【天声人語】2006年12月14日(木曜日)付
長崎市で被爆した翌日、救護所で生後4カ月の次男に乳を含ませていた若い母親が、声をかけられた。「写真を撮らせてください」。「新型爆弾投下」の報を受けて福岡から駆けつけた陸軍報道部員、山端庸介さんだった。
「優しか声の男の人でした。あん時は、乳ば出しよったですが、恥ずかしいとか考える余裕もなくて、『はい』と答えたように思います」。ほおに傷を負った母親が胸をはだけ、やはり顔にケガをした幼子が乳房に吸いつく写真はこうして撮られた(加世田智秋編著『語り継ぐあの八月を』北水)。被爆の数日後に亡くなった長男に続いて次男も死亡する。
当時30歳だった母親、田中キヲさんが、91歳で亡くなった。元気だったころに取材した加世田さんに、毎年の原爆の慰霊祭には、失った子どもたちのためひたすら「ゆっくりと眠りなさい」と祈ると述べた。
そして、こう続けたという。「でも、何で半世紀過ぎても戦争がなくならんとですかな……本当に人間はしょうのない生き物だと思いますよ」
山端さんは、後に原爆撮影のメモを書き残す。人間の記憶は、年々環境の変化や生活の変化で批判が甘くなったり、誤ったりする。しかし、「キャメラが把握した当時の冷厳なる事実は、少しも粉飾されず……冷静にそのまま皆様方の前に報告しております」(『ヒロシマナガサキ原爆写真?絵画集成』日本図書センター)。
山端さんとキヲさんとの出会いは、いわば一瞬のことだった。その一瞬をとらえた一枚は、あの惨禍を永遠に語り続けてゆくだろう。
长崎市被炸翌日,一个人在救护所中叫住一个正在给4个月大的二儿子喂奶的年轻母亲说:「请让我拍张照片吧」。这个人正是收到「新型炸弹被投下」的报道,从福冈赶来的陆军报道员山端庸介。
「他是个说话声音温柔的男人。那会儿我正露着乳房,不过哪还有工夫想些羞耻不羞耻的事儿,就答说『行啊』」。于是,脸上还带着伤的母亲敞着胸,同样面部有伤的孩子吸着妈妈的乳房,照片就这样拍了下来。(加世田智秋编著『继续讲述那个8月』北水)。被炸后数日,继死去的长男之后,这位母亲的二儿子也离去了。
当时30岁的这位母亲田中KIO女士,去世时91岁。加世田先生曾在她身体还好时去采访她,她向加世田先生讲述道,我在每年的原子弹爆炸纪念日,会不停地为死去的孩子们祈祷「安息吧、安息吧... ...」。
她还问到「不过为什么,半个世纪过去了,战争还在... ...我觉得人啊,真是难以拯救的生物」。
山端先生在之后写下了原子弹爆炸摄影笔记。人的记忆会由于年年的环境变化、生活变化使得批判变得轻描淡写,变得有偏差。但是「用相机机录下来的当时的严酷的实事,却半点不会被掩饰... ...会冷静的把真实情景报道给大家」(『广岛长崎原子弹爆炸照片/絵画集』日本图书中心)
山端先生和KIO女士的相遇说起来只有那么一瞬。但是抓住了那一瞬的照片,将会继续述说着这悲惨的灾难吧。 |