9代目藩主斉昭の子にあたる慶喜が将軍職に就くまで、水戸徳川家からは将軍職に就く者はいなかった。

光圀の学芸振興が「水戸学」を生み出して後世に大きな影響を与えた事は高く評価されるべきであるが、その一方で藩財政の悪化(ひいては領民への負担があり、そのため農民の逃散が絶えなかった。一説には光圀時代は年貢比率が八公二民の超重税を強いたと言われる。)を招き、結果的には「水戸学」が目指した‘愛民’の理想からは逸脱してしまった側面も存在する。単純に「名君」として論じる事は出来ないのである。

水戸徳川家は天皇と対立した場合、徳川の血筋を残すため、天皇側につくために将軍を出さないように作られていたとの考えもある。 それを変えたのが8代将軍吉宗である。出自の紀州徳川家の地位を向上させ、御三家と同種の機能を持つ御三卿を創始するなど、徳川宗家と御三家の立場やあり方を変えてしまったことに原因があるようだ。そのため出るはずのなかった水戸徳川家からの将軍が出る事になったのである。

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年譜
※日付=改暦前は旧暦

1632年(寛永9):(5) 5月3日、従五位上左衛門督叙任。
1633年(寛永10):(6) 1月、世子に決定。9月5日、従四位下右近衛権少将に昇叙遷任。
1636年(寛永13):(9) 7月6日、元服。
1640年(寛永17):(13) 3月4日、従四位上右近衛権中将に昇叙転任。  7月11日、従三位に昇叙。右近衛権中将如元
1654年(承応3):(27) 前関白近衛信尋の次女、尋子(泰姫)と結婚(光圀27才)。
1661年(寛文元):(34) 8月19日、水戸藩28万石の2代目藩主となる。
1662年(寛文2):(35) 12月18日、参議補任。
1679年(延宝7):(52) 名を光国から光圀に改める(1683年に改名の説もあり)。
1690年(元禄3):(63) 10月14日隠居。 翌日、権中納言となる。
1700年(元禄13):(73) 西山荘にて没する
光圀の功績を称え、贈位が与えられている。

1832年(天保3)3月5日、従二位権大納言
1869年(明治2)12月25日、従一位
1900年(明治33)11月、正一位
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家系
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