水戸黄門
水戸黄門
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この項目では時代劇の水戸黄門について説明しています。
その他の水戸黄門については水戸黄門 (曖昧さ回避)をご覧ください。
水戸黄門(みとこうもん)は、徳川光圀の異称であり、ふつうは光圀主従が世直しのために諸国漫遊の旅をするという架空の物語・時代劇を指す。かつてはもっぱら水戸黄門漫遊記(みとこうもんまんゆうき)と呼ばれた。メディアとしては、講談・歌舞伎・演劇・小説・映画・テレビドラマ・漫画などに広く及ぶ。
目次 [非表示]
1 概要
1.1 水戸黄門漫遊記
1.2 時代劇の定番として
2 あらすじ・内容
3 その他
4 参考図書
5 関連項目
6 外部リンク
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概要
実在の水戸藩主徳川光圀は、『大日本史』編纂のために家臣の儒学者らを日本各地へ派遣したといわれているが、彼自身が諸国を漫遊したという史実はないとされている。在世当時の光圀は名君としての誉れが高く、亡くなったときには
「天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門」
という狂歌が流行った。このような名君としての評判や、幕末における水戸学の浸透が後の物語の形成に影響していると思われる。後の物語の素材としては、光圀の伝記といわれる『桃源遺事』『久夢日記』や『水戸黄門仁徳録』などが残された。
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水戸黄門漫遊記
幕末になって、講談師(氏名は不明)がこれらの伝記や十返舎一九作の滑稽話『東海道中膝栗毛』などを参考にして『水戸黄門漫遊記』を創作したと考えられている。内容は、光圀がお供の俳人を連れて諸国漫遊して世直しをするというもので、大変な人気作となった。
明治になると、大阪の講釈師玉田玉知がお供を俳人ではなく家臣の佐々木助三郎(介三郎、助さん)と渥美格之進(格さん)とする話に膨らませて、さらに人気の題材となっていった。徳川幕府が衰退した幕末から維新後の明治・大正・昭和の大戦前にかけて徳川氏への評価が著しく低下したにもかかわらず、黄門物がもてはやされた背景には、実在の光圀が天皇を敬ったり楠木正成を忠臣として称え、『大日本史』編纂や水戸学が尊王論や天皇制・南朝正潤論に多大な影響を及ぼしていることと関連していると考えられよう。
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時代劇の定番として
明治末期に日本でも映画製作が始まると、時代劇映画の定番として『水戸黄門漫遊記』ももてはやされ、大戦前から戦後にかけて数十作が製作された。戦前~戦中には、山本嘉一、大河内傳次郎、市川右太衛門ら時代劇の大スターたちが黄門を演じている。黄門が老け役であることを嫌った大河内や市川のために、若侍との一人二役が設定された。
戦後は占領期の剣劇禁止を経た後に、東映が月形龍之介を主演にシリーズ化した。初期の月形黄門はB級作品であったが、好評のためオールスター大作が作られるようになり、題名も従来の『水戸黄門漫遊記』から単に『水戸黄門』が主流になっていった。月形シリーズでは、昭和34年(1959年)の『水戸黄門 天下の副将軍』が名高い。月形黄門の興行的成功により、各社が競作したが月形作品には及ばなかった。
テレビ時代になると、東京放送(TBS)がやはり月形を主演にテレビドラマ化(ブラザー劇場)し、さらに月形と同様に悪役が多かった東野英治郎を主演に起用したナショナル劇場シリーズ『水戸黄門』になって現在まで続いている。このドラマでは脚本家の宮川一郎の案により、ドラマの毎回の佳境で三つ葉葵の紋所が描かれた印籠を見せて「ひかえおろう。この紋所が目に入らぬか」と黄門の正体を明かすという筋書きが創られ、視聴者に大好評を得ている。
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あらすじ・内容
ときは元禄、「犬公方」こと五代将軍徳川綱吉の治世。藩主を隠居して黄門(中納言の唐名)となった光圀は、お供の俳人を連れて、諸国漫遊を兼ねて藩政視察の世直しの旅に出る。悪政を行なう大名・代官などがいれば、光圀は自らの俳号「水隠梅里」を書き記すなどしてその正体をほのめかし、悪政を正す。
お供は明治の講談以降、佐々木助三郎と渥美格之進の二人に定まった。現実の光圀は、家臣の佐々十竹(さっさじっちく、佐々介三郎、佐々宗淳)らを各地へ派遣しており、彰考舘総裁であった佐々と安積澹泊(あさかたんぱく、安積覚兵衛)の二人が助さん・格さんのモデルと見られている。家臣の藤井紋大夫を斬殺したことなども脚色された。幕末~大戦前の講談・小説などでは、湊川に楠木正成の墓参に行くなどの尊王論的色彩が強かったが、大戦後の映画やテレビドラマではそのような尊王色は払拭されていった。
[ 本帖最后由 老板是猪 于 2006-10-18 11:09 编辑 ] |